今日も寒い。大晦日になっても格別普段と変わることがないのだが、世相とかけ離れた脳天気ぶりを発揮する新聞やテレビを横に見ながら、衰えていく体力の中で静かに行く末を考えたりした。想念や思想をじっと抱いたまま片田舎に逼塞することを考え続けているのだが、ふと、アメリカの作家のローラ・インガルス・ワイルダーが『大草原の小さな家』を書いたのが65歳であったことを思い出し、そろそろ壮大で哲学的なファンタジーを書き始めようかと思ったりする。
そんなことを思いながら、安部龍太郎『薩摩燃ゆ』(2004年 小学館)を大変面白く読んだ。作者は、巻末の著者紹介で改めて気づいたのだが、1955年福岡の八女出身で、同窓でもあるので、たぶん、まだ青少年の頃にどこかで直接会ったことがあるかもしれない。しかし、その頃は個人的に思想の季節の中で閉じこもっていたし、化学に没頭していたために、ほとんど何も知らなかった。今回、この作品を読んで、これだけの力量のある作家であることに改めて驚いた次第である。
『薩摩燃ゆ』は、幕末のころに500万両もの借金を抱え、破綻寸前であえいでいた薩摩藩を立て直し、維新の雄藩にまで育て上げた調所笑左衛門廣郷(ずしょ しょうざえもん ひろさと 1776-1849年)の姿を描いたものである。
調所廣郷は、薩摩藩軽格の出で、二十五代藩主であった島津重豪(しげひで)の茶坊主であったが、隠居してもなお厳然とした力をもっていた重豪に才能を見出されて、信頼を受けて重用され、二十六代藩主となった島津斉興(なりおき)の側用人となり、使番や町奉行を歴任した後、家老格となり、やがて家老となって藩の大改革を推進した人物である。彼がいなければ、維新の時の薩摩藩はなく、西郷隆盛も世に出ることはなかったし、明治維新も起きなかったといわれるほどの人物であった。
膨大な借金を抱えていた薩摩藩の中で、重豪に命じられて財政の立て直しに着手するが、行政改革や農政改革を行うと同時に、借金をしていた大阪商人に無利子の250年払いという途方もない策略で対応し、砂糖の専売制を敷いて商品開発を行うと同時に、琉球を通じての密貿易を行い、それらによって、短い年月で500万両の借金から250万両の蓄えのある藩に一変させたのである。本書では、贋金作りにも着手していたことが記されている。彼が画策した密貿易で薩摩藩の財政は立て直され、維新を推進するほどの力をもったが、彼自身は、おそらくその密貿易の責任を取って自死したと思われる。
調所廣郷はこうして藩の財政改革を成し遂げて、藩の重鎮になっていくが、もちろんこれだけの改革を断行するからには、それだけの無理もあり、砂糖の専売制を敷いて生産性を上げて利を得るために、生産地であった大島や徳之島の島民に過酷な状態をもたらしたり、贋金作りの時に出る水銀中毒を引き起こしたり、また、藩内の統制で一向宗徒を弾圧したりしている。本書では、そのあたりの調所廣郷の苦渋の決断が詳細に述べられている。彼が背負った苦悩をこうした姿で述べることが本書の眼目であろう。彼が藩の改革に着手したのは50歳代になってからである。それも驚嘆に値する。
晩年、調所廣郷は、何度も藩主の斉興に隠居を願い出るが許されず、ついには斉興の子の斉彬(なりあきら)と久光との間の争いの中で、すべての責任を取って毒を飲んで死を迎えなければならなかった。
斉彬は、剛胆で英邁であった祖父の重豪に気に入られた秀才の誉れの高い開明派の人物であったが、父親の斉興はそれが気に入らず、妾腹との間に生まれた久光を世継ぎとしたいと思い、それが斉彬と久光の争いになっていくのである。
一般には、調所廣郷は、斉興・久光派に属して藩主斉興の意向を尊重したといわれ、彼が服毒したのも密貿易などの罪が斉興にまで及ぶのを防ぐために責任を取ったのだと言われ、また斉彬の開明策によって藩の財政が再び窮地に陥ることを案じて、斉興・久光側であったと言われているが、本書では、斉彬の人物を見抜き、久光ではなく斉彬を藩主にするためにとった策がまったく裏目に出てしまい、それらすべてを呑み込んで服毒したという理解で後半の話が進められている。
斉興は、剛胆な父親の陰で気の小さなかんしゃく持ちの人物で、本書では斉興の気に入らないことを調所廣郷がしたために、廣郷の長男と長女が忙殺されたのではないかと記され、そのためにも廣郷が斉興・久光側ではなく、真実は斉彬側であったと語られていくのである。
わたしは個人的に斉彬が極めて優れた人物であったと思っているし、維新の時の藩主が久光だったために維新後の日本の歩みが曲がってしまったのではないかとさえ思えることがあるので、薩摩藩の屋台骨となった調所廣郷についてのこの解釈にうなずくところがある。
ともあれ、本書はその調所廣郷の苦労を克明に語りつつ、「前のめりに死ぬ」という薩摩武士としての覚悟をもった人物として見事に描き出している。「何をしたかではなく、どんな覚悟をもっていたかが問われる」(82ページ)のであり、調所廣郷の覚悟が記されていくのである。
改めて、この覚悟を西郷隆盛が引き継いだのだろうと思う。その意味では、調所廣郷によって薩摩武士のよい姿が作られたような気がしないでもない。薩摩武士の多くは嫌われたが、薩摩が戦国からずっと生きのびてきた秘訣もそこにあるような気がするのである。
薩摩(鹿児島)は、桜島の噴火によるシラス台地で痩せた土地である。だが、明治維新を起こしたほどの財力を自力で作った土地である。自主独立の気風に富み、美しいところであり、先年、鹿児島を訪れたときに、錦江湾を眺めながら、その美しさにしばらく佇んでしまったことがある。調所廣郷が作った甲突川の石橋も見事であるし、斉彬が残した諸施設もその先見性に驚いたことがある。西郷隆盛の城山での最後も人の世の哀しみをたたえる。そして、本書を読みながら、歴史の影に調所あり、と思った。本書は、そんな感慨も呼び起こしてくれる作品だった。2011年の最後に、こういう人物について少し考えることができて良かったと思っている。
2011年12月31日土曜日
2011年12月29日木曜日
東郷隆『御町見役うずら伝右衛門・町あるき』
冬型の気圧配置が厳しく、北日本は大荒れで太平洋沿岸は晴れた寒い日々が続いている。今日から図書館が休館日になるというので、昨日、仕事を途中で止めてあざみ野の山内図書館に行ってきた。お正月を読書で過ごそうとする人が多いのか、いつもの陪以上の人が書架を眺めていた。本は売れないそうだが、この国の読書人口はまだまだ捨てたものではないと思ったりした。
先に東郷隆『大江戸打壊し 御用盗銀次郎』(2006年 徳間書店)を読んだが、この一冊だけでは何とも言えない気がしていたので、続いて東郷隆『御町見役うずら伝右衛門・町あるき』(2001年 講談社)を読むことにした。
これも『御町見役うずら伝右衛門』(1999年 講談社)という前作があるのだが、尾張徳川という江戸時代の中でも極めて特異な存在を取り扱っているし、特に八代将軍徳川吉宗と尾張の徳川宗春の確執は人間的にもなかなか興味を引くものがあるので、『御用盗銀次郎』よりも面白く読めた。徳川吉宗と尾張の徳川宗春の確執は様々な時代小説の背景としてよく出てくるが、多くは江戸幕府中興の祖ともいわれる八代将軍徳川吉宗の側から尾張徳川家の悪辣さを描き出すもので、尾張徳川家の立場にいる人物を取り上げた作品は意外に少ない。その意味でも着眼が面白いと思った。
この物語には、その徳川将軍家と尾張徳川家の間の確執が背景としてあり、特に尾張徳川家の七代藩主であった徳川宗春による江戸幕府に対する反骨精神の発揮が背景としてあるので、最初にそのことについて少し触れておこう。
尾張徳川家は、徳川将軍家に後継ぎがいないときに将軍位を継ぐ者を輩出するために設置された「御三家」の筆頭で、尾張藩62万石の藩主である。藩祖義直(徳川家康の九男)以来の勤王思想を受け継ぎ、朝廷とも深い関わりを持っており、明治維新の際には倒幕軍である官軍側についている。それは御三家のひとつでもあった水戸徳川家とよく似ており、御三家のうちの二つまでもが勤王思想であったことは興味深い。その点から見ても、尾張徳川家は徳川将軍家と代々思想的な確執があったと言えるかも知れない。
この確執が最も端的に表れたのが、七代将軍の徳川家継が僅か八歳で没したときの将軍位を巡る争いで、尾張藩主六代目の徳川継友と紀州藩藩主となった徳川吉宗が将軍位を巡って争い、結局、徳川吉宗が八代将軍となったのだが、御三家筆頭としての面目がつぶれ、吉宗との間の確執が続いたのである。将軍となった吉宗が御庭番を作り尾張徳川家を見張らせたことはよく知られた事実である。その徳川継友の死についても(三八歳で急死)、吉宗の陰謀説があったりもする。この徳川継友は、「性質短慮でケチ」と言われたが尾張藩の財政を立て直し、やがて「尾張の春」と呼ばれるような繁栄をもたらしている。この継友に子どもがなかったために弟の宗春(通春)が七代藩主となったのである。
八代将軍徳川吉宗と尾張七代藩主徳川宗春はそれまで昵懇の間柄だったのだが、享保の改革が実行され、質素倹約が徹底されて祭りや芝居などが縮小されたり廃止されたりする時、宗春は尾張城下で祭りを奨励し、芝居見物を許可し、自身も派手な衣装を身に纏って、芝居小屋や遊郭などの施設を許可し、江戸幕府の方針とは全く逆の規制緩和政策を採った。宗春は吉宗に対してよりも幕閣に対して否を唱えたっかったのだろうと思う。「行きすぎた倹約はかえって庶民を苦しめることになる」と考え、江戸幕府の倹約経済政策に真っ向から対立する自由経済政策を採ったのである。
そのことで名古屋の街は活気づき、大いに繁栄した。宗春は、斬新な政策をいくつも打ち出し、まれに見る自由思想の持ち主だったのである。たとえば、宗春の治世の間では尾張藩では一人の死刑も行われなかったし、犯罪を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町作りを目指し、藩士による巡回をさせている。心中も、当時は死罪に値するものであったが、心中未遂者に夫婦として生活する許可を与えている。また、市ヶ谷にあった尾張藩上屋敷を江戸庶民に開放したりした。現代の日本政府の増税策に対して名古屋が減税策を打ち出したのは、一つの面白い現象だろう。歴史は繰り返すのかもしれない。
だが、幕府と朝廷側の争いもあったりして、朝廷と密接に関係していた尾張徳川家の宗春のこうした姿勢が質素倹約による緊縮財政政策を採る幕府の威信を揺らがせているという幕閣の批判が強くなったこともあり、幕府と朝廷の争いの中で宗春と尾張藩は政略的に板挟みとなる。それが宗春失脚につながったりして、尾張藩内部でも混乱が生じたりした。
本書は、その宗春が戸山の尾張藩下屋敷の広大な藩邸内に町屋を建設し、居ながらにして江戸の町が楽しめるような工夫を凝らしたことから、その藩邸内の町屋の責任を担わされた「うずら伝右衛門」を主人公にした物語である。
「うずら伝右衛門」は、戸山下屋敷内で飼われていた鶉(ウズラ)の小屋番であったためにこの名を宗春からつけられたものだが、その下屋敷内の町屋が消失する事件が起こり(この辺りがたぶん前作の物語なのだろうと推測される)、その町屋の再建のために御町屋庭園の責任者として御町見役を仰せつかっているのである。身分としては比較的軽いものではあるが、実は、藩主宗春の同腹(母親が同じ)の弟であり、宗春の信任も厚く、密命を帯びて宗春のために働く者でもあるという設定になている。
この「うずら伝右衛門」にぞっこん惚れているのが宗春の別式女の「百合」で、「百合」は別式女の頭で、屋敷内では家老と同等の力を与えられていた。別式女というのは、礼儀作法や武術に優れ、藩主や藩主家族の警護にあたり、剣術指導もした。大名家の家族が住む奥は男子禁制であるため武芸に優れた女性が必要とされ、外出の際などは男装していたといわれる。「百合」は、いわゆる男装の麗人といわれる美貌の持ち主で、剣の腕も優れているのである。
だからそれだけに武骨でもあり、「うずら伝右衛門」に対する恋心も見え見えで、直線的でほほえましくさえある。本書ではあまり登場しないが、もう一人の恋敵である女八卦見の「お幸」との恋の鞘当てもある。物語は、この「うずら伝右衛門」と「百合」が協力して、屋敷内外で起こる出来事に当たっていくという筋であり、第一話「不典にて候」は、藩邸内に駆け込んできた武士を匿うという武家の作法を逆手にとって「百合」に懸想して尾張藩邸にやってきた青年の素朴な心情を「うずら伝右衛門」が見抜いていくという話である。
第二話「小便組の女」は、旗本家の中間で、実は将軍徳川吉宗の御庭番でもある助十となのる折助賭博(旗本家の中間は奉行所の監視が届かない屋敷内で博打場を開いたりしていた)の親方の甚内の博打場で知り合った医者が、女を旗本の妾などに斡旋する仕事をしていることを知り、「うずら伝右衛門」がその医者の下で使われている女を助けていく話である。妾奉公をさせられる女性は、行った先で寝小便をし、それが嫌がられて帰させられることを繰り返し、医者はその斡旋手数料を稼いでいたのである。こういう女性は、いわゆる「小便組」といわれた女性で、ところが行った先の旗本に惚れ、その心情を何とかしたいという姉から「うずら伝右衛門」が相談を受け、姉に彼女の妹を縛りつけている医者と対決する方法を授けるのである。
たわいもないと言えばたわいもない話なのだが、徳川吉宗の御庭番である甚内と尾張徳川宗春に仕える「うずら伝右衛門」は、本来、仇敵なのだが、「うずら伝右衛門」の飾らない鷹揚さに、甚内はいつのまにか「うずら伝右衛門」に助力していくようになるというのが、主人公の人柄を伝えるものになっている。
第三話「川獺」は、江戸では必要だった井戸さらえや堀さらえ、川さらえの仕事に絡む事件で、尾張藩中屋敷にあった池での「川獺うわさ話」に決着をつける話で、第四話「はやり神始末」は、ひとりの男が水練中に事故死したことから、尾張徳川家三代藩主綱誠(つななり)の側室で四代藩主吉通を生んだ「お福の方」と呼ばれた本寿院の秘事が明らかになりそうになるのを防いでいく話である。
「お福の方」と呼ばれた本寿院は、性的奔放さが目にあまった女性で、寺詣と称しては若い僧侶を弄んだり、屋敷内で町人や役者などを呼び込んで乱交を繰り返し、相撲を見てはその汗の匂いがたまらずに屋敷内で相撲取りを囲ったり、医者に自分の秘所を見られればその医者と交わったりして、淫乱極まりない女性だったと言われている。真相は別にして、実際、あまりのことに幕閣でも噂となり、尾張徳川家は彼女の蟄居を命じているが、尾張徳川家の弱点で、その本寿院の秘事の証拠が幕府に知られると幕閣内で弱みを握られることから、「うずら伝右衛門」が密かにその秘事の証拠を探し出していくというものである。
本寿院は自分の欲望の達成のために金を湯水のように使ったが、本寿院の秘事の証拠は本寿院の宝だと思う人間も出てくる。それを宝として守ってきていたのは、茶商の靑山林屋という諸大名家の御用商人で、そこには歴代「猿者」と呼ばれる陰の忍者集団も仕えていた。「うずら伝右衛門」と「百合」はその「猿者」と戦い、鎖鎌を使う男とも戦い、その家に隠されていた本寿院の宝(秘事の証拠)を探し出していくのである。その宝というのが「張り形(男性器を形取った物)」とうのが笑わせる。「張り形」ひとつに何人もの人間の血が流されるのだが、上に立つ物の無思慮は下の者を苦しめる典型でもあるだろう。
第五話「次郎太刀の行方」も、上に立つ物の気ままさが下にいる者を苦しめる話で、こちらは、武芸を奨励し刀剣好きの徳川吉宗が、ふとしたことから関ヶ原の合戦で使われた大太刀の「次郎太刀」のことを聞き、それを見たいと願って調べたところ、尾張徳川家が所蔵していることがわかり、その謁見を願い出るのである。
ところが、あるはずの「次郎太刀」がない。盗まれていたのである。尾張徳川家では大騒ぎとなり、「うずら伝右衛門」が探し出していくというもので、大山詣と絡んで話が展開されている。
本書が描く「うずら伝右衛門」という主人公は、自由闊達でこだわりがなく、だからといって矜持ははずさず、ある面では宗春の自由さや柔軟性を表したような人物として描かれ、敵とも親しくなり、上に媚びず下に厚い人間で、「ウズラ」小屋でウズラの世話をし、まあ、なかなか面白い主人公であるし、美貌の女剣士「百合」のぐいぐい直線的に迫る恋心もそれなりに受けながら過ごしていくというもので、娯楽時代小説の主人公としては面白い人物だと思う。
個人的に徳川宗春という人間には少し関心があって、後の田沼意次の自由経済政策にも影響を与えたが、厳格な規則づくめの江戸武家の中で卓越した人物だっただろうとは思っているので、内容は別にしても、その尾張徳川家を舞台とした本書も好感を持って読んだかも知れない。徳川宗春に関心があるのは、好みというのではなく、経済・社会思想の点でではあるが。
今年もあと数日になり、やり残したことが山ほどあって、たぶん、茫然と懐手して過ぎ行く年を長めそうな気がする。
先に東郷隆『大江戸打壊し 御用盗銀次郎』(2006年 徳間書店)を読んだが、この一冊だけでは何とも言えない気がしていたので、続いて東郷隆『御町見役うずら伝右衛門・町あるき』(2001年 講談社)を読むことにした。
これも『御町見役うずら伝右衛門』(1999年 講談社)という前作があるのだが、尾張徳川という江戸時代の中でも極めて特異な存在を取り扱っているし、特に八代将軍徳川吉宗と尾張の徳川宗春の確執は人間的にもなかなか興味を引くものがあるので、『御用盗銀次郎』よりも面白く読めた。徳川吉宗と尾張の徳川宗春の確執は様々な時代小説の背景としてよく出てくるが、多くは江戸幕府中興の祖ともいわれる八代将軍徳川吉宗の側から尾張徳川家の悪辣さを描き出すもので、尾張徳川家の立場にいる人物を取り上げた作品は意外に少ない。その意味でも着眼が面白いと思った。
この物語には、その徳川将軍家と尾張徳川家の間の確執が背景としてあり、特に尾張徳川家の七代藩主であった徳川宗春による江戸幕府に対する反骨精神の発揮が背景としてあるので、最初にそのことについて少し触れておこう。
尾張徳川家は、徳川将軍家に後継ぎがいないときに将軍位を継ぐ者を輩出するために設置された「御三家」の筆頭で、尾張藩62万石の藩主である。藩祖義直(徳川家康の九男)以来の勤王思想を受け継ぎ、朝廷とも深い関わりを持っており、明治維新の際には倒幕軍である官軍側についている。それは御三家のひとつでもあった水戸徳川家とよく似ており、御三家のうちの二つまでもが勤王思想であったことは興味深い。その点から見ても、尾張徳川家は徳川将軍家と代々思想的な確執があったと言えるかも知れない。
この確執が最も端的に表れたのが、七代将軍の徳川家継が僅か八歳で没したときの将軍位を巡る争いで、尾張藩主六代目の徳川継友と紀州藩藩主となった徳川吉宗が将軍位を巡って争い、結局、徳川吉宗が八代将軍となったのだが、御三家筆頭としての面目がつぶれ、吉宗との間の確執が続いたのである。将軍となった吉宗が御庭番を作り尾張徳川家を見張らせたことはよく知られた事実である。その徳川継友の死についても(三八歳で急死)、吉宗の陰謀説があったりもする。この徳川継友は、「性質短慮でケチ」と言われたが尾張藩の財政を立て直し、やがて「尾張の春」と呼ばれるような繁栄をもたらしている。この継友に子どもがなかったために弟の宗春(通春)が七代藩主となったのである。
八代将軍徳川吉宗と尾張七代藩主徳川宗春はそれまで昵懇の間柄だったのだが、享保の改革が実行され、質素倹約が徹底されて祭りや芝居などが縮小されたり廃止されたりする時、宗春は尾張城下で祭りを奨励し、芝居見物を許可し、自身も派手な衣装を身に纏って、芝居小屋や遊郭などの施設を許可し、江戸幕府の方針とは全く逆の規制緩和政策を採った。宗春は吉宗に対してよりも幕閣に対して否を唱えたっかったのだろうと思う。「行きすぎた倹約はかえって庶民を苦しめることになる」と考え、江戸幕府の倹約経済政策に真っ向から対立する自由経済政策を採ったのである。
そのことで名古屋の街は活気づき、大いに繁栄した。宗春は、斬新な政策をいくつも打ち出し、まれに見る自由思想の持ち主だったのである。たとえば、宗春の治世の間では尾張藩では一人の死刑も行われなかったし、犯罪を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町作りを目指し、藩士による巡回をさせている。心中も、当時は死罪に値するものであったが、心中未遂者に夫婦として生活する許可を与えている。また、市ヶ谷にあった尾張藩上屋敷を江戸庶民に開放したりした。現代の日本政府の増税策に対して名古屋が減税策を打ち出したのは、一つの面白い現象だろう。歴史は繰り返すのかもしれない。
だが、幕府と朝廷側の争いもあったりして、朝廷と密接に関係していた尾張徳川家の宗春のこうした姿勢が質素倹約による緊縮財政政策を採る幕府の威信を揺らがせているという幕閣の批判が強くなったこともあり、幕府と朝廷の争いの中で宗春と尾張藩は政略的に板挟みとなる。それが宗春失脚につながったりして、尾張藩内部でも混乱が生じたりした。
本書は、その宗春が戸山の尾張藩下屋敷の広大な藩邸内に町屋を建設し、居ながらにして江戸の町が楽しめるような工夫を凝らしたことから、その藩邸内の町屋の責任を担わされた「うずら伝右衛門」を主人公にした物語である。
「うずら伝右衛門」は、戸山下屋敷内で飼われていた鶉(ウズラ)の小屋番であったためにこの名を宗春からつけられたものだが、その下屋敷内の町屋が消失する事件が起こり(この辺りがたぶん前作の物語なのだろうと推測される)、その町屋の再建のために御町屋庭園の責任者として御町見役を仰せつかっているのである。身分としては比較的軽いものではあるが、実は、藩主宗春の同腹(母親が同じ)の弟であり、宗春の信任も厚く、密命を帯びて宗春のために働く者でもあるという設定になている。
この「うずら伝右衛門」にぞっこん惚れているのが宗春の別式女の「百合」で、「百合」は別式女の頭で、屋敷内では家老と同等の力を与えられていた。別式女というのは、礼儀作法や武術に優れ、藩主や藩主家族の警護にあたり、剣術指導もした。大名家の家族が住む奥は男子禁制であるため武芸に優れた女性が必要とされ、外出の際などは男装していたといわれる。「百合」は、いわゆる男装の麗人といわれる美貌の持ち主で、剣の腕も優れているのである。
だからそれだけに武骨でもあり、「うずら伝右衛門」に対する恋心も見え見えで、直線的でほほえましくさえある。本書ではあまり登場しないが、もう一人の恋敵である女八卦見の「お幸」との恋の鞘当てもある。物語は、この「うずら伝右衛門」と「百合」が協力して、屋敷内外で起こる出来事に当たっていくという筋であり、第一話「不典にて候」は、藩邸内に駆け込んできた武士を匿うという武家の作法を逆手にとって「百合」に懸想して尾張藩邸にやってきた青年の素朴な心情を「うずら伝右衛門」が見抜いていくという話である。
第二話「小便組の女」は、旗本家の中間で、実は将軍徳川吉宗の御庭番でもある助十となのる折助賭博(旗本家の中間は奉行所の監視が届かない屋敷内で博打場を開いたりしていた)の親方の甚内の博打場で知り合った医者が、女を旗本の妾などに斡旋する仕事をしていることを知り、「うずら伝右衛門」がその医者の下で使われている女を助けていく話である。妾奉公をさせられる女性は、行った先で寝小便をし、それが嫌がられて帰させられることを繰り返し、医者はその斡旋手数料を稼いでいたのである。こういう女性は、いわゆる「小便組」といわれた女性で、ところが行った先の旗本に惚れ、その心情を何とかしたいという姉から「うずら伝右衛門」が相談を受け、姉に彼女の妹を縛りつけている医者と対決する方法を授けるのである。
たわいもないと言えばたわいもない話なのだが、徳川吉宗の御庭番である甚内と尾張徳川宗春に仕える「うずら伝右衛門」は、本来、仇敵なのだが、「うずら伝右衛門」の飾らない鷹揚さに、甚内はいつのまにか「うずら伝右衛門」に助力していくようになるというのが、主人公の人柄を伝えるものになっている。
第三話「川獺」は、江戸では必要だった井戸さらえや堀さらえ、川さらえの仕事に絡む事件で、尾張藩中屋敷にあった池での「川獺うわさ話」に決着をつける話で、第四話「はやり神始末」は、ひとりの男が水練中に事故死したことから、尾張徳川家三代藩主綱誠(つななり)の側室で四代藩主吉通を生んだ「お福の方」と呼ばれた本寿院の秘事が明らかになりそうになるのを防いでいく話である。
「お福の方」と呼ばれた本寿院は、性的奔放さが目にあまった女性で、寺詣と称しては若い僧侶を弄んだり、屋敷内で町人や役者などを呼び込んで乱交を繰り返し、相撲を見てはその汗の匂いがたまらずに屋敷内で相撲取りを囲ったり、医者に自分の秘所を見られればその医者と交わったりして、淫乱極まりない女性だったと言われている。真相は別にして、実際、あまりのことに幕閣でも噂となり、尾張徳川家は彼女の蟄居を命じているが、尾張徳川家の弱点で、その本寿院の秘事の証拠が幕府に知られると幕閣内で弱みを握られることから、「うずら伝右衛門」が密かにその秘事の証拠を探し出していくというものである。
本寿院は自分の欲望の達成のために金を湯水のように使ったが、本寿院の秘事の証拠は本寿院の宝だと思う人間も出てくる。それを宝として守ってきていたのは、茶商の靑山林屋という諸大名家の御用商人で、そこには歴代「猿者」と呼ばれる陰の忍者集団も仕えていた。「うずら伝右衛門」と「百合」はその「猿者」と戦い、鎖鎌を使う男とも戦い、その家に隠されていた本寿院の宝(秘事の証拠)を探し出していくのである。その宝というのが「張り形(男性器を形取った物)」とうのが笑わせる。「張り形」ひとつに何人もの人間の血が流されるのだが、上に立つ物の無思慮は下の者を苦しめる典型でもあるだろう。
第五話「次郎太刀の行方」も、上に立つ物の気ままさが下にいる者を苦しめる話で、こちらは、武芸を奨励し刀剣好きの徳川吉宗が、ふとしたことから関ヶ原の合戦で使われた大太刀の「次郎太刀」のことを聞き、それを見たいと願って調べたところ、尾張徳川家が所蔵していることがわかり、その謁見を願い出るのである。
ところが、あるはずの「次郎太刀」がない。盗まれていたのである。尾張徳川家では大騒ぎとなり、「うずら伝右衛門」が探し出していくというもので、大山詣と絡んで話が展開されている。
本書が描く「うずら伝右衛門」という主人公は、自由闊達でこだわりがなく、だからといって矜持ははずさず、ある面では宗春の自由さや柔軟性を表したような人物として描かれ、敵とも親しくなり、上に媚びず下に厚い人間で、「ウズラ」小屋でウズラの世話をし、まあ、なかなか面白い主人公であるし、美貌の女剣士「百合」のぐいぐい直線的に迫る恋心もそれなりに受けながら過ごしていくというもので、娯楽時代小説の主人公としては面白い人物だと思う。
個人的に徳川宗春という人間には少し関心があって、後の田沼意次の自由経済政策にも影響を与えたが、厳格な規則づくめの江戸武家の中で卓越した人物だっただろうとは思っているので、内容は別にしても、その尾張徳川家を舞台とした本書も好感を持って読んだかも知れない。徳川宗春に関心があるのは、好みというのではなく、経済・社会思想の点でではあるが。
今年もあと数日になり、やり残したことが山ほどあって、たぶん、茫然と懐手して過ぎ行く年を長めそうな気がする。
2011年12月27日火曜日
東郷隆『大江戸打壊し 御用盗銀次郎』
いよいよ今年も押し詰まってきたわけで、禍と混乱、悲しみの多かった年も終わろうとしている。過ぎ去る時は、もはや取り返すことができない無限の彼方に去る。こうして年々歳々が繰り返されていく。人はただ日々の暮らしの喜怒哀楽の中で生命の営みを続けるだけだが、その生命の営みが難しい。今年はつくづくそう思う。
十年後に切腹を命じられ、淡々と生きるひとりの男の姿を描いた葉室麟『蜩の記』を読んで見たいと思っているが、まだ手にしていない。彼の作品はわたしの琴線に触れてしまい、今年であった最高の作家だと思っている。しかも、『蜩の記』は、いまのわたしの心境にはぴったりのような気がしている。
そんな中で、いささかハードボイルド時代小説のような東郷隆『大江戸打壊し 御用盗銀次郎』(2006年 徳間書店)を読んだ。この作家について詳細は知らないが、ゲームソフトなどでよく聞く『信長の野望』の原作者のようで、わたしのような感性をもつ人間は、どちらかといえばあまり触手が動かない作家なのだが読んでみることにした。内容のほとんどは創作だろうが、ときおり司馬遼太郎的な記述の仕方もあり、こういう作風もありかな、と思いつつ読み進めた。
この作品はシリーズ物の一つであるが、シリーズの表題となっている「御用盗」というのは、幕末のころに混乱した江戸で市中を荒らし回った浪人たちのことで、薩摩藩による倒幕策のひとつとして強盗や喧嘩騒ぎを起こして江戸市中を混乱に陥れた薩摩浪士隊が結成されたりしている。西郷隆盛がそういう浪士隊を使ったとすれば、それは彼に似合わない姑息な手段だったと言える気がする。浪士隊は、商家を襲う打壊し運動も展開したようである。「御用盗」に関する歴史資料はほとんど残されていないが、薩摩浪士隊は、後に相良総三という人物が率いた「赤報隊」に繋がる。
「赤報隊」は、維新の際に薩長新政府の意を受けて、農村などの支持を得るために「年貢が半減される」ということを各地で触れ回ったが、新政府はそういう財力がどこにもなく、彼らが勝手にやったこととして偽官軍の汚名を着せ、絶滅させた。「赤報隊」の浪士たちは、尊皇攘夷と貧民救済を合わせたような思想集団であった。それはまさに「赤心」であったが、政治力も方策もなく、薩長の権力で握りつぶされてしまった哀れさが残る。幕末から明治維新にかけて、新撰組もそうだが、こういう人々が血を流し続けた。こういう人たちを見ると、権力に踊らされて、利用され、やがて捨てられる武士の哀れさをどこか感じるので、何ともやりきれない。
本書は、その御用盗として混乱する時代の中を生き抜いていく魁銀次郎という凄腕の侍を主人公にして、この銀次郎が江戸市中で起こった打壊しなどに関わっていく物語である。銀次郎は、いわゆる「人斬り」であり、江戸幕府が市中警護のために浪人や旗本の次男・三男を中心にして結成した新徴組(京都の新撰組とも繋がりがあった)にも関わり、やがて、庶民の一揆運動のような様相をもった打壊しや「ええじゃないか騒動」とも関係していく。その中で、「赤報隊」を指導した村上四郎左衛門と名乗っていた相良総三とも関わっていく姿が描き出されている。本書の物語の中心をなすのは、江戸市中での打壊し運動である。
ただ、これは前作『御用盗銀次郎』(2004年 徳間書店)があるので、そこから読んでいる人には違和感がないかも知れないが、本作だけを読むと、冒頭に、元新徴組隊士の片岡主水というなかなか腕の立つ浪人が登場し、彼と主人公の銀次郎の出会の話が記されているのだが、それ以後にはこの片岡主水が全く登場せずに、冒頭に出てくる片岡主水は何だったのか、という思いが残ってしまった。しかし、内容は無頼の人斬りとして生きていく魁銀次郎の姿と当時の攘夷浪士たちの倒幕運動の展開で、それなりの面白さはある。文章も、内容に合わせてあるのかも知れないが、どこか武骨で、当時の殺伐とした雰囲気が伝わるとはいえ、全体的にニヒルなハードボイルド的である。ただ、どちらかと言えば、今のわたしの心情には合わない気がしながら読み終えた。
「人斬り」は、土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛、中村半次郎(後の桐野利秋)などもそうだが、どこかやるせなさが残る。このうち、桐野利秋だけが明治まで生き残ったが、西南戦争で戦死している。彼らは、ある意味で純朴だったのだが、それだけに力に利用される悲しみを背負っている。
本書の主人公魁銀次郎は、そういう哀しみよりも、むしろ、割り切って自由闊達に生きようとした姿がある人物として描き出され、その意味ではハードボイルド時代小説とでもいうべき作品になっている。
十年後に切腹を命じられ、淡々と生きるひとりの男の姿を描いた葉室麟『蜩の記』を読んで見たいと思っているが、まだ手にしていない。彼の作品はわたしの琴線に触れてしまい、今年であった最高の作家だと思っている。しかも、『蜩の記』は、いまのわたしの心境にはぴったりのような気がしている。
そんな中で、いささかハードボイルド時代小説のような東郷隆『大江戸打壊し 御用盗銀次郎』(2006年 徳間書店)を読んだ。この作家について詳細は知らないが、ゲームソフトなどでよく聞く『信長の野望』の原作者のようで、わたしのような感性をもつ人間は、どちらかといえばあまり触手が動かない作家なのだが読んでみることにした。内容のほとんどは創作だろうが、ときおり司馬遼太郎的な記述の仕方もあり、こういう作風もありかな、と思いつつ読み進めた。
この作品はシリーズ物の一つであるが、シリーズの表題となっている「御用盗」というのは、幕末のころに混乱した江戸で市中を荒らし回った浪人たちのことで、薩摩藩による倒幕策のひとつとして強盗や喧嘩騒ぎを起こして江戸市中を混乱に陥れた薩摩浪士隊が結成されたりしている。西郷隆盛がそういう浪士隊を使ったとすれば、それは彼に似合わない姑息な手段だったと言える気がする。浪士隊は、商家を襲う打壊し運動も展開したようである。「御用盗」に関する歴史資料はほとんど残されていないが、薩摩浪士隊は、後に相良総三という人物が率いた「赤報隊」に繋がる。
「赤報隊」は、維新の際に薩長新政府の意を受けて、農村などの支持を得るために「年貢が半減される」ということを各地で触れ回ったが、新政府はそういう財力がどこにもなく、彼らが勝手にやったこととして偽官軍の汚名を着せ、絶滅させた。「赤報隊」の浪士たちは、尊皇攘夷と貧民救済を合わせたような思想集団であった。それはまさに「赤心」であったが、政治力も方策もなく、薩長の権力で握りつぶされてしまった哀れさが残る。幕末から明治維新にかけて、新撰組もそうだが、こういう人々が血を流し続けた。こういう人たちを見ると、権力に踊らされて、利用され、やがて捨てられる武士の哀れさをどこか感じるので、何ともやりきれない。
本書は、その御用盗として混乱する時代の中を生き抜いていく魁銀次郎という凄腕の侍を主人公にして、この銀次郎が江戸市中で起こった打壊しなどに関わっていく物語である。銀次郎は、いわゆる「人斬り」であり、江戸幕府が市中警護のために浪人や旗本の次男・三男を中心にして結成した新徴組(京都の新撰組とも繋がりがあった)にも関わり、やがて、庶民の一揆運動のような様相をもった打壊しや「ええじゃないか騒動」とも関係していく。その中で、「赤報隊」を指導した村上四郎左衛門と名乗っていた相良総三とも関わっていく姿が描き出されている。本書の物語の中心をなすのは、江戸市中での打壊し運動である。
ただ、これは前作『御用盗銀次郎』(2004年 徳間書店)があるので、そこから読んでいる人には違和感がないかも知れないが、本作だけを読むと、冒頭に、元新徴組隊士の片岡主水というなかなか腕の立つ浪人が登場し、彼と主人公の銀次郎の出会の話が記されているのだが、それ以後にはこの片岡主水が全く登場せずに、冒頭に出てくる片岡主水は何だったのか、という思いが残ってしまった。しかし、内容は無頼の人斬りとして生きていく魁銀次郎の姿と当時の攘夷浪士たちの倒幕運動の展開で、それなりの面白さはある。文章も、内容に合わせてあるのかも知れないが、どこか武骨で、当時の殺伐とした雰囲気が伝わるとはいえ、全体的にニヒルなハードボイルド的である。ただ、どちらかと言えば、今のわたしの心情には合わない気がしながら読み終えた。
「人斬り」は、土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛、中村半次郎(後の桐野利秋)などもそうだが、どこかやるせなさが残る。このうち、桐野利秋だけが明治まで生き残ったが、西南戦争で戦死している。彼らは、ある意味で純朴だったのだが、それだけに力に利用される悲しみを背負っている。
本書の主人公魁銀次郎は、そういう哀しみよりも、むしろ、割り切って自由闊達に生きようとした姿がある人物として描き出され、その意味ではハードボイルド時代小説とでもいうべき作品になっている。
2011年12月23日金曜日
高橋義夫『亡者の鐘 御隠居忍法』
寒波の襲来した冬らしい寒い曇り空が広がっている。昨日は冬至で、これから徐々に日中の時間が長くなっていくのだが、「地球は何もかも乗せて巡るなあ」と思ったりする。静かに時が流れていくのをぼんやり眺めていた。北朝鮮での指導者の死も、行き交う人たちも自分の「実存」にはかすかな意味しかもたらさないので、目くじらを立てて騒動することもなく、再び、ひたすら日常の自己満足に向かっていくのも悪くないと思っている。結局は、自分が満足できるかどうか、それが自己の関心事であってもよい。
そんなことを考えながら夜を過ごし、高橋義夫『亡者の鐘 御隠居忍法』(2006年 中央公論社)を気楽に読んだ。これは、このシリーズの五作品目の作品だが、一話完結の形で記されているので、前作を知らなくても気楽に読めるが、四作目の『御隠居忍法 唐船番』(2002年 実業之日本社)を以前に読んでいた。出版社が変わっているので表題の表記の仕方が変えてあるのだろう。
主人公は、鹿間狸斎という元公儀御庭番の伊賀者で、四十歳の声を聞くとさっさと家督を息子に譲り、隠居して、嫁いだ娘が住む奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らすようになった人物である。隠居といってもまだ四十歳代で、知力も気力もあり、伊賀者として身につけた探索力と手腕もある。彼が隠居すると同時に、彼の妻は彼の元を去ったが、五合枡村で「おすえ」という手伝いの女性との間に子どももできている。ある意味で羨ましい境遇ではある。
このシリーズは、その鹿間狸斎が関係する人々の事件や元の上司で御庭番を束ねる人物からの依頼などで、隠居の身とはいえ探索する事件に関わっていく話が展開されているのだが、本書では、彼が住む五合枡村の近くの天領であった小板橋郷の奥寺で住持学頭(寺の総責任者)が鐘つき堂の釣り鐘の下敷きになって死に、それ以来、その奥寺の時の鐘が「亡者の鐘」と呼ばれるようになったことから、その噂の真相と住持学頭の死の真相を探っていく話である。
奥寺の住持学頭の死についての探索のために幕府から靑山俊蔵という侍が遣わされることになり、鹿間狸斎に、狸斎の上司であった御庭番頭からの添書をつけての助力の依頼があったことから、狸斎が靑山俊蔵に同行して小板橋郷まで出かけていく所から始まるのである。
死んだ住持学頭の奥寺は、江戸の東叡山が直轄する寺で、東叡山寛永寺が徳川家の菩提寺であり、奥寺での事件は幕府にとっても大きな事件だったのである。派遣されてきた靑山俊蔵は、自分は算学侍だというが、どうも御庭番のひとりらしい。
その靑山俊蔵とともに狸斎は、医者で冬虫夏草を探しているという触れ込みで奥寺まで出かけ、奥寺の住持学頭が鐘の下敷きで死んだのではなく、殺されたことを見抜いていくが、奥寺の村民全部が彼らの探索の邪魔をし、命さえ狙おうとするのである。奥寺の住民全部が外からの介入を阻止しようとしているのである。
そんな中で探索に出た靑山俊蔵も崖から落とされて怪我をしたり、矢を射かけられたりするし、同行した岡っ引きの手下も怪我をしてしまう。だが、鹿間狸斎は探索を続け、この村が昔の「隠れ忍びの里」で、殺された住持学頭が江戸から奥寺の財政改革のためにやってきて、末寺の寺領を取り上げる策に出たために、末寺と村民たちが刺客を放って住持学頭を殺したことを突きとめていくのである。
全体を通してみれば、主人公の鹿間狸斎は、隠居とはいえまだ40代の若さであり、しかも公儀御庭番として鍛え抜かれた技量と知識があり、彼が関わる事件が、人の欲が絡んだ財政問題、あるいはお家騒動であったりするという展開は、まあ、いってみれば気慰めの娯楽小説としての面白さがある。
地方色の豊かさや村の閉鎖性などがよく表されている。村が閉鎖されているだけに人間関係が複雑にならざるを得ず、わたしのようなボヘミアン的志向の強い人間には、その人間関係に縛られている姿が不思議に思えたりする。嫌ならさっさと出て行き、そうして野垂れ死にしても良いと、今のわたしは思っている。物語の本筋とは無関係だが、本書の犯人のひとりが即身仏なる場面が描かれているが、若いころに野ざらしの中で餓死することを考えていたことを、ふと思い出したりした。
村を守る、あるいは国を守る、家を守るという意識の強烈さはよく知っているが、守るべきものはあまりないと思っているから、そういう意識が下敷きになっている人々に会うと、わたしも閉口してしまう。思想的なことをいえば、この物語は閉鎖性と開放性の戦いの物語のようなものだろう。
そんなことを考えながら夜を過ごし、高橋義夫『亡者の鐘 御隠居忍法』(2006年 中央公論社)を気楽に読んだ。これは、このシリーズの五作品目の作品だが、一話完結の形で記されているので、前作を知らなくても気楽に読めるが、四作目の『御隠居忍法 唐船番』(2002年 実業之日本社)を以前に読んでいた。出版社が変わっているので表題の表記の仕方が変えてあるのだろう。
主人公は、鹿間狸斎という元公儀御庭番の伊賀者で、四十歳の声を聞くとさっさと家督を息子に譲り、隠居して、嫁いだ娘が住む奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らすようになった人物である。隠居といってもまだ四十歳代で、知力も気力もあり、伊賀者として身につけた探索力と手腕もある。彼が隠居すると同時に、彼の妻は彼の元を去ったが、五合枡村で「おすえ」という手伝いの女性との間に子どももできている。ある意味で羨ましい境遇ではある。
このシリーズは、その鹿間狸斎が関係する人々の事件や元の上司で御庭番を束ねる人物からの依頼などで、隠居の身とはいえ探索する事件に関わっていく話が展開されているのだが、本書では、彼が住む五合枡村の近くの天領であった小板橋郷の奥寺で住持学頭(寺の総責任者)が鐘つき堂の釣り鐘の下敷きになって死に、それ以来、その奥寺の時の鐘が「亡者の鐘」と呼ばれるようになったことから、その噂の真相と住持学頭の死の真相を探っていく話である。
奥寺の住持学頭の死についての探索のために幕府から靑山俊蔵という侍が遣わされることになり、鹿間狸斎に、狸斎の上司であった御庭番頭からの添書をつけての助力の依頼があったことから、狸斎が靑山俊蔵に同行して小板橋郷まで出かけていく所から始まるのである。
死んだ住持学頭の奥寺は、江戸の東叡山が直轄する寺で、東叡山寛永寺が徳川家の菩提寺であり、奥寺での事件は幕府にとっても大きな事件だったのである。派遣されてきた靑山俊蔵は、自分は算学侍だというが、どうも御庭番のひとりらしい。
その靑山俊蔵とともに狸斎は、医者で冬虫夏草を探しているという触れ込みで奥寺まで出かけ、奥寺の住持学頭が鐘の下敷きで死んだのではなく、殺されたことを見抜いていくが、奥寺の村民全部が彼らの探索の邪魔をし、命さえ狙おうとするのである。奥寺の住民全部が外からの介入を阻止しようとしているのである。
そんな中で探索に出た靑山俊蔵も崖から落とされて怪我をしたり、矢を射かけられたりするし、同行した岡っ引きの手下も怪我をしてしまう。だが、鹿間狸斎は探索を続け、この村が昔の「隠れ忍びの里」で、殺された住持学頭が江戸から奥寺の財政改革のためにやってきて、末寺の寺領を取り上げる策に出たために、末寺と村民たちが刺客を放って住持学頭を殺したことを突きとめていくのである。
全体を通してみれば、主人公の鹿間狸斎は、隠居とはいえまだ40代の若さであり、しかも公儀御庭番として鍛え抜かれた技量と知識があり、彼が関わる事件が、人の欲が絡んだ財政問題、あるいはお家騒動であったりするという展開は、まあ、いってみれば気慰めの娯楽小説としての面白さがある。
地方色の豊かさや村の閉鎖性などがよく表されている。村が閉鎖されているだけに人間関係が複雑にならざるを得ず、わたしのようなボヘミアン的志向の強い人間には、その人間関係に縛られている姿が不思議に思えたりする。嫌ならさっさと出て行き、そうして野垂れ死にしても良いと、今のわたしは思っている。物語の本筋とは無関係だが、本書の犯人のひとりが即身仏なる場面が描かれているが、若いころに野ざらしの中で餓死することを考えていたことを、ふと思い出したりした。
村を守る、あるいは国を守る、家を守るという意識の強烈さはよく知っているが、守るべきものはあまりないと思っているから、そういう意識が下敷きになっている人々に会うと、わたしも閉口してしまう。思想的なことをいえば、この物語は閉鎖性と開放性の戦いの物語のようなものだろう。
2011年12月21日水曜日
宮部みゆき『おまえさん 上下』(2)
朝方は雲が覆った冬空が広がっていたが、今の時間になって雲が晴れ、陽がさしている。冬はこんなに寒かったかなと思うほどだが、たぶん、こちらの体調の具合にもよるのだろう寒さが堪える。
今年は、喪中欠礼の葉書がたくさん届き、「しがらみを捨てて、自分の意志を大切にして生きること」の大切さを改めて感じたりしている。少々自己中心的であっても、他者にも優しく「矩を越えなければ」それがいいのではないかと思ったりもする。「変えるべきものは変え、変えることができないものは受け入れ、変えるべきものと変えることができないものを見分けていく」そうして、自分が納得できればそれでいい。自己の範囲をどこまでとるかが問題だが、時間とお金は自己満足のために使おう。偽善はもういい。一休和尚や良寛さん、小林一茶などを思い起こしたりする。
そんなことを考えながら、昨夜、磁器のサラダボールを洗っていたら、不思議に真っ二つに割れてしまった。力を加えたわけでも何かに当てたわけでもなく、自然にパカリと割れた感じで、昔から器がこういう割れ方をするのは不吉のしるしといわれてきたことが頭をよぎり、大切なものが失われたのかも知れないと思ったりした。もちろん、現実には掌を切ったぐらいで何の変化もなかったのだが。
そんな一日が明けて、さて、宮部みゆき『おまえさん』の続きを記すことにした。事件は20年の歳月を経て起こったのである。20年前に犯した罪を背負いながら生きてきた大黒屋の主人と「瓶屋」の新兵衛、久助は、それぞれの人生を歩んでいく。しかし、新兵衛と久助が殺されて不安になった大黒屋の主人が、自らが犯した事件を井筒平四郎らに告白する。だが、事柄はそれだけではなく、「瓶屋」の隣で医家を開いていた医師が死に、まだ喪が明けないうちに医師の妻であった美貌の「佐多枝」が新兵衛の後妻になっていた。そのことで医師の死に疑念がもたれたのである。
新兵衛には、人形のように美しい「史乃」という娘がおり、新兵衛が美貌の「佐多枝」を後妻として迎えたころから、父親に対する疑念もあって親子関係がぎくしゃくしていた。「佐多枝」の夫である医師の死は、酒に酔って溝にはまった全くの事故死だったのだが、娘の「史乃」は、父親が「佐多枝」を自分のものにするために殺したと疑い続けていたのである。「史乃」は、20年前に父親が起こした殺人も知っていた。しかし、医師の死とと久助の死が結びつかないでいた。
こういう事態を打開するのは、やはり、天才弓之助である。弓之助の視点は、天才らしく素直である。弓之助は瓶屋新兵衛が室内で殺され、しかも家で争われた形跡もないことから、手引きをする者がいたに違いないと考え犯人を探り出していくのである。
そして、事故死した隣家の医師にいた男前の弟子が、医師の死と20年前の事件を関連づけ、いわば天誅を下すようなつもりで、久助と新兵衛を「史乃」と共同して殺し、夜鷹は捜査の目を欺くために殺したことを明白にしていくのである。「史乃」と若い男前の弟子は、美男美女で、互いに愛し合っていたのである。だが、井筒平四郎は若い医師の弟子は「佐多枝」に想いがあるのではないかと考えたりする。
同心の間島信之輔は、事件で知り合った「史乃」に惹かれ、恋心を抱き、探索の進展をついもらしてしまう。そして、手が回ったことを知った若い弟子と「史乃」は逃亡するのである。行くへはようとしてつかめなかった。間島信之輔の失敗を間島家にやっかいになっていた大叔父と呼ぶ本宮源右衛門がかぶり、信之輔は鬱々とした日々を過ごしていく。若い間島信之輔は、また、瓶屋に出いるするうちに「佐多枝」にも惹かれていく。
だが、しばらく経って、ふとしたことで犯人の若い弟子と「史乃」の隠れ家がわかり、「史乃」は捕縛されて、若い弟子は追い詰められて水死することで事件が決着するのである。
その間に、間島家を出た本宮源右衛門は、「お徳」の家の2階で学問所を開くことになったり、様々な人間模様が展開され、富くじが当たったばかりに身を滅ぼすことになってしまった男や、その周囲の人々の物語があったり、殺された夜鷹やその友人の話があったりして、実に多彩な展開がされている。ひとりひとりの人物には、ひとりひとりの人生と生活があり、それが描き出されているのだから、これだけの長編になるのもうなずける。「おでこ」の母親がなぜ「おでこ」を捨てたのか、その「おでこ」を気遣う政五郎とお紺の夫婦の姿など感動的であるし、井筒平四郎の物事に拘らないさっぱりとした大きな性格や細君のよさ、天才美少年弓之助の面白さなど、ふんだんに描き出される。登場人物たちに生きた人間の匂いがするのである。
本書で取り扱われる事件そのものは極めて単純である。それは、いってみれば、見栄えの良い美貌の青年にたぶらかされて、正義の仮面をかぶり、生家である生薬屋の乗っ取りが陰にあることも知らずに父親殺しをした娘の事件である。だが、それにまつわるひとりひとりの人間の人生と生活、心情が丁寧に、しかも軽妙な筆使いで展開されていくのである。宮部みゆきは、やはり、うまい作家だと思う。おそらく、今、一番うまい物語作家だろうと思う。これは、細部にわたってそのうまさが光る作品だった。
今年は、喪中欠礼の葉書がたくさん届き、「しがらみを捨てて、自分の意志を大切にして生きること」の大切さを改めて感じたりしている。少々自己中心的であっても、他者にも優しく「矩を越えなければ」それがいいのではないかと思ったりもする。「変えるべきものは変え、変えることができないものは受け入れ、変えるべきものと変えることができないものを見分けていく」そうして、自分が納得できればそれでいい。自己の範囲をどこまでとるかが問題だが、時間とお金は自己満足のために使おう。偽善はもういい。一休和尚や良寛さん、小林一茶などを思い起こしたりする。
そんなことを考えながら、昨夜、磁器のサラダボールを洗っていたら、不思議に真っ二つに割れてしまった。力を加えたわけでも何かに当てたわけでもなく、自然にパカリと割れた感じで、昔から器がこういう割れ方をするのは不吉のしるしといわれてきたことが頭をよぎり、大切なものが失われたのかも知れないと思ったりした。もちろん、現実には掌を切ったぐらいで何の変化もなかったのだが。
そんな一日が明けて、さて、宮部みゆき『おまえさん』の続きを記すことにした。事件は20年の歳月を経て起こったのである。20年前に犯した罪を背負いながら生きてきた大黒屋の主人と「瓶屋」の新兵衛、久助は、それぞれの人生を歩んでいく。しかし、新兵衛と久助が殺されて不安になった大黒屋の主人が、自らが犯した事件を井筒平四郎らに告白する。だが、事柄はそれだけではなく、「瓶屋」の隣で医家を開いていた医師が死に、まだ喪が明けないうちに医師の妻であった美貌の「佐多枝」が新兵衛の後妻になっていた。そのことで医師の死に疑念がもたれたのである。
新兵衛には、人形のように美しい「史乃」という娘がおり、新兵衛が美貌の「佐多枝」を後妻として迎えたころから、父親に対する疑念もあって親子関係がぎくしゃくしていた。「佐多枝」の夫である医師の死は、酒に酔って溝にはまった全くの事故死だったのだが、娘の「史乃」は、父親が「佐多枝」を自分のものにするために殺したと疑い続けていたのである。「史乃」は、20年前に父親が起こした殺人も知っていた。しかし、医師の死とと久助の死が結びつかないでいた。
こういう事態を打開するのは、やはり、天才弓之助である。弓之助の視点は、天才らしく素直である。弓之助は瓶屋新兵衛が室内で殺され、しかも家で争われた形跡もないことから、手引きをする者がいたに違いないと考え犯人を探り出していくのである。
そして、事故死した隣家の医師にいた男前の弟子が、医師の死と20年前の事件を関連づけ、いわば天誅を下すようなつもりで、久助と新兵衛を「史乃」と共同して殺し、夜鷹は捜査の目を欺くために殺したことを明白にしていくのである。「史乃」と若い男前の弟子は、美男美女で、互いに愛し合っていたのである。だが、井筒平四郎は若い医師の弟子は「佐多枝」に想いがあるのではないかと考えたりする。
同心の間島信之輔は、事件で知り合った「史乃」に惹かれ、恋心を抱き、探索の進展をついもらしてしまう。そして、手が回ったことを知った若い弟子と「史乃」は逃亡するのである。行くへはようとしてつかめなかった。間島信之輔の失敗を間島家にやっかいになっていた大叔父と呼ぶ本宮源右衛門がかぶり、信之輔は鬱々とした日々を過ごしていく。若い間島信之輔は、また、瓶屋に出いるするうちに「佐多枝」にも惹かれていく。
だが、しばらく経って、ふとしたことで犯人の若い弟子と「史乃」の隠れ家がわかり、「史乃」は捕縛されて、若い弟子は追い詰められて水死することで事件が決着するのである。
その間に、間島家を出た本宮源右衛門は、「お徳」の家の2階で学問所を開くことになったり、様々な人間模様が展開され、富くじが当たったばかりに身を滅ぼすことになってしまった男や、その周囲の人々の物語があったり、殺された夜鷹やその友人の話があったりして、実に多彩な展開がされている。ひとりひとりの人物には、ひとりひとりの人生と生活があり、それが描き出されているのだから、これだけの長編になるのもうなずける。「おでこ」の母親がなぜ「おでこ」を捨てたのか、その「おでこ」を気遣う政五郎とお紺の夫婦の姿など感動的であるし、井筒平四郎の物事に拘らないさっぱりとした大きな性格や細君のよさ、天才美少年弓之助の面白さなど、ふんだんに描き出される。登場人物たちに生きた人間の匂いがするのである。
本書で取り扱われる事件そのものは極めて単純である。それは、いってみれば、見栄えの良い美貌の青年にたぶらかされて、正義の仮面をかぶり、生家である生薬屋の乗っ取りが陰にあることも知らずに父親殺しをした娘の事件である。だが、それにまつわるひとりひとりの人間の人生と生活、心情が丁寧に、しかも軽妙な筆使いで展開されていくのである。宮部みゆきは、やはり、うまい作家だと思う。おそらく、今、一番うまい物語作家だろうと思う。これは、細部にわたってそのうまさが光る作品だった。
2011年12月19日月曜日
宮部みゆき『おまえさん 上下』(1)
クリスマス前の一週間となり、年も押し詰まって慌ただしくなっているのだが、だいたい毎年、今頃は気分も呆けたようになっている。年明け早々に締めきりのある原稿にも手をつけずに、いっさいを横に置いてぼんやりと日々を過ごしている。これではいけないと朝から掃除をはじめ、カーテンを洗濯し、寝具を変えたりしていた。
ようやく一段落つき、宮部みゆき『おまえさん 上・下』(2011年 講談社文庫)を楽しみながら読んでいたので記しておくことにする。これは『ぼんくら』(2000年 講談社)、『日暮らし』(2005年 講談社)に続く作品で、どちらかといえばミステリーやSF物よりも時代小説の方がいい作品だと思っている宮部みゆきの久々のまとまった時代小説だから、発売されるとすぐに購入していた。作者の時代小説の最高作品は『孤宿の人』だと思うが、『ぼんくら』、『日暮らし』、『おまえさん』のシリーズの発行年がほぼ5年ごとで、まず、作者の思考力の持続性に脱帽する。しかも、本質的に物語作家であり長編作家である作者の書き下ろす分量は、本書でもかなり厚い上下二巻本で、執筆するエネルギー量にも驚嘆する。長編になる理由は作者の人間観をよく表していると思う。
宮部みゆきの文章や感性も非常に優れているが、この連続した三作品は、何と言っても登場人物がユニークである。
中心となっているのは奉行所臨時廻りの同心である井筒平四郎で、物覚えも悪く、細かなことは考えたくもなく、できるだけ働きたくないと思っているほどの茫洋とした人物だが、内実は、人を罪に定めることが嫌いで、鷹揚で懐が深く、情け深い人物なのである。実際は、繊細な感性と明察力をもっているが、それを決して表に出さないだけである。だから、かなりいいかげんな人間に映る。容貌も風采が上がらず、細い目に頬がこけて顎が長く、無精ひげがぼそぼそと生え、ひょろりとした体格をしている。剣の腕もからっきし駄目で、すぐに腰が引け、ぎっくり腰の持病もあって体力もない。こういう人物が作中の中心人物なのだから、展開が面白くないわけがない。
彼は仕事をしたくないので、ふとした事件で知り合った煮売り屋の「お徳」が営む「おとく屋」に入り浸っている。「お徳」との出会は『ぼんくら』で詳しく述べられている。その「お徳」もまた人情家で、気っぷのいい女性だが、しっかり者であり、井筒平四郎の本当の良さをよく知っている人物である。彼女は平四郎が自分の店でごろごろするのを喜んでいるのである。
彼の細君は、彼とは反対に絶世の美貌の持ち主で、明るく機知に富んでおり、手習い所の師匠をするほどの女性である。二人には子どもがない。その細君の姉が藍玉屋に嫁いでもうけた12歳になる四男の弓之助を養子にしたいと思っている。本書では、その細君の機知ぶりが光り、平四郎が恐れ入る場面も描かれている。
平四郎が可愛がり、養子にしたいと思っている藍玉屋の四男である少年弓之助は、誰もが虜になるほどの完璧な美貌の持ち主で、その美貌故に女難に遭うのではないかと思われるほどの少年であるが、それ以上に天才的な頭脳の持ち主である。天が二物も三物もを与えた少年である。自らも学問に精進し、家でもよく働くしっかり者であるが、好奇心旺盛で、物の道理を見極めたいと思っている。そのため少し風変わりな言動もとったりするが、人々の信任も厚い。ただ、おねしょ癖が治らない少年でもある。そして、叔父である平四郎を助け、難解な事件も筋道を立てて解決することができる才能の持ち主である。平四郎と並んで物語の主人公でもあり、その成長ぶりが巧みな筆致で描き出されていく。
平四郎の人物を見抜き、彼の人柄に惚れて、彼のために働く岡っ引きの政五郎は町の人からも信頼の厚い人情家で、機転が利き、「お紺」という妻があり、その「お紺」も人情家で蕎麦屋を営んでいる。そして、その政五郎とお紺の夫婦が引き取って育て、可愛がっているのが「おでこ」と呼ばれる三太郎で、「おでこ」は、すべての事柄を正しく記憶することができる特異な才能の持ち主なのである。「おでこ」と弓之助は深い友人となって、名コンビを作っている。
「おでこ」の父親は人を殺して牢屋で死に、「おでこ」は「鈍くて他の兄弟の足を引っ張る」という理由で母親からも捨てられたのである。その「おでこ」を周囲の人々は温かく信頼をもって育てている。母親が「おでこ」を捨てたのは事情があったことが本書で明らかにされていくが、どう考えても、「おでこ」の母親の「おきえ」は身勝手な哀れな女性でもある。
その他の周辺人物たちも、平四郎の家に仕える小物である小平次やおかまの髪結いである浅次郎、「お徳」の店で働く二人の少女、政五郎の手下たち、あるいはいくつかの事件に関わり合いのあった人物たちも、それぞれ個性豊かに描き出されて、物語の人間模様が描かれている。
本書では、それらの人物に加えて、新しく同心になった間島信之輔や、彼が大叔父と呼ぶ風変わりな本宮源右衛門という老人が登場し、物語はこの間島信之輔を巡っても展開される。
間島信之輔は若い同心で、十手術をはじめとする腕も立ち、人柄もよく、見所のある立派な青年であり、平四郎に学ぶことが多いと尊敬しているが、醜男で、平四郎はそれをしきりに残念がったりする。そして、この間島信之輔が抱く恋心が思わぬ方向に発展していったりするのである。
本宮源右衛門という老人は、冷飯食いの境遇で親戚中を盥回しにされ、間島家でやっかいになっているのだが、見聞が広く、学問もある老人で、事件の核心を見抜く力もあり、やがては天才少年である弓之助や「おでこ」が師と仰いでいくようになってくのである。
また、本書ではじめて弓之助の兄弟が登場し、長兄の結婚話や三男である淳三郎という気のいいお気楽な青年も登場し、この淳三郎の活躍が記されたりしている。
こういう多彩な人物たちの中で、本書で中心となっている事件は、「お徳」の家の近くの橋の上で一人の風采の上がらない男が斬り殺され、ついで同じ手口で「瓶屋」という薬屋の主人が殺され、また、夜鷹が殺されるという事件である。これらの手口が同じだと見抜いたのは間島信之輔の大叔父の本宮源右衛門で、井筒平四郎、間島信之輔、そして岡っ引きの政五郎が、それらの事件の探索を開始するのである。
最初の二つの事件の関連がなく、橋の上で殺された男の身元がなかなかわからなかったし、次に殺された「瓶屋」の主人との関連もない。「瓶屋」の主人が殺された理由もわからない。だが、殺された人の姿がいつまでも橋の上に残っていたことから、なにかの薬を飲んでいて血が固まってしまったことを本宮源右衛門と弓之助が気づき、それが、かつて「ざく」と呼ばれる調剤師だったことがわかっていくのである。そして、次に殺された「瓶屋」という薬屋の主人との関係が次第に明らかになるのである。それは、20年前に、大黒屋という生薬屋で、橋の上で殺された男と「瓶屋」の主人が、同じように「ざく(調剤師)」として働いていたことであった。
この二人が殺された理由が20年前に遡って調べられていく。20年前、今の大黒屋の主人である藤右衛門と瓶屋の新兵衛、そして橋の上で殺された久助は、共に大黒屋の奉公人で、その店にいた傲慢な「ざく(調剤師)」に怒り、また彼が新しい薬を作り出したことを知り、彼を湯屋で殺してしまっていたのである。「瓶屋」新兵衛は、その薬を使って独立したいと思っていた。そして、殺された「ざく」が新しく作ったかゆみ止めの薬が「瓶屋」で売り出されて評判を取っていた。今度の事件はその意趣返しではないかと思われたのである。
そこで、湯屋で殺された「ざく」の係累が探し出されていくが、そこに同じ手口で夜鷹が殺され、また、殺された「ざく」が女房にしたいと思っていた女とその腹に宿っていた子どもも死んでいることがわかり、事件は再び謎に包まれていくのである。
だが、この袋小路に陥ってしまった事件の謎を弓之助が見事に解き明かす。そして、物語は新たな展開へと進んで行く。この辺りのことからは、今日は、少し、しなければならないことが残っているから、また次に書くことにしたい。
ようやく一段落つき、宮部みゆき『おまえさん 上・下』(2011年 講談社文庫)を楽しみながら読んでいたので記しておくことにする。これは『ぼんくら』(2000年 講談社)、『日暮らし』(2005年 講談社)に続く作品で、どちらかといえばミステリーやSF物よりも時代小説の方がいい作品だと思っている宮部みゆきの久々のまとまった時代小説だから、発売されるとすぐに購入していた。作者の時代小説の最高作品は『孤宿の人』だと思うが、『ぼんくら』、『日暮らし』、『おまえさん』のシリーズの発行年がほぼ5年ごとで、まず、作者の思考力の持続性に脱帽する。しかも、本質的に物語作家であり長編作家である作者の書き下ろす分量は、本書でもかなり厚い上下二巻本で、執筆するエネルギー量にも驚嘆する。長編になる理由は作者の人間観をよく表していると思う。
宮部みゆきの文章や感性も非常に優れているが、この連続した三作品は、何と言っても登場人物がユニークである。
中心となっているのは奉行所臨時廻りの同心である井筒平四郎で、物覚えも悪く、細かなことは考えたくもなく、できるだけ働きたくないと思っているほどの茫洋とした人物だが、内実は、人を罪に定めることが嫌いで、鷹揚で懐が深く、情け深い人物なのである。実際は、繊細な感性と明察力をもっているが、それを決して表に出さないだけである。だから、かなりいいかげんな人間に映る。容貌も風采が上がらず、細い目に頬がこけて顎が長く、無精ひげがぼそぼそと生え、ひょろりとした体格をしている。剣の腕もからっきし駄目で、すぐに腰が引け、ぎっくり腰の持病もあって体力もない。こういう人物が作中の中心人物なのだから、展開が面白くないわけがない。
彼は仕事をしたくないので、ふとした事件で知り合った煮売り屋の「お徳」が営む「おとく屋」に入り浸っている。「お徳」との出会は『ぼんくら』で詳しく述べられている。その「お徳」もまた人情家で、気っぷのいい女性だが、しっかり者であり、井筒平四郎の本当の良さをよく知っている人物である。彼女は平四郎が自分の店でごろごろするのを喜んでいるのである。
彼の細君は、彼とは反対に絶世の美貌の持ち主で、明るく機知に富んでおり、手習い所の師匠をするほどの女性である。二人には子どもがない。その細君の姉が藍玉屋に嫁いでもうけた12歳になる四男の弓之助を養子にしたいと思っている。本書では、その細君の機知ぶりが光り、平四郎が恐れ入る場面も描かれている。
平四郎が可愛がり、養子にしたいと思っている藍玉屋の四男である少年弓之助は、誰もが虜になるほどの完璧な美貌の持ち主で、その美貌故に女難に遭うのではないかと思われるほどの少年であるが、それ以上に天才的な頭脳の持ち主である。天が二物も三物もを与えた少年である。自らも学問に精進し、家でもよく働くしっかり者であるが、好奇心旺盛で、物の道理を見極めたいと思っている。そのため少し風変わりな言動もとったりするが、人々の信任も厚い。ただ、おねしょ癖が治らない少年でもある。そして、叔父である平四郎を助け、難解な事件も筋道を立てて解決することができる才能の持ち主である。平四郎と並んで物語の主人公でもあり、その成長ぶりが巧みな筆致で描き出されていく。
平四郎の人物を見抜き、彼の人柄に惚れて、彼のために働く岡っ引きの政五郎は町の人からも信頼の厚い人情家で、機転が利き、「お紺」という妻があり、その「お紺」も人情家で蕎麦屋を営んでいる。そして、その政五郎とお紺の夫婦が引き取って育て、可愛がっているのが「おでこ」と呼ばれる三太郎で、「おでこ」は、すべての事柄を正しく記憶することができる特異な才能の持ち主なのである。「おでこ」と弓之助は深い友人となって、名コンビを作っている。
「おでこ」の父親は人を殺して牢屋で死に、「おでこ」は「鈍くて他の兄弟の足を引っ張る」という理由で母親からも捨てられたのである。その「おでこ」を周囲の人々は温かく信頼をもって育てている。母親が「おでこ」を捨てたのは事情があったことが本書で明らかにされていくが、どう考えても、「おでこ」の母親の「おきえ」は身勝手な哀れな女性でもある。
その他の周辺人物たちも、平四郎の家に仕える小物である小平次やおかまの髪結いである浅次郎、「お徳」の店で働く二人の少女、政五郎の手下たち、あるいはいくつかの事件に関わり合いのあった人物たちも、それぞれ個性豊かに描き出されて、物語の人間模様が描かれている。
本書では、それらの人物に加えて、新しく同心になった間島信之輔や、彼が大叔父と呼ぶ風変わりな本宮源右衛門という老人が登場し、物語はこの間島信之輔を巡っても展開される。
間島信之輔は若い同心で、十手術をはじめとする腕も立ち、人柄もよく、見所のある立派な青年であり、平四郎に学ぶことが多いと尊敬しているが、醜男で、平四郎はそれをしきりに残念がったりする。そして、この間島信之輔が抱く恋心が思わぬ方向に発展していったりするのである。
本宮源右衛門という老人は、冷飯食いの境遇で親戚中を盥回しにされ、間島家でやっかいになっているのだが、見聞が広く、学問もある老人で、事件の核心を見抜く力もあり、やがては天才少年である弓之助や「おでこ」が師と仰いでいくようになってくのである。
また、本書ではじめて弓之助の兄弟が登場し、長兄の結婚話や三男である淳三郎という気のいいお気楽な青年も登場し、この淳三郎の活躍が記されたりしている。
こういう多彩な人物たちの中で、本書で中心となっている事件は、「お徳」の家の近くの橋の上で一人の風采の上がらない男が斬り殺され、ついで同じ手口で「瓶屋」という薬屋の主人が殺され、また、夜鷹が殺されるという事件である。これらの手口が同じだと見抜いたのは間島信之輔の大叔父の本宮源右衛門で、井筒平四郎、間島信之輔、そして岡っ引きの政五郎が、それらの事件の探索を開始するのである。
最初の二つの事件の関連がなく、橋の上で殺された男の身元がなかなかわからなかったし、次に殺された「瓶屋」の主人との関連もない。「瓶屋」の主人が殺された理由もわからない。だが、殺された人の姿がいつまでも橋の上に残っていたことから、なにかの薬を飲んでいて血が固まってしまったことを本宮源右衛門と弓之助が気づき、それが、かつて「ざく」と呼ばれる調剤師だったことがわかっていくのである。そして、次に殺された「瓶屋」という薬屋の主人との関係が次第に明らかになるのである。それは、20年前に、大黒屋という生薬屋で、橋の上で殺された男と「瓶屋」の主人が、同じように「ざく(調剤師)」として働いていたことであった。
この二人が殺された理由が20年前に遡って調べられていく。20年前、今の大黒屋の主人である藤右衛門と瓶屋の新兵衛、そして橋の上で殺された久助は、共に大黒屋の奉公人で、その店にいた傲慢な「ざく(調剤師)」に怒り、また彼が新しい薬を作り出したことを知り、彼を湯屋で殺してしまっていたのである。「瓶屋」新兵衛は、その薬を使って独立したいと思っていた。そして、殺された「ざく」が新しく作ったかゆみ止めの薬が「瓶屋」で売り出されて評判を取っていた。今度の事件はその意趣返しではないかと思われたのである。
そこで、湯屋で殺された「ざく」の係累が探し出されていくが、そこに同じ手口で夜鷹が殺され、また、殺された「ざく」が女房にしたいと思っていた女とその腹に宿っていた子どもも死んでいることがわかり、事件は再び謎に包まれていくのである。
だが、この袋小路に陥ってしまった事件の謎を弓之助が見事に解き明かす。そして、物語は新たな展開へと進んで行く。この辺りのことからは、今日は、少し、しなければならないことが残っているから、また次に書くことにしたい。
2011年12月16日金曜日
松井今朝子『西南の嵐 銀座開花おもかげ草紙』
天気が猫の目のように変わって、昨日はどんよりと曇って寒かったが、今朝はよく晴れている。ただ、気温は低く、セーターを引っ張り出して着込んだりした。最近は、寒さに負けて出かける時に車を使うことが多くなっていたのだが、今朝、体力の衰えを感じて、今日は少し歩いてみようと思ったりする。
先日、松井今朝子『西南の嵐 銀座開花おもかげ草紙』(2010年 新潮社)を面白く読んでいたので記しておく。この書物を手にとって、これがすぐに『銀座開花事件帖』(2005年 新潮社)の続編だと気づいた。前作の出版が2005年で、これが2010年だから、5年もの月日があるので、その間にもこのシリーズで何か書かれているかも知れないが、どうもこれが続編のような気がする。前作である『銀座開花事件帖』を読んだのがいつか調べてみると、2010年9月21日で、わたし自身も一年以上たってから続編を読んだことになるのだが、明治初期の銀座を舞台にして、新しい世の中と古い世の中が混在する極めて混乱した時代に生きた人々を描いた作品だったのでよく覚えていた。
前作から引き続いて登場して来る人物は、大垣藩主戸田家の四男として生まれ、明治4年(1871年)に岩倉具視らの外交使節団に同行し、帰国後、洗礼を受けてクリスチャンとなり、銀座に原胤昭と共にキリスト教書店「十時屋」を設立したり、キリスト教会を設立したりして、民権運動でも活躍し、日本最初の政治小説である『民権講義情海波瀾』を書いた戸田欽堂(1850-1890年)や、元南町奉行所与力で、維新後クリスチャンとなって戸田欽堂(三郎四郎氏益)と共に「十時屋書店」を開き、民権運動に関わったりして、後に(明治16年)新聞条例違反で投獄された経験から日本初の教誨師となった原胤昭(1853-1942)などが、実に巧みに、それも物語の中心を為す人物として描かれている。「十時屋書店」は現在の教文館であり、原胤昭が設立した原女学校は女子学院である。教文館には時々出かけるし、女子学院も先生や生徒と出会う機会がよくある。
本書では戸田欽堂は、大名の子息らしくどこか育ちのよい器の大きな人物として描かれているし、原胤昭は西洋の新風を身につけた利発さをもちながらも、元町奉行所与力らしい毅然として生きる人物として描かれている。
だが、本書の主人公はこれらの人々ではなく、元旗本の次男で、上野戦争で薩摩藩士の残虐非道の仕打ちを見てこの藩士と争い、維新後、人を殺すことを快感と思うような残虐な薩摩藩士が明治政府の高官となったために銀座裏に身を隠しながら、薩摩藩士に殺された人々の恨みと、あのような人間は将来的に悪しか行わないことからその男を誅したいと思っている久保田宗八郎である。
旧来の文化や精神性と新しい明治の世の姿がぶつかり合う銀座で、侍としての矜持と新しい精神性を求める気持ちが主人公の中にあって、時代の激流の中で自分の生き方を探り出していこうとする姿が描かれていくのである。
上野戦争の時の薩摩の官軍隊長であった石谷蕃隆の残虐非道ぶりを偶然に目撃して、見るに見かねて彼と対決して峰打ちで斬り、命を取らなかったことが仇となって、維新後、政府高官になった石谷蕃隆に狙われるようになり、自分の親族や母親代わりに育ててくれた女性を殺され、なんとかその仇を討ちたいと思っていた久保田宗八郎は、戸田家の若様が作った銀座裏の赤煉瓦の借家に身を寄せながら、石谷蕃隆に近づく道を探し、無為徒食の日々を送っていた。前作では、その借家に住まう過程やそこで起こったいくつかの事件に関係して事件の解決に奔走する姿が描かれていたが、本作ではその借家に出入りしていた人々のその後の顛末が、1877年(明治10年)の西南戦争と絡んで展開されていく。
1876年(明治9年)に、明治政府は秩禄処分(武家の禄-給金-の廃止)や廃刀令を出し、それによって武家の生活は急激に瓦解していったが、そのことに不満を持ち、攘夷勤王の思想を強く引きずっていた熊本の肥後藩士たちが「敬神党」と呼ばれる集団を作り、大挙して反乱を起こした通称「神風連の乱」と呼ばれる反乱が起こった。これに引き続いて福岡で「秋月の乱」が起こり、山口の萩で前原一誠が挙兵し、やがてこれが西郷隆盛を担ぎ出した西南戦争へと繋がっていくが、本書はその明治10年の一連の事件を背景としており、まず、「神風連の乱」の生き残りである加瀬久磨次という青年を久保田宗八郎が銀座裏の煉瓦棟で一時預かりの形で匿っているところから始まるのである。
加瀬久磨次は、頑なに西洋風の生活を拒み、部屋の中で蟄居同様に生活していたが、窓の外を通る若い女性に岡惚れし、この女性が男に連れ去れれるのを目撃して家を飛び出し、ついには官憲に捕まってしまうのであるが、女性には女性の事情があり、彼女はただ母親との貧しい生活を支えるために酌婦になるだけだったのである。一本気な加瀬久磨次の古い体質の武家としての直情的な姿と、生きるための手管を使う女性、そういう姿が描かれていくのである。大体において、男は状況の中で死んでいくが、どんな世の中になっても女は生き残るような力がある。したたかさを生来的にもっているのだと思う。
それはともかく、やがて西南戦争が勃発する。銀座裏の煉瓦棟の住人であり、戸田や久保田とも親交があった純朴な市来巡査も所属する警視庁の命令で西南戦争に駆り出されるし、久保田宗八郎が仇と狙う残虐な石谷蕃隆も九州へ向けて出発する。久保田宗八郎に惚れて一緒に生活していた古い江戸の気っぷの良さをもつ髪結いをしている比呂(ひろ)が助けていた旧旗本の子女の夫も、生活のために官軍の輜重(弾薬や食糧を運ぶ役)として西南戦争に行く。戦地は熊本である。
そして、田原坂の激戦の最中に、市来巡査は殺されかけるところを石谷蕃隆に助けられ、その石谷蕃隆が右足を打たれたところを彼が助け、その蕃隆を荷車で引いて野戦病院となっていた寺まで運んだのが、比呂が髪結いとして助けていた旗本の子女の夫であるという運命の巡り合わせが起こるのである。旗本の子女の夫は西南戦争で命を落とす。
熊本にいたころ、西南戦争の激戦地であった田原坂は毎日のように通った。少し山の中に入れば、その痕跡は今も生々しく残っているが、そこを通る度に「分け入っても 分け入っても 青い山」という山頭火の言葉が浮かんでいたのを思い出す。
その田原坂で市来巡査が助けた石谷蕃隆が友人である久保田宗八郎の仇敵であることを知りつつも、市来巡査は片足を失った石谷蕃隆を介護する役が命じられ、帰京する。そして、銀座に帰り着いたときに、久保田宗八郎と出会い、久保田宗八郎は石谷蕃隆と対決する。だが、石谷蕃隆が既に片足を失っていることで、彼は刀を収めていくのである。
そうしているうちに、久保田宗八郎に惚れて、彼の世話をしていた比呂が癌に冒されていることがわかり、次第に比呂は痩せ衰えていって宗八郎のことを想いながら死んでいく。比呂は、医者の娘であり、原胤昭や戸田欽堂とも親交をもってクリスチャンでもあった闊達な娘であった鵜殿綾が久保田宗八郎に惚れていることを知っており、彼女に跡を託していくのである。比呂の宗八郎を想う愛情の深さは涙を誘うものがある。比呂は、以前は品川の遊女であったが、しゃきしゃきの江戸っ子気質をもつさっぱりとした女性で、髪結いをしながら宗八郎を支えてきたのである。その支えを宗八郎は失う。
それは、宗八郎にとって一つの終焉であった。だが、久保田宗八郎は、比呂を失い、仇と思っていた石谷蕃隆との決着も自ら刀を引くことで終え、それらを胸に納めながら、かつて比呂と一緒に渡りたかった品川の海を眺め、いつかはこの海を渡れそうな気がしていくのである。時が新しい時を刻みはじめ、その流れ来ては去っていく時を眺め、再び歩み出していくのである。
明治10年(1877年)は、ようやく旧体制が終わりを告げる年でもあった。だが、新しい夜明けはまだ来ずに、混沌とした状態が続き、人の暮らしは逼迫し、人心も荒れていた。だが、始まったのだから、人はその中を歩んでいく以外の道はない。西郷隆盛のように、それが愚かなことであると重々承知してもその道を行かなければならない時でもあった。そういう中で生きるひとりの人間、それがこの書で描かれているような気がする。読了後、たぶん、主人公の久保田宗八郎のような人間が、時代に翻弄されることなく自らを貫いて生きていく人間になっていくのだろうというような、漠とした感想をもった。前作もそうだったが、本作も味のある作品だと思う。
先日、松井今朝子『西南の嵐 銀座開花おもかげ草紙』(2010年 新潮社)を面白く読んでいたので記しておく。この書物を手にとって、これがすぐに『銀座開花事件帖』(2005年 新潮社)の続編だと気づいた。前作の出版が2005年で、これが2010年だから、5年もの月日があるので、その間にもこのシリーズで何か書かれているかも知れないが、どうもこれが続編のような気がする。前作である『銀座開花事件帖』を読んだのがいつか調べてみると、2010年9月21日で、わたし自身も一年以上たってから続編を読んだことになるのだが、明治初期の銀座を舞台にして、新しい世の中と古い世の中が混在する極めて混乱した時代に生きた人々を描いた作品だったのでよく覚えていた。
前作から引き続いて登場して来る人物は、大垣藩主戸田家の四男として生まれ、明治4年(1871年)に岩倉具視らの外交使節団に同行し、帰国後、洗礼を受けてクリスチャンとなり、銀座に原胤昭と共にキリスト教書店「十時屋」を設立したり、キリスト教会を設立したりして、民権運動でも活躍し、日本最初の政治小説である『民権講義情海波瀾』を書いた戸田欽堂(1850-1890年)や、元南町奉行所与力で、維新後クリスチャンとなって戸田欽堂(三郎四郎氏益)と共に「十時屋書店」を開き、民権運動に関わったりして、後に(明治16年)新聞条例違反で投獄された経験から日本初の教誨師となった原胤昭(1853-1942)などが、実に巧みに、それも物語の中心を為す人物として描かれている。「十時屋書店」は現在の教文館であり、原胤昭が設立した原女学校は女子学院である。教文館には時々出かけるし、女子学院も先生や生徒と出会う機会がよくある。
本書では戸田欽堂は、大名の子息らしくどこか育ちのよい器の大きな人物として描かれているし、原胤昭は西洋の新風を身につけた利発さをもちながらも、元町奉行所与力らしい毅然として生きる人物として描かれている。
だが、本書の主人公はこれらの人々ではなく、元旗本の次男で、上野戦争で薩摩藩士の残虐非道の仕打ちを見てこの藩士と争い、維新後、人を殺すことを快感と思うような残虐な薩摩藩士が明治政府の高官となったために銀座裏に身を隠しながら、薩摩藩士に殺された人々の恨みと、あのような人間は将来的に悪しか行わないことからその男を誅したいと思っている久保田宗八郎である。
旧来の文化や精神性と新しい明治の世の姿がぶつかり合う銀座で、侍としての矜持と新しい精神性を求める気持ちが主人公の中にあって、時代の激流の中で自分の生き方を探り出していこうとする姿が描かれていくのである。
上野戦争の時の薩摩の官軍隊長であった石谷蕃隆の残虐非道ぶりを偶然に目撃して、見るに見かねて彼と対決して峰打ちで斬り、命を取らなかったことが仇となって、維新後、政府高官になった石谷蕃隆に狙われるようになり、自分の親族や母親代わりに育ててくれた女性を殺され、なんとかその仇を討ちたいと思っていた久保田宗八郎は、戸田家の若様が作った銀座裏の赤煉瓦の借家に身を寄せながら、石谷蕃隆に近づく道を探し、無為徒食の日々を送っていた。前作では、その借家に住まう過程やそこで起こったいくつかの事件に関係して事件の解決に奔走する姿が描かれていたが、本作ではその借家に出入りしていた人々のその後の顛末が、1877年(明治10年)の西南戦争と絡んで展開されていく。
1876年(明治9年)に、明治政府は秩禄処分(武家の禄-給金-の廃止)や廃刀令を出し、それによって武家の生活は急激に瓦解していったが、そのことに不満を持ち、攘夷勤王の思想を強く引きずっていた熊本の肥後藩士たちが「敬神党」と呼ばれる集団を作り、大挙して反乱を起こした通称「神風連の乱」と呼ばれる反乱が起こった。これに引き続いて福岡で「秋月の乱」が起こり、山口の萩で前原一誠が挙兵し、やがてこれが西郷隆盛を担ぎ出した西南戦争へと繋がっていくが、本書はその明治10年の一連の事件を背景としており、まず、「神風連の乱」の生き残りである加瀬久磨次という青年を久保田宗八郎が銀座裏の煉瓦棟で一時預かりの形で匿っているところから始まるのである。
加瀬久磨次は、頑なに西洋風の生活を拒み、部屋の中で蟄居同様に生活していたが、窓の外を通る若い女性に岡惚れし、この女性が男に連れ去れれるのを目撃して家を飛び出し、ついには官憲に捕まってしまうのであるが、女性には女性の事情があり、彼女はただ母親との貧しい生活を支えるために酌婦になるだけだったのである。一本気な加瀬久磨次の古い体質の武家としての直情的な姿と、生きるための手管を使う女性、そういう姿が描かれていくのである。大体において、男は状況の中で死んでいくが、どんな世の中になっても女は生き残るような力がある。したたかさを生来的にもっているのだと思う。
それはともかく、やがて西南戦争が勃発する。銀座裏の煉瓦棟の住人であり、戸田や久保田とも親交があった純朴な市来巡査も所属する警視庁の命令で西南戦争に駆り出されるし、久保田宗八郎が仇と狙う残虐な石谷蕃隆も九州へ向けて出発する。久保田宗八郎に惚れて一緒に生活していた古い江戸の気っぷの良さをもつ髪結いをしている比呂(ひろ)が助けていた旧旗本の子女の夫も、生活のために官軍の輜重(弾薬や食糧を運ぶ役)として西南戦争に行く。戦地は熊本である。
そして、田原坂の激戦の最中に、市来巡査は殺されかけるところを石谷蕃隆に助けられ、その石谷蕃隆が右足を打たれたところを彼が助け、その蕃隆を荷車で引いて野戦病院となっていた寺まで運んだのが、比呂が髪結いとして助けていた旗本の子女の夫であるという運命の巡り合わせが起こるのである。旗本の子女の夫は西南戦争で命を落とす。
熊本にいたころ、西南戦争の激戦地であった田原坂は毎日のように通った。少し山の中に入れば、その痕跡は今も生々しく残っているが、そこを通る度に「分け入っても 分け入っても 青い山」という山頭火の言葉が浮かんでいたのを思い出す。
その田原坂で市来巡査が助けた石谷蕃隆が友人である久保田宗八郎の仇敵であることを知りつつも、市来巡査は片足を失った石谷蕃隆を介護する役が命じられ、帰京する。そして、銀座に帰り着いたときに、久保田宗八郎と出会い、久保田宗八郎は石谷蕃隆と対決する。だが、石谷蕃隆が既に片足を失っていることで、彼は刀を収めていくのである。
そうしているうちに、久保田宗八郎に惚れて、彼の世話をしていた比呂が癌に冒されていることがわかり、次第に比呂は痩せ衰えていって宗八郎のことを想いながら死んでいく。比呂は、医者の娘であり、原胤昭や戸田欽堂とも親交をもってクリスチャンでもあった闊達な娘であった鵜殿綾が久保田宗八郎に惚れていることを知っており、彼女に跡を託していくのである。比呂の宗八郎を想う愛情の深さは涙を誘うものがある。比呂は、以前は品川の遊女であったが、しゃきしゃきの江戸っ子気質をもつさっぱりとした女性で、髪結いをしながら宗八郎を支えてきたのである。その支えを宗八郎は失う。
それは、宗八郎にとって一つの終焉であった。だが、久保田宗八郎は、比呂を失い、仇と思っていた石谷蕃隆との決着も自ら刀を引くことで終え、それらを胸に納めながら、かつて比呂と一緒に渡りたかった品川の海を眺め、いつかはこの海を渡れそうな気がしていくのである。時が新しい時を刻みはじめ、その流れ来ては去っていく時を眺め、再び歩み出していくのである。
明治10年(1877年)は、ようやく旧体制が終わりを告げる年でもあった。だが、新しい夜明けはまだ来ずに、混沌とした状態が続き、人の暮らしは逼迫し、人心も荒れていた。だが、始まったのだから、人はその中を歩んでいく以外の道はない。西郷隆盛のように、それが愚かなことであると重々承知してもその道を行かなければならない時でもあった。そういう中で生きるひとりの人間、それがこの書で描かれているような気がする。読了後、たぶん、主人公の久保田宗八郎のような人間が、時代に翻弄されることなく自らを貫いて生きていく人間になっていくのだろうというような、漠とした感想をもった。前作もそうだったが、本作も味のある作品だと思う。
2011年12月14日水曜日
畠中恵『まんまこと』
昨日まで晴れていたのに、一転して雨が雪でも落ちてきそうなどんよりした灰色の雲が広がっている。その空を眺めながらコーヒーを入れ、新聞に目を通して、いつものように一日が始まる。骨身を削るような空気の冷たさがある。少し風邪気味なのか身体が重い。
畠中恵『まんまこと』(2007年 文藝春秋)を気楽に読んでいたので記しておくことにする。この作者については、以前『しゃばけ』がテレビで放映されて、取り扱われる題材が、「もののけ」や「ゆうれい話」、あるいは生活の苦労があまりない「若旦那」などの印象があって、なかなか触手が伸びなかったのだが、実際に作品を読んでみると、平易な流れるような文体で、なかなか味のある人物像を描く作家だということに気がついた。
この作品も、「若旦那」である江戸時代の町名主の跡取り息子を主人公にした作品であるが、小さいころから真面目だった名主の若旦那が、失恋を機にぐれだし、近所でも評判のお気楽でいい加減な男となり、友人と遊び呆けているが、人情家で、様々な町内の揉め事を物事に拘らない視点で収めていくという内容である。
江戸期、特に中期の18世紀には江戸は南北の町奉行の支配下で3名の町年寄が置かれ、その町年寄の下にさらに250名ほどの町名主が約1600町に置かれて、治安や民政に当たっていたが、本書はその町名主の息子であるお気楽に日々を送っている麻之助(町名主は苗字が許され、父は高橋宗右衛門という)を主人公にして、奉行所で扱う刑事事件以外の町内の揉め事を明晰な頭脳と楽天気質で解決していく顛末を描いたものである。
従って、描かれるものは生死に関わるような事件ではないが、かといってどうにも裁きようのない日常の中で起こりうる難問で、たとえば、第一話「まんまこと」では、麻之助の遊び仲間でもあり友人でもある同じ町名主の息子で、容姿端麗の女好きである清十郎のところに身に覚えのない娘から子どもができたと押しつけられ、その娘の本当の父親を捜し出してすべてを丸く収めたり(こう書いてしまうと簡単なようだが、娘を身ごもらせた男の身勝手さや娘の心情など、実にうまく展開されている)、第二話「柿の実は半分」では、麻之助が柿泥棒をした家に娘を名乗る女性が現れ、それが嘘と知りつつも娘として受け入れる孤独な老人や、その老人のもつ財産を巡る親戚の争いの中で、老人と娘の二人の孤独を埋める策を考案したり、第三話「万年、青いやつ」では、高価となる万年青の苗を自分のものだと言い張る二人の人間の間で、その真相を探し、その間を裁いたり、第四話「吾が子か、他の子か、誰の子か」では、自分の孫を捜す武家の勘違いを正していったりしていくわけである。
麻之助は少し可愛いと見れば手当たり次第に手を出していく女好きの清十郎と同心見習い押している真面目で堅物の吉五郎の友人がいて、三人は神田の剣術道場で知り合い、以後、いつもつるんでいるのである。それぞれが特徴があって、しかも互いを認め合っているので、無理のない友情が続いている。そして、この麻之助と幼馴染みで札差の妾腹の子であった美貌の「お由有」は、双方共に恋心をもってはいたが結ばれることなく、「お由有」は、友人の清十郎の父に嫁いでいる。そこに複雑な二人の心情があるし、真面目だった麻之助が突然好い加減な人間に様変わりした事情もあった。「お由有」には幸太という子があり、いわば「お由有」の若気の至りの子であるが、この子を麻之助も可愛がっていた。しかし、清十郎の父であり、「お由有」の夫でもある町名主を逆恨みして幸太を誘拐する事件が起こったりする(第六話「靜心なく」)。
二人の心情は複雑で、麻之助は「お由有」に想いを寄せ続けているが、踏み切れなかったし、今も踏み切れないでいる。麻之助はお気楽ないい加減さを装っているが、根は生真面目で正直なのである。また、麻之助に縁談話が持ち込まれるが、相手とされる女性に複雑な事情があり、その事情を知っていったり、想いを寄せる「お由有」とは、遂には結ばれない定めにあることを自覚していったりしていく過程が巧みに描かれている。
若いころの自分のふがいなさからいい加減な人間を装うようになったが、もともと頭脳明晰でさっぱりした性格の持ち主である麻之助が、世の中の機微を知っていきながら町名主として成長していく姿が、彼の恋とともに描き出されているのである。
柔らかな筆致で、しかも麻之助や清十郎の名コンビや堅物の吉五郎、いい加減に生きている麻之助を案じたり認めたりする彼の父親など、ゆるりとした中でも情の溢れる人々の姿が描き出されて、極めて気楽に読める作品になっている。作者は、元々は漫画家だったそうだが、全体がコミカルで面白い。考えてみるまでもなく、人生はいい加減でお気楽なものなのだから、高杉晋作ではないが、自分に正直であれば、「おもしろきこともなき世をおもしろく」でいいのである。
畠中恵『まんまこと』(2007年 文藝春秋)を気楽に読んでいたので記しておくことにする。この作者については、以前『しゃばけ』がテレビで放映されて、取り扱われる題材が、「もののけ」や「ゆうれい話」、あるいは生活の苦労があまりない「若旦那」などの印象があって、なかなか触手が伸びなかったのだが、実際に作品を読んでみると、平易な流れるような文体で、なかなか味のある人物像を描く作家だということに気がついた。
この作品も、「若旦那」である江戸時代の町名主の跡取り息子を主人公にした作品であるが、小さいころから真面目だった名主の若旦那が、失恋を機にぐれだし、近所でも評判のお気楽でいい加減な男となり、友人と遊び呆けているが、人情家で、様々な町内の揉め事を物事に拘らない視点で収めていくという内容である。
江戸期、特に中期の18世紀には江戸は南北の町奉行の支配下で3名の町年寄が置かれ、その町年寄の下にさらに250名ほどの町名主が約1600町に置かれて、治安や民政に当たっていたが、本書はその町名主の息子であるお気楽に日々を送っている麻之助(町名主は苗字が許され、父は高橋宗右衛門という)を主人公にして、奉行所で扱う刑事事件以外の町内の揉め事を明晰な頭脳と楽天気質で解決していく顛末を描いたものである。
従って、描かれるものは生死に関わるような事件ではないが、かといってどうにも裁きようのない日常の中で起こりうる難問で、たとえば、第一話「まんまこと」では、麻之助の遊び仲間でもあり友人でもある同じ町名主の息子で、容姿端麗の女好きである清十郎のところに身に覚えのない娘から子どもができたと押しつけられ、その娘の本当の父親を捜し出してすべてを丸く収めたり(こう書いてしまうと簡単なようだが、娘を身ごもらせた男の身勝手さや娘の心情など、実にうまく展開されている)、第二話「柿の実は半分」では、麻之助が柿泥棒をした家に娘を名乗る女性が現れ、それが嘘と知りつつも娘として受け入れる孤独な老人や、その老人のもつ財産を巡る親戚の争いの中で、老人と娘の二人の孤独を埋める策を考案したり、第三話「万年、青いやつ」では、高価となる万年青の苗を自分のものだと言い張る二人の人間の間で、その真相を探し、その間を裁いたり、第四話「吾が子か、他の子か、誰の子か」では、自分の孫を捜す武家の勘違いを正していったりしていくわけである。
麻之助は少し可愛いと見れば手当たり次第に手を出していく女好きの清十郎と同心見習い押している真面目で堅物の吉五郎の友人がいて、三人は神田の剣術道場で知り合い、以後、いつもつるんでいるのである。それぞれが特徴があって、しかも互いを認め合っているので、無理のない友情が続いている。そして、この麻之助と幼馴染みで札差の妾腹の子であった美貌の「お由有」は、双方共に恋心をもってはいたが結ばれることなく、「お由有」は、友人の清十郎の父に嫁いでいる。そこに複雑な二人の心情があるし、真面目だった麻之助が突然好い加減な人間に様変わりした事情もあった。「お由有」には幸太という子があり、いわば「お由有」の若気の至りの子であるが、この子を麻之助も可愛がっていた。しかし、清十郎の父であり、「お由有」の夫でもある町名主を逆恨みして幸太を誘拐する事件が起こったりする(第六話「靜心なく」)。
二人の心情は複雑で、麻之助は「お由有」に想いを寄せ続けているが、踏み切れなかったし、今も踏み切れないでいる。麻之助はお気楽ないい加減さを装っているが、根は生真面目で正直なのである。また、麻之助に縁談話が持ち込まれるが、相手とされる女性に複雑な事情があり、その事情を知っていったり、想いを寄せる「お由有」とは、遂には結ばれない定めにあることを自覚していったりしていく過程が巧みに描かれている。
若いころの自分のふがいなさからいい加減な人間を装うようになったが、もともと頭脳明晰でさっぱりした性格の持ち主である麻之助が、世の中の機微を知っていきながら町名主として成長していく姿が、彼の恋とともに描き出されているのである。
柔らかな筆致で、しかも麻之助や清十郎の名コンビや堅物の吉五郎、いい加減に生きている麻之助を案じたり認めたりする彼の父親など、ゆるりとした中でも情の溢れる人々の姿が描き出されて、極めて気楽に読める作品になっている。作者は、元々は漫画家だったそうだが、全体がコミカルで面白い。考えてみるまでもなく、人生はいい加減でお気楽なものなのだから、高杉晋作ではないが、自分に正直であれば、「おもしろきこともなき世をおもしろく」でいいのである。
2011年12月12日月曜日
羽太雄平『家老脱藩 与一郎 江戸へ行く』
昨日、今日と、日中は陽が差してありがたいが、寒さが日毎に厳しく感じられる。一日一日を数えるようにして過ごしているが、「ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」今日も憮然と過ごしそうな気配がある。午後からS.キルケゴールの思想について話をすることになっており、以前書いた『逍遙の人-S.キルケゴール』を読み返したり、それを書いていたころのことを思い出したりしていた。
そんな中で、羽太雄平『家老脱藩 与一郎 江戸を行く』(2006年 角川書店)を結構面白く読んだ。これは、手に取ったときは知らなかったが、読み進めるうちにどうも前作があるようだと思い、奥づけを見ると、やはりシリーズ物で、『峠越え』、『新任家老 与一郎(されど道なかば)』の前2作があって、3作品目であるということであった。しかし、前作を読まなくても物語の展開のおおよその背景はわかり、日光近辺の小藩の新任家老となった榎戸与一郎という主人公を中心に、藩内で起こる勢力争いを絡めながら、彼が、ひとりの人間として、あるいは武士として新しい地平を開いていく物語である。
主人公の榎戸与一郎は、その藩の中でも特別な存在であった家柄家老の榎戸家の嫡男として生まれ、甲源一刀流の遣い手でありながらも、どこか、あくせくしない茫洋としたところがあったが、筆頭家老であった父親の弥次郎衛門の力が強く、彼の家柄からどうしても藩内の勢力争いに巻き込まれざるを得ない状態に置かれていた。そうした藩主の跡目を巡る争いや藩内での抗争に巻き込まれていく姿は前作で展開されているのだろうと思われる。
彼は、その父親が隠居し、家老の末席に加えられたが、藩主の側女となっていた姉の七重が子を産んで死んでから、その死にまつわる様々なこともあり、父親も病に倒れて抑えが効かなくなり、いつの間に酒に溺れて酒毒に犯され(アルコール中毒)、その依存症に苦しみながらも、新しい藩命として藩主の側女の選定のために江戸へ向かわせられることになる。そこから本書の物語が始まるのだが、彼の江戸行きは、彼の酒毒を直すためでもあり、友人でもあった元目付頭で、今は藩籍を奪われている奥山左十郎も同行する。だが、アルコール依存症の与一郎は、あの手この手を使って何とか酒を入手しようとするのである。彼は江戸についても酒を求めて意地汚く奔走する。
そういうアルコール依存症に陥っている与一郎の姿が、実にリアリティーをもって描き出されており、のどから手が出るほど酒を求める姿が展開されていく。友人の奥山左十郎も、冷ややかだが苦心するし、彼はまた与一郎の護衛の密命も帯びていた。藩内での抗争は裏で続いていたからである。
そういう中で、彼は正体不明の三人の武士に襲われる。与一郎は甲源一刀流の遣い手であったが酒毒に犯されていたために危険にさらされる。だが、奥山左十郎が護衛役としてつけていた滝沢染之丞によって助けられ、加えて、以前、着任したばかりの藩主と旧来の家老職との間の対立で殺さねばならなかった公儀隠密と目される男の息子である向坂兵馬によって父の敵として狙われたりする。
危機の脱出のためには、酒毒は何としても抜かなければならない。そのために友人の奥山左十郎は苦心していく。そして、ようやく治りかけるころ、与一郎の表向きの役目である藩主の側室候補者に会うための花見の宴席が前将軍の母である随陽院の手によって開かれ、与一郎はその宴席に出る(もちろんこの随陽院も作者の創作だろう)。与一郎の藩主が茶席で随陽院に仕える加寿江という女性に一目惚れし、その女性を見定めるのが与一郎の役目であった。
だが、この花見の席で、随陽院はなぜか冷たく与一郎をあしらい、その反動もあって、勧められた酒を飲んでしまい、彼は一気に酒毒患者特有の状態に陥ってしまうのである。側にいた加寿江の膝に突っ伏して前後不覚になってしまい、表向きの役目は失敗する。しかし、そこには随陽院自身が抱えていた彼の父親の弥次郎衛門と関わる事情があったのである。そして、前後不覚に陥った与一郎を乗せた駕籠での帰路、彼は再び正体不明の七、八人の武士団に襲われるのである。
襲われた与一郎を奥山左十郎は芝の日蔭町にあった隠れ家に匿い、国元から連絡のために出てきていたきていた以蔵の世話を受けながら本格的な酒毒(アルコール依存症)の治療を始める。酒毒から抜け出るために酒断ちをしていた与一郎は、花見の席でつい酒を飲んでしまい、自己嫌悪のどん底まで墜ちて、もはや無理やり酒から遠ざける必要があった。以蔵は与一郎の母の兄であり、叔父であったためにその辺りの信頼は深いものがあった。与一郎は酒欲しさに暴れるが左十郎は無理やり彼を押さえ込む日々が続いた。そうしているうちに、奥山左十郎の一子で、藩の剣術指南役を勤めたことがある野川十左衛門の元に残してきた小次郎が剣術修行のために江戸に出てくるという話が伝えられたり、与一郎の弟で藩の重職の斎藤家に養子にいった弥三郎も江戸藩邸に出てくるということが伝えられたりするが、与一郎を襲った武士団の正体はまだ釈然としなかった。
与一郎を襲った武士集団について、奥山左十郎は藩内の派閥の一つである伊勢党ではないかと思っている。もともと伊勢の豪族であった藩祖が連れてきた譜代の家臣が伊勢党で、藩祖が東三河に領地をもらったときに雇った家臣団が三河衆と呼ばれ、関ヶ原の合戦の後に北関東に移封されたときに、在地の領主であった榎戸家を家老就任の条件で招いた最新参の家臣団が関東衆と呼ばれ、藩内には三つの家臣団があったのである。そして、榎戸家は代々が家老に就任する家柄家老であったのである。しかし、そこに新藩主が養子に入った際に「直仕置き(藩主が直接藩政を行うこと)」のために実家から呼び寄せた家臣団があり、酒井衆と呼ばれ、そのことで藩内にごたごたが起こっていたのである(この辺りは前作で記されているのだろうと思う)。つまり、榎戸家は藩内では特別の存在で、譜代の伊勢党にとっては目障りなものであったのである。こうした事情の中で、与一郎の存在をなきものにしようとする動きが起こっていると左十郎は見ていたのである。
だが、そこに突然、自分の膝の上で前後不覚に陥り、襲撃された与一郎を案じて、随陽院に仕えていた加寿江が訪ねてくる。加寿江は藩主が側女にしたいと思っていた女性ではあったが、一心に与一郎の看護に当たり始める。与一郎を襲ったのも、伊勢党の領軸である鵜殿采女の三男で、中西一刀流の遣い手である鵜殿忠三郎ではないかととの推測ができるようになる。与一郎は加寿江の看護と医者の適切な処置で酒毒から抜け始め、体力の回復を待つばかりとなっていく。加寿江の願いを入れて与一郎のもとに行くことを許した随陽院も密かに加寿江や与一郎を守らせている気配がある。藩主の側女の判定にきた与一郎を冷たくあしらった随陽院が、なぜ与一郎を警護するのかの謎は、次ぎに明らかになっていくが、謎だらけの状態で与一郎は回復に努め始めていくのである。
かつて与一郎の父である弥次郎衛門が江戸で放蕩三昧の生活をしていたころ恋仲となった娘が随陽院であった。随陽院は経師屋の娘であったが大奥の最下級の半下としてお湯殿で奉公していたときに将軍のお手つきとなったのである。このあたりは八代将軍の徳川吉宗の母の実例がある。他方、弥次郎衛門の方も、父親が急死したために急遽、強引に藩に連れ戻され、二人はそのまま別れていたのである。こういう経過が与一郎の父と随陽院の間にはあり、それが随陽院の一連の態度に関連していたのである。
加寿江は、そういう事情は知らなかったが、藩主の側女になることを断り、次第に与一郎に想いを寄せていくようになる。だが、加寿江の正式な断りを藩の江戸屋敷は藩主に伝えずに、与一郎は藩主の怒りをかっていくことになっていく。藩主石見守は直仕置きを行おうとするほどの自意識と英邁さをもっていたが、底意地の悪いところがある人物で、自分に反抗するものは決して許すことのない激しい性格の持ち主であった。
与一郎の酒毒も次第に抜け始め、加寿江を護衛していたのが公儀お庭番の倉地由之助であることがわかる中で、与一郎の世話をしていた以蔵が、可愛がっていた姪の七重が死んだときの藩医であった村田雪庵を見かけ、その後を追う。七重は万年青の根の毒で死に、その万年青は鵜殿采女の屋敷にあり、雪庵が一枚噛んでいたのではないかと疑っていたからである。雪庵は七重が倒れたときに急に江戸へ行き、その後焼死したと伝えられていたが、火傷で顔を変えて身を隠していたのである。雪庵は音羽町の香具師の元締めで地回りの大物と繋がり、その香具師の大物の用心棒が与一郎を仇と狙う向坂兵馬であった。だが、以蔵は、その香具師が営む賭場で雪庵を見張っていたところを捕まってしまう。そして、加寿江もまた何者かに呼び出されて地回りに捕縛されてしまう。与一郎と加寿江が話しているのを向坂兵馬が見つけ、地回りに加寿江の後とつけさせていたのである。
その中で、随陽院に命じられて加寿江を護衛していた倉地由之助の祖母が、鈴木春信が美人画で描いた美女の「笠森お仙」であることや、加寿江がその血筋であり、倉地由之助と腹違いの姉であることなども記されていく。評判の美女であった「笠森お仙」が公儀お庭番家の倉地家に嫁いだことはよく知られている事実である。
与一郎たちと公儀お庭番は加寿江と以蔵を懸命に探し出そうとし、ようやく地回りに監禁されている場所を見つけて奪還に走るが、すんでの所で再び連れ去られてしまう。どうやら、その一件には藩内の伊勢党が絡んでおり、中西一刀流の遣い手である鵜殿忠三郎が出てくる。鵜殿忠三郎一味は加寿江を無理やり国元に連れて行くつもりらしいと推測される。
そこで与一郎たちも加寿江の救出に向かうことにする。その途中で、与一郎を仇と狙う向坂兵馬と出会うが、与一郎は飄々と向坂兵馬に近づき、鵜殿忠三郎に裏切られた兵馬に、立ち会いを条件に鵜殿を探す手伝いをしないかと相談するのである。その話に納得した兵馬も一同に加わることにして、鵜殿一味に連れ去られた加寿江と以蔵を救い出す旅に出るのである。
その途上で、鵜殿一味は口封じのために七重の殺害に関係があった雪庵を殺し、また正体を知った以蔵を殺してしまう。だが、与一郎たちは、藩内に入る直前に、鵜殿一味に追いつき、死闘を繰り返す。そして、この戦いで向坂兵馬は傷つき、加寿江の腹違いの弟で公儀お庭番の倉地由之助は斬られてしまうが、ようやく加寿江を救出することができたのである。しかし、藩内には入らずに近くで待つようにとの父親からの知らせを受ける。与一郎に、自分が側女にしようとした加寿江を連れて逃げたということで、藩主から上意討ちの命令が下されていたからである。与一郎を討つ命令は、奥山左十郎の子で与一郎も弟のようにして可愛がっていた小次郎だという。藩主の底意地の悪さが光る上意討ちの命令だった。
だが、小十郎自身が与一郎の弟の弥三郎と共にやってきて、自分は幕臣である野川家に養子に入ったから、藩主の家臣ではなく上意討ちの命令には従わないと断り、代わりに与一郎を上意討ちにくるのは、与一郎らを江戸で世話をした滝沢染之丞であった。藩主の石見守は、どこまでもしつこい嫌がらせをするのである。その滝沢染之丞が来る前に、病身を押して与一郎の父親の弥次郎衛門がやってきて、すべての藩籍を返上して新しい藩を作ると言い出すのである。驚く人々を前に、実は、榎戸家には神君家康から与えられた「お墨付」があり、少なくとも一万石を賜ることができると言い出すのである。
新しい藩を作る方向へ彼らは向かっていく。だが、上意討ちを命じられた滝沢染之丞がやって来て、与一郎に変わり奥山左十郎の子の小次郎が彼と剣の勝負を挑むことになって、見事にこれを討ち、また、七重を毒殺した真の犯人が同じ関東衆であった家老が筆頭家老の地位を狙って伊勢党と組んでいることがわかり、弥次郎衛門は奥山左十郎に仇を討つことを最後の頼みとして依頼するのである。そして、弥次郎衛門は娘の七重殺しの犯人を討って、病死する。
榎戸与一郎らの新藩創設は、神君家康の「お墨付」もあり、幕府も認め、随陽院もその力を貸す。七千五百石が認められ、新田開発などもあり、九千石になるという。随陽院は加寿江と与一郎の婚儀の祝いとして自分の化粧領を差し出すとまでいうのである。だが、与一郎はそれを遠慮して、九千石の交代寄合(一万石以上の大名ではないが、大名と同じ資格で、江戸住まいだが領地に帰ることが許されている大身の旗本)として新しい藩ができるのである。
そこへ隣藩となる旧藩主の石見守がやってくる。のっけから与一郎に皮肉を言い、加寿江のことも皮肉る。そして、七重が生んだ娘を養子にやってもよいと言い出す。石見守の腹の内はわかっているが、子どもが産めないことで自分との結婚を躊躇していた加寿江のこともあり、また、姉の七重のこともあって、与一郎はその話を受けることにする。ところが、石見守はさらに、与一郎を仇と狙っていた向坂兵馬のことを聞いたこともあって、兵馬に向かって脱藩の罪をゆるし、召し抱えることにするから仇討ちができるとそそのかすのである。だが、兵馬は、自分はここに来る途中で一度榎戸家の家来となったので、もはや仇討ちができないと明瞭に断るのである。
与一郎は加寿江と共にオオムラサキの蝶が飛び交う榎戸郷に向かって歩み出していく。そこで、この物語は爽快さを残して終わるのである。
本書の中で、すべてが落ち着こうとするときに、与一郎の弟である弥三郎が掛軸の揮毫を依頼する場面が描かれ、その言葉が「行不由径(行くに径-こみち-に由らす)」という言葉であることが記されている(356ページ)。論語に記されている孔子の言葉であるが、これが本書のすべてを表す言葉でもあるだろう。藩内や様々なところで、様々な駆け引きと画策が行われるが、主人公は「大道」を同道と悪びれなく生きていくのであり、その姿が描かれているのである。
「行くに径に由らず」まさにそれこそが、人がいつも自分らしく胸を張って生きていく姿だろう。余の策略家はいつも「径(小道)」を践み迷う。素直であること、素朴であること、「径(小道)に由らず」なのであり、その姿を作者が描こうとしていることがよく伝わる物語であった。
そんな中で、羽太雄平『家老脱藩 与一郎 江戸を行く』(2006年 角川書店)を結構面白く読んだ。これは、手に取ったときは知らなかったが、読み進めるうちにどうも前作があるようだと思い、奥づけを見ると、やはりシリーズ物で、『峠越え』、『新任家老 与一郎(されど道なかば)』の前2作があって、3作品目であるということであった。しかし、前作を読まなくても物語の展開のおおよその背景はわかり、日光近辺の小藩の新任家老となった榎戸与一郎という主人公を中心に、藩内で起こる勢力争いを絡めながら、彼が、ひとりの人間として、あるいは武士として新しい地平を開いていく物語である。
主人公の榎戸与一郎は、その藩の中でも特別な存在であった家柄家老の榎戸家の嫡男として生まれ、甲源一刀流の遣い手でありながらも、どこか、あくせくしない茫洋としたところがあったが、筆頭家老であった父親の弥次郎衛門の力が強く、彼の家柄からどうしても藩内の勢力争いに巻き込まれざるを得ない状態に置かれていた。そうした藩主の跡目を巡る争いや藩内での抗争に巻き込まれていく姿は前作で展開されているのだろうと思われる。
彼は、その父親が隠居し、家老の末席に加えられたが、藩主の側女となっていた姉の七重が子を産んで死んでから、その死にまつわる様々なこともあり、父親も病に倒れて抑えが効かなくなり、いつの間に酒に溺れて酒毒に犯され(アルコール中毒)、その依存症に苦しみながらも、新しい藩命として藩主の側女の選定のために江戸へ向かわせられることになる。そこから本書の物語が始まるのだが、彼の江戸行きは、彼の酒毒を直すためでもあり、友人でもあった元目付頭で、今は藩籍を奪われている奥山左十郎も同行する。だが、アルコール依存症の与一郎は、あの手この手を使って何とか酒を入手しようとするのである。彼は江戸についても酒を求めて意地汚く奔走する。
そういうアルコール依存症に陥っている与一郎の姿が、実にリアリティーをもって描き出されており、のどから手が出るほど酒を求める姿が展開されていく。友人の奥山左十郎も、冷ややかだが苦心するし、彼はまた与一郎の護衛の密命も帯びていた。藩内での抗争は裏で続いていたからである。
そういう中で、彼は正体不明の三人の武士に襲われる。与一郎は甲源一刀流の遣い手であったが酒毒に犯されていたために危険にさらされる。だが、奥山左十郎が護衛役としてつけていた滝沢染之丞によって助けられ、加えて、以前、着任したばかりの藩主と旧来の家老職との間の対立で殺さねばならなかった公儀隠密と目される男の息子である向坂兵馬によって父の敵として狙われたりする。
危機の脱出のためには、酒毒は何としても抜かなければならない。そのために友人の奥山左十郎は苦心していく。そして、ようやく治りかけるころ、与一郎の表向きの役目である藩主の側室候補者に会うための花見の宴席が前将軍の母である随陽院の手によって開かれ、与一郎はその宴席に出る(もちろんこの随陽院も作者の創作だろう)。与一郎の藩主が茶席で随陽院に仕える加寿江という女性に一目惚れし、その女性を見定めるのが与一郎の役目であった。
だが、この花見の席で、随陽院はなぜか冷たく与一郎をあしらい、その反動もあって、勧められた酒を飲んでしまい、彼は一気に酒毒患者特有の状態に陥ってしまうのである。側にいた加寿江の膝に突っ伏して前後不覚になってしまい、表向きの役目は失敗する。しかし、そこには随陽院自身が抱えていた彼の父親の弥次郎衛門と関わる事情があったのである。そして、前後不覚に陥った与一郎を乗せた駕籠での帰路、彼は再び正体不明の七、八人の武士団に襲われるのである。
襲われた与一郎を奥山左十郎は芝の日蔭町にあった隠れ家に匿い、国元から連絡のために出てきていたきていた以蔵の世話を受けながら本格的な酒毒(アルコール依存症)の治療を始める。酒毒から抜け出るために酒断ちをしていた与一郎は、花見の席でつい酒を飲んでしまい、自己嫌悪のどん底まで墜ちて、もはや無理やり酒から遠ざける必要があった。以蔵は与一郎の母の兄であり、叔父であったためにその辺りの信頼は深いものがあった。与一郎は酒欲しさに暴れるが左十郎は無理やり彼を押さえ込む日々が続いた。そうしているうちに、奥山左十郎の一子で、藩の剣術指南役を勤めたことがある野川十左衛門の元に残してきた小次郎が剣術修行のために江戸に出てくるという話が伝えられたり、与一郎の弟で藩の重職の斎藤家に養子にいった弥三郎も江戸藩邸に出てくるということが伝えられたりするが、与一郎を襲った武士団の正体はまだ釈然としなかった。
与一郎を襲った武士集団について、奥山左十郎は藩内の派閥の一つである伊勢党ではないかと思っている。もともと伊勢の豪族であった藩祖が連れてきた譜代の家臣が伊勢党で、藩祖が東三河に領地をもらったときに雇った家臣団が三河衆と呼ばれ、関ヶ原の合戦の後に北関東に移封されたときに、在地の領主であった榎戸家を家老就任の条件で招いた最新参の家臣団が関東衆と呼ばれ、藩内には三つの家臣団があったのである。そして、榎戸家は代々が家老に就任する家柄家老であったのである。しかし、そこに新藩主が養子に入った際に「直仕置き(藩主が直接藩政を行うこと)」のために実家から呼び寄せた家臣団があり、酒井衆と呼ばれ、そのことで藩内にごたごたが起こっていたのである(この辺りは前作で記されているのだろうと思う)。つまり、榎戸家は藩内では特別の存在で、譜代の伊勢党にとっては目障りなものであったのである。こうした事情の中で、与一郎の存在をなきものにしようとする動きが起こっていると左十郎は見ていたのである。
だが、そこに突然、自分の膝の上で前後不覚に陥り、襲撃された与一郎を案じて、随陽院に仕えていた加寿江が訪ねてくる。加寿江は藩主が側女にしたいと思っていた女性ではあったが、一心に与一郎の看護に当たり始める。与一郎を襲ったのも、伊勢党の領軸である鵜殿采女の三男で、中西一刀流の遣い手である鵜殿忠三郎ではないかととの推測ができるようになる。与一郎は加寿江の看護と医者の適切な処置で酒毒から抜け始め、体力の回復を待つばかりとなっていく。加寿江の願いを入れて与一郎のもとに行くことを許した随陽院も密かに加寿江や与一郎を守らせている気配がある。藩主の側女の判定にきた与一郎を冷たくあしらった随陽院が、なぜ与一郎を警護するのかの謎は、次ぎに明らかになっていくが、謎だらけの状態で与一郎は回復に努め始めていくのである。
かつて与一郎の父である弥次郎衛門が江戸で放蕩三昧の生活をしていたころ恋仲となった娘が随陽院であった。随陽院は経師屋の娘であったが大奥の最下級の半下としてお湯殿で奉公していたときに将軍のお手つきとなったのである。このあたりは八代将軍の徳川吉宗の母の実例がある。他方、弥次郎衛門の方も、父親が急死したために急遽、強引に藩に連れ戻され、二人はそのまま別れていたのである。こういう経過が与一郎の父と随陽院の間にはあり、それが随陽院の一連の態度に関連していたのである。
加寿江は、そういう事情は知らなかったが、藩主の側女になることを断り、次第に与一郎に想いを寄せていくようになる。だが、加寿江の正式な断りを藩の江戸屋敷は藩主に伝えずに、与一郎は藩主の怒りをかっていくことになっていく。藩主石見守は直仕置きを行おうとするほどの自意識と英邁さをもっていたが、底意地の悪いところがある人物で、自分に反抗するものは決して許すことのない激しい性格の持ち主であった。
与一郎の酒毒も次第に抜け始め、加寿江を護衛していたのが公儀お庭番の倉地由之助であることがわかる中で、与一郎の世話をしていた以蔵が、可愛がっていた姪の七重が死んだときの藩医であった村田雪庵を見かけ、その後を追う。七重は万年青の根の毒で死に、その万年青は鵜殿采女の屋敷にあり、雪庵が一枚噛んでいたのではないかと疑っていたからである。雪庵は七重が倒れたときに急に江戸へ行き、その後焼死したと伝えられていたが、火傷で顔を変えて身を隠していたのである。雪庵は音羽町の香具師の元締めで地回りの大物と繋がり、その香具師の大物の用心棒が与一郎を仇と狙う向坂兵馬であった。だが、以蔵は、その香具師が営む賭場で雪庵を見張っていたところを捕まってしまう。そして、加寿江もまた何者かに呼び出されて地回りに捕縛されてしまう。与一郎と加寿江が話しているのを向坂兵馬が見つけ、地回りに加寿江の後とつけさせていたのである。
その中で、随陽院に命じられて加寿江を護衛していた倉地由之助の祖母が、鈴木春信が美人画で描いた美女の「笠森お仙」であることや、加寿江がその血筋であり、倉地由之助と腹違いの姉であることなども記されていく。評判の美女であった「笠森お仙」が公儀お庭番家の倉地家に嫁いだことはよく知られている事実である。
与一郎たちと公儀お庭番は加寿江と以蔵を懸命に探し出そうとし、ようやく地回りに監禁されている場所を見つけて奪還に走るが、すんでの所で再び連れ去られてしまう。どうやら、その一件には藩内の伊勢党が絡んでおり、中西一刀流の遣い手である鵜殿忠三郎が出てくる。鵜殿忠三郎一味は加寿江を無理やり国元に連れて行くつもりらしいと推測される。
そこで与一郎たちも加寿江の救出に向かうことにする。その途中で、与一郎を仇と狙う向坂兵馬と出会うが、与一郎は飄々と向坂兵馬に近づき、鵜殿忠三郎に裏切られた兵馬に、立ち会いを条件に鵜殿を探す手伝いをしないかと相談するのである。その話に納得した兵馬も一同に加わることにして、鵜殿一味に連れ去られた加寿江と以蔵を救い出す旅に出るのである。
その途上で、鵜殿一味は口封じのために七重の殺害に関係があった雪庵を殺し、また正体を知った以蔵を殺してしまう。だが、与一郎たちは、藩内に入る直前に、鵜殿一味に追いつき、死闘を繰り返す。そして、この戦いで向坂兵馬は傷つき、加寿江の腹違いの弟で公儀お庭番の倉地由之助は斬られてしまうが、ようやく加寿江を救出することができたのである。しかし、藩内には入らずに近くで待つようにとの父親からの知らせを受ける。与一郎に、自分が側女にしようとした加寿江を連れて逃げたということで、藩主から上意討ちの命令が下されていたからである。与一郎を討つ命令は、奥山左十郎の子で与一郎も弟のようにして可愛がっていた小次郎だという。藩主の底意地の悪さが光る上意討ちの命令だった。
だが、小十郎自身が与一郎の弟の弥三郎と共にやってきて、自分は幕臣である野川家に養子に入ったから、藩主の家臣ではなく上意討ちの命令には従わないと断り、代わりに与一郎を上意討ちにくるのは、与一郎らを江戸で世話をした滝沢染之丞であった。藩主の石見守は、どこまでもしつこい嫌がらせをするのである。その滝沢染之丞が来る前に、病身を押して与一郎の父親の弥次郎衛門がやってきて、すべての藩籍を返上して新しい藩を作ると言い出すのである。驚く人々を前に、実は、榎戸家には神君家康から与えられた「お墨付」があり、少なくとも一万石を賜ることができると言い出すのである。
新しい藩を作る方向へ彼らは向かっていく。だが、上意討ちを命じられた滝沢染之丞がやって来て、与一郎に変わり奥山左十郎の子の小次郎が彼と剣の勝負を挑むことになって、見事にこれを討ち、また、七重を毒殺した真の犯人が同じ関東衆であった家老が筆頭家老の地位を狙って伊勢党と組んでいることがわかり、弥次郎衛門は奥山左十郎に仇を討つことを最後の頼みとして依頼するのである。そして、弥次郎衛門は娘の七重殺しの犯人を討って、病死する。
榎戸与一郎らの新藩創設は、神君家康の「お墨付」もあり、幕府も認め、随陽院もその力を貸す。七千五百石が認められ、新田開発などもあり、九千石になるという。随陽院は加寿江と与一郎の婚儀の祝いとして自分の化粧領を差し出すとまでいうのである。だが、与一郎はそれを遠慮して、九千石の交代寄合(一万石以上の大名ではないが、大名と同じ資格で、江戸住まいだが領地に帰ることが許されている大身の旗本)として新しい藩ができるのである。
そこへ隣藩となる旧藩主の石見守がやってくる。のっけから与一郎に皮肉を言い、加寿江のことも皮肉る。そして、七重が生んだ娘を養子にやってもよいと言い出す。石見守の腹の内はわかっているが、子どもが産めないことで自分との結婚を躊躇していた加寿江のこともあり、また、姉の七重のこともあって、与一郎はその話を受けることにする。ところが、石見守はさらに、与一郎を仇と狙っていた向坂兵馬のことを聞いたこともあって、兵馬に向かって脱藩の罪をゆるし、召し抱えることにするから仇討ちができるとそそのかすのである。だが、兵馬は、自分はここに来る途中で一度榎戸家の家来となったので、もはや仇討ちができないと明瞭に断るのである。
与一郎は加寿江と共にオオムラサキの蝶が飛び交う榎戸郷に向かって歩み出していく。そこで、この物語は爽快さを残して終わるのである。
本書の中で、すべてが落ち着こうとするときに、与一郎の弟である弥三郎が掛軸の揮毫を依頼する場面が描かれ、その言葉が「行不由径(行くに径-こみち-に由らす)」という言葉であることが記されている(356ページ)。論語に記されている孔子の言葉であるが、これが本書のすべてを表す言葉でもあるだろう。藩内や様々なところで、様々な駆け引きと画策が行われるが、主人公は「大道」を同道と悪びれなく生きていくのであり、その姿が描かれているのである。
「行くに径に由らず」まさにそれこそが、人がいつも自分らしく胸を張って生きていく姿だろう。余の策略家はいつも「径(小道)」を践み迷う。素直であること、素朴であること、「径(小道)に由らず」なのであり、その姿を作者が描こうとしていることがよく伝わる物語であった。
2011年12月9日金曜日
葉室麟『川あかり』(2)
予報通り震えるほどの寒い日になった。湿気を含んだ空気が冷え込んでいくような寒さで、疲労感も溜まっていく。寒いと身体を縮めていくのか、痛めている頸椎も痛み出したりしてくる。思いっきり暖房を効かせた部屋でぬくぬくと過ごせたらいいだろうな、と思ったりする。ひとつひとつをもっとゆっくりと丁寧にしていきたいのだが、今の時期はそれがなかなか適わない。
それはともかく、さて、葉室麟『川あかり』の続きであるが、大阪商人と癒着して私腹を肥やし、藩政を牛耳っていた家老の甘利典膳の刺殺を命じられた臆病者の伊東七十郎が川止めで知り合った佐々豪右衛門に連れて行かれた粗末な木賃宿には、川向こうの崇厳寺村の庄屋をしていたが病んで寝ついている佐次右衛門という老人とその孫の「さと」という娘、「五郎」という六歳ぐらいの子が階下にいて、佐々豪右衛門は伊東七十郎に、まず、挨拶料をやれとか、薬代を出せとかぶしつけに言うのである。伊東七十郎は面食らってしまうし、彼が寝泊まりすることになった二階には、白木の位牌を前にぶつぶつとお経を唱えている怪しげな坊主の徳元、猿廻しをしている弥之助、三味線を弾いて門付けの鳥追いをしているらしい二十二、三歳くらいの「お若」、やくざ者らしい遊び人の千吉がいて、それぞれ川あけを待っていた。
また、宿で飯炊きをしている「お茂婆」がいて、その木賃宿はいろいろな事情を抱えた人間が転がり込む吹き溜まりのような宿だった。朴訥で素朴な伊東七十郎は、そういう連中からからかわれながらもその宿で刺殺相手の甘利典膳が来るのを待つことにしたのである。そのくだりは面白おかしく丁寧に描かれている。雨は降り続き、なかなか川止めは明けそうにない。
そういう中で、佐々豪右衛門は、病で寝ついている佐次右衛門と孫たちの事情を伊東七十郎に話す。それは、10年前にも一月ほど雨が降り続き、巨勢川があふれそうになり、下流の大地主がもつ土地を救うために崇厳寺村がある土手の堤防を役人が切ってしまい、崇厳寺村が水没してしまった出来事であった。
下流の土地をもつ大地主は商人でもあり、藩に多額の金を貸し,苗字帯刀も許されていたので、綾瀬藩と隣接していた上野藩では、その田畑を救うために崇厳寺村を犠牲にしたのである。崇厳寺村の庄屋であった佐次右衛門は私財をはたいて水没した村の再建にかけずり回ったが、一人の力では無理で、そのうちに「おさと」たちの両親が流行病で死んでしまい、佐次右衛門は二人を引き取って村に帰るところであるというのである。その話を聞いて、伊東七十郎は、なけなしの一両を薬代として「おさと」に渡したりする。
そして、佐々豪右衛門から伊東七十郎の剣の腕が全く駄目なのを見抜かれたりして、伊東七十郎は自分が刺客であることを話し出すのである。佐々豪右衛門は「誰かが貧乏くじを引かねばならぬような話は、やはりおかしい」と言い、「ひとりだけが犠牲にならなければならないことなど、この世の中にはひとつもない。この世の苦は、皆で分かち合うべきものだ」と語るが(88-89ページ)、伊東七十郎は、「自分は臆病者だが、卑怯者ではない」(91ページ)と思うのである。伊東七十郎は、優しさのあまり剣の腕はからっきし駄目だが、身を守るための秘儀を父親から授けられていた。
相変わらず川止めが続く中で、七十郎が寝泊まりする木賃宿で一つの事件が起こる。逃げた女房を追って馬方の松蔵という男が斧をもって押しかけてきたのである。松蔵は女房が薬の行商人と浮気したと思い込み、行商人を斧で殺して女房を追いかけてきたのである。酔って乱暴を働き、「おさと」が人質に取られてしまう。そして遂に飯炊き婆の「お茂婆」が匿っていた女房が見つかってしまう。だれも手出しができずに七十郎の脇差しも取り上げられていた。だが、七十郎は、松蔵の隙を突いて棒手裏剣の技を繰り出し、「おさと」を助け、松蔵を捕らえるのである。
その時、七十郎が松蔵に言う言葉が彼の誠実な人柄を表す言葉になっている。彼はこう言う、
「松蔵殿、あんたは馬鹿だ。大事に思っている人なら、だまされたっていいじゃあないですか。信じるというのは、そういうことです」(112ぺーじ)。
これは、わたし自身が本当にそう思ってきたことで、こういう形で物語の展開の中で生き生きと語られることにひどく嬉しくなった言葉でもあり、葉室麟の他の作品でも随所に見られる深い意味合いのある言葉だとつくづく思う。
それはともかく、こうして伊東七十郎が剣の腕は駄目だが手裏剣の名手であることが知られてしまうが、捕縛に来た役人から、この辺りを荒らし回る「流れ星」と名乗る強盗団がいることを聞かされる。「流れ星」なる強盗団は、大店と武家屋敷ばかり狙う強盗団で、だれも気づかないうちに盗みを働き、署名を残していくという。
そして、実は木賃宿の二階に寝泊まりしている五人の男女がその「流れ星」なる強盗団で、七十郎は、偶然、怪しげな坊主の徳元が厨子の中に金の観音像をもっていることに気づいてしまう。そうしているうちに、役人が宿改めに来て、造り酒屋の大店である「出雲屋」から金の仏像が「流れ星」によって盗まれたことを告げる。七十郎は、徳元がもっていた金の観音像がそれであると気づいたが、役人の目からそれを隠し、彼らが「流れ星」であることを知る。彼らが強盗団となり、金の仏像を盗んだのには事情があった。
また、彼に刺殺を命じた増田惣右衛門から刺殺を急ぐように書状が届き、藩内屈指の剣の遣い手であり、稲垣頼母を暗殺したと思われる佐野又四郎が伊東七十郎を討つために追手として出たことを知らされる。七十郎は、自分ではとても適わないと愕然とする。
そこで、一味の首領格とも思える佐々豪右衛門から、その金の仏像を預かってくれと依頼され、その代わりに伊東七十郎に戦い方を教え、手助けすると申し出る。七十郎は、その申し出を一応受けて、その日から佐々豪右衛門の指導で稽古を始める。だが、七十郎の腕は上達しない。そんな中で、七十郎の追手である佐野又四郎の行くへを探っていた「お若」が人質として捕らえられてしまう。
伊東七十郎は、とても適わないと思いながらも「お若」を助けるために佐野又四郎と対決することを決心する。
「馬鹿を言うな。お主には大事な役目があるのだ。どこかに身を隠せ。お若は、わしらが取り戻す」と佐々豪右衛門は言う。だが、「ひと殺しを捕まえた後、お若さんから自分が人質になっても助けてくれるかと訊かれて、わたしは助けると答えました。ですから、わたしはお若さんを助けなければなりません」と七十郎は泣きそうな顔で言うのである。「恐ろしくて、いますぐ逃げ出したいです。でも、男が一度、口にしたことです。約束を守らなければ、お若さんは裏切られたと思うでしょう。わたしはお若さんにそんな思いはさせたくありません」と答えるのである(176ページ)。
この緊迫したくだりは胸を打つ。伊東七十郎の、どこまでもまっすぐで、人を悲しませたり、裏切られたた思いをもたせたりしたくないという決意は、彼の率直な人間性の豊かさを見事に表している。『いのちなりけり』の雨宮蔵人の青年版とも言えるだろう。
捕らわれた「お若」を救うために、伊東七十郎は剣の遣い手である佐野又四郎と一人対峙する。そして、斬られる寸前に、父親から身を守るために習っていた針を又四郎の目に放ち、彼を倒してしまうのである。そして、木賃宿の二階に寝起きする五人がなぜ強盗団の「流れ星」になったかの事情を知る。
十年前、巨勢川が氾濫したとき、佐々豪右衛門は崇厳寺村の寺子屋の師匠をしていて、徳元も弥之助も百姓であり、お若と千吉は豪右衛門の寺子屋に通っていたという。だが、大店の「出雲屋」がもっていた下流の田畑を救うために上野藩の役人が土手を切り壊して大水が崇厳寺村に流れ込み、徳元の女房と子どもが埋もれて死に、弥之助も村を離れて猿回しになったのである。そして、お若と千吉は、親を失った後に人買いに拐かされて江戸に売られてしまうのである。
佐々豪右衛門は二人を助け出すため江戸に行き、途中で出会った徳元と弥之助と共に二人を助け出して来たのである。ここにはその様子が詳しく記されているが、二人が人買いに拐かされた裏には、上野藩の大店であった「出雲屋」が絡んでいたのである。他方、崇厳寺村の庄屋であった佐次右衛門は、私財をなげうって村の再建を図っていたが、破産寸前となり、仕方なしに「出雲屋」に借金を頼った。「出雲屋」は千両の金を貸すといって証文を取り、とりあえず百両だけ貸したのである。ところが、残りを貸さないままで証文を盾に千両の借金の取り立てに来て、佐次右衛門の書画骨董を運び出し、佐次右衛門が最後の頼みとしていた金の仏像までも盗み出していたのである。金の仏像に関して「出雲屋」は知らぬ存ぜぬを言うだけである。
佐々豪右衛門と徳元、弥之助は、上野藩の役人と「出雲屋」の手代たちが酒盛りをしている「出雲屋」の別邸に行き、役人たちの刀や金目の物を持ち出し、こうして彼らは強盗団となり、「出雲屋」と関係がある大店や役人の屋敷だけを狙い、盗んだ金は村に送り、「出雲屋」に盗み取られた金の仏像を探していたのである。そして、ようやくそのありかを捜し出して、それを佐次右衛門に返すために盗み出してきたのだというのである。
この話を聞いて、伊東七十郎は、川あけまで金の仏像を守ることを「お若」に約束する。だが、そこに彼に刺殺を命じた増田惣右衛門から使わされて美祢本人が木賃宿にやってきた。綾瀬藩内で寺に立て籠もった若者たちが自分たちを扇動した儒学者を殺そうとして誤って庄屋の娘を殺してしまい、もはや甘利典膳を殺すしか道がなくなり、藩の遣い手であった佐野又四郎が追手になったことで七十郎が臆病風に吹かれて逃げ出すのではないかと案じ、美祢を差し出して念を押すためであった。
そこへ「出雲屋」自身が乗り込んできて、金の仏像を返せと言い出す。だが、伊東七十郎は、金の仏像は自分がもっているが真の持ち主がわかるまでは返せないと言い、「出雲屋」自身が金策に困っていると指摘する。それによって、ついてきていた上野藩の役人に「出雲屋」の借用書が大阪商人の手に渡ると上野藩は大変なことになると言い、役人たちと「出雲屋」を追い払うのである。
そして、念押しの犠牲となろうとする美祢に「典膳を討つのは、増田様から命じられたからではないのです。まして、稲垣家の五百石のためでも、美祢様のためでもありません。わたしは不正によって苦しむ領民のために刺客になりたいのです」(255ページ)と言って美祢を返すのである。
美祢は、自分がこれまでに七十郎に対して思い違いをしていたことに気づき、七十郎の本当の姿を知っていくが、七十郎は美祢を拒んでそのまま返す。彼は自分が返り討ちにあうだろうと思っていた。七十郎は、その夕暮れ、河畔で「おさと」から「川明かり」の話を聞く。それが本書の神髄でもあるので、ちょっと抜き出しておこう。
「七十郎さん、川明かりって知っていますか」
「川明かり? 知りません」
「もうじき川明かりが見えます。日が暮れて、あたりが暗くなっても川は白く輝いているんです。ほら・・・・」
おさとの言葉通りだった。
空は菫色で雲はまだ薄紫に染まっているが、山裾から河岸にかけては薄闇に覆われていた。だが、墨を塗ったかのような景色の中に、蛇行する川だけがほのかに白く浮き出ている.小波が銀色に輝き、生きているようにゆったりと流れていた。
川その物が光を放っているかのようである。
(まるで、黄泉の国を流れる命の川だ)
七十郎はそんなことを思いながら、茫然として見つめた。なぜか、心が温まるような眺めだった。
「お祖父ちゃんがよく言うのです。日が落ちてあたりが暗くなっても、川面だけが白く輝いているのを見ると、元気になれる。なんにもいいことがなくっても、ひとの心には光が残っていると思えるからって」(260-261ページ)
粗末な木賃宿にいた五人の「流れ星」と名乗る強盗団は、崇厳寺村にとっては「川明かり」であり、そしてなによりも、伊東七十郎の素朴で正直でまっすぐな姿こそが「川明かり」そのものである。本書は、これが書きたくて書かれたのではないかと思うほどである。そんな七十郎に「お若」も言う。「女はね、一度でもいいから大切にしてもらうと、自分を大切に思って生きていくことができるんです。わたしは七十郎さんから一生、胸に抱いていける宝物をもらったんですよ」と)266ページ)。
伊東七十郎が刺殺を命じられた甘利典膳は、借金のために父親が自害したことから「棒引き侍」とか「藩の面汚し」とか軽蔑されながら文武両道に励みながら、容姿も優れていたことから小姓組(藩所やその家族の世話をする役)として認められ、藩主に気に入られ、粉骨砕身して働き出世してきた人物であった。軽格の出であることから風当たりも強く、特に家老であった稲垣頼母の父親からは「成り上がり者」と蔑まれ、幾たびも危機を迎え、それを何とかしのいできて家老にまでのし上がったのである。大阪商人と癒着して得た金を藩内にばらまき、自らも私腹を肥やし、さらに藩政を牛耳るために上士の若者たちを切腹に追いやって上士の家を取り潰し、意のままに動く軽格の者を登用することを考えていた。
だが、肥やしていた私腹財産のことが藩主に知れ、一刻もその証拠を隠す必要があったのである。刺客が放たれたことも知っていたが、藩内一の遣い手である佐野又四郎がなんとかするだろうと思っていた。蔑まれてきた私怨を晴らすことも彼の脳裏には色濃くあった。
こうして、いよいよ川止めが止み、渡航が可能になった。七十郎が最後の朝を迎える日でもある。七十郎は皆に別れを告げて、ひとり川岸に向かう。甘利典膳の乗った輦台(れんだい・・川を渡るときに人を乗せるもの)が近づき、六人もの屈強な護衛がいる。臆病者である七十郎は恐ろしくなるが、それでも、典膳に向かっていく。しかし、棒立ちになったまま震えて動けない。そんな七十郎を見て、典膳はさげすむようにするだけである。
そのとき、七十郎の様子を案じていた五人の者たちが七十郎を助けるために駆けつけてきて一芝居打つ。典膳の護衛の武士たちはそちらに引きつけられ、ようやくひとりになった典膳に七十郎は名乗りを上げることができた。だが、典膳は、藩内一の臆病者と聞き、ひ弱そうに見える七十郎を冷笑するだけであった。七十郎は典膳に軽くあしらわれてしまい、典膳から斬られそうになる。だがその時、猿廻しの弥之助が飼っていた猿が典膳に飛びかかり、典膳は弥之助を殺そうとする。それを見て、震えていた七十郎は奮起し、典膳に向かっていく。そして、背中を斬られそうになるところで、脇差しを逆手にとったままで背中から典膳にぶつかり、不遜に笑っていた典膳を刺すのである。だが、護衛をしていた六人の侍たちが帰ってきて七十郎を取り囲む。
七十郎の窮地を見て、佐々豪右衛門を初めとする五人の者たちが命がけで七十郎を助け出そうとする。五人で屈強の侍六人に勝てるわけがないが、彼らは自分たちの命をかける。その姿を見て、「大切な人を守ろうと思えば怖いものはありません」(316ページ)と言い、七十郎は自分が斬られると進みである。そして、まさに刀が振り上げられたとき、綾瀬藩江戸屋敷詰の側用人が駆けつけてきて、ことを収めるのである。
すべてが収まり、木賃宿で知り合った五人や佐次右衛門、「おさと」らと分かれるときが来た。それぞれが川を渡っていく。「お若」も渡り賃が払えないので腰巻きだけで泳いでいく。それを見ながら、自分は一応藩に帰って報告はするが美祢とは夫婦にならないし、これからも臆病者として静かに生きていくだろうと考えていた。「お若」の肌がまぶしく光る。それを見ながら、女人の肌を見ることは妻だけであると言ってしまっていたことを思い出し、「お若」の肌を見てしまったのだから、国元に帰ったら「お若」を迎えにいこうと思うところで、この物語が爽やかに終わる。
読み終わって、単純だけれど、やはり並々ならぬ物語の展開と人物像を描きあげ、その中で人として生きることの上で大切にすべきことを盛り込んでいく作者に深く感服した。時代小説の神髄のようなものが作者の作品の中にはあると思う。
それはともかく、さて、葉室麟『川あかり』の続きであるが、大阪商人と癒着して私腹を肥やし、藩政を牛耳っていた家老の甘利典膳の刺殺を命じられた臆病者の伊東七十郎が川止めで知り合った佐々豪右衛門に連れて行かれた粗末な木賃宿には、川向こうの崇厳寺村の庄屋をしていたが病んで寝ついている佐次右衛門という老人とその孫の「さと」という娘、「五郎」という六歳ぐらいの子が階下にいて、佐々豪右衛門は伊東七十郎に、まず、挨拶料をやれとか、薬代を出せとかぶしつけに言うのである。伊東七十郎は面食らってしまうし、彼が寝泊まりすることになった二階には、白木の位牌を前にぶつぶつとお経を唱えている怪しげな坊主の徳元、猿廻しをしている弥之助、三味線を弾いて門付けの鳥追いをしているらしい二十二、三歳くらいの「お若」、やくざ者らしい遊び人の千吉がいて、それぞれ川あけを待っていた。
また、宿で飯炊きをしている「お茂婆」がいて、その木賃宿はいろいろな事情を抱えた人間が転がり込む吹き溜まりのような宿だった。朴訥で素朴な伊東七十郎は、そういう連中からからかわれながらもその宿で刺殺相手の甘利典膳が来るのを待つことにしたのである。そのくだりは面白おかしく丁寧に描かれている。雨は降り続き、なかなか川止めは明けそうにない。
そういう中で、佐々豪右衛門は、病で寝ついている佐次右衛門と孫たちの事情を伊東七十郎に話す。それは、10年前にも一月ほど雨が降り続き、巨勢川があふれそうになり、下流の大地主がもつ土地を救うために崇厳寺村がある土手の堤防を役人が切ってしまい、崇厳寺村が水没してしまった出来事であった。
下流の土地をもつ大地主は商人でもあり、藩に多額の金を貸し,苗字帯刀も許されていたので、綾瀬藩と隣接していた上野藩では、その田畑を救うために崇厳寺村を犠牲にしたのである。崇厳寺村の庄屋であった佐次右衛門は私財をはたいて水没した村の再建にかけずり回ったが、一人の力では無理で、そのうちに「おさと」たちの両親が流行病で死んでしまい、佐次右衛門は二人を引き取って村に帰るところであるというのである。その話を聞いて、伊東七十郎は、なけなしの一両を薬代として「おさと」に渡したりする。
そして、佐々豪右衛門から伊東七十郎の剣の腕が全く駄目なのを見抜かれたりして、伊東七十郎は自分が刺客であることを話し出すのである。佐々豪右衛門は「誰かが貧乏くじを引かねばならぬような話は、やはりおかしい」と言い、「ひとりだけが犠牲にならなければならないことなど、この世の中にはひとつもない。この世の苦は、皆で分かち合うべきものだ」と語るが(88-89ページ)、伊東七十郎は、「自分は臆病者だが、卑怯者ではない」(91ページ)と思うのである。伊東七十郎は、優しさのあまり剣の腕はからっきし駄目だが、身を守るための秘儀を父親から授けられていた。
相変わらず川止めが続く中で、七十郎が寝泊まりする木賃宿で一つの事件が起こる。逃げた女房を追って馬方の松蔵という男が斧をもって押しかけてきたのである。松蔵は女房が薬の行商人と浮気したと思い込み、行商人を斧で殺して女房を追いかけてきたのである。酔って乱暴を働き、「おさと」が人質に取られてしまう。そして遂に飯炊き婆の「お茂婆」が匿っていた女房が見つかってしまう。だれも手出しができずに七十郎の脇差しも取り上げられていた。だが、七十郎は、松蔵の隙を突いて棒手裏剣の技を繰り出し、「おさと」を助け、松蔵を捕らえるのである。
その時、七十郎が松蔵に言う言葉が彼の誠実な人柄を表す言葉になっている。彼はこう言う、
「松蔵殿、あんたは馬鹿だ。大事に思っている人なら、だまされたっていいじゃあないですか。信じるというのは、そういうことです」(112ぺーじ)。
これは、わたし自身が本当にそう思ってきたことで、こういう形で物語の展開の中で生き生きと語られることにひどく嬉しくなった言葉でもあり、葉室麟の他の作品でも随所に見られる深い意味合いのある言葉だとつくづく思う。
それはともかく、こうして伊東七十郎が剣の腕は駄目だが手裏剣の名手であることが知られてしまうが、捕縛に来た役人から、この辺りを荒らし回る「流れ星」と名乗る強盗団がいることを聞かされる。「流れ星」なる強盗団は、大店と武家屋敷ばかり狙う強盗団で、だれも気づかないうちに盗みを働き、署名を残していくという。
そして、実は木賃宿の二階に寝泊まりしている五人の男女がその「流れ星」なる強盗団で、七十郎は、偶然、怪しげな坊主の徳元が厨子の中に金の観音像をもっていることに気づいてしまう。そうしているうちに、役人が宿改めに来て、造り酒屋の大店である「出雲屋」から金の仏像が「流れ星」によって盗まれたことを告げる。七十郎は、徳元がもっていた金の観音像がそれであると気づいたが、役人の目からそれを隠し、彼らが「流れ星」であることを知る。彼らが強盗団となり、金の仏像を盗んだのには事情があった。
また、彼に刺殺を命じた増田惣右衛門から刺殺を急ぐように書状が届き、藩内屈指の剣の遣い手であり、稲垣頼母を暗殺したと思われる佐野又四郎が伊東七十郎を討つために追手として出たことを知らされる。七十郎は、自分ではとても適わないと愕然とする。
そこで、一味の首領格とも思える佐々豪右衛門から、その金の仏像を預かってくれと依頼され、その代わりに伊東七十郎に戦い方を教え、手助けすると申し出る。七十郎は、その申し出を一応受けて、その日から佐々豪右衛門の指導で稽古を始める。だが、七十郎の腕は上達しない。そんな中で、七十郎の追手である佐野又四郎の行くへを探っていた「お若」が人質として捕らえられてしまう。
伊東七十郎は、とても適わないと思いながらも「お若」を助けるために佐野又四郎と対決することを決心する。
「馬鹿を言うな。お主には大事な役目があるのだ。どこかに身を隠せ。お若は、わしらが取り戻す」と佐々豪右衛門は言う。だが、「ひと殺しを捕まえた後、お若さんから自分が人質になっても助けてくれるかと訊かれて、わたしは助けると答えました。ですから、わたしはお若さんを助けなければなりません」と七十郎は泣きそうな顔で言うのである。「恐ろしくて、いますぐ逃げ出したいです。でも、男が一度、口にしたことです。約束を守らなければ、お若さんは裏切られたと思うでしょう。わたしはお若さんにそんな思いはさせたくありません」と答えるのである(176ページ)。
この緊迫したくだりは胸を打つ。伊東七十郎の、どこまでもまっすぐで、人を悲しませたり、裏切られたた思いをもたせたりしたくないという決意は、彼の率直な人間性の豊かさを見事に表している。『いのちなりけり』の雨宮蔵人の青年版とも言えるだろう。
捕らわれた「お若」を救うために、伊東七十郎は剣の遣い手である佐野又四郎と一人対峙する。そして、斬られる寸前に、父親から身を守るために習っていた針を又四郎の目に放ち、彼を倒してしまうのである。そして、木賃宿の二階に寝起きする五人がなぜ強盗団の「流れ星」になったかの事情を知る。
十年前、巨勢川が氾濫したとき、佐々豪右衛門は崇厳寺村の寺子屋の師匠をしていて、徳元も弥之助も百姓であり、お若と千吉は豪右衛門の寺子屋に通っていたという。だが、大店の「出雲屋」がもっていた下流の田畑を救うために上野藩の役人が土手を切り壊して大水が崇厳寺村に流れ込み、徳元の女房と子どもが埋もれて死に、弥之助も村を離れて猿回しになったのである。そして、お若と千吉は、親を失った後に人買いに拐かされて江戸に売られてしまうのである。
佐々豪右衛門は二人を助け出すため江戸に行き、途中で出会った徳元と弥之助と共に二人を助け出して来たのである。ここにはその様子が詳しく記されているが、二人が人買いに拐かされた裏には、上野藩の大店であった「出雲屋」が絡んでいたのである。他方、崇厳寺村の庄屋であった佐次右衛門は、私財をなげうって村の再建を図っていたが、破産寸前となり、仕方なしに「出雲屋」に借金を頼った。「出雲屋」は千両の金を貸すといって証文を取り、とりあえず百両だけ貸したのである。ところが、残りを貸さないままで証文を盾に千両の借金の取り立てに来て、佐次右衛門の書画骨董を運び出し、佐次右衛門が最後の頼みとしていた金の仏像までも盗み出していたのである。金の仏像に関して「出雲屋」は知らぬ存ぜぬを言うだけである。
佐々豪右衛門と徳元、弥之助は、上野藩の役人と「出雲屋」の手代たちが酒盛りをしている「出雲屋」の別邸に行き、役人たちの刀や金目の物を持ち出し、こうして彼らは強盗団となり、「出雲屋」と関係がある大店や役人の屋敷だけを狙い、盗んだ金は村に送り、「出雲屋」に盗み取られた金の仏像を探していたのである。そして、ようやくそのありかを捜し出して、それを佐次右衛門に返すために盗み出してきたのだというのである。
この話を聞いて、伊東七十郎は、川あけまで金の仏像を守ることを「お若」に約束する。だが、そこに彼に刺殺を命じた増田惣右衛門から使わされて美祢本人が木賃宿にやってきた。綾瀬藩内で寺に立て籠もった若者たちが自分たちを扇動した儒学者を殺そうとして誤って庄屋の娘を殺してしまい、もはや甘利典膳を殺すしか道がなくなり、藩の遣い手であった佐野又四郎が追手になったことで七十郎が臆病風に吹かれて逃げ出すのではないかと案じ、美祢を差し出して念を押すためであった。
そこへ「出雲屋」自身が乗り込んできて、金の仏像を返せと言い出す。だが、伊東七十郎は、金の仏像は自分がもっているが真の持ち主がわかるまでは返せないと言い、「出雲屋」自身が金策に困っていると指摘する。それによって、ついてきていた上野藩の役人に「出雲屋」の借用書が大阪商人の手に渡ると上野藩は大変なことになると言い、役人たちと「出雲屋」を追い払うのである。
そして、念押しの犠牲となろうとする美祢に「典膳を討つのは、増田様から命じられたからではないのです。まして、稲垣家の五百石のためでも、美祢様のためでもありません。わたしは不正によって苦しむ領民のために刺客になりたいのです」(255ページ)と言って美祢を返すのである。
美祢は、自分がこれまでに七十郎に対して思い違いをしていたことに気づき、七十郎の本当の姿を知っていくが、七十郎は美祢を拒んでそのまま返す。彼は自分が返り討ちにあうだろうと思っていた。七十郎は、その夕暮れ、河畔で「おさと」から「川明かり」の話を聞く。それが本書の神髄でもあるので、ちょっと抜き出しておこう。
「七十郎さん、川明かりって知っていますか」
「川明かり? 知りません」
「もうじき川明かりが見えます。日が暮れて、あたりが暗くなっても川は白く輝いているんです。ほら・・・・」
おさとの言葉通りだった。
空は菫色で雲はまだ薄紫に染まっているが、山裾から河岸にかけては薄闇に覆われていた。だが、墨を塗ったかのような景色の中に、蛇行する川だけがほのかに白く浮き出ている.小波が銀色に輝き、生きているようにゆったりと流れていた。
川その物が光を放っているかのようである。
(まるで、黄泉の国を流れる命の川だ)
七十郎はそんなことを思いながら、茫然として見つめた。なぜか、心が温まるような眺めだった。
「お祖父ちゃんがよく言うのです。日が落ちてあたりが暗くなっても、川面だけが白く輝いているのを見ると、元気になれる。なんにもいいことがなくっても、ひとの心には光が残っていると思えるからって」(260-261ページ)
粗末な木賃宿にいた五人の「流れ星」と名乗る強盗団は、崇厳寺村にとっては「川明かり」であり、そしてなによりも、伊東七十郎の素朴で正直でまっすぐな姿こそが「川明かり」そのものである。本書は、これが書きたくて書かれたのではないかと思うほどである。そんな七十郎に「お若」も言う。「女はね、一度でもいいから大切にしてもらうと、自分を大切に思って生きていくことができるんです。わたしは七十郎さんから一生、胸に抱いていける宝物をもらったんですよ」と)266ページ)。
伊東七十郎が刺殺を命じられた甘利典膳は、借金のために父親が自害したことから「棒引き侍」とか「藩の面汚し」とか軽蔑されながら文武両道に励みながら、容姿も優れていたことから小姓組(藩所やその家族の世話をする役)として認められ、藩主に気に入られ、粉骨砕身して働き出世してきた人物であった。軽格の出であることから風当たりも強く、特に家老であった稲垣頼母の父親からは「成り上がり者」と蔑まれ、幾たびも危機を迎え、それを何とかしのいできて家老にまでのし上がったのである。大阪商人と癒着して得た金を藩内にばらまき、自らも私腹を肥やし、さらに藩政を牛耳るために上士の若者たちを切腹に追いやって上士の家を取り潰し、意のままに動く軽格の者を登用することを考えていた。
だが、肥やしていた私腹財産のことが藩主に知れ、一刻もその証拠を隠す必要があったのである。刺客が放たれたことも知っていたが、藩内一の遣い手である佐野又四郎がなんとかするだろうと思っていた。蔑まれてきた私怨を晴らすことも彼の脳裏には色濃くあった。
こうして、いよいよ川止めが止み、渡航が可能になった。七十郎が最後の朝を迎える日でもある。七十郎は皆に別れを告げて、ひとり川岸に向かう。甘利典膳の乗った輦台(れんだい・・川を渡るときに人を乗せるもの)が近づき、六人もの屈強な護衛がいる。臆病者である七十郎は恐ろしくなるが、それでも、典膳に向かっていく。しかし、棒立ちになったまま震えて動けない。そんな七十郎を見て、典膳はさげすむようにするだけである。
そのとき、七十郎の様子を案じていた五人の者たちが七十郎を助けるために駆けつけてきて一芝居打つ。典膳の護衛の武士たちはそちらに引きつけられ、ようやくひとりになった典膳に七十郎は名乗りを上げることができた。だが、典膳は、藩内一の臆病者と聞き、ひ弱そうに見える七十郎を冷笑するだけであった。七十郎は典膳に軽くあしらわれてしまい、典膳から斬られそうになる。だがその時、猿廻しの弥之助が飼っていた猿が典膳に飛びかかり、典膳は弥之助を殺そうとする。それを見て、震えていた七十郎は奮起し、典膳に向かっていく。そして、背中を斬られそうになるところで、脇差しを逆手にとったままで背中から典膳にぶつかり、不遜に笑っていた典膳を刺すのである。だが、護衛をしていた六人の侍たちが帰ってきて七十郎を取り囲む。
七十郎の窮地を見て、佐々豪右衛門を初めとする五人の者たちが命がけで七十郎を助け出そうとする。五人で屈強の侍六人に勝てるわけがないが、彼らは自分たちの命をかける。その姿を見て、「大切な人を守ろうと思えば怖いものはありません」(316ページ)と言い、七十郎は自分が斬られると進みである。そして、まさに刀が振り上げられたとき、綾瀬藩江戸屋敷詰の側用人が駆けつけてきて、ことを収めるのである。
すべてが収まり、木賃宿で知り合った五人や佐次右衛門、「おさと」らと分かれるときが来た。それぞれが川を渡っていく。「お若」も渡り賃が払えないので腰巻きだけで泳いでいく。それを見ながら、自分は一応藩に帰って報告はするが美祢とは夫婦にならないし、これからも臆病者として静かに生きていくだろうと考えていた。「お若」の肌がまぶしく光る。それを見ながら、女人の肌を見ることは妻だけであると言ってしまっていたことを思い出し、「お若」の肌を見てしまったのだから、国元に帰ったら「お若」を迎えにいこうと思うところで、この物語が爽やかに終わる。
読み終わって、単純だけれど、やはり並々ならぬ物語の展開と人物像を描きあげ、その中で人として生きることの上で大切にすべきことを盛り込んでいく作者に深く感服した。時代小説の神髄のようなものが作者の作品の中にはあると思う。
2011年12月7日水曜日
葉室麟『川あかり』(1)
昨日は雨模様で震えるほどの寒さだったが,今日はお昼近くになってよく晴れてきた。師走の日々が慌ただしく過ぎていく中で、可能ならひとつひとつを丁寧に、誠実にしながら過ごしたいと思っているが、いくつかの事柄は自分でも納得がいかないままに過ぎてしまう。
そういう中で,丁寧に構成されて描かれた葉室麟『川あかり』(2011年 双葉社)を、やはり大変興味深く、また感銘をもって読み終わった。葉室麟の作品は、『銀漢の賦』や『秋月記』、『いのちなりけり』、そして『花や散るらん』と読んできて、非常に優れた感銘深い、質の高い嬉しくなるような作品が続いたが、『川あかり』も、これまでとは少し文体を変えた軟らかさをもちながらも、心に深く残る作品だった。
これは、雨で川止め(川の渡航禁止)となった巨勢川のほとりで川の渡航が開始されるのを待つひとりの青年武士の真摯で、まっすぐな姿と、互いに支え合い愛情をもって生きていく人々の姿を描いた作品である。川止めを題材にした作品として、すぐに山本周五郎の『雨あがる』を思い起こしたが、『雨あがる』が苦境の中で生き抜こうとする夫婦の深い愛情の姿を描いた作品であるなら、これは、同じように苦境の中で、深い愛情をもちながら真摯に、誠実に生きる姿を見事な筆致で描き出した作品である。
川止めとなった巨勢川で渡航が開始されるのを待つ伊東七十郎は、自他共に認められた藩内一の臆病者として、これまで綾瀬藩の中で下級藩士として過ごしてきた青年武士である。ちなみに、舞台の背景となっている巨勢川は佐賀県に流れている川であるし、その源とされている鹿伏山は長野県にその名前があり、また、京都の丹波に綾部藩というのはあったが、綾瀬藩という藩はなく、いずれもが作者が創作した背景だろうと思う。
ともあれ、自他共に臆病者と認められる伊東七十郎に、江戸から急遽帰国しようとする家老の甘利典膳を刺殺するようにとの密命が下されるのである。綾瀬藩は、中老の稲垣頼母を長とする一派と家老の甘利典膳を長とする一派の藩を二分する派閥抗争が激しくなり、派閥勢力の一方の長である稲垣頼母が何者かに闇討ちをかけられて殺される事件が起こっていた。藩政を巡る権力争いや派閥抗争は、単に江戸時代の諸藩だけでなく、どこの組織でも起こることであるが、綾瀬藩の場合は、小身の身分から家老にまで成り上がった甘利典膳が藩財政を立て直すために急激な藩内改革を断行したため、旧来の重臣たちが身を守ろうと集まって稲垣派を作り、甘利典膳への抵抗勢力となっていたのである。この辺りの藩政を巡る事情は2009年に角川書店から出された『秋月記』で記された秋月藩の藩政改革を巡る事情を思い起こさせるものでもある。もちろん、本書では、人物像は全く異なっている。
稲垣頼母が殺されたことから、稲垣派は崩壊に追い込まれ、以前から策士として聞こえていた元勘定奉行の増田惣右衛門が稲垣派をまとめることになる。しかし、保守色の強い増田惣右衛門に対して稲垣派の血気にはやる若者たちが稲垣頼母の暗殺についての藩主への直訴を求めて寺に立て籠もっていた。巧妙に立ち回る儒学者の扇動にあおられたところもあった。彼らを扇動した儒学者の振る舞いには裏があったのである。だが、そのことはまだ明らかにされない。
臆病者であった伊東七十郎は、親の代から稲垣派には属していたが、軽格でもあり、恐ろしさもあって、立て籠もりには加わっていなかった。また、周囲からは何の期待もされず無視されるような存在でしかなかった。寺の立て籠もりに誘われるが、場合によっては切腹覚悟であると聞き、母と妹たちを残しては死ねないと思い、何よりも切腹が怖くて青ざめてしまい、若者たちからは嘲りを受けていたのである。
その伊東七十郎に稲垣派の長である増田惣右衛門から藩堺にある巨勢川で甘利典膳を待ち受けて殺すように命令が下りるのである。増田惣右衛門は、家老の甘利典膳が藩政改革の中で大阪商人と癒着して私腹を肥やしていた事実をつかんでいたし、典膳が帰国すれば、寺に立て籠もった若者たちを制裁して、私腹を肥やした証拠を隠滅させて事件を終えるつもりであることを恐れ、なんとか典膳の帰国を阻止しようとしたのである。だが、甘利典膳の剣の腕も相当なもので、藩内のだれも彼を討つことなどできないので、自他共に認める臆病者である伊東七十郎ならば、相手が隙を見せて近寄ることができるのではないかと言う。
そして、伊東七十郎が密かに想いをもっていた稲垣頼母の娘で美貌の美祢という娘と夫婦にさせると約束する。美祢は寺に立て籠もった若者たちの指導的立場にあった藩士に想いを寄せており、その藩士を救うために自分を犠牲にするというのである。伊東七十郎は、その美祢の気持ちを知っており、それだけに、美祢に想いを寄せてはいるが夫婦になるつもりはなく、ただ、美祢の願いを聞き入れたいという思いで、それを引き受ける。
増田惣右衛門は、策士であり、臆病者の伊東七十郎が甘利典膳を殺すことなどはとうていできないが、巨勢川のほとりの隣国で騒動を起こせば、その間に何とかなると考えていたのである。伊東七十郎は、典膳の足止めのための捨て駒として利用されるのである。刺客はいつも利用されるだけの捨て駒に過ぎない。テロリストや下級兵士はいつでもそのようにしか扱われない。
伊東七十郎は、そのことも十分に承知している。しかし、自分はただ、美祢と約束をしたから、その約束を果たすだけだと言うのである。
こうした背景を背負って巨勢川のほとりで伊東七十郎は、川の渡航が許可されるのを待つのだが、路銀が少なくなったこともあり、いつ川あけが行われるかはわからない状態なので、そこで知り合った佐々豪右衛門という牢人者と共に粗末な木賃宿で寝泊まりすることになるのである。この木賃宿には不可思議な男女が寝泊まりしており、素朴でまっすぐな伊東七十郎は、その木賃宿で佐々豪右衛門から手玉に取られていくようになる。伊東七十郎は、佐々豪右衛門を中心とするその木賃宿の泊まり客と不思議な交流を持っていくことになるのである。
だが、この交流こそが本書の主題で、伊東七十郎の素朴でまっすぐな人柄が、難問を抱えた多くの人たちの中で、まるで「川あかり」のように輝いていく物語が展開されていくのである。今日は他のこともしなければならず、そのことについては、また今度にでも記しておくことにする。ともあれ、これも名作であることは間違いない。
そういう中で,丁寧に構成されて描かれた葉室麟『川あかり』(2011年 双葉社)を、やはり大変興味深く、また感銘をもって読み終わった。葉室麟の作品は、『銀漢の賦』や『秋月記』、『いのちなりけり』、そして『花や散るらん』と読んできて、非常に優れた感銘深い、質の高い嬉しくなるような作品が続いたが、『川あかり』も、これまでとは少し文体を変えた軟らかさをもちながらも、心に深く残る作品だった。
これは、雨で川止め(川の渡航禁止)となった巨勢川のほとりで川の渡航が開始されるのを待つひとりの青年武士の真摯で、まっすぐな姿と、互いに支え合い愛情をもって生きていく人々の姿を描いた作品である。川止めを題材にした作品として、すぐに山本周五郎の『雨あがる』を思い起こしたが、『雨あがる』が苦境の中で生き抜こうとする夫婦の深い愛情の姿を描いた作品であるなら、これは、同じように苦境の中で、深い愛情をもちながら真摯に、誠実に生きる姿を見事な筆致で描き出した作品である。
川止めとなった巨勢川で渡航が開始されるのを待つ伊東七十郎は、自他共に認められた藩内一の臆病者として、これまで綾瀬藩の中で下級藩士として過ごしてきた青年武士である。ちなみに、舞台の背景となっている巨勢川は佐賀県に流れている川であるし、その源とされている鹿伏山は長野県にその名前があり、また、京都の丹波に綾部藩というのはあったが、綾瀬藩という藩はなく、いずれもが作者が創作した背景だろうと思う。
ともあれ、自他共に臆病者と認められる伊東七十郎に、江戸から急遽帰国しようとする家老の甘利典膳を刺殺するようにとの密命が下されるのである。綾瀬藩は、中老の稲垣頼母を長とする一派と家老の甘利典膳を長とする一派の藩を二分する派閥抗争が激しくなり、派閥勢力の一方の長である稲垣頼母が何者かに闇討ちをかけられて殺される事件が起こっていた。藩政を巡る権力争いや派閥抗争は、単に江戸時代の諸藩だけでなく、どこの組織でも起こることであるが、綾瀬藩の場合は、小身の身分から家老にまで成り上がった甘利典膳が藩財政を立て直すために急激な藩内改革を断行したため、旧来の重臣たちが身を守ろうと集まって稲垣派を作り、甘利典膳への抵抗勢力となっていたのである。この辺りの藩政を巡る事情は2009年に角川書店から出された『秋月記』で記された秋月藩の藩政改革を巡る事情を思い起こさせるものでもある。もちろん、本書では、人物像は全く異なっている。
稲垣頼母が殺されたことから、稲垣派は崩壊に追い込まれ、以前から策士として聞こえていた元勘定奉行の増田惣右衛門が稲垣派をまとめることになる。しかし、保守色の強い増田惣右衛門に対して稲垣派の血気にはやる若者たちが稲垣頼母の暗殺についての藩主への直訴を求めて寺に立て籠もっていた。巧妙に立ち回る儒学者の扇動にあおられたところもあった。彼らを扇動した儒学者の振る舞いには裏があったのである。だが、そのことはまだ明らかにされない。
臆病者であった伊東七十郎は、親の代から稲垣派には属していたが、軽格でもあり、恐ろしさもあって、立て籠もりには加わっていなかった。また、周囲からは何の期待もされず無視されるような存在でしかなかった。寺の立て籠もりに誘われるが、場合によっては切腹覚悟であると聞き、母と妹たちを残しては死ねないと思い、何よりも切腹が怖くて青ざめてしまい、若者たちからは嘲りを受けていたのである。
その伊東七十郎に稲垣派の長である増田惣右衛門から藩堺にある巨勢川で甘利典膳を待ち受けて殺すように命令が下りるのである。増田惣右衛門は、家老の甘利典膳が藩政改革の中で大阪商人と癒着して私腹を肥やしていた事実をつかんでいたし、典膳が帰国すれば、寺に立て籠もった若者たちを制裁して、私腹を肥やした証拠を隠滅させて事件を終えるつもりであることを恐れ、なんとか典膳の帰国を阻止しようとしたのである。だが、甘利典膳の剣の腕も相当なもので、藩内のだれも彼を討つことなどできないので、自他共に認める臆病者である伊東七十郎ならば、相手が隙を見せて近寄ることができるのではないかと言う。
そして、伊東七十郎が密かに想いをもっていた稲垣頼母の娘で美貌の美祢という娘と夫婦にさせると約束する。美祢は寺に立て籠もった若者たちの指導的立場にあった藩士に想いを寄せており、その藩士を救うために自分を犠牲にするというのである。伊東七十郎は、その美祢の気持ちを知っており、それだけに、美祢に想いを寄せてはいるが夫婦になるつもりはなく、ただ、美祢の願いを聞き入れたいという思いで、それを引き受ける。
増田惣右衛門は、策士であり、臆病者の伊東七十郎が甘利典膳を殺すことなどはとうていできないが、巨勢川のほとりの隣国で騒動を起こせば、その間に何とかなると考えていたのである。伊東七十郎は、典膳の足止めのための捨て駒として利用されるのである。刺客はいつも利用されるだけの捨て駒に過ぎない。テロリストや下級兵士はいつでもそのようにしか扱われない。
伊東七十郎は、そのことも十分に承知している。しかし、自分はただ、美祢と約束をしたから、その約束を果たすだけだと言うのである。
こうした背景を背負って巨勢川のほとりで伊東七十郎は、川の渡航が許可されるのを待つのだが、路銀が少なくなったこともあり、いつ川あけが行われるかはわからない状態なので、そこで知り合った佐々豪右衛門という牢人者と共に粗末な木賃宿で寝泊まりすることになるのである。この木賃宿には不可思議な男女が寝泊まりしており、素朴でまっすぐな伊東七十郎は、その木賃宿で佐々豪右衛門から手玉に取られていくようになる。伊東七十郎は、佐々豪右衛門を中心とするその木賃宿の泊まり客と不思議な交流を持っていくことになるのである。
だが、この交流こそが本書の主題で、伊東七十郎の素朴でまっすぐな人柄が、難問を抱えた多くの人たちの中で、まるで「川あかり」のように輝いていく物語が展開されていくのである。今日は他のこともしなければならず、そのことについては、また今度にでも記しておくことにする。ともあれ、これも名作であることは間違いない。
2011年12月5日月曜日
高橋克彦『蘭陽きらら舞』
昨日からよく晴れた冬空が広がるようになった。今日もよく晴れて気持ちがよいのだが、どことなく疲れが抜けきれないままで目覚めてしまい、あれこれとしなければならないことはあってもんなかなか気乗りがしない。手帳に書き出してあることをただ眺めるばかりである。「これではいかんよ」と思いつつ朝から仕事に手をつけていた。
昨夜、高橋克彦『蘭陽きらら舞』(2009年 文藝春秋社)を読み終えた。これは以前に読んだ『だましゑ歌麿』(1999年 文藝春秋社)や『おこう紅絵暦』(2003年 文藝春秋社)、あるいはまだ読んではいないが、『春朗合わせ鏡』(2006年 文藝春秋社)の続編のような作品で、『おこう紅絵暦』を読んだ時にも思ったのだが、前作を読まないと登場する人物たちやその繋がり、背景などがさっぱいわからないという不親切な作品である。
だが、「春朗」というのは葛飾北斎のことで、『だましゑ歌麿』で人気絵師であった喜多川歌麿の起こした事件に関連して南町奉行所同心であった仙波一之進と出会い、彼の手助けをしていくようになり、また公儀お庭番の家系であったことが記されていくのだが、その仙波一之進の妻となったのが柳橋の美貌の売れっ子芸者であった「おこう」で、一之進の父親で隠居した左門と共に、いわばロッキングチェアー・デティクティブ(揺り椅子探偵)のような名推理を発揮するのである。仙波一之進は南町奉行所筆頭与力に出世している。本書でも取り扱われる事件の重要な鍵は「おこう」が解いていく構成が取られている。その「おこう」を中心にしたのが『おこう紅絵暦』であった。
本書は、「春朗(葛飾北斎)」の友人で、売れない女形役者であり、トンボ(空中回転)を得意とする「蘭陽」を中心に物語が展開していく。「蘭陽」は、役者として売れないことの悲哀や「おとこおんな」として生きていることの辛さ、そして多くの秘密を抱えながら生きているが、底抜けに楽天的で、絵師として生きていこうとする「春朗(北斎)」と名コンビを組んでいくのである。「きらら舞」というのは、この「蘭陽」がトンボ(宙返り)をするときにきらきら光る雲母などの粉をまくところから名づけられた「蘭陽」の得意芸である。
本書で取り扱われるのは、芝居小屋の金が盗まれた事件でとばっちりを受けて役者稼業を廃業させられていた「蘭陽」に戯作者である勝表俵(のちの鶴屋南北)から芝居の話が持ち込まれ、その事件には無関係だったことを証する必要があって、「春朗」と共に芝居小屋の金が盗まれた事件の真相を突きとめていく第一話「きらら舞」や、芝居で使われた古着を切って売り出し一儲けをたくらんだところが、欲をだした古着商に古着売買証を取られたのを取り返していく第二話「はぎ格子」、一家心中した商家に化物が出るという噂を芝居の前評判を高めるために使おうとした表俵の意向を受けて、「蘭陽」と「春朗」が化物屋敷に出かけていくことになり、一家心中の話を聞いた「おこう」が、それが心中に見せかけた殺人であることを見抜いて、「蘭陽」が一芝居打って犯人をあぶり出していく第三話「化物屋敷」など、十二話に渡って物語が展開されている。
各物語の詳細を書くまでもなく、題材は極めて面白いのだが、残念に思うのは、複雑な人間模様が予測される事件でも、「おこう」があっさりと謎を解き、「蘭陽」と「春朗」が名コンビを組みながら真相を実証していくという構造がいずれも取られていて、北斎や鶴屋南北が登場している割には展開があっさりしすぎている気がすることである。当時の絵師や戯作者たちは松平定信の贅沢禁止令もあってかなり苦労したのだが、そうした生活の苦労や泥臭さ、苦闘などは少ししか触れられずに、深みは感じられない。
この作品群の中では、やはり、第一作の『だましゑ歌麿』が一番面白く、まあ、こういう作風もあるのかも知れないが、少なくともわたしのような者にとっては、あっさり読み飛ばしてしまったという印象しか残らない作品だった。
北斎のあの絵のすごさは並の人間にはない凄さで、やはり天才としか言いようがないのだが、天才は生きることに人一倍の苦労をするのだから、そうしたものがにじみ出てくればよいのだが、本書で描かれる北斎(春朗)は、ことさら北斎でなくてもよい気がしたからかも知れない。もう少し北斎の人間性が描かれればよいと思うのは、もちろん、わたしの勝手な望みではあるだろうが。少なくとも、これは娯楽小説で、読んで心が震えるようなものではなかった。
個人的に、この季節には心が震えるような作品を読みたいと思ったりする。そういうわたしの読者としての心情があって、あまり面白く読めなかったのかも知れないと思ったりもする。今年は特に東北大震災が起こり、何もかも奪い去った津波が去った後のがれきの中で、ひとり花束を抱えて涙を流しながら海に向かって佇んでいた少女の報道写真を見て、涙がぽろぽろこぼれてならなかったから、楽天的であればもっと楽天的に、悲観的であれば深く心をえぐるような、そういうことを求めるからだろう。
昨夜、高橋克彦『蘭陽きらら舞』(2009年 文藝春秋社)を読み終えた。これは以前に読んだ『だましゑ歌麿』(1999年 文藝春秋社)や『おこう紅絵暦』(2003年 文藝春秋社)、あるいはまだ読んではいないが、『春朗合わせ鏡』(2006年 文藝春秋社)の続編のような作品で、『おこう紅絵暦』を読んだ時にも思ったのだが、前作を読まないと登場する人物たちやその繋がり、背景などがさっぱいわからないという不親切な作品である。
だが、「春朗」というのは葛飾北斎のことで、『だましゑ歌麿』で人気絵師であった喜多川歌麿の起こした事件に関連して南町奉行所同心であった仙波一之進と出会い、彼の手助けをしていくようになり、また公儀お庭番の家系であったことが記されていくのだが、その仙波一之進の妻となったのが柳橋の美貌の売れっ子芸者であった「おこう」で、一之進の父親で隠居した左門と共に、いわばロッキングチェアー・デティクティブ(揺り椅子探偵)のような名推理を発揮するのである。仙波一之進は南町奉行所筆頭与力に出世している。本書でも取り扱われる事件の重要な鍵は「おこう」が解いていく構成が取られている。その「おこう」を中心にしたのが『おこう紅絵暦』であった。
本書は、「春朗(葛飾北斎)」の友人で、売れない女形役者であり、トンボ(空中回転)を得意とする「蘭陽」を中心に物語が展開していく。「蘭陽」は、役者として売れないことの悲哀や「おとこおんな」として生きていることの辛さ、そして多くの秘密を抱えながら生きているが、底抜けに楽天的で、絵師として生きていこうとする「春朗(北斎)」と名コンビを組んでいくのである。「きらら舞」というのは、この「蘭陽」がトンボ(宙返り)をするときにきらきら光る雲母などの粉をまくところから名づけられた「蘭陽」の得意芸である。
本書で取り扱われるのは、芝居小屋の金が盗まれた事件でとばっちりを受けて役者稼業を廃業させられていた「蘭陽」に戯作者である勝表俵(のちの鶴屋南北)から芝居の話が持ち込まれ、その事件には無関係だったことを証する必要があって、「春朗」と共に芝居小屋の金が盗まれた事件の真相を突きとめていく第一話「きらら舞」や、芝居で使われた古着を切って売り出し一儲けをたくらんだところが、欲をだした古着商に古着売買証を取られたのを取り返していく第二話「はぎ格子」、一家心中した商家に化物が出るという噂を芝居の前評判を高めるために使おうとした表俵の意向を受けて、「蘭陽」と「春朗」が化物屋敷に出かけていくことになり、一家心中の話を聞いた「おこう」が、それが心中に見せかけた殺人であることを見抜いて、「蘭陽」が一芝居打って犯人をあぶり出していく第三話「化物屋敷」など、十二話に渡って物語が展開されている。
各物語の詳細を書くまでもなく、題材は極めて面白いのだが、残念に思うのは、複雑な人間模様が予測される事件でも、「おこう」があっさりと謎を解き、「蘭陽」と「春朗」が名コンビを組みながら真相を実証していくという構造がいずれも取られていて、北斎や鶴屋南北が登場している割には展開があっさりしすぎている気がすることである。当時の絵師や戯作者たちは松平定信の贅沢禁止令もあってかなり苦労したのだが、そうした生活の苦労や泥臭さ、苦闘などは少ししか触れられずに、深みは感じられない。
この作品群の中では、やはり、第一作の『だましゑ歌麿』が一番面白く、まあ、こういう作風もあるのかも知れないが、少なくともわたしのような者にとっては、あっさり読み飛ばしてしまったという印象しか残らない作品だった。
北斎のあの絵のすごさは並の人間にはない凄さで、やはり天才としか言いようがないのだが、天才は生きることに人一倍の苦労をするのだから、そうしたものがにじみ出てくればよいのだが、本書で描かれる北斎(春朗)は、ことさら北斎でなくてもよい気がしたからかも知れない。もう少し北斎の人間性が描かれればよいと思うのは、もちろん、わたしの勝手な望みではあるだろうが。少なくとも、これは娯楽小説で、読んで心が震えるようなものではなかった。
個人的に、この季節には心が震えるような作品を読みたいと思ったりする。そういうわたしの読者としての心情があって、あまり面白く読めなかったのかも知れないと思ったりもする。今年は特に東北大震災が起こり、何もかも奪い去った津波が去った後のがれきの中で、ひとり花束を抱えて涙を流しながら海に向かって佇んでいた少女の報道写真を見て、涙がぽろぽろこぼれてならなかったから、楽天的であればもっと楽天的に、悲観的であれば深く心をえぐるような、そういうことを求めるからだろう。
2011年12月2日金曜日
葉室麟『花や散るらん』(2)
師走に入ると、やはり寒さが一段と厳しくなったような気がする。昨日から雨模様の寒い日となり、平地でも雪が降るかも知れないとの予報が出ている。こんな寒い日々は愛する人と暖かく過ごすのが一番だろうが、わたしの現実では不可能事であるから、節電が叫ばれてはいるが、せいぜい暖房を強くして湯豆腐でも作ろうかと思ったりする。
さて、『花や散るらん』の続きであるが、桂昌院への従一位叙任は公家方と大奥の画策にも関わらず決定され、事柄が別の進展となっていく。桂昌院への従一位の叙位決定で咲弥の大奥での役割は終わったように見受けられたが、浅野内匠頭の刃傷沙汰の折りに見事に大奥を取り鎮めた彼女は、そのまま大奥に留められて出ることができず、ついに徳川綱吉から夜伽の声がかかってしまう。大奥では、30歳を過ぎて綱吉から声がかかった場合、いったん家老の柳沢保明に下げ渡され、綱吉が柳沢の屋敷に赴いた際にそこで綱吉との同衾を強要されるのであった。柳沢保明の側女であった「お染」がそれの例であり、「お染」が生んだ子は徳川綱吉の子ではないかといわれている。
監禁同様に柳沢家に押し込められた咲弥の身が危うくなる。彼女は、夫の蔵人が自分を助けに来てくれると固く信じていたが、それが間に合わずにいよいよとなったら舌を噛み切って死ぬことを決意する。帰りが遅い咲弥の身を案じ、彼女を取り戻す決意をして京都から江戸に出てきていた雨宮蔵人はそのことを知る術もなかったが、咲弥から届けられた和歌を知り、蔵人は咲弥を救い出すため柳沢家に乗り込んでいくのである。そして、柳沢家が火事になった隙を突いて奮闘しながら彼女を助け出すのである。
他方、赤穂の牢人たちは大石内蔵助を中心にまとまりはじめる。この辺りの経過は、よく調べられて描かれており、大石内蔵助の人となりも見事に描かれ、雨宮蔵人が大石内蔵助に自分と似たようなところがあることを認めていったりするという姿で、大石内蔵助の器の大きな姿と雨宮蔵人の姿が重ねられていく。
そして、討ち入り間近の日、咲弥を助けて飛脚屋に潜んでいた蔵人が堀部安兵衛に会いにいった隙を突いて娘の「香也」が何者かに誘拐されてしまう。
雨宮蔵人と咲弥の娘「香也」は、実は、吉良上野介が京都で知り合った女に生ませた子で、吉良上野介が愛した女性もその子の「香也」の母親も、吉良上野介の正室である富子が放った神尾与右衛門に斬り殺されていたのである。吉良上野介の正室であった富子は、米沢藩主上杉定勝の四女で、武門の誉れ高い上杉家は、当時30万石の米沢藩の大名であり、高家とはいえ4千石程度の旗本である吉良家とは格が違っていた。富子は吉良家に嫁いでも上杉家での暮らし方を変えることなく、気位が高く、夫が外で女を作り、しかも子までなしたことが後々跡目相続の禍根を残すことになることを危ぶんで、神尾与右衛門に殺させたのである。従って、「香也」は吉良上野介の孫であった。そして、たまたま「香也」の両親が殺される場に行き会わせた咲弥と蔵人が「香也」だけを助けることができて、自分たちの子として育てていたのである。
隠居した吉良上野介は棲息生活の中で孫娘に会いたいと願い神尾与右衛門に掠わせ、吉良家に留め置いたのである。そして、雨宮蔵人がそれを知ったのは赤穂浪士の討ち入りの日であった。雨宮蔵人は赤穂浪士の討ち入りを知っていたが、蔵人は「香也」を助け出しに行き、討ち入りの最中に「香也」を見つけて助け出すのである。
この辺りのことで、いくつか記しておきたいことがある。一つは、物語の初めから吉良上野介の手先として働いてきていた神尾与右衛門のことで、神尾与右衛門は、大柄で恐ろしげな顔つきをしていたために人々から恐れられるだけで慕われることがなかったが、「香也」の実父だけが彼と親交をもってくれていた。神尾与右衛門は、もともと富子が吉良家に嫁ぐときに上杉家からきた人物で、富子の命に服従を強要されていた。そのために、自分の友人夫妻で「香也」の両親を殺さなければならなかったのである。復命は家臣として絶対であった。吉良上野介と富子の間は冷え切っており、神尾与右衛門は、一方では吉良上野の命を受けると共に、他方では富子の命に服従を強いられていた。つまり、二人の主人に仕えなければならずに、板挟みの状態に置かれていたのである。
この神尾与右衛門に蔵人は、「その主のためなら死んでもよいと思える相手こそがわが主じゃ」と言い、「いまのわしにとっては、咲弥と香也が主だということになるのう」と語る(242ページ)。この蔵人の言葉と姿に神尾与右衛門は打たれて、富子が去った後も吉良家に留まり、赤穂浪士の討ち入りの際に堀部安兵衛から斬られて死ぬのである。彼は、蔵人の言葉によって死地を求め、その場が与えられたといってもよいだろう。自分の主とは誰か、蔵人は躊躇することなく、それは愛する者だと言う。そういう生き方に徹することこそが最も大切なのだとわたしも思う。
二つ目は、蔵人が娘の「香也」を助けるために討ち入りが行われることを知って吉良家に赴くときに、もし討ち入りと重なると赤穂の浪士たちが間違えて蔵人を襲うことがあるかも知れないと言われ、「なんの、おのれの心が直であれば、間違いは起きますまい」というくだりである(274ページ)。この「心が直くあること」、「心を直くすること」、それが雨宮蔵人の神髄であり、この物語は『いのちなりけり』からそういう姿を主題としてもっていたことが改めてわかる。人々は雨宮蔵人のこの心の直さに深い感銘を与えられていくのである。
三つ目は、いよいよ討ち入りの最後、赤穂浪士たちが吉良上野介を捜し出そうとしているときに、その敷地内で雨宮蔵人はようやく「香也」を見つけるが、「香也」が「自分の大好きな人を失いたくない」と言われ、吉良上野介が自分のお爺様だと聞かされ、お爺様を守りたいといくことを承知して、赤穂浪士たちが武士の義によって討ち入りしたことはわかっているが娘との約束は果たさなければならないと決め、47人の赤穂浪士に単身立ち向かうところである。
物語は、そこでその様子を物陰から見ていた吉良上野介が自ら名乗り出て討たれ、蔵人と香也は無事に吉良家を出て行くことになている。もちろん、それは作者の創作だが、何が義かということに対して蔵人が娘との約束を果たすことを躊躇なく選択する姿は、心に迫るものがある。
雪が降りしきる中で「香也」を抱いて門から出たときに、背後で赤穂浪士たちの勝鬨の声が上がる。
「蔵人の腕に抱かれた香也が空を見上げた。
『お父上、雪が-』
薄紫の雲から白い花のように雪が降ってくる。蔵人はつぶやいた。
『いのちの花が散っているのだ』」(287ページ)
と結末が描写される。一篇の短い詩のような言葉でこの物語が終わる時、わたしは本を閉じて深い感銘の中に置かれた。
その他にも、本書には後に国学者の荷田春満(かだのあずまろ)となった羽倉斎(はぐらいつき)と柳沢保明の愛妾にされた公家の娘である正親町町子(おおぎまち まちこ)との実らない恋が、蔵人と咲弥の深い愛情の姿と重ねられて描かれたりする。咲弥が蔵人による救出を信じ切り、そして、実際にその通りに蔵人が柳沢保明の手から咲弥を救い出したとき、町子は咲弥にたいして、「ほんまに幸せなおなごがいた」と思うのである。
朝廷方と幕府、大奥内での勢力争い、徳川綱吉や柳沢保明、吉良上野介、浅野内匠頭、そして大奥やそれぞれの女性たち、そういうすべてがどろどろとした人間たちがうごめく中で、雨宮蔵人と咲弥は「心が直」で、ただひたすら愛する者を信じ、そのために生きる。そういう描き方がされて、まことに見事な作品だと思っている。
人は、自分が愛する者のために生きており、またそのように生きている自分を愛する者がわかってくれていると思えること以上に命の充実はない。人の幸せの究極の姿がこの雨宮蔵人と咲弥にあり、作者が描きたいと思っていた姿が見事な、多くの歴史上の人物や出来事の中での構成と展開の中で示されている。改めて、葉室麟という優れた作家の作品を読めたことを心底思うような感銘深い作品だった。
さて、『花や散るらん』の続きであるが、桂昌院への従一位叙任は公家方と大奥の画策にも関わらず決定され、事柄が別の進展となっていく。桂昌院への従一位の叙位決定で咲弥の大奥での役割は終わったように見受けられたが、浅野内匠頭の刃傷沙汰の折りに見事に大奥を取り鎮めた彼女は、そのまま大奥に留められて出ることができず、ついに徳川綱吉から夜伽の声がかかってしまう。大奥では、30歳を過ぎて綱吉から声がかかった場合、いったん家老の柳沢保明に下げ渡され、綱吉が柳沢の屋敷に赴いた際にそこで綱吉との同衾を強要されるのであった。柳沢保明の側女であった「お染」がそれの例であり、「お染」が生んだ子は徳川綱吉の子ではないかといわれている。
監禁同様に柳沢家に押し込められた咲弥の身が危うくなる。彼女は、夫の蔵人が自分を助けに来てくれると固く信じていたが、それが間に合わずにいよいよとなったら舌を噛み切って死ぬことを決意する。帰りが遅い咲弥の身を案じ、彼女を取り戻す決意をして京都から江戸に出てきていた雨宮蔵人はそのことを知る術もなかったが、咲弥から届けられた和歌を知り、蔵人は咲弥を救い出すため柳沢家に乗り込んでいくのである。そして、柳沢家が火事になった隙を突いて奮闘しながら彼女を助け出すのである。
他方、赤穂の牢人たちは大石内蔵助を中心にまとまりはじめる。この辺りの経過は、よく調べられて描かれており、大石内蔵助の人となりも見事に描かれ、雨宮蔵人が大石内蔵助に自分と似たようなところがあることを認めていったりするという姿で、大石内蔵助の器の大きな姿と雨宮蔵人の姿が重ねられていく。
そして、討ち入り間近の日、咲弥を助けて飛脚屋に潜んでいた蔵人が堀部安兵衛に会いにいった隙を突いて娘の「香也」が何者かに誘拐されてしまう。
雨宮蔵人と咲弥の娘「香也」は、実は、吉良上野介が京都で知り合った女に生ませた子で、吉良上野介が愛した女性もその子の「香也」の母親も、吉良上野介の正室である富子が放った神尾与右衛門に斬り殺されていたのである。吉良上野介の正室であった富子は、米沢藩主上杉定勝の四女で、武門の誉れ高い上杉家は、当時30万石の米沢藩の大名であり、高家とはいえ4千石程度の旗本である吉良家とは格が違っていた。富子は吉良家に嫁いでも上杉家での暮らし方を変えることなく、気位が高く、夫が外で女を作り、しかも子までなしたことが後々跡目相続の禍根を残すことになることを危ぶんで、神尾与右衛門に殺させたのである。従って、「香也」は吉良上野介の孫であった。そして、たまたま「香也」の両親が殺される場に行き会わせた咲弥と蔵人が「香也」だけを助けることができて、自分たちの子として育てていたのである。
隠居した吉良上野介は棲息生活の中で孫娘に会いたいと願い神尾与右衛門に掠わせ、吉良家に留め置いたのである。そして、雨宮蔵人がそれを知ったのは赤穂浪士の討ち入りの日であった。雨宮蔵人は赤穂浪士の討ち入りを知っていたが、蔵人は「香也」を助け出しに行き、討ち入りの最中に「香也」を見つけて助け出すのである。
この辺りのことで、いくつか記しておきたいことがある。一つは、物語の初めから吉良上野介の手先として働いてきていた神尾与右衛門のことで、神尾与右衛門は、大柄で恐ろしげな顔つきをしていたために人々から恐れられるだけで慕われることがなかったが、「香也」の実父だけが彼と親交をもってくれていた。神尾与右衛門は、もともと富子が吉良家に嫁ぐときに上杉家からきた人物で、富子の命に服従を強要されていた。そのために、自分の友人夫妻で「香也」の両親を殺さなければならなかったのである。復命は家臣として絶対であった。吉良上野介と富子の間は冷え切っており、神尾与右衛門は、一方では吉良上野の命を受けると共に、他方では富子の命に服従を強いられていた。つまり、二人の主人に仕えなければならずに、板挟みの状態に置かれていたのである。
この神尾与右衛門に蔵人は、「その主のためなら死んでもよいと思える相手こそがわが主じゃ」と言い、「いまのわしにとっては、咲弥と香也が主だということになるのう」と語る(242ページ)。この蔵人の言葉と姿に神尾与右衛門は打たれて、富子が去った後も吉良家に留まり、赤穂浪士の討ち入りの際に堀部安兵衛から斬られて死ぬのである。彼は、蔵人の言葉によって死地を求め、その場が与えられたといってもよいだろう。自分の主とは誰か、蔵人は躊躇することなく、それは愛する者だと言う。そういう生き方に徹することこそが最も大切なのだとわたしも思う。
二つ目は、蔵人が娘の「香也」を助けるために討ち入りが行われることを知って吉良家に赴くときに、もし討ち入りと重なると赤穂の浪士たちが間違えて蔵人を襲うことがあるかも知れないと言われ、「なんの、おのれの心が直であれば、間違いは起きますまい」というくだりである(274ページ)。この「心が直くあること」、「心を直くすること」、それが雨宮蔵人の神髄であり、この物語は『いのちなりけり』からそういう姿を主題としてもっていたことが改めてわかる。人々は雨宮蔵人のこの心の直さに深い感銘を与えられていくのである。
三つ目は、いよいよ討ち入りの最後、赤穂浪士たちが吉良上野介を捜し出そうとしているときに、その敷地内で雨宮蔵人はようやく「香也」を見つけるが、「香也」が「自分の大好きな人を失いたくない」と言われ、吉良上野介が自分のお爺様だと聞かされ、お爺様を守りたいといくことを承知して、赤穂浪士たちが武士の義によって討ち入りしたことはわかっているが娘との約束は果たさなければならないと決め、47人の赤穂浪士に単身立ち向かうところである。
物語は、そこでその様子を物陰から見ていた吉良上野介が自ら名乗り出て討たれ、蔵人と香也は無事に吉良家を出て行くことになている。もちろん、それは作者の創作だが、何が義かということに対して蔵人が娘との約束を果たすことを躊躇なく選択する姿は、心に迫るものがある。
雪が降りしきる中で「香也」を抱いて門から出たときに、背後で赤穂浪士たちの勝鬨の声が上がる。
「蔵人の腕に抱かれた香也が空を見上げた。
『お父上、雪が-』
薄紫の雲から白い花のように雪が降ってくる。蔵人はつぶやいた。
『いのちの花が散っているのだ』」(287ページ)
と結末が描写される。一篇の短い詩のような言葉でこの物語が終わる時、わたしは本を閉じて深い感銘の中に置かれた。
その他にも、本書には後に国学者の荷田春満(かだのあずまろ)となった羽倉斎(はぐらいつき)と柳沢保明の愛妾にされた公家の娘である正親町町子(おおぎまち まちこ)との実らない恋が、蔵人と咲弥の深い愛情の姿と重ねられて描かれたりする。咲弥が蔵人による救出を信じ切り、そして、実際にその通りに蔵人が柳沢保明の手から咲弥を救い出したとき、町子は咲弥にたいして、「ほんまに幸せなおなごがいた」と思うのである。
朝廷方と幕府、大奥内での勢力争い、徳川綱吉や柳沢保明、吉良上野介、浅野内匠頭、そして大奥やそれぞれの女性たち、そういうすべてがどろどろとした人間たちがうごめく中で、雨宮蔵人と咲弥は「心が直」で、ただひたすら愛する者を信じ、そのために生きる。そういう描き方がされて、まことに見事な作品だと思っている。
人は、自分が愛する者のために生きており、またそのように生きている自分を愛する者がわかってくれていると思えること以上に命の充実はない。人の幸せの究極の姿がこの雨宮蔵人と咲弥にあり、作者が描きたいと思っていた姿が見事な、多くの歴史上の人物や出来事の中での構成と展開の中で示されている。改めて、葉室麟という優れた作家の作品を読めたことを心底思うような感銘深い作品だった。
2011年11月30日水曜日
葉室麟『花や散るらん』(1)
初冬のよく晴れた日になっている。今日で霜月も終わり、明日から師走に入る。師走はやはりなにかと気ぜわしいし、半ばにはキルケゴールについての話もすることになっているので少し籠もる日々になるのではないかと思い、今日は特に何もせずにのんびりすることにした。とはいえ、だいたいがいつものんびり過ごしているのだから、まあ、いつもと同じというところだろう。今日も変わらず「リンゴの木を植える」わけである。
二日ほどかけて、葉室麟『花や散るらん』(2009年 文藝春秋社)を深い感銘をもって読み終えた。読み始めてすぐに、これが、以前に大きな感動をもって読み終えた『いのちなりけり』(2008年 文藝春秋社)の続編に当たることを知って、もうそれだけで嬉しくなったのだが、読み進める中で同じようにぐいぐいと引き込まれて描き出された人物に魅了されてしまった。
前作『いのちなりけり』で、ただひたすら「いのちなりけり」と呼ぶほど愛する者に会うために死闘を繰り返し、16年の歳月をかけてようやく本当の夫婦となった雨宮蔵人と咲弥は、京都の鞍馬の田舎での落ち着いた生活をはじめるようになっていた。蔵人は茅葺き屋根の家の庭先に掘っ立て小屋を建てて柔術指南の道場を作ったが、まだ、ひとりも門弟はいずに家の廻りのわずかな土地を耕して畑を作ったり、自己鍛錬の日々を送ったりし、咲弥は、ときおり京都に出て和歌を教えたりしながら静かに暮らしていた。
冒頭の部分に、「女房(農家の主婦で蔵人夫妻を敬愛し、咲弥の京都行きについて行っている)が包みの中から取り出したのは手鞠だった。女の子(蔵人夫妻の子どもだが、実はわけありの子ども)は手鞠を受け取ると嬉しそうにポーンと宙に放り投げた。放たれた手鞠は女の子の手には戻らず、地面に落ちそうになった。女(咲弥)があっと思った時、落ちてきた手鞠を武士(蔵人)が片手で受け取っていた。
武士と女は顔を見合わせて笑った。二人はゆっくりと鞍馬街道を北へ歩き出した。荷を抱えた女房が後からついていく。
陽炎がたち、道沿いの白いハコベの花が揺れている。女の子の笑い声が遠く野にまで聞こえた」(6ページ)
という夫婦と小さな女の子の平穏で平和な姿が、実に見事な光景として描かれている。これが蔵人夫妻と娘の「香也」の鞍馬での姿である。そして、冒頭にこうした平和で温かい姿が描かれるということは、この平穏がやがては壊されていくことも暗示している。鞍馬の村人たちは、大柄で武骨で、決して美男子とは言えない蔵人と気品があって美しい咲弥が夫婦であるとは信じられず、特に咲弥が、公家や富商の妻や娘たちに和歌の指導をし、かつては水戸家の奥女中取締りをしていたと聞いて、まことに不釣り合いの夫婦として咲弥を憐れむほどであったが、次第に蔵人の人柄と力量に触れ、蔵人を尊敬するようになっていくのである。
蔵人夫妻と娘の世話をなにかとしてくれて、咲弥が京都に行くときには同行していた農家の女房は、牢人者たちが村に押し入って彼女の娘を人質に取った事件で、蔵人から娘を助け出されたことで、親身になって彼らの世話を買って出ているような女性で、蔵人の家族が鞍馬の村人から慕われるようになった象徴でもある。
しかし、こうした平穏な日々は、江戸と京都、幕府と朝廷の争いや、幕閣内での老中柳沢保明や吉良上野介の野望、江戸城大奥内での勢力争いという人間の欲によって打ち壊されていくのである。時は、ちょうど将軍徳川綱吉の母である桂昌院に従一位という身分を与えるかどうかで幕府と朝廷との間で隠れた争いが起こっていた時で、将軍徳川綱吉におもねるために柳沢保明は高家(礼儀作法を取り仕切る家柄)の吉良上野介を使って朝廷側に桂昌院の従一位を授けるように働きかけていた。吉良上野介は幕府の朝廷対策を担っていたのである。ここで吉良上野介の役割が大きくなったということは、この物語がやがては「忠臣蔵」に続く複線でもある。こういう構成も実にうまいと感心する。
吉良上野介はまた、それを自分の勲功としてさらなる地位の安泰を狙い、柳沢保明とはまた異なった思惑をもっていた。吉良上野介は高家であることを誇り、柳沢保明の素養を軽蔑しているところがあり、柳沢保明もそのことを快く思っていなかった。吉良上野介は自分の家臣であった神尾与右衛門を使って公家に金を貸し、その金で縛って公家の意見をまとめて思い通りに動かし、桂昌院に叙一位が降りるように画策していたのである。神尾与右衛門は剣の腕も相当にたつ。
幕府に対して快く思っていなかった朝廷側の指導的立場におり、雨宮蔵人夫妻の面倒もみてきていた中院通茂は、吉良上野介の陰謀を砕くために雨宮蔵人に神尾与右衛門を斬るように咲弥を通して依頼するが、咲弥は、恩義のある通茂の頼みでも、「蔵人殿は自分たちの都合などによって人を斬ったりしない」ときっぱりと断るのである。咲弥は蔵人を信頼し、その人柄をよく知っていて、そこに彼女の深い愛情がにじみ出ているのである。だが、事柄はそれで済まなくなっていく。
公家の借金については、雁金屋(天皇家の呉服御用達として財をなした呉服商)の息子であった絵師の尾形光琳が動いて、借金を返すことにしたが、今度は尾形光琳が狙われることになり、尾形光琳は雨宮蔵人のことを聞いて警護を依頼するのである。尾形光琳は鞍馬の雨宮家に身を隠す。そこを神尾与右衛門によって襲われたりするが、雨宮蔵人に守られる。そしてその時、娘の「香也」が拐かされそうになったりする。そして、、公家の借金返済の金を出す者が脅され、再び、桂昌院への従一位叙位への画策が始まっていく。蔵人と咲弥、娘の香也の廻りで、こうした事件が起こっていくのである。
他方、江戸では、桂昌院の従一位叙位の問題には、江戸城大奥内での勢力争いが絡んでおり、庶民育ちの桂昌院に女子で最高位の従一位などもってのほかだと思う公家方の出である綱吉の正室一派と、桂昌院や綱吉の愛妾であった「お伝の方」などの一派による争いがあったのである。特に、公家のであり大奥総支配であった右衛門佐(うえもんのすけ)は、正室「信子」と義母である桂昌院との長年の確執の中で桂昌院への叙位に強く反対していた。
そこには、将軍となった徳川綱吉がもっていた愛妾や、綱吉が自分の家臣であった牧野成貞の妻や娘をわが物としたり、柳沢保明の側室とも柳沢家で関係を持ったりした乱行があり、正室側としては不快感極まりないことがあって、それらが綱吉の母である桂昌院の身分が低かったことと関連して唾棄すべきことに思われたことが関連していたのである。徳川綱吉という人物は、「生類憐れみの令」もあるが、どこか欠如したところが多かった人物である。
桂昌院の従一位叙位に反対する右衛門佐は、朝廷を重んじる山鹿流軍学を学んだ赤穂浅野家の浅野内匠頭を使って、剣豪として著名になっていた浅野家の家臣堀部安兵衛によって吉良家の家臣であり公家の工作をしていた神尾与右衛門を討とうと画策するのである。そして、吉良家に近づくために浅野内匠頭を吉良上野介が指導する勅使饗応役に任じるように柳沢保明に命じるのである。大奥の意向は幕府の中で絶対的ともいえるものがあった。こうしたどろどろとした画策が、大奥、柳沢と吉良、朝廷内で繰り広げられていくのである。
だが、吉良上野介の陰謀で桂昌院への従一位の叙位は決められ、事柄が大事になる前に大奥での反対を抑えようとした中院通茂は、大奥の女性たちを鎮めるのには男子禁制である大奥に入ることのできる優れた人物が必要だと考え、蔵人の妻で才色兼備、水戸光圀にも仕えたことがある咲弥に大奥に行ってくれるように依頼するのである。そして、浅野家の取り潰しを防ぐためにも、咲弥は不承不承ではあるが、それを引き受け、蔵人と香也を残して江戸へ行く。
大奥に入った咲弥は、彼女の持つ技量を発揮して、正室の信子や右衛門佐を説得しようとするが、その時に、浅野内匠頭による殿中での刃傷事件が起こってしまうのである。そして、事柄は、いわゆる「忠臣蔵」へ向かって進んで行く。
浅野内匠頭がなぜそれまで経験のなかった勅使饗応役に任ぜられたのか、あるいは「忠臣蔵」の最も大きな謎とされている江戸城殿中で吉良上野介に斬りかかるという刃傷沙汰をなぜ起こしたのか、小さ刀は突く以外に相手を討つことはできないのだが、彼が切腹覚悟でそこまでしておきながら吉良上野介の額を少し斬りつけたぐらいだったのはなぜか、そういうことが、朝廷と幕府、あるいは大奥内での勢力争いの確執を背景としていたということが本書では述べられていく。
また、京都で公家を操ろうとした吉良上野の家臣である神尾与右衛門の殺害を浅野家家臣で剣豪であった堀部安兵衛を使って行うことを大奥から命じらるが、堀部安兵衛から「武の義」を説かれて断られたことで窮地に追いやられて自らの犯行に及んだというように語られる。もちろん、これらは作者の「忠臣蔵」についての解釈である。そして、この解釈は大変興味深く、面白いと思う。
浅野内匠頭の刃傷事件によって吉良上野介が失脚し、それまでの権勢のすべてを失っていったことは事実で、それによって桂昌院への従一位の叙任が決定され、その勲功として柳沢保明に加増が認められてますます柳沢保明の権勢が強くなったのも事実である。こうした権力者たちのどろどろした姿が描かれるのには理由があり、それが後に明確にされていくのである。
この書物についてはまだ書き記したいことがたくさんあり、少し長くなってしまうので続きはまた次に記すことにする。
二日ほどかけて、葉室麟『花や散るらん』(2009年 文藝春秋社)を深い感銘をもって読み終えた。読み始めてすぐに、これが、以前に大きな感動をもって読み終えた『いのちなりけり』(2008年 文藝春秋社)の続編に当たることを知って、もうそれだけで嬉しくなったのだが、読み進める中で同じようにぐいぐいと引き込まれて描き出された人物に魅了されてしまった。
前作『いのちなりけり』で、ただひたすら「いのちなりけり」と呼ぶほど愛する者に会うために死闘を繰り返し、16年の歳月をかけてようやく本当の夫婦となった雨宮蔵人と咲弥は、京都の鞍馬の田舎での落ち着いた生活をはじめるようになっていた。蔵人は茅葺き屋根の家の庭先に掘っ立て小屋を建てて柔術指南の道場を作ったが、まだ、ひとりも門弟はいずに家の廻りのわずかな土地を耕して畑を作ったり、自己鍛錬の日々を送ったりし、咲弥は、ときおり京都に出て和歌を教えたりしながら静かに暮らしていた。
冒頭の部分に、「女房(農家の主婦で蔵人夫妻を敬愛し、咲弥の京都行きについて行っている)が包みの中から取り出したのは手鞠だった。女の子(蔵人夫妻の子どもだが、実はわけありの子ども)は手鞠を受け取ると嬉しそうにポーンと宙に放り投げた。放たれた手鞠は女の子の手には戻らず、地面に落ちそうになった。女(咲弥)があっと思った時、落ちてきた手鞠を武士(蔵人)が片手で受け取っていた。
武士と女は顔を見合わせて笑った。二人はゆっくりと鞍馬街道を北へ歩き出した。荷を抱えた女房が後からついていく。
陽炎がたち、道沿いの白いハコベの花が揺れている。女の子の笑い声が遠く野にまで聞こえた」(6ページ)
という夫婦と小さな女の子の平穏で平和な姿が、実に見事な光景として描かれている。これが蔵人夫妻と娘の「香也」の鞍馬での姿である。そして、冒頭にこうした平和で温かい姿が描かれるということは、この平穏がやがては壊されていくことも暗示している。鞍馬の村人たちは、大柄で武骨で、決して美男子とは言えない蔵人と気品があって美しい咲弥が夫婦であるとは信じられず、特に咲弥が、公家や富商の妻や娘たちに和歌の指導をし、かつては水戸家の奥女中取締りをしていたと聞いて、まことに不釣り合いの夫婦として咲弥を憐れむほどであったが、次第に蔵人の人柄と力量に触れ、蔵人を尊敬するようになっていくのである。
蔵人夫妻と娘の世話をなにかとしてくれて、咲弥が京都に行くときには同行していた農家の女房は、牢人者たちが村に押し入って彼女の娘を人質に取った事件で、蔵人から娘を助け出されたことで、親身になって彼らの世話を買って出ているような女性で、蔵人の家族が鞍馬の村人から慕われるようになった象徴でもある。
しかし、こうした平穏な日々は、江戸と京都、幕府と朝廷の争いや、幕閣内での老中柳沢保明や吉良上野介の野望、江戸城大奥内での勢力争いという人間の欲によって打ち壊されていくのである。時は、ちょうど将軍徳川綱吉の母である桂昌院に従一位という身分を与えるかどうかで幕府と朝廷との間で隠れた争いが起こっていた時で、将軍徳川綱吉におもねるために柳沢保明は高家(礼儀作法を取り仕切る家柄)の吉良上野介を使って朝廷側に桂昌院の従一位を授けるように働きかけていた。吉良上野介は幕府の朝廷対策を担っていたのである。ここで吉良上野介の役割が大きくなったということは、この物語がやがては「忠臣蔵」に続く複線でもある。こういう構成も実にうまいと感心する。
吉良上野介はまた、それを自分の勲功としてさらなる地位の安泰を狙い、柳沢保明とはまた異なった思惑をもっていた。吉良上野介は高家であることを誇り、柳沢保明の素養を軽蔑しているところがあり、柳沢保明もそのことを快く思っていなかった。吉良上野介は自分の家臣であった神尾与右衛門を使って公家に金を貸し、その金で縛って公家の意見をまとめて思い通りに動かし、桂昌院に叙一位が降りるように画策していたのである。神尾与右衛門は剣の腕も相当にたつ。
幕府に対して快く思っていなかった朝廷側の指導的立場におり、雨宮蔵人夫妻の面倒もみてきていた中院通茂は、吉良上野介の陰謀を砕くために雨宮蔵人に神尾与右衛門を斬るように咲弥を通して依頼するが、咲弥は、恩義のある通茂の頼みでも、「蔵人殿は自分たちの都合などによって人を斬ったりしない」ときっぱりと断るのである。咲弥は蔵人を信頼し、その人柄をよく知っていて、そこに彼女の深い愛情がにじみ出ているのである。だが、事柄はそれで済まなくなっていく。
公家の借金については、雁金屋(天皇家の呉服御用達として財をなした呉服商)の息子であった絵師の尾形光琳が動いて、借金を返すことにしたが、今度は尾形光琳が狙われることになり、尾形光琳は雨宮蔵人のことを聞いて警護を依頼するのである。尾形光琳は鞍馬の雨宮家に身を隠す。そこを神尾与右衛門によって襲われたりするが、雨宮蔵人に守られる。そしてその時、娘の「香也」が拐かされそうになったりする。そして、、公家の借金返済の金を出す者が脅され、再び、桂昌院への従一位叙位への画策が始まっていく。蔵人と咲弥、娘の香也の廻りで、こうした事件が起こっていくのである。
他方、江戸では、桂昌院の従一位叙位の問題には、江戸城大奥内での勢力争いが絡んでおり、庶民育ちの桂昌院に女子で最高位の従一位などもってのほかだと思う公家方の出である綱吉の正室一派と、桂昌院や綱吉の愛妾であった「お伝の方」などの一派による争いがあったのである。特に、公家のであり大奥総支配であった右衛門佐(うえもんのすけ)は、正室「信子」と義母である桂昌院との長年の確執の中で桂昌院への叙位に強く反対していた。
そこには、将軍となった徳川綱吉がもっていた愛妾や、綱吉が自分の家臣であった牧野成貞の妻や娘をわが物としたり、柳沢保明の側室とも柳沢家で関係を持ったりした乱行があり、正室側としては不快感極まりないことがあって、それらが綱吉の母である桂昌院の身分が低かったことと関連して唾棄すべきことに思われたことが関連していたのである。徳川綱吉という人物は、「生類憐れみの令」もあるが、どこか欠如したところが多かった人物である。
桂昌院の従一位叙位に反対する右衛門佐は、朝廷を重んじる山鹿流軍学を学んだ赤穂浅野家の浅野内匠頭を使って、剣豪として著名になっていた浅野家の家臣堀部安兵衛によって吉良家の家臣であり公家の工作をしていた神尾与右衛門を討とうと画策するのである。そして、吉良家に近づくために浅野内匠頭を吉良上野介が指導する勅使饗応役に任じるように柳沢保明に命じるのである。大奥の意向は幕府の中で絶対的ともいえるものがあった。こうしたどろどろとした画策が、大奥、柳沢と吉良、朝廷内で繰り広げられていくのである。
だが、吉良上野介の陰謀で桂昌院への従一位の叙位は決められ、事柄が大事になる前に大奥での反対を抑えようとした中院通茂は、大奥の女性たちを鎮めるのには男子禁制である大奥に入ることのできる優れた人物が必要だと考え、蔵人の妻で才色兼備、水戸光圀にも仕えたことがある咲弥に大奥に行ってくれるように依頼するのである。そして、浅野家の取り潰しを防ぐためにも、咲弥は不承不承ではあるが、それを引き受け、蔵人と香也を残して江戸へ行く。
大奥に入った咲弥は、彼女の持つ技量を発揮して、正室の信子や右衛門佐を説得しようとするが、その時に、浅野内匠頭による殿中での刃傷事件が起こってしまうのである。そして、事柄は、いわゆる「忠臣蔵」へ向かって進んで行く。
浅野内匠頭がなぜそれまで経験のなかった勅使饗応役に任ぜられたのか、あるいは「忠臣蔵」の最も大きな謎とされている江戸城殿中で吉良上野介に斬りかかるという刃傷沙汰をなぜ起こしたのか、小さ刀は突く以外に相手を討つことはできないのだが、彼が切腹覚悟でそこまでしておきながら吉良上野介の額を少し斬りつけたぐらいだったのはなぜか、そういうことが、朝廷と幕府、あるいは大奥内での勢力争いの確執を背景としていたということが本書では述べられていく。
また、京都で公家を操ろうとした吉良上野の家臣である神尾与右衛門の殺害を浅野家家臣で剣豪であった堀部安兵衛を使って行うことを大奥から命じらるが、堀部安兵衛から「武の義」を説かれて断られたことで窮地に追いやられて自らの犯行に及んだというように語られる。もちろん、これらは作者の「忠臣蔵」についての解釈である。そして、この解釈は大変興味深く、面白いと思う。
浅野内匠頭の刃傷事件によって吉良上野介が失脚し、それまでの権勢のすべてを失っていったことは事実で、それによって桂昌院への従一位の叙任が決定され、その勲功として柳沢保明に加増が認められてますます柳沢保明の権勢が強くなったのも事実である。こうした権力者たちのどろどろした姿が描かれるのには理由があり、それが後に明確にされていくのである。
この書物についてはまだ書き記したいことがたくさんあり、少し長くなってしまうので続きはまた次に記すことにする。
2011年11月28日月曜日
諸田玲子『きりきり舞い』
今にも雨が落ちてきそうな空模様になってきた。昨日からキリスト教の暦で「アドベント」と呼ばれる季節になり、アメリカの絵本作家で園芸家でもあったターシャ・テューダーの平凡な生活の中で嬉しいことをたくさん見出すという靜かで満ち足りた自給自足の生活を思い起こしたりした。普段以上にゆっくりと日々を過ごすこと、それがこの季節の日々かも知れない。
ここ数日、明治維新前後の作品を読んでいたが、昨日は、江戸中後期の戯作者十返舎一九を取り扱った諸田玲子『きりきり舞い』(2009年 光文社)を読んだ。
作者には比較的軽妙な文体で描かれた作品とシリアスな人間模様を描いた作品があるが、これは表題からも推測されるような軽妙な文体で綴られた作品の部類に入るだろう。『東海道中膝栗毛』で著名な十返舎一九の娘「舞」を主人公にし、破天荒だった父親や彼以上に破天荒だった葛飾北斎とその娘「お栄」などを登場させて、その絡みの中で十返舎一九の娘としての、その父親や彼女の恋などを描き出し、健気で明るく生きる姿を描いたものである。題材からして文体が軽妙になるのは理に適っていることだろう。
十返舎一九(1765-1831年)は、駿府(静岡県)の府中で駿府奉行所の同心の子として生まれ、本名を重田貞一(さだかつ)といい、武家育ちで、やがて駿府の町奉行であった小田切土佐守直年に仕え、小田切土佐守の江戸や大阪への移動に従って江戸や大阪に赴いたが、大阪で理由が不明のままに侍を捨てて材木商の入り婿となり、浄瑠璃作者の道を歩み始めている。近松門左衛門に影響を受けて近松余七の名で浄瑠璃を書いたりしていた。この辺りの十返舎一九を描いた松井今朝子『そろそろ旅に』(2008年 講談社)を前に面白く読んだことがある。『そろそろ旅に』では、十返舎一九はなかなかの人物として描かれている。
だが、そのころから破天荒で、やがて、放蕩が過ぎたのか、婿先の材木商から離縁され、江戸へ出てきて黄表紙や洒落本で有名な版元でもあった蔦屋重三郎の食客となり、そこで挿絵や浮世絵、版下、黄表紙を書き、また新たに入り婿に入って暮らしながら数々の作品を書いている。しかし、吉原での放蕩がたたり、ここでも入り婿先から離縁され、旅に出たりした。その後、滑稽本や洒落本を書きまくり、三度目の妻「お民」と結婚して、亀戸、橘町、深川佐賀町を転居しながら著作に専念し、通油町にあった地本問屋の会所(出版元が寄り合って出版のための寄り合い場所を作った)で暮らし、晩年もそこで過ごしている。46歳で眼病を病み、58歳の時に中風を病んだが、貧苦にあえぎながらも破天荒の生活は変わらず、日本で最初に文筆のみで生活し、年間の執筆量も20部以上という相当なものであった。三番目の妻「お民」との間に一女をもうけている。
本書では、その一九の娘の名前が「舞」とされる美女で、離縁された前妻の子となっており、その子を抱えて一九が「お民」のところに転がり込んで、「舞」は「お民」に育てられたことになっている。また、一九が、実は、武家として仕えた小田切土佐守の妾腹の子で、奉行職であった父親を助けるために、侍を捨てる格好で諸国を旅したりしてきたとされている。この辺りの詳細は、実はよくわからないところがあって、作者の想像も捨てたものではないのである。
物語は、その一九の娘「舞」が、小町娘と評判を取ってきたが、なかなか縁遠く、玉の輿に乗ることを夢見ている女性として登場するのである。そして、父親の一九がことごとく「舞」の縁談をぶちこわすところから始まり、地本問屋の会所で破天荒な生活を送りながらも娘の本当の幸せを願う父親としての一九と、ちゃきちゃきの江戸っ子娘である「舞」の姿が描かれていくのである。そして、謎の多い一九の生涯の秘密が、一九のかつての朋友の息子の仇討ちと関係して描かれていく仕掛けになっている。
一九の朋友の息子は、一九を訪ねて来て、そのまま居候としていつき、加えて北斎の娘の「お栄」が居候となり、それぞれが奇人変人で、自分勝手な暮らし方をしているので、同じ地本問屋の会所で暮らす「舞」はてんてこ舞いになるのである。
こういう中で、商家の若旦那や旗本の子息から縁談が持ち込まれ、「舞」も結婚を焦ったりするが、一九はことごとくぶちこわしてしまうのである。そして、それが実は、娘を真実に思う親心であることが次第にわかっていくし、女絵師として生きようとする北斎の娘「お栄」も、北斎がめちゃくちゃなことをしながらも自分の娘のことを大事にしていることがわかっていくというものである。
もちろん、洒落本を多作した一九を取り扱うのだから、先にも記したように、その破天荒ぶりを描く文体は、当然軽妙になるのだが、この作品では、それを醸し出そうとする無理が若干感じられるような気がした。「おかしさ」を文章や物語ですることは、もともと難しいことだが、仇討ちや一九の生涯の謎に迫るというシリアスな面をもつ内容なだけに、軽妙さがすこし浮いた感じがしたのである。
だが、作者の作品は、大体において好きな作品で、面白いことには変わりない。楽天的に生きることは江戸庶民の知恵でもあり、その知恵が発揮されて、物事を受け入れ、また受け流していくという姿勢は見上げたものだと思っているから、こうした作品でそれが描かれるのはわたしの好みでもある。「たくましく、したたかに、そして楽天的に」これが庶民の知恵というものだろう。
ここ数日、明治維新前後の作品を読んでいたが、昨日は、江戸中後期の戯作者十返舎一九を取り扱った諸田玲子『きりきり舞い』(2009年 光文社)を読んだ。
作者には比較的軽妙な文体で描かれた作品とシリアスな人間模様を描いた作品があるが、これは表題からも推測されるような軽妙な文体で綴られた作品の部類に入るだろう。『東海道中膝栗毛』で著名な十返舎一九の娘「舞」を主人公にし、破天荒だった父親や彼以上に破天荒だった葛飾北斎とその娘「お栄」などを登場させて、その絡みの中で十返舎一九の娘としての、その父親や彼女の恋などを描き出し、健気で明るく生きる姿を描いたものである。題材からして文体が軽妙になるのは理に適っていることだろう。
十返舎一九(1765-1831年)は、駿府(静岡県)の府中で駿府奉行所の同心の子として生まれ、本名を重田貞一(さだかつ)といい、武家育ちで、やがて駿府の町奉行であった小田切土佐守直年に仕え、小田切土佐守の江戸や大阪への移動に従って江戸や大阪に赴いたが、大阪で理由が不明のままに侍を捨てて材木商の入り婿となり、浄瑠璃作者の道を歩み始めている。近松門左衛門に影響を受けて近松余七の名で浄瑠璃を書いたりしていた。この辺りの十返舎一九を描いた松井今朝子『そろそろ旅に』(2008年 講談社)を前に面白く読んだことがある。『そろそろ旅に』では、十返舎一九はなかなかの人物として描かれている。
だが、そのころから破天荒で、やがて、放蕩が過ぎたのか、婿先の材木商から離縁され、江戸へ出てきて黄表紙や洒落本で有名な版元でもあった蔦屋重三郎の食客となり、そこで挿絵や浮世絵、版下、黄表紙を書き、また新たに入り婿に入って暮らしながら数々の作品を書いている。しかし、吉原での放蕩がたたり、ここでも入り婿先から離縁され、旅に出たりした。その後、滑稽本や洒落本を書きまくり、三度目の妻「お民」と結婚して、亀戸、橘町、深川佐賀町を転居しながら著作に専念し、通油町にあった地本問屋の会所(出版元が寄り合って出版のための寄り合い場所を作った)で暮らし、晩年もそこで過ごしている。46歳で眼病を病み、58歳の時に中風を病んだが、貧苦にあえぎながらも破天荒の生活は変わらず、日本で最初に文筆のみで生活し、年間の執筆量も20部以上という相当なものであった。三番目の妻「お民」との間に一女をもうけている。
本書では、その一九の娘の名前が「舞」とされる美女で、離縁された前妻の子となっており、その子を抱えて一九が「お民」のところに転がり込んで、「舞」は「お民」に育てられたことになっている。また、一九が、実は、武家として仕えた小田切土佐守の妾腹の子で、奉行職であった父親を助けるために、侍を捨てる格好で諸国を旅したりしてきたとされている。この辺りの詳細は、実はよくわからないところがあって、作者の想像も捨てたものではないのである。
物語は、その一九の娘「舞」が、小町娘と評判を取ってきたが、なかなか縁遠く、玉の輿に乗ることを夢見ている女性として登場するのである。そして、父親の一九がことごとく「舞」の縁談をぶちこわすところから始まり、地本問屋の会所で破天荒な生活を送りながらも娘の本当の幸せを願う父親としての一九と、ちゃきちゃきの江戸っ子娘である「舞」の姿が描かれていくのである。そして、謎の多い一九の生涯の秘密が、一九のかつての朋友の息子の仇討ちと関係して描かれていく仕掛けになっている。
一九の朋友の息子は、一九を訪ねて来て、そのまま居候としていつき、加えて北斎の娘の「お栄」が居候となり、それぞれが奇人変人で、自分勝手な暮らし方をしているので、同じ地本問屋の会所で暮らす「舞」はてんてこ舞いになるのである。
こういう中で、商家の若旦那や旗本の子息から縁談が持ち込まれ、「舞」も結婚を焦ったりするが、一九はことごとくぶちこわしてしまうのである。そして、それが実は、娘を真実に思う親心であることが次第にわかっていくし、女絵師として生きようとする北斎の娘「お栄」も、北斎がめちゃくちゃなことをしながらも自分の娘のことを大事にしていることがわかっていくというものである。
もちろん、洒落本を多作した一九を取り扱うのだから、先にも記したように、その破天荒ぶりを描く文体は、当然軽妙になるのだが、この作品では、それを醸し出そうとする無理が若干感じられるような気がした。「おかしさ」を文章や物語ですることは、もともと難しいことだが、仇討ちや一九の生涯の謎に迫るというシリアスな面をもつ内容なだけに、軽妙さがすこし浮いた感じがしたのである。
だが、作者の作品は、大体において好きな作品で、面白いことには変わりない。楽天的に生きることは江戸庶民の知恵でもあり、その知恵が発揮されて、物事を受け入れ、また受け流していくという姿勢は見上げたものだと思っているから、こうした作品でそれが描かれるのはわたしの好みでもある。「たくましく、したたかに、そして楽天的に」これが庶民の知恵というものだろう。
2011年11月25日金曜日
火坂雅志『骨董屋征次郎京暦』
霜月も押し詰まってくると、めっきり冬らしくなり、朝晩の冷え込みも激しくなる。都内の会議などで遅く帰宅すると部屋が冷え切り「おお、寒!」と思わず口走ったりする。この2~3日は冬型の気圧配置で晴れてはいるが気温は低い。数日前に、霙か雹がバラバラと降り驚いたりした。
このところ明治初期を取り扱った作品を続けて読んでいるが、明治維新はすべての価値観の大転換をもたらし、あまり優れてもいない薩長の人たちが現代日本の中途半端な構造をほぼ作ってしまった功罪があるので、これが大きな問題だったと思っているが、それでもまだ、混乱と貧苦にあえぎながらも「志」や「矜持」というのを人が大切にした時代ではあっただろう。日本の社会ということを考えるときには、あのあたりから問い直す必要があるとは思っている。
そういう中で、同じく明治初期の頃の京都を舞台にした火坂雅志『骨董屋征次郎京暦』(2004年 実業之日本社)を面白く読んだ。前作の『骨董屋征次郎手控』(2001年 実業之日本社)は、幕末のころの京都を背景にしていた。前作を読んだのはいつだろうかと思って調べてみたら、昨年の10月5日で、一年ぶりに続編を読んだことになる。
「骨董屋征次郎」は、幕末のころ、京都の八坂塔下の夢見坂に骨董屋「遊壷堂」を開いている主人公の柚木征次郎が、骨董の売買に絡むいくつかの事件に関わっていく話で、短編連作の形式が採られながらも、物語が続いていく構成になっている。
主人公の征次郎は、金沢前田家の武家の息子であったが、父親が藩主の骨董の売買に絡む詐欺事件で自死した後、骨董品の目利きの修行をして、優れた真贋を見抜く力を発揮し、骨董の売買に絡む裏事情を明らかにしていくというものである。骨董は高価なだけに、そこには様々な歴史と事情が渦巻いている。そういう中で、真贋を見抜く目だけが頼りであり、勢い、本物と偽物という問題が浮上してくるのである。征次郎には芸妓の「小染」という恋人がいるが、彼女との結婚に悩みながらも、骨董商売を通して「本物」を目指していくのである。
本作には「敦盛」、「わくら葉」、「海の音」、「五条坂」、「鴨川」、「仇討ち」、「冴ゆる月」、「夢見坂」の8編が記され、一応の完結編となっている。
「敦盛」は、征次郎の友人であり、店を持たずに骨董の売買をして稼いでいる兼吉が一人の武士を骨董商売の見習いとして連れてくるところから始まり、武士は佐伯逸馬と名乗り、武士を辞め、両刀をすてて骨董屋になりたいという。彼の骨董品を見る目もかなりなものがあり、征次郎は逸馬を引き受けて骨董商売のあれこれを教えていく。
だが、佐伯逸馬は、かつて勤王攘夷の志士として、能楽の「敦盛」の面をつけて京都で人を斬りまくった経験を持つ。しかし、志士として活躍したが、新政府になっても報われずに、官吏につくことを餌に新政府に謀反を企てた者の暗殺を引き受けるのである。
「それで、あんたに夜明けは来たのかい」と問う征次郎に、「いや、、まだ真っ暗闇のなかだ」と答えるくだりが、この時代に置かれた薩長以外の志士たちの現状をよく伝える会話になっている(23ページ)。
物語は、佐伯逸馬が暗殺者として利用されていることを知った征次郎が、暗殺実行の直前に「変わっていく時世のなかで、苦労しているのはあんただけじゃない」(43ページ)と語って彼を止め、逸馬がその後姿を消したところで終わる。多くの武士が職を失い、世の中が全部ひっくり返った状況の中で、一人の武士の哀れな姿が描き出されて、「確かに、こういう人物も多くいただろう」と思わせられるし、一方で、世の中が変わっても変わらない「本物」を求めていく征次郎の諦念にも似た生き方が光る展開でもある。
第二話「わくら葉」は、日本の名品の多くが海外に流出し初め、それを扱う「鳥羽ノ市」と称される闇市場が鳥羽にできて、財政難に陥った大名が手放した家宝を「鳥羽ノ市」で取り戻すために征次郎が「鳥羽ノ市」に潜り込み、手放された家宝を買い戻していく話である。「鳥羽ノ市」で競りが行われるが、大名家の家宝は高額で落札され人手に渡ってしまう。落札したのは、生糸で大もうけをした新興の成金で、征次郎は大名家のさらなる依頼でその成金のところに家宝を買い戻しに行く。そして、そこで成金の後妻になっているかつての恋人「美夜」と偶然に出会うのである。
「美夜」は、征次郎が夢見坂の骨董屋「遊壷堂」の店を出したばかりの時に、夫婦約束までした恋人であった。だが、彼を裏切り、役者修業の若者と駆け落ちした女性だった。彼女は駆け落ちした男ととはすぐに別れ、神戸の異人館に働きに出たところを成金に見そめられて後妻となったのである。
「美夜」は、「許して、征次郎さん」、「あのときは、私が悪かった。じつのない男のうわべだけの言葉にだまされて・・・。いま、私がこんな辛い思いをしているのは、あなたを裏切った報いです」と言って征次郎にすがりつくのである(72ページ)。そして、彼女の夫が留守をしているときに有馬温泉に誘い、征次郎も思わず彼女と一緒に有馬温泉に行ってしまう。
だが、すんでの所で、温泉宿の庭にさいていた白萩を見て、恋人の「小染」と萩を見に行く約束を思い起こして征次郎は帰っていく。「小染」は征次郎の帰りを赤だしの味噌汁などを作って待ち続けていた。「美夜」は、その後、成金の屋敷に仕えていた若い男と駆け落ちしたという。征次郎は「小染」への想いを改めて心に刻んでいくのである。
男を、あたかも誠実を装いながら自分の道具として手玉に取る魔性のような女性、女を平然と利用して裏切るうわべだけの男性、そんな男女の薄幸を感じる物語である。「美夜」のような女性は、どんな男と一緒になっても充実感とは無縁のところで生きるのだろうと思ったりもする。すんでの所で引き返した征次郎は、「小染」との深く満たされた愛情の中を生きていくことになる。
第三話「海の音」は、没落した越前三国の豪商の骨董品を買いつけに、征次郎と兼吉が三国まで出かけて行き、そこで高価な骨董品を手放して金に換えたいという芸妓の「夕霧太夫」に出会う話である。「夕霧」は、芸妓ではあるが美貌と教養を兼ね備え、特に優れた俳句を詠んだ。かつては越後長岡藩の家老の娘だったという。
越後長岡藩は、戊辰戦争の時に、独立を志した極めて優れた家老の河井継之助に率いられて西洋化を行い、薩長軍と戦ったが、敗れ、そのために長岡城下は焼け野原となった。その時の家老の一人であった「夕霧」の父親は人々から憎まれ、残された家族は長岡にいづらくなって、「夕霧」は病の母親の薬を買うために身を売ったのである。
彼女には旧長岡藩士の惚れた男がいて、客が貢いだ高価な骨董品を売って金を作り、その男に貢いでいたのである。男は、蝦夷地(北海道)で立ち上げることになっている鉄道馬車会社の代表にしてやると騙されて夕霧が作った金を使っていたのである。
そのことを知った征次郎は、「夕霧」と夕霧が惚れた男、そして彼を騙した男たちが繰り広げていた愁嘆場に駆けつけて「夕霧」と彼女の惚れている男を助けていくのである。
これも第一話「敦盛」と同じように、変動した社会に取り残された男の焦りのようなものを描いた作品で、特に、生き残った旧長岡藩士たちは内外共に辛苦を抱えなければならなかったから、新しい社会の中で焦る男の心情は哀れで、その男に心底惚れ込んでいる「夕霧」の心だけが光る物語であり、「変わらない本物」をもとうとする征次郎の姿が刻まれるような物語である。
第四話「五条坂」は、贋作を作る男の哀れを描いた物語である。優れた陶芸の技量を持ちながらも、贋作作りに利用され、「贋作も本物だ」と言い張り、家族を捨ててそれに邁進した男が、やがて自分の娘のために再び贋作作りに利用されるが、娘は健気に生きており、そんな金で幸せは買えないと言い切る話で、物語の結末で、贋作作りの娘の貧しくても真実を求める姿に触れながら、「真物は、たとえ技がつたなくとも、必ず人の心に響く物だ」(163ページ)という言葉が光っている。
人にしろ、物にしろ、真偽の判断というのは、実は本当に難しいと、わたしもつくづく思う。ただ、人の心に響く物が本物というのは、真実だと思う。どんな華美な装いも、どんなに由緒があろうとも、あるいはどんなに優れて見えようとも、偽物は心に響かない。そして、どんなに外見がみすぼらしくて、知識も教養もなく、誇るべきものが何もないように見えようとも、本物は本物だけがもつ響きをもつ。わたしもそう思う。だが、虚偽に満ちた現代社会の中で本物に出会うことは難しくなった。
第五話「鴨川」は、明治5年(1872年)に京都で開かれた日本最初の博覧会であった京都博覧会を題材に、その裏で国宝である正倉院御物の外国人相手の不正取引が行われているのではないかと、京都でかつて岡っ引きをしていた文太親分が調べに来たのを機に、日本の歴史と美の集約でもあるような正倉院宝物殿の宝を安易に金儲けのために流出させるようなことがあってはならないと思い、征次郎がその裏取引を暴いて阻止しようとする話である。
しかし、そこには明治政府の財政難を打開するための政府高官が絡んでおり、その裏取引が新政府そのものの謀略であることがわかり、岡っ引きの文太は殺されて遺体が鴨川に浮かべられた。だが、文太は岡っ引きの意地を見せて、売り渡されそうになった正倉院の宝物を取り戻して、征次郎に託していたことがわかるのである。そして、その年の夏、明治政府は正倉院を調査し、目録を作成し、以後はその流出が止まった、というものである。
第六話「仇討ち」は、明治4年(1871年)に廃藩置県が行われて旧藩がなくなったにも関わらず、殺された父親の仇を討つために諸国を巡っていた兄妹が、生活費のために家宝の陣羽織を征次郎の骨董屋「遊壷堂」に売りに来たところから始まり、征次郎がこの兄妹の仇討ち事件に関わっていく話である。
兄妹が仇と狙う相手は、「小染」も世話になったことがある腕利きの医者で、5~6歳の男の子がおり、彼が兄妹の父親を殺したのは、維新前に藩の御典医として力を持っていた彼を彼らの父親が闇討ちしようとしたのを防いだためだった。だが、兄妹は、意地で仇討ちをするという。そして、いよいよ果たし合いとなり、医者はもう自分が殺されてもいいと思っていたが、彼の息子がそこに飛び込んでくるのである。征次郎はその場に駆けつけ、父親を庇おうとする子どもを前に、仇討ちが無限に続く愚かなことだと兄妹にさとすのである。仇討ちをしても、帰るべき藩はもうない。明治政府が仇討ち禁止令を出す明治6年(1873年)の前の出来事である。
第七話「冴ゆる月」は、国宝である正倉院の宝物の流出事件で流出したといわれる「三十六歌仙絵」に絡む儲け話で一儲けした兼吉が、警固方(警察)に捕縛された事件の顛末を描いたものである。兼吉の儲け話と捕縛には裏があり、兼吉を救い出そうと征次郎は奔走する。そこに征次郎の父親を自決に追い込んだかつての江戸幕府の密偵であった猪熊玉堂が絡んでおり、京都の香具師を束ねる元締めなども絡んでくる。この第七話では、兼吉を直接罠に嵌めた香具師の元締めの片腕とも呼ばれる男を征次郎が見つけ出して捕らえ、警固方につきだしたことで兼吉の疑いが晴れて、兼吉が釈放されるところで終わるが、この事件は次の第八話「夢見坂」に繋がっていく。
従って、第八話「夢見坂」は、第七話で語られた事件が尾を引いていく展開で、その事件に、実は京都府参事(次官クラス)と猪熊玉堂、そして香具師の元締めが京都府振興策の推進のための賄賂の捻出が絡んでいることが明らかにされるのである。事件の核心に近づいていた征次郎を葬り去ろうと、恋人の「小染」が人質として誘拐される。そして、征次郎は「小染」を助けるために単身でその罠の中に飛び込んみ、命をかけて「小染」を守ろうとするのである。
だが、あわやこれまでというところで、濡れ手で粟を企み傲慢な京都府参事に比べ、愛する者のために命を張る征次郎の男気に打たれた香具師の元締めが思いを返して、征次郎と「小染」は助かるのである。そして、長い間、自分と夫婦になれば「小染」は苦労するのではないかと結婚を逡巡していた征次郎は、「何があっても、おれはこの夢見坂で生きていくよ」と語り、「征さんの行く道なら、私もついていきます」と「小染」が答えて、二人は夫婦になって行くところで完結するのである。
激動し、猫の目のようにくるくると変わっていく社会の中で、変わろうとしても変わることができずに旧態に生きる者や時代に翻弄されていく者、巧妙に立ち回ろうとする者、そうした人間模様の中で、「真物」を見つけようとし、本物を目利きしていく骨董屋の姿を通して、「本物であること」を目指す人間の姿がこの作品で描かれているのである。
作者には戦国武将たちを取り扱った作品が多くあるが、いずれも「本物をめざす」という視点は共通しているのかも知れない。個人的に骨董の世界とは無縁であるが、いいものを見極めるような目はもちたい。眼力や聞き分ける力、感じ取る力を養うためには、可能な限り本物に接していくことが肝心で、「いいものを見、いいことを聞き、よい香りをかいで、本物の人と交わり、美しい言葉を語り、感性を養っていく」そういうことに人生を使いたいと改めて思ったりした。
このところ明治初期を取り扱った作品を続けて読んでいるが、明治維新はすべての価値観の大転換をもたらし、あまり優れてもいない薩長の人たちが現代日本の中途半端な構造をほぼ作ってしまった功罪があるので、これが大きな問題だったと思っているが、それでもまだ、混乱と貧苦にあえぎながらも「志」や「矜持」というのを人が大切にした時代ではあっただろう。日本の社会ということを考えるときには、あのあたりから問い直す必要があるとは思っている。
そういう中で、同じく明治初期の頃の京都を舞台にした火坂雅志『骨董屋征次郎京暦』(2004年 実業之日本社)を面白く読んだ。前作の『骨董屋征次郎手控』(2001年 実業之日本社)は、幕末のころの京都を背景にしていた。前作を読んだのはいつだろうかと思って調べてみたら、昨年の10月5日で、一年ぶりに続編を読んだことになる。
「骨董屋征次郎」は、幕末のころ、京都の八坂塔下の夢見坂に骨董屋「遊壷堂」を開いている主人公の柚木征次郎が、骨董の売買に絡むいくつかの事件に関わっていく話で、短編連作の形式が採られながらも、物語が続いていく構成になっている。
主人公の征次郎は、金沢前田家の武家の息子であったが、父親が藩主の骨董の売買に絡む詐欺事件で自死した後、骨董品の目利きの修行をして、優れた真贋を見抜く力を発揮し、骨董の売買に絡む裏事情を明らかにしていくというものである。骨董は高価なだけに、そこには様々な歴史と事情が渦巻いている。そういう中で、真贋を見抜く目だけが頼りであり、勢い、本物と偽物という問題が浮上してくるのである。征次郎には芸妓の「小染」という恋人がいるが、彼女との結婚に悩みながらも、骨董商売を通して「本物」を目指していくのである。
本作には「敦盛」、「わくら葉」、「海の音」、「五条坂」、「鴨川」、「仇討ち」、「冴ゆる月」、「夢見坂」の8編が記され、一応の完結編となっている。
「敦盛」は、征次郎の友人であり、店を持たずに骨董の売買をして稼いでいる兼吉が一人の武士を骨董商売の見習いとして連れてくるところから始まり、武士は佐伯逸馬と名乗り、武士を辞め、両刀をすてて骨董屋になりたいという。彼の骨董品を見る目もかなりなものがあり、征次郎は逸馬を引き受けて骨董商売のあれこれを教えていく。
だが、佐伯逸馬は、かつて勤王攘夷の志士として、能楽の「敦盛」の面をつけて京都で人を斬りまくった経験を持つ。しかし、志士として活躍したが、新政府になっても報われずに、官吏につくことを餌に新政府に謀反を企てた者の暗殺を引き受けるのである。
「それで、あんたに夜明けは来たのかい」と問う征次郎に、「いや、、まだ真っ暗闇のなかだ」と答えるくだりが、この時代に置かれた薩長以外の志士たちの現状をよく伝える会話になっている(23ページ)。
物語は、佐伯逸馬が暗殺者として利用されていることを知った征次郎が、暗殺実行の直前に「変わっていく時世のなかで、苦労しているのはあんただけじゃない」(43ページ)と語って彼を止め、逸馬がその後姿を消したところで終わる。多くの武士が職を失い、世の中が全部ひっくり返った状況の中で、一人の武士の哀れな姿が描き出されて、「確かに、こういう人物も多くいただろう」と思わせられるし、一方で、世の中が変わっても変わらない「本物」を求めていく征次郎の諦念にも似た生き方が光る展開でもある。
第二話「わくら葉」は、日本の名品の多くが海外に流出し初め、それを扱う「鳥羽ノ市」と称される闇市場が鳥羽にできて、財政難に陥った大名が手放した家宝を「鳥羽ノ市」で取り戻すために征次郎が「鳥羽ノ市」に潜り込み、手放された家宝を買い戻していく話である。「鳥羽ノ市」で競りが行われるが、大名家の家宝は高額で落札され人手に渡ってしまう。落札したのは、生糸で大もうけをした新興の成金で、征次郎は大名家のさらなる依頼でその成金のところに家宝を買い戻しに行く。そして、そこで成金の後妻になっているかつての恋人「美夜」と偶然に出会うのである。
「美夜」は、征次郎が夢見坂の骨董屋「遊壷堂」の店を出したばかりの時に、夫婦約束までした恋人であった。だが、彼を裏切り、役者修業の若者と駆け落ちした女性だった。彼女は駆け落ちした男ととはすぐに別れ、神戸の異人館に働きに出たところを成金に見そめられて後妻となったのである。
「美夜」は、「許して、征次郎さん」、「あのときは、私が悪かった。じつのない男のうわべだけの言葉にだまされて・・・。いま、私がこんな辛い思いをしているのは、あなたを裏切った報いです」と言って征次郎にすがりつくのである(72ページ)。そして、彼女の夫が留守をしているときに有馬温泉に誘い、征次郎も思わず彼女と一緒に有馬温泉に行ってしまう。
だが、すんでの所で、温泉宿の庭にさいていた白萩を見て、恋人の「小染」と萩を見に行く約束を思い起こして征次郎は帰っていく。「小染」は征次郎の帰りを赤だしの味噌汁などを作って待ち続けていた。「美夜」は、その後、成金の屋敷に仕えていた若い男と駆け落ちしたという。征次郎は「小染」への想いを改めて心に刻んでいくのである。
男を、あたかも誠実を装いながら自分の道具として手玉に取る魔性のような女性、女を平然と利用して裏切るうわべだけの男性、そんな男女の薄幸を感じる物語である。「美夜」のような女性は、どんな男と一緒になっても充実感とは無縁のところで生きるのだろうと思ったりもする。すんでの所で引き返した征次郎は、「小染」との深く満たされた愛情の中を生きていくことになる。
第三話「海の音」は、没落した越前三国の豪商の骨董品を買いつけに、征次郎と兼吉が三国まで出かけて行き、そこで高価な骨董品を手放して金に換えたいという芸妓の「夕霧太夫」に出会う話である。「夕霧」は、芸妓ではあるが美貌と教養を兼ね備え、特に優れた俳句を詠んだ。かつては越後長岡藩の家老の娘だったという。
越後長岡藩は、戊辰戦争の時に、独立を志した極めて優れた家老の河井継之助に率いられて西洋化を行い、薩長軍と戦ったが、敗れ、そのために長岡城下は焼け野原となった。その時の家老の一人であった「夕霧」の父親は人々から憎まれ、残された家族は長岡にいづらくなって、「夕霧」は病の母親の薬を買うために身を売ったのである。
彼女には旧長岡藩士の惚れた男がいて、客が貢いだ高価な骨董品を売って金を作り、その男に貢いでいたのである。男は、蝦夷地(北海道)で立ち上げることになっている鉄道馬車会社の代表にしてやると騙されて夕霧が作った金を使っていたのである。
そのことを知った征次郎は、「夕霧」と夕霧が惚れた男、そして彼を騙した男たちが繰り広げていた愁嘆場に駆けつけて「夕霧」と彼女の惚れている男を助けていくのである。
これも第一話「敦盛」と同じように、変動した社会に取り残された男の焦りのようなものを描いた作品で、特に、生き残った旧長岡藩士たちは内外共に辛苦を抱えなければならなかったから、新しい社会の中で焦る男の心情は哀れで、その男に心底惚れ込んでいる「夕霧」の心だけが光る物語であり、「変わらない本物」をもとうとする征次郎の姿が刻まれるような物語である。
第四話「五条坂」は、贋作を作る男の哀れを描いた物語である。優れた陶芸の技量を持ちながらも、贋作作りに利用され、「贋作も本物だ」と言い張り、家族を捨ててそれに邁進した男が、やがて自分の娘のために再び贋作作りに利用されるが、娘は健気に生きており、そんな金で幸せは買えないと言い切る話で、物語の結末で、贋作作りの娘の貧しくても真実を求める姿に触れながら、「真物は、たとえ技がつたなくとも、必ず人の心に響く物だ」(163ページ)という言葉が光っている。
人にしろ、物にしろ、真偽の判断というのは、実は本当に難しいと、わたしもつくづく思う。ただ、人の心に響く物が本物というのは、真実だと思う。どんな華美な装いも、どんなに由緒があろうとも、あるいはどんなに優れて見えようとも、偽物は心に響かない。そして、どんなに外見がみすぼらしくて、知識も教養もなく、誇るべきものが何もないように見えようとも、本物は本物だけがもつ響きをもつ。わたしもそう思う。だが、虚偽に満ちた現代社会の中で本物に出会うことは難しくなった。
第五話「鴨川」は、明治5年(1872年)に京都で開かれた日本最初の博覧会であった京都博覧会を題材に、その裏で国宝である正倉院御物の外国人相手の不正取引が行われているのではないかと、京都でかつて岡っ引きをしていた文太親分が調べに来たのを機に、日本の歴史と美の集約でもあるような正倉院宝物殿の宝を安易に金儲けのために流出させるようなことがあってはならないと思い、征次郎がその裏取引を暴いて阻止しようとする話である。
しかし、そこには明治政府の財政難を打開するための政府高官が絡んでおり、その裏取引が新政府そのものの謀略であることがわかり、岡っ引きの文太は殺されて遺体が鴨川に浮かべられた。だが、文太は岡っ引きの意地を見せて、売り渡されそうになった正倉院の宝物を取り戻して、征次郎に託していたことがわかるのである。そして、その年の夏、明治政府は正倉院を調査し、目録を作成し、以後はその流出が止まった、というものである。
第六話「仇討ち」は、明治4年(1871年)に廃藩置県が行われて旧藩がなくなったにも関わらず、殺された父親の仇を討つために諸国を巡っていた兄妹が、生活費のために家宝の陣羽織を征次郎の骨董屋「遊壷堂」に売りに来たところから始まり、征次郎がこの兄妹の仇討ち事件に関わっていく話である。
兄妹が仇と狙う相手は、「小染」も世話になったことがある腕利きの医者で、5~6歳の男の子がおり、彼が兄妹の父親を殺したのは、維新前に藩の御典医として力を持っていた彼を彼らの父親が闇討ちしようとしたのを防いだためだった。だが、兄妹は、意地で仇討ちをするという。そして、いよいよ果たし合いとなり、医者はもう自分が殺されてもいいと思っていたが、彼の息子がそこに飛び込んでくるのである。征次郎はその場に駆けつけ、父親を庇おうとする子どもを前に、仇討ちが無限に続く愚かなことだと兄妹にさとすのである。仇討ちをしても、帰るべき藩はもうない。明治政府が仇討ち禁止令を出す明治6年(1873年)の前の出来事である。
第七話「冴ゆる月」は、国宝である正倉院の宝物の流出事件で流出したといわれる「三十六歌仙絵」に絡む儲け話で一儲けした兼吉が、警固方(警察)に捕縛された事件の顛末を描いたものである。兼吉の儲け話と捕縛には裏があり、兼吉を救い出そうと征次郎は奔走する。そこに征次郎の父親を自決に追い込んだかつての江戸幕府の密偵であった猪熊玉堂が絡んでおり、京都の香具師を束ねる元締めなども絡んでくる。この第七話では、兼吉を直接罠に嵌めた香具師の元締めの片腕とも呼ばれる男を征次郎が見つけ出して捕らえ、警固方につきだしたことで兼吉の疑いが晴れて、兼吉が釈放されるところで終わるが、この事件は次の第八話「夢見坂」に繋がっていく。
従って、第八話「夢見坂」は、第七話で語られた事件が尾を引いていく展開で、その事件に、実は京都府参事(次官クラス)と猪熊玉堂、そして香具師の元締めが京都府振興策の推進のための賄賂の捻出が絡んでいることが明らかにされるのである。事件の核心に近づいていた征次郎を葬り去ろうと、恋人の「小染」が人質として誘拐される。そして、征次郎は「小染」を助けるために単身でその罠の中に飛び込んみ、命をかけて「小染」を守ろうとするのである。
だが、あわやこれまでというところで、濡れ手で粟を企み傲慢な京都府参事に比べ、愛する者のために命を張る征次郎の男気に打たれた香具師の元締めが思いを返して、征次郎と「小染」は助かるのである。そして、長い間、自分と夫婦になれば「小染」は苦労するのではないかと結婚を逡巡していた征次郎は、「何があっても、おれはこの夢見坂で生きていくよ」と語り、「征さんの行く道なら、私もついていきます」と「小染」が答えて、二人は夫婦になって行くところで完結するのである。
激動し、猫の目のようにくるくると変わっていく社会の中で、変わろうとしても変わることができずに旧態に生きる者や時代に翻弄されていく者、巧妙に立ち回ろうとする者、そうした人間模様の中で、「真物」を見つけようとし、本物を目利きしていく骨董屋の姿を通して、「本物であること」を目指す人間の姿がこの作品で描かれているのである。
作者には戦国武将たちを取り扱った作品が多くあるが、いずれも「本物をめざす」という視点は共通しているのかも知れない。個人的に骨董の世界とは無縁であるが、いいものを見極めるような目はもちたい。眼力や聞き分ける力、感じ取る力を養うためには、可能な限り本物に接していくことが肝心で、「いいものを見、いいことを聞き、よい香りをかいで、本物の人と交わり、美しい言葉を語り、感性を養っていく」そういうことに人生を使いたいと改めて思ったりした。
2011年11月23日水曜日
高橋義夫『メリケンざむらい』
今日はよく晴れていて、澄みきった碧空が広がっている。日毎に寒さが強く感じられるようになってきてはいるが、今日のような素敵な天気の休日にはぶらぶらと近所を歩くのも悪くはない。花屋の店先では、シクラメンやポインセチアが色鮮やかに並べられ、苦労の多かったこの一年にも慰めを与えてくれている。
前回、現在の五千円札にも肖像が描かれている明治初期の極めて優れた作家である樋口一葉を描いた出久根達郎『萩のしずく』を読んだが、続いて、歴史上の人物である米田桂次郎(こめだ けいじろう)を描いた高橋義夫『メリケンざむらい』(1990年 講談社 1994年 講談社文庫)を、かなり面白く読んだ。面白いというよりも、むしろ、この人の人生の悲哀のようなものを感じながら読み、作品はその悲哀がどことなく漂うような見事な仕上がりとなっている。
米田桂次郎(1843-1917年)という人は、幕末から明治にかけて、一種の「西洋かぶれ」のようにして生きた人であるが、一言で言えば、トミーと呼ばれ人気を博し、幕末期の幕府の中で抜群の語学力で通詞(通訳)として活躍したが、深い挫折を経験した人であった。その概略を記すと以下のようになり、本書も彼の人生を追うようにして記されていて、それが本書の内容ともなっているので、少し詳細に記しておこう。もちろん、作家としての優れた視点と描き方が本書には十分ある。
米田桂次郎は、天保14年(1843年)に江戸小石川の旗本小花和庄助(度正-のりまさ)の次男として生まれたが、病弱のために出生届けが幕府に出されておらず、彼が3歳の頃、病弱を理由に松戸の豪農であった横尾金蔵方に里子に出され、横尾為八と呼ばれた。そして、母方の実家である米田家に継嗣がいなかったことから、米田家へ引き取られ米田猪一郎の養子となった。10歳のころではなかったかと思われるし、喘息の持病があった。やがて、11歳の時に、米田家の叔父で幕府のオランダ語通詞の立石得十郎のもとで語学を学び、下田で森山栄之助から英語を学んだ。その頃から江戸幕府はオランダ以上に英語の必要性を認識し始めており、桂次郎は、叔父の立石得十郎を通じて、安政4年(1857年)にアメリカ総領事ハリスや通訳のヒュースケンから英語を学んだといわれている。桂次郎の人生にとって、叔父の立石得十郎の存在は極めて大きいものとなるのである。
安政2年(1855年)には江戸では安政の大地震が起こっているが、下田にいた米田桂次郎はその混乱を免れ、1858年にハリスが下田から江戸へ移住したのを機に長崎へさらなる英語の習得に行っている。長崎には姉の寿賀とその夫がいて、彼の面倒を見た。長崎の英語伝習所に入学したが、彼の英語のレベルは相当に高く、生徒というよりは助教のような働きまでしていたといわれる。
1859年に江戸幕府は、長崎に加えて横浜と函館の三港を開港し貿易を許可せざるを得なかったが、それにともない英語の通詞(通訳)が必要となり、長崎の英語伝習所で卓越した英語力を持った桂次郎を呼び戻し、横浜運上所(税関)の通詞見習いとして採用した。若干16歳で、見習い通詞ではあったが幕府の役をもらうというのは格段の出世であったといえるだろう。そして、翌年の安政7年(1860年)、江戸幕府は日米修好通商条約の批准書交換の為に遣米使節派遣を検討し、桂次郎は叔父の立石得十郎の養子となって立石斧次郎と改名し、使節団の随行を許されるのである。この遣米使節団に勝海舟や福沢諭吉らが咸臨丸で同行したのである。
養父の立石得十郎は、斧次郎(桂次郎)のことを幼名の為八から「タメ、タメ」と呼んでいたことから、彼はアメリカ人に「トミー」と呼ばれ、親しまれて可愛がられ、米国では熱烈な歓迎を受けた。16歳の少年であり、下ぶくれのぽっちゃりした顔立ちをしていた釜次郎は、持ち前の豊かな好奇心と物怖じしない明るい性格も幸いし、巧みな英語を語ることから、「トミー、トミー」と親しまれて、アメリカの婦人たちからもてはやされた。「トミーポルカ」という彼を讃える歌まで作られている。おそらく、それが彼の人生の絶頂期だったと言えるだろう。米国での桂次郎の歓迎ぶりは、彼を有頂天にさせ、以後彼はその熱烈に歓迎された経験をずっと抱いて生きることになるのである。
帰国後、彼は暗殺されたヒュースケンに代わり、ハリスの通訳として勤め、18歳から20歳まで幕府の開成所の教授職並出役になり、田辺太一(フランス語通訳)や益田孝(後の三井物産社長)、福沢諭吉らと親交をもちながら、下谷七軒町の自宅で英語塾を開き、英語以外は話すことを禁止した教育を行ったている。彼の「西洋かぶれ」ぶりは相当なもので、時にはひんしゅくを買ったりしているが、他人を見下したようなところがあり、決して好意的には見られなかったといわれる。彼の少年のころの絶頂期の経験が次第に禍しはじめたのだろうと思う。また、19歳の時に妻の「照」との間に長男をもうけるが、家庭を顧みるようなことはほとんどなかった。そして、20歳の時に実兄の小花和重太郎によって幕府に「弟丈夫届け」が出され、名を米田桂次郎と改めた。
慶応元年(1865年)には、長州征伐に向かう将軍徳川家茂に随行し、大阪城では通詞として活躍するが、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの時に、実兄の小花和重太郎と共に将軍徳川慶喜に随行して海陽丸で大阪を脱出して江戸へ帰っている。その後、兄の重太郎と共に大鳥圭介率いる旧幕府軍に合流して薩長軍と戦い、宇都宮で兄の重太郎が死亡し、次いで大桑の戦いで太ももに貫通銃創を負うが、大鳥圭介と共に仙台へ脱出して、堪能であった英語を駆使して旧幕府軍の武器の調達のために上海に渡る。だが、時代と状況は一気に動き、桂次郎は、武器の調達を断念し、明治2年頃(1869年)に帰国した。しかし、新政府から旧幕府軍の隊長として賞金首の人相書きが廻っていたために、父の小花和度正は小花和家の先祖で上州長野原箕輪城主であった長野姓を名乗らせ「長野桂次郎」と改名し、慶応義塾の福沢諭吉の推薦で金沢の英学校に英語教員の職を得る。だがそれを一年で切り上げ、翌年、政府の筆頭書記官の田辺太一の強い推薦で岩倉具視、大久保利通、木戸孝允等岩倉使節団に二等書記官の肩書きで通訳として随行することになり、明治政府から帰京命令を受けた。
米田桂次郎はアメリカへの夢が捨てきれず、12年前の少年時代のような熱烈歓迎を期待していたが、現状は変わっており、大した活躍も出来ないままに二等書記官の職を解任され、工部七等出仕に格下げされた。格下げの理由として、アメリカへ向かう船内で無礼な振る舞いをしたと言いがかりをつけられ船中裁判にかけられた為だとも言われている。本書では、同行した女性たちにダンスを教えようとしたことが、今でいうセクシャルハラスメントに当たるものだということで船中裁判にかけられたことになっている。帰国後も政府の官吏として働くが、明治10年(1877年)に工部省鉱山寮が廃止になって失業する。ある意味で、栄華を極めてきたが34歳で路頭に迷うことになるのである。
失業した桂次郎は、かつての旧幕府軍が夢と描いた北海道開拓を志し、家族を連れて北海道石狩へ移住し、缶詰事業を興すが失敗し、家族で開拓に従事するが厳しく、やがてすべての収入の道が閉ざされて帰京し、明治20年(1887年-44歳)の時にハワイ移民監督官となってハワイ王国に移住した。しかし、そこでも生活が困窮して、わずか一年で帰国し、二度目の妻の「おわか」の実家からの援助で酒屋を営み生計を立てていた。明治24年(1891年-47歳)の時に、ようやく大阪控訴院に招かれ、桂次郎は、単身赴任をし、官舎に雪という女性と暮らしている。その間に妻の「おわか」が死去するが、明治42年(1909年-66歳)まで勤めている。、そして、退官した後に西伊豆の戸田村に買ってあった家で余生を送り、世話をしていた雪を呼び寄せて再婚し、静かな余生のうちに大正6年(1917年)に77歳で死去した。
米田桂次郎の晩年は、西伊豆の戸田村で、妻の雪と愛犬(ラブラドール)とで暮らす静かなものだったようであるが、激動する時代の中で翻弄され続けた人生だったと言えるかも知れない。彼はこの晩年に洗礼を受けてクリスチャンになっている。
「時流」という言葉がある。それに乗るときもあれば、押し流されるときもある。利発で明るく、才気あふれる少年だった米田桂次郎は、まさに時流に乗って活躍し、やがて、時流に押し流されて人生を送り続けた人だったと言える気がする。政治や社会の状況に翻弄されたとも言える。
本書の中心は、彼が「トミー」と呼ばれた絶頂期と戊辰戦争に巻き込まれていく姿であり、ちょっとしたことで死を免れるが、「死に損なった者」の没落をたどり、やがてすべてが終わったようにして静かに人生を終えていく姿である。多かれ少なかれ、明治初期の知識人たちは「西洋かぶれ」であり、第二次世界大戦後もそれが繰り返されたが、米田桂次郎は、そういう「知識人」の先駆けだったとも言えるであろう。知識人は、その知識の故にともすれば状況に振り回されやすい。米田桂次郎という人の人生を考えるとき、そんな思いがふつふつと湧いてしまう。
歴史小説というのは、作者が取り扱う人物をどのような視点で見ているかで内容が異なってくるが、作者が米田桂次郎に注いでいる視線は、温かい。そんなことを感じながら、この作品を読み終わった。
前回、現在の五千円札にも肖像が描かれている明治初期の極めて優れた作家である樋口一葉を描いた出久根達郎『萩のしずく』を読んだが、続いて、歴史上の人物である米田桂次郎(こめだ けいじろう)を描いた高橋義夫『メリケンざむらい』(1990年 講談社 1994年 講談社文庫)を、かなり面白く読んだ。面白いというよりも、むしろ、この人の人生の悲哀のようなものを感じながら読み、作品はその悲哀がどことなく漂うような見事な仕上がりとなっている。
米田桂次郎(1843-1917年)という人は、幕末から明治にかけて、一種の「西洋かぶれ」のようにして生きた人であるが、一言で言えば、トミーと呼ばれ人気を博し、幕末期の幕府の中で抜群の語学力で通詞(通訳)として活躍したが、深い挫折を経験した人であった。その概略を記すと以下のようになり、本書も彼の人生を追うようにして記されていて、それが本書の内容ともなっているので、少し詳細に記しておこう。もちろん、作家としての優れた視点と描き方が本書には十分ある。
米田桂次郎は、天保14年(1843年)に江戸小石川の旗本小花和庄助(度正-のりまさ)の次男として生まれたが、病弱のために出生届けが幕府に出されておらず、彼が3歳の頃、病弱を理由に松戸の豪農であった横尾金蔵方に里子に出され、横尾為八と呼ばれた。そして、母方の実家である米田家に継嗣がいなかったことから、米田家へ引き取られ米田猪一郎の養子となった。10歳のころではなかったかと思われるし、喘息の持病があった。やがて、11歳の時に、米田家の叔父で幕府のオランダ語通詞の立石得十郎のもとで語学を学び、下田で森山栄之助から英語を学んだ。その頃から江戸幕府はオランダ以上に英語の必要性を認識し始めており、桂次郎は、叔父の立石得十郎を通じて、安政4年(1857年)にアメリカ総領事ハリスや通訳のヒュースケンから英語を学んだといわれている。桂次郎の人生にとって、叔父の立石得十郎の存在は極めて大きいものとなるのである。
安政2年(1855年)には江戸では安政の大地震が起こっているが、下田にいた米田桂次郎はその混乱を免れ、1858年にハリスが下田から江戸へ移住したのを機に長崎へさらなる英語の習得に行っている。長崎には姉の寿賀とその夫がいて、彼の面倒を見た。長崎の英語伝習所に入学したが、彼の英語のレベルは相当に高く、生徒というよりは助教のような働きまでしていたといわれる。
1859年に江戸幕府は、長崎に加えて横浜と函館の三港を開港し貿易を許可せざるを得なかったが、それにともない英語の通詞(通訳)が必要となり、長崎の英語伝習所で卓越した英語力を持った桂次郎を呼び戻し、横浜運上所(税関)の通詞見習いとして採用した。若干16歳で、見習い通詞ではあったが幕府の役をもらうというのは格段の出世であったといえるだろう。そして、翌年の安政7年(1860年)、江戸幕府は日米修好通商条約の批准書交換の為に遣米使節派遣を検討し、桂次郎は叔父の立石得十郎の養子となって立石斧次郎と改名し、使節団の随行を許されるのである。この遣米使節団に勝海舟や福沢諭吉らが咸臨丸で同行したのである。
養父の立石得十郎は、斧次郎(桂次郎)のことを幼名の為八から「タメ、タメ」と呼んでいたことから、彼はアメリカ人に「トミー」と呼ばれ、親しまれて可愛がられ、米国では熱烈な歓迎を受けた。16歳の少年であり、下ぶくれのぽっちゃりした顔立ちをしていた釜次郎は、持ち前の豊かな好奇心と物怖じしない明るい性格も幸いし、巧みな英語を語ることから、「トミー、トミー」と親しまれて、アメリカの婦人たちからもてはやされた。「トミーポルカ」という彼を讃える歌まで作られている。おそらく、それが彼の人生の絶頂期だったと言えるだろう。米国での桂次郎の歓迎ぶりは、彼を有頂天にさせ、以後彼はその熱烈に歓迎された経験をずっと抱いて生きることになるのである。
帰国後、彼は暗殺されたヒュースケンに代わり、ハリスの通訳として勤め、18歳から20歳まで幕府の開成所の教授職並出役になり、田辺太一(フランス語通訳)や益田孝(後の三井物産社長)、福沢諭吉らと親交をもちながら、下谷七軒町の自宅で英語塾を開き、英語以外は話すことを禁止した教育を行ったている。彼の「西洋かぶれ」ぶりは相当なもので、時にはひんしゅくを買ったりしているが、他人を見下したようなところがあり、決して好意的には見られなかったといわれる。彼の少年のころの絶頂期の経験が次第に禍しはじめたのだろうと思う。また、19歳の時に妻の「照」との間に長男をもうけるが、家庭を顧みるようなことはほとんどなかった。そして、20歳の時に実兄の小花和重太郎によって幕府に「弟丈夫届け」が出され、名を米田桂次郎と改めた。
慶応元年(1865年)には、長州征伐に向かう将軍徳川家茂に随行し、大阪城では通詞として活躍するが、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの時に、実兄の小花和重太郎と共に将軍徳川慶喜に随行して海陽丸で大阪を脱出して江戸へ帰っている。その後、兄の重太郎と共に大鳥圭介率いる旧幕府軍に合流して薩長軍と戦い、宇都宮で兄の重太郎が死亡し、次いで大桑の戦いで太ももに貫通銃創を負うが、大鳥圭介と共に仙台へ脱出して、堪能であった英語を駆使して旧幕府軍の武器の調達のために上海に渡る。だが、時代と状況は一気に動き、桂次郎は、武器の調達を断念し、明治2年頃(1869年)に帰国した。しかし、新政府から旧幕府軍の隊長として賞金首の人相書きが廻っていたために、父の小花和度正は小花和家の先祖で上州長野原箕輪城主であった長野姓を名乗らせ「長野桂次郎」と改名し、慶応義塾の福沢諭吉の推薦で金沢の英学校に英語教員の職を得る。だがそれを一年で切り上げ、翌年、政府の筆頭書記官の田辺太一の強い推薦で岩倉具視、大久保利通、木戸孝允等岩倉使節団に二等書記官の肩書きで通訳として随行することになり、明治政府から帰京命令を受けた。
米田桂次郎はアメリカへの夢が捨てきれず、12年前の少年時代のような熱烈歓迎を期待していたが、現状は変わっており、大した活躍も出来ないままに二等書記官の職を解任され、工部七等出仕に格下げされた。格下げの理由として、アメリカへ向かう船内で無礼な振る舞いをしたと言いがかりをつけられ船中裁判にかけられた為だとも言われている。本書では、同行した女性たちにダンスを教えようとしたことが、今でいうセクシャルハラスメントに当たるものだということで船中裁判にかけられたことになっている。帰国後も政府の官吏として働くが、明治10年(1877年)に工部省鉱山寮が廃止になって失業する。ある意味で、栄華を極めてきたが34歳で路頭に迷うことになるのである。
失業した桂次郎は、かつての旧幕府軍が夢と描いた北海道開拓を志し、家族を連れて北海道石狩へ移住し、缶詰事業を興すが失敗し、家族で開拓に従事するが厳しく、やがてすべての収入の道が閉ざされて帰京し、明治20年(1887年-44歳)の時にハワイ移民監督官となってハワイ王国に移住した。しかし、そこでも生活が困窮して、わずか一年で帰国し、二度目の妻の「おわか」の実家からの援助で酒屋を営み生計を立てていた。明治24年(1891年-47歳)の時に、ようやく大阪控訴院に招かれ、桂次郎は、単身赴任をし、官舎に雪という女性と暮らしている。その間に妻の「おわか」が死去するが、明治42年(1909年-66歳)まで勤めている。、そして、退官した後に西伊豆の戸田村に買ってあった家で余生を送り、世話をしていた雪を呼び寄せて再婚し、静かな余生のうちに大正6年(1917年)に77歳で死去した。
米田桂次郎の晩年は、西伊豆の戸田村で、妻の雪と愛犬(ラブラドール)とで暮らす静かなものだったようであるが、激動する時代の中で翻弄され続けた人生だったと言えるかも知れない。彼はこの晩年に洗礼を受けてクリスチャンになっている。
「時流」という言葉がある。それに乗るときもあれば、押し流されるときもある。利発で明るく、才気あふれる少年だった米田桂次郎は、まさに時流に乗って活躍し、やがて、時流に押し流されて人生を送り続けた人だったと言える気がする。政治や社会の状況に翻弄されたとも言える。
本書の中心は、彼が「トミー」と呼ばれた絶頂期と戊辰戦争に巻き込まれていく姿であり、ちょっとしたことで死を免れるが、「死に損なった者」の没落をたどり、やがてすべてが終わったようにして静かに人生を終えていく姿である。多かれ少なかれ、明治初期の知識人たちは「西洋かぶれ」であり、第二次世界大戦後もそれが繰り返されたが、米田桂次郎は、そういう「知識人」の先駆けだったとも言えるであろう。知識人は、その知識の故にともすれば状況に振り回されやすい。米田桂次郎という人の人生を考えるとき、そんな思いがふつふつと湧いてしまう。
歴史小説というのは、作者が取り扱う人物をどのような視点で見ているかで内容が異なってくるが、作者が米田桂次郎に注いでいる視線は、温かい。そんなことを感じながら、この作品を読み終わった。
2011年11月21日月曜日
出久根達郎『萩のしずく』
朝晩の冷え込みが次第に厳しくなって、雲間から時おり弱い初冬の光が差し、冬枯れた光景が広がるようになってきた。朝から寝具のシーツなどを洗濯し、掃除をしていたら、なんだか昨日の疲れが残っているのか、若干の怠さを覚えてしまった。「こんなことではいけないなあ」と思うし、すべきことはたくさんあるのだが、なかなか気分が乗らない。
それはともかく、出久根達郎『萩のしずく』(2007年 文藝春秋社)を読む。出久根達郎の作品はなんだか久しぶりに読んだような気もするが、これは明治初期の女流作家で、貧苦にあえぎながらも優れた作品を残した樋口一葉を取り扱った作品である。
樋口一葉(1872-1896年)は、明治維新5年後のまだ混乱した社会の中で、東京府の下級官吏を勤めていた父樋口為之助(則義)と母多喜の次女として生まれ、兄は泉太郎、虎之介、姉はふじで、後に妹くにが生まれている。本書では父の名は明義、母の名は滝子、兄の名は朝二郎になっており、一葉の本名は奈津、もしくは夏子であるが、本書では奈津で、妹は邦子になっている。
則義(本書では明義)は、元は甲斐(現:山梨県甲州市)の百姓であったが、江戸末期に同心株を買い、維新後には士分の下級役人として勤めていた。だが、1876年、一葉4歳の時に免職され、以後は不動産の斡旋などで生計を立てていたと言われる。しかし、1889年、一葉17歳の時に則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗するなどして多額の借金を残したまま死去している。ちなみに前年の1888年に病身であった兄の泉太郎が死去している。
この辺りは、本書の104ページでは、1888年(明治21年)夏に父が死去し、その後で兄の朝二郎が死去したことになっている。だが、一葉の父が官吏を勤めていたころの上司が夏目漱石(金之助)の父親で、その縁で漱石の長兄の大助(大一)と一葉を結婚させる話が持ち上がるが、一葉の父親が漱石の父親に何度も借金を申し込むことがあって、「上司と部下というだけで、これだけ借金を申し込んでくるのだから、親戚になったら何を要求されるかわかったもんじゃあない」と漱石の父親が語ったりして破談になったという夏目漱石の妻が記した『漱石の思ひ出』からとられたエピソードなどが盛り込まれている。
父の死去に伴い、17歳で戸主となった一葉の肩には一家の生活が重くのしかかり、父親が決めていた許嫁の渋谷三郎とも破談となった。一説では、樋口家には多額の借金が残されていたが渋谷三郎から多額の結納金を要求されたことが原因だといわれている。一家は母親と妹のくに(邦子)で針仕事や洗い張りなどで生計を立てるという経済的に苦しい仕事を強いられるようになる。
しかし、少女時代から文才を認められて通っていた中島歌子の歌塾「萩の舎」に通い、頭角を現し、時には助教として講義などもし、1890年には内弟子として中島歌子の家に住むようになったりした。多分に貧苦を強いられる樋口家の口減らし的な要因もあっただろう。
そして、この中島歌子の「萩の舎」で姉弟子の田辺龍子(三宅花圃-かほ)が小説『藪の鶯』で多額の原稿料を得たのを知り、小説家になろうと志すのである。この辺りのくだりは、本書では114-115ページで記してあるが、さらに、彼女の小説の師ともなった半井桃水(なからいとうすい)との出会の箇所でも、当時できたばかりの図書館で末広鉄腸の『雪中梅』を読み、これなら自分にもできると確信をもって東京朝日新聞小説記者であった半井桃水を紹介されて訪ねたことが記されている(178-191ページ)。実際、一葉は図書館にかよいつめて勉強を続けている。
半井桃水に小説を学びながら、桃水主宰の「武蔵野」の創刊号に処女小説『闇桜』を発表している。この頃の一葉は、貧苦にあえぎながらも図書館に通い、桃水は困窮した一葉の生活の面倒(一葉は桃水から借金をする)を見たりして、次第に一葉は桃水に恋慕の情を感じたりするが、二人のことが醜聞として広まったために桃水と縁を切らざるを得なくなり、それまでの傾向とは全く異なった小説『うもれ木』を発表してけじめをつけようとした。この『うもれ木』が一葉の出世作となったのは運命の皮肉かも知れないが、その後、島崎藤村などの自然主義文学に触れて『雪の日』、『琴の音』、『花ごもり』、『暗夜』、『大つごもり』、『たけくらべ』を次々と発表した。
今日では、1895年1月から1896年1月にかけて『文学界』で発表した『たけくらべ』が一葉の代表作となっているが、優れて美しい文章で綴られるこの作品の時期が、おそらく作家として最も充実していた時期と言えるかも知れない。半井桃水とのけじめをつけるためもあっただろうが、生活苦の打開のために吉原の遊郭近くで荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが、あまりうまくいかずに、1894年5月には店を引き払い、貧苦の打開のために小説に打ち込まざるを得なくなったとも言える。
『たけくらべ』は、幸田露伴や森鴎外から絶賛され、一葉は新聞小説や随筆などを手がけていくが、次第に体調が思わしくなくなり、1986年8月に絶望的な結核と診断されて、11月に24歳と半年という若さで息を引き取った。一葉が作家として生活できたのはわずかに14ヶ月ほどで、生活苦を抱えた人生ではあったが、その短すぎる生涯の中で自分の命を削るようにして生み出した作品は、文学史に残る名作と言えるだろう。
本書では、一葉の作品に多く登場するような明るくさっぱりとして、むしろ剛胆でさえあるような気質をもつ人物として、少女時代から幡随院長兵衛のような人物に憧れ、女に学問はいらないと母親に言われながらも士族の娘としての教養を身につけ、和歌に関心をもち、中島歌子の歌塾「萩の舎」での学びを続けていく姿と和歌の師匠である中島歌子やそこで出会った伊東夏子や田辺龍子との交流などが記され、特に三人の夏子を登場させて、ひとりをわけありの華族の娘佐野島夏子としてとりあげ、彼女の運命の変転をからませながら一葉を描き出す試みがされている。そして、一葉の恋、特に半井桃水との恋が一葉の短い人生の綾として描かれている。
直木賞作家でもある作者の文章は定評があるし、いくつかの文学手法上の試みもある。作者が描き出したように、実際、樋口一葉という人は、利発で竹を割ったような性格をしていただろうと思う。しかし、単純な読後感としては、どうも樋口一葉を描ききっていないように感じられてしまった。一葉が半井桃水との恋を一度成就させたことが、一葉の人生の救いとなっている辺りは、それが事実かどうかは別にしても、彼女の人生を描く作品としてさすがだとは思うが、晩年、結核という病の中で執筆を続けた姿を描くところに、少し物足りなさを感じたからかもしれない。
しかし、こうして一葉の生涯を改めて思うと、自分の魂を注ぎ出すようなものが本物になっていくとつくづく感じる。生き急ぐ必要はどこにもないが、ひとつひとつのものに注がれた魂だけが残るような気がするのである。今は言葉の美しさというものからは無縁になりつつある日本語と貧しい言葉に基づく粗い精神が席捲しているが、言葉を美しく使うということは、その人の人格と精神性の問題だから、パソコンのソフトの規制を無視してでも美しい言葉が使えたらと思う。
それはともかく、出久根達郎『萩のしずく』(2007年 文藝春秋社)を読む。出久根達郎の作品はなんだか久しぶりに読んだような気もするが、これは明治初期の女流作家で、貧苦にあえぎながらも優れた作品を残した樋口一葉を取り扱った作品である。
樋口一葉(1872-1896年)は、明治維新5年後のまだ混乱した社会の中で、東京府の下級官吏を勤めていた父樋口為之助(則義)と母多喜の次女として生まれ、兄は泉太郎、虎之介、姉はふじで、後に妹くにが生まれている。本書では父の名は明義、母の名は滝子、兄の名は朝二郎になっており、一葉の本名は奈津、もしくは夏子であるが、本書では奈津で、妹は邦子になっている。
則義(本書では明義)は、元は甲斐(現:山梨県甲州市)の百姓であったが、江戸末期に同心株を買い、維新後には士分の下級役人として勤めていた。だが、1876年、一葉4歳の時に免職され、以後は不動産の斡旋などで生計を立てていたと言われる。しかし、1889年、一葉17歳の時に則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗するなどして多額の借金を残したまま死去している。ちなみに前年の1888年に病身であった兄の泉太郎が死去している。
この辺りは、本書の104ページでは、1888年(明治21年)夏に父が死去し、その後で兄の朝二郎が死去したことになっている。だが、一葉の父が官吏を勤めていたころの上司が夏目漱石(金之助)の父親で、その縁で漱石の長兄の大助(大一)と一葉を結婚させる話が持ち上がるが、一葉の父親が漱石の父親に何度も借金を申し込むことがあって、「上司と部下というだけで、これだけ借金を申し込んでくるのだから、親戚になったら何を要求されるかわかったもんじゃあない」と漱石の父親が語ったりして破談になったという夏目漱石の妻が記した『漱石の思ひ出』からとられたエピソードなどが盛り込まれている。
父の死去に伴い、17歳で戸主となった一葉の肩には一家の生活が重くのしかかり、父親が決めていた許嫁の渋谷三郎とも破談となった。一説では、樋口家には多額の借金が残されていたが渋谷三郎から多額の結納金を要求されたことが原因だといわれている。一家は母親と妹のくに(邦子)で針仕事や洗い張りなどで生計を立てるという経済的に苦しい仕事を強いられるようになる。
しかし、少女時代から文才を認められて通っていた中島歌子の歌塾「萩の舎」に通い、頭角を現し、時には助教として講義などもし、1890年には内弟子として中島歌子の家に住むようになったりした。多分に貧苦を強いられる樋口家の口減らし的な要因もあっただろう。
そして、この中島歌子の「萩の舎」で姉弟子の田辺龍子(三宅花圃-かほ)が小説『藪の鶯』で多額の原稿料を得たのを知り、小説家になろうと志すのである。この辺りのくだりは、本書では114-115ページで記してあるが、さらに、彼女の小説の師ともなった半井桃水(なからいとうすい)との出会の箇所でも、当時できたばかりの図書館で末広鉄腸の『雪中梅』を読み、これなら自分にもできると確信をもって東京朝日新聞小説記者であった半井桃水を紹介されて訪ねたことが記されている(178-191ページ)。実際、一葉は図書館にかよいつめて勉強を続けている。
半井桃水に小説を学びながら、桃水主宰の「武蔵野」の創刊号に処女小説『闇桜』を発表している。この頃の一葉は、貧苦にあえぎながらも図書館に通い、桃水は困窮した一葉の生活の面倒(一葉は桃水から借金をする)を見たりして、次第に一葉は桃水に恋慕の情を感じたりするが、二人のことが醜聞として広まったために桃水と縁を切らざるを得なくなり、それまでの傾向とは全く異なった小説『うもれ木』を発表してけじめをつけようとした。この『うもれ木』が一葉の出世作となったのは運命の皮肉かも知れないが、その後、島崎藤村などの自然主義文学に触れて『雪の日』、『琴の音』、『花ごもり』、『暗夜』、『大つごもり』、『たけくらべ』を次々と発表した。
今日では、1895年1月から1896年1月にかけて『文学界』で発表した『たけくらべ』が一葉の代表作となっているが、優れて美しい文章で綴られるこの作品の時期が、おそらく作家として最も充実していた時期と言えるかも知れない。半井桃水とのけじめをつけるためもあっただろうが、生活苦の打開のために吉原の遊郭近くで荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが、あまりうまくいかずに、1894年5月には店を引き払い、貧苦の打開のために小説に打ち込まざるを得なくなったとも言える。
『たけくらべ』は、幸田露伴や森鴎外から絶賛され、一葉は新聞小説や随筆などを手がけていくが、次第に体調が思わしくなくなり、1986年8月に絶望的な結核と診断されて、11月に24歳と半年という若さで息を引き取った。一葉が作家として生活できたのはわずかに14ヶ月ほどで、生活苦を抱えた人生ではあったが、その短すぎる生涯の中で自分の命を削るようにして生み出した作品は、文学史に残る名作と言えるだろう。
本書では、一葉の作品に多く登場するような明るくさっぱりとして、むしろ剛胆でさえあるような気質をもつ人物として、少女時代から幡随院長兵衛のような人物に憧れ、女に学問はいらないと母親に言われながらも士族の娘としての教養を身につけ、和歌に関心をもち、中島歌子の歌塾「萩の舎」での学びを続けていく姿と和歌の師匠である中島歌子やそこで出会った伊東夏子や田辺龍子との交流などが記され、特に三人の夏子を登場させて、ひとりをわけありの華族の娘佐野島夏子としてとりあげ、彼女の運命の変転をからませながら一葉を描き出す試みがされている。そして、一葉の恋、特に半井桃水との恋が一葉の短い人生の綾として描かれている。
直木賞作家でもある作者の文章は定評があるし、いくつかの文学手法上の試みもある。作者が描き出したように、実際、樋口一葉という人は、利発で竹を割ったような性格をしていただろうと思う。しかし、単純な読後感としては、どうも樋口一葉を描ききっていないように感じられてしまった。一葉が半井桃水との恋を一度成就させたことが、一葉の人生の救いとなっている辺りは、それが事実かどうかは別にしても、彼女の人生を描く作品としてさすがだとは思うが、晩年、結核という病の中で執筆を続けた姿を描くところに、少し物足りなさを感じたからかもしれない。
しかし、こうして一葉の生涯を改めて思うと、自分の魂を注ぎ出すようなものが本物になっていくとつくづく感じる。生き急ぐ必要はどこにもないが、ひとつひとつのものに注がれた魂だけが残るような気がするのである。今は言葉の美しさというものからは無縁になりつつある日本語と貧しい言葉に基づく粗い精神が席捲しているが、言葉を美しく使うということは、その人の人格と精神性の問題だから、パソコンのソフトの規制を無視してでも美しい言葉が使えたらと思う。
2011年11月18日金曜日
風野真知雄『女だてら 麻布わけあり酒場』
今にも雨を落としそうな雲が垂れ込めて気温が低く寒い。本格的な冬の寒さが訪れているわけではないが、寒さに気持ちが沈んでいくような天候ではある。コートやダウンジャケットの人が多くなっている。最近、ヨーロッパとアメリカの経済の疲弊から、この国では環太平洋経済連携協定(TTP)とかアジア経済圏構想とかいうことが取り沙汰されるようになったが、ふと、第二次世界大戦の前に北一輝が提唱した「大東亜共栄圏」という思想のことを思い起こした。
今の世界で無謀な侵略という発想はないだろうが、経済繁栄ということを第一義的に考えていくとどうしてもそういう発想になるのだろうと思う。国民の幸福感を第一義に志向するブータンの国王が来日しているが、どういう幸福感をもつかが根本的に問われている時代に突入しているのだろうと思う。人の幸いは愛以外には満たされない。そして、愛はささやかなものである。そのささやかさの中に無限の充実感があるとき、人は生きている喜びを最も感じることができるのだろう。
閑話休題。過日に仙台に行った折りに駅の本屋で買ってきていた風野真知雄『女だてら 麻布わけあり酒場』(2011年 幻冬舎文庫)を一息に読んだので記しておこう。文庫本の裏表紙の宣伝文句によれば、これはこれから始まるシリーズの第一作目という作品で、毎月の発行予定らしく、たぶん、もう既にいくつかの作品が発行されている。
風野真知雄の作品は友人が『耳袋秘帖』という根岸肥前守を取り扱ったシリーズ作品を紹介してくれたことで読み始めたのだが、文庫本の帯に100冊刊行記念とあるから、相当な量の作品を書かれているようで、こういう仕事量の多い作家は、内容はともかく、書くためには根を詰めねばならず、それだけでも敬服に値する。わたしのような怠け者にはとうていできないことである。
『女だてら 麻生わけあり酒場』は、麻布の高台にある居酒屋の、料理上手で聞き上手で、人柄も美貌ももつ女将の「おこう」を慕って、隠居した元同心の星川勢七郎や瓦版屋の源蔵、元は大店の若旦那でどこか曰くありげな日之助が、それぞれに「おこう」への想いを抱いて集まってきていたが、その「おこう」の店が火事に遭い、「おこう」が死んでしまうところから始まる。
この始まりは、ちょっと意表を突く始まりで、「おこう」を特別に慕う三人には、それぞれの事情があるから、これから「おこう」の店で「おこう」を中心にしてそれぞれの生活が描かれるのかと思ったら、中心になるべき「おこう」が早々に死んでしまうのであるから、その後どういう展開になるのだろうかと興味をかき立てる設定になっていた。
隠居した元同心の星川勢七郎は、家督を息子に譲り、妻も亡くし、役宅を出て、五十も半ばを過ぎて麻布坂下町の長屋に気楽な独り暮らしをしている。自分ではまだまだと思って、暇な年寄りや隠居爺にはなりたくないし、苦手な息子の嫁の機嫌を取って暮らすつもりは毛頭なく、身の廻りのことは自分でして、「おこう」に惚れながら「おこう」の店に通っている。剣の腕は相当に立つ。
瓦版屋の源蔵は、面白おかしく記事を書いて瓦版を発行していたが、その瓦版に書いた記事が原因で脅しをかけられている。どうやら相当の大物がその背後にいるらしく、しばらくは瓦版も発行することができない状態に陥っている。「おこう」の店で知り合った元同心の星川勢七郎に相談したりしている。源蔵は時々川柳も作ったりする。
元大店の若旦那である日之助は、相場で損をさせて丸ごと乗っ取るというような札差である父親の商売のやり方に楯突いて勘当されている。日之助は父親が見つけてきた二人の嫁とともうまくいかずに、二度離婚しているし、父親は腹違いの弟に店を継がせたいと思っていた。そして、商売上のことで楯を突いた日之助を300両の金をつけて勘当したのである。住んでいた店の別宅も出て行かなければならず、さて、これから何をしようかと思い悩むが、とりわけて才能もない。ただ、贅沢な暮らしをしてきただけに味覚が鋭く、味の微妙な違いがわかって、「おこう」の作る料理が並外れていることを知っている。だが、金目のものは盗まずに変なものばかりを盗むような忍び込むことが目的の「紅蜘蛛小僧」という異名をもつ盗癖がある。
、この三人が、火事になった「おこう」の店に駆けつけるが、「おこう」は飼い猫の「みかん」を助けようとして逃げ遅れ、炎に包まれていくのである。「おこう」には「おこう」の人生があり、その人生は誰にも知られてはいなかったが、自分の子どもを捨てなければならなくなり、後で探したが行くへ不明のままになっている娘がいたのである。
「おこう」が火事で焼け死んだ後、火事の火元がどうやら「おこう」の店の中らしく、火の始末をきちんとしていた「おこう」が火事を出すはずはないと出火に疑念をもちながらも、三人は焼け跡で「おこう」の骨を拾い集め、「おこう」の遺骨を回り持ちで保管することにし、「おこう」が可愛がっていた犬と猫もそれぞれで引き取ることにする。それぞれが無念でならずに、「おこう」がいた有り難みをしみじみ感じながら日々を過ごしていくが、喪失感は埋めようがなく、「おこう」の初七日に再び焼け跡に集まってきて「おこう」の思い出を語り出したりする。
そして、やって来た土地の岡っ引きから火事の夜に若い男が「おこう」の店にやって来ていたことをきき、これが付け火(放火)で、火のつき具合から見て「おこう」に脅しをかけるために火を放ったのではないかと推測したりしながら、「おこう」の弔いのために「おこう」が続けたがっていた居酒屋を三人で金を出し合って再建しようという話になる。星川は、店の奥に火をつけたのは火事騒ぎで「おこう」が大事なものを持ち出すことを狙っていたのではないかと推理を働かせるが、真相は藪の中である。
こうして、「おこう」の店が再建されていく中で火事の真相も探られていくことになる。三人は店の女将を雇うために苦労をしていく一方で、星川勢七郎はむかし一緒に働いていた岡っ引きの清八を訪ね、真相の探索のために手を貸して欲しいと依頼する。土地の岡っ引きの茂平は失火として事件に手をつけようともしない。清八は、酒で肝臓を病んでいたがその他のみを引き受け、土地の岡っ引きの茂平が役人の誰かと手を結んでいることを星川勢七郎に語ったりしていく。そして、実はその岡っ引きの茂平と、彼と繋がっている役人が事件の重要な鍵を握っていくことになっていくのである。
「おこう」の店が三人の手によって前と同じように再建され、最初に女将として雇われたのは、背は高いがどきりとするようなお釜の釜三郎である。釜三郎は女将を募集する張り紙を見てやってきたのだが、料理の手際もよいし、作る料理も美味しく、三人は釜三郎を雇うことにして開店の準備をするが、これがとんでもない食わせ物で、釜三郎は三人を騙して取り込み詐欺を働き行くへをくらますのである。
騙された三人は、騙された自分たちが悪いと諦めるが、釜三郎が落としていた煙草の包み紙から日之助が釜三郎の行くへを探り出し、「紅蜘蛛小僧」の異名を取る業を使って釜三郎が隠れている長屋に忍び込み、だまし取られた金子を奪い返す。こうして店の開店の準備が再び整えられ、次ぎに女将として雇ったのは、丸々と太った女相撲もしたこともある女性で、身体に合わせて豪快できっぷがよい。ただ、高台にある店に来るまでひとりでは登ってこられないほど太っている。三人は彼女を女将にして店を開ける。
その間に、生前の「おこう」から頼まれていたという今戸焼きの招き猫が届けられ、この招き猫をどういう理由で「おこう」が作ったのかはわからないままだし、相変わらず「おこう」の過去も火事の真相も藪の中である。どうやらこの招き猫に曰くがあるらしい。
元女相撲取りの女将を迎えて店が開かれると、前からの常連客もやって来て、その中に十八歳ぐらいだが金持ちの妾をしていたという「ちあき」という娘や、二十五歳くらいの美貌の湯屋の娘もいた。湯屋の娘は請われて大店に嫁に行ったが、出戻っていた。その理由を「おこう」は聞いていたようだが、誰も知らなかった。この二人の娘が、「おこう」が作っていた招き猫の謎を解くピントを与えていく。だがそれは、「ちあき」の旦那である易者が企んだ詐欺事件で、直接「おこう」とは関係のないことだった。だが、そうしているうちに、星川勢七郎が火事の真相の探索を依頼していた清八の探索が進み、地元の岡っ引きである茂平が絡んで「おこう」の店が火事になったときにそれを見張っていた男がいたことを探り出してくる。
丸々と太った女将で店は繁盛していくが、酔った勢いで店の外で客と相撲を取り、そのままの勢いで坂道を転がり落ちて怪我をし、店を辞めることになってしまう。女将がいなくなって困ったことになったが、そこに「おこう」の娘という「小鈴」という女性が訪ねてくる。「小鈴」は、十四の時に母親の「おこう」に祖父母に預けられ、十七歳の時の祖父母の家を出てそのままで、知り合いに聞いて「おこう」を訪ねて来たという。だが、「おこう」は既になくなっていた。そして、生前に「おこう」が作っていた謎の招き猫の首の鈴が小さいことに気づいて、「おこう」が娘との再会を願っていたことを知る。だが、「小鈴」は、こんなことをするくらいなら自分を置いていかねければよかっただけだと言い切ってしまう。「小鈴」が十四の時、その一年前に父親が失踪し、続いて「小鈴」を置いて「おこう」も失踪し、祖父母がその母親の悪口ばかり言うので嫌になって家を飛び出していたのだという。
三人は、女将のいなくなった店を手伝ってくれるように「小鈴」に頼む。「小鈴」はうんとは言わないが、しばらく店にいることになる。「小鈴」は言葉つなぎの遊びで、相手の心を読み取ることができるという特技をもち、「おこう」仕立てで料理もうまい。気立てもよいし、常連客たちにも好かれていく。「おこう」が飼っていた「みかん」という猫は、実は「小鈴」が小さいころに飼っていた猫と同じなで、「おこう」はこの「みかん」を助けようとして焼け死んだのである。「小鈴」は猫の名が「みかん」であることを知って母の思いを感じていく。「小鈴」の父は医者で、「おこう」は武家の出であった。彼らの失踪は謎のままである。
その間に、地元の岡っ引きの茂平が何者かに殺されるという事件が起こっていた。星川勢七郎と清八はその事件の現場に行き、彼と一緒に殺された男が「おこう」の店を見張っていた男であると察して、二人がなにかの口封じのために殺されたのではないかと思う。茂平はどうやら目付の鳥居耀蔵とつながっていたらしい。
そして、「おこう」を訪ねて一人の武家らしい男がやって来て、「おこう」が死んだことを聞いてがっかりして帰るが、その後を二人の武家がつけていくのに気づいた星川勢七郎が、その後をつけてみると、斬り合いが行われており、勢七郎が加勢をするうちにつけられていた男は逃げ、それを負って二人の武士も去っていった。身体がなまって太刀打ちできないことを実感させられるところで物語が終わる。
その後の展開は次作から語られていくのだろう。「おこう」がなぜ娘の「小鈴」を祖父母に預けて出て行ったのか、父親がなぜ失踪したのか、火事の真相はなんだったのかなど、謎のままであり、鳥居耀蔵がそれに関連していることは匂わせられているし、これから「小鈴」を中心にして、三人がそれぞれの特技を生かしながら事柄の真相を突きとめていくのだろう。
少し長く物語の展開の筋を記したのは、これが第一作目で、これから展開されるであろう事柄の設定のすべてがここに書かれているからで、筆力やちょっとした展開のうまさは言うまでもなく、枝葉の挿話も小道具も十分で、これからおもしろい展開になるだろうと思っている。
「おこう」が亡くなった後で、日之助が馴染みの吉原の女性のところに上がるが、日之助が何か鬱屈した気分をもっていることに気づいた女性が「今は駄目でも、女も男も周囲もいろんなことが変わってくるよ。そこで変わらずにいたものが、どこかで機会をつかむときがある。すれ違っていても、また出会う」(53ページ)という台詞などは、ちょっと気の利いた台詞になっている。
今の世界で無謀な侵略という発想はないだろうが、経済繁栄ということを第一義的に考えていくとどうしてもそういう発想になるのだろうと思う。国民の幸福感を第一義に志向するブータンの国王が来日しているが、どういう幸福感をもつかが根本的に問われている時代に突入しているのだろうと思う。人の幸いは愛以外には満たされない。そして、愛はささやかなものである。そのささやかさの中に無限の充実感があるとき、人は生きている喜びを最も感じることができるのだろう。
閑話休題。過日に仙台に行った折りに駅の本屋で買ってきていた風野真知雄『女だてら 麻布わけあり酒場』(2011年 幻冬舎文庫)を一息に読んだので記しておこう。文庫本の裏表紙の宣伝文句によれば、これはこれから始まるシリーズの第一作目という作品で、毎月の発行予定らしく、たぶん、もう既にいくつかの作品が発行されている。
風野真知雄の作品は友人が『耳袋秘帖』という根岸肥前守を取り扱ったシリーズ作品を紹介してくれたことで読み始めたのだが、文庫本の帯に100冊刊行記念とあるから、相当な量の作品を書かれているようで、こういう仕事量の多い作家は、内容はともかく、書くためには根を詰めねばならず、それだけでも敬服に値する。わたしのような怠け者にはとうていできないことである。
『女だてら 麻生わけあり酒場』は、麻布の高台にある居酒屋の、料理上手で聞き上手で、人柄も美貌ももつ女将の「おこう」を慕って、隠居した元同心の星川勢七郎や瓦版屋の源蔵、元は大店の若旦那でどこか曰くありげな日之助が、それぞれに「おこう」への想いを抱いて集まってきていたが、その「おこう」の店が火事に遭い、「おこう」が死んでしまうところから始まる。
この始まりは、ちょっと意表を突く始まりで、「おこう」を特別に慕う三人には、それぞれの事情があるから、これから「おこう」の店で「おこう」を中心にしてそれぞれの生活が描かれるのかと思ったら、中心になるべき「おこう」が早々に死んでしまうのであるから、その後どういう展開になるのだろうかと興味をかき立てる設定になっていた。
隠居した元同心の星川勢七郎は、家督を息子に譲り、妻も亡くし、役宅を出て、五十も半ばを過ぎて麻布坂下町の長屋に気楽な独り暮らしをしている。自分ではまだまだと思って、暇な年寄りや隠居爺にはなりたくないし、苦手な息子の嫁の機嫌を取って暮らすつもりは毛頭なく、身の廻りのことは自分でして、「おこう」に惚れながら「おこう」の店に通っている。剣の腕は相当に立つ。
瓦版屋の源蔵は、面白おかしく記事を書いて瓦版を発行していたが、その瓦版に書いた記事が原因で脅しをかけられている。どうやら相当の大物がその背後にいるらしく、しばらくは瓦版も発行することができない状態に陥っている。「おこう」の店で知り合った元同心の星川勢七郎に相談したりしている。源蔵は時々川柳も作ったりする。
元大店の若旦那である日之助は、相場で損をさせて丸ごと乗っ取るというような札差である父親の商売のやり方に楯突いて勘当されている。日之助は父親が見つけてきた二人の嫁とともうまくいかずに、二度離婚しているし、父親は腹違いの弟に店を継がせたいと思っていた。そして、商売上のことで楯を突いた日之助を300両の金をつけて勘当したのである。住んでいた店の別宅も出て行かなければならず、さて、これから何をしようかと思い悩むが、とりわけて才能もない。ただ、贅沢な暮らしをしてきただけに味覚が鋭く、味の微妙な違いがわかって、「おこう」の作る料理が並外れていることを知っている。だが、金目のものは盗まずに変なものばかりを盗むような忍び込むことが目的の「紅蜘蛛小僧」という異名をもつ盗癖がある。
、この三人が、火事になった「おこう」の店に駆けつけるが、「おこう」は飼い猫の「みかん」を助けようとして逃げ遅れ、炎に包まれていくのである。「おこう」には「おこう」の人生があり、その人生は誰にも知られてはいなかったが、自分の子どもを捨てなければならなくなり、後で探したが行くへ不明のままになっている娘がいたのである。
「おこう」が火事で焼け死んだ後、火事の火元がどうやら「おこう」の店の中らしく、火の始末をきちんとしていた「おこう」が火事を出すはずはないと出火に疑念をもちながらも、三人は焼け跡で「おこう」の骨を拾い集め、「おこう」の遺骨を回り持ちで保管することにし、「おこう」が可愛がっていた犬と猫もそれぞれで引き取ることにする。それぞれが無念でならずに、「おこう」がいた有り難みをしみじみ感じながら日々を過ごしていくが、喪失感は埋めようがなく、「おこう」の初七日に再び焼け跡に集まってきて「おこう」の思い出を語り出したりする。
そして、やって来た土地の岡っ引きから火事の夜に若い男が「おこう」の店にやって来ていたことをきき、これが付け火(放火)で、火のつき具合から見て「おこう」に脅しをかけるために火を放ったのではないかと推測したりしながら、「おこう」の弔いのために「おこう」が続けたがっていた居酒屋を三人で金を出し合って再建しようという話になる。星川は、店の奥に火をつけたのは火事騒ぎで「おこう」が大事なものを持ち出すことを狙っていたのではないかと推理を働かせるが、真相は藪の中である。
こうして、「おこう」の店が再建されていく中で火事の真相も探られていくことになる。三人は店の女将を雇うために苦労をしていく一方で、星川勢七郎はむかし一緒に働いていた岡っ引きの清八を訪ね、真相の探索のために手を貸して欲しいと依頼する。土地の岡っ引きの茂平は失火として事件に手をつけようともしない。清八は、酒で肝臓を病んでいたがその他のみを引き受け、土地の岡っ引きの茂平が役人の誰かと手を結んでいることを星川勢七郎に語ったりしていく。そして、実はその岡っ引きの茂平と、彼と繋がっている役人が事件の重要な鍵を握っていくことになっていくのである。
「おこう」の店が三人の手によって前と同じように再建され、最初に女将として雇われたのは、背は高いがどきりとするようなお釜の釜三郎である。釜三郎は女将を募集する張り紙を見てやってきたのだが、料理の手際もよいし、作る料理も美味しく、三人は釜三郎を雇うことにして開店の準備をするが、これがとんでもない食わせ物で、釜三郎は三人を騙して取り込み詐欺を働き行くへをくらますのである。
騙された三人は、騙された自分たちが悪いと諦めるが、釜三郎が落としていた煙草の包み紙から日之助が釜三郎の行くへを探り出し、「紅蜘蛛小僧」の異名を取る業を使って釜三郎が隠れている長屋に忍び込み、だまし取られた金子を奪い返す。こうして店の開店の準備が再び整えられ、次ぎに女将として雇ったのは、丸々と太った女相撲もしたこともある女性で、身体に合わせて豪快できっぷがよい。ただ、高台にある店に来るまでひとりでは登ってこられないほど太っている。三人は彼女を女将にして店を開ける。
その間に、生前の「おこう」から頼まれていたという今戸焼きの招き猫が届けられ、この招き猫をどういう理由で「おこう」が作ったのかはわからないままだし、相変わらず「おこう」の過去も火事の真相も藪の中である。どうやらこの招き猫に曰くがあるらしい。
元女相撲取りの女将を迎えて店が開かれると、前からの常連客もやって来て、その中に十八歳ぐらいだが金持ちの妾をしていたという「ちあき」という娘や、二十五歳くらいの美貌の湯屋の娘もいた。湯屋の娘は請われて大店に嫁に行ったが、出戻っていた。その理由を「おこう」は聞いていたようだが、誰も知らなかった。この二人の娘が、「おこう」が作っていた招き猫の謎を解くピントを与えていく。だがそれは、「ちあき」の旦那である易者が企んだ詐欺事件で、直接「おこう」とは関係のないことだった。だが、そうしているうちに、星川勢七郎が火事の真相の探索を依頼していた清八の探索が進み、地元の岡っ引きである茂平が絡んで「おこう」の店が火事になったときにそれを見張っていた男がいたことを探り出してくる。
丸々と太った女将で店は繁盛していくが、酔った勢いで店の外で客と相撲を取り、そのままの勢いで坂道を転がり落ちて怪我をし、店を辞めることになってしまう。女将がいなくなって困ったことになったが、そこに「おこう」の娘という「小鈴」という女性が訪ねてくる。「小鈴」は、十四の時に母親の「おこう」に祖父母に預けられ、十七歳の時の祖父母の家を出てそのままで、知り合いに聞いて「おこう」を訪ねて来たという。だが、「おこう」は既になくなっていた。そして、生前に「おこう」が作っていた謎の招き猫の首の鈴が小さいことに気づいて、「おこう」が娘との再会を願っていたことを知る。だが、「小鈴」は、こんなことをするくらいなら自分を置いていかねければよかっただけだと言い切ってしまう。「小鈴」が十四の時、その一年前に父親が失踪し、続いて「小鈴」を置いて「おこう」も失踪し、祖父母がその母親の悪口ばかり言うので嫌になって家を飛び出していたのだという。
三人は、女将のいなくなった店を手伝ってくれるように「小鈴」に頼む。「小鈴」はうんとは言わないが、しばらく店にいることになる。「小鈴」は言葉つなぎの遊びで、相手の心を読み取ることができるという特技をもち、「おこう」仕立てで料理もうまい。気立てもよいし、常連客たちにも好かれていく。「おこう」が飼っていた「みかん」という猫は、実は「小鈴」が小さいころに飼っていた猫と同じなで、「おこう」はこの「みかん」を助けようとして焼け死んだのである。「小鈴」は猫の名が「みかん」であることを知って母の思いを感じていく。「小鈴」の父は医者で、「おこう」は武家の出であった。彼らの失踪は謎のままである。
その間に、地元の岡っ引きの茂平が何者かに殺されるという事件が起こっていた。星川勢七郎と清八はその事件の現場に行き、彼と一緒に殺された男が「おこう」の店を見張っていた男であると察して、二人がなにかの口封じのために殺されたのではないかと思う。茂平はどうやら目付の鳥居耀蔵とつながっていたらしい。
そして、「おこう」を訪ねて一人の武家らしい男がやって来て、「おこう」が死んだことを聞いてがっかりして帰るが、その後を二人の武家がつけていくのに気づいた星川勢七郎が、その後をつけてみると、斬り合いが行われており、勢七郎が加勢をするうちにつけられていた男は逃げ、それを負って二人の武士も去っていった。身体がなまって太刀打ちできないことを実感させられるところで物語が終わる。
その後の展開は次作から語られていくのだろう。「おこう」がなぜ娘の「小鈴」を祖父母に預けて出て行ったのか、父親がなぜ失踪したのか、火事の真相はなんだったのかなど、謎のままであり、鳥居耀蔵がそれに関連していることは匂わせられているし、これから「小鈴」を中心にして、三人がそれぞれの特技を生かしながら事柄の真相を突きとめていくのだろう。
少し長く物語の展開の筋を記したのは、これが第一作目で、これから展開されるであろう事柄の設定のすべてがここに書かれているからで、筆力やちょっとした展開のうまさは言うまでもなく、枝葉の挿話も小道具も十分で、これからおもしろい展開になるだろうと思っている。
「おこう」が亡くなった後で、日之助が馴染みの吉原の女性のところに上がるが、日之助が何か鬱屈した気分をもっていることに気づいた女性が「今は駄目でも、女も男も周囲もいろんなことが変わってくるよ。そこで変わらずにいたものが、どこかで機会をつかむときがある。すれ違っていても、また出会う」(53ページ)という台詞などは、ちょっと気の利いた台詞になっている。
2011年11月16日水曜日
浅田次郎『五郎治殿御始末』
碧空という名にふさわしい空が広がっているが、気温が低くなって空気が冷たい。街路樹の紅葉が進み、駅の向こうにある欅やハナミズキ、そしてこの近くの銀杏も黄色い葉を盛んに散らしはじめた。この近くではまっ赤に燃えるモミジを見かけることがないのが残念な気もするが、木々のこうした変化をぼんやり眺めるのはとてもいい。一葉の葉がひらりと落ちるように、人の哀しみも落ちてくれないだろうかと思ったりする。
浅田次郎『五郎治殿御始末』(2003年 中央公論新社)について記しておこう。これは、再読の形で読んだのだが、幕末から明治維新を経て新しい時代となっていく大混乱期を生きた人々を描いた短編集で、「それぞれの明治維新」とでもいうような作品である。
本書には、「椿寺まで」、「箱舘証文」、「西を向く侍」、「遠い砲音」、「柘榴坂の仇討」、「五郎治殿御始末」の六編が収められている。
最初の「椿寺まで」は、上野での彰義隊の戦いで自ら重症を負いながらも生きのびて、武家を廃して商人となった男が、甲州勝沼で薩長軍と戦って討たれた友人の息子を引き取り、手代として可愛がって、その子を連れて甲州街道を遡って日野の先の高幡にある通称「椿寺」まで出かけていく話である。
息子の母親は、父親が勝沼で討ち死にした後、息子を道連れに自害しようとしたが、そこに駆けつけた男に止められ、男は息子を引き取り、母親は椿寺で尼僧として暮らす生活をしていたのである。明治政府がとった廃仏毀釈の影響もあり、寺の佇まいは貧しく、母親はひっそりと暮らしていた。男は商人にはなったが武士としての矜持も強くもち、何も語らずに息子をそこへ連れて行く。息子は男が元武士であることに気づいたりして、椿寺の寺男の話から事情を聞いて、寺にいる尼僧が自分の母親であるとわかっていくが、親子の名乗りはあげない。
しかし、そこは母と子である。息子は、かつて自分を引き取って育ててくれた男が流したという血の涙を自分も流しているのではないかと思いつつも、時代の向こうにすべてを置いて、新しい時代を健気に生きていこうとするのである。ただ、その寺を去るときに、足下に落ちていた大輪の椿の花をそっと懐に入れて。
第二話「箱舘証文」は、新しい時代になじめない感覚を持ちながらも明治政府の役人として働いていた大河内厚のところへ、ある日、警視庁に勤めているという旧会津藩士の中野伝兵衛が訪ねてくる。中野伝兵衛は、今は名前を渡辺一郎に変えているが、かつて箱舘の戦いの折、徳島藩士であった大河内厚は敵方であった中野伝兵衛と遭遇して、争い、負けて咽元に脇差しを当てられた時、中野伝兵衛から「そこもとの命、千両で売らぬか」と言われて、命の代金としての千両を支払う証文を書いていた。中野伝兵衛は、その千両の掛け取りにやってきたというのである。
一週間の猶予を与えられ、困惑した大河内厚は、かつて尊皇攘夷の志士であり文武を学んだ師である山野方斎を訪ねて相談する。すると、その師の手元に、かつて白河の戦いのおりに中野伝兵衛が自分の命の代金として千両を支払うという証文を山野方斎に書いていたことがわかる。これで双方の命の代金を精算すれば何事もないということになり、大河内厚と山野方斎は中野伝兵衛の家を訪ねる。月給十円という中野伝兵衛の住まいは、貧しく、老いた母と二人の娘があった。中野伝兵衛は、山野方斎がもつ命の代金証文を見て愕然とし、取り立てをやめることを承諾するのに一週間の猶予を求める。
時に、大河内厚が勤める工部省の上役として洋行帰りの若い長州人が赴任し、旧を破壊し、新をめざすことに熱意を燃やす。江戸城を取り巻く門が無用の長物として次々と破壊され牛込の楓門も破壊されようとする。しかし、大河内厚は、意を決して、楓門は武家文化の精神を今に伝えるもので、鉄道建設の傷害となるのであれば、せめてその鉄道が敷かれるまでは待ってくれ、これは武士の命乞いだ、と独り反対するのである。
次の週、大河内厚と山野方斎は中野伝兵衛に会うために出かけ、そこで中野伝兵衛にやくざ者の連れがあることに驚く。そのやくざ者は、今はやくざ稼業に身を落としてしまったが、かつては京都見廻り組で、鳥羽伏見の戦いで山野方斎を組み伏せたときに、ふとばかばかしくなって、山野方斎に命の値段としての千両の借用証書を書かせていたのである。同じ国の人間が争い合うことのばかばかしさ、それが命の値段の借用書書のやりとりだったのである。戦場に倒れた者たちの無念、それが都合三千両の生命の借用書なのである。
そのことをお互いに胸の中で思い知った彼らは、その借用書を焼き捨て、語り合い、大河内厚が、せめて楓御門を残すことに尽力を尽くしたことで、すべてを了簡していくのである。そして、いずれ鉄道が敷かれれば、楓御門は飯田橋の名のみ残して消え去る定めかも知れないが、その時はまた小役人の矜りのかけて抗おうと思っていくのである。
ちなみに、今は、この楓門(牛込門)は、飯田橋駅西口近くに石組みだけが残されたものとなっている。
第三話「西を向く侍」は、有能で暦の専門家として幕府の天文方に出役していた成瀬勘十郎は、新政府に出仕することになっていたが、待命を受けたまま五年の月日を無為に過ごし、その間に養うことができない妻子を甲州の義兄のもとに預け、上地(土地の召し上げ)で棲むところがなくなった隣家の老婆と共に暮らしていた。そのころ明治政府が出していた暦には誤りが多く、成瀬勘十郎はその誤りを修正することで、早く出仕して生活を楽にしたいと願っていた。
明治5年11月9日(西暦1872年12月9日)、明治政府はそれまでの暦を改め、太陽暦によるグレゴリオ暦を採用する改暦詔書を太政官令として発布した。12月2日を大晦日として、翌日の12月3日を明治6年元旦とするというものであった。これによって師走に掛け取りをしていた商人や人々は、師走がわずか2日間しかないのだから大混乱に陥った。
成瀬勘十郎は、自分の家に借金の掛け取りにきた札差(多くは没落したが、新貨幣の両替をする何軒かの札差は残った)から改暦の話を聞き、暦は人々の暮らしに直結し、特に農民にとっては暦に従って暮らしを立てていたのだから、このように改暦すべきではないと憤り、文部省にそれを正に出かける。
文部省の役人たちは成瀬勘十郎の暦に対する専門知識についてはよく知っており、成瀬勘十郎は、この度の改暦が官員の俸給を削減するためのものではないかと指摘したりする。だが、時の文部卿は、太陽暦が採用されればおぬしはお役御免になるのを心配しているとか、西洋暦も知っているので待命を解いて雇用せよとかいうのだろうと矮小なことしか言わない。
成瀬勘十郎は、論を尽くし、涙を流しながら、「西洋の法に準ずるは世の趨勢ではござるが、日本政府はあくまで固有なる日本人のために、政を致さねばなり申さぬ。外交や交易、ましてや財政難を理由に突然の改暦をなさしめて国民を混乱に陥れるなど、いかにも小人の政にござる」(101-102ページ)と訴える。
しかし、文部省は何も答えす、成瀬勘十郎は、帰りに古道具屋で家宝の刀を売り、借財を返済して老婆を老婆の家族のいる駿府へ送り、自分は甲府に行くという。一年が三百六十五日で、大の月が一、三、五、十、十二で、晦日が月ごとに変わっていく。馴染みがなく、混乱する。その時、掛け取りに来ていた両替商の手代に「西向く侍」というのはどうだろうと成瀬勘十郎はいうのである。二、四、六、九、士(武士の士で十一)で、晦日が三十日、それ以外は三十一日というわけである。
手代は、これはいい。これで人々が混乱から救われる、月の晦日を間違えることはないし、西方から来て天下をわがものとした薩長への恨みも忘れることはないだろうと、これを広めることにした、というのである。
わたしも幼い頃にこの言葉を母から習った記憶がある。それで、正しく暦を数えることを覚えた。もちろん、その時は、薩長への恨みなど知る術もなかったが、人々の暮らしのために命がけで奔走した人間も、確かに、明治になってもいただろうと思ったりする。
第四話「遠い砲音」も、「時」に関する話で、一日の時間の数え方までがすっかり変わってしまい、それが変わるということは人の暮らし方が変わるということだから、人々の戸惑いも大きかったに違いない。それまではだいたい2時間おきに刻まれるおおよその時刻で人々は暮らしていたが、時間単位、分単位で行動が決められることになる。
物語は、長門清浦藩の藩主に仕えながら、新政府の近衛砲兵隊の将校として出仕している土江彦蔵を中心として描かれる。四十を過ぎて近衛砲兵として推挙された幸運はあったにせよ、分単位で行動が決められることになかなか馴染めない土江彦蔵は、新しい時間の感覚に馴染めずに、砲兵調練などにはいつも遅刻してしまう。合同調練にも遅刻し、秒単位で時計を合わせるのにもまごつき、ついには訓練中の小隊の上に砲弾を炸裂するという事故まで起こしてしまう。責任を問われるが、その時、指導に当たっていたフランスの大尉が彼をかばう。そして、土江彦蔵が、旧藩主の世話を親身になってしていることをほめて、「軍人の本分は忠節にあり、その忠節を主君に対して常日頃からしておる貴官こそ、あっぱれなる近衛将校だ」と語るのである。
フランスの大尉は、土江彦蔵が仕えている旧藩主に外国語を教えており、どこか浮世離れしたところのある旧藩主が、「ことあるときには、土江を宜しう頼む」と頼んでいたのである。そして、昼の時報を打つ空砲を撃つことを任じられる。相変わらず、ミニウト(分)とセカンド(秒)に追い回される。
その日々の中で、彼をかばったフランスの大尉が帰国することになり、土江彦蔵が仕える旧藩主も同行することになった。旧藩主は、土江彦蔵の息子も連れて行きたいと申し出る。土江彦蔵の忠義に報いたいのだ、と涙ながらに語るのである。仕え、そしてそれに可能な限り報いていく、そうした深い絆がここにはあり、彼らが出立するときに見事に号砲を打っていくのである。彼は、人間が時に支配されるのではなく、時に支配されていく人間でありたいと考えていたのである。新しい時刻表示という生活の根本を変えていくようなことのなかで、昔ながらの矜持をもって生きている人間の爽やかな姿がここに描かれているのである。
第五話「柘榴坂の仇討」は、桜田門外の変(万延元年3月3日-1860年3月24日)のそこの後の物語である。雪が降りしきる中で殺された井伊直弼の駕籠廻りの近習を勤めていた志村金吾は、生き残り、その事件を胸に秘めて、せめて主君の仇を討ちたいと貧乏長屋に潜むようにして暮らしていた。彼の妻は場末の酌婦をしながら生活を支えていた。
そして、明治6年、あの事件から13年の月日が流れ、志村金吾は警視庁を退職した人物からようやく事件を起こした刺客たちのその後の姿を聴くことができた。水戸藩浪人17名と薩摩藩浪人1名の計18名の刺客のうち、その場で斬られたのが2名、事が成ったと自決したものが4名、そして自訴して切腹したものが7名、残りの5名が行くへ不明となっていたのである。その5名も、世に顔を出すこともできずにひたすら雌伏していたという。
その年、仇討ち禁止令が出される。その禁止令を愕然とした思いで聞いていたひとりの車引きがいて、新橋の駅前で偶然にも志村金吾を乗せるのである。やがて、志村金吾は、その車引きが、実は、桜田門外の変の時に井伊直弼の駕籠に向かって偽の直訴状を差し出してきた侍であり、車引きも、その時に柄袋を刀に被させられていたために脇差しを抜いて対峙してきた侍が志村金吾であることを知っていく。お互いに死ぬ覚悟をもって対峙する。車引きは自ら咽をかき切って自死しようとするが、その時に、志村金吾が、「あのとき、掃部頭(かもんのかみ)様は仰せになった。かりそめにも命をかけたる者の訴えを、おろそかには扱うな。・・・掃部頭様はの、よしんばその訴えが命を奪う刀であっても、甘んじて受けるべきと思われたのじゃ。おぬしら水戸者は命をかけた。だからわしは、主の仇といえども、おぬしを斬るわけには参らぬ」(181ページ)と言うのである。
二人の時は、あのときに止まっていたままで、13年の月日を過ごしてきていたのである。そして二人は泣く。
やがて金吾は苦労をかけた妻が酌婦を務める酒場に行き、仇討ち禁止令が出たことを告げると喜び、金吾は、この先は車引きでもすると告げる。金吾の廻りの時が流れはじめ、腕がちぎれ足が折れても、この妻に報いていこうと決心していくのである。
この作品は、短編ながらも奥行きの深い作品だと思う。長い苦節を経てたどり着いた地平で、ひとりの矜持をもって生きてきた男が、妻のために新しい一歩を踏み出す瞬間、その瞬間が切り取られて車引きをする彼の姿が彷彿とさせられる。
表題作ともなっている第六話「五郎治殿後始末」は、明治元年に生まれた曾祖父の思い出を孫が聞き取るという構図で、曾祖父の祖父に当たる岩井五郎治は、桑名藩士で、息子を越後での薩長との戦いで失いながらも桑名に残り、事後処理の勤めを果たしていた。旧藩士の整理で、整理される者たちからは「長州の狗」と軽蔑され、恨まれながらその役を果たしていた。付け髷をつけて見栄えはしないが、温厚で利発な人でもあった。そして、役を退き、政府から与えられる金子も辞退し、家財の一切を売り払い、その金を菩提寺に寄進し、寄る辺ない旧藩士に分け、使用人が生活できるように渡して、同居していた語り手である孫を尾張の母親の実家に帰すように取りはからうのである。
桑名と尾張は、維新の際に尾張が薩長についたために仇敵となったが、五郎治はその仇の尾張の母親の実家に頭を下げるのである。その旅の途上、自分を実家に届けた後で、武士としての矜持を守るために五郎治が自決する覚悟であることを知り、二人で死に場所を探し始める。そして、まさに死なんとするときに、駆けつけていた旅籠の主人によって自決を止められてしまう。旅籠の主人は、参勤交代のおりにお世話になった五郎治をよく知り、度々桑名の家にも訪ねて来ており、旅の途上で見かけて心配になってついてきていたのである。そして、旅籠の主人が命がけで五郎治を説得して、五郎治はその主人の心に感じ、自決をやめるのである。
やがて、五郎治は、その旅籠で仕事をするようになったが、曾祖父をその旅籠に預けてひとり何処かへと行ってしまう。それからしばらくして、西南戦争の年、ひとりの将校が現れて、五郎治の最後を告げる。旧桑名藩主松平定敬(さだあき)も、朝旨に従って西南戦争に出て、五郎治は鳥羽伏見以来の仇を討って、桑名の武士として旧藩主の眼前で死を迎えたという。そして、遺品として、かつて人々から笑われた「付け髷」を渡すのである。
五郎治は、藩の始末をし、家の始末をし、そして、ついに自分の始末も果たした。「決して逃げず、後戻りもせず、あたう限りの最善の方法ですべての始末をする」(228ページ)。男の始末とはそうあらねばならないと作者は語る。「おのれをかたらざることを道徳とし、慎み深く生きる」(231ページ)。それが五郎治の始末だったと語るのである。
人は、いかようにも毅然としていきることができる。「自分ヲカンジョウニ入レズ」あらゆる事を受け止め、世相の中で曲げず、そして騒がず、心に情けをもち、ただひたすらに自分の矩を超えずに与えられている人生を黙々と歩む、そういう姿がこの短編集では江戸から明治へと価値観の何もかもが目まぐるしく変わっていった激動する時代の中で描かれているのである。浅田次郎の時代小説の中には、そういう人間の姿が描き出されていると、いくつかの作品を読んで思う。
浅田次郎『五郎治殿御始末』(2003年 中央公論新社)について記しておこう。これは、再読の形で読んだのだが、幕末から明治維新を経て新しい時代となっていく大混乱期を生きた人々を描いた短編集で、「それぞれの明治維新」とでもいうような作品である。
本書には、「椿寺まで」、「箱舘証文」、「西を向く侍」、「遠い砲音」、「柘榴坂の仇討」、「五郎治殿御始末」の六編が収められている。
最初の「椿寺まで」は、上野での彰義隊の戦いで自ら重症を負いながらも生きのびて、武家を廃して商人となった男が、甲州勝沼で薩長軍と戦って討たれた友人の息子を引き取り、手代として可愛がって、その子を連れて甲州街道を遡って日野の先の高幡にある通称「椿寺」まで出かけていく話である。
息子の母親は、父親が勝沼で討ち死にした後、息子を道連れに自害しようとしたが、そこに駆けつけた男に止められ、男は息子を引き取り、母親は椿寺で尼僧として暮らす生活をしていたのである。明治政府がとった廃仏毀釈の影響もあり、寺の佇まいは貧しく、母親はひっそりと暮らしていた。男は商人にはなったが武士としての矜持も強くもち、何も語らずに息子をそこへ連れて行く。息子は男が元武士であることに気づいたりして、椿寺の寺男の話から事情を聞いて、寺にいる尼僧が自分の母親であるとわかっていくが、親子の名乗りはあげない。
しかし、そこは母と子である。息子は、かつて自分を引き取って育ててくれた男が流したという血の涙を自分も流しているのではないかと思いつつも、時代の向こうにすべてを置いて、新しい時代を健気に生きていこうとするのである。ただ、その寺を去るときに、足下に落ちていた大輪の椿の花をそっと懐に入れて。
第二話「箱舘証文」は、新しい時代になじめない感覚を持ちながらも明治政府の役人として働いていた大河内厚のところへ、ある日、警視庁に勤めているという旧会津藩士の中野伝兵衛が訪ねてくる。中野伝兵衛は、今は名前を渡辺一郎に変えているが、かつて箱舘の戦いの折、徳島藩士であった大河内厚は敵方であった中野伝兵衛と遭遇して、争い、負けて咽元に脇差しを当てられた時、中野伝兵衛から「そこもとの命、千両で売らぬか」と言われて、命の代金としての千両を支払う証文を書いていた。中野伝兵衛は、その千両の掛け取りにやってきたというのである。
一週間の猶予を与えられ、困惑した大河内厚は、かつて尊皇攘夷の志士であり文武を学んだ師である山野方斎を訪ねて相談する。すると、その師の手元に、かつて白河の戦いのおりに中野伝兵衛が自分の命の代金として千両を支払うという証文を山野方斎に書いていたことがわかる。これで双方の命の代金を精算すれば何事もないということになり、大河内厚と山野方斎は中野伝兵衛の家を訪ねる。月給十円という中野伝兵衛の住まいは、貧しく、老いた母と二人の娘があった。中野伝兵衛は、山野方斎がもつ命の代金証文を見て愕然とし、取り立てをやめることを承諾するのに一週間の猶予を求める。
時に、大河内厚が勤める工部省の上役として洋行帰りの若い長州人が赴任し、旧を破壊し、新をめざすことに熱意を燃やす。江戸城を取り巻く門が無用の長物として次々と破壊され牛込の楓門も破壊されようとする。しかし、大河内厚は、意を決して、楓門は武家文化の精神を今に伝えるもので、鉄道建設の傷害となるのであれば、せめてその鉄道が敷かれるまでは待ってくれ、これは武士の命乞いだ、と独り反対するのである。
次の週、大河内厚と山野方斎は中野伝兵衛に会うために出かけ、そこで中野伝兵衛にやくざ者の連れがあることに驚く。そのやくざ者は、今はやくざ稼業に身を落としてしまったが、かつては京都見廻り組で、鳥羽伏見の戦いで山野方斎を組み伏せたときに、ふとばかばかしくなって、山野方斎に命の値段としての千両の借用証書を書かせていたのである。同じ国の人間が争い合うことのばかばかしさ、それが命の値段の借用書書のやりとりだったのである。戦場に倒れた者たちの無念、それが都合三千両の生命の借用書なのである。
そのことをお互いに胸の中で思い知った彼らは、その借用書を焼き捨て、語り合い、大河内厚が、せめて楓御門を残すことに尽力を尽くしたことで、すべてを了簡していくのである。そして、いずれ鉄道が敷かれれば、楓御門は飯田橋の名のみ残して消え去る定めかも知れないが、その時はまた小役人の矜りのかけて抗おうと思っていくのである。
ちなみに、今は、この楓門(牛込門)は、飯田橋駅西口近くに石組みだけが残されたものとなっている。
第三話「西を向く侍」は、有能で暦の専門家として幕府の天文方に出役していた成瀬勘十郎は、新政府に出仕することになっていたが、待命を受けたまま五年の月日を無為に過ごし、その間に養うことができない妻子を甲州の義兄のもとに預け、上地(土地の召し上げ)で棲むところがなくなった隣家の老婆と共に暮らしていた。そのころ明治政府が出していた暦には誤りが多く、成瀬勘十郎はその誤りを修正することで、早く出仕して生活を楽にしたいと願っていた。
明治5年11月9日(西暦1872年12月9日)、明治政府はそれまでの暦を改め、太陽暦によるグレゴリオ暦を採用する改暦詔書を太政官令として発布した。12月2日を大晦日として、翌日の12月3日を明治6年元旦とするというものであった。これによって師走に掛け取りをしていた商人や人々は、師走がわずか2日間しかないのだから大混乱に陥った。
成瀬勘十郎は、自分の家に借金の掛け取りにきた札差(多くは没落したが、新貨幣の両替をする何軒かの札差は残った)から改暦の話を聞き、暦は人々の暮らしに直結し、特に農民にとっては暦に従って暮らしを立てていたのだから、このように改暦すべきではないと憤り、文部省にそれを正に出かける。
文部省の役人たちは成瀬勘十郎の暦に対する専門知識についてはよく知っており、成瀬勘十郎は、この度の改暦が官員の俸給を削減するためのものではないかと指摘したりする。だが、時の文部卿は、太陽暦が採用されればおぬしはお役御免になるのを心配しているとか、西洋暦も知っているので待命を解いて雇用せよとかいうのだろうと矮小なことしか言わない。
成瀬勘十郎は、論を尽くし、涙を流しながら、「西洋の法に準ずるは世の趨勢ではござるが、日本政府はあくまで固有なる日本人のために、政を致さねばなり申さぬ。外交や交易、ましてや財政難を理由に突然の改暦をなさしめて国民を混乱に陥れるなど、いかにも小人の政にござる」(101-102ページ)と訴える。
しかし、文部省は何も答えす、成瀬勘十郎は、帰りに古道具屋で家宝の刀を売り、借財を返済して老婆を老婆の家族のいる駿府へ送り、自分は甲府に行くという。一年が三百六十五日で、大の月が一、三、五、十、十二で、晦日が月ごとに変わっていく。馴染みがなく、混乱する。その時、掛け取りに来ていた両替商の手代に「西向く侍」というのはどうだろうと成瀬勘十郎はいうのである。二、四、六、九、士(武士の士で十一)で、晦日が三十日、それ以外は三十一日というわけである。
手代は、これはいい。これで人々が混乱から救われる、月の晦日を間違えることはないし、西方から来て天下をわがものとした薩長への恨みも忘れることはないだろうと、これを広めることにした、というのである。
わたしも幼い頃にこの言葉を母から習った記憶がある。それで、正しく暦を数えることを覚えた。もちろん、その時は、薩長への恨みなど知る術もなかったが、人々の暮らしのために命がけで奔走した人間も、確かに、明治になってもいただろうと思ったりする。
第四話「遠い砲音」も、「時」に関する話で、一日の時間の数え方までがすっかり変わってしまい、それが変わるということは人の暮らし方が変わるということだから、人々の戸惑いも大きかったに違いない。それまではだいたい2時間おきに刻まれるおおよその時刻で人々は暮らしていたが、時間単位、分単位で行動が決められることになる。
物語は、長門清浦藩の藩主に仕えながら、新政府の近衛砲兵隊の将校として出仕している土江彦蔵を中心として描かれる。四十を過ぎて近衛砲兵として推挙された幸運はあったにせよ、分単位で行動が決められることになかなか馴染めない土江彦蔵は、新しい時間の感覚に馴染めずに、砲兵調練などにはいつも遅刻してしまう。合同調練にも遅刻し、秒単位で時計を合わせるのにもまごつき、ついには訓練中の小隊の上に砲弾を炸裂するという事故まで起こしてしまう。責任を問われるが、その時、指導に当たっていたフランスの大尉が彼をかばう。そして、土江彦蔵が、旧藩主の世話を親身になってしていることをほめて、「軍人の本分は忠節にあり、その忠節を主君に対して常日頃からしておる貴官こそ、あっぱれなる近衛将校だ」と語るのである。
フランスの大尉は、土江彦蔵が仕えている旧藩主に外国語を教えており、どこか浮世離れしたところのある旧藩主が、「ことあるときには、土江を宜しう頼む」と頼んでいたのである。そして、昼の時報を打つ空砲を撃つことを任じられる。相変わらず、ミニウト(分)とセカンド(秒)に追い回される。
その日々の中で、彼をかばったフランスの大尉が帰国することになり、土江彦蔵が仕える旧藩主も同行することになった。旧藩主は、土江彦蔵の息子も連れて行きたいと申し出る。土江彦蔵の忠義に報いたいのだ、と涙ながらに語るのである。仕え、そしてそれに可能な限り報いていく、そうした深い絆がここにはあり、彼らが出立するときに見事に号砲を打っていくのである。彼は、人間が時に支配されるのではなく、時に支配されていく人間でありたいと考えていたのである。新しい時刻表示という生活の根本を変えていくようなことのなかで、昔ながらの矜持をもって生きている人間の爽やかな姿がここに描かれているのである。
第五話「柘榴坂の仇討」は、桜田門外の変(万延元年3月3日-1860年3月24日)のそこの後の物語である。雪が降りしきる中で殺された井伊直弼の駕籠廻りの近習を勤めていた志村金吾は、生き残り、その事件を胸に秘めて、せめて主君の仇を討ちたいと貧乏長屋に潜むようにして暮らしていた。彼の妻は場末の酌婦をしながら生活を支えていた。
そして、明治6年、あの事件から13年の月日が流れ、志村金吾は警視庁を退職した人物からようやく事件を起こした刺客たちのその後の姿を聴くことができた。水戸藩浪人17名と薩摩藩浪人1名の計18名の刺客のうち、その場で斬られたのが2名、事が成ったと自決したものが4名、そして自訴して切腹したものが7名、残りの5名が行くへ不明となっていたのである。その5名も、世に顔を出すこともできずにひたすら雌伏していたという。
その年、仇討ち禁止令が出される。その禁止令を愕然とした思いで聞いていたひとりの車引きがいて、新橋の駅前で偶然にも志村金吾を乗せるのである。やがて、志村金吾は、その車引きが、実は、桜田門外の変の時に井伊直弼の駕籠に向かって偽の直訴状を差し出してきた侍であり、車引きも、その時に柄袋を刀に被させられていたために脇差しを抜いて対峙してきた侍が志村金吾であることを知っていく。お互いに死ぬ覚悟をもって対峙する。車引きは自ら咽をかき切って自死しようとするが、その時に、志村金吾が、「あのとき、掃部頭(かもんのかみ)様は仰せになった。かりそめにも命をかけたる者の訴えを、おろそかには扱うな。・・・掃部頭様はの、よしんばその訴えが命を奪う刀であっても、甘んじて受けるべきと思われたのじゃ。おぬしら水戸者は命をかけた。だからわしは、主の仇といえども、おぬしを斬るわけには参らぬ」(181ページ)と言うのである。
二人の時は、あのときに止まっていたままで、13年の月日を過ごしてきていたのである。そして二人は泣く。
やがて金吾は苦労をかけた妻が酌婦を務める酒場に行き、仇討ち禁止令が出たことを告げると喜び、金吾は、この先は車引きでもすると告げる。金吾の廻りの時が流れはじめ、腕がちぎれ足が折れても、この妻に報いていこうと決心していくのである。
この作品は、短編ながらも奥行きの深い作品だと思う。長い苦節を経てたどり着いた地平で、ひとりの矜持をもって生きてきた男が、妻のために新しい一歩を踏み出す瞬間、その瞬間が切り取られて車引きをする彼の姿が彷彿とさせられる。
表題作ともなっている第六話「五郎治殿後始末」は、明治元年に生まれた曾祖父の思い出を孫が聞き取るという構図で、曾祖父の祖父に当たる岩井五郎治は、桑名藩士で、息子を越後での薩長との戦いで失いながらも桑名に残り、事後処理の勤めを果たしていた。旧藩士の整理で、整理される者たちからは「長州の狗」と軽蔑され、恨まれながらその役を果たしていた。付け髷をつけて見栄えはしないが、温厚で利発な人でもあった。そして、役を退き、政府から与えられる金子も辞退し、家財の一切を売り払い、その金を菩提寺に寄進し、寄る辺ない旧藩士に分け、使用人が生活できるように渡して、同居していた語り手である孫を尾張の母親の実家に帰すように取りはからうのである。
桑名と尾張は、維新の際に尾張が薩長についたために仇敵となったが、五郎治はその仇の尾張の母親の実家に頭を下げるのである。その旅の途上、自分を実家に届けた後で、武士としての矜持を守るために五郎治が自決する覚悟であることを知り、二人で死に場所を探し始める。そして、まさに死なんとするときに、駆けつけていた旅籠の主人によって自決を止められてしまう。旅籠の主人は、参勤交代のおりにお世話になった五郎治をよく知り、度々桑名の家にも訪ねて来ており、旅の途上で見かけて心配になってついてきていたのである。そして、旅籠の主人が命がけで五郎治を説得して、五郎治はその主人の心に感じ、自決をやめるのである。
やがて、五郎治は、その旅籠で仕事をするようになったが、曾祖父をその旅籠に預けてひとり何処かへと行ってしまう。それからしばらくして、西南戦争の年、ひとりの将校が現れて、五郎治の最後を告げる。旧桑名藩主松平定敬(さだあき)も、朝旨に従って西南戦争に出て、五郎治は鳥羽伏見以来の仇を討って、桑名の武士として旧藩主の眼前で死を迎えたという。そして、遺品として、かつて人々から笑われた「付け髷」を渡すのである。
五郎治は、藩の始末をし、家の始末をし、そして、ついに自分の始末も果たした。「決して逃げず、後戻りもせず、あたう限りの最善の方法ですべての始末をする」(228ページ)。男の始末とはそうあらねばならないと作者は語る。「おのれをかたらざることを道徳とし、慎み深く生きる」(231ページ)。それが五郎治の始末だったと語るのである。
人は、いかようにも毅然としていきることができる。「自分ヲカンジョウニ入レズ」あらゆる事を受け止め、世相の中で曲げず、そして騒がず、心に情けをもち、ただひたすらに自分の矩を超えずに与えられている人生を黙々と歩む、そういう姿がこの短編集では江戸から明治へと価値観の何もかもが目まぐるしく変わっていった激動する時代の中で描かれているのである。浅田次郎の時代小説の中には、そういう人間の姿が描き出されていると、いくつかの作品を読んで思う。
2011年11月14日月曜日
坂岡真『うぽっぽ同心十手裁き 狩り蜂』
週末から今日にかけて陽射しが差す比較的温かい天気になっている。ただ、月曜日の朝というものは、いつもだいたい何となく身体の怠さを覚えるので、どこかに出かけたいと思いつつも億劫さを感じたりする。やはり、体力勝負のようなところがあるなぁ、と思ってしまう。コーヒーでも入れて、気分を変えてみよう。
先日、坂岡真『うぽっぽ同心十手裁き 狩り蜂』(2010年 徳間文庫)を気楽に読んでいたので記しておくことにする。このシリーズには『十手綴り』と『十手裁き』の二つのシリーズがあり、『十手裁き』の方は、『十手綴り』の続編になっていて、あまり役に立たずに歩き廻ることだけが能であることから「うぽっぽ」と渾名されている主人公の長尾勘兵衛の、欲もなく情に厚い姿が結構気に入っていて、よく読んでいる。
『十手綴り』の方は、主人公の長尾勘兵衛は奉行所の定町廻り同心であり、妻の靜は幼い娘を残して理由がわからないままに出奔し、勘兵衛はその苦悩を抱えているが、『十手裁き』では、定町廻りから臨時廻りで、還暦間近であり、出奔した妻の靜がある日突然帰って来て、その妻の心情をいたわりながら関わっていく事件の解決を図っていくというもので、一人娘の綾乃も彼の後輩で好人物の同心と結婚し、孫の綾をそれこそ「目の中に入れても痛くない」ほど可愛がる好々爺ぶりを発揮する設定になっている。
本書では、往来で人目も憚らずに地蔵を抱いて嗚咽するひとりの女性を見かけたことから、この女性が後添えとして入った料理屋で亭主が何者かに殺されるという事件に勘兵衛がかかわっていくという「狩り蜂」と、義賊として強盗に入った者が無惨に殺されたことから、裏で窩主(けいず)買い(盗品の売買)をしている骨董商の存在があることを明らかにし、その骨董商と奉行所同心の結託も明らかにしてそれを討ち取っていくという「あやかり神」、災害の時などに出されるお救い小屋の献上金の一部を私腹していた奉行所の町会所見廻り与力とそれに絡んだ高利貸しの跡目争いの事件に巻き込まれた子だくさんの貧乏武士を救って不正をただしていく「弓煎筋の侍」の三話が収められている。
いずれも、欲と権力が引き起こしていく出来事の中で巻き込まれていく弱者の側に立って、その欲と権力の正体を暴いていくという筋書きであるが、日常の「うぽっぽぶり」が巧みに描かれながら、どうしようもないところで生きている人間お姿もあり、面白く読めるものになっている。このシリーズの作品は、大体において権力にあぐらをかいて強欲ぶりを発揮する人間に対して、「うぽっぽ」と呼ばれながらもその悪を暴いていくという構図が取られているが、どの作品でも、その作品の良さが、複線の良さにあって、たとえば「狩り蜂」では、地蔵を抱いて泣いていた女性が、実はかつて尾張の御金蔵破りをするために手引きとして使われた女性で、強盗の手引きのために鍵番の役人と夫婦になったが、夫を愛するようになり子どもまでもうけ、しかもその子どもを強盗団の一味によって殺すように強要され、その失った子への業火に焼かれ続けている女性であったり、義賊として腹黒い骨董商に忍び込んで殺された強盗の家族が、かつて勘兵衛に助けられて裏店の家作をもって徳の高い人物になっている強盗の友人で、友人を殺した骨董商に一泡吹かせるのを勘兵衛が見逃したりしている。
また、「弓煎筋の侍」では、事件に巻き込まれる侍が、上役が押しつける娘との縁談を断って、愛する者と結婚したために、上役ににらまれ、お役御免となり、多くの子どもたちを抱えながら貧しい生活を余儀なくされ、矜持をもっていながらも刀を質に出し、娘を売らざるを得なくなり、それを勘兵衛が止めて、家族が住めるように裏店を世話したりする。
こういう展開が、本書の妙味で、このシリーズ全体の面白さを醸し出しているし、出奔し、ようやく帰って来た妻を案じ、おろおろしながらも大事にしていこうとする勘兵衛の姿が描き出されて、妙味を加えているのである。ただ、よけいなお世話ではあるが。シリーズも長くなっているので、そろそろ完結してもいい気がしないでもない。
先日、坂岡真『うぽっぽ同心十手裁き 狩り蜂』(2010年 徳間文庫)を気楽に読んでいたので記しておくことにする。このシリーズには『十手綴り』と『十手裁き』の二つのシリーズがあり、『十手裁き』の方は、『十手綴り』の続編になっていて、あまり役に立たずに歩き廻ることだけが能であることから「うぽっぽ」と渾名されている主人公の長尾勘兵衛の、欲もなく情に厚い姿が結構気に入っていて、よく読んでいる。
『十手綴り』の方は、主人公の長尾勘兵衛は奉行所の定町廻り同心であり、妻の靜は幼い娘を残して理由がわからないままに出奔し、勘兵衛はその苦悩を抱えているが、『十手裁き』では、定町廻りから臨時廻りで、還暦間近であり、出奔した妻の靜がある日突然帰って来て、その妻の心情をいたわりながら関わっていく事件の解決を図っていくというもので、一人娘の綾乃も彼の後輩で好人物の同心と結婚し、孫の綾をそれこそ「目の中に入れても痛くない」ほど可愛がる好々爺ぶりを発揮する設定になっている。
本書では、往来で人目も憚らずに地蔵を抱いて嗚咽するひとりの女性を見かけたことから、この女性が後添えとして入った料理屋で亭主が何者かに殺されるという事件に勘兵衛がかかわっていくという「狩り蜂」と、義賊として強盗に入った者が無惨に殺されたことから、裏で窩主(けいず)買い(盗品の売買)をしている骨董商の存在があることを明らかにし、その骨董商と奉行所同心の結託も明らかにしてそれを討ち取っていくという「あやかり神」、災害の時などに出されるお救い小屋の献上金の一部を私腹していた奉行所の町会所見廻り与力とそれに絡んだ高利貸しの跡目争いの事件に巻き込まれた子だくさんの貧乏武士を救って不正をただしていく「弓煎筋の侍」の三話が収められている。
いずれも、欲と権力が引き起こしていく出来事の中で巻き込まれていく弱者の側に立って、その欲と権力の正体を暴いていくという筋書きであるが、日常の「うぽっぽぶり」が巧みに描かれながら、どうしようもないところで生きている人間お姿もあり、面白く読めるものになっている。このシリーズの作品は、大体において権力にあぐらをかいて強欲ぶりを発揮する人間に対して、「うぽっぽ」と呼ばれながらもその悪を暴いていくという構図が取られているが、どの作品でも、その作品の良さが、複線の良さにあって、たとえば「狩り蜂」では、地蔵を抱いて泣いていた女性が、実はかつて尾張の御金蔵破りをするために手引きとして使われた女性で、強盗の手引きのために鍵番の役人と夫婦になったが、夫を愛するようになり子どもまでもうけ、しかもその子どもを強盗団の一味によって殺すように強要され、その失った子への業火に焼かれ続けている女性であったり、義賊として腹黒い骨董商に忍び込んで殺された強盗の家族が、かつて勘兵衛に助けられて裏店の家作をもって徳の高い人物になっている強盗の友人で、友人を殺した骨董商に一泡吹かせるのを勘兵衛が見逃したりしている。
また、「弓煎筋の侍」では、事件に巻き込まれる侍が、上役が押しつける娘との縁談を断って、愛する者と結婚したために、上役ににらまれ、お役御免となり、多くの子どもたちを抱えながら貧しい生活を余儀なくされ、矜持をもっていながらも刀を質に出し、娘を売らざるを得なくなり、それを勘兵衛が止めて、家族が住めるように裏店を世話したりする。
こういう展開が、本書の妙味で、このシリーズ全体の面白さを醸し出しているし、出奔し、ようやく帰って来た妻を案じ、おろおろしながらも大事にしていこうとする勘兵衛の姿が描き出されて、妙味を加えているのである。ただ、よけいなお世話ではあるが。シリーズも長くなっているので、そろそろ完結してもいい気がしないでもない。
2011年11月11日金曜日
芦川淳一『おいらか俊作江戸綴り 雪消水』
立冬を過ぎて、このところ寒い日々が続いている。今日は冷たい雨が降り続いて、気温が低く、まさに冬の到来を感じさせる日になっている。その内、小春日和とかインディアンサマーとか呼ばれる暖かい日も訪れるだろうが、冬に向かっての歩みが一歩ずつ進んでいる気がする。このところ外出が多かったのと急激な気温の低下に身体がついていかないのだろう、少々風邪気味の気配がある。まあ。毎年今頃一度は風邪を引くのだから、通常通りであるに違いない。
硬質の葉室麟を読んでいたので、昨夜は少し軽いものをと思って、芦川淳一『おいらか俊作江戸綴り 雪消水(ゆきげみず)』(2010年 双葉文庫)を読んだ。この作者のこのシリーズの作品は前に『猫の匂いのする侍』(2009年 双葉文庫)と『惜別の剣』(2009年 双葉文庫)の2冊だけを読んでいたが、これはこのシリーズの完結編で、作者によるあとがきも記されている。
のんびりと春の日だまりのような気性故に「おいらか」と渾名される主人公の若い滝沢俊作が、藩の内紛に絡んで浪人となり、江戸の裏店で同じ浪人である荒垣助左衛門とともに用心棒稼業などをして糊口を潤しながら、自らが巻き込まれた藩の内紛に決着をつけていくというもので、想いを寄せていた女性が藩の権力を握ろうとした家老が使う隠密であったり、その女性が命をかけて彼を守ろうとして、やがて自害したり、主人公の新しい恋の行くへが展開されたりするという、最近の時代小説の浪人ものの典型のような作品である。
本書では、盗みに入った武家屋敷で殺されかけていた子どもを助けた人のよい盗人が、主人公の滝沢俊作や荒垣助左衛門の噂を聞きつけて、子どもの救済を頼むために彼らが住む長屋の屋根から落ちて来るところから始まり、殺されようとした子どもの武家屋敷では、祈祷師が幅を利かせて、このままでは災難が起こると脅して母親に子どもを殺させてお家の乗っ取りを謀ろうとすることが明らかになって、滝沢俊作と荒垣助左衛門、そして剣術道場を隠居して彼らの用心棒稼業の世話などをしている桑山茂兵衛らと一計を案じてその祈祷師を討ち取り、子どもが無事に育てられるようにしていくという第一章「千里眼」や、桑山茂兵衛を逆恨みした男の計略や、滝沢俊作が藩の内紛騒ぎで倒した隠密の復讐やらが記されている。
話の展開に少しリアリティーを欠くところがあって、たとえば、第一章「千里眼」で、祈祷師にたぶらかされて武家の母親が我が子に手をかけようとするということなど、いくら江戸時代の人々が信心深かったとは言え、呪いを信じて我が子を手にかける母親の姿などは、どうもいまひとつ足りない気がしないでもない。たとえば、祈祷師が美男で、母親を手籠めにして、手籠めにされた母親がその愛欲に狂っていくというストーリー展開だとまだいいのに、と思ったりする。そうでなければ武家屋敷に祈祷師が居着くということが少し考えられず、また、いかに気弱な主人であろうとも武家の後継ぎである子を母親が手にかけるような事態になるには、もうすこし陰湿なものがあった方がよいと思ったりする。あるいは、主人公の滝沢俊作は、お世話になった医者の手助けなどをし、その医者の娘に想いを寄せていくようになり、やがて医者の弟子となって人生を歩み始めるのだが、かつて想いを寄せていた女性が彼を守るために自死したことの重みが当然あるはずなのだが、まるでそのことがなかったかのように恋が展開されるところなど、どこか軽さを感じてしまうのである。俊作の「おいらかぶり」も何か物足りなくて、ただまっすぐな性格を持つ青年武士という筆致で描かれている気がしないでもない。
重荷を抱え、問題を抱えつつも、なお「おいらか」であること、そういう姿を期待するが、娯楽作品としても、やはり人間に対する洞察の深みと感動が必要で、シリーズの完結としてはいささか不満が残った。
作者はあとがきで、別の作品に取り組む旨を記しておられるので、また、主人公が全く異なるような別の作品に取りかかられることを期待するし、時代小説であるのだから背景となる歴史と社会についての深い洞察のある作品を期待する。出版社の意図もあるだろうが、時流に乗った設定はもういいのではないだろうか。ただ、この作品は、風邪気味の弱った体力の中で読むには、気骨もいらないし、ちょうどよいのかも知れない。きょうはちょっと辛口になってしまった。
硬質の葉室麟を読んでいたので、昨夜は少し軽いものをと思って、芦川淳一『おいらか俊作江戸綴り 雪消水(ゆきげみず)』(2010年 双葉文庫)を読んだ。この作者のこのシリーズの作品は前に『猫の匂いのする侍』(2009年 双葉文庫)と『惜別の剣』(2009年 双葉文庫)の2冊だけを読んでいたが、これはこのシリーズの完結編で、作者によるあとがきも記されている。
のんびりと春の日だまりのような気性故に「おいらか」と渾名される主人公の若い滝沢俊作が、藩の内紛に絡んで浪人となり、江戸の裏店で同じ浪人である荒垣助左衛門とともに用心棒稼業などをして糊口を潤しながら、自らが巻き込まれた藩の内紛に決着をつけていくというもので、想いを寄せていた女性が藩の権力を握ろうとした家老が使う隠密であったり、その女性が命をかけて彼を守ろうとして、やがて自害したり、主人公の新しい恋の行くへが展開されたりするという、最近の時代小説の浪人ものの典型のような作品である。
本書では、盗みに入った武家屋敷で殺されかけていた子どもを助けた人のよい盗人が、主人公の滝沢俊作や荒垣助左衛門の噂を聞きつけて、子どもの救済を頼むために彼らが住む長屋の屋根から落ちて来るところから始まり、殺されようとした子どもの武家屋敷では、祈祷師が幅を利かせて、このままでは災難が起こると脅して母親に子どもを殺させてお家の乗っ取りを謀ろうとすることが明らかになって、滝沢俊作と荒垣助左衛門、そして剣術道場を隠居して彼らの用心棒稼業の世話などをしている桑山茂兵衛らと一計を案じてその祈祷師を討ち取り、子どもが無事に育てられるようにしていくという第一章「千里眼」や、桑山茂兵衛を逆恨みした男の計略や、滝沢俊作が藩の内紛騒ぎで倒した隠密の復讐やらが記されている。
話の展開に少しリアリティーを欠くところがあって、たとえば、第一章「千里眼」で、祈祷師にたぶらかされて武家の母親が我が子に手をかけようとするということなど、いくら江戸時代の人々が信心深かったとは言え、呪いを信じて我が子を手にかける母親の姿などは、どうもいまひとつ足りない気がしないでもない。たとえば、祈祷師が美男で、母親を手籠めにして、手籠めにされた母親がその愛欲に狂っていくというストーリー展開だとまだいいのに、と思ったりする。そうでなければ武家屋敷に祈祷師が居着くということが少し考えられず、また、いかに気弱な主人であろうとも武家の後継ぎである子を母親が手にかけるような事態になるには、もうすこし陰湿なものがあった方がよいと思ったりする。あるいは、主人公の滝沢俊作は、お世話になった医者の手助けなどをし、その医者の娘に想いを寄せていくようになり、やがて医者の弟子となって人生を歩み始めるのだが、かつて想いを寄せていた女性が彼を守るために自死したことの重みが当然あるはずなのだが、まるでそのことがなかったかのように恋が展開されるところなど、どこか軽さを感じてしまうのである。俊作の「おいらかぶり」も何か物足りなくて、ただまっすぐな性格を持つ青年武士という筆致で描かれている気がしないでもない。
重荷を抱え、問題を抱えつつも、なお「おいらか」であること、そういう姿を期待するが、娯楽作品としても、やはり人間に対する洞察の深みと感動が必要で、シリーズの完結としてはいささか不満が残った。
作者はあとがきで、別の作品に取り組む旨を記しておられるので、また、主人公が全く異なるような別の作品に取りかかられることを期待するし、時代小説であるのだから背景となる歴史と社会についての深い洞察のある作品を期待する。出版社の意図もあるだろうが、時流に乗った設定はもういいのではないだろうか。ただ、この作品は、風邪気味の弱った体力の中で読むには、気骨もいらないし、ちょうどよいのかも知れない。きょうはちょっと辛口になってしまった。
2011年11月9日水曜日
葉室麟『いのちなりけり』(4)
気温の低い肌寒い日になった。書きかけている葉室麟『いのりなりけり』を書き終えようと慌ただしい時間の中でパソコンの前に坐っている。書けば書くほど様々なことが思い浮かんでくる。それだけ良質の作品だと言うことだろう。
その『いのちなりけり』の続きであるが、中院通茂のもとで働くことになった雨宮蔵人は、否応なく霊元天皇の後継者争いで起こった小倉事件に巻き込まれていくことになる。本書では小倉事件の詳細が述べられているのではないが、公然と天皇と幕府を罵倒した中院通茂を江戸幕府は快く思わず、老中柳沢保明がかつて蔵人を追いかけていた剣客の巴十太夫らの手の者を隠密として送り込んできたりして、雨宮蔵人は中院邸の警護を任じられたりするのである。そこには、公家どうしの勢力争いもあり、幕府と朝廷の微妙な関係が影を落としていくのである。また、徳川綱吉が母親の桂昌院(徳川家光の側室お玉)のために叙位を受けることを願い出て、それを朝廷側が渋ったこととも関係してくる。
他方、江戸では水戸光圀の側近藤井紋太夫が徳川綱吉の光圀嫌いを案じて隠居を勧め、その裁可が下りるように光圀と対立していた老中柳沢保明に会ったりして、光圀は、遂に隠居し、隠棲する。
また、柳沢保明は、水戸光圀を排除するために、光圀と親しい佐賀藩主鍋島光茂が幕府を批判した中院通茂から古今伝授を受けることに、それが朝廷と結びつき幕府に謀反することになるという言いがかりの噂を出したりする。さらに、柳沢保明は、小城藩で起こった家老の天源寺行部が暗殺された事件を表沙汰にして、これを幕府評議所にかけ、鍋島光茂の古今伝授とあわせて謀反の企みとして暴き、中院通茂と親交の深い水戸光圀がその手配をしているということで水戸光圀を糾弾する企みをもっていたのである。そして、将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」に対して辛らつな批判をした光圀の立場はますます悪くなり、藤井紋太夫は、それを押さえるために柳沢保明に賄賂を贈る。そして、水戸藩を救ったが光圀の意を損なったということで光圀が断罪するのである。
そのため、柳沢保明は、小城藩の不祥事の証人である雨宮蔵人を捕らえようとするし、柳沢保明の陰謀を砕くために、水戸光圀と鍋島元武は、証人となる雨宮蔵人をなきものにしようと巴十太夫を使うことにする。巴十太夫は、かつての剣術師範の地位を得るために、ある時は柳沢に、またあるときは水戸光圀の意を受けた鍋島元武に使われていくが、雨宮蔵人はすべてを敵に囲まれた四面楚歌の状態に置かれるのである。光圀は、自分の奥女中として仕える咲弥の想い人が雨宮蔵人であることを知って、彼女を使って雨宮蔵人を江戸におびき寄せようとする。
水戸光圀が咲弥を使って雨宮蔵人を江戸におびきよせようとしていることを知った光圀の家臣である佐々介三郎(宗淳-助さん)と安積覚兵衛(格さん)は、咲弥とも親しいし、光圀が鍋島藩の内情に関与してひとりの武士を抹殺したということになれば、大変な事態になると考え、相談して、水戸藩邸ではなく上野の寛永寺に来るように手配することにする。その書状を飛脚問屋の亀屋のお初に依頼する。
お初は、かつて摂津湊川で雨宮蔵人に助けられた娘で、あの事件以来、父親の小八兵衛とともに江戸に出てきて飛脚問屋を営んでいるのであった。このお初が、蔵人と咲弥のために一役買っていくが、雨宮蔵人を江戸で待ち受けているのは、ただ窮地の罠である。柳沢側からも水戸光圀や鍋島家からも狙われる。しかし、蔵人は、ただ、自分が愛する咲弥に会うためだけに、窮地に陥ることを十分に承知の上で江戸へと向かうのである。咲弥も光圀の意図を知っていた。しかし、武家には守らなければならないものがあるし、蔵人が江戸で死を迎えることになるなら自分も死ぬ覚悟でいた。
雨宮蔵人はひたすら咲弥に会うために江戸へ向かう。途中、何度も巴十太夫が放った刺客に襲われるが、窮地を脱して、ようやく江戸の飛脚問屋亀屋へたどり着く。亀屋の女主人のお初は、なんとかして咲弥と会わせようとするが、咲弥がいる水戸藩邸に出向いたときに人質として巴十太夫に捕らわれてしまい、蔵人と咲弥が会うことになっている前日の夜に蔵人は、両国橋に呼び出される。
蔵人は両国橋に赴き、お初を助け、巴十太夫と死闘を繰り広げる。そして、背中を槍で刺され、大川(隅田川)に転落してしまう。約束の刻限が来ても、蔵人の姿は上野の寛永寺には現れない。寛永寺の門前には蔵人を討つ命を受けた水戸藩士が見張っている。もはや、蔵人が寛永寺に来ることは不可能に思える。だが、咲弥は待ち続ける。そして、ようやく、独りの武士が足を引きづりながら現れる。
ここが、本書の一番の山場であるから、抜き出しておこう。
「蔵人の姿はひどくみすぼらしかった。水に濡れ、よく乾かぬままの着物には返り血らしいものがとんでいた。さらに着物や袴のあちこちが避けている。
しかも蔵人は頭に血が滲んだ白い布を巻いていた。着物の下にも傷口を押さえるためにか布を巻いているようだった。腰には脇差しを差しているだけだった。蔵人が激しい戦いを行ってきたことは誰の目にも明らかだった。
蔵人の顔は出血のために青ざめていた。ゆっくり一歩ずつ歩いてくるが、待ち構えていた水戸家の武士たちも、気を飲まれたように動くことができなかった。
蔵人にはそんな武士たちの姿が目に入らぬようである。
門に立つ咲弥の姿を見て微笑した。
・・・・・・・・・
蔵人にもはや戦う力が残っていないことは明らかだった。それでも蔵人の歩みは止まらないのだ。
・・・・・・・・・
蔵人は男達の前をゆっくりと咲弥に向かって歩いていった。咲弥の前に立った蔵人は苦しげだったが頭を下げて、
「遅くなりました、申し訳ござらぬ」
「本当に、十七年は待たせすぎです」
咲弥の目には光るものがあった。
「されど、咲弥殿との約束は果たせましたぞ」
蔵人は嬉しげに笑った。
「さよう-」
咲弥はうなずいて口にした。
春ごとに花のさかりはありなめど
蔵人が手紙に書いてきた和歌の上の句である。
・・・・・・蔵人はあえぎながらも咲弥に続いて詠じた。
あひ見むことはいのちなりけり
蔵人は崩れ落ちるように倒れた。
「蔵人殿―」
咲弥が蔵人を抱えた。咲弥の胸に抱かれた蔵人は穏やかな微笑を浮かべていた。
寛永寺の桜はこの日、真っ盛りである。上野の山を春霞と見紛う桜が覆っていた」(文庫版277-279ページ)。
まさに圧巻という他はない。作者はこの場面が描きたくて、長い物語を書いたのではないかと思われるほど、この場面は感動的である。ふと、五味川純平の『人間の条件』のラストシーンを思い起こした。『人間の条件』の主人公は、敗戦後の凍てつく荒涼とした満州の原野の中を、飢えと疲労と寒さで死にかけつつも、もはや凍りついてしまった一握りの饅頭を、「みちこ、みちこ」と愛する者の名を呼びながら、「お土産だ」と握りしめて、ただひたすらに愛する者に向かって歩みを続けていくのである。そして、原野の中で倒れ、その上を白い雪が覆っていく。
『いのちなりけり』の雨宮蔵人も、彼を討ち取ろうとする武士たちの中を傷つきよれよれになりながら、ただひとり愛する者にむかって歩んでいく。そして、穏やかに微笑して倒れるのである。それは、まさに「いのちなりけり」以外の何ものでもない。
この後、少し事後譚が記され、京都の中院通茂から寛永寺の輪王寺宮に元へ蔵人の庇護を願う手紙をもった佐々介三郎の計らいで、蔵人と咲弥は寛永寺で庇護され、その後、蔵人と咲弥は京都へ向かい、柳沢保明の命を受けて動いていた黒滝五郎兵衛が京へ向かう途中の雨宮蔵人を待ち受けて、蔵人と対決し、蔵人は五郎兵衛の命を受け取ると語って五郎兵衛を倒すのである。島原の乱以来佐賀藩に恨みを抱いていた五郎兵衛は雨宮蔵人のような人間に討たれて死を迎えたことに満足するのである。
この物語は、どちらが正義とはいえないような醜い権力争いに否応なく巻き込まれて人生を変転させながらも、矜持をもってただひたすらに愛する者への愛を貫いた人間の物語である。歴史上の人物と事件に中に主人公を置いて、その中を翻弄されながらも、ひたむきに生きる人間の姿を描いた物語であり、貫くものが愛する者への深い愛情であるだけに、まことに尊い生き方を示した物語になっていて、深い感動をもって読み終わった。葉室麟の代表的作品になるだろうと思う。
その『いのちなりけり』の続きであるが、中院通茂のもとで働くことになった雨宮蔵人は、否応なく霊元天皇の後継者争いで起こった小倉事件に巻き込まれていくことになる。本書では小倉事件の詳細が述べられているのではないが、公然と天皇と幕府を罵倒した中院通茂を江戸幕府は快く思わず、老中柳沢保明がかつて蔵人を追いかけていた剣客の巴十太夫らの手の者を隠密として送り込んできたりして、雨宮蔵人は中院邸の警護を任じられたりするのである。そこには、公家どうしの勢力争いもあり、幕府と朝廷の微妙な関係が影を落としていくのである。また、徳川綱吉が母親の桂昌院(徳川家光の側室お玉)のために叙位を受けることを願い出て、それを朝廷側が渋ったこととも関係してくる。
他方、江戸では水戸光圀の側近藤井紋太夫が徳川綱吉の光圀嫌いを案じて隠居を勧め、その裁可が下りるように光圀と対立していた老中柳沢保明に会ったりして、光圀は、遂に隠居し、隠棲する。
また、柳沢保明は、水戸光圀を排除するために、光圀と親しい佐賀藩主鍋島光茂が幕府を批判した中院通茂から古今伝授を受けることに、それが朝廷と結びつき幕府に謀反することになるという言いがかりの噂を出したりする。さらに、柳沢保明は、小城藩で起こった家老の天源寺行部が暗殺された事件を表沙汰にして、これを幕府評議所にかけ、鍋島光茂の古今伝授とあわせて謀反の企みとして暴き、中院通茂と親交の深い水戸光圀がその手配をしているということで水戸光圀を糾弾する企みをもっていたのである。そして、将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」に対して辛らつな批判をした光圀の立場はますます悪くなり、藤井紋太夫は、それを押さえるために柳沢保明に賄賂を贈る。そして、水戸藩を救ったが光圀の意を損なったということで光圀が断罪するのである。
そのため、柳沢保明は、小城藩の不祥事の証人である雨宮蔵人を捕らえようとするし、柳沢保明の陰謀を砕くために、水戸光圀と鍋島元武は、証人となる雨宮蔵人をなきものにしようと巴十太夫を使うことにする。巴十太夫は、かつての剣術師範の地位を得るために、ある時は柳沢に、またあるときは水戸光圀の意を受けた鍋島元武に使われていくが、雨宮蔵人はすべてを敵に囲まれた四面楚歌の状態に置かれるのである。光圀は、自分の奥女中として仕える咲弥の想い人が雨宮蔵人であることを知って、彼女を使って雨宮蔵人を江戸におびき寄せようとする。
水戸光圀が咲弥を使って雨宮蔵人を江戸におびきよせようとしていることを知った光圀の家臣である佐々介三郎(宗淳-助さん)と安積覚兵衛(格さん)は、咲弥とも親しいし、光圀が鍋島藩の内情に関与してひとりの武士を抹殺したということになれば、大変な事態になると考え、相談して、水戸藩邸ではなく上野の寛永寺に来るように手配することにする。その書状を飛脚問屋の亀屋のお初に依頼する。
お初は、かつて摂津湊川で雨宮蔵人に助けられた娘で、あの事件以来、父親の小八兵衛とともに江戸に出てきて飛脚問屋を営んでいるのであった。このお初が、蔵人と咲弥のために一役買っていくが、雨宮蔵人を江戸で待ち受けているのは、ただ窮地の罠である。柳沢側からも水戸光圀や鍋島家からも狙われる。しかし、蔵人は、ただ、自分が愛する咲弥に会うためだけに、窮地に陥ることを十分に承知の上で江戸へと向かうのである。咲弥も光圀の意図を知っていた。しかし、武家には守らなければならないものがあるし、蔵人が江戸で死を迎えることになるなら自分も死ぬ覚悟でいた。
雨宮蔵人はひたすら咲弥に会うために江戸へ向かう。途中、何度も巴十太夫が放った刺客に襲われるが、窮地を脱して、ようやく江戸の飛脚問屋亀屋へたどり着く。亀屋の女主人のお初は、なんとかして咲弥と会わせようとするが、咲弥がいる水戸藩邸に出向いたときに人質として巴十太夫に捕らわれてしまい、蔵人と咲弥が会うことになっている前日の夜に蔵人は、両国橋に呼び出される。
蔵人は両国橋に赴き、お初を助け、巴十太夫と死闘を繰り広げる。そして、背中を槍で刺され、大川(隅田川)に転落してしまう。約束の刻限が来ても、蔵人の姿は上野の寛永寺には現れない。寛永寺の門前には蔵人を討つ命を受けた水戸藩士が見張っている。もはや、蔵人が寛永寺に来ることは不可能に思える。だが、咲弥は待ち続ける。そして、ようやく、独りの武士が足を引きづりながら現れる。
ここが、本書の一番の山場であるから、抜き出しておこう。
「蔵人の姿はひどくみすぼらしかった。水に濡れ、よく乾かぬままの着物には返り血らしいものがとんでいた。さらに着物や袴のあちこちが避けている。
しかも蔵人は頭に血が滲んだ白い布を巻いていた。着物の下にも傷口を押さえるためにか布を巻いているようだった。腰には脇差しを差しているだけだった。蔵人が激しい戦いを行ってきたことは誰の目にも明らかだった。
蔵人の顔は出血のために青ざめていた。ゆっくり一歩ずつ歩いてくるが、待ち構えていた水戸家の武士たちも、気を飲まれたように動くことができなかった。
蔵人にはそんな武士たちの姿が目に入らぬようである。
門に立つ咲弥の姿を見て微笑した。
・・・・・・・・・
蔵人にもはや戦う力が残っていないことは明らかだった。それでも蔵人の歩みは止まらないのだ。
・・・・・・・・・
蔵人は男達の前をゆっくりと咲弥に向かって歩いていった。咲弥の前に立った蔵人は苦しげだったが頭を下げて、
「遅くなりました、申し訳ござらぬ」
「本当に、十七年は待たせすぎです」
咲弥の目には光るものがあった。
「されど、咲弥殿との約束は果たせましたぞ」
蔵人は嬉しげに笑った。
「さよう-」
咲弥はうなずいて口にした。
春ごとに花のさかりはありなめど
蔵人が手紙に書いてきた和歌の上の句である。
・・・・・・蔵人はあえぎながらも咲弥に続いて詠じた。
あひ見むことはいのちなりけり
蔵人は崩れ落ちるように倒れた。
「蔵人殿―」
咲弥が蔵人を抱えた。咲弥の胸に抱かれた蔵人は穏やかな微笑を浮かべていた。
寛永寺の桜はこの日、真っ盛りである。上野の山を春霞と見紛う桜が覆っていた」(文庫版277-279ページ)。
まさに圧巻という他はない。作者はこの場面が描きたくて、長い物語を書いたのではないかと思われるほど、この場面は感動的である。ふと、五味川純平の『人間の条件』のラストシーンを思い起こした。『人間の条件』の主人公は、敗戦後の凍てつく荒涼とした満州の原野の中を、飢えと疲労と寒さで死にかけつつも、もはや凍りついてしまった一握りの饅頭を、「みちこ、みちこ」と愛する者の名を呼びながら、「お土産だ」と握りしめて、ただひたすらに愛する者に向かって歩みを続けていくのである。そして、原野の中で倒れ、その上を白い雪が覆っていく。
『いのちなりけり』の雨宮蔵人も、彼を討ち取ろうとする武士たちの中を傷つきよれよれになりながら、ただひとり愛する者にむかって歩んでいく。そして、穏やかに微笑して倒れるのである。それは、まさに「いのちなりけり」以外の何ものでもない。
この後、少し事後譚が記され、京都の中院通茂から寛永寺の輪王寺宮に元へ蔵人の庇護を願う手紙をもった佐々介三郎の計らいで、蔵人と咲弥は寛永寺で庇護され、その後、蔵人と咲弥は京都へ向かい、柳沢保明の命を受けて動いていた黒滝五郎兵衛が京へ向かう途中の雨宮蔵人を待ち受けて、蔵人と対決し、蔵人は五郎兵衛の命を受け取ると語って五郎兵衛を倒すのである。島原の乱以来佐賀藩に恨みを抱いていた五郎兵衛は雨宮蔵人のような人間に討たれて死を迎えたことに満足するのである。
この物語は、どちらが正義とはいえないような醜い権力争いに否応なく巻き込まれて人生を変転させながらも、矜持をもってただひたすらに愛する者への愛を貫いた人間の物語である。歴史上の人物と事件に中に主人公を置いて、その中を翻弄されながらも、ひたむきに生きる人間の姿を描いた物語であり、貫くものが愛する者への深い愛情であるだけに、まことに尊い生き方を示した物語になっていて、深い感動をもって読み終わった。葉室麟の代表的作品になるだろうと思う。
2011年11月8日火曜日
葉室麟『いのちなりけり』(3)
暦の上では今日は立冬で、今日から初冬の季節に入ることになる。昨日と同じように曇り時々晴れといった天候だが、少し肌寒くなっている。今日は夕方に都内で会議があるので、葉室麟『いのちなりけり』について思いもかけない長さになったこともあり、それまでと思ってこれを書いている。
葉室麟の作品は、漢詩や和歌、あるいは古典が随所に良質に取り入れられて、この『いのちなりけり』も古今和歌集の読み人知らずの作品である「春ごとに 花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」という歌を基にして物語が展開されているのだが、その「あひ見むことはいのちなりけり」の神髄が現れていくのは、主人公の雨宮蔵人と咲弥が離れ離れになって暮らす16年間と、最後に出会う瞬間が綴られる物語の後半で感動的に記されている。
水戸藩の水戸光圀に預けられ、奥女中として働くことになった咲弥は、これまでの蔵人への自分の誤解を払拭し、ひたすら自分を愛してくれた蔵人への想いを抱いたまま、奥女中を取り仕切っていた老女(奥女中取締役)の「藤井」の元で働くことになる。咲弥の教養も深いことから、光圀の『大日本史』編纂の作業などに携わっていた学者や藩士などからも信頼されていき、やがて、「藤井」の後を受けて奥女中の取締りをするようになっていくのである。咲弥は仕えている光圀から側女になるように求められたりするが、自分には想う人があると明言してこれを断ったりする。主人の命を断ることは命がけであるが、蔵人が自分のために命をかけてくれたように、彼女もまた蔵人への想いを命をかけて守るのである。そして、そういう咲弥の姿を光圀も認めて行くようになる。
この老女「藤井」が養子としたのが藤井紋太夫で、光圀の側近として仕えていた藤井紋太夫は、やがて光圀から奸臣として処断される。それが冒頭に描かれた出来事だった。藤井紋太夫は、水戸光圀と老中柳沢保明の争いの中で、光圀のために良かれと思ってしたことが光圀の人格を傷つけることになってしまい、光圀はやむを得ずに彼を処罰するのである。『三国志』の「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」の出来事を思い起こすような展開を作者はここでしている。
他方、咲弥と摂津湊川で別れ、片腕を失った深町京介の治療のために京都へ向かった雨宮蔵人は、右京に医師の手当てを受けさせて、目薬売りと灸をしながら糊口をしのぎつつ、ただひとつの和歌を探し出すために和歌の学びをはじめていた。そのただひとつの歌というのは、かつて咲弥と縁組みした際、咲弥から心を表す歌があるかと問われ、その歌が見つかるまでは閨を共にしないと宣告されたことに応えるための自らの心を表す歌である。運命の変転と長い時間をかけて、蔵人は咲弥の問に答えようとするのである。その時の咲弥は、蔵人の家格と風貌を軽んじて、蔵人を夫として受け入れることができなかったのである。咲弥は、蔵人がただひとつの歌を探していると聞いて胸を突かれる思いがする。
片腕を失った深町京介は、傷が癒えると円光寺を訪ねて得度し、仏門に入る。徳川家康が建立した円光寺には古書が蔵書されており、蔵人はこの円光寺を訪ねて、深町京介との親交をもちながら、古今和歌集を初めとする古書を読んでいたのである。
それから5年の月日が流れ、蔵人は、播州明石で訪ねた熊沢蕃山の弟子であった中院通茂(なかのいん みちしげ 1631-1710年)を訪ねる。中院通茂は、天皇家に仕えた公卿で、歌人としても名高かったが、権大納言で武家伝奏者でもあり、水戸光圀と親交が深く、佐賀藩主鍋島光茂の正室の兄でもあり、脱藩者である雨宮蔵人が訪ねるには大物過ぎたのである。
ちなみに、この中院通茂は、通称小倉事件と呼ばれる天皇家の皇位継承問題の争いで、霊元天皇(1663-1687年)を目の前にして、天皇と将軍徳川綱吉を公然と罵倒したりするような剛直な人物であった。天皇家の皇位継承を巡る小倉事件は、雨宮蔵人も巻き込む事件として本書で展開されている。
この中院通茂が、訪ねて来た蔵人がただひとつの歌を探していると聞いて気に入り、無給だが蔵書の和歌の書物を読むということで屋敷に通うことを許し、蔵人は中院通茂に仕えていくようになるのである。
そのころ江戸では、将軍徳川綱吉の命を受けて稲葉正休が大老堀田正俊を殿中で斬り殺すという事件が勃発していた。堀田正俊は綱吉が将軍になるときに擁立した人物であったが、やがて綱吉は堀田正俊を疎ましく思うようになって、自分が幕政を掌握するために堀田正俊を殺害する意図を持ち、それを側近であった柳沢保明が画策したと言われている。そして、水戸光圀も徳川綱吉に対しては憚ることなく辛言を言っていたので、光圀の命も狙われるのではないかと江戸の水戸藩屋敷にも緊張が走ったのである。光圀の側近であった藤井紋太夫は水戸藩を守るために光圀に隠居させようとする。また、柳沢保明は、光圀を毒殺するために策略をもうけたりする。だが、光圀毒殺の計略は咲弥の機転で失敗し、柳沢保明は、彼に仕えるようになっていた島原の乱の生き残りである黒滝五郎兵衛に光圀の暗殺を相談するのである。
黒滝五郎兵衛は、越後高田藩の小栗美作に仕えていたが、高田藩の後継者を巡る争いで小栗美作が切腹させられ、自分を信頼してくれていた小栗美作を切腹に追い込んだのが老中の堀田正俊であったことから、野心を持つ柳沢保明に近づき、それによって主君の仇を討とうと考えていたのである。黒滝五郎兵衛は柳沢保明から策士として信頼を得、光圀が現職のままでは面倒などで、光圀を引退させた後に水戸藩の内通者と手を結ぶことを画策していくのである。
徳川綱吉は、なにかと五月蠅かった堀田正俊を排除した後、自分に敵対する水戸光圀と同時に京都の朝廷も警戒するよう柳沢保明に命じ、柳沢保明は高家(京の朝廷との関係を持ち、幕府の諸儀式を取り締まる)の吉良上野介義央(よしひさ)を通じて公家対策を行っていく。綱吉と将軍位を争っていた甲府の徳川綱豊の正室が京都の公家の近衛基煕(このえ もとひろ)の娘であり、将軍家の争いは京都の公家の争いでもあった。
ここまで書いて、もう出かける時間になってしまった。なにせ、本書で取り扱われている背景となっている出来事が複雑な歴史的事件と密接に関係しているため、その事件についての概略を記すだけでも相当の分量がいることになり、『いのちなりけり』の本筋である「あひ見むこと」に至るまでにはまだ至らないでいる。人は歴史の中で、様々なものに翻弄されながら生きているのだから、歴史の中に人物を置くという作者の姿勢に、まず、敬意を表したいと思って、つい長くなるのである。
葉室麟の作品は、漢詩や和歌、あるいは古典が随所に良質に取り入れられて、この『いのちなりけり』も古今和歌集の読み人知らずの作品である「春ごとに 花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」という歌を基にして物語が展開されているのだが、その「あひ見むことはいのちなりけり」の神髄が現れていくのは、主人公の雨宮蔵人と咲弥が離れ離れになって暮らす16年間と、最後に出会う瞬間が綴られる物語の後半で感動的に記されている。
水戸藩の水戸光圀に預けられ、奥女中として働くことになった咲弥は、これまでの蔵人への自分の誤解を払拭し、ひたすら自分を愛してくれた蔵人への想いを抱いたまま、奥女中を取り仕切っていた老女(奥女中取締役)の「藤井」の元で働くことになる。咲弥の教養も深いことから、光圀の『大日本史』編纂の作業などに携わっていた学者や藩士などからも信頼されていき、やがて、「藤井」の後を受けて奥女中の取締りをするようになっていくのである。咲弥は仕えている光圀から側女になるように求められたりするが、自分には想う人があると明言してこれを断ったりする。主人の命を断ることは命がけであるが、蔵人が自分のために命をかけてくれたように、彼女もまた蔵人への想いを命をかけて守るのである。そして、そういう咲弥の姿を光圀も認めて行くようになる。
この老女「藤井」が養子としたのが藤井紋太夫で、光圀の側近として仕えていた藤井紋太夫は、やがて光圀から奸臣として処断される。それが冒頭に描かれた出来事だった。藤井紋太夫は、水戸光圀と老中柳沢保明の争いの中で、光圀のために良かれと思ってしたことが光圀の人格を傷つけることになってしまい、光圀はやむを得ずに彼を処罰するのである。『三国志』の「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」の出来事を思い起こすような展開を作者はここでしている。
他方、咲弥と摂津湊川で別れ、片腕を失った深町京介の治療のために京都へ向かった雨宮蔵人は、右京に医師の手当てを受けさせて、目薬売りと灸をしながら糊口をしのぎつつ、ただひとつの和歌を探し出すために和歌の学びをはじめていた。そのただひとつの歌というのは、かつて咲弥と縁組みした際、咲弥から心を表す歌があるかと問われ、その歌が見つかるまでは閨を共にしないと宣告されたことに応えるための自らの心を表す歌である。運命の変転と長い時間をかけて、蔵人は咲弥の問に答えようとするのである。その時の咲弥は、蔵人の家格と風貌を軽んじて、蔵人を夫として受け入れることができなかったのである。咲弥は、蔵人がただひとつの歌を探していると聞いて胸を突かれる思いがする。
片腕を失った深町京介は、傷が癒えると円光寺を訪ねて得度し、仏門に入る。徳川家康が建立した円光寺には古書が蔵書されており、蔵人はこの円光寺を訪ねて、深町京介との親交をもちながら、古今和歌集を初めとする古書を読んでいたのである。
それから5年の月日が流れ、蔵人は、播州明石で訪ねた熊沢蕃山の弟子であった中院通茂(なかのいん みちしげ 1631-1710年)を訪ねる。中院通茂は、天皇家に仕えた公卿で、歌人としても名高かったが、権大納言で武家伝奏者でもあり、水戸光圀と親交が深く、佐賀藩主鍋島光茂の正室の兄でもあり、脱藩者である雨宮蔵人が訪ねるには大物過ぎたのである。
ちなみに、この中院通茂は、通称小倉事件と呼ばれる天皇家の皇位継承問題の争いで、霊元天皇(1663-1687年)を目の前にして、天皇と将軍徳川綱吉を公然と罵倒したりするような剛直な人物であった。天皇家の皇位継承を巡る小倉事件は、雨宮蔵人も巻き込む事件として本書で展開されている。
この中院通茂が、訪ねて来た蔵人がただひとつの歌を探していると聞いて気に入り、無給だが蔵書の和歌の書物を読むということで屋敷に通うことを許し、蔵人は中院通茂に仕えていくようになるのである。
そのころ江戸では、将軍徳川綱吉の命を受けて稲葉正休が大老堀田正俊を殿中で斬り殺すという事件が勃発していた。堀田正俊は綱吉が将軍になるときに擁立した人物であったが、やがて綱吉は堀田正俊を疎ましく思うようになって、自分が幕政を掌握するために堀田正俊を殺害する意図を持ち、それを側近であった柳沢保明が画策したと言われている。そして、水戸光圀も徳川綱吉に対しては憚ることなく辛言を言っていたので、光圀の命も狙われるのではないかと江戸の水戸藩屋敷にも緊張が走ったのである。光圀の側近であった藤井紋太夫は水戸藩を守るために光圀に隠居させようとする。また、柳沢保明は、光圀を毒殺するために策略をもうけたりする。だが、光圀毒殺の計略は咲弥の機転で失敗し、柳沢保明は、彼に仕えるようになっていた島原の乱の生き残りである黒滝五郎兵衛に光圀の暗殺を相談するのである。
黒滝五郎兵衛は、越後高田藩の小栗美作に仕えていたが、高田藩の後継者を巡る争いで小栗美作が切腹させられ、自分を信頼してくれていた小栗美作を切腹に追い込んだのが老中の堀田正俊であったことから、野心を持つ柳沢保明に近づき、それによって主君の仇を討とうと考えていたのである。黒滝五郎兵衛は柳沢保明から策士として信頼を得、光圀が現職のままでは面倒などで、光圀を引退させた後に水戸藩の内通者と手を結ぶことを画策していくのである。
徳川綱吉は、なにかと五月蠅かった堀田正俊を排除した後、自分に敵対する水戸光圀と同時に京都の朝廷も警戒するよう柳沢保明に命じ、柳沢保明は高家(京の朝廷との関係を持ち、幕府の諸儀式を取り締まる)の吉良上野介義央(よしひさ)を通じて公家対策を行っていく。綱吉と将軍位を争っていた甲府の徳川綱豊の正室が京都の公家の近衛基煕(このえ もとひろ)の娘であり、将軍家の争いは京都の公家の争いでもあった。
ここまで書いて、もう出かける時間になってしまった。なにせ、本書で取り扱われている背景となっている出来事が複雑な歴史的事件と密接に関係しているため、その事件についての概略を記すだけでも相当の分量がいることになり、『いのちなりけり』の本筋である「あひ見むこと」に至るまでにはまだ至らないでいる。人は歴史の中で、様々なものに翻弄されながら生きているのだから、歴史の中に人物を置くという作者の姿勢に、まず、敬意を表したいと思って、つい長くなるのである。
2011年11月7日月曜日
葉室麟『いのちなりけり』(2)
午前中は晴れ間が見えていたが、夕方にかけて雲が広がり、変化の多い秋らしい天気といえば秋らしい天気になった。今日は家事に精を出した後、山積みしていた仕事を少し片づけたりしていたが、まったくもって意欲が湧いてこない気がしている。脳細胞が死にかけているのではないかと我ながら思ってしまう。
さて、葉室麟『いのちなりけり』の続きであるが、主人公の雨宮蔵人は、小城藩継嗣の鍋島元武から鍋島家とは少なからぬ因縁がある龍造寺家の流れをもつ家老で、義父であもある天源寺行部の暗殺を命じられたまま帰国する。そして、しばらくして、天源寺行部が何者かに斬殺され、蔵人が出奔するという出来事が起こった。同じ頃、天源寺家の家臣として仕えていた波野権四郎も殺されていた。
人々は、波野権四郎を殺し、天源寺行部を殺したのが雨宮蔵人だと思い、特に天源寺家では仇討ちを行うことになって、彼の従姉妹である深町右京に助太刀を依頼する。深町右京は、御歌書役に任じられ、藩主が古今和歌集の伝授を受けるのを助ける役を仰せつかることになっており、咲弥の新しい婿となることがとりざたされていた。咲弥もその仇討ちに同行することになる。蔵人が行部を殺したことが確かになり、その仇を討ったあかつきには、深町右京と咲弥は夫婦になるということになる。
また、蔵人に天源寺行部の暗殺を命じた鍋島元武も、事柄を隠蔽するために雨宮蔵人をなきものにしようと柳生新陰流の師範であった巴十太夫に蔵人の行くへを探させていた。こうして、雨宮蔵人は、妻の咲弥と従姉妹の深町京介、そして巴十太夫の両方から追われることになるのである。
雨宮蔵人は、実は、帰国して義父である天源寺行部と会い、先の鎧揃えの際に親藩である佐賀藩主に向かって矢を射かけたのが、天源寺家の家臣であった波野権四郎で、それを命じたのが行部であることを告げ、波野権四郎は自分が処理するから、公になる前に腹を切って責任を取れと話していたのであった。そして、波野権四郎を彼が倒したとき、行部は、蔵人の言葉通り自決するつもりであった。だが、これは後で明白にされることではあるが、天源寺行部を斬ったのは深町京介で、蔵人はすべての罪を自分で引き受けるために逐電したのであった。
逐電した蔵人は、まず、少年のころに通っていた儒学者の石田一鼎(いってい 1629-1693年 鍋島光茂の相談役であったが、勘気に触れ蟄居。『葉隠れ』を表した山本常朝の師)の元に身を寄せる。しかし、一鼎のもとに出入りし、蔵人を真の武士として尊敬していた山本権之丞(常朝)から追っ手の様子を聞いて、人を斬らないために逃げ、播州明石の熊沢蕃山(ばんざん 1619-1691年 陽明学者)に会おうと思って摂津湊川(元:神戸市中央区)に行くのである。蕃山の思想に自分の考えが似ているような自覚をもっており、たとえ明日死ぬことになろうとも、その学びをしたいと願ったのである。
他方、蔵人が逃げたとの知らせを聞いて、咲弥と深町京介は追っ手の準備をする。その時、咲矢は深町京介から、あの桜狩りの時に助けてくれた少年が、実は雨宮蔵人であることを聞いたりして、少しずつ蔵人に対する自分の思い違いを知っていったりする。
摂津湊川近くの坂本村で、雨宮蔵人は駕籠かきにいたずらされそうになった娘を助け、その娘が水戸光圀の隠密御用を勤める小八兵衛の娘であったことから、ちょうど水戸光圀の『大日本史』編纂の史料集めのために佐々介三郎宗淳(水戸黄門の助さんのモデル)の道案内として同道して京都まで来ていた小八兵衛は、その娘が自分を助けてくれた武士の世話をしているが、その武士が、追っ手が来るのを待つ敵持ちらしいと聞いて、娘を案じて佐々介三郎を連れて坂本村まで出かけていく。
坂本村の荒れ寺にいた雨宮蔵人は、追ってきた巴十太夫から深町京介と咲弥がもうすぐ追いつくと聞かされ、湊川の河原で待つことにする。彼は咲弥に討たれる覚悟をしている。そしてそこで、深町右京と咲弥とに対峙する。ところがその時、右京が咲弥の父である天源寺行部を斬ったのは、実は自分であると語り出す。それは本藩である佐賀藩藩主の鍋島光茂から支藩である小城藩が増長している原因が天源寺行部にあるので、その行部を斬るように命じられたからだと告げる。そして、その命のとおりに行部を斬ったとき、雨宮蔵人から「お主は咲弥殿を助けてわしを討て」、「咲弥殿の婿にふさわしいのは、わしではなくてお主だ」と言われていたと言うのである。そしてさらに、そのことを佐賀藩主の鍋島光茂に報告すると、その暗殺命令を隠すためと天源寺家を断絶させるために、雨宮蔵人を殺した後に咲弥も殺せと命じられていたと語るのである。
右京も咲弥に想いを寄せていたが、蔵人を討てば咲弥を守る者はいなくなる。そう言いながらも右京は、主命に従って、蔵人に剣を向けていく。それを聞いた蔵人も剣を抜き、蔵人は遂に右京の右腕を斬り落とす。蔵人は右京に、天源寺行部は既に死を覚悟していたのだと告げる。
そこへ、もうひとりの追っ手である巴十太夫が六人の武士を連れて襲いかかる。石礫を飛ばして蔵人を襲う。蔵人は命をかけて咲弥を守ろうとする。彼は咲弥に言う。「咲弥殿、わしはすでに天源寺家を去った身だ。よき婿殿を迎えられよ。されど、わしは何度生まれ変わろうとも咲弥殿をお守りいたす。わが命に代えて生きていただく」(文庫版135ページ)。
蔵人の咲弥に対する愛はひたむきである。報われることがなくとも、ただ一筋に愛し抜こうとする。そして、彼を否み続けてきた咲弥のために命を捨てようとする姿を見て、咲弥は、あの幼い日に桜の枝を切ってくれて自分を助けてくれた少年の姿を思い浮かべるのである。咲弥は、自分のために命をかける蔵人に対して思いを変えていくのである。だが、その蔵人は、巴十太夫の手によって死を迎えようとする。
その危機の時に、水戸藩の佐々介三郎らが駆けつけ、蔵人らは助けられ、咲弥は佐賀へ帰り、蔵人は深町京介を療養させるために京都へ向かう。そして、咲弥は佐賀藩と関係が深かった水戸藩の水戸光圀の元に預けられることになる。咲弥は、摂津湊川での蔵人の姿に心を打たれ、「離れ離れになり、生涯会うことができなくても心で添うことはできるのではないでしょうか」(文庫版179ページ)と語り、蔵人への想いを強く固めていくのである。
二人は、ようやくここで、互いが想う夫婦となるのである。だが、それは心で添う夫婦である。しかし、以後、この二人の想いは変わることがない。二人の愛情はそこで強められたのである。
ここまでが、おそらく前半の山場であり、結末であるだろう。この後、二人は水戸光圀と老中柳沢保明の闘いに巻き込まれていくことになる。そのくだりについては、次回、また記すことにしよう。
さて、葉室麟『いのちなりけり』の続きであるが、主人公の雨宮蔵人は、小城藩継嗣の鍋島元武から鍋島家とは少なからぬ因縁がある龍造寺家の流れをもつ家老で、義父であもある天源寺行部の暗殺を命じられたまま帰国する。そして、しばらくして、天源寺行部が何者かに斬殺され、蔵人が出奔するという出来事が起こった。同じ頃、天源寺家の家臣として仕えていた波野権四郎も殺されていた。
人々は、波野権四郎を殺し、天源寺行部を殺したのが雨宮蔵人だと思い、特に天源寺家では仇討ちを行うことになって、彼の従姉妹である深町右京に助太刀を依頼する。深町右京は、御歌書役に任じられ、藩主が古今和歌集の伝授を受けるのを助ける役を仰せつかることになっており、咲弥の新しい婿となることがとりざたされていた。咲弥もその仇討ちに同行することになる。蔵人が行部を殺したことが確かになり、その仇を討ったあかつきには、深町右京と咲弥は夫婦になるということになる。
また、蔵人に天源寺行部の暗殺を命じた鍋島元武も、事柄を隠蔽するために雨宮蔵人をなきものにしようと柳生新陰流の師範であった巴十太夫に蔵人の行くへを探させていた。こうして、雨宮蔵人は、妻の咲弥と従姉妹の深町京介、そして巴十太夫の両方から追われることになるのである。
雨宮蔵人は、実は、帰国して義父である天源寺行部と会い、先の鎧揃えの際に親藩である佐賀藩主に向かって矢を射かけたのが、天源寺家の家臣であった波野権四郎で、それを命じたのが行部であることを告げ、波野権四郎は自分が処理するから、公になる前に腹を切って責任を取れと話していたのであった。そして、波野権四郎を彼が倒したとき、行部は、蔵人の言葉通り自決するつもりであった。だが、これは後で明白にされることではあるが、天源寺行部を斬ったのは深町京介で、蔵人はすべての罪を自分で引き受けるために逐電したのであった。
逐電した蔵人は、まず、少年のころに通っていた儒学者の石田一鼎(いってい 1629-1693年 鍋島光茂の相談役であったが、勘気に触れ蟄居。『葉隠れ』を表した山本常朝の師)の元に身を寄せる。しかし、一鼎のもとに出入りし、蔵人を真の武士として尊敬していた山本権之丞(常朝)から追っ手の様子を聞いて、人を斬らないために逃げ、播州明石の熊沢蕃山(ばんざん 1619-1691年 陽明学者)に会おうと思って摂津湊川(元:神戸市中央区)に行くのである。蕃山の思想に自分の考えが似ているような自覚をもっており、たとえ明日死ぬことになろうとも、その学びをしたいと願ったのである。
他方、蔵人が逃げたとの知らせを聞いて、咲弥と深町京介は追っ手の準備をする。その時、咲矢は深町京介から、あの桜狩りの時に助けてくれた少年が、実は雨宮蔵人であることを聞いたりして、少しずつ蔵人に対する自分の思い違いを知っていったりする。
摂津湊川近くの坂本村で、雨宮蔵人は駕籠かきにいたずらされそうになった娘を助け、その娘が水戸光圀の隠密御用を勤める小八兵衛の娘であったことから、ちょうど水戸光圀の『大日本史』編纂の史料集めのために佐々介三郎宗淳(水戸黄門の助さんのモデル)の道案内として同道して京都まで来ていた小八兵衛は、その娘が自分を助けてくれた武士の世話をしているが、その武士が、追っ手が来るのを待つ敵持ちらしいと聞いて、娘を案じて佐々介三郎を連れて坂本村まで出かけていく。
坂本村の荒れ寺にいた雨宮蔵人は、追ってきた巴十太夫から深町京介と咲弥がもうすぐ追いつくと聞かされ、湊川の河原で待つことにする。彼は咲弥に討たれる覚悟をしている。そしてそこで、深町右京と咲弥とに対峙する。ところがその時、右京が咲弥の父である天源寺行部を斬ったのは、実は自分であると語り出す。それは本藩である佐賀藩藩主の鍋島光茂から支藩である小城藩が増長している原因が天源寺行部にあるので、その行部を斬るように命じられたからだと告げる。そして、その命のとおりに行部を斬ったとき、雨宮蔵人から「お主は咲弥殿を助けてわしを討て」、「咲弥殿の婿にふさわしいのは、わしではなくてお主だ」と言われていたと言うのである。そしてさらに、そのことを佐賀藩主の鍋島光茂に報告すると、その暗殺命令を隠すためと天源寺家を断絶させるために、雨宮蔵人を殺した後に咲弥も殺せと命じられていたと語るのである。
右京も咲弥に想いを寄せていたが、蔵人を討てば咲弥を守る者はいなくなる。そう言いながらも右京は、主命に従って、蔵人に剣を向けていく。それを聞いた蔵人も剣を抜き、蔵人は遂に右京の右腕を斬り落とす。蔵人は右京に、天源寺行部は既に死を覚悟していたのだと告げる。
そこへ、もうひとりの追っ手である巴十太夫が六人の武士を連れて襲いかかる。石礫を飛ばして蔵人を襲う。蔵人は命をかけて咲弥を守ろうとする。彼は咲弥に言う。「咲弥殿、わしはすでに天源寺家を去った身だ。よき婿殿を迎えられよ。されど、わしは何度生まれ変わろうとも咲弥殿をお守りいたす。わが命に代えて生きていただく」(文庫版135ページ)。
蔵人の咲弥に対する愛はひたむきである。報われることがなくとも、ただ一筋に愛し抜こうとする。そして、彼を否み続けてきた咲弥のために命を捨てようとする姿を見て、咲弥は、あの幼い日に桜の枝を切ってくれて自分を助けてくれた少年の姿を思い浮かべるのである。咲弥は、自分のために命をかける蔵人に対して思いを変えていくのである。だが、その蔵人は、巴十太夫の手によって死を迎えようとする。
その危機の時に、水戸藩の佐々介三郎らが駆けつけ、蔵人らは助けられ、咲弥は佐賀へ帰り、蔵人は深町京介を療養させるために京都へ向かう。そして、咲弥は佐賀藩と関係が深かった水戸藩の水戸光圀の元に預けられることになる。咲弥は、摂津湊川での蔵人の姿に心を打たれ、「離れ離れになり、生涯会うことができなくても心で添うことはできるのではないでしょうか」(文庫版179ページ)と語り、蔵人への想いを強く固めていくのである。
二人は、ようやくここで、互いが想う夫婦となるのである。だが、それは心で添う夫婦である。しかし、以後、この二人の想いは変わることがない。二人の愛情はそこで強められたのである。
ここまでが、おそらく前半の山場であり、結末であるだろう。この後、二人は水戸光圀と老中柳沢保明の闘いに巻き込まれていくことになる。そのくだりについては、次回、また記すことにしよう。
2011年11月4日金曜日
葉室麟『いのちなりけり』(1)
昨日一日、特別の行事があって、いささかの疲れを覚えていたが、なぜか素敵な女性を背負って中華料理を食べに行く夢を見たりして、われながらおかしく、ふふ、と笑いながら今朝は目覚めた。朝方は曇っていた空が晴れ渡ってきている。
葉室麟『秋月記』に続いて、『いのちなりけり』(2008年 文藝春秋社、2011年 文春文庫)を大きな感動を持って読み終わっていたので、記しておくことにする。この作品も極上の作品だった。
この作品について、作者自身が「江戸に人々が羨むほどの仲の良い夫婦がいるんですが、実は彼らは長い間、離れ離れに暮らしていたんです。夫は若い頃、人を殺めて流罪にされていた。妻は三十年以上も夫を待ち続け、年老いてようやく一緒に暮らせるようになった。思いを繋いだまま、『巡りあう夫婦』というものをいつか描きたいと思っていました」と語られたそうだが、元禄の頃(五代将軍綱吉-1688-1708年)、島原の乱(1637年)以来の深い関係がある水戸藩と佐賀鍋島藩を背景に、天下の副将軍として名高い水戸光圀と老中柳沢保明との争いを絡ませながら、佐賀鍋島藩の支藩であった小城藩の藩士雨宮蔵人と小城藩の重職であった天源寺行部の娘であった咲弥の離れ離れになりながらも互いの愛情を深めていく物語である。二人は、夫婦といっても、互いに契りを交わした夫婦ではなく、その思いはひたすら純粋である。
物語は、隠居した水戸光圀が、家臣で中老であった藤井紋太夫を小石川の水戸藩上屋敷(現:後楽園)で誅殺した(1694年-元禄7年)場面から始まるが、その水戸藩上屋敷の奥女中として16年もの長きに渡って光圀に仕えてきた咲弥は、小城藩鍋島家から光圀が預かった女性で、その年38歳になるが、美貌は少しも衰えず、才識豊かで、「水府(水戸)に名花あり」と言われるほどの女性だった。その咲弥が光圀に預けられる経過がこれから語られるのであるが、咲弥がひたすら思いを寄せ続けていた男からの手紙に書かれていた歌が最初に記されている。
それは、古今和歌集に記されている読み人しらずの次のような歌である。
「春ごとに 花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」
そして、この歌が、咲弥と彼女の想い人雨宮蔵人を繋ぐ全編を通しての響きとなっている。この歌そのものが、涙が出るほど感動的な歌であるが、こういう構成を取ることができる作者の良質な知性に敬服する。
咲弥は、佐賀鍋島藩の支藩であった小城藩の重臣である天源寺家に生まれ、才媛の誉れが高い女性であった。兄たちが死去したために藩の家老の四男で将来を嘱望された男を婿に迎えたが、子ができないままで病に倒れて死去してしまった。そして、天源寺家の跡取りを望む父親の天源寺行部の要望で、新しくわずか70石の軽格の部屋住みであった雨宮蔵人を婿として迎えることにしたのである。咲弥二十歳、蔵人二十六歳の時である。
雨宮蔵人は、取り柄と言えば、角蔵流と呼ばれる組み討ちの流派を使うくらいで、凡庸で、猛犬の前を通るときなどは、「脛を噛まれても薬を塗れば治りますが、袴を食いちぎられたら買いなおさねばなりませんから」と言って、裾をからげて走り抜けたり、「眼病を治療する薬をつくるのは人の道にはずれてはおりません」と言って、目薬を作って売る内職をしたりして、人々の人々のひんしゅくを買ったりしていた男だった。色黒で、鼻が大きく顎が張って、大柄で、とても美男とは言えないような人物だった。
だが、暴れ馬を諫めるときに、丸腰で馬の周りをぐるぐる回り、暴れ馬が根負けしておとなしくなった様子を見ていた天源寺行部が、蔵人が見かけとは違う人物だと見抜いて婿と決めたのである。天源寺家は、佐賀藩では特別な立場である龍造寺家の家系で、もともと佐賀藩鍋島家の祖である鍋島直茂は龍造寺家の家臣に過ぎなかった。戦国時代に龍造寺隆信は九州全体を制圧するほどの勢いであったが、薩摩の島津家との争いに敗れ、豊臣秀吉が隆信の孫に当たる五歳に過ぎなかった龍造寺高房を当主として鍋島直茂を家政者とし、朝鮮出兵の際に鍋島直茂を肥前国主と認め、また龍造寺高房が狂乱のうちに死去することがあって龍造寺家が断絶し、以後、鍋島家が龍造寺家の家督を相続していたのである。
江戸幕府も龍造寺家を認めなかったが、鍋島家が肥前の領主となる際、本家以外の龍造寺一族も鍋島直茂を支持し、そのために鍋島家の中では、特別に力を持つ家柄として存続していたのである。それによって鍋島家の中では龍造寺一族は代々重職をもつ家柄となったが、裏では、鍋島家と龍造寺家は積年の確執をもった存在でもあった。それゆえ、龍造寺家の流れを持つ小城藩の天源寺行部は、嗣子がどうしても必要だったのである。そして、美男子で才媛豊かな人物よりも、体格が良くて病など無縁のような雨宮蔵人を咲弥の婿として選んだのである。
だが、婚礼の夜、咲弥は、前夫は学問教養が高く、和歌をたしなみ、「願わくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ」という西行の歌を好み、「花」は桜を意味し、咲弥の名前の由来である桜にちなんで歌った歌に自分の想いを籠めていたと語り、蔵人もその心を表す歌を示すまでは寝屋を共にしないと宣言する。和歌など親しみのなかった蔵人は困惑し、愕然としてしまう。咲弥は蔵人を自分の夫と認めなかったばかりか、彼が目薬を売っているということを聞いて軽蔑さえしてしまうのである。
咲弥と蔵人は夫婦になったが、それは形ばかりで、そのことが藩内に知られてしまい、蔵人の従姉妹で咲弥にふさわしいと噂されていた美男子の深町右京も心配して訪ねてくる。だが、蔵人は、「わしが嘲られておるだけで、咲弥殿の評判が上がったのならよいではないか」「わしは望まれたことに応えられなかった」と言うだけであった(文庫版 30-31ページ)。
そうしているうちに、佐賀藩主鍋島光茂と嗣子綱茂、小城藩主鍋島直能の前で行われる鎧揃えの儀式の時に、何者かが矢を射かけるという事件が起こってしまった。この時、主君の直能の前ではなく、本藩の鍋島綱茂の前に立ちふさがって鎧に矢を受けて防いだのが雨宮蔵人で、続けて放たれた矢を切り払ったのが従姉妹の深町右京だった。だが、矢を防いだ功績ではなく、主君ではなく本藩の世子を守ったということで、蔵人の評判はがた落ちし、矢を斬り落とした従姉妹の深町京介の名は上がった。義父である天源寺行部がそのことを問い糾したとき、蔵人は矢筋を見極めるために矢の面前に立ったのだと応える。蔵人は愚直なまでにまっすぐに振る舞う。
このことを見抜いたもうひとりの人物がいた。それは、小城藩江戸屋敷で剣術師範をしていた柳生新陰流の巴十太夫で、やがて、この巴十太夫と蔵人は死闘を演じることになるが、小城藩はこの柳生新陰流をお家流儀としていた。小城藩にはもう一つ小太刀を得意とする戸田流があり、雨宮蔵人はこの戸田流を学んでいたのである。お家流儀の柳生新陰流ではなく、戸田流を学んでいたというところも、この雨宮蔵人の生き方を示す重要な鍵となっている。
参勤交代で江戸に出てきた雨宮蔵人は、小城藩の継嗣であった鍋島元武の前でこの巴十太夫と試合をさせられ、巴十太夫はわざと負け、それを見ていたまだ十四歳に過ぎなかった元武から、先の鎧揃えの時に本藩の鍋島綱茂に矢を射かけたのが義父の天源寺行部で、天源寺行部は、先の島原の乱で先駆けし、鍋島藩を苦境に追いやったことで分家の家老に追いやられた恨みを持っていたと告げられ、その天源寺行部を討つように密命を受けるのである。
島原の乱の際、農民が立て籠もった原城攻めは2月28日と決められていたが、27日の夜に状況を見極めた天源寺行部と江戸留守居心得の鍋島大膳亮が先駆けして原城に乗り込んでしまうということが起こったのである。幕府軍も予定を繰り上げて総攻撃を行うことになったが、このことで佐賀藩は軍令違反で咎められることになった。鍋島大膳亮は墊居させられ、天源寺行部は支藩の小城藩に追いやられた。
本書では、彼ら二人が先駆けして原城に乗り込んだ際、そこにいた小西家の牢人黒滝左兵衛と闘い、大膳亮が背後から槍で刺して殺したが、その時に黒滝左兵衛と一緒にいた六歳の男の子を見逃し、この男の子がやがて成長して、佐賀藩に恨みを抱きつつ、幕府老中柳沢保明の用人となり、水戸光圀の思惑をくじいて佐賀藩を窮地に陥れようとするという遠大な構想の一つの要となっている。
雨宮蔵人が江戸にいる間、蔵人の従姉妹の深町右京が天源寺家に足げく通うようになり、人々は、行部が、何の取り柄もないような蔵人を離縁させて、前夫に似て才豊かで見目も良い深町右京を婿に取るつもりではないかと噂しはじめたりする。咲弥は蔵人に対しては愛情を抱くことができなかったし、まだ子どものころに桜狩りに出かけたときに道に迷っていたところ、桜の木の上で雲を見ていた少年から助けられたという話を聞き、それが深町右京ではないかと思ったりする。右京は咲弥から西行の歌で好きなものがあるかと聞かれ、即座に答えることができるほどの教養もあり、やがて、御歌書役に任じられ、藩主の鍋島光茂が古今和歌集の伝授を受けるのを助ける役を仰せつかり、その際には才豊かな咲弥を嫁として連れて行ったらどうかという話も出る。だが、右京の心中は、蔵人の人柄をよく知っており、なんとかして咲弥の蔵人に対する誤解を解きたいと願っていただけである。
他方、江戸の蔵人は義父の天源寺行部の暗殺を小城藩継嗣の鍋島元武に命じられ、自分の父親が桜狩りの際の天現寺家の姫(咲弥)が道に迷ったことの失態を咎められて役を解かれ、傷心の中で病死したことなど思い起こし、天源寺行部とは少なからぬ因縁があったのだが、近習として仕える元武が疱瘡を患ったときも寝ずの看病をし、薬湯を作ったり藻草で灸をすえたりしながら、自分は「天地に仕える」ということを公言したり、あるいは、苛められていた鍋島綱茂の近侍が苛めていた先輩格の人間たちを斬り殺す事件に関わったりしていた。そして、越後牢人黒滝五郎兵衛とひょんなことから出会うのである。
黒滝五郎兵衛は、島原の乱の時に原城から逃げのびた少年で、やがて細川家の家臣に拾われて育てられ、武術を学んでいたが、育ての親の妾と懇ろになり、「キリシタンは外道だな」と罵倒されて、育ての親を殺してしまい、出奔し、越後まで流れ、雪の中で倒れていたところを助けられ、越後高田藩小栗家の小栗美作(みまさか)に気に入られて、仕えていたが、高田藩の内紛騒ぎで小栗美作から幕府の状勢を探るように命じられて、江戸に出てきていたのだった。
雨宮蔵人は、自分は天地に仕えると語り、黒滝五郎兵衛は、島原の乱で絶望を見てきていた自分はそういうことが大嫌いだと語っていく。二人は奇妙な縁であるが、その後、水戸光圀と柳沢保明の争いや佐賀鍋島藩への工作などで微妙に絡まっていくのである。やがて、元武から義父の天源寺行部を暗殺する密命を帯びたまま、参勤交代が開けて国元に帰国することになるのである。
前半だけで、これだけの話の展開が重層的に語られ、その中で雨宮蔵人のまっすぐで開かれた公然性をもつ人柄が語られているのだが、何ものにも動じないでどっしりと立ち向かう姿は、「天地」という「いのち」に誠実であろうとする姿であり、それがさりげなく示されている。彼はただ、天地とその命を大切にしようと心がける。不器用なまでに武人である。自分でどうすることもできない運命もあるが、その中を歩み続ける。こういう主人公が真面目に生きようとする人の心を打たないわけがない。しばらく瞑目して、この主人公の姿を考えたりした。
物語は、これから次第に頂きに向かって上っていくが、続きはまた次回に書くことにする。
葉室麟『秋月記』に続いて、『いのちなりけり』(2008年 文藝春秋社、2011年 文春文庫)を大きな感動を持って読み終わっていたので、記しておくことにする。この作品も極上の作品だった。
この作品について、作者自身が「江戸に人々が羨むほどの仲の良い夫婦がいるんですが、実は彼らは長い間、離れ離れに暮らしていたんです。夫は若い頃、人を殺めて流罪にされていた。妻は三十年以上も夫を待ち続け、年老いてようやく一緒に暮らせるようになった。思いを繋いだまま、『巡りあう夫婦』というものをいつか描きたいと思っていました」と語られたそうだが、元禄の頃(五代将軍綱吉-1688-1708年)、島原の乱(1637年)以来の深い関係がある水戸藩と佐賀鍋島藩を背景に、天下の副将軍として名高い水戸光圀と老中柳沢保明との争いを絡ませながら、佐賀鍋島藩の支藩であった小城藩の藩士雨宮蔵人と小城藩の重職であった天源寺行部の娘であった咲弥の離れ離れになりながらも互いの愛情を深めていく物語である。二人は、夫婦といっても、互いに契りを交わした夫婦ではなく、その思いはひたすら純粋である。
物語は、隠居した水戸光圀が、家臣で中老であった藤井紋太夫を小石川の水戸藩上屋敷(現:後楽園)で誅殺した(1694年-元禄7年)場面から始まるが、その水戸藩上屋敷の奥女中として16年もの長きに渡って光圀に仕えてきた咲弥は、小城藩鍋島家から光圀が預かった女性で、その年38歳になるが、美貌は少しも衰えず、才識豊かで、「水府(水戸)に名花あり」と言われるほどの女性だった。その咲弥が光圀に預けられる経過がこれから語られるのであるが、咲弥がひたすら思いを寄せ続けていた男からの手紙に書かれていた歌が最初に記されている。
それは、古今和歌集に記されている読み人しらずの次のような歌である。
「春ごとに 花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」
そして、この歌が、咲弥と彼女の想い人雨宮蔵人を繋ぐ全編を通しての響きとなっている。この歌そのものが、涙が出るほど感動的な歌であるが、こういう構成を取ることができる作者の良質な知性に敬服する。
咲弥は、佐賀鍋島藩の支藩であった小城藩の重臣である天源寺家に生まれ、才媛の誉れが高い女性であった。兄たちが死去したために藩の家老の四男で将来を嘱望された男を婿に迎えたが、子ができないままで病に倒れて死去してしまった。そして、天源寺家の跡取りを望む父親の天源寺行部の要望で、新しくわずか70石の軽格の部屋住みであった雨宮蔵人を婿として迎えることにしたのである。咲弥二十歳、蔵人二十六歳の時である。
雨宮蔵人は、取り柄と言えば、角蔵流と呼ばれる組み討ちの流派を使うくらいで、凡庸で、猛犬の前を通るときなどは、「脛を噛まれても薬を塗れば治りますが、袴を食いちぎられたら買いなおさねばなりませんから」と言って、裾をからげて走り抜けたり、「眼病を治療する薬をつくるのは人の道にはずれてはおりません」と言って、目薬を作って売る内職をしたりして、人々の人々のひんしゅくを買ったりしていた男だった。色黒で、鼻が大きく顎が張って、大柄で、とても美男とは言えないような人物だった。
だが、暴れ馬を諫めるときに、丸腰で馬の周りをぐるぐる回り、暴れ馬が根負けしておとなしくなった様子を見ていた天源寺行部が、蔵人が見かけとは違う人物だと見抜いて婿と決めたのである。天源寺家は、佐賀藩では特別な立場である龍造寺家の家系で、もともと佐賀藩鍋島家の祖である鍋島直茂は龍造寺家の家臣に過ぎなかった。戦国時代に龍造寺隆信は九州全体を制圧するほどの勢いであったが、薩摩の島津家との争いに敗れ、豊臣秀吉が隆信の孫に当たる五歳に過ぎなかった龍造寺高房を当主として鍋島直茂を家政者とし、朝鮮出兵の際に鍋島直茂を肥前国主と認め、また龍造寺高房が狂乱のうちに死去することがあって龍造寺家が断絶し、以後、鍋島家が龍造寺家の家督を相続していたのである。
江戸幕府も龍造寺家を認めなかったが、鍋島家が肥前の領主となる際、本家以外の龍造寺一族も鍋島直茂を支持し、そのために鍋島家の中では、特別に力を持つ家柄として存続していたのである。それによって鍋島家の中では龍造寺一族は代々重職をもつ家柄となったが、裏では、鍋島家と龍造寺家は積年の確執をもった存在でもあった。それゆえ、龍造寺家の流れを持つ小城藩の天源寺行部は、嗣子がどうしても必要だったのである。そして、美男子で才媛豊かな人物よりも、体格が良くて病など無縁のような雨宮蔵人を咲弥の婿として選んだのである。
だが、婚礼の夜、咲弥は、前夫は学問教養が高く、和歌をたしなみ、「願わくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ」という西行の歌を好み、「花」は桜を意味し、咲弥の名前の由来である桜にちなんで歌った歌に自分の想いを籠めていたと語り、蔵人もその心を表す歌を示すまでは寝屋を共にしないと宣言する。和歌など親しみのなかった蔵人は困惑し、愕然としてしまう。咲弥は蔵人を自分の夫と認めなかったばかりか、彼が目薬を売っているということを聞いて軽蔑さえしてしまうのである。
咲弥と蔵人は夫婦になったが、それは形ばかりで、そのことが藩内に知られてしまい、蔵人の従姉妹で咲弥にふさわしいと噂されていた美男子の深町右京も心配して訪ねてくる。だが、蔵人は、「わしが嘲られておるだけで、咲弥殿の評判が上がったのならよいではないか」「わしは望まれたことに応えられなかった」と言うだけであった(文庫版 30-31ページ)。
そうしているうちに、佐賀藩主鍋島光茂と嗣子綱茂、小城藩主鍋島直能の前で行われる鎧揃えの儀式の時に、何者かが矢を射かけるという事件が起こってしまった。この時、主君の直能の前ではなく、本藩の鍋島綱茂の前に立ちふさがって鎧に矢を受けて防いだのが雨宮蔵人で、続けて放たれた矢を切り払ったのが従姉妹の深町右京だった。だが、矢を防いだ功績ではなく、主君ではなく本藩の世子を守ったということで、蔵人の評判はがた落ちし、矢を斬り落とした従姉妹の深町京介の名は上がった。義父である天源寺行部がそのことを問い糾したとき、蔵人は矢筋を見極めるために矢の面前に立ったのだと応える。蔵人は愚直なまでにまっすぐに振る舞う。
このことを見抜いたもうひとりの人物がいた。それは、小城藩江戸屋敷で剣術師範をしていた柳生新陰流の巴十太夫で、やがて、この巴十太夫と蔵人は死闘を演じることになるが、小城藩はこの柳生新陰流をお家流儀としていた。小城藩にはもう一つ小太刀を得意とする戸田流があり、雨宮蔵人はこの戸田流を学んでいたのである。お家流儀の柳生新陰流ではなく、戸田流を学んでいたというところも、この雨宮蔵人の生き方を示す重要な鍵となっている。
参勤交代で江戸に出てきた雨宮蔵人は、小城藩の継嗣であった鍋島元武の前でこの巴十太夫と試合をさせられ、巴十太夫はわざと負け、それを見ていたまだ十四歳に過ぎなかった元武から、先の鎧揃えの時に本藩の鍋島綱茂に矢を射かけたのが義父の天源寺行部で、天源寺行部は、先の島原の乱で先駆けし、鍋島藩を苦境に追いやったことで分家の家老に追いやられた恨みを持っていたと告げられ、その天源寺行部を討つように密命を受けるのである。
島原の乱の際、農民が立て籠もった原城攻めは2月28日と決められていたが、27日の夜に状況を見極めた天源寺行部と江戸留守居心得の鍋島大膳亮が先駆けして原城に乗り込んでしまうということが起こったのである。幕府軍も予定を繰り上げて総攻撃を行うことになったが、このことで佐賀藩は軍令違反で咎められることになった。鍋島大膳亮は墊居させられ、天源寺行部は支藩の小城藩に追いやられた。
本書では、彼ら二人が先駆けして原城に乗り込んだ際、そこにいた小西家の牢人黒滝左兵衛と闘い、大膳亮が背後から槍で刺して殺したが、その時に黒滝左兵衛と一緒にいた六歳の男の子を見逃し、この男の子がやがて成長して、佐賀藩に恨みを抱きつつ、幕府老中柳沢保明の用人となり、水戸光圀の思惑をくじいて佐賀藩を窮地に陥れようとするという遠大な構想の一つの要となっている。
雨宮蔵人が江戸にいる間、蔵人の従姉妹の深町右京が天源寺家に足げく通うようになり、人々は、行部が、何の取り柄もないような蔵人を離縁させて、前夫に似て才豊かで見目も良い深町右京を婿に取るつもりではないかと噂しはじめたりする。咲弥は蔵人に対しては愛情を抱くことができなかったし、まだ子どものころに桜狩りに出かけたときに道に迷っていたところ、桜の木の上で雲を見ていた少年から助けられたという話を聞き、それが深町右京ではないかと思ったりする。右京は咲弥から西行の歌で好きなものがあるかと聞かれ、即座に答えることができるほどの教養もあり、やがて、御歌書役に任じられ、藩主の鍋島光茂が古今和歌集の伝授を受けるのを助ける役を仰せつかり、その際には才豊かな咲弥を嫁として連れて行ったらどうかという話も出る。だが、右京の心中は、蔵人の人柄をよく知っており、なんとかして咲弥の蔵人に対する誤解を解きたいと願っていただけである。
他方、江戸の蔵人は義父の天源寺行部の暗殺を小城藩継嗣の鍋島元武に命じられ、自分の父親が桜狩りの際の天現寺家の姫(咲弥)が道に迷ったことの失態を咎められて役を解かれ、傷心の中で病死したことなど思い起こし、天源寺行部とは少なからぬ因縁があったのだが、近習として仕える元武が疱瘡を患ったときも寝ずの看病をし、薬湯を作ったり藻草で灸をすえたりしながら、自分は「天地に仕える」ということを公言したり、あるいは、苛められていた鍋島綱茂の近侍が苛めていた先輩格の人間たちを斬り殺す事件に関わったりしていた。そして、越後牢人黒滝五郎兵衛とひょんなことから出会うのである。
黒滝五郎兵衛は、島原の乱の時に原城から逃げのびた少年で、やがて細川家の家臣に拾われて育てられ、武術を学んでいたが、育ての親の妾と懇ろになり、「キリシタンは外道だな」と罵倒されて、育ての親を殺してしまい、出奔し、越後まで流れ、雪の中で倒れていたところを助けられ、越後高田藩小栗家の小栗美作(みまさか)に気に入られて、仕えていたが、高田藩の内紛騒ぎで小栗美作から幕府の状勢を探るように命じられて、江戸に出てきていたのだった。
雨宮蔵人は、自分は天地に仕えると語り、黒滝五郎兵衛は、島原の乱で絶望を見てきていた自分はそういうことが大嫌いだと語っていく。二人は奇妙な縁であるが、その後、水戸光圀と柳沢保明の争いや佐賀鍋島藩への工作などで微妙に絡まっていくのである。やがて、元武から義父の天源寺行部を暗殺する密命を帯びたまま、参勤交代が開けて国元に帰国することになるのである。
前半だけで、これだけの話の展開が重層的に語られ、その中で雨宮蔵人のまっすぐで開かれた公然性をもつ人柄が語られているのだが、何ものにも動じないでどっしりと立ち向かう姿は、「天地」という「いのち」に誠実であろうとする姿であり、それがさりげなく示されている。彼はただ、天地とその命を大切にしようと心がける。不器用なまでに武人である。自分でどうすることもできない運命もあるが、その中を歩み続ける。こういう主人公が真面目に生きようとする人の心を打たないわけがない。しばらく瞑目して、この主人公の姿を考えたりした。
物語は、これから次第に頂きに向かって上っていくが、続きはまた次回に書くことにする。
2011年11月1日火曜日
葉室麟『秋月記』(2)
葉室麟『秋月記』(2009年 角川書店)の続きであるが、主人公の間小四郎らが行った「織部くずれ」と呼ばれる藩政の改革には、次第に福岡藩中老の村上大膳の出世を目論んだ画策があったことが明らかになっていく。「織部くずれ」の後、間小四郎は、宮崎織部に無理やり女中奉公に出させられていた「いと」に出会い、無理を強いたのが姫野三弥であり、宮崎織部は「いと」には手をつけずに、ただ女中奉公させていただけだったことを知り、また、秋月藩の意向を無視して、福岡藩の指導が強くなっていくことに不信を感じて、幽閉されている宮崎織部を密かに訪ねる。
そして、宮崎織部の口からすべては秋月藩を乗っ取ろうとする福岡藩の思惑があったことを聞かされ、福岡藩が「伏影」と呼ばれる隠密の姫野三弥を送り込み、藤田伝蔵はその姫野の正体を探ろうとして「伏影」に殺されたということを聞く。藩には金がなく借財ばかりで、宮崎織部はその藩の借財を福岡藩に負ってもらうことで借財の帳消しを考えていたと言う。そしてさらに、自分が糾弾を甘んじて受けたのは、自分が捨て石になって藩の立て直しを図らせようとしたものだとも言う。宮崎織部は、その藩の立て直しを間小四郎らに委ねると語るのである。
宮崎織部を訪ねた帰りに、間小四郎と海賀藤蔵は、宮崎織部を見張っていた福岡藩の「伏影」に襲われ手傷を負うが、帰藩して、これまでのすべてが姫野三弥の画策によったことや恩師の藤田伝蔵を殺されたこと、また真相を書いた藤田伝蔵の手紙を届けようとして医師の香江良介が「伏影」と思われる隠密から殺されたこと、次第に姫野三弥が傲慢な振る舞いをするようになったことなどから、姫野三弥と対決し、決闘をして彼を討ち果たす。死に際に、姫野三弥は、福岡藩の中老村上大膳が家老になるためにばらまく金が必要で秋月藩を私物化しようとしたことを告げるのである。
ちなみに、「伏影」に殺された医師の香江良介と原古処の娘「猷(はら みち 原采蘋)」との間に縁談があったと本書ではされている。本書の中では、猷(みち)がまだ少女の頃、最初に石橋が崩れ落ちたときに石橋の上で詩を考えていた猷(みち)を偶然その場にいた間小四郎が助け、それ以来、猷(みち)は小四郎に思慕を抱いていたが、小四郎には愛妻の「もよ」があることから諦めて、その縁談に応じていたとされている。だが、香江良介が殺され、ついに結婚することなく、女流漢詩人として生涯を送ることになるとされている。猷(みち)の間小四郎に対する思慕は密かに抱かれたままになっているとされているのである。もちろん、この辺りは作者の創作であろうが、味のある展開になっている。
間小四郎と姫野三弥の決闘は、体面をおもんばかる福岡藩によって不問に伏され、間小四郎は、福岡藩から監督に来ていた沢木七郎から郡奉行に任命される。この郡奉行として百姓の生活を目の当たりにした経験が、民百姓のために藩政があるという自覚へと繋がり、彼の生き方を変えていくようになっていく。
その二年後、秋月藩に江戸幕府から京都の中宮御所造立と仙洞御所修復の命が下されてしまう。藩財政は窮乏を極めており、その金を福岡藩から引き出すために、間小四郎は、秋月藩の家老を説得し、監督役であった福岡藩の沢木七郎に代わって井出勘七が来ることになる。福岡藩からの借財は認められるが、井出勘七は半知(俸禄が半分になること)を命じ、藩士たちの生活はますます窮乏していくことになる。
そうした中で、間小四郎は、郡奉行として見廻りに出た際に、姫野三弥に殺された石工を慕っていた「いと」に出会う。「いと」は実家にもどっていたが、殺された石工と恋仲になり、宮崎織部の手がついた噂されて村人から蔑視され、一家の厄介者として山仕事をしていた。村人から疎外されていたが、山に群生していた寒根葛(かんねかずら)から葛(くず)を作ることを祖母から聞き、葛ができれば村人が助かることを一念にして葛を造る方法を模索していたのである。苦労して葛作りを成功させ、郡奉行である間小四郎に見せ、これは秋月の名産になるかもしないと喜ぶ。しかし、「いと」は労咳を患っている。小四郎は養生するようにと幾ばくかの金を渡す。
「いと」を案じて、翌春、小四郎が「いと」を訪ねてみると、薄暗い納屋の奥に藁を敷き、粗末な夜具の中に痩せ衰えた「いと」が横たわっていた。
「どうしたことだ。わたしが与えた金で薬は購わなかったのか」・・・
「御奉行様-」と「いと」はかすれた声で応える。
「百姓は貧しいのです。治らない病人に高い薬を使うのはもったいないから、薬はいらない、とわたしが申したのです」
「そなたという女は-」
「わたしは葛を作ることができたから、幸せです。思い残すことはありません。きっと久助さんが立派な葛を作ってくれて、皆の暮らしの助けになります」
「ならば、なおのこと養生すればよいではないか」
「いえ、もうよいのです」
「なにー」
「わたしは、もう人の役に立ちましたから」
いとは静かに目を閉じた。小四郎の背後で久助が忍び泣いた。いとが息を引き取ったのはそれから一月後であった(195ページ)。
「いと」の最後を語るこの場面は、目に浮かぶような場面である。秋月の葛は本当に美味しい。わたしは秋月を訪れる度にくず餅を美味しくいただいた。「いと」は、もちろん作者の創作上の人物だろうが、もし秋月を再び訪れ、くず餅を食べるときがあれば、わたしは必ずこの場面を思い起こすだろう。たぶん、涙ながらにくず餅を食べるだろう。そんな気がする。
さて、文政4年(1821年)、間小四郎は郡奉行と町奉行を兼務することになる。35歳の時である。秋月藩は相変わらず福岡藩の指導監督の下に置かれ、藩の財政は逼迫して借財はふくれる一方で、半知(俸給の半減)が続いていた。そして、この年、秋月の監督に当たっていた福岡藩の井出勘七は、もはや半知に秋月藩士が耐えられなくなっているので、半知をやめる代わりに借金をしている大阪商人に返済の12年停止を申し入れるよう間小四郎に命じる。大阪商人は本藩である福岡藩の保証がなければそれに応諾しないだろう。それによって秋月藩の支配をますます強めようとする意向があることも明白である。なんとか福岡藩の支配から独立したいと願っていた間小四郎は、「織部くずれ」の際に一緒に働いた友人たちに相談するが、福岡藩の支配もやむを得ないと考えるようになっていた友人たちとは次第に齟齬が生まれてきていることを感じざるを得なかった。間小四郎は、次第に孤立していく。
藩の監督者である井出勘七と共に大阪に出向いた間小四郎は、藩財政のすべてを暴露し、「いと」が考案した名産となるかもしれない葛を示したり、福岡藩の保証がなくても、福岡藩は秋月藩を見捨てることができないという論陣を張ったりして、大阪商人を説得する。秋月の独立、それが間小四郎の念願となり、それが、かつて自分が糾弾した家老の宮崎織部の願いでもあったことを感じていくのである。
この辺りから、間小四郎は宮崎織部と同じ道を進んでいくことになる。帰藩した間小四郎を待ち受けていたのは、借財返済停止の功ではなく、藩財政を大阪商人にすべて明かしたことに対する非難であった。記録が引用され、「意ニ任セテ弛緩ス。遂ニ国計ノ大本ヲ洩ラス」という非難の渦の中に置かれて孤立していくのである(213ページ)。
それと同時に、かつて福岡藩から暗躍者として送られてきた隠密「伏影」の姫野三弥と決闘して彼を討ったことで、「伏影」の統領である父親の姫野弾正らが仇討ちと称して乗り込んでくる。福岡藩に敵対する者をそれによって排除しようという狙いがある。間小四郎はかつての盟友たちとの齟齬がある中で、ひとりそれに立ち向かおうとするが、小四郎に想いを寄せている原猷(みち)が友人たちを説得し、その助けを借りて彼はその企てをようやく退けることができる。原猷(みち)は、男装をして諸国を巡り歩き、女流漢詩人としての名声を高めていたが、この時、仇討ちの噂を聞いて急きょ秋月に帰って来ていたのである。
こうして、旧友たちの助力によって福岡藩の思惑を退けることができたが、彼らとの齟齬は避けがたく、特に藩の重職であった伊藤惣兵衛との溝と対立が表面化していく。伊藤惣兵衛は中老となり、伊藤吉左衛門と名を改め、藩政の一派を形成しようとし、また、間小四郎のもとにも人々が集まって一派を形成しようとしていた。そういう中で、日田の掛屋(金貸し)から借りている借金の肩代わりを大阪商人に依頼するために大阪に行くように命じられる。
大阪で、多くの商人たちは借金の肩代わりを渋ったが、堺屋という大店の呉服商の内儀がそれを引き受けるという。その内儀というのは、かつて織部くずれの時に弾劾した家老の渡辺帯刀に愛する者を殺され、身請けされて秋月に来ていた芸妓の「七與(ななよ)」であった。「七與」は、自分の愛する者を殺した渡辺帯刀を間小四郎が弾劾してくれたことを感謝するが、秋月での人々の自分に対するひどい仕打ちもあり、金を貸す代わりに人別講(領民から特別な人頭税を取ること)で金を集めろ、と言う。間小四郎は人別講で領民を苦しめることを拒絶し、大庄屋からの寄進を集めることを提案する。そこで、「七與」は、それを承諾する代わりに賄賂を受け取り、その金で秋月藩を牛耳れるほどの出世をしろという。
間小四郎は、藩の財政窮乏の救済のために、毒を食う覚悟をして、「七與」の申し出を受け入れ、賄賂金を受け取り、これを藩内の重役たちに配って、やがて中老に昇進する。孤立はますます深くなり、飢饉に備えて備蓄米を蓄えることを行おうとしたことも、反対派からは人気取りだと受け止められていた。
そういう中で、秋月は、文政11年(1829年)に大洪水が襲い、続いて大風(台風)が襲うという惨劇に見舞われる。この時、間小四郎をなきものにしようとする福岡藩の隠密の「伏影」が動き、原猷(みち)を人質に取るという事件が発生し、そのことと金を貸して賄賂を送った「七與」との関連が明らかになる。間小四郎は、単身で原猷(みち)を救い出すが、その時に「七與」から自分の企みが福岡藩の差し金で、間小四郎に賄賂を贈って人々の評判を悪くして、かつての宮崎織部のように失脚させる計略があったことを知るのである。
また、洪水と暴風によって痛めつけられた領民の救済策として減免策が出るが、自分がその減免策に反対することで、反対派によって減免策を行わせようという小細工を行い、そのために間小四郎に対する不満は領内に満ちてしまうようになる。彼はやむを得ずに隠居する。こうして彼は藩政の表舞台からは退き、余楽斎と名乗るが、藩政から退くつもりはなく、陰の権力者としての道を歩み始めるのである。そして、やがて藩を私したことで弾劾されるのである。それは自分が弾劾した宮崎織部と同じ道で、秋月藩の福岡藩からの独立のためと藩の救済のために自らを捨て、汚れてもなお矜持をもって生きた生涯だったと本書は結ぶのである。
この間小四郎の生涯を原猷(みち-原采蘋)の漢詩で、作者は次のように語る。
独り幽谷の裏に生じ
豈(あに)世人の知るを願はんや
時に清風の至る有れば
芬芳(ふんぼう)自ら持し難し
原猷(みち-原采蘋)に「生き方において詩を書いた人」と言わしめて、作者は傲慢に私腹を肥やしたと言われる間小四郎の生き様を描き出したのである。
わたしは個人的には政治や策略に生きる人間はどうも好きになれないが、思うに、人は、その外的なものが何であれ、あるいはどのような評価や判断が下されようと、ただその人の内実しか残らない。その自分の内実に誠実であること、ただそれだけである。いつの世も、世は度し難いが、ただそれだけあればよい。そして、たった一人でいいから、そのように生きている自分をわかってくれる人が有れば、これに優る幸いはないだろう。その一人を得ることすら極めて難しいことであるが。
こうして作品の筋を追うだけでも、葉室麟は極上の部類に属する作家だとつくづく思う。彼の作品は、一つの文学で、よく考え抜かれた巧みな構成と主張、あるいは思想性と言ってもいいものがにじみ出ている。わたしは、この作家の作品を同級生で作詞家のM氏から教えてもらったのだが、こういう作品があることを知って深く感謝している。
そして、宮崎織部の口からすべては秋月藩を乗っ取ろうとする福岡藩の思惑があったことを聞かされ、福岡藩が「伏影」と呼ばれる隠密の姫野三弥を送り込み、藤田伝蔵はその姫野の正体を探ろうとして「伏影」に殺されたということを聞く。藩には金がなく借財ばかりで、宮崎織部はその藩の借財を福岡藩に負ってもらうことで借財の帳消しを考えていたと言う。そしてさらに、自分が糾弾を甘んじて受けたのは、自分が捨て石になって藩の立て直しを図らせようとしたものだとも言う。宮崎織部は、その藩の立て直しを間小四郎らに委ねると語るのである。
宮崎織部を訪ねた帰りに、間小四郎と海賀藤蔵は、宮崎織部を見張っていた福岡藩の「伏影」に襲われ手傷を負うが、帰藩して、これまでのすべてが姫野三弥の画策によったことや恩師の藤田伝蔵を殺されたこと、また真相を書いた藤田伝蔵の手紙を届けようとして医師の香江良介が「伏影」と思われる隠密から殺されたこと、次第に姫野三弥が傲慢な振る舞いをするようになったことなどから、姫野三弥と対決し、決闘をして彼を討ち果たす。死に際に、姫野三弥は、福岡藩の中老村上大膳が家老になるためにばらまく金が必要で秋月藩を私物化しようとしたことを告げるのである。
ちなみに、「伏影」に殺された医師の香江良介と原古処の娘「猷(はら みち 原采蘋)」との間に縁談があったと本書ではされている。本書の中では、猷(みち)がまだ少女の頃、最初に石橋が崩れ落ちたときに石橋の上で詩を考えていた猷(みち)を偶然その場にいた間小四郎が助け、それ以来、猷(みち)は小四郎に思慕を抱いていたが、小四郎には愛妻の「もよ」があることから諦めて、その縁談に応じていたとされている。だが、香江良介が殺され、ついに結婚することなく、女流漢詩人として生涯を送ることになるとされている。猷(みち)の間小四郎に対する思慕は密かに抱かれたままになっているとされているのである。もちろん、この辺りは作者の創作であろうが、味のある展開になっている。
間小四郎と姫野三弥の決闘は、体面をおもんばかる福岡藩によって不問に伏され、間小四郎は、福岡藩から監督に来ていた沢木七郎から郡奉行に任命される。この郡奉行として百姓の生活を目の当たりにした経験が、民百姓のために藩政があるという自覚へと繋がり、彼の生き方を変えていくようになっていく。
その二年後、秋月藩に江戸幕府から京都の中宮御所造立と仙洞御所修復の命が下されてしまう。藩財政は窮乏を極めており、その金を福岡藩から引き出すために、間小四郎は、秋月藩の家老を説得し、監督役であった福岡藩の沢木七郎に代わって井出勘七が来ることになる。福岡藩からの借財は認められるが、井出勘七は半知(俸禄が半分になること)を命じ、藩士たちの生活はますます窮乏していくことになる。
そうした中で、間小四郎は、郡奉行として見廻りに出た際に、姫野三弥に殺された石工を慕っていた「いと」に出会う。「いと」は実家にもどっていたが、殺された石工と恋仲になり、宮崎織部の手がついた噂されて村人から蔑視され、一家の厄介者として山仕事をしていた。村人から疎外されていたが、山に群生していた寒根葛(かんねかずら)から葛(くず)を作ることを祖母から聞き、葛ができれば村人が助かることを一念にして葛を造る方法を模索していたのである。苦労して葛作りを成功させ、郡奉行である間小四郎に見せ、これは秋月の名産になるかもしないと喜ぶ。しかし、「いと」は労咳を患っている。小四郎は養生するようにと幾ばくかの金を渡す。
「いと」を案じて、翌春、小四郎が「いと」を訪ねてみると、薄暗い納屋の奥に藁を敷き、粗末な夜具の中に痩せ衰えた「いと」が横たわっていた。
「どうしたことだ。わたしが与えた金で薬は購わなかったのか」・・・
「御奉行様-」と「いと」はかすれた声で応える。
「百姓は貧しいのです。治らない病人に高い薬を使うのはもったいないから、薬はいらない、とわたしが申したのです」
「そなたという女は-」
「わたしは葛を作ることができたから、幸せです。思い残すことはありません。きっと久助さんが立派な葛を作ってくれて、皆の暮らしの助けになります」
「ならば、なおのこと養生すればよいではないか」
「いえ、もうよいのです」
「なにー」
「わたしは、もう人の役に立ちましたから」
いとは静かに目を閉じた。小四郎の背後で久助が忍び泣いた。いとが息を引き取ったのはそれから一月後であった(195ページ)。
「いと」の最後を語るこの場面は、目に浮かぶような場面である。秋月の葛は本当に美味しい。わたしは秋月を訪れる度にくず餅を美味しくいただいた。「いと」は、もちろん作者の創作上の人物だろうが、もし秋月を再び訪れ、くず餅を食べるときがあれば、わたしは必ずこの場面を思い起こすだろう。たぶん、涙ながらにくず餅を食べるだろう。そんな気がする。
さて、文政4年(1821年)、間小四郎は郡奉行と町奉行を兼務することになる。35歳の時である。秋月藩は相変わらず福岡藩の指導監督の下に置かれ、藩の財政は逼迫して借財はふくれる一方で、半知(俸給の半減)が続いていた。そして、この年、秋月の監督に当たっていた福岡藩の井出勘七は、もはや半知に秋月藩士が耐えられなくなっているので、半知をやめる代わりに借金をしている大阪商人に返済の12年停止を申し入れるよう間小四郎に命じる。大阪商人は本藩である福岡藩の保証がなければそれに応諾しないだろう。それによって秋月藩の支配をますます強めようとする意向があることも明白である。なんとか福岡藩の支配から独立したいと願っていた間小四郎は、「織部くずれ」の際に一緒に働いた友人たちに相談するが、福岡藩の支配もやむを得ないと考えるようになっていた友人たちとは次第に齟齬が生まれてきていることを感じざるを得なかった。間小四郎は、次第に孤立していく。
藩の監督者である井出勘七と共に大阪に出向いた間小四郎は、藩財政のすべてを暴露し、「いと」が考案した名産となるかもしれない葛を示したり、福岡藩の保証がなくても、福岡藩は秋月藩を見捨てることができないという論陣を張ったりして、大阪商人を説得する。秋月の独立、それが間小四郎の念願となり、それが、かつて自分が糾弾した家老の宮崎織部の願いでもあったことを感じていくのである。
この辺りから、間小四郎は宮崎織部と同じ道を進んでいくことになる。帰藩した間小四郎を待ち受けていたのは、借財返済停止の功ではなく、藩財政を大阪商人にすべて明かしたことに対する非難であった。記録が引用され、「意ニ任セテ弛緩ス。遂ニ国計ノ大本ヲ洩ラス」という非難の渦の中に置かれて孤立していくのである(213ページ)。
それと同時に、かつて福岡藩から暗躍者として送られてきた隠密「伏影」の姫野三弥と決闘して彼を討ったことで、「伏影」の統領である父親の姫野弾正らが仇討ちと称して乗り込んでくる。福岡藩に敵対する者をそれによって排除しようという狙いがある。間小四郎はかつての盟友たちとの齟齬がある中で、ひとりそれに立ち向かおうとするが、小四郎に想いを寄せている原猷(みち)が友人たちを説得し、その助けを借りて彼はその企てをようやく退けることができる。原猷(みち)は、男装をして諸国を巡り歩き、女流漢詩人としての名声を高めていたが、この時、仇討ちの噂を聞いて急きょ秋月に帰って来ていたのである。
こうして、旧友たちの助力によって福岡藩の思惑を退けることができたが、彼らとの齟齬は避けがたく、特に藩の重職であった伊藤惣兵衛との溝と対立が表面化していく。伊藤惣兵衛は中老となり、伊藤吉左衛門と名を改め、藩政の一派を形成しようとし、また、間小四郎のもとにも人々が集まって一派を形成しようとしていた。そういう中で、日田の掛屋(金貸し)から借りている借金の肩代わりを大阪商人に依頼するために大阪に行くように命じられる。
大阪で、多くの商人たちは借金の肩代わりを渋ったが、堺屋という大店の呉服商の内儀がそれを引き受けるという。その内儀というのは、かつて織部くずれの時に弾劾した家老の渡辺帯刀に愛する者を殺され、身請けされて秋月に来ていた芸妓の「七與(ななよ)」であった。「七與」は、自分の愛する者を殺した渡辺帯刀を間小四郎が弾劾してくれたことを感謝するが、秋月での人々の自分に対するひどい仕打ちもあり、金を貸す代わりに人別講(領民から特別な人頭税を取ること)で金を集めろ、と言う。間小四郎は人別講で領民を苦しめることを拒絶し、大庄屋からの寄進を集めることを提案する。そこで、「七與」は、それを承諾する代わりに賄賂を受け取り、その金で秋月藩を牛耳れるほどの出世をしろという。
間小四郎は、藩の財政窮乏の救済のために、毒を食う覚悟をして、「七與」の申し出を受け入れ、賄賂金を受け取り、これを藩内の重役たちに配って、やがて中老に昇進する。孤立はますます深くなり、飢饉に備えて備蓄米を蓄えることを行おうとしたことも、反対派からは人気取りだと受け止められていた。
そういう中で、秋月は、文政11年(1829年)に大洪水が襲い、続いて大風(台風)が襲うという惨劇に見舞われる。この時、間小四郎をなきものにしようとする福岡藩の隠密の「伏影」が動き、原猷(みち)を人質に取るという事件が発生し、そのことと金を貸して賄賂を送った「七與」との関連が明らかになる。間小四郎は、単身で原猷(みち)を救い出すが、その時に「七與」から自分の企みが福岡藩の差し金で、間小四郎に賄賂を贈って人々の評判を悪くして、かつての宮崎織部のように失脚させる計略があったことを知るのである。
また、洪水と暴風によって痛めつけられた領民の救済策として減免策が出るが、自分がその減免策に反対することで、反対派によって減免策を行わせようという小細工を行い、そのために間小四郎に対する不満は領内に満ちてしまうようになる。彼はやむを得ずに隠居する。こうして彼は藩政の表舞台からは退き、余楽斎と名乗るが、藩政から退くつもりはなく、陰の権力者としての道を歩み始めるのである。そして、やがて藩を私したことで弾劾されるのである。それは自分が弾劾した宮崎織部と同じ道で、秋月藩の福岡藩からの独立のためと藩の救済のために自らを捨て、汚れてもなお矜持をもって生きた生涯だったと本書は結ぶのである。
この間小四郎の生涯を原猷(みち-原采蘋)の漢詩で、作者は次のように語る。
独り幽谷の裏に生じ
豈(あに)世人の知るを願はんや
時に清風の至る有れば
芬芳(ふんぼう)自ら持し難し
原猷(みち-原采蘋)に「生き方において詩を書いた人」と言わしめて、作者は傲慢に私腹を肥やしたと言われる間小四郎の生き様を描き出したのである。
わたしは個人的には政治や策略に生きる人間はどうも好きになれないが、思うに、人は、その外的なものが何であれ、あるいはどのような評価や判断が下されようと、ただその人の内実しか残らない。その自分の内実に誠実であること、ただそれだけである。いつの世も、世は度し難いが、ただそれだけあればよい。そして、たった一人でいいから、そのように生きている自分をわかってくれる人が有れば、これに優る幸いはないだろう。その一人を得ることすら極めて難しいことであるが。
こうして作品の筋を追うだけでも、葉室麟は極上の部類に属する作家だとつくづく思う。彼の作品は、一つの文学で、よく考え抜かれた巧みな構成と主張、あるいは思想性と言ってもいいものがにじみ出ている。わたしは、この作家の作品を同級生で作詞家のM氏から教えてもらったのだが、こういう作品があることを知って深く感謝している。
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