梅雨の変わりやすい天気が続いて、昨日は汗ばむほど晴れたりしたが、今日は朝から曇天が広がっている。
市が尾のNさんが、百田尚樹『海賊と呼ばれた男』(2012年 講談社)に続いて、彼のデビュー作と言われている『永遠の0』(2006年 太田出版 2009年 講談社文庫)を貸してくださったので、没入して読んでいた。それだけ力のある作品だったのである。
これは、太平洋戦争中の海軍零式戦闘機の飛行兵の姿を描いたもので、表題の「0」とは「ゼロ戦」のことである。しかし、これは決して戦記物ではなく、ひとりの懸命に生き抜こうとした人間の物語である。
作者は、奥付によれば、同志社を中退して、放送作家として主に関西方面で人気のあった『探偵!ナイトスクープ』というテレビ番組などを構成されていたらしく、本書の構成としても、現代の青年が特攻で死んだ祖父の真実の姿を求めて、戦争中に祖父と交わりのあった人々を訪ね、インタビューをするという構成が取られており、21世紀の現代と戦争中の出来事が交差していく形で進められて、そこに深い意味を持たせるという味のある構成が取られている。
そうして、祖父の姿が徐々に浮かび上がってくるのだが、その姿が心を打ち震わせるような姿なのである。
物語の進め役となる青年は、4年連続で司法試験に落ち、挫折を繰り返す中で自分の人生の目標を失っている二十六歳になる佐伯健太郎で、フリーライターとして活躍を始めようとしている姉の慶子から、新聞社の企画物の関連で、太平洋戦争で戦死した祖父の宮部久蔵のことを調べ始めるところから物語が始まる。
宮部久蔵という人物が自分たちの実の祖父であることを知ったのは、6年前に祖母が亡くなった時、それまで実の祖父と思っていた大石賢一郎から打ち明けられ、その宮部久蔵が日本の終戦の数日前に神風特攻隊の一員として出撃して帰らぬ人となったことを聞かされたのである。祖父と思っていた大石賢一郎と祖母は実に仲がよく、その間に生まれたこどもたちと佐伯健太郎の母との間に違和感もなかったので、実の祖父がいたことに驚いたものの、佐伯健太郎は気にも止めることはなかった。
だが、姉の慶子から新聞社の太平洋戦争に関連する企画でその祖父の宮部久蔵について調べることをアルバイトとして引き受けた佐伯健太郎は、残り少なくなった当時の生き残りの人々に会いに出かけていく。戦後60年以上が経ち、当時戦争に駆り出されて人たちは高齢となり、これが最期のチャンスかもしれないと思われた。戦争中のことは、昭和史の暗部として表面だけがなぞられるか、真実が隠されて闇に葬られていくかで、実際に戦場で戦わなければならなかった人たちの苦しみや悲しみの肉声を聞く最期の年代になってきているのである。このことは、本書の初めの方と終わりの方で何度か記され、それもまた作者が本書を世に出した意味づけとなっている。
佐伯健太郎と慶子が最初に会った人物は、戦争で片腕を失い、戦後のひどい境遇の中で生きなければならなった飛行兵で、彼は宮部久蔵が海軍航空隊の中で一番の臆病者で、死ぬことを恐れていた人間で、「生きて帰りたい」という言葉を臆面もなく言い、死を覚悟してきていた海軍航空隊の笑い者だったと語る。その人物は、敵の戦闘機を死に物狂いで撃ち落としてきたのに、戦後、それが報われずに、いじけてひねた心で、宮部久蔵が臆病者で、唾棄すべき人物だったと罵るのである。
健太郎と慶子は、その話を聞いて愕然としたが、次に四国の松山で会った元戦友は「臆病者ですか―宮部がですか」と言って、確かに宮部久蔵は命を惜しむところがあったが、極めて優秀なパイロットだったと告げる。宮部久蔵は、激戦の中で、勇気と決断力、状況の判断力と優れた操縦技術をもった人物だったという。ただ彼は、残してきた妻と子のために自分は死ねないと心に決めていたものがあったというのである。
物語は太平洋戦争の展開順に、真珠湾攻撃から日本の敗戦色が強くなっていくミッドウェイ海戦、ガダルカナル戦からサイパン戦、レイテ沖海戦、そしてやがて沖縄戦へと進んでいく。それぞれの戦いの中で宮部久蔵と出会った人々が登場してくるという形が取られ、当時の軍の司令部の姿と兵士たちの思いが綴られていく。戦略的に見ても、陸軍にしろ海軍にしろ、その組織形態や考え方に随分とひどいものがあり、傲慢な奢りが、戦線の拡大が破滅をもたらすという歴史の教訓を忘れさせていたし、兵士を人として扱うことを躊躇なく捨てさせてしまっていた。兵器戦とは言え、戦争はどこまでも人がするものであり、人を大切にせずに戦争に勝てるわけがない。
宮部久蔵は、「家族」という人の根源ともなることのために、人間の尊厳をかけて軍隊の中で存在しようとする。それは、軍隊という組織の中では孤独な闘いとなる。妻と子のために絶対に生きて帰るのだと宣言し、それを実行する。彼はそれを超がつくくらいの一流の飛行技術の習得と屈することのない精神を持って貫いていこうとするのである。彼は「命」を大事にする。そしてそれは、自分の命だけでなく、仲間や後輩たち、死に赴かなければならない者たちの命も同様であった。彼は臆病者と嘲笑われても毅然と立ち続ける。
だから、彼に命を助けられた者たちは、宮部久蔵を優れた尊敬に値する人間と見ていく。孫の佐伯健太郎と慶子は、次第にそういう人物たちと会うことができ、祖父の真実の姿を知っていくようになる。
やがて、追い詰められ飛行機も船も物資も乏しくなった日本海軍は、飛行機に爆弾を抱かせて敵船に体当たり攻撃をするという「特攻」と呼ばれる戦術を取るようになっていく。兵士の命は消耗品に過ぎなかった。この体当たり作戦は、当時の第一航空艦隊司令長官であった大西瀧治郎が発案して、関行男大尉を隊長にして任命したと言われているが、もともと日本海軍には「海軍魂」としてその素養があり、「志願兵」という名目での強制的命令によって「特攻」を行うことが軍部で既に決められていたと思われる。
最初に特攻を行ったと言われる関行男大尉については、岡山の老人ホームにいる元海軍中尉の谷川正夫という人物の口を通して、次のように語られている。
「関大尉には新婚の奥さんがいた。彼女をおいて死ぬことはどれほどか辛かっただろう。彼は出撃前に親しい人に『自分は国のために死ぬのではない。愛する妻のために死ぬのだ』と語ったそうだが、その心境はわかる。関大尉以外の隊員たちもみんな死を前にして、自分なりの死の意味を考え、深い葛藤の末に心を静めて出撃したと思う」(文庫版 341ページ)
「関大尉は軍神として日本中にその名を轟かせた。関大尉は母一人子一人の身の上で育った人だった。一人息子を失った母は軍神の母としてもてはやされたという。しかし戦後は一転して戦争犯罪人の母として、人々から村八分のような扱いを受け、行商で細々と暮らし、戦後は小学校の用務員に雇われて、昭和二十八年に用務員室で一人寂しくなくなったという」(文庫版344ページ)
「特攻」は、出撃すれば必ず死ぬ。それは「必死」とか「捨て身」とか言うほど生易しいものではない。若い兵士たちに軍の司令部はそれを強要したのである。だが、その特攻が結構されたレイテ沖海戦で、米軍の輸送船団を撃滅することになっていた栗田建男が率いる艦隊は、「謎の反転」と言われる反転をして輸送船団を攻撃することなく、結局、関大尉らの特攻は戦略上の効果を上げることはなかったのである。
その特攻に志願せざるを得なかった谷川正夫は宮部久蔵とは日中戦争の頃からの戦友で、サイパンで再開し、「宮部の飛行技術は天才的で、彼は勇敢だったと語る。そして、特攻への志願が強制的に求められたとき、宮部久蔵はただひとり志願しなかった。「死ぬために戦ってきたのではない」と彼は谷川正夫に語ったと言うのである。
だが、その宮部久蔵が、なぜ終戦の数日前に特攻で死んだのか。それが明らかになっていくに従って、宮部久蔵という人間が、いかに真摯に、そして「命」を大切にしながら生きたのかが明らかになっていく。それについては、次回に記すことにする。
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