2010年9月9日木曜日

山本一力『赤絵の桜 損料屋喜八郎始末控え』

 昨日襲来した台風の影響で、暑さが一掃され、今日は曇った涼しい日となっている。6日(月)から8日(水)まで、研修で沖縄に行き、米軍の基地問題で揺れる辺野古や普天間、平和祈念公園などを訪ねてきた。「美ら海水族館」で偶然に友人と会うこともあり、気の合う仲間同士だったので、日差しの強さと暑さにまいりながらも、なかなかの小旅行となった。沖縄の歴史と平和・基地問題はまだ未整理で、これから購入してきた沖縄戦の証言集などを読んで検討しようと思っている。

 沖縄に出かける前に、山本一力『赤絵の桜 損料屋喜八郎始末控え』(2005年 文藝春秋社)を読んだ。これは、巻末の広告に『損料屋喜八郎始末控え』(2000年 文藝春秋社)というのがあるので、その続編であり、この類の書物には珍しく前作を読まないと登場人物の詳細がよくわからないが、主人公の喜八郎というのは、元同心で、上司の不始末の責任を取って同心を辞め、「損料屋」という、今で言えばレンタルショップのようなものを経営しながら、札差などの江戸の金融業らの裏を張ってコンサルタントとしての金融に絡む事件の探索などをしていく顛末を描いたものである。

 江戸の金融業に絡む裏も表も、それぞれの札差の人物像を中心にして、簡明な淡々とした文章で描き出されていくが、事件の顛末が淡々と述べられる分、それぞれの人物像が、前回読んだ『だいこん』のようには掘り下げられていかないような気がした。最初に出された『損料屋喜八郎始末控え』を先に読むと、また違った印象をもつのかもしれないが。

 事件は、1789年(寛政元年)に出された棄損令(旗本や御家人などの借金を放棄させる令)によってもたらされた江戸経済の混乱と、それによる札差たちの没落、庶民の暮らしの圧迫などを背景として語られるもので、いかに思いつきで無策な政治が、末端にいくほど人々を苦しめたかが喜八郎というきっぷも腕も立つ主人公の活躍によって描き出されている。

 江戸時代の経済状況については佐藤雅美が詳しく文献に当たっているが、山本一力は、彼らしく若干人情がらみで本書を展開している。どこか「男気」と言われるようなものの展開も、喜八郎の恋も描き出されている。しかし、何となく型どおりという気もしないではない。もちろん、多様な作品世界を生み出していると言えるだろうが。

 ただ、その前に読んだ宮部みゆきの『孤宿の人』があまりにも感銘深かったので、わたし自身の内的状況が「ものたりなさ」を感じただけかも知れない。この作品だけでは何とも言えないので、彼の作品では直木賞を受賞している『あかね空』を読んで、彼がどういう視点で人間を描いているのかをもう少し見て見たい気がする。

 三日も留守をすると、仕事もしなければならないことも、何から手をつけるべきかと考えるほど溜まる。あちらこちらへの連絡事項も処理する必要があるが、とりあえずは、洗濯と買い物いう日常生活のことからだろう。

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