2012年3月19日月曜日

諸田玲子『炎天の雪 上・下』(1)

午後からは雲が広がってしまったが、午前中は初春の光が射していたので、掃除や洗濯などの家事に勤しみ、寝具の取り替えなども少し頑張ってしていた。午後から、かなり精力的に仕事や会議の準備等をしていたが一段落つき、諸田玲子『炎天の雪 上・下』(2010年 集英社)を面白く読んでいたので記しておくことにする。

 これは加賀百万石、金沢を舞台にし、伊達騒動や黒田騒動と並ぶ三大お家騒動と呼ばれた加賀騒動と稀代の大泥棒と言われた白銀屋与左衛門の事件を背景にして、連座(罪を犯した者の家族や親類などすべて罰される)で苦しむ人々を助け出そうとする人間たちと、白銀屋与左衛門の妻となっていた「たみ(本書では多美)」という女性の恋の姿を鮮やかに描き出したものである。

 本書では、いくつかの歴史的事件が大きく絡んでいるので、まず、それらの事柄について簡略に記しておきたい。

 本書の骨格となる背景の一つは、前述した加賀騒動である。加賀騒動には加賀藩の執政をめぐる藩主と重臣たちの軋轢が背景としてあり、加賀前田家は、前田八家と呼ばれる重臣で運営され、特に前田八家の中の本多家は江戸幕府が前田家の力を押さえるために送り込んだ目付でもあったので、藩主は幕府の威光を背景にした本多家を中心にした重臣会議を尊重せざるを得なくなっていた。

 ところが、五代藩主になった前田綱紀(1643-1724年)は、祖父で戦国武将として名をはせた前田利常の影響も大きく、尚武英邁な人物で、新田開発や農政改革、「御小屋」と呼ばれる生活困窮者のためのお救い施設の設置、学問や文芸、細工技術の向上を図り、こうした執政状況を改変して藩主の主導権を確立していった。彼の藩政は80年に渡って続き、「仁政」を敷いた名君と言われていた。

 この綱紀の後を受けて六代藩主となった前田吉徳は、さらに強固に藩主の主導権を確立するために上士以外の出身でも広く人材を登用して重臣の前田八家の力を押さえようとした。特に、足軽の三男に過ぎず、世子であったころの御居間坊主(茶坊主)であった大槻伝蔵の才を見出し、彼を重用するようになったのである。

 大槻伝蔵(1703-1748年)は、吉徳が藩主となったときは、まだ切米50俵の士分に過ぎなかったが、吉徳の側近となり、機転が利く才能豊かな人物で、財政にも明るく、悪化し始めていた加賀藩の財政を立て直すために、倹約令や米相場の改革、大阪の豪商からの借り入れなどを行い、次々とこれを成功させて、加賀藩の財政悪化を食い止める働きをしていった。吉徳はこうした大槻伝蔵の働きを尊重し、加増を行い続けて、ついには前田八家につぐ家格までになった。

 しかし、前田八家を中心とした重臣たちは、藩政を握っていた大槻伝蔵に対して、低い家格から急速に出生していったのは茶坊主あがりで藩主におもねる寵臣だとみなし、快く思ってはいなかった。伝蔵が打ち出した倹約令で門閥層たちは既得権を奪われ、その憎しみは嫉妬も合わさって大槻伝蔵に向けられていたのである。特に、前田八家の中の前田土佐守(前田直躬-まえだ なおみ 1714-1774年)は、次期藩主である前田宗辰を取り込んで大槻伝蔵の排斥運動をしたために吉徳の怒りをかい、罷免されたりしたこともあり、大槻伝蔵を蛇蝎のように嫌っていた。大槻伝蔵自身も、藩主に重用されていることを威光として用いる自尊心の強さがあったので、対立は深かったのである。

 そして、大槻伝蔵を重用して藩政の改革を行っていた吉徳が死去(1745年)したあと、前田直躬を中心にした重臣たちは、証拠も不明なままで不行き届きの嫌疑をかけて大槻伝蔵を讒訴し、閉門蟄居を命じ、さらに、1747年に流刑地であった五箇山に配流した(ちなみに五箇山は、現在は白川郷と共に世界遺産に指定されている)。大槻伝蔵はそこで悲憤のうちに自害した。

 ところが、七代藩主となった前田宗辰がわずか一年半で死去し、異母弟の前田重煕(まえだ しげひろ 1729-1753年)が八代藩主のとき、伝蔵が五箇山に配流されているとき、七代藩主の前田宗辰の生母で重煕の養育をしていた浄珠院の毒殺未遂事件が発覚し、「浅尾」という六代藩主吉徳の娘の女中で中老であった女性の犯行と判明し、取り調べの結果、主犯が吉徳の側室であった真如院で、真如院が実子の前田利和を藩主につけることを画策したというのであった。そして、真如院の居室を捜査したら、大槻伝蔵からの手紙が見つかり、大槻伝蔵と真如院の不義密通ということになって、藩主の毒殺も大槻伝蔵が絡んでいるということになったのである。「浅尾」は、毒蛇の壺に入れられるという無惨な死罪、真如院と利和は閉門となり、大槻一派への粛正は1754年(宝暦4年)まで続いた。

 八代藩主も二十五歳の若年で死亡し(1753年)、九代藩主前田重靖(まえだ しげのぶ 1735-1753年)も十九歳で死亡し、結局、加賀藩主は、五代藩主吉徳の七男前田重教(まえだ しげみち 1741-1786年)が継いだのである。こうした次々と起こった藩主の若死にや藩政を巡るごたごたが続き、大槻一派への粛正も続いていたので、奸計に落とされて理由なく自害に追いやられた大槻伝蔵や真如院の祟りがあると恐れられたりしたのである。1759年(宝暦9年)に起こった未曾有の大火も伝蔵の祟りだと流布されたりした。現在では、この毒殺事件は、前田土佐守直躬ら重臣たちがでっち上げた狂言事件ではなかったかと言われている。哀れなのは、でっちあげによって殺された女中の「浅尾」である。人を虫けらのように扱っていいわけがない。

 ちなみに、この宝暦9年の大火は、本書でも一つの背景となっているので、調べてみると、この大火で金沢の町の半分以上が焼け、城の二の丸を初め城館が焼け落ち、武家屋敷や町屋の全焼が10,508戸、米穀の損失は387,000石以上といわれる。死者は26名で、これは火災の発生が夜ではなかったことが幸いしたといわれている。

 以上が、加賀騒動の大まかなところであるが、本書は、この加賀騒動を直接取り扱ったものではなく、おもに、その粛正が続いた宝暦年間、加賀藩のごたごたが続いて、大槻一派への粛正が激しく行われると同時に失政が続いて人々が苦しんでいた時代に、加賀騒動の連座として苦難に陥った人々の姿が描かれていくのである。

 連座は、犯罪を行った本人だけでなく、その家族や親類まで罰されるという法である。現在の日本では連座は禁止されているが、犯罪者の家族などが社会的に非難されたり、執拗な嫌がらせを受けたり、謝罪が要求されたりする風潮があり、近年、この風潮が激しくなった感もある。それで苦しめられる人の立場から本書は描かれていくのである。

 本書のもう一つの背景となっているのは、加賀の稀代の大泥棒と言われた白銀屋与左衛門の事件で、本書は、むしろこの人物に焦点を当てたものでもあるので、残されている資料は少ないのだが、少し史実的なことを記しておきたい。しかしそれは次回に記すことにしよう。

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