2012年10月10日水曜日

中村彰彦『鬼官兵衛烈風録』(2)


 日毎に気温が低くなり、秋が一段と進んでいる。空気がすっかり秋の気配で、「もの思う」にはいい季節になってきた。昨日、少し体調を壊したこともあって、これは「気分が高揚しないための戒め」と受け取り、改めて自分の歩みをコツコツと続けていく必要を自戒したりした。

 もう随分以前に書いていたわたしの論文などが掲載されていたHP『思想の世界』が閉鎖されていることを岡山県の方が連絡くださり、これを作成してHPとしてアップしてくださっていた千葉県のT氏に深く感謝するとともに、長い間連絡もしなかったことをお詫びしたいと思っている。

 T氏は、わたしが発行していたメールマガジン「思想の世界」の読者の方で、IT技術を専門とされて、好意でHPの作成とアップを申し出てくださった方で、このHPは世界各地のキルケゴールの研究家の方々や哲学、倫理学、社会学などの関係の方からたくさん閲覧され、また引用されたりしていたので、閉鎖の問い合わせが、最近よくある。

 わたし自身が、メールマガジンを発行していた時から仕事の関係で何度か転居したり、メールアドレスが変わったりして、メールだけのやり取りだったT氏との連絡がいつの間にか取れないままに過ごしてきたので、更新などもできず、また、アップルのHPはアップが有料なこともあり、T氏に対して非礼であったと反省している。出版や広告掲載の依頼もたくさんあったがお断りしていた。「思想の世界」に掲載していたものは、いずれまた時を見て、とは思っている。

 それはさておき、中村彰彦『鬼官兵衛烈風録』(1991年 新人物往来社)の続きであるが、佐川官兵衛が戊辰戦争で越後を転戦して、長岡近郊の見附(現:見附市)の塗師今井庄七の家を本拠としていた時、今井家の人たちも官兵衛の人柄をいたく尊敬し、彼を手厚くもてなしている。官兵衛も塗師として三代続いていた今井家の在り方に心を動かされるところがあり、この家に家人の求めに応じて春夏秋冬の歌を四首残している。

 春月 朧々(ろうろう)
 天のがは 雪げの水やまさるらん かすみに濁る春の夜の月
 夏月 涼
 ゆく水に 影をとどめて 水よりも すずしく澄めるなつのよの月
 社頭 賞月
 よの人のこころの声や払ふらむ 月住のよの松のあらしに
 寒夜 月
 霜のうへに  冴え行く月や穐草(あきくさ)のつゆのやどりを おもひ出づらむ

 薩長軍から「鬼官兵衛」と恐れられた佐川官兵衛が繊細な心の持ち主であったことがよくわかる歌である。強靭、豪胆であると同時に繊細、それが佐川官兵衛の人柄であったと言えるだろう。

 会津若松戦争は悲惨を極めた。官軍は会津若松の徹底的な破壊を行い、官軍はまさに「奸軍」となり、暴虐の限りを尽くした。この時の官軍を指揮したのは山形有朋であった。会津藩の藩士の婦女子は官軍に恥ずかしめを受けないように自害し、子どもから老人に至るまで殺された。

 この時、佐川官兵衛は遊撃隊として城外に打って出ることになっていたが、一藩の命運をかけた戦いの朝、官兵衛は、前夜に藩主の松平容保から名刀の政宗を贈られ、酒席を設けられて酔いつぶれてしまい、寝坊してしまうのである。肝心な時に寝坊するというのも、わたしは好きである。だが、そのために遊撃隊の出陣が遅れ、作戦は失敗に終わる。この時に、官兵衛は、自分が敗れるようなことがあれば、二度と城には帰らずに城外で戦い抜くと語っていたが、そのとおりに官兵衛が鶴ヶ城に帰ることはなく、城外で戦い抜いた。だが、奥羽越列藩同盟のうち、長岡藩が破れ、米沢藩が恭順の意を示し、戦死者と負傷者が折り重なるように城内にあふれ、砲撃は絶え間なく続くなかで、ついに松平容保は降伏する。官兵衛は、なおも戦い抜こうとするが、藩主の命が下って戦を終える。

 この時、藩主の松平容保は全ての責任を一身に背負うと述べ、家臣は、非は自分たちにあるから藩主親子の命は助け、自分たちが至らなかったのでこのようになったのだからその責任を負うと語る。こういうところが「会津」のよさだとつくづく思う。佐川官兵衛も藩主に対しての寛容な処置を願い、自らが責任を取って切腹する覚悟であった。新政府は、松平容保に罪一等を減じ、江戸での謹慎とし、家老に切腹を命じた。このとき在命だったのは次席家老の萱野権兵衛だったので、彼が全ての責任をとって切腹した。官兵衛は、萱野権兵衛の代わりに自分を切腹させるように嘆願書を出すが、認められなかった。また、この時に官兵衛がこよなく可愛がっていた妻の「おかつ」は労咳のためになくなってしまう。

 官兵衛はすべてを失い、自失した生活を茫然と送ることになる。やがて新政府は徳川慶喜と松平容保の罪を許し、容保の実子慶三郎に青森最北端に「斗南藩」を起こすことをゆるす。生き残った会津藩士たちは斗南藩に移り、そこの開墾を手がけることになったのである。官兵衛も老いた母親を連れてそこに移り、開墾生活を始めるが、土地は耕作に不向きで、過酷な冬は長い。開墾生活は苦渋を極めた。

 1871年(明治4年)に廃藩置県が行われ、斗南藩は、やがて弘前県となり、弘前県は青森県になっていく。松平慶三郎(容大)も東京に戻され、官選の県知事が赴任し、会津藩士たちが斗南に留まる理由もなくなり、官兵衛は母を連れて再び会津に帰り、寺子屋をしていた叔父のもとに身を寄せるのである。そして会津での日々を過ごすうちに彼のもとに旧会津藩士や青年たちが集まってくるようになる。人としての官兵衛の魅力は、青年たちの支えとなっていくのである。

 そのころ、新政府に対する不満が各地で爆発し、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱といった士族の反乱が各地で起こり、明治維新の中核であった西郷隆盛も、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らと衣を分かって鹿児島に戻るという出来事が起こる。この対立のもとになったと言われる西郷の「征韓論」にはいくつかの要素があって単純ではない。その西郷に見出されて、特に新政府の司法省の重責を担っていた川路利良は、1871年(明治4年)に西郷隆盛とともに警察制度(邏卒制度)をつくっていたが、1873年(明治6年)に西郷が鹿児島に戻った年に、内務省を発足させて、東京警視庁を誕生させ、全国に巡査大募集を行った。

 そして、川路利良は、強靭の誉れ高い旧会津藩士たちを巡査として採用したいと思い、旧会津藩士の中でも最も武勇と人望が高かった佐川官兵衛に白羽の矢を立てるのである。

 官兵衛は、戦で多くの者を死なせた責任を痛感し、川路の申し出を断っていたが、貧苦に喘ぐ旧会津藩士や青年たちの生活のために、彼らに請われてついにこれを引受け、旧会津藩士や青年たち三百人ほどをつれて警察に入るのである。これによって彼は東京に移り、母親を東京に呼んで生活をする。そして、「佐川」の血筋を絶やさないためと母親に説得されて、21歳の年の離れた「カン」と再婚し、男子が誕生する。

 やがて西南戦争が勃発する。東京警視庁は内務省の管轄下で警視局東京警視本署となり、川路利良は鹿児島で蜂起した西郷軍鎮圧のために七百名を派遣し、さらに千百八十名を九州各地に派遣する。佐川官兵衛もこのとき九州に派遣され、西郷軍が熊本の南阿蘇の要所であった二重峠を占拠したとの報を得て、白水村の吉田新町に陣を置く。だが、その時に南阿蘇方面を指揮していたのは、檜垣直枝という決断力のない凡人で、官兵衛はここでも苦労する。やむなく黒川村あたりに軍を展開した折、西郷軍と遭遇し、西郷軍の鎌田雄一郎と真剣で対峙した時、横合いから農民が銃で官兵衛を撃った。佐川官兵衛の生涯は、この南阿蘇で閉じられた。真剣勝負をしている人間を横合いから狙い撃ちして自分の手柄にしようとする下卑た人間はいるもので、不意の出来事というのは、たいていそういう人間によって引き起こされる。

 かつて、「会津の二川」と言われ、「知恵山川、鬼佐川」と言われた佐川官兵衛は、彼を慕った人々の心にその痕跡と人物をしっかり刻みながら、一発の兇弾によって大木が倒れるようにして倒れた。享年四十五の生涯であった。

 本書は、丹念に歴史資料にあたりながら、それを縦横に駆使して、佐川官兵衛の姿を感動的に描き出す。佐川官兵衛についての資料はいくつかあるが、小説は少なく、この作品は貴重だと思う。また、小説として人間が生き生きと描かれているので、作者の作家としての力量が大きいことを知ることができるが、それにしても、佐川官兵衛という「武」の在り方は感銘的である。

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