2012年3月21日水曜日

諸田玲子『炎天の雪 上・下』(2)

気温は低いのだが晴れて、眩しい光が射している。昨日は一日中会議で新大久保まで出かけ、韓国通りの大混雑をよそに、室内で暗澹たる思いに襲われたりしていた。会議で久しぶりにわたしよりも若い友人に会い、彼の頭髪が薄くなっているのに気づいて、思わずお互いの年齢を感じたりもした。。

 生涯は断念の連続で、むしろ平然と断念することを大事にしてきたが、諸田玲子『炎天の雪』で描かれた白銀屋与左衛門という稀代の大泥棒と言われた人物が、断念できずに、報われない自分と世の中に対する恨みを抱いて生きてきたことを、ふと思う。

 その『炎天の雪』のもう一つの背景となっている白銀屋与左衛門についてであるが、大槻一派への粛正が結末を迎えようとする宝暦5年(1755年)、加賀藩は、度重なる藩主の葬儀や相続の儀礼が続いたために、藩の財政は危機に瀕し、銀札という藩札(藩内だけで通用するお金)を発行して急場を切り抜けようとした。だが、正貨との交換ができない銀札の乱発のために米価が通常の40倍程度に跳ね上がるなどして、翌年の宝暦6年(1756年)に貧窮した民衆による打ち壊し騒動が起こったりして、あわてて銀札の発行を取り止めねければならなくなった。この銀札の回収のために、また多額の金が必要となり、武士の知行借上げ(家臣の俸給を減らす)が半知(半分)となり、武家の生活は貧窮し、消費経済が冷えてますます財政困難に陥ったのである。

 加えて、先述した宝暦9年(1759年)の大火によって罹災した人々が生活困窮に陥り、世相は荒れ、一攫千金を夢見る富くじや博打が行われ、泥棒が横行した。白銀屋与左衛門は、その中でも手口が鮮やかで、土蔵を破る名人として盗っ人働きを繰り返したのである。

 彼は、その名が示すとおり金銀細工を行う職人で、能登の生まれだが金沢に出てきて金銀細工を行っていた白銀屋に奉公して、技術を桑村源左衛門に学んだ。桑村源左衛門は北陸を代表する細工師で、加賀藩では細工工芸を奨励したことから白銀屋は伝統と格式をもつ細工師の家系であったのである。加賀は全国有数の名工芸品を誇るところで、もちろん、現在でもその伝統が続いている。

 白銀屋与左衛門は、白銀屋という屋号を名乗ることを許されているのだから、細工技術には相当の腕があったのかもしれない。しかし、世相が荒れ、経済状況が逼迫した中では高価な金銀細工を扱う職人の生活も逼迫し、加えて、彼の住居が遊郭のあるところでもあり、次第に酒と女に溺れるようになったと言われている。そして、そのために土蔵破りをする盗っ人働きをしていったのである。金と女が彼の人生を狂わせていくが、華美であることへのあこがれが人一倍強かったのだろう。

 一説では、彼が破った土蔵は主に大身の武家で、24箇所のうち17箇所が武家の土蔵で、豪商などの商家5箇所、医家2箇所となっている。白銀細工人として武家屋敷に出入りすることも多かったし、刀剣の装具の鑑定も得意で、装具に使われている金銀の剥奪も容易だっし、それを鋳つぶして他の形にして売りさばく技術ももっていたからと言われている。

 彼が捕縛されたのは、宝暦12年(1762年)であるが、公事場(裁判所)の牢内で語ったことが残されており、それによれば、その手口は大胆且つ細心で、蔵の中で何日も過ごすことを覚悟で忍び込み、夜明け頃に家中が騒がしくしているときに堂々と表から出て行くという手口を使ったらしい。また、細工道具も土蔵破りには最適で、彼はこれに独自の工夫を凝らしていたということである。

 彼の吟味(取り調べ)の中で、驚くべき事実が発覚し、馬廻役250石の前波義兵衛の娘「たみ」が10年以上前に出奔して行くへ不明となっていたが、与左衛門の妻となっていたことや、藩士の多くが彼と一緒に博打に興じていたことが明白になるのである。この事件に関連して処罰を受けた武家は百人をくだらない。藩は、この事件をきっかけに武家の風紀の乱れの一掃を行おうとしたのである。

 白銀屋与左衛門は、一度巧妙な手口で脱獄を試み、密告によって失敗したこともあって、刑が加重されて、明和元年(1764年)に「生き胴の刑」で処断され、十三歳になる彼の息子で前田駿河守の家臣木村惣太夫に奉公していた少年も連座で首をはねられて処刑された。

 この事件が藩内で大騒動となったのは、その大胆不敵な手口もあるが、百余名にも及ぶ武家の処分が行われたためで、加賀藩の藩政が重臣たちの権力掌握争いに明け暮れたこともあって、加賀騒動と共に白銀屋事件として人々の口にいつ間でも残ったからであろう。

 『炎天の雪』は、こうした背景の中で、白銀屋与左衛門の妻となった「たみ(本書では多美)」を中心にして、彼女が容姿のよい金銀細工人であった白銀屋与左衛門に惚れて駆け落ちし、子まで儲けて幸せな暮らしをしていたが、与左衛門の中に残っている連座で苦しめられて人間の恨みから、次第に与左衛門が崩れていき、やがで泥棒にまで落ちていく姿を目の当たりにして、自分の生き方を探し出していく姿を描いたものである。

 ことの起こりは、加賀騒動の大槻伝蔵に使えていた佐七という男が、五箇山で監禁されていた大槻伝蔵のために文を届けていたという咎で九年の入牢の後に出所し、幼馴染みで大槻伝蔵の側室となっていた「たみ」という女性を捜し出そうとして、「多美」と間違えてやってくるところから始まるのである。

 佐七は加賀騒動で連座された大槻伝蔵の身内の救出と幸せを願い、自分を認めてくれた大槻伝蔵に恩返しがしたいと願っていた。多美と息子の文吉とで幸福に暮らしていた白銀屋与左衛門は、この佐七の意気に感じ、やがて、大槻伝蔵を支持していた人々と大槻党を作り、大槻伝蔵を罠に嵌めた前田土佐守への意趣返しを企み、その人柄や美貌から大槻党の首領として祭り上げられていくようになる。だが、大槻党の企ては、脇も甘く、前後の結果も考量しない浅はかな素人の企てで、見事に失敗していく。実際の白銀屋与左衛門が大槻党と関係があったかどうかは不明であるが、この辺りが作者の構成力の巧みさだろう。

 経済の困窮から白銀細工の注文も減り、細工師としての腕も振るえなくなり、次第に、白銀屋与左衛門は身を持ち崩していき、博打に手を出し、盗賊団の首領から土蔵破りの鍵を作るのに目をつけられて、その罠にはまっていくようになる。加えて、大槻党の一人であった過激な男から手籠めにされて遊女に売られた隣家の娘と遊女屋で出会、彼女に溺れていくようになるのである。

 彼は、能登で自分の家系が連座で流罪となった家系であることを知り、連座で苦しめられることの恨みを抱き、それをくすぶらせていたのである。

 その間に、佐七は、自分の恨みではなく、人々と助けあって行く道を、当時の公事奉行や多美の家の近くの橋番をしている爺さんから学んでいくようになり、大火の時も人助けに奔走し、貧窮であえぐ人々のために奔走するような人間となり、連座で苦しむ大槻伝蔵の身内のためにも奔走していく。

 また、加賀騒動で無惨な殺されかたをした女中の「浅尾」の弟で、飄々としているが思慮深い小笠原紋次郎という侍と知り合いになり、彼が五代藩主前田吉徳の生母である預元院の意を受けて、大槻伝蔵の事件の真相を調べ、連座されている者たちの救出のために働いていることを知り、小笠原紋次郎も恨みではなくてゆるしと愛で生きていることを知り、一緒に働いていくようになるのである。

 佐七は、次第に「多美」に惹かれていくようになり、「多美」も恨みを抱いて身を持ち崩していく白銀屋与左衛門がわからなくなり、決して美男ではないが爽やかにまっすぐ生きようとする佐七に惹かれていくようになる。また、小笠原紋次郎は、大槻伝蔵事件の連座で苦しむ人々を救うためには現藩主である前田重教の力が必要で、そのために重教の生母である実成院と知り合いになり、彼女と相愛の恋に陥っていく。実成院は病で死んでいくが、その功で、連座で苦しめられていた人々は救い出され、大槻伝蔵の側室であった「たみ」も救い出され、やがて小笠原紋次郎と共に江戸で暮らすことになる。

 佐七と小笠原伝蔵の生き方は、恨みを抱いて生きる白銀屋与左衛門と対称的で、本書の中で光を放つ存在となっている。

 他方、捕縛された白銀屋与左衛門の連座で「多美」も処分を受け、その子も斬首されるが、佐七の懸命な働きや小笠原紋次郎、預元院の働きもあって、子の斬首は形だけのものとなり助けられ、「多美」も佐七との思いを遂げていくようになるのである。

 ここには、白銀屋与左衛門の妻となっていた「多美」と佐七の恋、小笠原紋次郎と実成院の恋という二つの恋が中心に描かれるし、白銀屋与左衛門が身を持ち崩していく姿が克明に描き出されていく。

 この作品については、まだ、記しておくことはたくさんあり、これは非常に優れた作品であるが、加賀騒動と白銀屋事件を題材にした物語作家の本領が充分に発揮された作品であるとだけ記しておこう。内実のある面白さを感じる作品だった。

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