安部龍太郎『葉隠物語』(2011年 株式会社エイチアンドアイ)の続きであるが、本書は、佐賀鍋島藩の藩祖となった鍋島直茂が仕えた龍造寺隆信が戦死した「沖田畷(なわて)」の戦いの記述から始まる。龍造寺隆信(1529-1584年)は、豊後の大友宗麟、薩摩の島津義久と並んで九州三強の一人として称され、肥前を統一した人物であるが、疑心暗鬼にかられやすく冷酷非情であったとも言われている。鍋島直茂は、その有能な家臣として龍造寺隆信に仕え、1570年に大友宗麟が肥前に攻め込んだときも、奇襲策を講じて撃退し(今山の戦い)、大友宗麟と有利な和睦を結ぶにいたらせたりしている。1578年に南肥前日野江(島原)の有馬晴信を降して肥前を統一し、家督を嫡男の龍造寺政家に譲って隠居したが、隠居後も実権を握り続け、このころから酒色に溺れて、諫言する鍋島直茂を政務から遠ざけたりしたと言われている。
しかし、鍋島直茂は、たとえ主人がどのような者であれ、徹底して龍造寺隆信に仕える姿勢を貫き続ける。それが、『葉隠』の「忠」の精神であったと語るのである。しかし、『葉隠』の「忠」は、決して盲信して服従するのではない。誤りは誤りとして己の一命をかけて正そうとする。その目的が仕える主が正しい道を歩むためであるが、ひとたび命が降ると、たとえそれが自分の意にそぐわないものであってもそれに服していくという「忠」である。龍造寺隆信は、馬に乗れないほど太っていて、有馬・島津連合軍が肥前に攻め込んだ時の「沖田畷の戦い」では、輿に乗って動かなければならないほどであり、直茂の諫言を退けて、己の力を過信するあまりぬかるむ田に直進して討ち死にするのである。
鍋島直茂も龍造寺隆信に従って危機的状況を迎えるが、「葉隠」の真髄を表したと言われる斎藤佐渡・用之助父子が追っ手のすべてを引き受けるという決死の働きをし、中野清明に抱えられて助けられるのである。この斎藤用之助が『葉隠』の真髄を表すものとしていくつかのエピソードが残されており、鍋島直茂を抱えて助けた中野清明が山本常朝の祖父である。
鍋島直茂は、討ち取られた龍造寺隆信の首の返還を否むことで家臣を「死に物狂いの一団」として薩摩に対峙し、恐れをなした島津家久が退却することで佐賀を安定させ、この時に龍造寺隆信の後を継いだ龍造寺政家は、領国の支配を鍋島直茂に任せるのである。主君はどこまでも龍造寺家であるが、藩政は直茂が行うという二重構造となり、政家は元々病弱で武将としての才に欠けたところもあり、両国の安定のための直茂の苦労が始まっていく。その歴史の経過はよく知られており、佐賀鍋島家はともあれ明治になるまで雄藩としての地位を保っていく。
ただ、ここでは「葉隠精神」について、その具現者とも言われる斎藤用之助について若干触れておくことにする。彼ののエピソードは、本書の中でも第七話「昼強盗」の中で述べられているが、これは『葉隠』聞書第三―十六節に記されていることで、藩士の士気が落ちてしまったのを見た鍋島直茂の意向を受けて彼の後を継いでいる鍋島勝茂が鉄砲の射撃訓練を行ったとき、鉄砲名人として知られた斎藤用之助も訓練に参加させられ、的を狙わずに空に向けて鉄砲を撃ってしまい、「この年まで土など撃ったことはない。しかし敵の胴中をはずしたことはない。飛騨守(直茂)どのが生きておられるのがその証拠よ」とうそぶいて、いたずらに鉄砲訓練などさせる非を指摘したのである。これを聞いて、鍋島勝茂は自分の指示した鉄砲訓練を馬鹿にされたと激怒し、用之助に切腹を命じようとする。
しかし、鍋島直茂はこれを止めさせて、個々の人間を見ずに十把一絡げに取り扱ってしまう勝茂を逆に諌めるのである。
もうひとつのエピソードは、斎藤用之助の家が貧を極め、もう食べる米もないという事態になり、女房からそのことを聞かされたとき、父親の斎藤佐渡と共に城に近い高尾橋まで出かけ、城に収めるはずの年貢米を奪い取ったのである。斎藤親子は、当然のことながら奉行所に捕まるが、「腹がへっては戦ができぬと、心得ているからでござる」と豪語するのである。藩の家老たちは二人に対して法度どおりに死罪を決し、これを藩主の勝茂に伝えるが、勝茂は、父親の直茂が斎藤親子を恩人として取り扱っていたこともあって、一応、直茂の意見を聞くことにする。
その話を聞いて、狼藉を働いたからには死罪もやむを得ないだろうと直茂は答えるが、直茂は女房に語りかけて、「こうして我ら夫婦が殿と言われて安穏な暮らしができるのも、あの二人の働きがあったればこそなのじゃ。・・・それほどの恩人が米もなく飢えていたというのに、何も知らずに放置していた我らこそ大罪人じゃ。なあ嬶、そうは思わぬか」と語り、「あの者たちが殺されたなら、わしらも生きてはおられまい」と夫婦して涙を流すのである。
これに驚いた勝茂は、死罪を取りやめて、罰を減じ、斎藤用之助を牢人とするのである。そして、それほどのものが牢人となって他国に出るのは何としても止めたいと思い、牢人でも他国に出ることを禁じ、その代わりに食いつないでいけるだけの食い扶持を与える制度を作るのである。この制度は「手明槍」と呼ばれる。鍋島直茂夫婦はこの処置を喜び、また、斎藤親子もその恩を感じ、直茂が亡くなった時には、勝茂が止めたにもかかわらず追腹を切った(殉死した)のである。
斎藤佐渡・用之助親子は、毎朝自分が死ぬことを想起して心を鍛錬し、いかなる事態も平然としていることができるような武士であり、まさに「葉隠武士」そのものであったのである。「己の死」の姿を様々に思い描くことによって、それを肝に据えて日々を送る。それが「葉隠」である。
機転を利かせて斎藤親子の罪を減じさせた鍋島直茂の妻の陽泰院(ようたいいん 1541-1629年)についても『葉隠』はそのエピソードを書き記している。陽泰院は、気丈で聡明、機転が利くと同時に慈悲深い女性であったと、今でも賢夫人、国母と慕われる人で、直茂とは当時では珍しい恋愛結婚であった。
彼女は龍造寺隆信の家臣であった石井常延の次女として生まれ、やがて龍造寺家の家老であった納富信澄に嫁ぐが、夫が戦死したために娘を連れて実家に戻っていた。そこに龍造寺隆信や鍋島直茂らが出陣の帰りに休息のために立ち寄り、昼食を取ることになったのである。主君の急な来訪で、石井家は慌てて昼食の準備をし、鰯を焼いてもてなすことにしたが、人数が多くて鰯を焼くのに手間取ってしまった。女中たちが右往左往しているのを見ていた陽泰院が、「なんと手際の悪いこと」と自ら厨房に立ち、かまどの火と炭を庭先にぶちまけて、その中に大量の鰯を投げ入れ、焼き上がった鰯を笊の上で灰を振るい落とし、焼きたての鰯を供したのである。
これを見ていた鍋島直茂が「あのような機転が利く女性を妻にしたい」と惚れ、それから熱心に石井家に通うようになるのである。直茂は、一度、東肥前の高木胤秀の息女(慶円)を妻として迎えるが、秀胤が敵対していた大友宗麟に寝返ったためにやむなく慶円を高木氏送り返して離縁していた。直茂は何度となく陽泰院のもとに忍び込み、密会を重ねていたが、ある時、これを知らない家臣が不審者が忍び込んでいることに気づき、警戒し、忍び込んでいた直茂を発見するのである。直茂は屋敷を飛び出して、塀を越え、濠を越えて逃げようするが、その家臣に足を斬られたということが起こったりしている。直茂はそのために足の裏に傷を負って、その痕跡は生涯残ったと言われる。いわば、夜這いを見つかってほうほうのていで逃げ、負傷するのである。
しかしその甲斐があって二人は正式に結婚することになり、陽泰院は、長女千鶴と次女彦菊、そしてやがて、嫡男勝茂を産み、次男忠茂をもうけている。なお、彦菊が生まれたあと、長く男子が生まれなかったために陽泰院の姉の孫に当たる鍋島主水(佑茂里)を養子にした。夫婦仲はすこぶる良く、いつまでも相愛で、直茂が江戸から帰国する際にひどい船酔いをし、これを恥じて自害すると言い出した時に、側近の藤島生益が羽交い絞めにしてこれを止め、帰国後、その話を直茂が陽泰院にして、「今、ここにいるのは生益のおかげぞ」と語ったところ、陽泰院は藤島生益の前で、涙を流して合掌し、何度も「ありがたや」と感謝したそうである。それほど夫想いの女性で、しかも自分の夫への愛情を人に隠すことのない素直な女性であったのである。
佐賀には、夫が離縁によって再婚した時に、離縁された女性が夫の後妻を仲間を集めて襲うという「うわなりうち」と呼ばれる風習があり、直茂が陽泰院と結婚した後、前妻の慶円も仲間を集めて陽泰院を襲う出来事があった。たいていはそこで前妻と後妻の戦が始まるのだが、陽泰院は終始冷静に争わずに、慶円らを丁重に迎えて茶菓でもてなし、拍子抜けした慶円らは何事もなく帰らざるを得なかったという。
また、龍造寺隆信が筑後の豪族であった田尻家を破り、田尻家の人々を処分する際に、幼い男子がいて、龍造寺隆信はその子も処分するように命じたが、処刑場に座らされたその子を見て、陽泰院は隆信にしきりに助命を願い出て、隆信も陽泰院のたっての頼みとあってこれを受け入れ、その子を直茂・要退院夫妻に預けるという処置をするのである。その子は成長し田尻善右衛門と名乗り、直茂の家臣としてよく仕えるようになるのである。要退院が死去した際、田尻善右衛門は「かつて奥方様に命を助けられました。今こそその恩に報いる時。あの世までお供する」といって殉死をする。要退院が死去した時には、女性四名、男性四名の家臣が殉死しているが、大名の奥方の死に殉死者が出るということは極めて珍しく、それだけ彼女が多くの者に慕われていたことを示すものである。
要退院に関しては、ほかにも、囚人たちが寒かろうと言って温かい粥を振舞ったことや、周囲の人々に対する温かい心遣いの逸話が残され、『葉隠』に記されている。
佐賀鍋島家は、やがて、龍造寺家との確執を抱えたままではあったが、龍造寺信隆の嫡男の政家とその子の高房が死去すると、名実ともに佐賀藩の藩主となり、直茂は藩祖ではあっても初代の藩主は鍋島勝茂となっている。二代目藩主は勝茂の子の光茂で、三代目が綱茂である。しかし、3支藩(蓮池、子城、鹿島)と鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)、龍造寺4分家(多久、高雄、諫早、須古)の各自治領があり、その複雑な構造が佐賀を疲弊させていく。佐賀鍋島藩が歴史の中で再び雄藩として輝くのは幕末の第10代藩主鍋島直正の頃である。
本書は、その他にも「葉隠武士」として中野杢之助、鍋島采女、そして山本常朝(神右衛門)の姿などを描き出しているが、「葉隠」の精神は、「徹する」というところにあるのかもしれないと思ったりする。それぞれについては、また別の機会に記すことにして、とりあえずの読後感である。
0 件のコメント:
コメントを投稿