2010年1月25日月曜日

佐藤雅美『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末』(1)

 昨日の午後は、出かけようと思っていたところにも出かけず、うだうだと、借りてきていた『スターゲイト』(宇宙空間をワームホールでつないで探索をするSF)という米国TVドラマのDVDを見たり、本を読んだり、うとうと眠りこんだりして過ごしてしまい、夕食もありあわせで「雑煮」を作って簡単に済ませ、なんとなく日が暮れるという午後だった。ただ、日暮れの時間が、やはり少しずつ遅くなっているのを西の空をぼんやり眺めて感じていた。

 夕暮れ時から、佐藤雅美『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末(もとどりづかふしゅびいっけんしまつ)』(2007年 講談社)を読んでいる。これはこのシリーズの6作目の作品で、江戸中期(家斉時代)の江戸の岡っ引き「半次」を主人公に、金と女に目がない凄腕で人間味あふれる侍「蟋蟀小三郎」などを引き回し役にして物語が展開されていくものであるが、時代や社会考証がきちんと織り込まれているので、生身の人間がよく描かれて生活臭があり、事柄が錯綜して、しかもそれぞれに取り扱われている事件が面白く、「捕物帳」物の時代小説としては優れた作品だと思っている。

 この6作目の『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末』では、いずれも「蟋蟀小三郎」が関わる事件で、第一話「ちよ殿の知恵」では、拝領地(本来は江戸幕府が大名や家臣に貸し与えている土地)の売買をめぐっての争いに、一方の側に「蟋蟀小三郎」が用心棒として雇われ、もう一方の側に「蟋蟀小三郎」と同等の剣の腕を持つ「風鈴狂四郎」という浪人が雇われ、この二人の侍は、剣を抜きあうことになればいずれもけがをするか命を落とすことになるのを知っているので、争いたくなく、しかも用心棒代だけは欲しいという状態で、業を煮やした雇い主側が、二人の決着で争いを決めようとしたところ、「蟋蟀小三郎」が惚れて一緒になっている「ちよ」が知恵を働かせ、火事騒ぎを利用して拝領地に建てられている建物を壊して売買された拝領地に居座っていた側の転居をさせて無事に決着をつけるという話である。

 結末は荒唐無稽なのだが、拝領地の売買をめぐる争いは当時の公事(民事)訴訟に基づくものであるし、金目当てに働いているがどこか憎めない蟋蟀小三郎と半次との「かけあい」や、蟋蟀小三郎が惚れている「ちよ」との蟋蟀小三郎との関係、お互いに生き伸びる知恵を働かせる風鈴狂四郎の姿など、抱腹絶倒の感がある。

 第二話「助五郎の大手柄」は両国にあった幕府の御米蔵でこぼれおちた米を集めて売買する権利を持った人間の戸籍査証にからむ事件(人別が厳しかったので、人別の売買が行われていた)と大名家の妾腹にからんで当主の叔父と名乗る与太者から大名家が脅されるという事件が取り扱われており、大名家の脅しにからむ事件は第一話に登場した風鈴狂四郎が半次に始末を持ちこむのである。半次はこの二つの事件の探索にあたるが、第一の事件は風鈴狂四郎が行きつけの居酒屋に半次と行った時にそこの主人が人別売買をして偽戸籍を作っている人物であることが判明して、解決され、第二の事件は、第三話「強請の報酬」で、蟋蟀小三郎と昵懇になった風鈴狂四郎の知恵によって、大名家を強請っていた与太者を、その言い分通り大名家に迎え入れる格好で半監禁状態にするということで決着がつく。

 この第三話で、蟋蟀小三郎は主家に御暇願いをし、晴れて浪人となって「ちよ」と結婚し、町道場を開いていくが、それが第四話へと繋がる。蟋蟀小三郎は奉行所からも主家からもいろいろな嫌疑を受けていくのだが、そんなものは「どこ吹く風」で、自分のやりたいことを貫いていく。もとより深い思惑があるとは思えないように振舞うし、その姿が小気味よくさえある。半次も、そのことを十分わかっていく。

 第四話「銘水江戸乃水出入」は、新たに拝領屋敷を買った吝嗇家の公事宿の主人の吝嗇(けち)によって侮辱を受けた家主と蟋蟀小三郎が、その意趣返しに、酒樽に「銘水江戸乃水」と名札を張って公事宿の主人に届け、公事宿の主人がそれを「酒」と思って旗本のもとに届けたところ、それがただの「水」であるということで失態をしでかし、それを訴訟したことによって蟋蟀小三郎が取り調べを受けるという事件の顛末が描かれている。事件は、訴訟によって市中の噂の種となった旗本が公事宿の主人のあまりに横柄な態度に腹を立て、これを斬り殺すことで、訴訟人がいなくなったことにより蟋蟀小三郎が無罪となる結末となる。

 町奉行所は日ごろから蟋蟀小三郎に目をつけており、しかも、奉行はこれを機に拝領屋敷の売買問題を明るみに出したいという思惑があってのことであるが、事件は思わぬ方向でうやむやとなり、蟋蟀小三郎は今回もすれすれのところで事なきを得ていく。

 第五話「鬼も目にも涙」は、無理やりに道場の弟子にした悪ガキの姉が嫌な男に無理強いをされていること知った蟋蟀小三郎が、その男から箱訴(目安箱に訴えられる)されたことにからんで、その事件を半次が調べて明らかにしていく話である。

 昨夜はここまで読んだが、作者の佐藤雅美は、公事訴訟の一件を描いた『恵比寿屋喜兵衛手控え』(1993年 講談社)で直木賞を受賞しており、公事訴訟についてはかなり綿密な知識があるので、この作品でもそれが見事に生かされて、昇華された形で物語が展開されている。だから、この「捕物帳」でも、それぞれの訴訟人の姿が蟋蟀小三郎という天衣無縫の人物をとおして詳細に描かれ、リアリティをもっている。それぞれの事件そのものの結末は平易すぎるとこともあるように思われるのだが、半次や蟋蟀小三郎の姿が生き生きとしているし、人間が微妙なバランスの上で生きていることが危うい中を飄々と生きていく蟋蟀小三郎の姿を通して描かれている。

 知識がこういう姿で昇華されて作品の中で生きているのを見るのは本当に楽しいので、このシリーズは、彼がこれまで書いてきたものが凝縮されているようにも思える。知識は、むき出しのままでは、ただの知識としてしか意味を持たないが、人間の中で昇華されて初めて意義をもつ。この作品はそんなことも感じさせる作品である。

 今日は午後から都内で会議が一つある予定だったが、体調がすぐれずに欠席することにした。毎年、この時期はこういうことがあるようになってきた。明日は仙台にまで行かなければならないが、どうだろうか。

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