2013年7月12日金曜日

藤本ひとみ『維新銃姫伝 会津の桜 京の紅葉』

 猛暑日が長く続いて、「この暑さには、ちとまいる」感がある。気力と体力の衰えは如何ともしがたい。最近、野菜生活が続いているので、今夜は肉にするか、と思う。

そういう戯言はともかく、NHKの大河ドラマ『八重の桜』で取り上げられている新島八重の会津戦争までの姿を描いた藤本ひとみ『幕末銃姫伝 京の風、会津の花』(2010年 中央公論新社 2012年 中公文庫)ほんの少し前に読んで、新島八重を描いた作品としても、文学作品としても優れていると思っていたので、その続編にあたる藤本ひとみ『維新銃姫伝 会津の桜 京の紅葉』(2012年 中央公論新社)を読んだ。

 これは戊辰戦争における会津の敗戦と鶴ヶ城の開城、そして塗炭の苦しみを舐めた会津藩士たちの姿から、やがて、八重が兄の山本覚馬のいる京都へ出て、そこで新島襄と会い、結婚して、夫婦で同志社大学の前身である同志社英学校を設立していくまでの姿を描いたものである。

 維新後の会津藩士たちの苦労はお互いにそこはかとない思いを抱いていた会津藩家老の山川大蔵の姿を通して描かれ、山川大蔵と山本覚馬、そして新島八重の三者が物語の中心となって話が展開されていく。

 幕末から明治にかけて会津藩は比類を見ない苦境に陥った。作者はそれを本書の最初で次のように記している。
 「文久二年、会津藩は京都を守るために呼び出され、天誅の嵐の中で多くの藩士を失いながら、財政の破綻も顧みず、ひたすら幕府の命令に従い、朝廷に正義をつくしてきた。しかし孝明天皇の崩御、薩摩長州の政権への野望、そして徳川慶喜の保身が重なり、一方的に朝敵の汚名を着せられ、追討の対象とされたのだった」(5ページ)。
 これは客観的で簡明な歴史判断だろうと思う。そして、会津は多くの犠牲者を出して敗れる。その悲しみは測り難いものがある。多くの死者が累々と横たわり、崩れ落ちた鶴ヶ城に白旗が掲げられて、城は明け渡されたのである。

 山川大蔵は、藩主親子の助命嘆願をしながら残された会津藩士の行く末を案じ苦労していく。維新政府が会津に対して厳罰主義をもって臨もうとする中で、会津藩がようやくにして東北北端(現:青森県)に「斗南藩」として残される道を作るが、そこに撮された藩士たちの生活の苦労は並大抵のものではなかった。貧苦に喘ぎながらも、会津藩士としての心意気をもって苦労に耐えていこうとする。そこでの新しい道を見出そうとするのである。もちろん、「貧すれば貪す」で多くの不満を持つ者も出る。山川大蔵はそこで苦労しながら、なんとか道をつけようとしていく。だが、それもつかの間、廃藩置県令によってあっという間に「藩」という存在自体が消失する。

 中央集権化を急いだ維新政府は、あらゆる強硬策をもって政権の確立を図ったが、勝者である薩長土肥の奢りと政権の私物化、腐敗もひどいものがあった。そして、政権中央部の勢力争いや分裂も起こり始めていた。

 本書の中では、新しい明治政府に失望した者たちの姿が、明治政府の中枢にいたが、やがて追われるようにして乱を起こした江藤新平(佐賀の乱)や前原一成(萩の乱)、そして西郷隆盛(西南戦争)として描かれる。

 特に、江藤新平に関して、山川大蔵は会津戦争の時に敵将であった谷城に懇願されて官軍の将となり(薩長への報復を考えていた)、江藤新平の乱を治める側にたち、他方、八重は覚馬の意を受けて江藤新平の救出に向かい、二人が佐賀で出会うという場面を展開している。ここで八重は、窮状に陥った山川大蔵の命を助け、江藤新平の義士としての姿を垣間み、彼を見送るという役割を演じている。明治政府を掌握している大久保利通のやり方が、会津を陥れたのと同じやり方で、力ある彼らが反乱を起こさざるを得ないように仕組んで、彼らを滅して、権力を掌握することで中央集権化を進めるやり方だったと、作者は語るのである。

 新島八重が江藤新平の佐賀の乱の時に佐賀にいたかどうかの記録はないが、作者がこういう展開をしたのは、江藤新平のことについて触れたいという思いがあったからだろうと思う。そして、そこに八重と山川大蔵の結ばれなかった恋について、ほんのちょっとしたすれ違いで、互いに想いを寄せながらも違う道を歩まなければならなかった二人の物語を絡ませているのである。

 他方、八重の兄の覚馬は鳥羽伏見の戦いの時に薩摩藩に捕縛され、獄中生活を耐え忍んでいたが、彼の学問の才能を見込まれて京都権参事(後の京都府知事)植村正直の顧問として、幕末で荒廃した京都の再興に力を注いでいた。彼が獄中で新政府あてに書いた『管見(かんけん)』は、非常に優れた将来の国のあるべき姿を記したもので、後に明治政府の政策の骨格に繋がるもので、西郷隆盛がかれを非常に評価したと言われる。

京都の復興に尽力し、新しい国作りに種々の産業復興に尽力する中で、彼は、女中の家に身を寄せていた母や八重らを京都に呼び寄せた。彼は会津に妻子があったが、盲目になった時に彼の世話をしてくれた女性(時恵)との間にも子どもができ、そのため覚馬の妻だけは郷里に残ることを選択して娘だけが八重とともに京都に出てきていた。八重はそういう覚馬に若干の異を覚えつつも、人間としての覚馬を尊敬していた。

 江藤新平の乱が起こった時、覚馬は言う。「新政府は腐敗している。人間の精神そのものがダメなのだ。儒教教育の限界だろう。人心を改めねばならない。それには今までとはまったく違う新しい精神、新しい哲学を持った人間が教育に携わる必要がある。そういう人間が、新たな人材を育てるのだ」(282ページ)。

 そうして、明治8年(1875年)頃、大阪で活動を開始していたアメリカの会衆派の宣教師からキリスト教の教義を解説した『天道溯原(てんどうそげん)』を贈られ、これに大いに感銘を受けた。そして、そのころにアメリカから宣教活動のために帰国していた新島譲と出会うのである。彼は自分が購入していた旧薩摩藩邸の敷地6000坪を新島譲の学校用地として譲渡し、新島襄と共に「私学開業願」を文部省に出願するのである。ちなみに「同志社」という名称は覚馬がつけたものだと言われている。

 八重は、この覚馬の下で、もともと進取の気性を持っており、英語を学び始めたり、女子教育のために尽力したりしていく。だが、本書では、会津に育ち、会津魂を持ち、しかも会津城の戦いで悲惨をなめた八重は、このような仕打ちをした明治政府の要人への報復を忘れなかったとされている。だが、長州の木戸孝允が死去し、西郷隆盛が自決に追い込まれ、そして権謀術作を施していた大久保利通が暗殺され、彼女の復讐心は平安を見るようになるし、それと同時に、新島襄との出会いによって「罪のゆるし」ということを心に刻んでいくようになるのである。

 新島襄と山本覚馬が設立した同志社英学校は、幾度かの経営の危機を迎えていく。内外に渡る誤解もあり、その度に苦慮することになるが、新島襄と八重は新しい夫婦の姿としてそれを乗り越えていくのである。

 また、山川大蔵も「鶴ヶ城が壊されるのを見ただろう。城の喪失は、暗喩だ。私たちはこれまで、朝な夕なに天守を見上げてきた。それは私たちの至誠の象徴だった。皆がその方向に歩めばよく、私やおまえはそれを指揮する立場だった。だが時代は移り、城は消えた。つまり皆が仰ぎ、目標とするものがなくなったのだ。誰もが同じ方向を目指し、指揮者がそれを引き連れていく時代は終わったということだ」、「共に共通する価値観や目標というものは崩壊し、存在しなくなったのだ。一人一人が自分なりの価値を見出し、それにそって自分の道を探り、歩き出さねばならなくなっている。おまえも、皆を引きつれていくという今までの考え方を捨てろ。でなければ生きていけん」(291ページ)と会津戦争の時に責任をっていた梶原平馬に言われて、新しい道を歩んでいくのである。

 ちなみに、この山川大蔵(浩)は、後に(明治18年―1885年)、東京高等師範学校(現:筑波大学)及びその附属学校の校長、女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)の校長を務めている。明治31年(1898年)に男爵に叙せられ、同年、病没した。

 本書は、一本の筋として、山川大蔵と八重の、互いに想いを寄せながらもどうしてもすれ違ってしまう運命の悲恋を置きながら、激動していく幕末から明治にかけての歴史、その中で無念に死んでいった者たちの重荷を抱えながらも、新しい生き方を模索していく人々の物語である。女なしくないことを恥じていた八重が、やがで銃姫としての自分を見出し、そしてまた、教育者として生きていくような姿を描くのである。そして、それは女性ばかりではなく、山川大蔵や山本覚馬についても同じだと語るのである。

 八重は芯の強い女性だった。自分の生き方をはっきりさせる女性である。新島譲は彼女のことを「ハンサムウーマン」と呼んだが、しかしまた、それは彼女の努力の賜物でもあったのである。その努力の跡が本書で記されているのである。これもまた、いい本だった。

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