明日あたりから猛暑日になるとの予報も出ていたが、今はどんよりとした重い雲が広がっている。夜半から朝にかけて雨もかなり激しく落ちていた。
さて、百田尚樹『永遠の0』(2006年 太田出版 2009年 講談社文庫)の続きであるが、日本海軍は、戦闘機だけでなく、ただ自爆するためだけの「桜花」と呼ばれるいわば特攻専用爆弾を作製した。
わたしは、この「桜花」を見たことがある。それはまさに狭くて小さな操縦スペースがついた薄い鉄板の爆弾で、一発の機銃掃射で吹き飛んでしまうような頼りないものだった。人がそれに乗って体当たりしていくのだが、棺桶と呼んでもいいようなものだった。もちろん、着陸用の車輪などない。
日本海軍はこの「桜花」を中心にした神雷部隊というのを作った。そこでの「桜花」の戦死者は150人以上、重い「桜花」を積んで運ぶ一式陸攻の搭乗員を合わせて800名以上が戦死している。「桜花」は、それだけの戦死者を出しながらも、すべて途中で撃墜されて成功しなかった。それでも日本海軍はこれを強行し続けたし、潜水艦用の「回天」という人間魚雷も作製した。
この「桜花」の特攻要員となり、練習航空隊の教官として配属されていた宮部久蔵に飛行技術を教えられたひとりの人物に健太郎と慶子は会うことができ、祖父の宮部久蔵について話を聞くことができた。彼は、学徒出陣の飛行予備学生だったが、特攻要員となり、実際に特攻に出る前に終戦を迎え、生き延びて、戦後は千葉県の県会議員を務めていた人であった。
彼は言う。「宮部さんは素晴らしい教官でした」(文庫版 382ページ)と。そして、当時の様子を語り始めるのである。
彼は、最初の特攻隊はレイテにおける関大尉と流布されているが、実はその4日前に同じレイテの大和隊にいた久納好孚(くのう こうふ)中尉だったと語りだす。久納中尉は予備学生出身の仕官だったために、海軍としては「特攻第一号の栄誉」を海軍兵学校出身の関大尉にして発表したのだと言う。海軍内にはびこっていた学閥や軍閥、そして官僚主義がここでも顔を出した。学徒出陣の飛行予備学生は、ほとんどが特攻要員として訓練を受け、飛び立って行った。高い飛行技術を持ったベテランとして、宮部久蔵は、その特攻訓練の教官として配属されていたのである。
宮部久蔵は、そこで多くの学生に「不可」をつけてなかなか合格させない教官だった。そのため予備学生たちには不評で、専任教官に不平を言う者もいたが、宮部久蔵は徹底的に不可をつけ続けた。なぜなら、彼らが戦場に出れば、確実に撃墜されることがわかっていたからである。宮部久蔵は言う。「皆さんのような優れた人たちを教えていて、わたくしの正直な気持ちは、皆さんは搭乗員などになるような人たちではない、ということです。もっと優れた立派な仕事をするべき人たちだと思います。わたしは出来ることなら、皆さんには死んで欲しくありません」(文庫版 393ページ)と。
特攻に志願せざるを得ないような状況が作られ、すべての飛行予備学生は特攻に志願した。それは志願という形での強要であった。特攻要員の教官として、それが辛くて辛くてたまらない顔で教えた。心ある予備学生たちは、そういう宮部久蔵のことがよくわかっていくのである。その話をした彼の心優しい友人も「行ってくるよ」と言って、沖縄戦の特攻として死んでいった。全機特攻を提唱したのは五航艦の司令長官であった宇垣纏である。彼は、一度飛び立った者が帰ってくることを決して許さなかった。特攻は勝つための作戦ではなく、搭乗員の体当たりだったのである。沖縄戦の後半になると、特攻は、それがまるで当たり前のように通常の命令として下されたのである。
宮部久蔵の孫の佐伯健太郎と慶子は、東大在学中に同じように飛行予備学生となり、生き延びて、戦後は日本経済復興の第一線で働いて一部上場企業の社長まで勤め上げた武田貴則という人と会う。
その時、健太郎の姉の慶子に結婚を申し込んでいたジャーナリストの高山隆司も一緒だった。高山は、彼の新聞社での企画話を持ち込んだ人物であると同時に、慶子に結婚を申し込んでいた。慶子は、昔、祖父として自分たちを育ててくれた大石賢一郎の弁護士事務所で働きながら司法試験の勉強をしていた藤木という誠実な男性に心を惹かれていたことがあった。だが、藤木は司法試験に合格せずに、途中で郷里の父親のあとを継ぐために郷里に帰ってしまった。慶子は、藤木への想いを残しながら高山の結婚申し込みに心が揺れていたのである。
その高山が、武田貴則に会って、「特攻はテロである。特攻隊員はテロリストである」という持論を展開し始めるのである。高山は、武田貴則に「特攻は志願であり、間違った愛国心に鼓舞されてテロ行為を行ったに過ぎない」と言う。自分たちは、戦前の誤りを検証して、戦争と軍隊を否定し、人々の誤った愛国心を正した、と言うのである。
武田貴則は、特攻隊員が残した遺書の本当の心を読み取って欲しいと言う。「新聞記者だと――。あんたは死に行く者が、乱れる心を押さえに押さえ、残されたわずかな時間に、家族に向けて書いた文章の本当の心の内を読み取れないのか」という。だが、高山は「私は書かれた文章をそのまま読み取ります。・・・彼らは殉教的自爆のテロリストと同じです」と言い張るのである(文庫版 422ページ)。
武田貴則はジャーナリストたちが戦争を起こしたと指摘する。「正義」という名を借りて、一方を鼓舞し、他方を蔑むことによって人々を扇動し、政治はその世論に引きづられるようにして動き、気づいた時には抜き差しならぬ状態になっていた。それは、戦後も、そして今も変わらない。ジャーナリズムが、いつの間にか裁きの構造をもって、それあたかも「正しいこと」のように振舞う。「正しいこと」が、実は大きな問題であることをジャーナリストは自戒すべきなのに。
佐伯慶子は、始めは高山の言うことが正しいことだと思っていたし、その結婚の申し出も受ける方向で考えているようだったが、祖父であった宮部久蔵の姿を調べ、その当時に実際に戦場にいた人々と会い、その話を聞くうちに、次第に変わっていく。それは弟の健太郎も同じだった。高山は「特攻隊員はテロリストだ」と言い放つが、彼らの祖父の宮部久蔵はその特攻隊としてなくなっていたのである。高山には、そうした「おもいやり」がない。彼は彼が「正しい」と思っている正義の仮面を振り回すだけである。人間に対する深い愛情なしに何事も語れないことが、「正しいこと」を語りたがる人間にはわからない。
武田貴則は宮部久蔵の話をする前に、「戦後、特攻隊員は様々な毀誉褒貶(きよほうへん)にあった。国のために命を投げうった真の英雄と称えられた時もあったし、歪んだ狂信的な愛国者とののしられた時もあった。しかしどちらも真実をついていない。彼らは英雄でもなければ狂人でもない。逃れることの出来ない死をいかに受け入れ、その短い生を意味深いものにしようと悩み苦しんだ人間だ」(文庫版 427-428ページ)と語り、「しかし彼らは従容としてそれを受け入れた。私の前で笑って飛び立っていった友人を何人も見た。彼らがそこに至るまでにどれほどの葛藤があったのか、それさえ想像出来ない人間が、彼らのことを語る資格はない」(429ページ)と語る。
これは、真実そうだと、わたしも思う。わたしは十代の終わり頃、まだ右も左もわからない時に、特攻隊員たちや学徒出陣兵たちが残した遺書を集めた『きけ わだつみのこえ』を何度も何度も読み返したことがあった。同じ年代の青年たちが最後に残こしたもの、それを感じたいと思った。だから、ここで作者が武田貴則という人物の言葉として語ることが痛いほどわかるような気がする。臆病者と罵られながらも、なお「生き残ろこと」を貫こうとした作中の宮部久蔵が、なぜ、最後はその特攻で命を散らせたのか。その心情がそこにはある。
物語は、その宮部久蔵の姿をはっきりと浮かび上がらせていく。武田貴則も「あの人は素晴らしい教官だった」(文庫版 436ページ)と語りだす。その後の展開を書き出すと、また長くなってしまうので、続きはまた次回に記すことにする。
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