2010年9月16日木曜日

宇江佐真理『ひとつ灯せ』

 高気圧の狭間に低気圧が発生し、北からの寒気の流れ込みもあって、昨日から秋風が吹き、富士山の裾野の御殿場高原は肌寒いほどだったし、ここでも、朝から雨が降って先日までの暑さが嘘のように去って、今日は白い秋の始まりを明瞭に感じる日になった。

 御殿場では、ポスト・モダンの諸現象について思いを寄せていたりした。友人はポスト・モダンの時代に入っているといい、わたしは、その傾向のいくつかは見られるが、まだポストではなく、モダンの終わり近くにいると考え、あまり時代区分に意味はないにしても、時代と状況の把握の仕方が面白いと思っていた。

 それはともかく、ずいぶん以前に読んだものではあるが、御殿場にもっていた書物の一冊である宇江佐真理『ひとつ灯せ 大江戸怪奇譚』(2006年 徳間書店)を再読した。読み始めて、ああ、これは以前に読んだと気がついたが、再読してもそれなりに楽しめるものであったし、以前に読んだ時には、これを記していなかったので、改めて記すことにしたのである。

 宇江佐真理の書物をもっていったのは、彼女の『雷桜』が映画化されて、近々公開されるとのニュースを聞いたからで、『雷桜』は、野性的な自然環境の中で育った少女と武家社会でがんじがらめになった武士との恋物語ではあるが、「自分は自分以外の何ものでもない」という近代的自我と実存意識が置かれている閉塞的な環境から人間を救い出していく物語でもある。

 実存的自己意識は救済の論理でもある。そして、愛はいつでも実存的であり、実存的であることによって、はじめて人間の自己を回復させていくのだから、江戸時代の初期頃にこうした実存的自我意識を人間が持つことができたのかどうかはともかくとして、それを悲恋物語の中で描きだした『雷桜』は感動的な物語である。宇江佐真理の作品は、そうした自己自身であることを自覚していく人間の物語が多い。

 再び、それはともかくとして、『ひとつ灯せ』は、老いと死を意識し始めた料理屋の隠居「平野屋伊兵衛」が、死の病から回復した後に、友人の勧めでこの世の不思議を語り合う会に出るようになり、その会に集う人々やその会での話しを元にした出来事に出会ながら、死んでいくことの恐ろしさや意味、それを克服していく姿を描いたものである。

 巻末の参考文献に木原浩勝・中山市朗『新耳袋-現代百物語-第六夜』と三田村鳶魚『江戸雑録』が挙げられているので、そうしたところから取られた怪奇譚をもとにして、「死」を巡る人の思いが、柔らかな展開で、しかも、無理なく死を悟っていく姿として描き出されていく。

 ただ、宇江佐真理の作品にしては、登場人物たちの個性が薄いような気がするし、江戸時代の人々が狐憑きや悪霊などを想像以上に信じる信心深い感性を持っていたとはいえ、もう少し咀嚼されても良かったのではないかと思ったりもした。しかし、彼女の文体は、わたしは本当に好きで、さらりとした文章ににこめられている情感の深さに、いつもながら感服する。

 外壁補修工事のために窓も何もかもが覆われているためかも知れないし、この1~2週間は出かけることが多かったので、今日は、いささか疲労感を感じている。傘をさして図書館にでも出かけよう。

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