2009年12月16日水曜日

藤沢周平『三屋清左衛門残日録』

 頬を刺す空気が痛く感じられるほど、ただ寒い。寒いとどうしても肩に力が入り、やがて何もしたくなくなる。そろそろ冬眠の季節なのだろう。毎年、この季節は異常なほど日程が混むが、いつも、冬眠したいと思ったりする。

 昨夜、気づいたら八時を過ぎていて、それから夕食を作って食べ、藤沢周平『三屋清左衛門残日録』(1989年 文藝春秋社 1992年 文春文庫)を読んだ。

 これは、文藝春秋社から出ている『藤沢周平全集』の第21巻にも収められており、その藤沢周平の全集はすでに一度読み終えているので再読したわけだが、以前には何でもなかったところにひどく感激したりして、改めて藤沢周平の作品の完成度の高さや人間観、描写の細やかさ、文章の素晴らしさや、彼の人間に対する優しい思いなど、しみじみと感じて、深夜に読み終えた時には、じんわりと涙が滲んできたほどだった。

 物語は、ある藩(藤沢周平が山形県庄内藩をモデルに創作した海坂藩)の用心(秘書官)という要職を退き、家督を息子に譲って隠居した三屋清左衛門が無聊を囲う隠居の日々の中で、藩が決して表沙汰にはすることができない藩の派閥争いと関わり、人情味あふれる仕方で解決していくという大きな構成を基に、老いの日々を綴っていくというもので、随所に、「老い」や「隠居して無用の人になること」や、周囲の人間の細やかで温かい配慮が出て来て、藤沢周平らしい、何とも言えない味わいのある作品になっている。

 その三屋清左衛門の心情の過程の描写だけをたどってみても、この作品の良さがよくわかる。

 要職を退き、隠居して、家督相続の披露の祝いが終わった後、すべてが順調に終わってほっとした時の心情として、藤沢周平は、「これで三屋家は心配がない、と相続にからむ一切の雑事から解放されたとき清左衛門は思ったのだが、その安堵の後に強い寂寞感がやって来たのは、清左衛門にとって思いがけないことだった」(文庫版 10ページ)と記す。

 そして、「夜ふけて離れに一人でいると、清左衛門は突然に腸をつかまれるようなさびしさに襲われることが、二度、三度とあった。そういうときは自分が、暗い野中にただ一本で立っている木であるかのように思い做されたのである」(文庫版 12ページ)と続け、「ところが、隠居した清左衛門を襲って来たのは、そういう開放感とはまさに逆の、世間から隔絶されてしまったような自閉的な感情だったのである」(文庫版 13ページ)と語る。

 「隠居することを、清左衛門は世の中から一歩しりぞくだけだと軽く考えていた節がある。ところが実際には、隠居はそれまでの清左衛門の生き方、ひらたく言えば暮らしと習慣のすべてを変えることだったのである」(文庫版 14ページ)と無聊を囲い、その空白感を埋めるために、中途半端に終わっていた学問(経書を読む)や道場通い、釣りなどを始めようとする。

 そうした中で、若い頃からの友人で町奉行をしている「佐伯熊太」が訪ねて来て、表沙汰にはできない事件の解決を依頼して来て、そのことをきっかけにして藩の派閥争いの込入った問題と関わっていくのだが、清左衛門は、現役の町奉行として働くその友人に「隠居は急がぬ方がよい」と言い、「やることがないと、不思議なほどに気持ちが萎縮して来る」と言ったりするし、事件が解決した後でも、「隠居と働きざかりの町奉行とは、感想にも差が出る」(文庫版 42ページ)と思ったりする。

 また、30年ぶりで道場通いを始めた頃、「三屋清左衛門の身体は油の切れかかった車同様にさびついていたのである。少し無理に動かすと、身体はたちまち軋み声を立てた」(文庫版 44ページ)とあり、自分と同年輩の者が、残り少なくなった日々のためか、昔のことを自分の思いこみで悔み、自害したりする事件の真相を知ったり、昔の同僚で、藩の勢力争いに敗れて落ちぶれてしまっている人間から、嫉妬のために命を狙われたり、あるいは、昔、ふとしたことで袖摺りあった美女の娘と出会い、その娘が陥っていた問題を解決したり、悋気を起こしてやつれた自分の娘の夫が、藩の派閥争いのために働いていることを知ったりしていく中で、次第に気力を取り戻していくのである。

 その姿を藤沢周平は、「道場に通いはじめたころは、長い間使わなかった身体があちこちと痛み、木刀で型を遣うだけで息が切れ眼がくらんだものだが、近ごろはそういうことはなくなった。そして身体が馴れるにしたがって、不思議にも清左衛門は、有望だと言われた若いころの竹刀遣いの勘までもどって来るのを感じたのである」(文庫版 131-132ページ)と記す。

 そして、「たかが隠居と侮らぬ方がよい」(文庫版 188ページ)と派閥争いを企む者に言い、子どもたちの剣の稽古の面倒を見ては、「-わしも・・・・。まだ捨てたものではない」(文庫版 191ページ)と思ったりする。

 こうして清左衛門は、友人に依頼されたり、藩の奥女中の難儀を救ったり、また通い始めた小料理屋の女将が抱えていた男問題から女将を助けだしたりしながら、次第に家督相続争いにまで発展しそうになった藩の派閥の争いに関わっていくことになるのである。彼は忙しくなる。

 しかし、夏風邪をひいて寝込んだ時、「うたた寝からさめたときなど、清左衛門はそういう自分をたとえば一枚の紙のように、軽くて頼りないものに感じたりした。そして床について三日ほどすると、急に足が弱くなって、起き上がると身体がふらつくのにもおどろいた。ふだん釣りに出かけたり道場に通ったりして足腰を鍛えているつもりでも、齢はあざむけぬと清左衛門は思った。たがが風邪でこんなにへこたれるとは、若いころは思いもしなかった」(文庫版 270ページ)と思ったりする。そして、息子嫁に手厚く看護されながらも、「その手厚い庇護が、連れ合いを失った孤独な老人の姿をくっきりと浮かび上がらせるのも事実だった。その老境のさびしさは、足もとを気遣いながら紙漉町の道場にたどりつくまで、清左衛門につきまとった。病は気をも弱らせるものかも知れなかった」(文庫版 272ページ)と心境が語られ、昔の友人が若い妾をもったことを聞いても、「病気で倒れたとき、あの若い妾が親身に看護してくれるかどうかは疑問だと、清左衛門は思った。しかし偬兵衛(友人)も自分も、そういうことで足掻く齢になったのはたしかだと思いながら、清左衛門は頭の痛みをこらえて歩きつづけた」(文庫版 295ページ)と表わされていく。昔のことを悔やんで悪夢を見たりもする。

 そして、子どもの頃からの友人が中風で倒れて歩けなくなったのを見舞ったとき、「清左衛門にはひとごととは思えなかった。むろん自分にも中風になりそうな徴候があるというのではない。しかし平八も、そんな徴は何もなかったという。病はにわかに平八を襲ったのである。そういう齢にさしかかったのだと思わないわけにはいかなかった。平八の病はいつわが身にふりかかって来るかも知れない災厄だった。その思いが、家に近づいたいまも気持の底に沈んでいた」(文庫版 350ページ)りする。

 そういう中で、藩の派閥争いは次第に激しくなっていくが、清左衛門は、通っている小料理屋の女将の彼を慕う思いを知っていったり、通っている道場主の遺恨試合に立ち会ったりしながら、派閥争いを解決に導き、謀略を謀った者の手先に使われた若者たちではあるが、彼らを助けようとしたりしていく。
そして、最後に、中風で倒れた友人を見舞ったとき、その友人が懸命に歩く練習をしている姿を見て、「人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おもれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終えればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くしていきぬかねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた」(文庫版 436ページ)のである。

 この作品は、物語の展開の醍醐味の中で、こうした主人公の老いを迎えた心境が丹念に語られていき、老いを生きることが真正面に据えられて、深い感動と味わいを与えてくれているのである。藤沢周平の語り口の柔らかさとうまさも随所に見られる。

 これは、「別冊文藝春秋」第172-186号に掲載された作品であるので、藤沢周平が61-62歳の頃の作品であろうが、その心境が見事に織り込まれた絶品とも言える作品だろうと思う。藤沢周平のような優れた作家の作品を読むと、この「独り読む書の記」に記すことも、どうしても多くなる。文章表現のうまさは、また別の機会でも触れよう。

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