2009年12月19日土曜日

佐藤雅美『八州廻り桑山十兵衛』(2)

 よく晴れているが、すこぶる寒い朝である。日本海側では大雪とのこと。このところ続けて伊豆で地震があり、ここでも揺れを感じていた。一昨夜の地震は、伊東で震度5というから、かなり揺れたかもしれない。今年の2月に修善寺の温泉に行き、帰りに「浄蓮の滝」を経て伊東を廻って、魚の干物を買って来たことを思い起こす。そのとき、伊豆半島は「逃げ道」がないので、半島全体を地震や津波が襲うと大変なことになるのではないかと思ったりした。

 数年後にはどこかに終焉の居を構えようと思って、あのあたりも、温泉はあるし、暖かくていいだろうと思い、下調べを兼ねて出かけたわけだが、どこに住んでもいいというのは、住むところがどこにもないということで、このままずるずると仕事を続けることだけは避けようと、いつも頭の片隅にその問題を抱えているので、ときおり、ふらっと下調べを兼ねて出かけたりする。

 この夏、九州の実家の近くにいい家の出ものがあるというので見に出かけたが、一足遅く、買い手がついてしまっていた。書斎として使えるような離れもある家だったので、残念だった。

 今日は土曜日でかなり忙しい土曜日になるのだが、昨日、佐藤雅美『八州廻り 桑山十兵衛』が途中で終わっていたので、これを記すことにした。

 昨日の続きであるが、主人公の桑山十兵衛は、自分流の自然体で生きているので、判断の間違いや失敗もある。第五話「密通女の高笑い」では、ある富農の女房が密通している現場を夫に見つかり、夫が相手の男を殺すという事件に関わるのだが、その女房は、相手の男に無理やり犯されたのだと主張する。当時、密通は死罪に値したが、そうであれば、女房は無罪となり、夫は殺人罪となる。

 桑山十兵衛は、どちらの言い分が正しいか判断できない。そうしているうちに、夫が獄死してしまい、その事件は不問のままに終わる。しかし、実際は、その女房が夫の財産を狙って、密通を仕掛け、わざと夫にばれるようにして、夫の気持ちを操り、罪を犯させようとしたのである。だが、夫が死んだあとでは妻の言い分が通り、桑山十兵衛は苦い思いを抱いたままである。女の策略は見抜けない。

 また、最後の「霜柱の立つ朝」では、自分の妻が不義を働き、娘の父親であるのが、娘を引き取って育てたいと願い出た旗本ではないかと疑い、その相手と剣を抜いて立ち会うが、実は自分の妻が不義を働いた相手は自分に忠実だと思っていた下僕であったことがわかるというものである。

 第四話「密命」の終わりでは、「小者の粂蔵、雇足軽の五兵衛、老僕の佐平――。男ばかりだが、彼らが親身になって支えてくれているのが、男鰥(やもめ)の桑山十兵衛にとって、救いといえばいえた」(文庫版 195ページ)と述べられていたのだが、彼の妻と不義を働いたのは、彼を支えていた老僕の佐平であったのでる。それを知った桑山十兵衛は、どうにもならない「いきどおり」を抱えて生きていかなければならなくなる。

 彼は、勘違いして立ち会った相手の旗本に、
 「江戸は広い。おぬしのような腕の男は掃いて捨てるほどいる」
 「おぬしは多分、瑞江殿(妻)に毛嫌いされていたのであろう。だから間男されたのだ」
 「おぬしなんかが相手にしてもらえるのは、せいぜいが白粉を塗りたくった田舎の安女郎。江戸の女の誰が相手するものか」(文庫版 399-400ページ)
 と罵倒されてしまう。

 彼は、このことによって娘までも失うことになる。こうした一切を主人公は背負って生きていく。それは、ある意味で、いくつかの「負」を背負ったまま日常を生きていかなければならない人間の姿でもある。それは、爽やかでもないし、颯爽としているのでもない。

 人は、どんなにまみれたものであっても、自分なりに自分の道を歩いていくしかない。佐藤雅美は、この作品でそういう人間の姿を赤裸々に描き出そうとしているのではないかと思う。シリーズとして続編が出されているので、そういう人間がどういうふうに描かれているのか、続きのシリーズをちょっと読んでみたいと思う。

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