2010年1月15日金曜日

佐藤雅美『恵比寿屋喜兵衛手控え』(2)

 昨日は38歳で生涯を終えなければならなかったTさんの葬儀が行われた。よく晴れてはいたが風が刺すように冷たい寒い日だった。

 かなりの疲労感を覚え、あまりよく眠れないままに、佐藤雅美『恵比寿屋喜兵衛手控え』を読み続けた。公事宿(訴訟人が泊まる宿)である恵比寿屋の主人喜兵衛は、彼のもとに越後の田舎から出てきた金公事(金銭をめぐる民事訴訟)で訴えられた男の手伝いをすることになり、その訴訟が金銭をだまし取るために巧妙に仕組まれたものであることを明白にしていく。越後の田舎から出てきた男の兄が巧妙な罠にはめられており、その背後には、喜兵衛の営む「旅人宿」と敵対する「百姓宿」の主人の陰謀があったり、公事(訴訟)によって金銭をかすめ取っていく「公事師」の巧妙な策略があったりしたのである。

 歴史・時代小説の中で、こうした民事裁判の事例が詳細に取り扱われるのは極めて稀なことであろうが、作者の佐藤雅美は、当時の公事(訴訟)の取り扱いや方法、法令などを丹念に調べ(文庫版の巻末にあげられている参考文献だけでも相当なものである)、それに従った形で物語を展開していきながら、この訴訟の黒幕であった「百姓宿」の主人が、実は、喜兵衛の妻をめぐる恋仇であったことの恨みと嫉妬をもっていたり、彼の妻がその「百姓宿」の主人と不貞を働いたことがあったりすることが次第に分かっていき、喜兵衛の複雑な思いが記されていく。喜兵衛の妻は、病に倒れており、彼女の不貞を種に金だけで動く厚顔の不良御家人から金銭を脅し取られたりしている。

 喜兵衛には一男一女の子どもがいるが、いずれも親の意に反して家を出ており、長男は錠前職人となっているし、長女はヤクザな男と所帯をもっている。喜兵衛の家族は崩壊している。そして、喜兵衛には深川に世話をしている女がおり、その間に一男を設けていて、彼はその女性のところでだけ安らぎを覚えている。こういう主人公の人物像には、当然、「深み」が必要とされるが、佐藤雅美はそれを見事に、無理なく描き出している。

 この作品の中に、この複雑に仕組まれた公事の真相を見事に裁いていく名与力が登場する。この与力の丁寧な調査と眼力によって事件の真相が八割ほど明らかになっていくが、彼もまた町奉行の移動によって役を離れさせられた元の内与力(町奉行付き与力)によって冤罪の過ちを犯させられそうになるが、喜兵衛の機転と推理によって事なきを得、さらに真相を暴いていく。与力という仕事に従事しなければならない人間の苦悩も描き出されている。非創造的な仕事には、いつも仕事そのものによる喜びが少ない。名与力は聡明なだけに、そのことを深く感じていくのである。

 そして、陰謀をたくらんだ「百姓宿」の主人は家財没収となり、喜兵衛はその家族や彼の使用人たちのために没収された宿を買い取ることになっていくが、その心境は複雑で、最後は、次のように記されている。

 「六十六部は滅罪の功徳を得るため諸国の寺社を巡礼して歩くのだという。
 喜兵衛は六十六部に自分の姿を重ねてみた。」(文庫版 401ページ)

 この終わり方も、また、味のある終わり方ではないだろうか。人は様々なことを背負って生きているのだから、その重荷を暗示するこうした表現で、主人公の生身の姿が見事に結実していると言えるであろう。

 綿密な考察と展開、錯綜している人物たちの姿が丹念につづられた読みごたえのある秀作で、直木賞受賞作品であることをうなずくことができる作品である。

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