2010年1月26日火曜日

佐藤雅美『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末』(2)

 昨日しなかった掃除を朝から初めて、柱や壁まで拭きあげて、一息入れ、午後に出かけなければならない仙台までの新幹線の時刻を調べ、少しの時間があるのでパソコンを開いてこれを書いている。よく晴れた冬の日で、少々寒いが窓を開け放つと気持ちがいい。

 昨夜、佐藤雅美『半次捕物帳 髻塚不首尾一件始末』を読み終えた。表題作ともなっている第六話「髻塚不首尾一件始末」は、あまり質の良くない町火消しと植木職人の喧嘩に半次が巻き込まれ、危ういところを風鈴狂四郎に助けられたりするが、結局、町火消しがその喧嘩を利用して金集めのために「髻塚」なるものを作って、そのことが当時の林大学頭衡(はやしだいがくのかみ たいら)の知るところとなり、町奉行を通してとがめられることになって、事なきを得ていくという話である。

 「髻」というのは、頭上で頭髪を束ねたもので、ひらたく言えば「ちょんまげ」そのもので、「髻を切る」ことは、本来は生命をかけたことであるか出家することを意味した。町火消しが言いがかりをつけた喧嘩でこれを利用して、塚や記念碑を作り、法要を営むことで商家から多額の御布施をもらおうと画策したのである。

 ここには、当時の町火消しの置かれた状況や彼らが何で生計を立てていたかがきちんとした背景となっており、生きるためにはあの手この手を考えなければならない事情は現代も同じで、そうした作者の生活経済に対する感覚が江戸の市井を生き延びていく人々の姿に反映されている。

 一方、物語の方は、「第一話」で蟋蟀小三郎と風鈴狂四郎によって煮え湯を飲まされた大名が二人を立ち会わせるために画策して江戸城吹上御殿での「御前試合」なるものを計画し、功名を考える蟋蟀小三郎と再仕官によって国元で貧しい暮らしをしている母との暮らしを考える風鈴狂四郎が、共に、その「御前試合」の計略を知りながらも、その試合に出ていくことを決心していくという展開を見せる。

 第七話「小三郎岡惚れのとばっちり」は、「第五話」で登場した蟋蟀小三郎に無理やり弟子にされた男の姉に、女好きの小三郎が「岡惚れ」し、その姉に起こっている縁談の相手を調べてくれるように半次に依頼する。半次が調べていくと、姉の縁談相手のもとの雇い主が、旗本家の養子縁組によって金銭をだまし取っていたことが判明し、それを恐れた雇い主が縁談相手を殺すという事件の顛末が描かれていく。

 第八話「命あっての物種」は、いよいよ「御前試合」が開催されることになり、それに出場する一組の武芸者が互いに遺恨を抱くものであり、「御前試合」が「遺恨試合」となって、ついに途中で取りやめになるという出来事を描いたもので、当時(家斉の時代)におかれていた武芸者の顛末が描き出されていく。風鈴狂四郎と蟋蟀小三郎は、結局は立ち会うことはなかったが、風鈴狂四郎は、その腕が見込まれ、再仕官して国元に変えるし、蟋蟀小三郎は「何事も命あっての物種」と思っていく。

 こうした八話の連作であるが、作者は、人が生きる上で不可欠な経済、つまり金(ゼニ)で人間が生きている姿を、それぞれ、町火消しや浪人、武芸者、そしていうまでもなく岡っ引き、博徒の事情を描き出すことで、より現実的な人間の姿を描いており、作品のリアリティということからいえば、まさにリアリティにあふれた、しかも娯楽味の大きい作品に仕上げている。
 それに、描き出される主人公の半次や蟋蟀小三郎、風鈴狂四郎といった人物にも味があって、それぞれの立場は異なっているが、物事に捕らわれずに飄々と自分の生き方をしている姿は、「金」を中心に動くとはいえ、読んでいてすがすがしくさえある。

 今日はこれから新幹線で、また別の佐藤雅美の作品を読もうと思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿