2009年12月25日金曜日

藤原緋沙子『白い霧 渡り用人 片桐弦一郎控』

 よく晴れたクリスマスの朝になった。昨夜少し遅くなったので起きるのも遅く、なんとなくボーっとして午前中が過ぎてしまった。今日はこんなふうに一日が過ぎていきそうだ。

 朝、Tさんが親戚の家でとれたというキャベツや白菜をもって来てくださった。Tさんはプロテスタント教会の牧師の娘として生まれ育ち、今はたくさんのお孫さんに囲まれて過ごされている。90歳を越えている介護を必要とするお母さんのお世話にも心を砕かれている。御主人は植木職人として現役で働かれている。

 昨夜、というか丑三つ時を過ぎていたが、ベッドの中で藤原緋沙子『白い霧 渡り用人 片桐弦一郎控』(2006年 光文社文庫)を読んだ。これは、五日ほど前に読んだ『桜雨 渡り用人 片桐弦一郎控(二)』の第一作目で、勧善懲悪の娯楽時代小説ではあるが、やはり第一作目の方が作者の熱意や思い入れも深くていい。特に、金貸しで借金の取り立てを生業としている「おきん」という女性をめぐる事情など、主人公の片桐弦一郎を取り巻く登場人物たちの詳細が描かれていて、その描き方も丹念であるし、浪人となった主人公の生活苦もにじみ出ている。

 主人公の片桐弦一郎は、仕えていた大名家が取潰しにあい、その騒動で新妻も失い、就職活動をするが叶わず、ようやくわずかな労賃で筆耕の仕事をもらって細々と裏長屋で暮らしを立てている浪人で、地主大家の知り合いの「口入屋」(現:人材派遣屋)から頼まれて、貧苦にあえいでどうにもならなくなった旗本家の再興のために臨時の「用人(秘書官)」として働くようになるところから話が展開していく。

 その旗本家の道楽息子がした借金の取り立てに現れるのが「おきん」で、「おきん」は、飲む・打つ・買うの三拍子もそろった亭主を追い出し、女手一つで借金取り立て業をして子どもを育てるが、成人した子どもたちはそういう母親の生業を嫌って家を出ている。「おきん」は「青茶婆(金取り婆)」と嫌われているが、その内実は、気風のいいさっぱりした女性であり、やがて主人公を助けていく人物となる。

 雇われ用人として旗本家の借金を何とか減らしたいと思った主人公の片桐弦一郎は、その「おきん」の実情を知り、「おきん」の窮状を助け、祖語のあった親子の関係を修復させ、その息子を助けていったりする。このあたりは、親と子の関係の修復の姿が素朴に描かれていていい。

 主人公は、窮状していた旗本家を再興するために、旗本家の道楽息子を立ち直らせ、旗本家の領地に赴き、その実情を調べ、そこで無理難題を言うのではなく、紅花の栽培などのていあんをするなどして領民たちの暮らしも成り立つように知恵を働かせていく。その領地の村で起こった事件のために奔走したり、強盗を捕えたりする。物語は、旗本家の息子が妾腹の子であったり、友人から利用されていただけだったり、また、領民の中で村八分のようにして扱われていた娘が殺されたりと伏線がたくさんあり、それが繋がって主人公の再興の努力が実っていくというふうになって、結構面白く読めるように構成されている。

 主人公の片桐弦一郎は、細々とした自分の暮らしは貧しいが、そのことにあまり拘泥しないし、事にあたっても内情を正直に話して対応しようとする。彼は飾らない。そういうところが人々から信頼されて事件の解決にあたっていくのである。

 こういう主人公の設定は、それを言葉ではなく事柄で描き出そうとすると、なかなか難しいのだが、作者は、この作品ではそれを、出来事を丹念に描いていくことによって成功していると言えるような気がする。こういう作品は面白く読めればそれでいいのだから欲を言う必要はないが、万事がうまくいきすぎているような気がして、出来たら、主人公が手痛い失敗をしてしまうような状況の中で苦労することもあってもいい気もする。もちろん、それはない物ねだりではあるが、藤沢周平の『用心棒日月妙』のような展開になればいいと期待したりする。

 ただ、個人的には、何事にも拘泥しないという人間の姿は、わたしはとても好きで、臨時雇いの「渡り用人」だから自分の地位や名誉にも拘泥しないし、もちろん生活苦もあるのだから金銭の必要性もあるが、それにも拘泥しないところがいい。その意味で、この主人公は魅力的である。

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