2011年2月5日土曜日

井川香四郎『御船手奉行うたかた日記 風の舟唄』

 立春の声を聞いて、日中は少し春を感じさせる陽気になって梅がちらほらと咲き始めている。寒さが厳しい中で清楚な花をつける一重の白梅が好きで、枝垂れ梅を鉢植えにしていたのだが、我が家の梅はなかなか花をつけてくれない。植え替えたり肥料をやったりする手入れを怠ったせいだろう。

 昨日、図書館に行って目についた井川香四郎『船手奉行うたかた日記 風の舟唄』(2010年 幻冬舎時代小説文庫)を借りてきて読んだ。

 「船手奉行」もしくは「船奉行」は、江戸時代の徳川幕府では「船手頭」と呼ばれ、元々は徳川の水軍で、軍艦の管理と海上輸送の任についていた。しかし、太平が続く中で水軍としての役割がなくなり、たとえば世襲が認められていた船手頭の筆頭である向井家は、将軍が乗船する御召船の管理・運営などの役職をしていた。船手頭の下には、普通は船手同心30名、船頭などの水主50人がつけられており、海上輸送の荷改めなども船奉行の管轄であった。もちろん、各藩にも船手奉行(船奉行)が置かれていたが、組織構造と役割は概ね幕府の組織を踏襲したものとなっていった。

 江戸は河川も多く、堀割などの水路が発達し、現在のベネチア以上の海上都市でもあり、水路を利用した輸送手段が活発に取られていたので、船奉行の役割は重要であったが、太平が続く中で荷改めなどもほとんど形骸化し、船手同心の質も悪く、町奉行所の同心よりも下位に見られていた。下位の御船手は囚人の海上輸送などにも携わっていたので、「不浄役人」と蔑まれたりもした。

 こうした船手同心に着目し、それを主人公に設定した作者の着想はなかなかのもので、しかも、純真で正義感が強く、いささか青臭い青年が新人同心としてそれまでの因習を破りながら、その真っ直ぐさを発揮して事件に当たっていき、徐々に成長していく姿として物語を展開しているので、シリーズ物としての妙味があると言えるような気がした。

 巻末に収録されている出版社の広告を見れば、本書はこのシリーズの6作目で、『いのちの絆』(第1作)、『巣立ち雛』(第2作)、『ため息橋』(第3作)、『咲残る』(第4作)、『花涼み』(第5作)に続くものだということがわかるが、前作を全く読んでいないので、作品の登場人物の人間関係が、いまひとつ把握しがたい気がしないでもない。

 本書では「帆、満つる」(第一話)、「にが汐」(第二話)、「せせなげ」(第三話)、「風の舟唄」(第四話)が収められ、豪商の手を借りて幕府の若年寄(幕臣の支配)となった傲慢な大名が花火見物のために幕府御用船を出して船上で宴を催していたところ、地震があって津波を受け、船が転覆しそうになり、傲慢さに業を煮やしていたにも関わらず、護衛を命じられていた主人公の船手同心である早乙女薙左(さおとめ なぎさ)の、何事にも公平で生命を重んじる働きで助けられ、改心していく話(第一話)から始められている。

 第二話「にが汐」は、手柄を焦ったために強盗に女房を殺された岡っ引きが、その復讐のために、その強盗の昔の友人ではあったが何の関係もない男たちを罠に嵌めて復讐心を満たそうとしていたのを早乙女薙左が、持ち前の正義感と情けで見破っていく話であり、第三話「せせなげ」は、盗んだ金を貧しい者に配っていた「竜宮の辰蔵」と呼ばれる強盗が両替商から大金を盗み出したということで、町方がその犯人を捕らえるが、薙左がよく調べてみると、そこには裏がありそうで、両替商は旗本からの借り入れを断るために贋金を作り、強盗事件をでっちあげようとしたことがわかり、町方もそれに一枚かんで犯人をでっちあげようとしていたことがわかっていく話である。表題の「せせなげ」は小さな溝の下水の流れを表す言葉で、「せせなげ」のようにして生きている人々の側に立って真相を突きとめ、傲慢な町方と渡り合っていく主人公の姿が描かれていくのである。

 第四話「風の舟唄」は、川船で行商をしている子どもが、遊女が監禁されたようにして暮らしていかなければならない「雪蛍」と呼ばれる岡場所の遊女を逃がすことが事件の発端として語られる。遊女は少年の手によって逃れようとするが、追いかけてきた忘八(遊女屋の仕事をしている男衆)に捕まる。しかし、その忘八が殺され、逃げた遊女が犯人として町方に捕らえられてしまうのである。川船で行商をしている子どもと親しかった早乙女薙左は、真相究明に立ち上がり、ついには遊女屋に単身で乗り込んでいく。そしてそこで「竜宮の辰蔵」と呼ばれる強盗もいて、彼が逃れるために火をつけ、それを見逃して「雪蛍」という岡場所を壊滅させていくのである。

 全体的に、船手同心という役職に、真っ直ぐ、持ち前の正義感を発揮しながら取り組んでいく青年と、その青年を温かく見守る船手奉行所の奉行を初めとする古参の同心たちや、彼を気に入っている船頭たちや周囲の人々、町方との対決などが骨格としてあり、第一話では、江戸の町政の要として認められ、また権威づけられている町年寄とその娘「おかよ」が登場し、「おかよ」は早乙女薙左を自分の婿にすると言うほど気に入って、彼を助けていくようになり、その恋のいく末なども織り込まれて、なかなか味のあるものになっている。

 しかし、主人公の早乙女薙左が正義感の塊で直進する姿が受け入れられたり、武術の達人であったり、もののわかった奉行や先輩たちがいて、あるいは反対の傲慢な人間の姿が絵に描いたような傲慢さを発揮したり、薙左が主張する正義や情けも、どこか類型的で深みにかけるような気がしないでもない。

 たとえば、些細なことなのだが、第四話「風の舟唄」でも、逃げて捕らえられた遊女が薙左に、「私はただ、普通の幸せを掴みたかった・・・惚れた人と所帯を持って、可愛い子を儲けて、平凡で、親子水入らずで・・・凪いだ海のように、ゆったりした暮らしの中で、年を重ねて、おばあちゃんになって・・・それだけなのに・・・ぜんぶ逃げちまう」(293ページ)と語るが、苦酸を舐めなければならなかった女性の言葉としては、こういう言葉は作者の勝手な推量による陳腐なお涙ちょうだいの言葉のように思えてしまうのである。

 作者は、テレビ時代劇の「銭形平次」や「暴れん坊将軍」の脚本も手がけているそうだが、一般受けするように作品が構成され、描かれているのが気にならないわけではない。せっかく、御船手という新しい着想だから、もう少し深みが欲しいというのが正直な読後感である。

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