2012年9月28日金曜日

南原幹雄『将軍家の刺客』


 接近している台風の影響で、曇って、ときおり、「野分」という言葉がぴったりのような強い風が吹く。今年の中秋の名月は30日(日)だそうだが、台風の本土上陸が予想されているので、観月はむりだろう。

少し前に、南原幹雄『将軍家の刺客』(2003年 徳間書店)を読んだ。これは江戸時代初期に徳川家康と共に江戸幕府を作り、智者、切れ者と言われながらも失意のうちに晩年を過ごさなければならなかった本多正純の晩年の姿を、幕閣から送り込まれる刺客と本多正純を守ろうとする忍者たちとの攻防を織り込みながら描き出したものである。

 本多正純(15651637年)は、徳川家康が最も信頼して参謀・相談役としていた本多正信(15381616年)の長男として生まれ、家康の側近となり、その才気で家康の寵愛を受けて、父正信とともに江戸幕府草創期の中心人物となった人間である。家康が将軍職の座を秀忠に譲り、駿府で大御所として二元政治を始めると、正純は家康の補佐として、そして秀忠の補佐に秀忠を支えてきた大久保忠隣がつき、両者の調停を正純の父親の正信が果たすという形が取られたが、当然、江戸の秀忠は駿府の家康に頭が上がらないのだから、正純は家康の懐刀として比類ない権勢を誇っていった。

 やがて、秀忠の補佐をしていた大久保忠隣を、慶長19年(1614年)に起こった「大久保長安事件」に関連させて謀略を用いて失脚させ、徳川幕府初期の政治の一切を掌握するようになり、豊臣家を滅ぼすための口実となった「方広寺鐘銘事件」(豊臣家が建立した鐘楼に家康を侮辱する銘が刻まれている問の言いがかりをつけた)を金地院崇伝らと画策して大阪冬の陣の発端を開くようにしたとも言われ、また、冬の陣の後、大阪城の外堀を埋め立てる交渉を成功させている。これによって難攻不落と言われた大阪城は裸城となり、続く夏の陣で豊臣家は滅びたのである。彼は策略家として徳川家第一の功労者になったのである。

 しかし、その2年後の元和2年(1616年)、徳川家康と、それに続いて後を追うようにして父親の本多正信が死去し、正純は秀忠の幕閣に加えられ、家康の遺言を聞いた者として、遺産の分配や日光東照宮造営奉行などを務めるが、亡き家康の権勢を傘にきたところもあり、秀忠やその側近の幕閣に疎まれ、秀忠側近として力をつけてきていた土井利勝から排斥されていく。

 正純の父の正信は、権勢を得て自ら大身になると、人々の嫉妬や恨みを買うことになるので、決して加増を望んではならないと言い残し、自らも家康の度々の加増を断るほど身を律していたが、正純は自分の働きの報酬としては当然のこととして宇都宮十五万五千石の大名となる。

 だが、このことが正純失脚の始まりで、正純が改築した宇都宮城に秀忠暗殺の仕掛けが施されているということが訴えられたのである。正純の宇都宮拝命で宇都宮城を追い出されることになった前城主の奥平忠昌の祖母は、家康の長女で、秀忠の姉に当たる加納御前(亀姫)であり、亀姫はまた、正純の策謀によって失脚させられた大久保忠隣の長男忠常の妻でもあったから、正純に対する恨みは骨髄のものだったのである。将軍秀忠は造成された日光参詣の帰路、宇都宮城に一泊する予定であったが、「正純が宇都宮城の天井に仕掛けを施して秀忠暗殺を企んでいる」との直訴を受けて、宇都宮城一泊を中止した(宇都宮釣天井事件)。

 やがて、幕閣は都合14箇条からなる罪状嫌疑を突きつけ、このうち、城の修築で正純の意に従わなかったという理由で将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、許可なく抜け穴の工事をしたことの三つが咎められることになる。秀忠は、先代から忠勤に励んだことを鑑みて、出羽の由利郡への五万五千石の減封に処すが、正純は謀反に身に覚えがないということで毅然とこれを拒絶した。それが秀忠の更なる怒りを買い、秀忠は本多家を改易し(取り潰し)、正純の身柄は佐竹義宣に預けられて、出羽の横手に流罪となったのである。正純の改易の表向きの理由は「日頃の奉公、よろしからず」である。こうした正純への処置には、将軍秀忠と老中土井利勝の思惑が働いていたというのが通説である。

 正純を預かった佐竹家では、流罪とはいえ、かつての老中首座であった正純を手厚くもてなしていたが、後に幕府がこれを知り、厳しい監視のもとで屋敷を釘付けにし、ひどい幽閉状態に置くことを命じたので、陽も射さない屋敷の中で、正純の嫡男の正勝は35歳で病死した。やがてこの釘付け状態はあまりにもひどいということで改善され、正純はその7年後の1637年まで生きた。享年73である。

 本書は、家康の時代に智謀を誇り、権勢を誇った正純が一瞬にして転落していき、佐竹家預りとなって生きていく姿を追いながら、正純を徹底的になき者にしようとする土井利勝が放つ刺客と、正純の身を守ろうとする者たちの死闘を描いたもので、放たれた刺客とそれを阻止しようとする者たちが、かつては師弟の中であり、それぞれの手の内を知る者どうしであることを前提に戦う姿を描いていく。ひどい境遇に落とされた正純がよく耐え抜いていく姿も克明に描かれる。

 もちろん、エンターティメント性の高い南原幹雄の作品であり、緊迫する死闘の描写や男女の絡みなども十分に描かれているが、本多正純と石田三成が同じような智略に溺れる者であるとされている点が興味深い。「智に働けば角が立つ」ではないが、謀に生きる者は謀に滅び、自分の智を頼りとする者は智によって裏切られていく。図る者は図られる。そんなことを痛切に感じさせる作品ともなっている。本田正純という、栄華を誇り、やがて転落して非業のうちに人生を終えなければならなかった人物を中心にエンターティメント性をふんだんに盛り込んだ作品である。

2012年9月26日水曜日

葉室麟『散り椿』(5)


 天気が目まぐるしく変わりながら、秋が進んでいく。時が、しなければならないことを山積みしたまま過ぎていくが、今しばし秋を楽しもうかと思っている。

比較的長く、葉室麟『散り椿』(2012年 角川書店)について記してきているが、家老の石田玄蕃は、榊原采女が瓜生新兵衛の妻であった「篠」と密会をしていたという噂を流させ、新兵衛によって采女を殺させようと企む。その噂を流すために采女の母親を利用する。采女の母親はまんまとその計略に乗り噂を広めていく。「篠」が采女に想いを残していたと思っていた新兵衛は、その噂で傷ついていく。新兵衛のような人間でも噂に傷つくのであるが、事態は切迫し、いよいよ扇野藩の藩主である親家が継子である政家を伴って国入りしてきたのである。

国入りした病身の藩主親家は、国入りしても床に伏したままで、もっぱら世子の政家がさっそく新しい活動を開始する。政家は懸案だった水路造りをする予定の村々に視察に出かけようとする。だが、そこには後継者争いを起こそうとしている石田玄蕃の手の者によって視察の途中で暗殺される危険があったのである。

 そこで坂下藤吾と瓜生新兵衛が政家の身を守るための囮として使われることになる。瓜生新兵衛はそれを承知の上で、政家の暗殺を阻止するために藤吾と共に出かけていく。案の定、二人は石田玄蕃の手の者に襲われ、かろうじてこれを撃退するが、政家は鉄砲で撃たれる。

 しかし実は、撃たれたのは政家ではなく身代わりとなっていた篠原三右衛門だった。三右衛門は政家が命を狙われていることを知って、自ら身代わりを申し出ていたのである。撃たれた三右衛門はこと切れる寸前に、榊原采女の父親を斬ったのが自分であることを告白する。抜刀して切りつけてきた父親の刀をかわすはずみで、采女は父親の小手を斬るが、逆上した父親が采女を殺そうとした瞬間に三右衛門が飛び込んで首筋を斬ってしまったと語るのである。そして、自分が「蜻蛉組」の組頭であったことも告白する。藩主に政家の命を守るように命じられたからであり、采女の父親を斬ったのも「蜻蛉組」の仕事であったと語り、藤吾を「蜻蛉組」に入れたのは、藤吾を守るためだったと言う。彼は「蜻蛉組」の組頭となってから采女を陰ながら助けてきたので、石田玄蕃に憎まれ、玄蕃は「蜻蛉組」を潰そうとするだろうと語り、藤吾に娘の「美鈴」を頼む、と言い残して息を引き取る。

 政家の身代わりとなった篠原三右衛門が襲われた頃、榊原采女は政家を伴って紙問屋の田中屋を訪れ、これまでの金の流れを断ち切り、水路造りの事業のために金を用いる話をつける。政家はそのために江戸で行部家成の息子である旗本とも話をつけたと語る。そして、政家は、田中屋の承諾を得られた後で、一息ついて茶を口にする。ところが石田玄蕃の手は田中屋の中にも伸びていて、その茶の中に毒が入れてあり、采女はそれを見過ごしてしまった。服毒した政家は重体に陥り、采女に自宅謹慎の処分が下る。

 采女は、父親と争った夜、篠原三右衛門から、三右衛門が「蜻蛉組」であり、采女の父親が行部家成と石田玄蕃に利用されたことを語り、その二人を倒すことを目的としてきた。だが、最後の土壇場で、石田玄蕃は藩主の継子である政家の毒殺という手段に出て、事態は逆転してしまった。

 石田玄蕃は、坂下藤吾の父親の源之進が自害したのが、使途不明金の罪を咎められるためでなく、采女の父親が殺された時にいたのが采女であることを知っていて、その秘密を守るために自害したと思っている。そして、篠原三右衛門を政家の身代わりに立てたのは、采女が自分の秘密を守るために死なせるためだったと邪推する。玄蕃は采女が父親を殺したと思い込んでおり、重職たちに榊原采女が恐ろしい男であることを告げて、藩主に、行部家成の孫を養子とし、「蜻蛉組」を解散するよう進言する。政家は既に石田玄蕃の手の中に置かれていた。こうして全ては石田玄蕃の思うままになったのである。

 「蜻蛉組」が解散させられれば、組頭であった篠原家もただでは済まない。事実、三右衛門の葬儀も出せず、罪人のよう扱われていた。だが、藤吾は「美鈴」に何があろうとも必ず守ると約束する。それは、石田玄蕃の手の中にある藩全体を敵にまわすことでもあった。

 その五日後、石田玄蕃が榊原采女を直接訪ねてくるということが起こる。玄蕃は、采女が父親を殺し、坂下源之進がその秘密を守るために自害したことを告げ、万座の中で玄蕃に詫びを入れよと語る。そうしなければ、世子の警護に手抜かりがあった咎で切腹を命じると告げるのである。

 翌日、新兵衛が榊原采女を訪ねる。妻の「篠」との約束を果たすため椿を見に来たと言う。だが、「篠」が死の間際に望んだもう一つは、采女を助けることだったと語る。「わしは、篠に一日としていい目を見させてやることができなかった。篠は、辛く苦しい思いの中で生き、この世を去った。だから篠の頼みなら、おのれにとってどんなに苦しいことであろうとも聞こうと心に決めたのだ」「願いを果たしたら褒めてくれるか、と訊いたら篠は褒めると言ってくれたぞ。お主には事を成し遂げた時、褒めてくれる人はおるまい」(289290ページ)と、胸の内を采女に語るのである。

 そして、采女に向かって刀を抜き、彼と斬り合うことによって、采女が父親を殺したのではないことと、篠原三右衛門が最後に告白したことを伝えるのである。采女は三右衛門が「蜻蛉組」であったから世子の身代わりとなり、自分もまた「蜻蛉組」の一人であることを新兵衛に告白する。だが、それも、無に帰してしまった。すべては石田玄蕃の思うままになったのである。

それを聞いて、新兵衛は「お主はおのれを殺して生きようとする。それが他の者の生きる道を閉ざしてしまうこともあるのだ」と語り、自分の妻の「篠」もまた、どんな邪魔があろうとも「お主がしっかりと受けとめることができていたならば、篠は別の行き方ができたはずだ。わしと夫婦になったばかりに、寂しく世を去らねばならなかったではないか」と言う(294ページ)。

 だが、采女は「篠」の想いは違うと言い出し、篠が最後によこした手紙に書かれてあった和歌「くもりの日影としなれる我なれば 日にこそ見えね身をばはなれず」を持ち出してきて、これは采女への想いを綴ったのではなく、自分は決して新兵衛の側を離れることはないから、采女の気持ちは受け入れられないという意味であることに気づいたことを伝えるのである。「篠」の心は、あの頃すでに新兵衛に寄り添っていたのであり、「篠」は新兵衛を死なせたくないばかりに、采女のことを話して彼が郷里で生きるように願ったのだと告げるのである。

 ここで初めて「面影」と題する章で「篠」の真実の思いが述べられていく。
 「篠」は、「暮らしが貧しくても新兵衛とともに過ごしていく日々の清々しさは何物にも代え難いと思っていた。それだけに新兵衛がこのまま朽ちるのではないかと案じられた」(299ページ)。新兵衛の友の榊原采女は順調に出世しつつあると伝え聞く。新兵衛をこのまま朽ちさせてはならないと思う。

確かに、若い頃は采女に対してほのかな想いを抱いたこともあった。だが、采女との縁談が持ち上がり、それが破談になり、すぐに新兵衛との縁組が決められ、「篠」は戸惑った。新兵衛は、朴訥で愚直であったが、それだけに細やかな心使いをする優しさがあり、新兵衛との縁組の話が持ち上がった時に、新兵衛が坂下家を訪ね、「決して無理に話を進められませんように」と「篠」の父親に申し入れたことがあった。その時、「篠」の父親が「娘がお気に召さないのだろうか」と尋ね、漢詩の素養があまりない新兵衛は大声で『詩経』の一節を吟じたのである。それは「篠」を「君子の好逑(こうきゅう)・・よい連れ合い」と歌ったものだった。そして、「篠」は新兵衛の人柄に惚れきっている自分に気がついたのである。彼女は、新兵衛に影のように添って生きる決心をし、新兵衛が国を追われた時も、彼についていったのである。彼女は、生活が苦しくても新兵衛と心がふれあって過ごしていけるだけで満ち足りていたのである。

 だが、自分の寿命が尽きることが迫った時、新兵衛は無欲な上に自分とともに生きることを心の支えにしているように見受けられ、自分が死んだら、生きる張りを失って死を選ぶかもしれないと恐れ、新兵衛を死なせたくないと願った。新兵衛に生きて欲しい、生きて、生きて、生き抜いて欲しい。ただそれだけのために「願い事」を語ったのである。

 采女は「新兵衛、散る椿はな、残る椿があると思えばこそ、見事に散っていけるのだ。篠殿が、お主に椿の花を見て欲しいと願ったのは、花の傍らで再び会えると信じたゆえだろう」と新兵衛に語る(307ページ)。新兵衛と采女は「篠」の真実の想いに深く心を至らせるのである。

 そうしているところに、篠原三右衛門の遺族に討手が差し向けられるという知らせが藤吾のところに「蜻蛉組」の小頭から伝えられ、藤吾は「美鈴」を助けるために篠原家に向かったという知らせを藤吾の母の美里が伝えに来る。

 知らせを受けたとき、藤吾は、「父上亡き後、わたしはひたすら出世を望んで参りました。何としても家禄をもとに戻し、重職の座に連なるほど立身するのが、父上の無念を晴らすことになる、と思ってきたのです。されど・・・今は違います。あの瓜生新兵衛殿のような、馬鹿げた生き方は決してするまい、と胸に誓っていました。しかし、このように美鈴殿に危難が迫っていると聞くと、じっとしていることはできません。・・・石田ご家老の討手を妨げれば、わが家は取りつぶされ、藩にもいられなくなりましょう。癪にさわりますが、新兵衛殿と同じ道を歩むことになるのです。・・・しかし、それでもわたしは、たいせつなひとを守り通したいのです。母上、申し訳ございません」(308309ページ)と語って、太刀を取って行ったという。

 新兵衛は藤吾の後を追い、采女は石田玄蕃の要請に応じて登城する。篠原家に藤吾が駆けつけたとき、討手が迫り、藤吾は「美鈴」をかばって奮闘するが脚を斬られてしまう。藩の剣術指南役まで討手に加わっていた。水路造りを進めていた庄屋を殺した上役もいた。藤吾は、逃げろという「美鈴」に、「わたしは、あなたをお守りすると心に誓ったのです。自分の心を裏切るわけには参りません」と言い、懸命に奮闘する。だが、討手に斬られようとする。そのとき、新兵衛がつむじ風のように飛び込んで討手を退ける。新兵衛は藤吾に「藤吾、大丈夫か。よう、がんばった。どうやら武士らしゅうなったではないか」と声をかける。すると藤吾は「わたしは、別に武士らしくなりたいと思ってはおりません。まして瓜生殿のようになるのだけは、ご免こうむりたい」と答える。
 「そうか、だが、お主のやっておることは、わしがしたことと同じようなものだ」
 「それゆえ、一生の不覚だと思っております」
 破顔して新兵衛は言った。
 「しかし、わしにお主のような息子がいたなら誇りに思うぞ」(319320ページ)

 ここにあるのは、お互いを認め合った信頼である。そういう姿をこういうふうに描き出すことができるところに作者の力がある。

 他方、榊原家に残り、采女の母親の人として悲しい姿に触れながら、ふと庭の椿に目をやった里美は、そこに「篠」が立っている幻を見たような気になり、新兵衛と「篠」のことを思い出す。新兵衛は、非番の日になると釣りに行っては、釣果があると坂下家を訪ねてきた。朴訥な新兵衛は気づかなかったが、「篠」は新兵衛が訪ねる頃を見計らって庭に出ていた。新兵衛は時候の挨拶をするだけだが、「篠」は嬉しそうに微笑んで新兵衛を見つめていた。そして、今もなお、「篠」は椿の傍らで新兵衛が来るのを待っているのだと思った。「たとえ、この世を去ろうとも、人の想いはこれほど深く生き続けるものなのか」(326ページ)と、里美は思う。

 登城した榊原采女に、行部家成の孫が世子の政家の養子となり、毒を盛られた政家の後を継ぐことが告げられ、衆目の前で石田玄蕃に詫びを入れることが命じられる。采女は、かつて新兵衛が不正に立ち向かった時に自分も立つべきだったと語る。それができなかったばかりに、いたずらに藩に混乱を招いたことを詫びると語る。玄蕃は采女に命乞いをするように迫る。

 だが、その時、榊原采女は脇差を抜いて石田玄蕃に斬りつける。そして、それは藩主の意にかなった上意であると明言する。なぜなら、藩主以外の者が「蜻蛉組」の解散を命じた場合、それは「蜻蛉組」に対して命じた者を討てという上意が藩主から下ったことを意味するからである。だが、采女も取り囲まれた藩士たちから一斉に斬られ、その場でこと切れてしまうのである。「蜻蛉組」のこうした仕掛けは、どんでん返しとしてうならせるものがある。

 そこに、毒を盛られたが回復し始めた世子の政家が登場するが、采女の死には間に合わなかったものの、石田玄蕃を討ったことが上意であることを明言する。采女はわざと石田玄蕃に止めを刺さなかったので、石田玄蕃は一命を取り留めるが、御役御免の処置がくだされる。藩主の親家は石田玄蕃に「蜻蛉組」の解散を命じさせ、それによって上意討ちを仕向けたのである。そのことを知る者は「蜻蛉組」の小頭以上の者であり、唯一石田玄蕃を討つことができた采女がその役を負ったのである。

 だが、すべてを画策した行部家成は健在だった。この禍根を断たない限り、再び藩内に争いが起こる。榊原采女の死も無駄になる。坂下藤吾は「蜻蛉組」によって行部家成に断固たる処置を取るよう進言し、その役を瓜生新兵衛が負うのである。瓜生新兵衛は、坂下源之進、篠原三右衛門、榊原采女といった非業の死を遂げなければならなかった友のために立ち上がり、行部家成に、二度とこのようなことはしないと誓わせるのである。

 やがて、政家が回復し、藩主の家督を継ぎ、篠原家は嫡男が家督を継いで、坂下家は元の百八十石に戻され、藤吾は「美鈴」と夫婦になった。そして、藤吾と「美鈴」は榊原家の夫婦養子となり、榊原家四百五十石を継ぎ、坂下家はその子が受け継ぐことになるとの処置が下され、里美と新兵衛も榊原家に移り、元の椿の家に住むことになるのである。

 平穏な時が流れ、瓜生新兵衛にも剣術指南役が申し出され、里美と共に瓜生家を再興する機会が与えられ、里美もまた新兵衛をしたっていることを告げるが、新兵衛は里美が「篠」に似ており、自分もまた里見への想いを持つがゆえに、扇野藩を出ていくのである。

 「また椿の花を見たいという思いにはなられませぬか」
 里美が懸命に言うと、新兵衛は歩みを止め、
 「いずれ、そのような日が来るやもしれぬな」
 と背を向けたままつぶやいた。
 「この屋敷でその日が来るのをお待ちいたしております」
 新兵衛は何も答えず、裏木戸から出ていった。里美は後を追えず、袖で顔をおおって立ち尽くした。しばらく後、はっとした里美が裏木戸から出て新兵衛の姿を捜すが、どこにも人影は見当たらない。
 秋の日に照らされた、目に鮮やかな紅葉が、道に影を落とすばかりであった。(355ページ)

 で、本書は閉じられる。結末の余韻が強く残る閉じ方で、この本を閉じて、しばらく瞑目していた。小説が与えてくれる感動が、この静かな結末にある。

 葉室麟は、朴訥で不器用であるが真っ直ぐに生きようとする人間を描き続けている。わたしはその姿勢に喝采したい。魂に生きる人間の姿がここにある。読んでよかった。つくづくそう思う。

2012年9月24日月曜日

葉室麟『散り椿』(4)


 秋分の日を過ぎて、これから秋が本番を迎えていく。昨日の雨から一転して秋空が広がった朝となった。秋は、春の柔らかさとはまた違った優しさがある。特に初秋から中秋にかけての優しさは、「もののあはれ」を感じさせる。秋桜が陽射しを受けてかすかに揺れる様は何とも言えない。すすきを見に箱根にでも行ってみようかと思ったりする。

 さて、葉室麟『散り椿』(2012年 角川書店)の続きであるが、瓜生新兵衛を用心棒として雇った紙問屋の田中屋は、紙の独占を藩から許された時に、藩から出された起請文をもっていた。そこには紙の売買から得られた金について記されているはずで、それは榊原采女の父親の不正を証明するものでもあった。

 そして、その事件を再探索している隠し目付の「蜻蛉組」の小頭は、その起請文を奪うために坂下藤吾を伴って田中屋に夜襲をかける。坂下藤吾を伴ったのは、叔父の瓜生新兵衛が用心棒をしており、彼が甥に手をかけるはずがないと踏んだからである。だが、「蜻蛉組」のほかにも起請文を奪おうとする賊があり、瓜生新兵衛は両方と対峙して、賊を斬る。そして「蜻蛉組」の小頭の正体もわかる。それは一刀流道場の師範代であったのである。田中屋は傷を負ったが一命を取り留め、起請文も無事で、起請文は瓜生新兵衛が預かることになる。「蜻蛉組とは別に田中屋を襲った賊は石田玄蕃の手の者だった。

 起請文には金の流用の仕組みの詳細は書かれていなかったが、藩主の庶兄の行部家成の署名があり、家老の石田玄蕃が行部家成の思惑で動いていたことがわかっていく。榊原采女の父親は、その指図の下で動いていたのである。すべては藩主の庶兄の行部家成が仕組んだことであったのである。

 榊原采女はそのことを知っていた。そして、行部家成に誰も手が出せないために、「わたしは友を見捨て、ひたすら耐えて参りました」(170ページ)と出世を望む気の強い母親に語る。そして、かつて采女が「篠」に恋をし、彼女を妻として迎えようとしたのに、母親の強い反対で叶わなかったことが語られ、和歌を通じて「篠」と親しくなっていったことが思い返される。

 采女と新兵衛は「篠」の家の隣同士で、漢籍の造詣が深い「篠」の父親の下に話を聞きに行っているうちに、采女は「篠」と和歌のやり取りをするようになっていった。采女は新兵衛の物にこだわらないおおらかさを羨ましく思っていたが、新兵衛と「篠」はのんびりと時候の挨拶などを交わすだけで、「篠」の父親も秀才の誉れが高い采女を気に入っていた。そして、和歌のやり取りの中で、采女は「篠」も自分に対して想いがあると思い、縁談を申し出たのである。しかし、采女の母親(養母)がそれをぶち壊したのである。采女の母親は家老の石田家の縁戚との婚姻を望み、坂下家に乗り込んで、「篠」を悪し様に罵って親戚中に触れ回ったのである。

 「篠」の父親はそのことに腹を立て、すぐに破談をして、「篠」は瓜生新兵衛のもとに嫁ぐことになる。新兵衛は采女と「篠」の縁談が破談になったことを知っていた。采女が新兵衛と会った時、新兵衛は、庭に咲いていた椿を見て、「篠殿はあの花が好きでな。季節になると、よく庭に出て眺めておられる」と采女に語り、椿を眺めている篠を見遣りながら、「わしは、あのようにしている篠殿を見るのが、なにより嬉しい」と語る(176ページ)。新兵衛もまた、「篠」に惚れていたのである。

実は、ここに「篠」の心を知る手掛かりがあるのだが、それはまだ伏せられたままである。「篠」への想いが断ち切れない采女は、「篠」と新兵衛の婚儀を祝する書を出すとき、思わず、「叶えられるならば、坂下家の椿の傍らで篠ともう一度話がしたい」と書送ってしまう(177ページ)。そして、しばらくして、「篠」から「くもり日の影としなれる我なれば 日にこそ見えね身をばはならず」の『古今和歌集』の一句をしたためた返書をもらったのである。

 それは、「曇った日の影のようにあなたの目には見えなくなったが、いつもあなたの傍にいます」という意味で、采女はそれを「篠」が自分への想いを記していると思い込んでいたのである。だが、この歌には「篠」の別の思いが込められていた。それが後に明らかになるが、以後、采女は独り身を通し、「篠」と新兵衛は藩を追われることになった。「篠」は新兵衛が藩を追われる時に、自ら進んで彼とともに国許を出て行ったのである。采女は、その意味を考え始めていく。

 他方、城中ではいよいよ石田玄蕃と榊原采女の対立が鮮明となり、石田玄蕃は藩主に対立する姿勢さえ見せたりするようになる。采女にとっての望みは、藩主の継子である政家が国入りして、新藩主となり英断を振るうことであるが、石田玄蕃はそれを阻止しようという動きに出るのである。その間に、榊原采女は「蜻蛉組」の名で篠原三右衛門に呼び出され、そこに瓜生新兵衛も駆けつけて、三人の緊迫した姿が描かれる。それも妙味がある。

 榊原采女の父親が殺された夜、一体何があったのか。采女はそのことを思い起こす。その時、采女の父親は田中屋とのつながりを追求され、連日のように取り調べが続いていた。そして、突然、国を出て江戸にいる藩主に直に無実を訴えようとしていた。采女の父親は、家老が自分を口封じのために殺すかもしれないと恐れていた。采女は、密かに江戸に行くなどの脱藩行為をする父親を止めようと城に向かい、途中で父親と会う。采女の父親は、迎えに来た采女を見て、采女が自分を殺すために家老から差し向けられた刺客と思い込んで、采女に向かって刀を抜いたのである。采女は思わずその刀を振り払うが、その後の記憶がない。気づいた時には、父親は倒れ、その傍らに篠原三右衛門が立っていた。それが、采女がもっているあの夜の記憶だった。采女の父親を殺したのが誰かは、まだ不明であるが、采女はひとり寂寞感にとらわれていく。

 采女は、新兵衛や三右衛門と緊迫した状況で向き合い、新兵衛のことを考えていく。
「戻ってきた新兵衛には、貧しい生活を送ろうとも心の内に豊かさを抱き続けた者の確かさが感じられる。
それに比べて自分はどう生きてきたか。
切れ者とひとに畏れられるようになりはしたが、親しく言葉をかけてくる者はいない。ただ、遠くから畏敬の視線を送ってくるだけだ。・・・・。
皆それぞれに生きてきた澱を身にまとい、複雑なものを抱えた中年の男になってしまった。・・・・。
篠とはついに再び会うことができなかった。・・・・。
それももうかなわない。自分に残されているのは、藩内での政争に勝ち抜くことだけだ」(201202ページ)
彼は寂寞感の中でそう思うのである。

人よりも抜きん出た優れた者は、孤独である。それは宿命のようについて回る。榊原采女は、その孤独を噛み締めなければならないのである。だが、本当に優れた者は愛を知る者である。そして、愛を知りながらも孤独に耐える者なのである。そのことが、やがてじんわりと展開されていく。葉室麟の作品は、そういう人間の姿を描き出していく。

事態は、藩主が世子の政家を伴って国入りする椿の咲く頃に向かってますます切迫していく。坂下藤吾は、石田玄蕃が仕掛けた罠にはまり、捕らわれてしまう。藩主が国入りする前に何としても証拠となる起請文を奪いたい行部家成と石田玄蕃が仕掛けたのである。起請文は瓜生新兵衛がもっている。瓜生新兵衛は坂下藤吾を人質に取られたので、起請文をもって呼び出しに応じる。途中で「蜻蛉組」の小頭がそれを阻止しようとするが、瓜生新兵衛はそれをはねのけて呼び出された田中屋へと向かう。

そして、いよいよこれまで裏にいた行部家成が出てきて、藤吾の命と引き換えに起請文を渡せと迫るのである。だが、藤吾は既に「蜻蛉組」によって助け出されていた。新兵衛は起請文を榊原采女に渡したと語る。「蜻蛉組」に助けられた藤吾は、小頭から藩内で起こっている抗争の真相を聞く。

藩主の親家は蒲柳の質(病弱)で、政家に早く家督を譲りたいと思っているが、その政家が急死すれば、まだ男子が生まれていないから、後継となるのは行部家成の孫となる。それによって、行部家成の血筋が藩主の座につくことになる。田中屋を公許紙問屋とすることで懐に入れた金を江戸に送り、養子にやった自分の息子を幕閣で出世させ、その息子の子を扇野藩の継子とする遠大な企みがあったのである。その妄執のために、新兵衛が藩を追われ、榊原采女の父親が利用され、自分の父親が自害に追い込まれ、水路造りを勧めていた庄屋が殺されたことを知るのである。

「蜻蛉組」は藩の平穏を守るために動くという。しかし、坂下藤吾は、領民まで殺されたことを闇に葬るわけにはいかないと言う。「蜻蛉組」の小頭は、事柄を明らかにすれば、藤吾は、いずれ新兵衛と同じように、国を追われるか、腹を切らなければならなくなると脅す。だが、藤吾は後に引かない。彼はこれまで藩内で生き延びることだけを考えてきたが、いつの間にかそう思わなくなっている自分に気がつくのである。瓜生新兵衛のすくっと立っている姿が藤吾を変えていったのである。

行部家成が起請文を奪うことに失敗したので、石田玄蕃は、いよいよ残された手段として世子の政家の暗殺を企てるようになる。彼が恐れる強敵は榊原采女であるが、どうやら采女は父親殺しであるようで、その点を弱点として抱えているようである。また、瓜生新兵衛の妻となった「篠」に懸想をしているとの噂もある。そのことで新兵衛を焚きつけて采女を殺させる計略を立てるのである。

石田玄蕃もまた悲しい人間ではあるが、つまらない人間はつまらない邪推しかしない。問題なのは、そのつまらない人間が権力を持っていることで、石田玄蕃はそういう人間のひとりとして本性を表していくのである。そのあたりもまた、本書の妙味で、その後、物語は急展開していくが、それについては、また次回に記したい。

2012年9月21日金曜日

葉室麟『散り椿』(3)


 ようやく秋の気配が漂いはじめた感がある。今年は夏が異様に暑かったので、少しでも爽やかになってくると、なんだかほっとする。ふと思い返して日付を見たら、この読書ノートも三年を過ぎて、四年目に入ったことになる。文字数は百万字を超えてしまったし、三百冊以上の小説について記してきた。それにしては、いつまでたっても文章が上手にならないなあ、と改めて思ったりする。昔から一文が長かったので、わたしにとっては短くてキレのある文章というのは難しいものである。

 それはともかく、葉室麟『散り椿』(2012年 角川書店)の続きであるが、舞台となっている扇野藩の藩内情勢が次第にはっきりしてくる。これまでのことは、ほとんど藩政の実権を握ってきた家老の石田玄蕃が画策してきたことであり、それに藩主の庶兄の行部家成が絡み、藩主の交代を機に後継者問題へと発展していこうとしているのである。こうした「お家騒動」はよくあることであるが、その動きの中で、瓜生新兵衛、榊原采女、坂下源之進、篠原三左衛門といったかつての一刀流道場で「四天王」と言われた友人たちが、なまじ優秀であっただけに次々と犠牲となっていったのである。

 坂下藤吾が藩の隠し目付である「蜻蛉組」に入れられた後、互いに想いを寄せ合って許嫁となっていた「美鈴」の父でもある篠原三右衛門が訪ねて来て、「美鈴」との破談を申し出る。そして、「蜻蛉組」に入れられるのは、単に隠し目付として探索をするだけではなく、相互に監視をされるということであり、藤吾が「蜻蛉組」に入れられたのは、彼と帰郷している瓜生新兵衛の動きを監視するためだと告げられる。そればかりでなく、榊原采女の父親を殺したのが藤吾の父親の坂下源之進であったことを告げるのである。

 榊原采女の父親の不正が明らかになれば自分に累が及ぶことを恐れた家老の石田玄蕃が、一刀流の道場主を通じ、坂下源之進と篠原三右衛門に暗殺を命じ、結局、源之進だけがそれを実行したと、篠原三右衛門は告白するのである。そして、それが明るみに出るのを防ぐための口封じとして源之進は自害に追い込まれたのである。「蜻蛉組」が動き出せば、そのことはやがて明るみに出るだろうから、「美鈴」との縁談は無かったことにして欲しいと言うのである。こうして二人の縁談は破談となる。

 しかし、藤吾はまだ諦めないと新兵衛に言う。榊原采女も父親を殺されたことで藤吾を恨んだりしないだろうと新兵衛は答える。なぜなら、藤吾は采女が想いを寄せ続けてきた「篠」の甥だからだと語る。そして、「篠」も、采女からの書状を大切に保管していたことやその最後の願いから、采女に想いを残していたと新兵衛は思っている。新兵衛は、愛する亡き妻の心が他の男にあるのを知りながら、妻の最後の願いを叶えようと国許に戻ってきた。「なにゆえ、そのようなことができるのだろう。ひとを愛おしむとは、自分の想いを胸にしまい、相手の想いを叶えることなのか。『わたしには、あなたというひとがわかりません』」(122ページ)と藤吾は言う。

 そうしているうちに、藩内の情勢が急激に変化していく。藩主の交代と国入りが迫ってきたためでもあるが、まず、新藩主となる政家が親政を敷くための手始めとして郡奉行と進めていた水路造りを推進していた村の庄屋が何者かに襲われて殺されるという事件が起こった。村々の意向を取りまとめていた庄屋が殺されたことで水路造りが頓挫する恐れがあった。藩の実権を握り続けるために藩主の親政に反対している家老の石田玄蕃がしくんだのである。そして、石田玄蕃と結託していた紙問屋も、すべての罪を自分に押しつけられて葬り去られるのではないかと恐れ、「鬼の新兵衛」と言われるほどの剣の腕をもつ瓜生新兵衛を用心棒に雇うのである。事態は切迫していくのである。

 瓜生新兵衛は、榊原采女の父親を殺したのが藤吾の父親である坂下源之進であるといった篠原三右衛門の言葉には裏があると思っていた。それを用心棒として雇われることで探ろうとするのである。源之進の妻であった里美も、源之進には人を斬ったような痕跡はなかったと言う。事件の真相は、まだ藪の中なのである。そして、藤吾は親しくしていた庄屋を殺したのが石田玄蕃の手の者であることを推測し、たとえ自分の立場が悪くなってもその犯人を捕らえると庄屋の女房に約束して、自分の道を決めていく。藤吾の父親は石田玄蕃に利用されたあげくに命を落とした。そして庄屋も殺された。もはや石田玄蕃の下で働くことはできない。かといって父親は榊原采女の父親を殺したことが事実なら、榊原采女の下で働くこともできない。両方から責められ、孤立無援となる。だが、それもやむを得ないと腹を決めていくのである。藤吾は、紙問屋の用心棒になるといった瓜生新兵衛を信用できないが、彼に任せるしか道はないかもしれないと思い始めるのである。

 そして、藤吾との破談を知った「美鈴」が藤吾を訪ねてくる。そして、「美鈴」は待ちたいと藤吾に告げる。藤吾は、その「美鈴」を見て、何があっても彼女を妻とし、そのためには何でもしようと決心する。「私闘のために刀を抜いてはならぬ」と教えた父が榊原采女の父親を暗殺したとはどうしても思えなかった。「美鈴」の父親である篠原三右衛門は何かを勘違いしているのかもしれない。それを明らかにしようと思うのである。藤吾は孤立無援のかなでひとりで立つことができる人間へと次第に変わってきていたのである。

 家老の石田玄蕃は次々と手を打ってくる。新藩主となる政家を支えていこうとする郡奉行の罷免を持ち出したり、榊原采女の弱点を探り出そうとしたりする。榊原采女の弱点は、不正を働いた父親にあり、その父親を殺したのが、実は采女自身ではないかと探りを入れていると言うのである。石田玄蕃は采女の父親殺しを命じたが、実行したのが誰かは知らなかった。玄蕃が放った暗殺者なら、いまさら玄蕃が実行者を探る必要なない。采女の父親は一刀流の四天王のひとりと見られている。采女の父親が殺されたとき、瓜生新兵衛は藩外にいた。篠原三右衛門と坂下源之進は玄蕃から暗殺を命じられていた。この三人でないとすれば、残るのは榊原采女だけである。采女を父親殺しで告発して、その力を奪おうと石田玄蕃は考えているのである。

 裏の裏の裏、そうした展開がなされて、事態の進展を探るだけでも相当面白く描かれているのだが、肝心なのは、新兵衛の妻であった「篠」の心である。そして、若い坂下藤吾もまた愛する「美鈴」とのことで、はからずも瓜生新兵衛と同じような道を歩む者となっていくのである。真実に愛する者のために生きるものは、真実に愛する道を同じように生きていく。それは真っ直ぐな道である。自分が何を大切にするか、葉室麟の作品はそれを問いながら進んでいく。そして、真実はいつも感動的である。続きは、また次回に。

2012年9月19日水曜日

葉室麟『散り椿』(2)


 九州西岸を通り抜けた台風のおかげで、なんとなく秋が一段と進んだような気配が漂い始めた。「暑さ寒さも彼岸まで」というから、これもあと少しかもしれない。昨今の新聞やテレビの報道に接しながら、ふと、かつてアメリカの哲学者であったR.フルガムが『人生に必要な知恵はすべて幼稚園で学んだ』で、私たちは幼稚園の砂場遊びで、みんなで仲良くわけあって使うこと、順番は待たなければならいないことなどを学んだ、と語っていたことを思い出したりした。過去の苦難の歴史を、人を恨んだり呪ったりすることに使っては、苦難の経験が泣いてしまう。「人生がもったいない」などとも思ったりする。

 それはともかく、葉室麟『散り椿』(2012年 角川書店)の続きであるが、瓜生新兵衛の帰郷とともに、藩内の抗争が一段と激化していく。ひとつには、藩の実力者となって頭角を現した榊原采女の父親を殺したのが瓜生新兵衛だと噂されていたが、その事件の真相が彼によって明らかにされて行きそうになるからである。榊原采女の父親は、新兵衛たちが通っていた一刀流道場の中でも独特の技を使う者の手によって殺されていた。采女の父親の死には、領内で生産される紙を一手に握りたいと目論んだ紙問屋と、その紙問屋からの賄賂で自分の派閥を作ろうとした家老になったばかりの石田玄蕃が関わっており、事件は単純ではなかったのである。その石田派の資金集めと坂下藤吾の父親の自害とも関連があるのである。

 そういう中で、殖産方として水路造りを進言し、郡奉行も乗り気であった坂下藤吾の案が却下されてしまう。そこには政治的事情が絡んでおり、お国入りをきっかけにして藩の政治を藩主の手に取り戻そうとする若い藩主と藩の実権を握り続けようとする家老の石田玄蕃の対立があったのである。

 藩主になった千賀谷政家は、自分が行う藩政の手始めに、殖産の水路造りをしたいと考え、郡奉行を動かして計画案を進めていたのである。それを推進していたのが榊原采女であった。だが、藩を動かしてきた石田玄蕃はそれを阻止する動きに出てきたのである。殖産方として村の庄屋とともに水路の必要性を感じて動いて坂下藤吾は、何者かに命を狙われたりする。そして、危険を察知して後をついてきていた瓜生新兵衛によって救われたりするのである。瓜生新兵衛もまた、汚名を晴らすために榊原采女の父親殺しの犯人を探り出そうとする動きの中で、何者かに命を狙われていた。そして、殖産方を外され郡方とされ、隠し目付となって藩主側の人間である郡奉行の動きを見張るように石田玄蕃に命じられる。

扇野藩の隠し目付は「蜻蛉組(かげろうぐみ)」と呼ばれていたが、その実体は不明だった。しかし、「蜻蛉組」は、どうやら家老である石田玄蕃の意を受けて動いるらしいと坂下藤吾には思われたのである。

他方、亡くなった瓜生新兵の妻「篠」と榊原采女の間に、昔、実際に縁談があり、采女が「篠」を妻に望んだが、出世を望む気性の激しい采女の母親は家老の石田家の縁戚の者を妻に娶ることを望み、その縁談を壊してしまい、結局、「篠」が瓜生新兵衛の妻となったことが明らかになっていく。その後、榊原采女は妻を娶ることはなく、新兵衛が藩を放逐された時に「篠」が新兵衛と共に国を出たのも、そのことと関係があるらしいということがわかっていく。榊原采女は榊原家の養子であった。

坂下藤吾は「蜻蛉組」から呼び出しを受け、「蜻蛉組」が、家老の石田玄蕃のために動いているのではなく、実は藩主の直接の支持を受けて動いていることを知らされ、藤吾の命を狙ったのも石田玄蕃の手の者であり、藩主から十八年前の榊原采女の父親の不正事件の再調査を命じられていることを告げられる。十八年前、榊原采女の父親の橋渡しで、紙問屋の田中屋は藩の公許問屋として紙の扱いを独占した。しかし、田中屋からの運上金は藩には入らずに、利益は江戸の神保家に流れた。それを画策したのは、藩主の庶兄の行部家成で、行部家成は藩主の兄であるにもかかわらずに母親の身分が低かったために藩主になれず、彼の嫡男が神保家に養子に入り、その幕閣への出世のための賄賂として金の流れの仕組みを作ったのである。それを支えたのが家老の石田玄蕃であった。

現藩主の千賀谷親家は来年に藩主の座を政家に譲にあたって、藩内をきれいにしておくために、その証拠を掴むことを「蜻蛉組」に命じたのである。家老の石田玄蕃は、藩主の庶兄である行部家成には誰も手が出せないと驕って、坂下藤吾を自分のために使おうと彼に隠し目付を命じたのである。

話は変わって、藤吾の母であり、「篠」の妹である里美は姉の遺品の中から三通の書状を見つける。三通とも榊原采女が「篠」に宛てて、「篠」が新兵衛に嫁ぐ前に書かれたもので、「篠」はそれを大事に持っていたのである。榊原采女は、「篠」が新兵衛に嫁ぐことが決まった後も、「願うことなら、もう一度、坂下家の庭に咲く椿の傍らで話がしたい。これから何年でも、花開くころ、あなたをお待ちする」と書送っていた(107ページ)。

新兵衛は、この書状のことを知っていた。そして、「篠」の最後の願いの一つは、「庭の椿を自分の代わりに見て欲しい」ということだった。それは「篠」が采女に対する想いをずっと残していたことを思わせる。だが、新兵衛は、「篠が大切にしていたものは、それがしにとっても大事でござる」と書状を保管し、「篠」の願いを果たすために郷里に帰って来たのである。新兵衛は里美に言う。「人は大切に思うものに出会えれば、それだけで仕合わせだと思うております」と(111ページ)。

果たして、「篠」は采女に想いを残していたのか。「篠」の本当の思いはなんだったのか。やがて、新兵衛はそのことを知っていくが、彼はただ、それがどんなことであれ愛する者の願いを叶えることだけにまっすぐ進んでいくのである。昔の坂下家は、今、榊原采女の屋敷になっている。

藩の実情は混沌としてきはじめ、すべての謎はまだ藪の中である。こうした展開は一気に作品を読み進ませる。しかし、その後の展開については次回に記すことにする。