薄墨を流したような雲が広がって流れていく。午後からは雨の予報も出ているが、洗濯物がたまってしまっているので朝から洗濯機を回した。そろそろ散髪もしなければあまりにひどい状態になっている。
仙台までの往復で佐藤雅美『百助嘘八百物語』(2000年 講談社 2004年 講談社文庫)を読んだ。金もないし能力もない、うだつの上がらない鳶人足で日雇稼ぎをしている「辰次」という青年が腹痛に苦しむ「百助」という老人を助けたことから、この老人の指示に従って江戸から長崎、そして大坂で一攫千金を夢見て詐欺まがいの行為をしながら、ついに大阪の米相場で大金を手にするまでを描いた痛快な作品である。
作者の佐藤雅美は、江戸時代の市場システムと社会構造、そして「金」で動く人間の心理に対する明快な洞察を背景としてもっているので、一獲千金を得る夢物語にもかかわらずリアリティをもった作品になっている。
「辰次」に助けられた「百助」は、実は大阪の大手の両替商の別家の息子だったのだが、米相場に手を出し、失敗したために大阪所払となり、江戸へ出てくる途中で美貌の女雲助から持ち金を盗られ、一文なしで日雇仕事をしていたが、「辰次」と出会うことによって、まず、無尽講でいかさまをして大金を作り、次にそれを元手に金儲けばかりを企む札差し(今で言えば金融機関)の「儲け心」を利用してさらに大金を稼ぎ、大名家の国替えにからむ経済変動を利用したり、両替商と飛脚問屋(今で言えば運送会社)が企んだ詐欺事件を暴いてその上前を強請り取ったり、大名家の家督相続に絡む御家騒動の真相をつかんで城代家老を強請ったりして大金を稼いでいく。
また為替相場で、銭座(銀行)の企みを暴いて大儲けをしたかと思うと、長崎まで出かけて賄賂で肥っていた長崎奉行の家老と悪徳商人を脅して大金をせしめる。そして、ついに大阪での米相場に乗り込み、見事に数万両もの金を稼ぐのである。
「百助」が大金をせしめていくのは、いずれも強欲な商人や自分の利のために企みを謀る武家であり、表には出せない金であって、そういう「ゼニの種」を探して、それをかすめ取っていく手腕と知恵を働かせ、作戦を練り、痛快に振る舞っていく。ただ、最後の大勝負と出た米相場では、うだつの上がらない鳶人足であった「辰次」が自分にとっての「福の神」であると信じる心と「天災による米相場の上昇」という神頼みである。こうしたところが、知恵と行動力をもち合わせている「百助」という老人の人間味を作って、「辰次」との関係や彼に仕えていく浪人たちや商家の下働きや手代などの関係を豊かなものにしている。
「ゼニ儲けを夢み、ゼニがすべて」ではあるが、こうした人情味なしには「ゼニは働かない」。百助の機敏がそれを生かしていくのである。商品相場で金儲けを企む小説としては松本清張の『告訴せず』(1974年 光文社)や企業小説を描いている清水一行という人の作品などがあるが、佐藤雅美の『百助嘘八百物語』は、人情味あふれる物語になっている。
人間が貨幣経済を生みだして以来、人間は貨幣に支配され、「ゼニがゼニを生む」仕組みを作り上げてそれに翻弄されてきて、経済支配社会を形成しているが、金銭を取り巻く状況は現代も少しも変りなく、そこではシビアな物質主義が横行する。それを利用し、それに立ち向かう「百助」が、最後が「信じる心と神頼み」であるというのも、あまりにうまくいきすぎて「夢物語」ではあるが、いい。そして、「世の中はゼニでっせ」と言い切るところが、胡散臭くなくていい。現実には、「金は儲けようと思わないと儲けることができないが、金儲けを企むものは必ず人生を失う」ことも事実ではある。
本書の文末、
「二万両の金とお美津・新太郎母子(「辰次」が貧にあえぐ母子と知り合い、これを助け、思いを寄せる母子)――。
夢だろうと辰次は思った。ほっぺたをつねったら、覚めるに違いないとも。つねってみようかと、辰次はほっぺたにそっと手をやったが、覚めたらまずいと引っ込めた。」(文庫版 343ページ)
という結末の言葉が味わい深い。
0 件のコメント:
コメントを投稿