昨日は、お昼まではうだるような蒸し暑さだったのだが、夕方近くになって突然の激しい雨に見舞われて、ちょうど大学から帰宅する途中で、渋谷駅でしばらく稲光と激しい雨足を眺めたりしていた。まさに「滝つせと降る」だった。
そして、今日は、まるで梅雨が戻ったようなジメジメした天気になっている。雨の予報もあるので、降り出しそうでもある。湿度が高いとなかなか疲れも取れない。
先日、久しぶりで図書館を訪れた際、白石一郎『十時半睡事件帖』シリーズの中の一冊である『庖丁さむらい 十時半睡事件帖』(1982年 青樹社 1987年 講談社文庫)があるのを見つけて、借りてきて読んだ。このシリーズを読んだのはもうずいぶん前だが、と思って、このブログを調べてみたら、シリーズの最後である6作目の『おんな舟』(1997年 講談社 2000年 講談社文庫)が2010年2月、5作目の『出世長屋』(1993年 講談社 1996年 講談社文庫)が2010年3月末に読んでおり、福岡藩の老武士である十時半睡を主人公にしたこのシリーズを読むのは3年ぶりということになる。
十時半睡の本名は「一右衛門」だが、八十石の馬廻り組という中級武士の生まれながら、知恵と人情に富んで藩の奉行職を歴任した後に隠居して、「半分眠って暮らす」ということで自ら「半睡」と名乗っているのである。彼は、一旦は隠居したが、藩の目付制度(警察制度)の変革によって、十人の目付を抱える総目付として再び出仕させられ、気ままに出仕ても良いというゆるしをもらって時折登城していくような生活をしているのである。人望は高く、彼に対する信頼も大きい人物として描かれる。
前に読んだ『出世長屋』と『おんな舟』は、この半睡を中心にして描かれ、特に江戸藩邸の総目付として江戸に行くくだりや江戸での出来事が記されているのだが、本作の『庖丁ざむらい』は、おそらくこのシリーズの1作目で、半睡は出来事の相談役や推移を見守る者という役割で登場し、十一篇の短編で綴られるのは、むしろ、福岡藩の下級武士たちの姿である。時代は寛政から享和にかけて(1789―1803年頃)で、藩の体制が固まり、武士の生き方も武から官へと変わった時代である。
本書には、刀の鍔(つば)を収集することにうつつを抜かし、結局は古道具屋に手玉に取られるような武士の姿を描いた「第一話 鴫と蛤は漁師がとる」、武士階級の中でも最下層の足軽に対して非道なことをして恨みを買うことになる「第二話 虫けらの怨」、料理にだけ情熱を燃やし、左遷されても新しい料理が覚えられると喜ぶ新人類のような武士の姿を描いた「第三話 庖丁ざむらい」、片方は真面目、もう片方は酒を飲んで乱暴をするという互いに反目する二人の侍が玄界島の警固の仕事で一緒になり、ついに激突してしまうという「第四話 玄界島」、指物大工仕事に熱中し、妻が弟と不義を働いたのもかかわらず、それを認めて自ら身を引き、指物大工の職人となる侍を描いた「第五話 鉋ざむらい」、武士になりたいと憧れて中間となった男か、武家の意地の愚かな争いの中で、意地で生きる武士の愚かさを知っていく「第六話 さむらい志願」、博打にうつつを抜かし、富くじにあたって一時は博打をやめるが、どうしても博打をやめることができない博打好きの武士を描いた「第七話 丁半ざむらい」、藩の馬術指南役同士の愚かな争いを描いた「第八話 水馬の若武者」、金のありがたみを知り、執着するようになった男と、その従兄弟で反対に金を湯水のように使う男の姿を描いた「第九話 合わせて一つ」、従順な理想の妻になるように教育された女性と彼女を妻にした男の間に起こる齟齬を描いた「第十話 人形妻」、そして、息子の教育に情熱を燃やすが、その息子はただ与えられたものを鸚鵡返しにしていくように育ってしまった姿を描いた「第十一話 人まね鳥」が収められている。
ここで描かれるのは、言ってみればどこにでもいて、どこにでも起こるような事柄であり、下級武士の生態であると同時に、生活している人間の生態でもある。そして、それらに対して、十時半睡の「大人の対応」が記されていくのである。「大人の対応」というのは、無理のない自然な対応ということで、これは、いわば、いい意味での「大人の知恵」である。それは老齢になって初めてわかるものかもしれない。
物語の構成が上手くて、それぞれに読ませる短編となっており、作者はおそらく、最初はこうした作品のスタイルで続けようと思われていたのかもしれない。しかし、次第に十時半睡その人に関わることが触れられるようになって、人物像がはっきりしていくようになっている。もちろん、このシリーズの後半の方ががぜん面白い。
なお、本書の内容とは全く無関係だが、文庫本の方には石井富士弥という人の解説が収められている。しかし、これはどうにも「提灯記事」のような感じがしていただけないものだった。
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