2012年3月14日水曜日

葉室麟『柚子の花咲く』(3)

気温が低く寒いのだが、晴れているので春が近づいている気がしたりする。近くの丘に植えられている梅が清楚な花を咲かせ、桜の蕾も少し膨らんできた。「暑さ寒さも彼岸まで」というが、この寒さも彼岸までかもしれない。

 さて、葉室麟『柚子の花咲く』の続きであるが、彼の作品は物語の構成や設定が作品の重要な要素となって、その展開が生きた物語を形作っているので、その作品のよさについて語ろうとするとどうしても簡略できずに長くなってしまう。

 青葉村の庄屋である儀平と「お咲」との関係は、儀平の妻である「およう」とのことを含めて重要なものとなっていくが、儀平の話を聞いた後、井筒恭平は鵜ノ藩で殺された穴見孫六の死の真相を確かめるために鵜ノ藩に出かけていく。恭平は孫六が最後に立ち寄ったと思われる鮎川宿の一膳飯屋に足を運び、探索を開始しようとする。そこに、轟源心と名乗る虚無僧が現れ、孫六を連れ出した女性の似顔絵を描く。描かれた女性は、かつて梶与五郎を訪ねてきて川辺で話をしていた女性だった。

 そして、鵜ノ藩家老の永井兵部を訪ね、息子の清助(梶与五郎)は三男だったが、幼少のころから他の兄弟よりも文武共に見劣りがし、賭博にふけり女郎部屋に出入りしたことが判って、座敷牢に入れたが逃げ出して行くへ不明となったことを兵部から聞く。井筒恭平は「先生は青葉堂村塾に来られてからは、まことに立派な師でございました」(69ページ)と語るが、父親である永井兵部は、「清助はわしに当てつけるために日坂藩の干拓を手伝い、郷学を教えるようになった気がいたす」と答え、息子を認めることはなかった。そして、覚書などなく、「江戸へ向かう途中、女連れで旅をして、何者かに斬られるなど恥さらし」とさえ言い、その女についても知らないと言う。

 井筒恭平は、その夜に鵜ノ藩郡代屋敷を訪ね、土屋新左衛門と会う。目的はその妻女で、梶与五郎が連れていたといわれる「さなえ」に会うためだった。だが、「さなえ」に会ってみて、それが別人であることがわかる。また、その「さなえ」と梶与五郎が不義密通をしたということも嘘だとわかる。確かに「さなえ」は梶与五郎の許嫁であったが、与五郎が放蕩のために勘当されてそれ以後会ったことはないと言う。そして、一膳飯屋で虚無僧が描いた似顔絵を見せると、その女性が永井家に仕える足軽の娘で、「琴」といい、かつて梶与五郎と言い交わした仲だったが、父親の兵部が許さず、梶与五郎が放蕩に走ったのはそれからで、それは自分との縁組みを壊すためだったと語るのである。

 そして、永井兵部は「琴」の処分を土屋新左衛門に任せ、土屋新左衛門は「琴」を側妾として囲い、それを知った「さなえ」が「琴」を城下から追い出したと言うのである。「さなえ」は、許嫁であった清助(梶与五郎)が好きだったが、清助は「琴」と言い交わし、夫である土屋新左衛門がそれを側妾とすることが許せなかったと言う。「さなえ」は強い女であるが、その心情は純粋でもある。「さなえ」は「琴」を鮎川宿にやり、夫の土屋新左衛門に金を出させて一膳飯屋で暮らしが立つようにさせたと語る。

 井筒恭平は、その夜、鮎川宿で「琴」の一膳飯屋に再び行き、「琴」が沼口宿の油問屋の豪商「高田屋」に住んでいるのではないかとの話を掴む。そして、そこで「琴」からの呼び出し文を受け取ることになる。

 恭平が呼び出し文の通りのところに行ってみると、そこに待っていたのは「琴」ではなく、一膳飯屋で似顔絵を描いた虚無僧の轟源信と三人の武士たちだった。轟源信は鵜ノ藩目付の探索方で、恭平を捕らえようとする。恭平はかろうじてその手を逃れて日坂藩に帰るが、逃げるときに鵜ノ藩の探索方に傷を負わせたことで、家老の島野将太夫から青葉村の庄屋預かりの謹慎を申し渡されてしまう。日坂藩の家老島野将太夫は隣藩である鵜ノ藩に気を使わなければならない立場であった。

 永井兵部が干拓地の境界争いの決着をつけるために日坂藩に来ることになり、城下から井筒恭平を追い出すことと青葉村の庄屋が覚書の探索を依頼した責任があることから、恭平は儀平のもとに預けられることになったのである。梶与五郎と穴見孫六が殺されたことに鵜ノ藩が関わっていることが判ったが、鍵を握っている「琴」の立場がどういうものかは不明のままである。

 井筒恭平は儀平のもとで謹慎することになり、青葉堂村塾を「およう」と訪ねる。その途中で、「およう」は儀平と「お咲」のことを話し、子どものころの思いでの中で、「わたしは、お咲ちゃんを好きでいながら、わたしを女房にした儀平の気持ちがわかります。わたしも同じように他に好きなひとがいましたから」と告げる(99ページ)。井筒恭平と「およう」は、お互いに相手のことを密かに想っていたのである。だが、その話はそれ以上進むことなく、儀平は恭平に再び沼口宿にいって「琴」と会うことを勧める。「琴」が梶与五郎の覚書を預かっているかもしれないからである。

 儀平の勧めに従って、恭平は再び沼口宿へ向かう。見つかればただではすまない隠密行である。恭平は「琴」がいると思われる油問屋の高田屋を訪ね、そこで「琴」と会う。「琴」は、やはり、かつて梶与五郎と川辺で話をしていた女性であり、「琴」から梶与五郎(永井清助)との話を聞く。

 梶与五郎は、他の二人の兄弟とは異なり、目立たずにひ弱そうで、藩校の他にも郷学に通い、そこの師から見込まれて郷学の教授方に望まれたが、重臣の息子が郷学の教授などになることは望ましくなく父親の兵部がゆるさず、しかも、彼が通っていた郷学の教授は、貧相で頑固で、永井兵部の政事にも批判的であったが、誰も気にもかけることなく、そのことを嘆いて自死してしまった。与五郎は、実は永井兵部の妾腹の子で、彼の母親は沼口の油問屋が建てた寮で料理屋の女将として兵部が重臣や豪商と密談する世話をさせられていたのである。父親の永井兵部が表で清廉を装いながらも裏で歪んでいることを与五郎は知っていたのである。

 また、文武共に優れ、両親にも可愛がられていた永井家の次男の婚儀も決まったとき、女中をしていた「琴」は、その次男から手籠めにあいそうになったのである。次男は文武共に優れていたが、己の欲を果たそうとする傲慢な人物であった。だが、そこを与五郎に助けられる。しかし、与五郎はただ酔って次男に乱暴を働いたということで父親から叱責され、次男もまた「清助(与五郎)の奴はとうとう父上から見放されたぞ。まあ、妾腹なのだから、当然だがな」とうそぶくだけであった。その頃から彼の放蕩が始まり、彼の懐を当てにする平沢重四郎という悪友もつきまとい始めた。

 そして、ある夜、酔って帰った与五郎(清助)を案じていた「琴」に、一度だけ実の母親に会ったことがあることを与五郎が「わしのことなど案じてくれる者は誰もいないと思っていたのだ」と言って語り始めるのである。

 彼の母は、名を「吉乃」と言い、与五郎(清助)に庭に植えられていた木が柚子であることを教えたという。その話を聞いて、「琴」は、あれから九年経っているから、今年、また母に会えるかもしれないと言って、「柚子は九年で花が咲く」ということを教えるのである。それから、与五郎と「琴」は、互いに想いを寄せる仲になっていったという。だが、そのことが知れ、「琴」が父親から怒られたとき、与五郎(清助)は「琴」に結婚を申込み、父に懇願したが、聞き入れられずに荒れ、ついに勘当されて座敷牢に入れられたのである。そして、もう一度母親に会うためにそこを逃げ出したのである。

 「琴」が与五郎(清助)を逃がしたために、処置に困っていたところ、土屋新左衛門が、自分は清助とは友だから、自分に預けるように言い出し、彼に預けられたと、「琴」は言う。土屋新左衛門は清助(与五郎)が放蕩をしていたときに懐を当てにして遊んでいた悪友の平沢重四郎で、清助の後釜として彼の許嫁であった土屋家に婿として入っていたのである。そして、「琴」を手籠めにして、自分は清助の友などではなく、ただあの男を羨んでいただけだとうそぶいたのである。そして、土屋新左衛門の妻となった「さなえ」がやってきて、あなたがいたからこそ、清助様はご自分に立ち返ることができのだから、清助様を待っていて欲しい、と語り、鮎川宿で生きる術を算段してくれたのだと語る。

 彼女の話はそこで終わらずに、さらに、与五郎(清助)の実母である「吉乃」と会い、「吉乃」から自分の後継者として彼女の料理寮で与五郎(清助)を待つようにと言われ、彼女は高田屋の寮に引き取られたと語る。そのことを伝えに日坂藩にいる与五郎(清助)に会いに行ったが、与五郎は「いまのわたしには教えなければならない子供たちがいる。子供たちに支えられて、わたしは変わることができるはずだ。何年かかるかわからないが、九年、十年かけて、柚子の花を咲かせたいと思っている」、「柚子の花を咲かせることができたら、わたしは国に戻ろう」、「琴のもとに戻るつもりだ」と語ったと言うのである。

 そして、八年後、江戸に向かう与五郎と「琴」は鮎川宿で会い、次の日に母親の「吉乃」に会おうとしたときに、与五郎は何者かに殺されたのである。与五郎(清助)が殺された後、藩の目付をしている与五郎(清助)の兄(次男の勝次郎で、琴を手籠めにしようとした男)がやってきて、「清助の一件は笠島湾干拓地の境界争いをめぐって、父上が命じられたのだ。そなた、いらざることを他言するな」と口止めしていったという。

 「琴」は、そのようにこれまでの経過を話し、与五郎(清助)が預けたという覚書を井筒恭平に渡すのである。そのとき、恭平は、梶与五郎が「わたしどもに、生きていくために何を大切にしなければならないかを教えてくださいました。それはひとの心だ、と先生はお教えになったのです」(136ページ)、その思いがこの覚書にある、と語るのである。

 また、「琴」は穴見孫六についても、彼を誘い出すように目付の勝次郎に無理やり依頼されたが、危険を感じて逃がしたと言う。その時、孫六は自分の思いを「琴」に告げ、自分も先生のようになりたかったと語ったというのである。彼は鵜ノ藩目付に狙われていた。だが、孫六が殺された後、勝次郎が「琴」のところにやってきて、「そなたが逃がしたために、何者かに殺されてしまった」と「琴」をなじり、さらに「琴」を手籠めにしようとしたところを、病に伏せていた「吉乃」に助けられたことから、勝次郎が孫六を殺していないことだけは確かだという。孫六の死には依然としてまだ謎が残ったままである。

 物語はここから一気に展開していくことになる。だが、その前に、病に伏せる与五郎の母「吉乃」に井筒恭平は梶与五郎の人と態を語る。それは、まことにこの物語にふさわしいエピソードである。そして、作者が描く人としての「核」でもあるだろう。だから、この書物について長くなってしまうが、それについては次回に記しておくことにする。

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