2012年3月26日月曜日

葉室麟『無双の花』(2)

一日のうちで天候が目まぐるしく変わり、朝方は晴れていたのに、今はもう雲が広がっている。気温も低く、まだ寒い。今日は、なんだか疲れを覚えて一日が始まり、体調も思わしくないが、山積みしている仕事を少しでも片づけようと「元気を出す」ことにした。

 改めて、柳川藩の藩祖立花宗茂は、やはり、無類の人物で、策を弄さずに正直で、しかも誰憚ることなく己の生に忠実な人であったと思う。そして、誠実に生きる人間を描き続けている葉室麟がもっとも関心を抱きそうな人物であるに違いなく、『無双の花』は、正室であった誾千代との関係を柱に据えながら、戦国武将たちとの交わりや人生の変転を見事に「義」を貫いて生きる姿を描き出したものである。

 実際の誾千代との関係がどうであったかは別にして、立花宗茂が「義」というよりも「愛」を貫いて生きた姿として本書では描かれていく。誾千代という女性は、見事に「武」を生き抜いた父親の立花道雪の影響もあって、男勝りで、竹を割ったような気質を持ち、常に爽やかで、しかも愛情深い女性だったと言われている。本書は、その誾千代を深い愛情をもつ女性として描く。

 夫である立花宗茂が、豊臣秀吉の家臣として秀吉の推挙のためにやむを得ずに大阪で側室をもったことをきらい、別居していながらも、なお立花宗茂を支える姿から登場し、関ヶ原の合戦で、決して裏切らないという「立花の義」を貫くために敗北を承知の上で西軍につき、破れて柳川に帰ってきた立花宗茂をよく理解していく姿が描き出されているのである。

 関ヶ原の合戦後、柳川に帰ってきた立花宗茂は、敗者として、東軍側についていた黒田如水、加藤清正、そして同じ西軍でありながら徳川家に恭順を示すために身を翻らせた佐賀の鍋島直茂の三方から責められる事になる。秀吉の軍師で智将の誉れの高い黒田如水と猛将の加藤清正だけでも絶体絶命の危機であり、まさに四面楚歌の状態に置かれたのである。

 誾千代は、もともと豊臣秀吉が朝鮮出兵した際に、これは「不義の戦」だと断言していたが、関ヶ原の合戦に際しても、これは「自らの利益だけを図ろうとする者らの闘いでございます。立花は関わらぬ方がよろしかろうと存じます」と語っていたが、宗茂の意をくんで、柳川を失っても、「人に恥じぬ生き方をなされませ」と語るのである。

 この誾千代の凛とした生き方を示すエピソードとして、本書では朝鮮出兵を命じた秀吉が肥前名護屋城におもむいた際に、誾千代の美貌に目をつけて伽を命じようとしたとき、誾千代が秀吉を刺し殺して自分も死ぬつもりである覚悟を示し、そのような秀吉を蔑み、「立花には立花のいたしようがある」と断言したことを記している。秀吉はそのことを恨み、宗茂に側室を設ける画策をしたのだが、宗茂はやむを得ず側室とした女性を、ただまっすぐに愛してしまったのである。別居はそのためであったが、宗茂と誾千代は、互いに互いを認め合う深い絆で結ばれていたのである。誾千代は勇猛な加藤清正の軍勢に女武者を立てて対抗し、これを食い止めるから、宗茂が、襲ってきている鍋島勢と後顧の憂いなく対峙できるように取りはからって行くのである。誾千代は、夫の宗茂のために死を覚悟しているのである。

 決して裏切らない義を貫き、人として恥じぬ姿を貫く立花宗茂が、そういう誾千代を心底愛さないはずがない。宗茂と誾千代の夫婦は、共に、決して人を裏切らずに、恥じないという一つの生き方を貫いていく夫婦として描き出されていくのである。夫婦は、そこで一体である。

 また、宗茂と真田左衞門佐幸村(真田信繁)との交流が描かれ、互いにひとかどの人物として認め合っていく姿が描き出され、人が人を認めるということがどういうことかを描き出す。共に人間を見る目を持つ人間どうしなのである。後に、幸村の子どもたちは、仙台伊達家の片倉小十郎に庇護されていくが、それを依頼したのは立花宗茂であり、伊達政宗と宗茂の胸のすくような間柄も描き出されていく。
それもまた、人が人を認めて、互いに尊重し、しかも自律した人間どうしの関係である。これらは、生命のぎりぎりの線上でなお、胸のすくような生き方を貫いた人物として本書で登場する。そして、それらのすべての人物が立花宗茂の人物を認めたものとして描かれるのである。

 もちろん、ここには真田幸村や片倉小十郎、あるいは伊達政宗についてのいくぶんの美化もあるが、実際、彼らは胸の透くような人物たちだったと、わたしも思っている。敗者であることを決して恥じることはなかったし、矜持と誇りを高々と掲げて生きた人間たちだった。

 こうして、立花宗茂は四面楚歌の状態の中で、やがて、朝鮮出兵でも信頼関係をもっていた加藤清正の勧めに従い、降伏し、開城して、しばらくは加藤家の食客となるが、立花家の再建を志して浪人し、京に出ることなるのである。しかし、再建を志しても、宗茂は決して人におもねるような生き方をせずに、凛として日々を過ごしていく。家康はもちろん、この名武将である宗茂が再び豊臣側についていくことを恐れ、宗茂と並んで天下無双と言われた本多平八郎忠勝の薦めもあり、彼を旗本に取り立て、やがて奥州棚倉の大名にしていくのである。家康は、「立花宗茂に十五万石以上を与えてはならぬ」と遺言したと言われ、力を持つと宗茂がいかに恐ろしい存在になるかを熟知していたと言われている。しかし、立花宗茂は、一度家康に仕えると、決して裏切ることなく、徳川秀忠の名参謀として、また三代将軍徳川家光の相談役として生涯を全うするのである。

 彼が徳川家康に仕えるようになったくだりを、家康が背負わねばならないことの重さを感じた宗茂に家康が語りかけるという姿で、本書は感動的に次のように記している。

 「立花はひとを裏切らぬという義を立てていると聞くが、泰平の世を作るためには、手を汚すを恐れぬが徳川の義ぞ」
 「恐れ入ってござります」
 宗茂は自ずと頭を下げていた。
 「とは言うものの、汚きことをいたせば、その報いも必ずある。心は荒み、欲にまみれていく。じゃが、立花はまみれなんだ。そなたを召し抱えたのは直ぐなる心根のほどを見極めたからじゃ」
 「それがしに何をせよと仰せにござりまするか」
 「秀忠とやがて将軍になる世嗣の側を離れるな。決して裏切らぬ立花の義を世に知らしめよ。さすれば秀忠と次なる将軍もひとを信じることができよう。そなたは、泰平の世の画龍点晴となれ」
 ・・・・・・・・
 「それが西国無双、立花宗茂の務めぞ」(205-206ページ)

 ここにあるのは、人物と人物の会話である。行間にある人間を認めることの重さがひしと伝わるし、見事に立花宗茂という人間の生き方を示すものとなっている。これによって宗茂は、泰平の世の画龍点睛となることを決意していくのである。会話の重さ、行間の深い沈黙に支えられた人間の姿が見事に描かれている。

 また、徳川家康の側近で策士として人に嫌われた本多正信が立花宗茂を訪ねて来たことが語られ、ひとを裏切らないという義を守っている立花宗茂だけには、自分が家康を裏切らない人間であることをわかって欲しいと願うくだりも描かれている。大久保長安事件で伊達家を巻き込んで政宗から蛇蝎のように嫌われた本多正信であったが、かれもまた、宗茂の生き方に心打たれた人物であったことが語られるのである(237-238ページ)。

 そのほかにも、いくつか宗茂の人物を示す言葉が記されているので、記しておこう。

 柳川に帰ってきた宗茂は、浪人時代から苦労を共にしてきた家臣たちに言う。「わしにとって、浪々の暮らしは心の糧を得た日々でもあった」(240ページ)

 この言葉と姿で、主君と共に苦労を共にしてきた家臣たちは救われていく。そこには苦労を共にしてきた者たちへの深い思いやりと愛情が溢れている。

 また、徳川秀忠が「わしは生来、凡愚であった。戦には勝てず、大名を感服させるほどの力もなかった。ただ懸命に努めて生きて参っただけであった気がいたす」と語るのに対して、宗茂は、「世は努めることを止めぬ凡庸なる力によって成り立っておるかと存じまする」と答えるのである(254-255ページ)。

 「直き心」は努めることを止めぬ凡庸さをこそ愛し、大切にする。これは、おそらく作者の姿勢を表すものであるに違いない。作家が、一文字一文字魂を込めて書くということは、こういうことだという自覚が作者にはみなぎっているように思われるからである。

 立花宗茂を描いた作品はいくつかあるが、この作品は「直き心」と深い愛情を貫いた姿として立花宗茂を描き出した逸作である。使われる言葉が磨かれて美しいのも味わい深い。これを読み、改めて自分のあり方を考えるような作品になっていることを思い、文学とはまさにこういう作品をいうのだと感じている。

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