2013年7月8日月曜日

百田尚樹『永遠の0』(3)

 驚く程暑くなった。何をするにしても汗が滴り落ちる。今日は夕方から小石川に出かける用事があったのだが、乗っていた電車が途中で止まってしまい、不通となったために、諦めて、各方面に電話で事情を話して帰宅してきた。それにしても、異常なくらい暑い。

 そういうわけで少し時間も出来たので、百田尚樹『永遠の0』(2006年 太田出版 2009年 講談社文庫)の続きとなるが、戦後は一部上場企業の社長を勤めていた武田武則は、ゆっくりと宮部久蔵のことを語り始める。彼らは特攻要員になって初めて零戦に乗ることを許されたが、その訓練は、ただ急降下することだけだったと言う。それは爆弾を抱いて敵艦に突っ込む死ぬためだけの訓練だった。

 その中で、宮部久蔵は、「上手くなった者から順に行かされます。それなら、ずっと下手なままがいい」と語り、「皆さんは日本に必要な人たちです。この戦争が終われば、必ず必要になる人たちです」と武田貴則に語る(文庫版 439ページ)。そして、戦争は近いうちに終わる、と明言する。「零戦は開戦当初は無敵の戦闘機でした。・・(しかし)零戦は長く戦いすぎました。零戦の悲劇は、後を託せる後続機が育ったなかったことです。零戦は、今や――老兵です」と言う。そういう話をする宮部久蔵こそ日本に必要な人だと武田貴則は思う。「あの人こそ死んではならない人」だと思うのである。

 その訓練中にひとりの特攻要員が急降下に失敗して死ぬということが起こる。その時、兵学校出身の中尉が「死んだ予備士官は精神が足りなかった。そんなことで戦場で戦えるか」と罵倒し、「たかだか訓練で命を落とすような奴は軍人の風上にもおけない。貴重な飛行機をつぶすとは何事か」と怒鳴り声を上げた。だが、その時、宮部久蔵は、その怒鳴りつける上官に向かって「亡くなった伊藤少尉は立派な男でした。軍人の風上にもおけない男ではありません」ときっぱりと発言したのである。中尉は「特務士官の分際で、生意気だぞ」と言って、宮部久蔵を殴りつけた。だが、特攻要員の予備士官たちは、宮部久蔵が亡くなった伊藤の名誉を守ってくれたことに深く感謝した。武田貴則は「自分が特攻に行くことでこの人を守れるならそれでもいい」とさえ思ったと語るのである(443ページ)。

 同じように、そんな宮部久蔵のために命をかけて守った訓令兵がいた、と武田貴則は語る。それは、訓練中に敵機に襲来され、訓練機を見守るようにして飛んでいた宮部久蔵の機体に機銃を発射した時だった。その時に、ひとりの予備学生が先に気づいて、敵機と宮部機の間に飛び込んで、自らの機体に敵の機銃掃射を受けたのである。宮部久蔵はすぐに気がついて抜群の飛行技術で敵機を一掃していったが、飛び込んだ予備学生は貴縦断をまともに受けて、かろうじて命をとりとめていた状態だった。

 そして、担架で運ばれていく予備学生の側で、宮部久蔵が「どうしてあんな無茶をしたのですか」と問うと、その学生は「宮部教官は日本に必要な人です。死んではいけない人です」と語ったというのである(文庫版 446ページ)。

 それから間もなくして、宮部久蔵は何人かの予備士官とともに九州の基地に移動した。この時、九州にいった予備士官は全員が特攻で亡くなった。

 武田貴則の妻は、戦後に貴則と結婚し、昼間は快活に過ごす貴則が夜中に何度もうなされ、それが十年以上も続いたと語る。

 宮部久蔵の真実の姿を調べていた孫の佐伯健太郎と慶子は、次に、元海軍上等飛行兵曹で、戦後はやくざとして裏社会で生きてきた景浦介山という男と会う。彼は、「奴があの戦争を生き延びたいと思っていたのは知っていた。だが、その望みを自ら断ち切ったのだ」と言う。

 景浦介山は貿易商の妾の子として生まれた庶子で、中学の時に母が亡くなって、父親に引き取られたが、その父親からも愛情も姓も与えられす、厄介者として育てられ、米国との開戦後に多量に募集された予科練に行き、歴戦を積み、そこで飛行技術を磨いてきた叩き上げの熟練飛行兵だった。彼は自分の先祖が長岡藩の武士であったこともあり、宮本武蔵のように一人の戦闘機乗りとして戦って、誰にも負けないくらいの飛行技術を身につけていたと言う。彼の生き様はまさに壮烈だった。

 そうして彼は、宮部久蔵と出会い、生きるか死ぬかの戦いの中で家族のことを考える宮部久蔵が許せなかったと言う。しかも、その宮部久蔵が、抜群の腕を持つ戦闘機乗りであることがなお我慢できなかったのだと言うのである。

 彼は、宮部久蔵と飛行技術を競いたいと熱望する。空戦の腕だけが彼の誇りだった。だが、彼が仕掛けた空戦で、彼は宮部久蔵に完膚無きまでに負けてしまう。そして、卑怯にも彼の後ろから彼の機体めがけて機銃を発射してしまう。だが、宮部久蔵はその後ろから発射された機銃弾を見事に避けた。彼は自分の卑怯さに自分で愕然としてサムライらしく自爆しようとした。だが、その時、「無駄死にするな」と宮部久蔵は言ったのである。景浦介山は宮部久蔵のことを、「まさに阿修羅のような戦闘機乗りだった」と語る(文庫版 479ページ)。その時から、彼は、自分は無駄死にをしないし、宮部よ、死ぬなと願うようになる。「お前が死ぬ時は、俺がこの目で見届けてやる」(文庫版 491ページ)と思うのである。

 やがて、日本海軍は特攻作戦を実行していった。景浦介山は多くの特攻に行かされる予備士官たちを見てきたと言う。彼らは、操縦は下手だったが、皆堂々と死んでいった。「愛する者のために死ぬという気持ちが、普通の男をあそこまで強くする」と語る。彼の任務は特攻機に襲いかかる敵機を撃ち落として特攻機を守ることだった。

 やがて、昭和20年の春以降、日本の主要都市はB29の絨毯爆撃で焼け野原となり、5月にはドイツが降伏し、8月に広島と長崎に新型爆弾が落とされた。その威力は凄まじものだったが、終戦の少し前、景浦介山は鹿児島の特攻基地であった鹿屋へ向かい、そこで宮部久蔵と再開した。

 しかし、その時の宮部久蔵の姿はすっかり変わっていた。頬はこけ、無精髭が生えて、目だけが異様に光る人間になっていた。そしてすぐに宮部久蔵は特攻にでた。景浦介山は、どんなことがあっても宮部の機を守り抜くと護衛として飛び立ったが、機体の不調で宮部機を見送るしかなかったという。そして、数日後に戦争が終わった、と語るのである。

 佐伯健太郎と慶子は、祖父である宮部久蔵の最後を知る元通信員だった大西保彦に会うために特攻基地であった鹿屋に向かう。大西は戦後に結婚して鹿児島で旅館を継ぎ、今は隠居している。彼は鹿屋から出撃した特攻隊員の名簿を作成していた。今から突入することを意味する「ツー」と長く押されたモールス信号の音だけを残して、特攻隊員は死んでいった。その音が今も耳にこびりついていると言う。彼は、宮部久蔵が決して威張り散らすこともなく上下の別なく誰とでも丁寧に接する人だったと語る。そして、その宮部久蔵が特攻爆弾である「桜花」の護衛につかされたときは、やりきれない姿をしていたと語りだすのである。その時の「桜花」には、彼の教え子もいたのである。「俺の命は彼らの犠牲の上にある」(文庫版522ページ)と宮部久蔵はつぶやいたと言う。そして、彼自身が特攻で飛び立ったのである。

 その時、奇妙なことが起こったと大西は続ける。一緒に特攻で飛び立つ一人の予備士官に「飛行機を換えてくれ」と頼んだのである。宮部の飛行機は零戦五二型だったが、その予備士官の飛行機は戦闘能力の落ちる旧式の零戦二一型だった。彼はその零戦二一型に乗りたいと言いだしたのである。そして、出撃した。だが、途中でエンジン不調で不時着した飛行機が一機だけあった。それが、宮部が乗るはずだった零戦五二型だったのである。その不時着した飛行機に乗っていたのは、なんと、戦後、健太郎と慶子の祖父として彼らを育んでくれた大石賢一郎だったのである。

 このどんでん返しのような結末。それは胸が震えるような衝撃を与えてくれる。健太郎と慶子は、最後に養祖父の大石賢一郎の話を聞くことになるのである。

 大石賢一郎が宮部久蔵と最初に会ったのは、筑波の航空隊で、彼が学徒出陣の予備士官として特攻訓練を受けた時だった。「宮部さんは惻隠の場を持った男だった」と彼は語る(文庫版 533ページ)。だから、皆、この教官のためなら死んでもいいとさえ思っていたと言う。そして、訓練中に敵機が襲ってきて、自分は思わず敵機と宮部機の間に入って機銃掃射を受けたと語る。大石賢一郎は機銃弾を受けたが一命を取り留めて海軍病院に入院した。その時に、宮部久蔵が一度だけ見舞いに来て、自分の外套をくれたと言う。

 特攻で死ぬ時ほど、真剣に家族や国のこと、自分が亡き後の愛する者の行くへを考えたことはなかったと言う。自分たちは熱狂的に死を受け入れたのでもなければ、喜んで特攻攻撃に赴いたのではない、と語る。彼には婚約者がいたが、東京空襲で亡くなっていた。やがて終戦の数日前に、彼に特攻命令が下り、鹿屋で宮部久蔵と再開したのである。

 何回かに分けて記すことになってしまったが、それだけのものがこの作品にはあると思う。だから、本書の結末については、次回に記すことにする。

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