2012年10月8日月曜日

中村彰彦『鬼官兵衛烈風録』(1)


 澄み渡る秋空の下で、少し暑い日差しを残しながら好日が過ぎていく。黄昏時の風は、真に心地よい。山積みしている仕事がなかなか片づかないが、ぶらりぶらりと歩くのも悪くない。日々を愉しむ術を身につけることが肝心。そんなことを思いながらパイプたばこを吹かしていた。

 幕末の頃に、薩長や尊王攘夷の人々から「鬼官兵衛」とか「鬼佐川」とかいって恐れられた会津藩士の佐川官兵衛(18311877年)の姿を描いた中村彰彦『鬼官兵衛烈風録』(1991年 新人物往来社)を読んだ。作者の史料の取り扱いにはここでも感嘆する。

 本書は、幕末史を丹念にたどりながら、いくつかのエピソードを交えて「鬼官兵衛」の姿を描き出したもので、会津という幕末の嵐の中心にあって、しかも激烈な会津藩士の中で最も慕われ、尊敬された人物である佐川官兵衛の姿を描き出すのであるから、当然、幕末における会津藩の姿が重要な意味を持つ。佐川官兵衛は、藩主の松平容保に請われて会津藩最後の家老となった人物である。

 佐川官兵衛は、1831年(天保2年)に会津若松城下の佐川幸右衛門直道の嫡男として生まれ、体が大きく、腕力もあり、幼少から文武両道において非常に優れていたと言われている。父親の幸右衛門は三百石の物頭(足軽大将)で、当時、会津藩では三百石以上の嫡子は、藩校の日新館で四書五経から春秋左氏伝、蒙求、十八史略といった漢学を修めなければならず、武芸においても、弓馬槍刀銃のうち一芸以上は免許を得なければならなかった。会津の日新館での学びは相当に厳しいものがあったが、佐川官兵衛はその両方において優れ、和歌をよく詠み、一刀流溝口派の剣技に優れ、馬術も抜きん出ていたと言われる。人柄もよく、人情に厚くて人望を集めた。後に刀工にも深い関心を持ち、刀鍛冶に弟子入りして自ら小刀を造るほどであり、豪放磊落であると同時に繊細でもあったのである。

 彼に残されたエピソードのうち、ひとつは若い頃のもので、父の隠居によって家督を継いだ官兵衛が会津藩江戸藩邸の火消し頭を勤めていたとき、火事で出馬した幕府定火消し役の内藤某(本書では五千七百石取りの大身の旗本内藤家の内藤外記とされている)と道を譲る、譲らないで争いとなり、その内藤外記を斬ってしまったというのがある。その不祥事を内密にするという処置が取られたが、相手が死んでおり、官兵衛は百石の減禄の上、国許での謹慎処分となるのである。本書はこのエピソードから始まっている。

 藩主の松平容保が、蒲柳の質のためにさんざん辞退したが受け入れられずに京都守護職を命じられ、千名もの藩士を連れて上洛した際も、官兵衛は謹慎中のため国許に留め置かれている。この時期、官兵衛は、一度妻帯したが、相手の女性がほとんど感情を表に出すことのない女性で、細やかな愛情を求めていた官兵衛と合わずに離縁し、公私にわたって挫折を味わった。しかし、人の価値というものは、自分が評価されない時にどうするかで決まるものである。彼は学問と文武の修行に励み、それと同時に自分の性格もより豊かな人間性を備えるものになるために物事をおおらかに受け取っていくことに心をくだいていくのである。

 やがて、京都の情勢が激化して、官兵衛も許されて上洛し、物頭となり、会津藩が京都でも開いていた京都日新館の学校奉行を兼ねるようになっていく。彼の人望と信頼は高まり、会津藩の最も優れた精鋭部隊である「別選組」と日新館で学ぶ若い藩士たちで組織された「諸生組」の隊長も兼務するようになっていく。官兵衛は、この時期に再婚したが、婚礼の日に、槍の名人を学校に招いて酒宴をし、そのまま酔い潰れて寝てしまい、後で弟二人から叱責され、官兵衛はその叱責を、肩をすぼめて聞いていたというエピソードが残されている。だが、夫婦仲はよく、年の離れた妻をこよなく愛したと言われる。

 この間、京都では、1864年(元治元年)に長州藩による「禁門の変(蛤御門の変)」が起こり、第一次長州征伐の命が下ったりするのである。前年に公家の七卿とともに京都を追われた長州藩は、三条実美を擁して攘夷の断行と天皇の御親征を訴えて武装をして上京し、これに対して一橋慶喜(後に徳川慶喜)が武力でそれを抑えることを主張して、京を守る会津藩士と蛤御門で激突したのである。

 この時、刀と槍で戦った会津藩士は長州藩の洋式銃の前で苦戦し、薩摩藩が動くことでかろうじて長州藩を退けることができたが、この時に官兵衛は洋式銃の強さをつくづくと実感していた。だが、旧態依然の会津藩では、その進言を取り入れることに消極的だったのである。

 第一次長州征伐は、長州藩が恭順の意を表したことで腰砕けに終わったが、幕閣は、情勢も判断できないまま、それでますます増上慢になってくるし、そういう幕府を見限った薩摩藩は長州藩と手を結んで倒幕の動きを密かに始めていく。会津で至誠を大事にする一徹な教育を受け、藩内もよくまとまっていた会津藩士にとって、長州藩のように藩内で争いあうとか、情勢に応じてめまぐるしく態度を変えるというような薩摩藩や長州藩のあり方は理解できなかったのではないかと思う。ましてや、外面的なメンツだけで生きていた当時の公家のあり方とも立場を異にしていただろう。

 やがて長州藩は、高杉晋作らを中心に恭順から一変し、武力を整え、江戸幕府は長州藩が幕命に従わないことを理由に第二次長州征伐を行う。この時、会津藩は京都守護のためにこれに加わらなかったが、幕府軍は長州軍によって撃退されていく。その最中に、1866年(慶応2年)、将軍家茂が二十一歳の若さで死去し、続いて会津の松平容保のよき理解者でもあった孝明天皇が1867年に死去し、事態は一変していくのである。186711月(慶応3年10月)に、第十五代将軍となった徳川慶喜が大政を奉還する。これによって松平容保は京都守護職の任を解かれるのである。

 しかし、大政奉還が朝廷に出された1014日(現:11月9日)、岩倉具視によって薩摩藩と長州藩に倒幕の密勅が密かに出されていた。これは偽勅の疑いのあるものであり、実行は延期されたが、薩長による武力倒幕は初めから強いものがあったのである。

 将軍徳川慶喜は、松平容保らの反対を押し切り、やがて京都の二条城から大阪の大阪城へと移る。慶喜はこの時から既に逃げのびることを第一にしていたのだが、従った家臣らの意気は高く、やがてこれが鳥羽伏見の戦いへと繋がるのである。松平容保と会津藩士は慶喜に従って京都から大阪城へ移り、会津藩士は大阪城の警護を命じられ、佐川官兵衛も警護の役につく。そして、ついに、1868年正月に鳥羽伏見の戦いが勃発する。

 この戦いは、兵力は幕府軍の方が多かったのだが、薩長軍の銃火器と幕府軍の稚拙な戦いぶりで、薩長軍の勝利で終わるが、佐川官兵衛らの会津藩士は勇猛果敢によく戦い、官兵衛はこの頃から「鬼の官兵衛」と言われるようになった。彼の戦いぶりがよく描き出されている。官兵衛はこの戦いで目を撃たれて負傷したが、それをものともせずに戦い抜いた。そして、徳川慶喜は、鬼神のように戦った佐川官兵衛を歩兵頭並(幕府軍歩兵総督)に任命し、「余が自らこれより直ちに出馬する。皆々、出陣の用意をいたせ」と大阪城にこもった幕府軍を鼓舞した。しかし、その下の根も乾かないうちに、その夜、わずか数名を連れて大阪城を脱出したのである。将軍の裏切り、これは決定的となり、加えて、薩長軍が錦の御旗を掲げたことによって、幕府軍が賊軍となったために幕府軍全敗となったのである。

 慶喜は自分に従った幕府軍に嘘をつき、これを捨て去り、庭を散策するふりを装って脱出した。会津藩主の松平容保は、慶喜の散策につき従うつもりであったところ、ともに脱出することを命じられてやむなく慶喜と行を共にすることになり、後にこれを悔やんだとも言われる。

 将軍に裏切られて憤懣やるかたない官兵衛ら、残された幕府軍にやがて解散が命じられ、会津藩士たちは紀州を山越えして、やがて船で江戸に向かう。松平容保は、江戸に来る会津藩士を迎に出て、彼らに頭を下げ、家督を養子の喜徳(のぶより)に譲る。会津藩士たちは、藩主のこのような姿に打たれて、このような仕打ちをしでかした徳川慶喜をさらに軽蔑するに至ったとも言われる。

 やがて、江戸城の無血開城が行われ、なお各地で薩長軍と戦おうとする者たちを残して官兵衛は藩命に従って会津へ帰る。彼は、鳥羽伏見の戦いの敗北から新式銃の重要性を痛感し、会津藩の武装化を整えていくのである。なお、この時に江戸に残った官兵衛の弟又三郎は、幕府軍の結集を呼びかける際に誤って殺されている。

 会津に帰った松平容保は、何度も朝廷に恭順の意を示したが、「会津憎し」の薩長軍はこれを受け入れず、やむなく会津は薩長軍との戦いに入っていくのである。官軍(薩長軍に錦の御旗が下り、諸藩が従った)に対抗する奥羽列藩同盟が結成され、佐川官兵衛の働きによって越後長岡藩の河井継之助もこれに加わることになって奥羽越列藩同盟が結成されていく。かくして戊辰戦争が始まる。だが、奥羽越列藩同盟は次第に敗北を重ねて行き、自主独立の気概が高かった河井継之助も銃弾に倒れ、ついに、会津は若松鶴ヶ城を中心として官軍と対峙していくようになる。会津鶴ヶ城の会津藩士や城下の商人や農民たちの勇猛な戦いぶりはよく知られるし、その悔しさや悲しさもよく知られている。佐川官兵衛を中心に、会津はよくまとまり、決死の戦を続けたのである。

 この戦いには「会津魂」が込められ、佐川官兵衛にもいくつかのエピソードが残されているし、九州の阿蘇で没するまでにも記したいことがあるので、それを記すと長くなってしまうから次回に記すことにする。

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