2011年2月24日木曜日

鳥羽亮『江戸の風花(子連れ侍平十郎)』

 天気が一転して、雨を含んだような重い空が広がっている。夕方から降り出すとの予報が出ている。芽吹き始めた草花にとっては恵みの雨になるだろう。雨を「恵みの雨」と受け取るのか、それとも心身を震わすような「過酷な雨」ととるのかは、その状況や心持ちしだいなのだが、如月の雨はまだ冷たい。

 昨夜は遅くまであることで相談を受けていたのだが、それでも鳥羽亮『江戸の風花(子連れ侍平十郎)』(2004年 双葉社)を一気に読んだ。相談の内容が少し重かっただけに、この作品の明瞭さが一服の清涼剤ともなった。

 内容は、東北のある藩の藩士であり剣の遣い手でもあった長岡平十郎が藩の内紛に絡んで、病んでいた妻の薬代の為に一方の側に与することとなり、その内紛が相手側の勝利で終わったために、上意討ち(主君の命令で討たれること)となり、六歳の娘の「千紗」を連れて江戸まで逃れ、追っ手と貧苦に苦しみながらも、江戸の剣術道場に拾われ、そこで敵対する剣術道場が引き起こす争いと、それに絡んだ追っ手に対峙していくというものである。

 長岡平十郎は、上意討ちとなっても、ただ幼い娘のためだけに生きていこうとする。娘の「千紗」も追われる父親の身を案じ、そういう父親を深く信頼して健気についていこうする。陸奥から江戸までの長い旅程でも、安い木賃宿や荒れ寺に泊まり、愚痴一つ言わずに過酷な逃亡の旅を続ける。追っ手が雇った牢人者が襲ってきた時も、父親の平十郎から「先に行け」と言われるが、遠くまで行かずに路傍に座り込んで父親が来るのをじっと待っている。江戸でも、糊口のために道場破りをする父親の後にじっと従い、汚れきりぼろを纏いながらも泣き言一つ言わずについていく。

 そういう父と娘の深い愛情で、いつしか平十郎は「子連れ侍」と言われるようになり、道場破りで訪れた一刀流の景山信次郎の人柄によって、ようやく景山道場で暮らすことになる。景山信次郎には出戻りの娘の「佳江」がいて、なにくれと「千紗」を可愛がってくれる。だが、景山道場を潰そうと企む別の剣術道場である塚原道場があり、その道場によって門弟が斬り殺される事件が起こる。相手は徒党を組み、奸計を用いて、しかも実戦をくぐり抜けてきた剣の遣い手でもあった。そして、その奸計によって景山信次郎も殺されてしまう。平十郎の追っ手もまた、それをかぎつけ、景山道場を潰そうとする者たちを使って平十郎を討とうとする。

 武士の一分と道場と「佳江」を守るために、長岡平十郎はそれらと対峙し、自ら手傷を負いながらも、「千紗」と「佳江」が待つところに雪の降りしきる中を一歩一歩進みながら歩んでいく。「子どものために生きる、それが自分の生き方だ」ということに徹しようとするのである。

 個人的に、幼い少女や子どもが、自分が与えられた世界で健気に生きている姿が描き出されると、様々な事柄が走馬燈のように思い返されて、感涙を禁じ得ずに涙が棒太のように流れてしまうが、この作品でも、父と子の懸命な姿が伝わってきて、何度もティッシュを使いながら読み進めた。

 それにしても、やはり鳥羽亮の作品には一気に読み進ませる力がある。剣の闘いのシーンは作者が得意とするお定まりのものだが、「子連れ」というのは作者にしては珍しい作品かも知れない。小池一夫の原作で小島剛夕が劇画で描いた『子連れ狼』も、柳生家との対立の話は別にして、親子の情愛の深さがあり、しみじみとした妙味があったが、主人公が連れているのが幼い女の子で、父親の袂を握りしめて眠る姿など、細かな描写が冴えている。

 子どもに苦労をかけている、と言って父親が密かに泪する。最近、二度ほどそういう場面に立ち会ったこともあって、胸に去来するものが多い読後感だった。

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