2012年10月12日金曜日

火坂雅志『家康と権之丞』


 移ろいやすい秋の天気の中で、花屋の店先の秋桜が風に揺れていた。金木犀も甘い香りを漂わせ始めている。そして、数葉の銀杏の葉がひらひらと散っていく。「残された日々」と、ふと思う。いろいろなことを思うと少々うんざりしないわけではないが、「鋭利な刃物のように研ぎすまされた人間」であるよりは、デクノボーの愚鈍でいたい。

 昨夜は、火坂雅志『家康と権之丞』(2003年 朝日新聞社)を面白く読んだ。これは、徳川家康の子と言われる(史的確証はない)小笠原権之丞(1589?‐1615年)を主人公にしたもので、小笠原権之丞は、本来なら家康の六男である松平忠輝の兄にあたると言われるが、家康が手をつけた母が懐妊したまま家臣の小笠原広朝に妻として押しつけられ、権之丞は広朝の子として成長し、小笠原家の家督を継いだ。

 小笠原広朝は、小笠原家の庶流で武田水軍の流れを組み、徳川家康の水軍の一役を担った人で、小笠原権之丞も徳川家の御船手として六千石の旗本であった。彼が家康のご落胤かどうかの確証はないが、いくつかの歴史資料では家康の子としての名前が挙がっている。家康は二人の正室と十五人の側室がいたと言われ、その他にも手をつけた女性がいたと思われる。

 真偽は定かではないが、小笠原広朝はキリシタンで、権之丞の母親も熱心なキリシタンであったと言われ、その影響から権之丞もキリシタンであった。彼がいつごろキリスト教の洗礼を受けたのかは定かではないが、家督を継いだのが二十四歳で、その六年前の十八歳の頃ではないかと思われる。キリスト教側の資料では1606年となっており、フランシスコ会の記録では駿府に小笠原権之丞名義の教会も建てられている。権之丞の洗礼名はディエゴで、これは当時のフランシスコ会の宣教師ボナベンツェラ・ディエゴ・イスパニエスからとられたのではないかと推測される。

 徳川家康は、当初、南蛮貿易のためにキリスト教を禁止してはいなかったが、家康が重用していた本田正純の家臣で岡本大八が肥前の有馬晴信を相手にした収賄・詐欺事件を起こし、両者がともにキリシタンであったことから、この事件の飛び火が飛んでくることを恐れた本多正純と家康の外交僧であった金地院崇伝が手を結んでキリシタン禁教令を進言し、幕府は、1612年(慶長17年)に、江戸・京都・駿府などの幕府直轄地での教会の破壊と布教の禁止を命じた。そして、翌年にはこれを全国に「伴天連追放令」として広げた。1612年のキリシタン禁教令の際には、徳川家の家臣団や奥女中が調査され、改宗しない者は改易処分にされ、居住が禁止されるなどの厳しい処罰が行われた。

 小笠原権之丞は、このときにキリシタンとして改易され、放逐された。彼が再び歴史に登場してくるのは、16141615年(慶長1920年)の大阪の陣の時で、家康の子であるにもかかわらずに豊臣側について大阪城に入り、夏の陣の最後の戦いである天王寺口の戦いで戦死したと言われている。その間の彼に関する資料はほとんどない。

 本書は、家康の落胤として生まれながらもキリシタン禁教令で追放され、ついには家康と戦って大阪で戦死する小笠原権之丞の姿を、父と子、しかも子として認めない父親への反発を抱きながら、青年らしい夢とロマンを求めて生きる姿として描き出したもので、特に、棄教せずにキリシタンとして改易されたあと、すべての人間が平等に生きる無君主立国の建設を目指して、彼の叔父が発見したとされる小笠原諸島で貿易立国を設立しようと小笠原諸島に向けて船旅をしていく海洋ロマンが、まさにロマンとして描かれている。

 この時代に「無君主国家」という発想があったのかどうかは別にして、無人島に理想の国を建てるというのは壮大なロマンである。父親の徳川家康から見捨てられ、キリシタン禁教令で追放された小笠原権之丞は、そのロマンに生涯をかけようとする優れた精神の持ち主であったと作者は展開するのである。彼はそこに日本を追放された多くのキリシタンなどを受け入れて、家康が断念した海外貿易による建国を夢見るのである。

 彼は、京都の豪商であり、家康の側近でもあった茶屋四郎から金を出してもらい、南蛮船を建造し、小笠原諸島に向かい、小笠原諸島の父島、母島を探索し、建国の可能性があることを確信する。だが、帰路、台風に遭遇し、船は難破し、彼の夢は露と消えてしまう。時は、徳川家康が豊臣家を滅ぼすために強引に無理難題を押しつけ、大阪冬の陣が始まろうとしていた時であった。

 船の難破からかろうじて助かった小笠原権之丞は、しばらくは無為の日々を送っていたが、父親の家康の豊臣家を滅ぼすためのあまりにも強引なやり方に反発して大阪城に入るのである。大阪城には、多くの追放されたキリシタンがおり、関ヶ原の戦いで西軍についたために滅亡した宇喜多家の家老で、秀吉も家康も優れた武将として認めていた明石全登(あかし てるずみ 掃部)も熱心なキリシタンで大阪城に入城しており、小笠原権之丞は尊敬する明石全登の指揮下に迎えられるのである。

 本書では明石全登の娘として「レジナ小雪」を登場させ、彼女との恋を描き出す。一節では小笠原権之丞は明石全登を養父にしたとあり、それを踏まえて、小笠原権之丞と「レジナ小雪」が大阪城内で婚礼を行ったとなっている。そして、冬の陣のあと、家康の策謀で大阪城の堀が全て埋められて夏の陣が始まると、小笠原権之丞は明石全登と共に激戦となった天王寺・岡山の戦いに行き、そこで戦死する。小笠原権之丞は徳川の系譜から抹殺された。なお、明石全登の生死は不明で、その後も生き残って九州に潜んだという説もある。スペインに行ったという説や台湾に行ったという説もある。

 いずれにしても、本書は、家康と権之丞という父と子の葛藤を描き出すと同時に、ひとりの男が壮大なロマンを描き、やがてそれが破れていく姿を描いたものだと言えるだろう。小笠原諸島での理想国家の建設、徳川軍と大阪城で戦うのも、そのロマンの延長で、それが現実に破れていった人間の姿を描き出しているのである。徳川家康という現実主義者と小笠原権之丞というロマンチストの戦い。それが本書の骨格だろうと思っている。少ない資料を巧みな想像力で無理なく補っている作者の創作力がいかんなく発揮された作品だと言えるだろう。

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