2010年1月19日火曜日

諸田玲子『昔日より』

 昨夜、昨年末に書いた『大江健三郎論』などを掲載したものの合評会を小石川でするというので久しぶりに都内に出かけた。小石川までは年に数回は行っているのだが、どのように行けばいいのかを失念して駅員さんに地下鉄の路線などを聞いて出かけた。東急田園都市線の藤が丘駅の若い駅員さんはとても親切に地図まで出して来て笑顔で教えてくれ、些細なことだが本当に嬉しく思ったりした。

 会そのものは気の合う人たちなので何ということはないのだが、ただ、こういう時、自分の驚くほどの饒舌さに自分自身に腹を立てることがよくある。「沈黙」をこよなく愛していたし、最近は、一つ一つのことをきちんと丁寧にできずに、中途半端で終わってしまう状態があって、それを電車に揺られつつ自省しながら深夜に帰宅した。この集まりでは3月に「森有正論」を話すことになっているので、そろそろ準備に取り掛からなければならない。

 今朝、広島のMさんから励ましのメールをいただき、昨年のクリスマスに送っていただいた「赤カブ」の絵を改めて取り出し、意を翻らせて、昨夜読み終えた諸田玲子『昔日より』(2005年 講談社)について記しておくことにした。

 この作品は、奥付によれば2003年~2004年に「小説現代」で発表された8編の短編を収録したもので、わたし自身の好みから言えば短編の物足りなさがあるが、ひとつひとつはよくまとまった短編であり、江戸開闢期から幕末までの時代順に並べられており、それぞれの時代背景の中でのそれぞれの重荷を背負った人間の姿が描かれている。こうした短編集の組み方も意図的で意欲的であると言えるだろう。

 第一篇「新天地」は、江戸開闢期に信濃の小諸近郊の村から江戸に出てきた父子の物語で、関ヶ原の合戦で手柄を立てたという父親を尊敬していた子どもが、次第に父親の姿に失望していき、やがて再び父への敬意を取り戻していく話である。テーマそのものはありふれたものであるが、父親に失望する息子の姿が丹念に描かれている。このテーマは、第七編「打役」へと繋がり、「打役」では、奉行所で罪人を鞭打つ役を代々務めている人物が、穏やかで優しい父親が咎人を鞭打つ役をしていることを知り、その職務を嫌って反抗するが、やがて自分も家督を継いでその役に着き、今度は自分の愛娘から嫌われていくという話になる。

 意に沿わない、世間から評価もされない仕事を淡々としていかなければならないことへの葛藤がよく描き出されている。そして、自分がその仕事をし、愛娘から嫌われていく中で、自分の父親のことも理解していくのである。

 職業選択の自由というのが表面上認められている現代においても、「意に沿う仕事」ができるような人はごく少数のエリートに過ぎない。多くは皆、「生活のため」に意に沿わない仕事を淡々としていかなければならない。職業の卑賤はあってはならないはずであるが、現実には確かにある。エリート志向や上昇志向の強い現代では、それがとみに激しくなっている。その中で生きなければならない人間の姿を時代小説という形で描き出した意義は大きい。

 第二編「黄鷹(わかたか)」は、徳川家康の寵愛を受けた側室の「清雲院」が、同じように側室であった「蓮華院」の訃報を聞き、人生の寂しさを感じている時に、町屋の娘が自分の恋路の成就のために彼女の力を頼って来たのを助けようと、「黄鷹(わかたか)」と呼ばれる彼女の老僕(下忍)と共に再び情熱を燃やしていく話で、「流れのままに転がって生きてきた」人生への最後の抵抗を描いたものと言えるかもしれない。

 第三篇「似非侍」は、関ヶ原の合戦後八十年たって江戸幕府が安定期に入った頃になお武士としての矜持をもち続け、その「武士の一分」のために主家を捨て、渡り中間となっている男が、同じように「武士の一分」のために主家の命を受けて彼が仕えている旗本家に入り込み、主家の命への忠義を果たさなければならない姿に「むなしさとあわれ」を感じていく話である。つまらないことのために命を賭し、そしてその命を落としていく。家のため、会社のため、国家のために、或いは自分の地位のために命を賭けていく。そうしたことに何の意味があるのか。人間を目的論的にしか考えることのできない悲哀がこの作品にはよく現れている。

 第四編「微笑」は、江戸初期の終わり頃、元禄時代が始まる少し前、江戸幕府が安定を見せ始めたころ水野十郎左衛門が率いた「白袴組」などで有名な「旗本奴」と幡随院長兵衛の「町奴」の対立で江戸市中を騒がせた出来事で、若い頃「旗本奴」として乱暴を働いていた旗本の三男とその友人が、やがて一人は幸運にも幕府の取り締まりの難を逃れ、反対に不良旗本を取り締まる大番組の目付となり、もう一人は捕縛されて獄死するという事態となり、目付となった主人公が獄死した友人への裏切りを背負いながら生きている姿を描いたものであり、過去の自分の行状を悔い、それを隠して生きなければならない人間の姿を描いたものである。

 第五編「女犯」は、第四編の男の姿を、かつて男ぶりが評判だった寺の僧侶と不貞を働いた女が、自分の過去を糊塗して生きている姿を描いたもので、姑にもよく仕え、武家の妻として何くわぬ顔で過ごしているが、自分の中の「女」としての性で不貞を働いたことを胸に秘めている。そういう女性が不貞の場所であった廃寺を再び訪れていく。しかし、彼女は自分の過去を胸に秘めたまま日常を生きていくという話である。

 第四編にしろ、第五編にしろ、いずれも、それぞれが自分の過去を糊塗しながら生きていかなければならない人間の断面が描かれている。人が生きるということは多かれ少なかれ罪を犯しながら生きることであり、人間にはそれを真実に「ゆるす」力などない。だから、「それでいい」という思いもある。人間が考える正義などに人を救う力もない。まして、倫理的なことはそうだ。むしろ、「あっけんからん」と生きた方がいい。これもまた時代の中での思考かもしれないが。

 第六編「子竜(しりょう)」は、反対に、倫理道徳を謹厳に守り、質実剛健を訴えてきた「子竜」こと平山行蔵(1759-1829年)に題材をとったもので、この作品では老いた平山行蔵が、日常としてきた質実剛健の修行にも疲れを覚え始め、隣家の十七歳の娘に思いを寄せたり、彼の直弟子となった青年を助けたりして、ついにはその直弟子と自分が思いを寄せいている娘の駆け落ちを助けたり(自分はそれを知って失恋するのだが)して「人間味」を取り戻していく話である。

 ここには、ひとり淋しく老いていかなければならない「老い」の姿があって、やはり、自分の身に引き合わせてもいろいろと考えさせられる。

 第七編については先に述べた通りで、第八編「船出」は、江戸幕府崩壊後、夫を上野戦争で失い、幕臣の家族として徳川家が移封された駿河に落ち伸びていく妻が、その駿河への船の中で、それぞれの遺恨を抱いた人々の姿に触れ、「すべてを海に捨てていく」ことを決心していく話である。

 こうしてそれぞれの短編を並べてみると、時代は流れ、社会も移り変わり、そして、人は「すべてを海に捨てて生きる」へと繋がっていることがよくわかる。人が生きるということは、そういうことかもしれないとつくづく思う。この短編集はそういうことを改めて思わせる作品群になっていて、そこに作者の意図もあるように思われるのである。人は、捨てきれないものを背負っているにせよ、「今」をたくましく生き抜くために、一切を大海原に流していくほうがいい。「悔い改め」とはそういうことかもしれないとも思う。

 今日は図書館に新しい本を借りに行きたいが、仕事も詰まっているので行けるかどうか。一日で出来ることがほんの少しになって来ている。「あれも、これも」と思うが、じっくりとできることに腰を据え直していこう。もともと「ケセラセラ」なのだから。

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