2012年3月23日金曜日

葉室麟『無双の花』(1)

春が戸惑いを見せ、今日は雨で寒い。今年の春は、乙女のように恥じらい、躊躇しながらやって来ている気がする。ようやくこの辺りの梅が満開だが、今年はよけいに秘やかな気さえする。

 さて、戦国有数の武将であり、人間的にも極めて優れていた柳川の藩祖、立花宗茂(1567-1643年)を描いた葉室麟『無双の花』(2012年 文藝春秋社)を感慨深く読み終わった。

 九州の柳川には、以前、何度か足を運んだことがある。最初はまだ青年のころで、柳川高校の先生たちが、吉田松陰の松下村塾に倣って柳下村塾という自主講座を開かれているのを見学しに行き、苦労話を聞き、その自主独立の精神に感銘を受けたのを覚えている。二度目は、弟夫婦と一緒に母を連れて「うなぎ」を食べに行った。有名なうなぎ屋だったが、待ち時間が長くて閉口したことだけが記憶に残っている。だが、それらの時には、立花家の別邸を利用してレストランやホテルになっている有名な「御花」に寄ることも、堀をめぐる「川下り」とも無縁だったので、三度目に一日をかけて「御花」と「川下り」だけ、つまり観光を目的として出かけた。暑い夏の日だった。

 その時は、どこか気持ちに齟齬があったのか、「御花」に行ったにもかかわらず、立花宗茂について感慨を深めるところまでは行かなかったのだが、立花家を中心にした柳川藩の質素で剛健な風情が残っているのを静かに感じたことを覚えている。「川下り」の船頭さんが朗々と歌を披露してくれた。

 その柳川の藩祖である立花宗茂の人物を伝えるいくつかの言葉が残されていて、本書の中でもいくつか用いられているが、彼の主筋である九州の覇者であった大友宗麟から「義を専ら一に、忠誠無二の者」と豊臣秀吉に推挙され、秀吉から「その忠義、鎮西一、その剛勇、また鎮西一(ここでいう鎮西とは九州のこと)」と言われていたそうである。そして、秀吉の小田原城攻めの時、「東国にては本多忠勝、西国にては立花宗茂、ともに天下無双の者」と称されたことが伝えられている。本多忠勝は、「家康に過ぎたるもの」と言われたほどの武将で、立花宗茂は本多忠勝を尊敬して親交をもったそうである。立花宗茂は、その言葉の通り傑出した人物だった。

 少数の兵で数々の武功を残し、「立花家の三千は、他家の一万に匹敵する」とまでいわれた武勇であったが、「人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり」と『名将言行録』に記されている。

 宗茂自身の言葉としては、「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」というのが残され、関ヶ原の合戦で西軍(豊臣側)についたために領土である柳川十三万二千石を明け渡して開城する際には、筑後四郡の領民達は「殿様のためなら命も惜しまない」と涙ながらに開城を押しとどめたが、「気持ちは嬉しいが、皆を戦乱に巻き込みたくないのだ。分かってほしい」と宗茂は答え、領民達は、別れを涙ながらに宗茂を見送ったといわれている。領民の信望は篤かったのである。

 彼は、天下無双の名武将であっただけでなく、温厚で誠実に人に接し、義理堅く正直で、「武士の中の武士。彼こそがサムライ」とも呼ばれる人物であったのである。関ヶ原の合戦の後、柳川に引き上げる際には、実父・高橋紹運の仇でもあった島津義弘と同行することになり、宗茂の家臣たちは、関ヶ原で兵のほとんどを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」と進言したが、「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、むしろ島津軍の護衛を申し出たりしている。敵からも味方からも、ひとかどの人物として認められていたのであり、改易後は家臣と共に浪人生活に入るが、彼の武将としての才や人物を知る東軍から召し抱えようとする話が後を絶たなかったと言われている。しかし、そのとき彼は、「我が身惜しさに太閤との誓いを裏切って、親しい友を討つようなことはしたくない」と丁重に断り、敗軍の将ではあるが「天に誓って我が生き方を恥じず」と語ったと伝えられている。関ヶ原の合戦に際して、家康から莫大な恩賞を約束されて東軍につくように誘われたが「太閤の恩義を忘れて東軍につくより命を絶った方がよい」とこれを断り、負け戦を承知の上で「勝敗に拘わらず」と西軍についたのである。義を重んじ、義理堅く生き抜こうとした彼の姿は、東西両軍の武将たちがよく知っていたことである。

 彼はまた極めて謙遜な人物で、佐々成政が肥後に入った折りに補給部隊としてとてつもない活躍(13回に及ぶ戦闘すべてに勝利し、7つの砦を落とすなど)をしたことで、豊臣秀吉が従四位侍従に叙任しようとしたとき、ありがたき仰せなれど、主筋の大友義統が従五位であるからには、それを超えるのは筋ではございませぬ」と断ったと言われているし、江戸幕府のもとで柳川に大名として復帰した際、家臣の数が増えて屋敷が手狭となり、増築するように浪人時代から彼に仕えてきた家臣たちが進言したとき、「屋敷は狭いままで良い。浪人となっても見捨てず、物乞いをしてまで支えてくれた者達はかけがえの無い家臣である。もし屋敷を広くすれば、こうして顔を合わせる事も減り、疎遠になるだろう。それは嫌だ。それなら屋敷が狭いほうが良い」と言い、家臣たちが感涙したという話も伝えられている。

 また、「太閤記」の作者である小瀬甫庵(おぜ ほあん)が編集の為に立花宗茂の元を訪れて、戦功について聞こうとしたとき、「拙者のした事は天下の公論に基づいたもの。どうして名をあげるために、功績を記録する事があろうか」と何も答えなかったという。彼は「功を誇らず」尊厳と品格に満ちた人物だったのである。

 徳川家康から請われて慶長8年(1603年)に五千石の旗本となった後、陸奥棚倉に一万石の大名として復帰し、やがて、元和6年(1620年)に柳川領主に復帰したが、二代目将軍の徳川秀忠の参謀として、また、徳川家光の相判衆(将軍随従者)として徳川家三代に渡って仕えた。

 なお、立花宗茂は、九州の覇者であった大友家の重臣である高橋鎮種(たかはし しげたね-紹運-じょううん-1548-1586年)の三男であったが、大友家の一族であった立花道雪(1513-1585年)に請われて養子となり、道雪の娘であった誾千代と結婚して娘婿となったのである。立花家の実質的な家督を継いでいた誾千代は男勝りのところがあり、子に恵まれずに、道雪の死後、一時仲が険悪となって別居していたといわれるが、立花宗茂が柳川に帰ってきて最初に行ったのが、早世した誾千代の菩提を弔う事であったことからして、宗茂の誾千代に対する愛情は深いものがあったのではないかと思われる。

 本書は、こうした立花宗茂の姿を余すところなく描いているし、特に誾千代との関係がお互いに深い信頼と愛情で結ばれたものであったことをいくつかのエピソードを交えて描き出す。本書の優れたところについては、次回記す事にする。

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