2012年3月9日金曜日

葉室麟『柚子の花咲く』(1)

灰色の雲が重く立ちこめて、余寒の冷たい雨が降っている。まだまだ冬が頑張って寒い。「もう頑張らなくていいよ」と言いたい。このところずっと天気も悪く、政治も経済も暗いから、スカッと晴れてくれないかなあ、とぼんやり雨を眺めながら思っていた。

そんな中で、葉室麟『柚子の花咲く』(2010年 朝日新聞社)を、これも感銘深く読んでいたので記しておくことにする。

 これは、ある藩(「日坂藩」という架空の藩)の村で「青葉堂村塾」という郷学の村塾を開いていたひとりの武士が殺され、その村塾で学んでいた弟子たちによって彼の死の謎が解き明かされながら、その生涯をたどっていくという形で、人の生き様を感動深く描いた作品である。

 郷学は、藩校とは別に町人や百姓も学ぶことができるように各藩が開設した学問所で、私塾や寺子屋とは違い、そこで教える武士は、身分は御雇いの牢人ではあるが、特別に設定された郷学領から手当てが支給されていた。「青葉堂村塾」は、そのような郷学の学問所の一つで、その教授であった梶与五郎が隣国である鵜ノ島藩の領内で殺されたのである。時は、将軍綱吉が死去して家宣が六代将軍となった宝永6年(1709年)である。

 日坂藩では、干拓地に学領を設けて「青葉堂村塾」を細々と続けていたが、梶与五郎の死にはいかがわしい噂がついて廻っていた。それは、梶与五郎がお役目で出府する途中で、酌婦を連れて遊び歩き、土地のやくざ者と揉め事を起こして殺されたという噂であった。もともと与五郎は、隣藩である鵜ノ藩の藩士の家に生まれ、江戸に遊学したが、鵜ノ藩に戻らずに、さらに勉学のために長崎に行く途中で青葉村に足を止め、そのまま、家老の推挙で十年ほど「青葉堂村塾」の教授方を勤めたが、うさんくさく思われていたし、中肉中背で、丸顔の風采の上がらない男であった。死去したとき、36歳であった。

 子どものころに「青葉堂村塾」で梶与五郎から学んだ郡役人の筒井恭平は、江戸から帰郷して、与五郎の死についての噂が自分を教えてくれた師に似つかわしくないと思い、同塾で学んだ勘定方の友人である穴見孫六を訪ね、与五郎が干拓地の境界をめぐる日坂藩と鵜ノ藩との争いの承認として出府したことを知る。

 干拓地は、最初の「青葉堂村塾」の教授を務めた岩淵湛山の門人の願い出によって行われ、湛山と親交があった隣藩の鵜ノ藩の家老永井兵部も、湛山のために鵜ノ藩の新田の一部を提供し、日坂藩もこれを受けて学領を定めていたものであった。だが、大雨で山崩れが起きて川の流れが変わり、鵜ノ藩領内を通らなくなって、取水ができなければ鵜ノ藩の新田が枯渇するだけとなったため、永井兵部は鵜ノ藩が提供していた郷学のための学領の返還を幕府に訴え出ていたのである。岩淵湛山が亡くなり、鵜ノ藩と日坂藩の取り決めについての詳細を知る者がなく、二人が交わした覚書を、湛山の後を継いで「青葉堂村塾」の教授方となった梶与五郎があずかっていたため、それをもって江戸の評定所に出るために、梶与五郎は出府したのである。

 ところが、日坂藩領内を出て鵜ノ藩領内の沼口という宿場はずれの川辺で、梶与五郎が殺されているのが見つかったのである。日坂藩から目付が出向いて調べたが覚書らしきものは見あたらず、しかも、沼口の手前の鮎川という宿場から与五郎が女連れであったことが判ったのである。

 梶与五郎は、藩が路銀を出して江戸出府をいいことに、女連れで物見遊山のつもりで旅をし、その途中で賊に襲われて金と重要な覚書を奪われたのではないかと噂され、若いころから賭場に出入りし、女郎部屋に入り浸って遊蕩を繰り返して、座敷牢にまで入れられたが素行が修まらずに勘当され、帰国することもできずに隣藩である日坂藩領内に流れ込んでいたのではないかとも言われ、死去にまつわるいかがわしい噂のためにその評判は地に落ちてしまっていた。

 「青葉堂村塾」の師としても、子どもたちに相撲を取らせたり川遊びをさせたりしてひんしゅくを買ったことがあった。だが、梶与五郎についての噂は、彼に直接習った筒井恭平も穴見孫六も信じがたいことであった。

 梶与五郎の口癖は「桃栗三年、柿八年、柚子は九年で花が咲く、梨の大馬鹿十八年」で、二人が藩校の試験を受けるときも、真剣に勉学をさせ、論語の読解に何度も間違えると、「ひとは、間違えるものなのだ。間違うということは恥ずかしいことではない。間違えたらやり直して前へ進め」(13ページ)と励ますし、自分は腹を空かせていても自分の弁当をいつも貧しい子にやり、弱い者を気遣い、腕白な子には「強いとは、弱い者を助ける勇気があるということだ。力があっても弱い者を助けることができなければ弱虫だ」(15ページ)と諭していた。

 井筒恭平も、藩校で上士の子との喧嘩が絶えずに「青葉堂村塾」に来たのだが、軽格や百姓の子に対して粗暴な振る舞いをしたときに、「身分などは生まれ合わせに過ぎぬ。生まれ合わせによって、相手に頭を下げたり、居丈高になるなどと、おのれを変えるのは恥ずべきことだ」と諭され(16ページ)、その言葉か強く心に残っていた。

 その人柄からして、噂が信じられないのである。そして、穴見孫六が調べたところ、梶与五郎が連れていた女性というのが酌婦などではなく、武家の女性で、しかも与五郎は右脇腹から左胸にかけて一刀のもとに斬り上げられており、居合いの業で殺されたのではないかと思われた。井筒恭平と穴見孫六は、干拓地の境界をめぐる争いで証拠となる覚書をもって江戸に向かう梶与五郎を鵜ノ藩の者が殺したのではないかと思い始める。

 師としては威厳を欠いてはいたが、汚名を着せたまま放置することはできないと考え、二人は真相の究明を始めていく。

 都合のよいことに、井筒恭平は郡方の役人として上役から「青葉堂村塾」に行くように命じられる。師亡き後も子どもたちが喪に服するといって村塾に籠もっており、家に帰るように説得してほしいということであった。上役は梶与五郎の噂を語り、「そのような者が、よく四書五経を教えられたものだ。お主も大変な師を持ったな」と揶揄する。しかし、井筒恭平は、与五郎は師としては凡庸だったかもしれぬが、自分が藩校の試験でよい成績を収めたときにはにぎりめしを作って喜んでくれた。それだけで十分ではないかと思い、「それがし、師を恥じてはおりません」(21ページ)と答えて、「青葉堂村塾」に向かうのである。

 井筒恭平は「青葉堂村塾」に籠もる子どもたちを説得しようとするが、年長の少年に「恩師の喪に服するのに一年でも少ないと思います。いまやめては師の恩を踏みにじる気がいたします」と理路整然と言われて感服するだけであった。そして、そこで、かつてその塾で一緒に学んだ「およう」という女性と再会する。彼女は籠もっている子どもたちの世話を引き受けていたのである。

 物語はここから深くなる。この作品は、言ってみれば、小さなせせらぎからやがて小川となり、大河になっていくようにして、評判が地に落ちてしまったひとりの人間が、実は、己の愛を貫き、生き方を貫いていった姿であったことに向かっていくのである。葉室麟の描く主人公は、他の作品でも、外見や世間の評判が悪くても、実は、そこに凛とした真実がある姿が多く、その真実を描き出して余りある作品になっている。それがわたしの心を打つ。

 この作品も、実に感銘深く、しかも、じわじわとしみ通るように感銘を与えてくれる作品で、その後の展開については、また、次に記すことにしたい。

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