昨日、今日と、曇ってはいるが気温が少し上がって、風邪気味のわたしとしては助かる日々になっている。ある古文書研究会の人たちと話をしていて、「ひらがな」の当て字(万葉仮名なのだから当然ではあるが)の読み下しの難しさを感じて、もともと日本語は書かれた言葉ではなく語られた言語に重点が置かれていたのではないかと思ったりした。
言語学でいう「パロール(書き言葉)」と「ラング(話し言葉)」の区別で言えば、日本語は「ラング」が中心の言語ではないかと思ったのである。だから「誤字」ということはなく、「音」で区別するだけだったのではないだろうか。昔の人たちは、漢字を自由に音で使っていたのだ。比較的当て字を使うことの多いわたしは、そんなことをふと思った。
昨日、中村彰彦『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』(2007年 実業之日本社)を読み終えたので記しておく。作者は、1949年栃木県の生まれで、いくつかの文学書を受賞され、1994年に『二つの山河』で直木賞を受賞された後も、1995年に『落花は枝に還らずとも』で新田次郎賞などを受賞されている。
わたしはこの作家の作品を読むのはこれが初めてであるが、図書館の書架に並べられている著作のタイトルを眺めていると、いくつかの歴史的な人物を掘り下げていく歴史小説とでもいうべき作品が多いのに気づいた。歴史の主役たちではなく、むしろ騒ぎ立てることなく静かに世を去りながらも、凛とした姿勢を崩さずに生きた人を描いた作品を書かれているのだろうと思った。会津に深い関心があるのか会津の武士たちを取り扱った作品が多いような気がする。
『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』は、そのタイトルの通り、天保というひどい政治状況の下で名南町奉行といわれた矢部定謙の生涯を描いたもので、史実に基づきながら優れた筆法で読む者を魅了する作品だった。
矢部定謙(1789-1842年)は、その剛直な性格と才能で小姓組(将軍の日常生活の雑用をするもの)から先手鉄炮頭、火付盗賊改めを経て、1831年(天保2年)に堺奉行、1833年(天保4年)に大阪西町奉行へと順調に経歴を重ねていった人物で、この経歴は、彼がいかに優れた人物であったかを物語るものとなっている。だからといって、彼は、人におもねることもなかったし、たとえば小姓時代に先輩たちのいじめに遭い、これを厳然とはね除けたエピソードが本書でも記されているが、自ら出世を望むようなところもなかった。自ら保身に走ることもなく、ただ、誠実な務め振りと見識の深さ、才能と人格的な懐の深さが彼を奉行職へと進ませたのである。
大阪西町奉行の時、元与力であった大塩平八郎とも昵懇になり、飢饉であえぐ人々のために大塩平八郎の意見なども考慮して、飢餓対策を施したりしている。運の良さもあって、やがて大塩平八郎が貧民救済を掲げて乱を起こしたとき(1937-天保7年)には、すでに大阪西町奉行から江戸幕府の勘定奉行となって大阪を去っていた。
だが、江戸幕府の大塩平八郎に対する処遇をめぐっては、これを逆賊とした老中水野忠邦と対立し、大塩平八郎に注がれた汚名を晴らそうとしている。しかし、そのために水野忠邦から勘定奉行の職を追われ、閑職であった西の丸留守居にさせられた。だが、その処遇を平然と受け止め、やがて、3年後の1840年(天保11年)に小普請組支配となり、翌1841年(天保12年)に南町奉行となった。
この時に彼が行った名裁きがいくつか残っており、その中でも、やむにやまれぬ事情から新吉原で火をつけた遊女に対して、その事情を考慮して、刑期を80年にしてこれを助けた話は著名である。
彼が南町奉行であったとき、天保の改革を無理やり推し進めようとする老中水野忠邦の強引な政策に対して、北町奉行であった遠山景元(遠山の金さん)と共に、それが江戸の経済を疲弊させ人々を困らせるものだと反対する。
だが、そのことが原因で、水野忠邦におもねて町奉行の座を狙った鳥居耀蔵につけねらわれ、明白な理由もなしに鳥居耀蔵の策謀によって、1年足らずで南町奉行を罷免され、伊勢桑名藩預かりとなった。そして、桑名藩に預けられたまま、自ら絶食して死去した。彼の死は、いわば憤死であるが、死後も彼の高い見識が見直され、その非業の死は惜しまれた。自ら餓死を選んで非業の死を遂げるのは相当の覚悟がいるし、意志の強さがなければできないことで、武人としての彼の姿がそこに結実している気がする。
彼は、本書のタイトルか示すとおり気骨の人で、「剛の者」であり、それだけに弱者や貧しい者に対しては限りなく優しい「情の人」でもあった。家臣はもちろん、江戸市民にも絶大に支持され、彼が取り止めさせた三方領地替え(三つの藩の領地を替えること)によって救われた出羽庄内藩では、復領の恩人として祭神に祀られているほどの人である。
本書は、この矢部定謙の生涯をその人物像や数々のエピソードを交えて描き出したもので、単に史実を述べるのではなく、物語の形式で綴り、それによっていっそう生き生きと人物を浮かび上がらせたものである。わずか一年足らずの町奉行職だったとはいえ、人間としての筋を通した名奉行と言えるだろう。矢部定謙という人物を知る上では、少なくとも名著といえるかも知れない。
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