猛り狂うような猛暑がほんの少しだけ和らぐ感じがした一昨日と昨日であったが、暑さに変わりはなく、滴る汗を拭きながら日々を過ごしている。一昨日は数年前にわたしのところで少し勉強した青年の結婚式に招かれ、式が始まる5分ほど前に突然に祝辞を頼まれたりして冷や汗をかいたりしたが、楽しい心豊かな結婚式だった。
昨日は吉祥寺まで出かけて、ぶらぶらと帰ってきた。いつも渋谷で井の頭線に乗り換えるのだが、相変わらずの渋谷の人の多さには閉口する。参議院選挙の立候補者の街頭演説を聞いていて、「自分の正義」を振り回す政治家たちの演説を誰も聞いていないというのがなかなかいいのではないかと思ったりもする。
それはさておき、葉室麟『おもかげ橋』(2013年 幻冬舎)を気軽に読んだ。「おもかげ橋」は実在し、作中でも触れられているが、つまらない男に懸想されてしまって夫を殺された女性にまつわる悲劇の逸話が残されている今の文京区高田の神田川に架かる「面影橋」だろう。
その逸話のように、本作は一人の美女にまつわる恋を描きつつも、武士として、あるいは人間として凛とした生き方をする二人の男の話である。一人は門弟が来ずに流行らない貧乏剣術道場を細々と営んでいる草波弥市で、もう一人は、武士を捨てて飛脚問屋の商人となった小池喜平次である。
二人は、九州の小藩での竹馬の友であったが、藩の勢力争いに絡んで藩を放逐され、江戸に出てきて、それぞれの道を歩んでいるのである。剣の腕は一流だが、人づき合いも生き方も不器用で、愚直な弥市は、道場を開いても門弟はおらずに、出稽古で細々と糊口をしのいで生活をし、他方、喜平次は、暴漢に襲われた娘を助けたことが縁で飛脚問屋の入婿として商人になっているのである。喜平次は元勘定方(経理)だったこともあり、和歌にも親しんだことがある文武に優れた人物で、飛脚問屋の主として店を盛り立てていた。
そんな中で、彼らの元主家の娘を匿って欲しいという依頼が喜平次のところにもたらされ、喜平次は弥市に護衛を依頼して、二人で娘を護る役割を果たすことになるのである。
元主家の娘は「萩乃」という美女で、藩にいたころ二人は共にその娘に想いを寄せていた。愚直で無骨な弥市は、萩乃に「つけ文(ラブレター)」をしたこともあったが、萩乃からの返事はもらえなかったという経緯がある。加えて、彼ら二人が藩を出なければならなくなったのは、彼らが仕えていた萩乃の父親の権謀術策の裏切りによって彼らが見捨てられたことによるものだった。それでも、二人の萩乃に寄せる想いは変わらず、弥市は、以前、萩乃に「あなたを守る」と言った言葉を律儀に果たすために、萩乃の護衛を引き受けるのである。だが、そこにはさらに深い陰謀が隠されていた。
彼らが属していた藩では、藩主の座を巡って藩主の異母兄弟の蓮乗寺左京亮(さきょうのすけ)が暗躍していた。左京亮は英気溌剌として役者のような華やかさを持った人物で、藩の要職として藩政の改革にも思い切った手をうっていた人物で、萩乃の父も彼の側につき、勘定方だった喜平次もそれまでの勘定方の不正を暴いたりしていた。ところが、ある時期から、左京亮は私腹を肥やし、商人から賄賂をとり、贅沢三昧で淫靡な暮らしをし始めた。そして、藩主が病死すると、自分の息子を次期藩主に据えるために、幕府老中との繋がりを強くし、江戸に上って自分の息子を藩主として認めさせようとした。
密かに左京亮の反対派と手を結んでいた萩乃の父は、それを阻止するために藩内随一の剣の腕をもつと言われた弥市と喜平次にそれを阻止することを命じるのである。そして、弥市は槍の名手と言われていた左京亮と戦い、彼に傷を負わせて左京亮の企てを阻止したのである。だが、萩乃の父は、それを隠蔽するために二人を藩から放逐したのである。
こうしたお家騒動の展開は、よくある話であるが、本来なら、作者は、奸悪と言われる蓮乗寺左京亮の姿をもう少し克明に浮かび上がらせてもよかったのかもしれないが、ここではただ己の欲の塊のような人物としてだけ描かれている。左京亮は、その後、半から追放されたが、彼の息子が藩への帰還を許されて藩に戻ってきたのに合わせて、左京亮も藩に戻り、再び暗躍を始めていたのである。
萩乃は弥市と喜平次が放逐されたあと、左京亮の反対派の筆頭である家老の一門である椎原亨に嫁いだが、婚家との折り合いも悪く、夫婦仲も良くなかった。そのため萩乃は、一時、自分に言い寄る男に身を任せようとしたこともあり、それが噂となってさらに夫婦仲も冷え込んでいた。彼女は、夫の亨が密かに左京亮の陰謀を阻止するために江戸に出てきて行くへ不明となり、その夫への言伝を父親から託されて江戸に出てきていたのである。
十六年ぶりに萩乃に会った弥市と喜平次は、何の事情も知らないままに、萩乃の護衛を引受け、少しも衰えない萩乃の美貌に接して、自分たちの恋心を確認していくのだが、萩乃は魔性の女のようなところがあり、どちらにも思わせぶりな言動をするのである。
そうして彼女を守る日々が続いていくが、彼らはやがて刺客に襲われるようになっていく。事情が次第にはっきりしていくが、実は、かつて自分の野望を阻止された左京亮が自分を斬った弥市と喜平次に復讐するために、様々な画策をしていたことが浮かび上がってくるのである。そして、萩乃の父も、自分の生き残りのために、萩乃を餌にして弥市と喜平次をおびき出し、左京亮に復讐を企てさせ、弥市の剣の腕でそれを粉砕して、左京亮を追いやって自分の地位の保全を図ろうとしていたのである。
こういう事情が分かっても、弥市は「守る」と言ったものは「守る」と命がけの闘争を刺客や左京亮と展開していくのである。喜平次もまた同様であった。喜平次は飛脚問屋仲間に手を伸ばして彼を窮地に追いやろうとした左京亮の画策に、商人として、凛として戦っていく。左京亮の手先として彼を窮地に追い込もうとした山崎屋は、喜平次の妻を手篭にしようとするが、そこに喜平次が駆けつけて救い出したりする。喜平次は、自分を信じて愛してくれる妻と萩乃との間で心が揺れるが、「もし、丹波屋(喜平次の店)がつぶされるようなことがあれば、わたしは武士にもどる。その際、受けた屈辱は晴らさねばならぬゆえ、山崎屋さんの首は胴から離れることになろう」(160ページ)と言い切ったりする。
そして、弥市と喜平次は、左京亮の策謀と知りつつも、左京亮と対峙し、弥市はこれを見事にはねのけていくのである。その死闘ぶりは鮮やかである。途中では神田川の蛍が弥市の剣の動きに合わせて舞っていくという美しい光景も描かれている。弥市は、揺れる喜平次とは別に、「守る」ものは「守る」、「信じるものは信じる」という姿を一貫させていく。その姿は『いのちなりけり』と『花や散るらん』の雨宮蔵人やそのほかの葉室麟の作品に登場する心を打つ人間たちを彷彿させるものがある。
萩乃は、最初、自分はずっと草波弥市に心を寄せていたと打ち明ける。だが、彼は次第に萩乃の心の奥底にあるのが自分ではなく喜平次であったことに気がつく。萩乃自身が、自分がどちらが好きだったのかわからないままに、そう語ったのであり、劣悪な言い方をすれば、いわば、彼女は無意識のうちに二人の男、あるいは彼女の夫も手玉にとっていたのである。それが無意識であっただけにいっそう質が悪かった。だが、それが萩乃という女性なのだろう。そして、その萩乃を弥市も喜平次も好きだったのである。
だが、弥市は、剣術の出稽古で出入りしている旗本の紹介で見合いした弥生という女性に出会って、そのことに気がついていく。喜平次の妻もこの弥生も、実に素晴らしい女性である。弥生は、「命懸けで人を守ろうとする人」なら惚れるのが当然といって、弥市の押しかけ女房となるのである。彼女の素直さや率直さ、そして弥市への理解、そうしたものが後半で見事に展開され、これが本書の救いとなっている。
弥生は、少し太っていたためにみんなから「大福餅」とあだ名されていたと言う。その弥生に弥市は「大福餅はそれがしの大好物でござる」と言うのである。この弥生が、弥市が左京亮との戦いに出た留守に押しかけ女房としてやってくるのだが、その時の会話が振るっている。弥市は自分の傷の手当をしてくれる弥生を見て、自分の胸に満ちてくる幸せな気持ちに気づき、「弥生殿、それがしのもとに参られるか」と言った時、「もう参っておりまする」と言うのである。そして、「世を渡るのは戦場を行くが如きもの、と心得ております。おたがいを見つめ合う夫婦もよきものではございましょうが、わたくしは背中合わせに草波様の背後を守りたいと存じます。飛んでくる矢の二本や三本、わたくしが払って進ぜます」、「代わりに、わたくしの背後は草波様に守っていただきます。そうしますと、わたくしどもは天下無敵でございましょう。」そう言って、弥生はおおらかに笑うのである。
美貌ではあるが陰湿な萩乃とおおらかで真っ直ぐな弥生。弥市は弥生に出会って本当に良かったと思うのである。
わたしは、やはり、あまり見栄えがせずに愚直であるが、自分が信じたものにまっすぐ向かう弥市と、世の美貌とは違う、もっと尊い美しさを持つ真っ直ぐな弥生が、実は本書の中心であると思っている。そういう人間こそが書くに値する人間だから。
本書は、あっさりと気楽に読めた作品だったが、そのぶん、若干の物足りなさもないではない。しかし、弥市のような愚直なまでに真っ直ぐな男と、弥生のような自分の正直な人物が登場するだけでも爽快である。
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