2011年2月28日月曜日

高橋義夫『花輪大八湯守り日記 艶福地獄』

 所用で小田原まで出かけ、一本の紅梅が可憐な花を咲かせているのを目にした。なんだかほっこりしたような光景で、「小さくは小さく咲かん、小さきままに」という言葉を思い出したりした。今日は初春の冷たい雨が降っている。

 帰宅して、高橋義夫『花輪大八湯守り日記 艶福地獄』(2009年 中公文庫)を読んだ。出羽の新庄藩(現:山形県新庄市)で次男の部屋住みであった主人公の花輪大八が、私闘の責任を負う形で勘当され、日本有数の豪雪地帯で知られる山深い肘折温泉(ひじおれおんせん)の湯守りとなり、そこでの人々との交わりを通じて、湯治客などが持ち込む事件などに関わって、時にそれが新庄藩全体を巻き込むものであったりする出来事を解決していく顛末を描いた本書は、シリーズ化されており、これはその三作目の作品である。

 「湯守り」とは、本来、温泉湯治場のお湯の管理をする者のことだが、江戸時代から月山などの登山口で湯治場として知られていた肘折温泉では、入り札(入札)で決められる村役で、温泉場全体を管理する役務として位置づけられていたことから、主人公の花輪大八は、そこで起こるあらゆる事件や揉め事に関与するのである。

 この主人公は、正義感が強くて生一本で、どこか夏目漱石の『坊ちゃん』を思わせるような人物なのだが、父祖伝来の具足術(柔術)を身につけ、無鉄砲なところもあるが「分をわきまえる」ところもあって、温泉郷の人々から親しまれ信頼されていく人物で、池波正太郎が『鬼平犯科帳』で描いた若い頃の長谷川平蔵の姿を彷彿させるところもある。池波正太郎は、長谷川平蔵の若い頃の姿を、善も悪も、酸いも甘いもかみ分ける剛胆な人物として描いているが、この主人公の花輪大八も、そういうところがあるのである。

 本書は、その主人公の花輪大八が湯守りをする肘折温泉の湯治客として、「思庵」という医者に引き連れられた一団の女性たちが訪れ、様々な婦人病の湯治による治療をするところから始まるのだが、夫に淋病を移されて婚家を出てきた女性を連れ戻そうとする出来事などが起こっていく中で、その女性たちの一団の中に新庄藩全体を二分するような城主の跡継ぎとなる子を懐妊した女性がいて、それを巡る争いの顛末を山場として展開したものである。

 そこに、婦人病への無理解や蔑視を抱えて生きなければならなかった女性の姿や山間の湯治場で暮らす人々の姿が盛り込まれ、あるいはまた、武家の次男の悩みや恋模様などもあり、「書き下ろし」のために文章や表現にほんの僅かだが推敲が必要だと思えるところもあるが、しっかりしたリアリティーに裏づけられた作品になっている。だから、主人公と彼を巡る人間模様は、作品が書き進められるうちにさらに深まったものになっているだろうと思われる。

 本書の最後に、湯につかった主人公が湯治客の老人が唄う「大津絵節」の一節を聞く場面が描かれ、
 「げに定めなき 浮雲の 月の光を 見やしゃんせ 晴れては曇り 曇りては 晴れ渡る みな何事も かくあらむ」(295-296ページ)という言葉が記されて終わるが、「晴れ・曇り・雨・嵐」の繰り返される人間模様が「何事もかくあらむ」として描かれたのが、この作品だと言えるかも知れない。

 直木賞受賞作家でもある作者の作品を読むのは、これが初めてのなのだが、江戸が舞台ではなく、地方の湯治場を舞台にした作品は、特に山形にはあまり縁のないわたしにとって、情景の妙味もあって面白く読むことが出来た。

 それにしても肘折温泉は、なかなか風情がある温泉郷らしい。江戸時代はもちろん混浴なのだが、今はどうなのだろう。そこにある露天の石抱温泉は炭酸成分が多くて体が浮くので石を抱いて入ることからこの名があるそうだが、行ってみたい気がする。

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