2010年1月29日金曜日

諸田玲子『山流し、さればこそ』(1)

 昨日の南風の影響で、気温はまだ高いとは言えないが、初春を思わせる日差しが注いでいる。続けている論文の整理も、昨日からようやく大学教員時代に書いたものに着手し始めた。使っていた言葉や概念が難解すぎるきらいはあるが、自分整理の第一歩としてやっていることで、二度とは書けないようにも思える。言語感覚が全く異なって来ているのを感じたりする。

 この2~3年、何でも中途半端に終わっているような気がして、埃をかぶっていたフルートも引っ張り出して吹いてみたが、満足な音が全く出ない。結局、マスターしていなかったということで初歩から始めることにした。継続していないとすぐにだめになるには本物にはなっていないということだろう。S.キルケゴールの「反復」の概念を思い起こしたりする。

 昨夜から諸田玲子『山流し、さればこそ』(2004年 角川書店 2008年 角川文庫)を読んでいる。この作品は、江戸で小さな出世街道を歩んでいた御家人が、それを妬む者たちに足を引っ張られ、いわれなき罪に定められて甲府勝手小普請入りを命じられ、妻と子と下僕を連れて鬱屈した思いで甲府へ赴き、そこで新参者へのいじめや虚無感と向き合いながら、「さればこそ」と、自分の人生を探し出していく物語である。

 「山流し」とは江戸から山地である甲府への左遷であり、勝手小普請組は、特に何もすることがなく、いわば「出口なき無聊」を囲わなければならない。そのやりきれなさを抱きながら人生を閉ざされてしまった主人公の姿は、現代人の姿でもあるだろう。

 諸田玲子は、左遷やいじめといった閉塞状況に置かれた主人公を描くことによって「現代の病」を時代小説の形で展開し、そこで「人が何によって生きるのか」という大きな問題をさりげなく描き、逆境の中でこそ見えてくるものがあることを示す。

 「笛吹川を渡ったところで雨がきた。
 矢木沢数馬は菅笠の縁を持ち上げ、にわかに明るさの失せた空を眺めた。かなたにあったはずの雨雲が思わぬ速さで迫り、今や頭上をおおっている」(文庫版 7ページ)

 という書き出しが、主人公の状況そのものを表わす優れた書き出しになっている。文学者としての諸田玲子の成熟度を示す絶妙な書き出しであり、思わずうなってしまう。

 まだ読み始めたばかりで、最近は夜もすることが多くなってなかなか進まないが、続きは今夜にでも読もう。今日は散策日和ではある。

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