2009年12月11日金曜日

平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(7) 寒椿の寺』(1)

 小糠雨が音もなく降っている。聞こえてくるのは、道路を行き交う車の騒音とドップラー効果の救急車のサイレンだけである。エンジン音だけでなく、タイヤが水しぶきを上げる音が痛めている頸椎に響く。「静寂」と言うことは、ここでは望むべきではないことであるが、昨夜、たぶんよく眠ったのだろう精神が妙に落ち着いている。眠り続ければ、いつまでも寝ることができるような気がするが、そうもいかない。

 昨夕から平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(7)寒椿の寺』(1996年 講談社 1999年 講談社文庫)を読んでいる。平岩弓枝の『御宿かわせみ』にひどくはまった頃に、このシリーズも、ほとんど以前に読んでいるので、もしかしたら前に一読したかもしれないと思いながらも、図書館の本棚で目についたので借りてきた。このシリーズで一番おもしろかったのは、『はやぶさ新八御用旅 東海道五十三次』ではないかと思う。

 このシリーズは、江戸中期に下級幕吏(下級役人)から南町奉行になった根岸肥前守鎮衛(1737-1815年)の内与力(今で言えば秘書官)である「隼新八郎」(作者の創作した人物)が、あまり表沙汰にはできない事件を解決していくという物語で、「隼新八郎」が内与力であるという設定によって、通常は町方が介入できない武家の事件にも正面切って関わることができるという、たいへん「うまい」設定になっている。時代小説の、いわゆる「捕り物帳」ものでも設定が異色のものだろう。

 もともと、根岸肥前守鎮衛は、自身で、約30年間に渡って在任中に聞いた公家から町人にまで及ぶ世間話を書きとめた『耳嚢』という全10巻、1000話以上にものぼる随筆を著しており、くだけたところのある名奉行で、平岩弓枝は、そこからこの物語の題材をとっているのだろうと思われる。

 平岩弓枝がこのシリーズで表わす根岸肥前守の姿も、頭脳明晰で懐の深い人物として描かれているし、主人公の「隼新八郎」をはじめとして、常に、弱者の側に立つ視座が明瞭に打ち出されている。

 主人公の「隼新八郎」は、神道無念流の達人で、頭脳は明晰、きっぷがよくて、非常に心優しい青年であるが、色恋には奥手で、それでも美貌の、あまり物事には拘泥しないのんびりした気質の妻がありつつも、かつての自分の母親の世話をしていた女中で、今は上役である根岸肥前守の奥女中をして細やかな配慮を見せる「お鯉」や、町方(岡っ引き)の娘で、粋でいなせなちゃきちゃきの江戸っ子気質の「小かん姐さん」に慕われたりして、物語に花を添えている。特に、彼と「お鯉」との関係は微妙で、ある種の緊張があるが、いわゆる「どろどろしたもの」はない。それが非常にいい。

 講談社文庫『はやぶさ新八御用帳(7)寒椿の寺』に収められているのは、1994年から1996年までの『小説現代』で発表された、「吉原大門の殺人」、「出刃打ち花蝶」、「寒椿の寺」、「桜草売りの女」、「青山百人町の傘」、「奥祐筆の用人」、「墨河亭の客」の7編で、それぞれ別々の事件である。

 この内、昨日は最初の3編を読んだ。第一話「吉原大門の殺人」は、越前大野藩の重役の息子が吉原でもめ事を起こし、ついには、そこで惚れていた素朴な性質をもつ妓を斬り殺して自らも割腹する無理心中事件を起こすという話である。

 これに関わった新八郎と、かつては「鬼勘」と呼ばれた名岡っ引きで引退している「勘兵衛」(「小かん」の父)が交わす会話が洒落ている。

 「岡源次郎(重役の息子)にしても、吉原なぞ行かなければ、よけいな恥をかかずに済んだのだ」
 「それは仕方がございますまい。万事、なりゆきでございますから・・・」
 「そりゃあそうだ」(文庫版 34ページ)

 「万事、なりゆき」、ほんとうにそうだろう。そして、その「なりゆき」でどうにもならない中に陥っていくのが人間かもしれない。わたしも「なりゆきでこうなったのだ」と思うことがしばしばある。平岩弓枝の、こういう人生の妙をさらりと流すところがいい。

 第二話「出刃打ち花蝶」は、上州(現在の群馬県)で大百姓が出刃包丁で殺害される事件の探索に隼新八郎が出かける話で、その事件は、殺された大百姓が金と権力で小作人の娘たちを凌辱していたことへの恨みを晴らすための事件であったことが分かるというものである。殺された大百姓は、その近郊では、いろいろなことを支援する有徳の人物だと言われていたが、実は、年端もいかない小作人の少女たちを凌辱していたことが明るみに出る。新八郎は、ここでも殺した側に思いやりを見せる。

 大体において、「有徳者」とか「人格者」とか言われるような人間の腹の底はわからないものである。人間は、基本的には「胃袋と性器」で出来ており、「精神(心)」がなければ、それまでなのだから。

 第三話「寒椿の寺」は、ある旗本が蔵前の札差(今で言えば銀行)の寮(別宅・・今で言えば別荘)で殺される事件を取り扱ったもので、彼は、その札差の出戻りの娘の許嫁であり、娘と寮に泊まった夜に殺されたのである。ふとしたことでこの事件と関わった隼新八郎は、この殺人の犯人が、娘の前夫で、表面は美丈夫で、堂々とし、自信に満ち、神道無念流の免許皆伝をもち、武道だけでなく漢学をよくし、茶道のたしなみもある名門の家中の若侍であることを突きとめる。この男は、他に好きな女ができて娘を離縁したのだが、その離縁した妻が他の男と結婚して幸せになることが我慢できないという狭い嫉妬心で相手の男を殺したのである。

 度量の小さな人間というのは山ほど存在する。わたしの周りにもそうした人は山ほどいる。自分の度量の小ささを知っている人間はともかく、自分の小ささを何かで誤魔化そうとする人間もいる。人はまた、その誤魔化された表面で誤魔化される。小さな人間は大きな人間がわからない。だから、人の評価ほどつまらないものはない。人は、その現れているものではなく精神に何を宿しているかによって、その人の大きさが決まっていく。度量の大きな人間ははじめからそういうことさえ考えないが、大きな人間だけが大きな人間を知っていくことができる。

 この小説で言えば、主人公の隼新八郎と上役の根岸肥前守、あるいは彼が友人と思っている同心の大久保源太、岡っ引きの「鬼勘」や彼を慕う「お鯉」や「小かん」などの、そうした関係が実に「さわやか」なのは、それぞれが度量の大きさをもっているからだろう。こうした「さわやかな関係」は『御宿かわせみ』でも貫かれている。それぞれが、自分の思いに素直で正直なのだ。そして、それで「よし」とする大きさがあるのである。

 平岩弓枝のこれらの作品が「おもしろい」のは、そうした素直さが一貫しているからだろうと思う。ともあれ、続きは、今夜にでも読み終えることにする。外は、雨は上がっているが灰色の寒空が広がっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿