このところの急激な気温の変化に身体がついていかないで、風邪気味で、だるくて思考力に持続性がないのを感じる。こんな時は、ゆっくりコーヒーでも入れて、SF冒険映画でも見るといいのだろうが、年度末の慌ただしさもあってそうもいかない。そういえば、昨年もちょうど東日本大震災の時に手ひどい風邪をこじらせて、もう駄目かもしれないなどと思っていたことがあるが、今回はそれよりも軽いので大丈夫だと思っている。
昨日も若干の発熱と怠さを覚えていたが、隆慶一郎『隆慶一郎全集7 かくれさと苦界行』(2009年 新潮社)を面白く読んだので、働かない脳細胞のままでも記しておくことにする。
これは、先の『隆慶一郎全集1 吉原御免状』の続編で、1986年(昭和61年)に「週刊新潮」7月十日号から翌年の4月23日号まで連載された作品だから、前作から2年後に書かれたことになる。前作は、江戸の遊郭吉原を山窩(さんか-山の民)の流れをもつ自由の民としての傀儡子(くぐつ-傀儡)の自由を守る砦として描き、徳川家康から「御免状」をもらったいきさつと、その自由を許さない幕閣との争いを、吉原を守る後水尾天皇の落胤である主人公松永誠一郎らと裏柳生である柳生列堂儀仙との死闘として描いたものであった。
本作では、その柳生列堂義仙との死闘に決着がつけられると同時に、吉原を創設した庄司甚右衛門(甚内)の死が描かれている。物語は、寛文3年(1663年)から寛文8年(1668年)の時代を背景としており、この時代の徳川将軍は四代将軍家綱で、老中首座のひとりが本作でも陰謀を画策して自己保身のために吉原を仇敵と狙う酒井忠清であった。酒井忠清は、政治に全く無関心であった家綱を尻目に、権勢をほしいままにして独占欲の強い専横的人物だったといわれている。
江戸時代、政治の中心を担った幕閣に、どうも人品の卑しい人物しか出てこなかったのはなぜだろうか、と思ったりもする。もっとも、身分制度という者は、それがどのような制度であれ人間の人格を育てるというところからは遠くある。身分にあぐらをかき、またそれに固執する人間が輩出してくるからだろう。酒井忠清もそういう人物だった。
それはともかく、本書で「幻斎」として登場する庄司甚右衛門(甚内)は、謎の多い人物で、1575年(天正3年)生まれだといわれるから、もし生きていれば90歳近いわけだが、歴史的には1664年(正保元年)に死去したとされている。しかし、本書では彼が生きて、しかも自由の砦としての吉原を守る要として活躍するのである。
また、本書には荒木又右衛門も登場し、荒木又右衛門は1599年(慶長4年)に生まれ、鳥取の池田家で1642年(寛永19年)に急死をしたと伝えられたが、実際には、1643年(寛永20年)に死んだとの説もある。荒木又右衛門は柳生宗矩に師事したことがあるといわれているが、詳細は不明である。しかし、本書には、この荒木又右衛門が柳生の里に匿われて生きのび、しかも「お館さま」と呼ばれて恐れられる存在であり、老中酒井忠清の陰謀によって危機に瀕した柳生家を守り、またそのために松永誠一郎や幻斎と争うことになって、幻斎との死闘の中で相打ちして死を迎えるという筋立てになっている。本書は、ある意味で、幻斎と荒木又右衛門という二人の武人の死を描くものでもある。
酒井忠清の意を受けて吉原を襲う裏柳生の柳生列堂儀仙は、松永誠一郎との争いで片腕を斬られたが、なお、吉原を狙い続ける。大阪の遊郭と手を結び、江戸で禁制の岡場所を作り、吉原の力を弱めて襲撃する計画を立てたりして、吉原の総名主となった松永誠一郎に私怨を晴らそうとする。だが、柳生新陰流の極意でもある「無刀取り」の争いに敗れ、一命を取り留めて、松永誠一郎の何ものにも捕らわれずあるがままに生きていく姿に感じ、自らの固執や我執を捨てて、仏門に入り生きていく姿を選んでいくのである。我執を捨てた柳生列堂儀仙の姿は、それまでとは全く変わって爽やかである。それが本書の終わりで記されていく。
主人公の松永誠一郎は、自由の砦としての吉原を幻斎らと共に守り、女を食い物にする岡場所を潰すこととも繋がる柳生列堂儀仙との争いを繰り返しながら、「おしゃぶ」との間に子どもができ、幻斎や荒木又右衛門の死を看取りながら、老中酒井忠清の野望を打ち砕いていくのである。
この後、裏柳生に代わって上野寛永寺が幕府の吉原撲滅の手先となり、それと争っていく姿や松永誠一郎や「おしゃぶ」の死までが描かれる予定であったそうだ。特に、上野寛永寺は徳川家の菩提寺であると同時に、第三世貫主が後水尾天皇の第三皇子守澄法親王であり(1654年)、以後ずっと天皇の猶子や皇子が貫主を務めて、朝廷と徳川幕府の関係の要ともなり、御三家に匹敵する権力をもっていたので、そこでの争いが描かれる予定であったのだろう。
本書の物語の展開も、そのひとつひとつの要素や剣術争いなども面白いし、ある種の剣豪小説のような趣を持ちながらも、「自由」と「愛」が描かれているのだが、もうひとつ面白いのは、文中で突然作者の顔が見えるように書かれているところである。特に、争いの中で戦争中の作者の体験や思いが表出し、作者の「勢い」のようなものが感じられた。もちろん、物語としての面白さはいうまでもない。
本書には、このほかに、「吉原遊女の張り」と言われた、いわば「自由」にまつわる短編が「張りの吉原」という題で書かれ、これが収録されている。「自由」を守るために厳格な戒律をもった亡八たちの姿が描き出されるのである。ここでは大阪で太夫であった花扇という女性の眼を通してそれが描かれていく。本書で描き出されるエロティシズムが1980年代のものだなあ、と思ったりもする作品だった。
いずれにしろ、隆慶一郎の作品は、後の時代の剣豪小説などにも大きな影響を与えて、活劇としての時代小説を開花させている作品で、その点でも面白いと思っている。
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