2010年9月4日土曜日

宮部みゆき『孤宿の人(上・下)』(2)

 今日もうだるような暑さが続いている。汗を流すのは嫌いではないが、早朝から熱い日差しが注ぐので、こうも長く続くとうんざりしてしまう。あまり意欲もわかないのだが、今朝は立て続けにコーヒーを2杯飲んで、目を覚まし、たまっている仕事を片付け始めた。

 さて、宮部みゆき『孤宿の人』の続きであるが、あまり余計なことは書かずに、「ほう」の運命を辿ることにしよう。

 「ほう」は、鬼だ、悪霊だと恐れられている「加賀様」のところに下働きの下女として行くことになったが、その時の様子の一つが次のように書かれている。

 「金居さま(井上家の用人)は、ただほうをこざっぱりと着替えさせるためだけに待っておられたのだった。ついでに、ほうの手荷物を検めて、着古したものをすべて捨て、新しいのを包んでくださった。・・・
 新しい着物は嬉しいものだけれど、捨てられてしまった古着は、琴江さまがくださったものだから、惜しかった。拾って持って行きたかったけれど、どこに捨てられたのかも知らないし、そんなことが言い出せる様子でもなかった」(文庫版上巻 338ページ)

 着古して捨てられてしまうようなものだが、自分を優しく包んでくれた琴江さまがくださったものだから、それを惜しむ。そういう細かな表現で「ほう」というこのいたいけで運命に翻弄されながらも律儀で健気に一所懸命生きている少女の姿が浮かび上がって来る。

 「涸滝へ行くのは嫌だった。
  それでも、おあんさん(宇佐)は追い払われてしまったし、泣いていたし、しずさん(井上家の女中)は怒っていたし、舷州先生はほうが奉公をすることを望んでおられるのだし、これは断りようがないことだとおあんさんが言っていたし、だからほうは行くのだ。」(文庫版上巻 349ページ)

 「ほう」の行く末を案じる宇佐や周囲の人々の思いを感じつつ、「ほう」はひたすら自分の運命の中を歩んでいく。恐れられていた涸滝の牢屋敷で、小さな小屋をあてがわれて、「ほう」は懸命に下女として働く。牢屋敷は厳しい監視の下に置かれている。だが、その中でも「ほう」に親切にしてくれる唯一の若い牢役人の「石野さま」に接し、その石野さまが人目を盗んで「ほう」に饅頭を食べさせる場面がある。

 「ほうは石野さまから離れすぎず、近づきすぎないところを選んで、膝をそろえて地べたに座った。紙包みを膝に乗せ、両手で饅頭を持って口に運んだ。久しぶりに食べる甘いものは、とろけるほどに美味しい。」(文庫版上巻364ページ)

 地べたに膝をそろえて座り、両手で饅頭をもって口にして、久しぶりに食べる甘いものを美味しいと思う。有難いと思う。こういうところに、この少女が身につけてきたもののすべてがよく表されている。こういう場面でも、その姿を思い浮かべるだけで「ほう」という一人の少女が歩んできた姿があって、感涙を禁じ得ない。

 そして、涸滝の牢屋敷の小さな小屋で「ほう」は下女として日々を過ごしていく。

 「その夜は夢を見た。夢の中のほうは井上家にいて、琴江さまもいらした。啓一郎先生も舷州先生も出てきた。どうしてかわからないけれどおあんさんも井上のお家にいて、ほうと一緒に働いている。
 二人はお揃いの着物を着ていた。
 ―――おあんさん、もうどこにも行かないでいいですか。ずっと一緒におあんさんと暮らせますか。
 ―――うん、ずっと一緒だよ。
 ああよかった、嬉しい。そこで目が覚めた。
 月のない夜だった。星明かりがうっすらと、小屋の羽目板の隙間から忍び込む」(文庫版下巻 58-59ページ)。

 生まれて初めて自分を優しく愛おしんでくれた琴江さまが亡くなり、しばらくの間だったが、おあんさん(宇佐)と暮らした日々が、「ほう」にとって唯一の拠り所であり救いだった。「おあんさん、もうどこにも行かなくていいですか。ずっと一緒におあんさんと暮らせますか」その「ほう」のささやかな心底の願いは、しかし、決してかなうことがなかった。「ほう」はひとりぼっちで、小屋の板目から差し込む星明かりを見る。

 そして、その夜、屋根の上にうごめく「加賀様」に送られてきた刺客を見、怖くなって床下に逃げ込んで、行ってはならないといわれていた奥座敷の「加賀さま」の部屋に出てしまう。そのため、こうしたごたごたを隠蔽しようとする藩の要職によって亡き者として殺されようとする。藩の中枢に関係していた井上家の舷州先生が必死に、「この先、ほうが何の障りになるとおっしゃる?あれは夢だ、もう忘れろ、二度と口にするなと言い聞かせれば、この子はそれに従いましょう」と言って、「ほう」をかばおうとするが、「あてにはできぬ。この女中の頭のなかには、藁屑が詰まっておるようなものではないか。いつ誰に、どんな不用意なことを漏らすかわかったものではない」と涸滝の屋敷の責任を負う牢番頭は言う。「ほう」の命は風前の灯火としてさらされてしまうのである。

 だが、刺客騒動の中で直接「ほう」に出会った「加賀様」がもう一度「ほうに会いたい」と言い出されたことで救われていく。無知ではあるが、かけがえのない「ほう」の無心さが、そのひたむきな健気さが「ほう」を救いへと導き、「ほう」は再び下女として奉公するかたわら、今度は「加賀様」から手習いや算盤を習うようになっていくのである。

 やがて、丸海の人々から鬼だ、悪霊だと恐れられた「加賀様」は「ほう」との触れ合いをしていく中で、「ほう」に、お前の名は「方」だ、と教えられる。それは屋敷で「ほう」に親切にしてくれた石野さまが屋敷で起こった不祥事の責任を取って詰め腹を切らされたことを知り、「ほう」が涙をぽろぽろ流して悲しみに沈んだ時のことだった。「加賀様」は「ほう」に「泣くな。泣くくらいなら。朝晩、石野に親切にしてもらったことを思い出し、感謝することだ」と言って、「今日は、お前の名を教える」と切り出されてのことだった。

 この「加賀様」の言葉も、後に、自分に優しく接してくれた大切な人のすべてを失った「ほう」の生き方にとって重要なものとなってくる。「ほう」は恩を深く感謝する律儀な女の子なのである。その「ほう」に「加賀様」は一つの文字を教える。

 「この字は“ほう”と読む。方向、方角を意味する文字だ。おまえは阿呆のほうではなく、今日からは方角のほうだ」
 「どうしてで、ございますか」
「これまでのおまえは、己が何処にいるのか、何処へ行こうとしているのか、何処へ行くべきなのか、まったく知らぬ者であった。なるほどそれは阿呆のほうだ。が、今のおまえは、己が何処にいるか、何処へ行くのか知っている。だから、この“方”の字を当てる」(文庫版下巻 303ページ)

 この名前の意味はやがてわかる。こうして、「ほう」は、人々から悪鬼のようにして恐れられる「加賀様」から、人としての教育を受けていく。「ほう」は、どこまでも素直でまっすぐで、他の人がどんなに言おうとも、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分で触れたことを心にとめ、「加賀様」からまっすぐに教えを受けていく。

 だが、藩内の町の方はそうはいかない。山手の涸滝に悪鬼とも悪霊とも着かぬ存在があり、不吉な噂が横行しているかのように祟りとも思える夏の流行病が蔓延し、雷による大被害が起こり、不穏な空気に満ちて、例年にない雷のために漁に出られずすさんだ漁師たちと町方のあいだに収拾の着かないような暴動が起こり、火事が起こり、それらが全部「加賀様」のせいだという風評に満ちていくのである。藩は、やっかい払いも含めて、その悪の根源である「加賀様」と、もう一つの悪である雷害をもたらした雷獣とが闘い、「加賀様」が自らの身を挺して雷獣をやっつけ、それによって「加賀様」が神になったのだということで幕府への言い訳も立つことになるように画策する。

 「加賀様」は、それらを全部承知の上で、自ら死地に立つが、事が起こったときには「ほう」に逃げるように命じるのである。そして、人々に禍をもたらした雷の最後ともいうべき夏の終わりを告げる大雷が屋敷に落ち、屋敷は火に包まれる。藩の画策で雷が落ちるように仕掛けられていたのである。

 「ほう」は、「加賀様」が言われたように屋敷を逃げる。大好きなおあんさんの元へ。だが、「ほう」が逃げのびたとき、事柄の真相を知っていった宇佐は、暴動と火事の後で、人助けに森に出かけた時に起こった雷で倒れた木の下敷きになって死んでしまう。

 「ほう」は死を迎えている宇佐の枕辺に座って、宇佐の手を握り、しきりに「帰ってきました、おあんさん」と繰り返す。「おあんさん、ほうは加賀様に字を教わりました。・・・ほうがわからないことを、加賀様は何でも教えてくださいました。あなんさん、加賀様はお優しい方でした。おあんさんと同じくらい、ほうに優しくしてくださいました。涸滝は怖いところではありませんでした。加賀様は怖い鬼ではありませんでした。ほうは、加賀様とお別れするのが淋しかった。でもこうしておあんさんのところに帰ってこられたから、もう淋しいなんて申しません。おあんさん、またいっしょに暮らせます」(文庫版下巻 499-500ページ)と語りかけるのである。

 宇佐はその「ほう」の語りかけの中で息を引き取る。そして、自分には優しかった加賀様も死んだと聞いて、「ほう」は廊下の片隅で、手を顔に当て、一人で泣くのである。「ほう」の廻りで、本当に心優しく親切にしてくれた人のすべてを「ほう」は失う。

 行き場のない「ほう」は、舷州先生や啓一郎先生の配慮で、井上家で元のように奉公を始める。そしてしばらくして、加賀様が亡くなる前に、「ほう」の名前としてしたためられたお手本の一枚の紙をもらう。そこには「宝」という字が書かれていた。

 「何という字かわからぬか。これはなーーー」
たからという字だよ。
 「たからーーー」
 「そうだ。この世の大切なもの、尊いものを表す言葉だ。この字ひとつのなかに、そのすべてが込められている」
 ほうはお手本をそっと手に取り、顔を近づけてしっかりと見つめた。
 「そしてこの字は、ほうとも読む」
 「ほう」
 「そうだ。だからおまえの名だ。加賀殿に賜った、おまえの名前だ」
この世の大切なもの。尊いもの。
 「それは、おまえの命が宝だということだ。おまえはよくお仕えした。よく奉公をした。加賀殿はおまえにその名をくださり、おまえを褒めてくださったのだ」
 今日からおまえは、宝のほうだ。(文庫版下巻 506ページ)

 運命に翻弄されながらも、健気に生きてきた「ほう」は、「阿呆」の「呆」から「方角」の「方」となり、そして「宝」となったのである。「ほう」は大好きだったおあんさんが眠る墓を訪れ、加賀様が祀られている杜に、「おはようございます」と挨拶をし、四国の丸海で尊い「宝」のように生きていく。丸海の海は穏やかに憩っている。

 もちろん、これだけの長編には当然のことながら、「ほう」に「おあんさん」と慕われるもうひとりの主人公である宇佐の姿は言うまでもなく、藩の中枢を知る井上舷州と啓一郎の姿、宇佐と共に事件の探索をして死を迎える同心や、屋敷不備の責任を取って切腹させられる「ほう」に親切な牢番士の「石野さま」、宇佐の親代わりのようにして面倒を見てきた引手の親分など実に多くの登場人物たちの姿が丹念に描かれ、まるで、丸海藩という藩にいて、それらの人々が生き生きと動いているように描き出されている。

 宮部みゆきというひとりの作家の優れた構想力と文章を含めた才能がいかんなく発揮された傑作で、本当に深い感動を呼び起こしてくれる作品であった。読むことができたことをとても嬉しく思わせられた書物で、この暑さの続く夏の一番の収穫だった。いまでも「ほう」の姿を思い浮かべると涙がこぼれてくる。そして、あれこれと五月蠅い注文をつけたがる人々の中で、独り、この作品の主人公「ほう」の姿を思い浮かべている。

1 件のコメント:

  1. 昨年アップされているブログですが、
    「孤宿の人」「感想」で検索して、
    本文を読ませて頂く事になりました。

    実は私も「孤宿の人」を最近読み終えて、
    非常に強い感動を覚えた一人です。

    小副川さんのこのブログ内容を見て、
    様々な場面が蘇り、
    良い小説を読む事の喜びと同時に、
    その感動を共有出来る時代にある事の幸せを、
    改めて感じたりしてます。

    本文は興味深く、又、感動を思い出しながら、
    拝見させて頂きました。

    他にも多くの小説に関するレビューがあるようですので、
    これから、楽しみに、一つ一つ、読ませて頂き、
    又、未読で面白そうなものは手に取りたいと考えたりしてます。

    あまりにも素晴らしいレビューだったので、
    思わずコメントしてしまいました。

    今後も楽しみにしております。

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