彼岸の中日から天候が激変し、むしろ肌寒さを感じる日々となり、雨が降り続いている。今日も薄灰色の厚い雲に覆われて雨がしどけなく降っている。
先日来、海音寺潮五郎『列藩騒動禄』(1965-1966年 新潮社 新装版 講談社文庫)の上巻を読み進めているが、自治区とも言うべき江戸時代の大名家に起こったお家騒動の顛末には、史伝として記述されておるだけに、政治や社会のみならず自己の正義と欲のために策略を巡らす人間のあり方を考える上でも相当なものがあり、そう簡単には読み進まない。
元々の新潮社版は、海音寺潮五郎が64-65歳の時に2年間かけて書かれた3巻ものであるが、講談社文庫の新装版は上下2巻で、上巻には、「島津騒動」、「伊達騒動」、「黒田騒動」、「加賀騒動」、「秋田騒動」、「越前騒動」、「越後騒動」の7つの藩での事件が取り上げられ、下巻では「仙石騒動」、「生駒騒動」、「楡山騒動」、「宇都宮騒動」、「阿波騒動」の5つのお家騒動が取り上げられている。このうちの上巻で取り上げれれているお家騒動は、他でも多くの文学作品になっており、比較的著名であるが、「島津騒動」が最初に取り上げられているのは、海音寺潮五郎が鹿児島(薩摩藩)の出身であり、西郷隆盛を生涯のテーマとしていたことによるだろうし、「伊達騒動」は、山本周五郎の『樅の木は残った』がNHKでテレビドラマ化されて放映され、伊達騒動の中での一つの役割を果たした原田甲斐をめぐっての史実上の問題を感じたからだろう。
この書物を読み出したのには特別の動機があるわけではないが、人間や事件に対する評価というものが、相対的な社会や時代の中で判断されるだけであり、普遍的な意味をもたないものに過ぎないと思っているので、海音寺潮五郎が善悪の判断をつけずに史実を辿っていく姿について、もう一度具体的な藩の政治を巡る事件を読んで考えたいと思っていたことと、それぞれの「騒動」について少し正確な知識を得ようと思ったからである。特に、領土問題を巡っての日中関係の悪化が重く心にあるので、一つの事柄をそれぞれの立場でどのように判断し、どのような行動に出るのかを人間の側から見てみようとも思うからである。
それにしても、最初の「島津騒動」についての「江戸時代の大名の家は、早晩貧乏に陥らなければならない仕組みになっていた。・・・太平がつづけば、人間の生活が向上し、ぜい沢になるのは自然の勢いだ。大名の家は収入のふやしようがなく、あるいはふやしてもそう大はばにふやすことは出来ないから、貧乏になるよりほかはない」(新装版 文庫上巻 9ページ)という書き出しからして、名文の域に達していると思う。
「島津騒動」は、直接的には幕末のころの名君として名高い島津斉彬(なりあきら)の家督相続と、斉彬の父斉興(なりおき)の側室であったお由羅を中心とした由羅の子久光(ひさみつ)の家督相続を巡っての争いをさすが、なかなか家督を譲らずに院政を敷いた斉興の父重豪(しげひで)と、同じように家督をゆずらなかった斉興の両方の執着、由羅の執着などが生み出したものである。
作者は斉彬が毒殺されたとの説を採るが、わたしもそう思っている。先年、鹿児島を訪れて斉彬の業績をつぶさに見たが、その事業のひとつひとつは真に剛胆で、彼に師事した西郷隆盛らの思いを肌で感じたことがある。もし、斉彬が志の途中で死ななければ、明治維新は起きなかったかも知れないし、起きたとしてももっと根本的に異なっていたものになっていたことは疑いえない。しかし、歴史とは皮肉なもので、斉彬が毒殺されたと信じ、西郷隆盛らが藩主の久光とそりがあわなかったということが、明治維新を推進した力になっていたのである。
西郷隆盛という人は、おそらく西南戦争のころの晩年は、もう国家や政治といったものにほとんど関心がなかったのではないかと思うし、彼の「優しさ」だけが西南戦争へと繋がっていったようにわたしは思っている。
こういうことを書き始めるときりがないが、七十七万石という薩摩の大藩での人間模様と現状の打開策を巡っての争いには、どちらが正義ということができないものがあって、人間の器や宿命のようなものを感じるのである。
「伊達騒動」の国家老原田甲斐については、作者は、ただの家柄家老であり、「大変なやり手だったように言う人が昔からあるが、実は大した人物ではない」(同書 134ページ)という。しかし、史実は別にして原田甲斐を主人公にした山本周五郎の『樅の木は残った』は感動的な作品である。山本周五郎は、原田甲斐に救われたひとりの少女の姿の視点で、人間の愛情を切々と歌い上げている。
伊達騒動は、仙台伊達家の三代目藩主伊達綱宗(つなむね)が吉原通いの遊興を時の老中酒井雅楽頭(うたのかみ)から咎められて無理矢理に2歳の亀千代(伊達綱村)に譲らさせられ、その後見として伊達正宗の十男で綱宗の叔父であった伊達兵部宗勝(むねかつ)が立てられ、独裁的な政治を強いたことから他の伊達家の者たちや家臣らの反乱にあった事件である。
作者は伊達騒動をまとめて、「要するに、この騒動は伊達家の老臣らに人物がいず、目付ごときに引きまわされて家中を和熟して統制することが出来ず、藩中の不平不満を押さえつけようとして無闇に権力と刑罰を使ったというケースだ。言ってみれば、当時の伊達家中は、配色濃くなった頃からの東条内閣下の日本のようなものだったのだ」(同書 164-165ページ)と言う。
これは、ことによると日中関係が緊迫している状態の現在の日本の政治状況となるかも知れないと思ったりもする一文ではある。
今日はここまでとしておこう。それにしても肌寒い。この急激な気温の低下はいったい何だろうと思う。暖房が恋しく感じないでもない。
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