5日の土曜日は雨で、夜八時ごろに夕食の買い物に出かけようとして止めたほどだったが、6日の日曜日は、富士山が見えるほどの快晴になった。今日も快晴だが、昨日ほど気温が上がらない。晴れた青空の下で街路樹の銀杏の葉が舞い落ち、ほとんど尖った枝だけが天を指すようになってきた。
前回の続きであるが、北原亞以子『風よ聞け』で、伊庭八郎を慕い続ける娼婦の目を通して、彰義隊と新政府軍の上野戦争の姿が描き出される。それは、これがどのような戦いであったのかの歴史報告などでは決してなく、戦場である上野に近い吉原で、砲火の音におびえながら過ごさなければならない人間の戦争体験であり、戦火にまどう庶民の日常の体験にほかならない。人の姿とはいつもそうだろう。
歴史上の大きな出来事は、いつも、人間にとっては、渦中の中での不安や脅え、そして、戸惑いとして経験されていくものに過ぎない。出来事を客観的に分析する思想が歴史を作るのではなく、その小さな不安の経験が歴史を作るのである。人は、それぞれの自分の世界でしか生きることができない。作者は、それを本当によく知っている。
伊庭八郎を慕う娼婦がいる妓楼の客に、彰義隊に参加した者も、また、新政府の密偵として入りこんでいる者も、そして、その頃に出始めた新聞を作る者もいる。それぞれの事情がある。その事情を語ることで、作者は、決して歴史の善悪の軽々しい判断をしない。わたしがこの作者が好きなのは、そういうところもあるからである。そして、それらの人たちの会話を通して、旧幕府軍と新政府軍の状況の推移が知らされていく。そして、彼女の思い人である伊庭八郎の消息が、噂を含めて少しずつ知らされていく。こういう仕掛けが、本当にいいと思う。
一方、伊庭八郎の姿を描き出すためにだが、福沢諭吉らと米国に渡った英語通詞(通訳)を務める夫婦が描かれている。この夫婦は、深い愛情と思いやりで強く結ばれている夫婦で、夫は、攘夷運動が盛んな頃には、さんざん苛められたり、身の危険を感じなければならなかったことが多かった人で、新しい気風を身に着けた人であり、妻は、そのような夫を心から支えていく。この妻が、伊庭八郎の妻となる御徒士の娘と友人である。この夫婦の姿は、ほのぼのとして、読んでいて嬉しくなる姿である。この二人が、伊庭八郎とどのように関わっていくのかは、この巻ではまだ記されていない。
江戸湾から幕府海軍のにらみを利かせて戦況を有利に運ぼうとした勝海舟をはじめとする旧幕府軍は、榎本武揚の優柔不断さ(解釈はいろいろある。榎本武揚もそれなりの人物であったが、わたしは個人的にはどうも函館戦争での彼の決断が気に入らない)と烏合の衆であった彰義隊の統制のとれなさによって、伊庭八郎は箱根で孤立する。こういう策略や作戦は、いつも失敗するのが歴史の教訓というものである。やがて、伊庭八郎は会津に向かい、それから榎本武揚と共に函館に向かうが、この「雲の巻」は、ここで終わっている。伊庭八郎と結ばれた娘は、彼を待ち続ける。
それにしても、北原亞以子が描いている三人の女性は、それぞれ境遇が異なり、その境遇の中で精一杯生きており、奥ゆかしいが、しかし、自分の考えをはっきりもって、それを表わしていく女性たちである。社会と運命の激流の中で、けなげで、毅然として、そしてそれゆえに、美しい。それは、決して揺らぐことのない自分の「愛する心」を大切にする美しさである。女流作家ならではの描き方かもしれないと思ったりする。
この続編が書かれたのかどうか、北原亞以子の作品一覧を調べてみたが、見当たらなかった。これは1996年の講談社文庫書き下ろし作品として出されており、彼女は、現在、70歳を越えている(1938年生まれ)ので、もしまだだとしたら、続編を早く望みたい気もするが、これはこれで、いいのかもしれない。「結末」などは、人の人生にはないのだから。
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