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2013年11月4日月曜日

出久根達郎『土龍』

 霜月の声を聞くようになった。今日は雨だが、少々忙しい一日が始まりそうである。このところだんだんと秋が短くなってきているので、季節の移ろいを早く感じるようになって、晩秋というよりも初冬の感がある気がする。今年の冬は寒いという予報も出ている。地球の温暖化は、日本では冬の寒さを厳しくする。

 先日、図書館の文庫本コーナーをぼんやり眺めていて、出久根達郎『土龍(もぐら)』(2000年 講談社 2003年 講談社文庫)があったので、借りてきて読んだ。この作者の作品を読むのは、なんだか久しぶりの気がする。今も古書店を経営されているのだろうか。

 本書は、ペリーが浦賀にやってきて(1853年)、幕府が防衛のために急遽品川沖に砲台を築き始めたころから安政の大地震(1855年)までを背景として、品川沖に建設された台場(砲台)の建設工事に絡めた物語を展開するもので、穴掘り人足たちを主人公にすえつつ、老中水野忠邦や台場に管理にあたった川越藩、そして当時の幕府内での勢力争いなどを描き出したものである。全体の仕掛けは、江戸城の秘密の抜け穴を探っていくというミステリー調の冒険譚ともなっている。

 ちなみに、品川の台場(現:港区台場 通称「お台場」)は、伊豆韮山代官の江川英龍の考案によるもので、当初は十一基の建設の予定であったが、最初に第一から第三までの台場が築かれ、その後に第五と第六が築かれて、第七は未完成、それ以後は未着手に終わっている。工事は急ピッチで進められ、第一台場が川越藩、第二台場が会津藩、第三台場が忍藩という徳川親藩によって管理された。予算は百万石という膨大なものだった。だが、台場の砲台は一度も使われることなく、これらの台場は、昭和の半ばには、やがて次々と埋立地によって解消されている。

 常陸国(現:茨城県)潮来の旅館の三男であった国太郎は、父親が無理をして江戸町奉行所同心の中橋家と縁組をして、養子に出され奉行所見習い同心であったが、洞察力が優れた国太郎に悪事を暴かれることを恐れた岡っ引きらの奸計によって「不心得者」として、養子縁組を解消されて、養家を追い出され、人足仕事を求めて口入れ屋を尋ねる。そこで同じように仕事を求めていた武州川越で百姓をしていた百蔵と知り合い、品川沖の台場建設工事につくのである。

 工事現場の環境は劣悪だったが、彼らは台場管理をする役人たちのための井戸掘りの仕事に従事させられる。ところが、これまでいくつかの井戸が掘られては崩れて、工事人足が何人も死ぬという事件が続いており、それがただの井戸掘りでないということに気づいていく。掘った井戸がわざと埋められ死人が出ているのである。また、完成した台場を視察に来るという第13代将軍徳川家定の暗殺計画も練られていた。

 こうしたことを知った国太郎と百蔵は命を狙われるが、鼠の大量発生と地震などによって九死に一生を得て台場の工事現場を逃れ、ふとしたことで知り合った穴蔵屋の輝三と共に働くことになる。

 穴蔵屋というのは、火事の多い江戸で商家が家の地下に穴蔵を掘って、火事の時などに商品などを入れて守るための地下蔵を掘る仕事をしている者たちで、国太郎らはこの仕事の途中で抜け穴のような穴を発見するのである。それは、江戸城に掘られた抜け穴だと言う。そこには、実は陰謀が張り巡らされていたのである。

 品川台場の井戸を埋めていたのは川越藩で、それは、先の老中であった水野忠邦が三方領地替え(庄内藩を長岡に、長岡藩を川越に、川越藩を庄内に変えようとするもので、第11代将軍徳川家斉の実子を藩主にする川越藩の財政難を救うために画策したもの)を仕掛けたときに、水野忠邦と川越藩が交わしていった密書を秘匿するために台場の井戸の中にそれを埋めようとしたもので、その時に江戸城の抜け穴の絵図を一緒に埋めようとしたが、それを見つけた者たちが、その抜け穴を利用して将軍の暗殺などを図ろうとしたのである。

 だが、それは江戸城の抜け穴ではなく、敵を誘う誘い穴であり、あちらこちらに仕掛けがしてあり、穴掘り人足たち(土龍と呼ばれる)を使ってその仕掛けを暴こうとした幕閣の企みであったのである。

 国太郎たちは、その罠にはまり、穴の中で生き埋めにされるところであったが、いち早くそれを察知して逃れていくのである。

 その後、どうなったのかは記されずに、ただ、安政の大地震が起こり、やがて将軍家定の死去が伝えられて物語が終わる。家定は、一説ではコレラで死去したとも言われる。死去は1858年で、次の将軍になったのは徳川家茂であり、まだ13歳であった。そのため、政治は老中の思い通りとなったのである。

 この物語は、人を人とも思わずに利用して捨て去る政治家の画策の中で、捨て去られる側の穴掘り人足(土龍)の意地が光る物語である。モグラは地表に出て光に当たると死ぬと言われているが、どっこいしぶとく生きていくのである。物語の視点も意味があるが、結末部分に、裁きでの被告人の供述のようなものだけが記されて真相が明らかにされるという手法も文学的に面白い手法だと思う。

 作者は、時代小説でもいくつかの傾向を持った作品を種々に書いているが、これは少し肉厚な作品になっていると思う。

2011年11月21日月曜日

出久根達郎『萩のしずく』

朝晩の冷え込みが次第に厳しくなって、雲間から時おり弱い初冬の光が差し、冬枯れた光景が広がるようになってきた。朝から寝具のシーツなどを洗濯し、掃除をしていたら、なんだか昨日の疲れが残っているのか、若干の怠さを覚えてしまった。「こんなことではいけないなあ」と思うし、すべきことはたくさんあるのだが、なかなか気分が乗らない。

 それはともかく、出久根達郎『萩のしずく』(2007年 文藝春秋社)を読む。出久根達郎の作品はなんだか久しぶりに読んだような気もするが、これは明治初期の女流作家で、貧苦にあえぎながらも優れた作品を残した樋口一葉を取り扱った作品である。

 樋口一葉(1872-1896年)は、明治維新5年後のまだ混乱した社会の中で、東京府の下級官吏を勤めていた父樋口為之助(則義)と母多喜の次女として生まれ、兄は泉太郎、虎之介、姉はふじで、後に妹くにが生まれている。本書では父の名は明義、母の名は滝子、兄の名は朝二郎になっており、一葉の本名は奈津、もしくは夏子であるが、本書では奈津で、妹は邦子になっている。

 則義(本書では明義)は、元は甲斐(現:山梨県甲州市)の百姓であったが、江戸末期に同心株を買い、維新後には士分の下級役人として勤めていた。だが、1876年、一葉4歳の時に免職され、以後は不動産の斡旋などで生計を立てていたと言われる。しかし、1889年、一葉17歳の時に則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗するなどして多額の借金を残したまま死去している。ちなみに前年の1888年に病身であった兄の泉太郎が死去している。

 この辺りは、本書の104ページでは、1888年(明治21年)夏に父が死去し、その後で兄の朝二郎が死去したことになっている。だが、一葉の父が官吏を勤めていたころの上司が夏目漱石(金之助)の父親で、その縁で漱石の長兄の大助(大一)と一葉を結婚させる話が持ち上がるが、一葉の父親が漱石の父親に何度も借金を申し込むことがあって、「上司と部下というだけで、これだけ借金を申し込んでくるのだから、親戚になったら何を要求されるかわかったもんじゃあない」と漱石の父親が語ったりして破談になったという夏目漱石の妻が記した『漱石の思ひ出』からとられたエピソードなどが盛り込まれている。

 父の死去に伴い、17歳で戸主となった一葉の肩には一家の生活が重くのしかかり、父親が決めていた許嫁の渋谷三郎とも破談となった。一説では、樋口家には多額の借金が残されていたが渋谷三郎から多額の結納金を要求されたことが原因だといわれている。一家は母親と妹のくに(邦子)で針仕事や洗い張りなどで生計を立てるという経済的に苦しい仕事を強いられるようになる。

 しかし、少女時代から文才を認められて通っていた中島歌子の歌塾「萩の舎」に通い、頭角を現し、時には助教として講義などもし、1890年には内弟子として中島歌子の家に住むようになったりした。多分に貧苦を強いられる樋口家の口減らし的な要因もあっただろう。

 そして、この中島歌子の「萩の舎」で姉弟子の田辺龍子(三宅花圃-かほ)が小説『藪の鶯』で多額の原稿料を得たのを知り、小説家になろうと志すのである。この辺りのくだりは、本書では114-115ページで記してあるが、さらに、彼女の小説の師ともなった半井桃水(なからいとうすい)との出会の箇所でも、当時できたばかりの図書館で末広鉄腸の『雪中梅』を読み、これなら自分にもできると確信をもって東京朝日新聞小説記者であった半井桃水を紹介されて訪ねたことが記されている(178-191ページ)。実際、一葉は図書館にかよいつめて勉強を続けている。

 半井桃水に小説を学びながら、桃水主宰の「武蔵野」の創刊号に処女小説『闇桜』を発表している。この頃の一葉は、貧苦にあえぎながらも図書館に通い、桃水は困窮した一葉の生活の面倒(一葉は桃水から借金をする)を見たりして、次第に一葉は桃水に恋慕の情を感じたりするが、二人のことが醜聞として広まったために桃水と縁を切らざるを得なくなり、それまでの傾向とは全く異なった小説『うもれ木』を発表してけじめをつけようとした。この『うもれ木』が一葉の出世作となったのは運命の皮肉かも知れないが、その後、島崎藤村などの自然主義文学に触れて『雪の日』、『琴の音』、『花ごもり』、『暗夜』、『大つごもり』、『たけくらべ』を次々と発表した。

 今日では、1895年1月から1896年1月にかけて『文学界』で発表した『たけくらべ』が一葉の代表作となっているが、優れて美しい文章で綴られるこの作品の時期が、おそらく作家として最も充実していた時期と言えるかも知れない。半井桃水とのけじめをつけるためもあっただろうが、生活苦の打開のために吉原の遊郭近くで荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが、あまりうまくいかずに、1894年5月には店を引き払い、貧苦の打開のために小説に打ち込まざるを得なくなったとも言える。

 『たけくらべ』は、幸田露伴や森鴎外から絶賛され、一葉は新聞小説や随筆などを手がけていくが、次第に体調が思わしくなくなり、1986年8月に絶望的な結核と診断されて、11月に24歳と半年という若さで息を引き取った。一葉が作家として生活できたのはわずかに14ヶ月ほどで、生活苦を抱えた人生ではあったが、その短すぎる生涯の中で自分の命を削るようにして生み出した作品は、文学史に残る名作と言えるだろう。

 本書では、一葉の作品に多く登場するような明るくさっぱりとして、むしろ剛胆でさえあるような気質をもつ人物として、少女時代から幡随院長兵衛のような人物に憧れ、女に学問はいらないと母親に言われながらも士族の娘としての教養を身につけ、和歌に関心をもち、中島歌子の歌塾「萩の舎」での学びを続けていく姿と和歌の師匠である中島歌子やそこで出会った伊東夏子や田辺龍子との交流などが記され、特に三人の夏子を登場させて、ひとりをわけありの華族の娘佐野島夏子としてとりあげ、彼女の運命の変転をからませながら一葉を描き出す試みがされている。そして、一葉の恋、特に半井桃水との恋が一葉の短い人生の綾として描かれている。

 直木賞作家でもある作者の文章は定評があるし、いくつかの文学手法上の試みもある。作者が描き出したように、実際、樋口一葉という人は、利発で竹を割ったような性格をしていただろうと思う。しかし、単純な読後感としては、どうも樋口一葉を描ききっていないように感じられてしまった。一葉が半井桃水との恋を一度成就させたことが、一葉の人生の救いとなっている辺りは、それが事実かどうかは別にしても、彼女の人生を描く作品としてさすがだとは思うが、晩年、結核という病の中で執筆を続けた姿を描くところに、少し物足りなさを感じたからかもしれない。

 しかし、こうして一葉の生涯を改めて思うと、自分の魂を注ぎ出すようなものが本物になっていくとつくづく感じる。生き急ぐ必要はどこにもないが、ひとつひとつのものに注がれた魂だけが残るような気がするのである。今は言葉の美しさというものからは無縁になりつつある日本語と貧しい言葉に基づく粗い精神が席捲しているが、言葉を美しく使うということは、その人の人格と精神性の問題だから、パソコンのソフトの規制を無視してでも美しい言葉が使えたらと思う。

2011年1月18日火曜日

出久根達郎『波のり舟の』

 昨日も日本海側での雪の模様がニュースで伝えられていた。ここは乾燥した碧空が広がっている。だが、寒い。日中は陽の光に温かみを感じたりもするが、朝晩の冷え込みは激しい.冷え性もあるのか、足下にいつも冷たさを感じている。

 昨夕は先日発表した『彷徨える実存-F.カフカ-』の合評もあって、気の置けない友人たちと池袋で夕食を共にした。「キンキの開き」というのを美味しくいただいたりした。ただ、こういう食事は楽しいものだが、帰りに、あまりの寒さもあるのだろうが、頸椎を痛めていることもあって首から肩にかけて痛みを覚え、地下鉄のベンチに座ったり、途中で降りて休んだりして何台も電車を見送って、ようやく少し空いた電車に乗って帰ってきた。電車はたいてい満員である。だから、帰宅が深夜になってしまった。熱いシャワーを浴びると痛みも治まってきたのだが、冬の夜に出かけるのはなかなか気苦労がいる。

 それからしばらく、出久根達郎『波のり舟の-佃島渡波風秘帖』(1996年 文藝春秋社)を結構おもしろく読んだ。

 これは隅田川河口の佃島と対岸の舩松町(ふなまつちょう-現:中央区湊町)を結ぶ渡し舟の渡し守「正太」を巡る物語で、正直で気のいい正太が、彼が操る舟で出会う人々によって利用されたり、だまされたりするが、たいして気にも留めることなく日々を過ごしていく姿を、例によっておもしろく描き出したものである。

 佃島は現在の佃煮の発祥の地(大阪の佃島という説もある)でもあり、1646年に住吉神社が建立され、1790年に隣の石川島に長谷川平蔵が人足寄せ場(犯罪者の更生施設)を作ったりして、渡し舟の利用者は結構多く、葛飾北斎の「富嶽三十六景色」にも描かれている。現在の佃島は橋が架けられ高層マンションが樹立するところでもある。

 毎日同じところを渡し舟で往復するだけの正太の毎日には大きな変化はない。ある時は、住吉神社に験を担いで赤土を奉納して白砂を持ち帰る砂糖問屋の盗っ人事件に関係したり(第一話「徒恋初空音佃島-たにんのはじまりねっからうそをつくだじま」)、舟を利用する舩松町川の鯉を飼うという奇妙な性癖の女性と出会ったり(第二話)、石川島の人足寄せ場に入れられている囚人の脱走を女にだまされたり(第三話)、住吉神社に貼る千社札を利用した抜け荷(密貿易)に絡む出来事が起こったり(第四話)、葬式の時に蒔く紙銭を使って狂言を仕掛ける太鼓持ちが乗り合わせてきたり(第五話)、ゲテモノ食いの商家の娘が家出してきたり(第六話)、乗り合わせた蔭間(男娼)がいたり(第七話)するが、それらは一陣の風のように正太の生活に吹きつけるだけで、正太の日常に変わりはない。

 そして、彼は幼なじみで男のような口をきく口やかましい娘と結婚し、生活をはじめるところで作品が終わる。ここには、正直で小心ではあるが、多くを望まず、ただ淡々と自分の生活を営むひとりの男の姿がある。彼に吹きつける一陣の風は、奇想天外といえば奇想天外だが、滑稽な人間の姿であり、気のいい正太はそこでだまされたりもするが、だからといって彼がそれに拘泥するということもない。

 渡し場の渡し守として一生を送る江戸の庶民というのは、多くはそうだったのではないかと思わせるものが、ここにある。いろいろなことがあっても、気楽に生きるということはこういうことなのだろうと思ったりもする。そして、こういう「気楽さ」は、結構大事なことに違いないと思う。「Take it easy」は人生を喜んで生きていく秘訣なのだから。

2010年11月30日火曜日

出久根達郎『猫の似づら絵師』

 「汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる」と歌ったのは中原中也だったが、今日も黄色い銀杏の葉が舞い落ちてあたりを埋め尽くしている。昨夜遅く、市の清掃車が道路の落ち葉を舞いあげていた。ありのままが好きなわたしとしては、あまり落ち葉を掃除してほしくないと思いながら清掃車が行き過ぎるまで眺めていた。気分は中也の「悲しみ」とは縁遠いものだったが。

 その深夜、出久根達郎『猫の似づら絵師』(1998年 文藝春秋社)を江戸浮世噺を読むようにして読み終えた。これは先に読んだ『猫にマタタビの旅』の前作に当たるもので、面白おかしい洒落っ気のある軽妙な語り口の中にも何とも言えない味わいのある作品だった。

 貸本屋の写本作りをしていた銀太郎と丹三郎という青年(共に二十六歳)が、勤め先の貸本屋が主の博奕好きのために経営が悪化して首となり、途方に暮れているところに、南八丁堀の金時長屋という貧乏長屋に住む男に声をかけられ、彼の両隣の家に住むことになり、この三人があの手この手で世すぎをしていく姿が描かれていく。二人に声をかけた男は、「名前なんかどうでもいい」というので、風呂嫌いで垢にまみれているところから「垢餓鬼源蔵」という名を忠臣蔵の四十七士の赤垣源蔵の名をもじってつけたもので、源蔵はどうしたことかうどんに凝っており、四六時中うどんをこねて、試作品をふたりに食べさせるという変わり者である。

 しかし、この源蔵は知恵豊かで、元は武家のようでもあり、その実、東州斎写楽を匂わせるものだが、銀太郎には猫の似顔絵を書く商売を思いつき、丹三郎には貧乏神売りの商売を思いついて、二人はこの商売を始めることにしたのである。なかなかこの商売はうまくいかないが、それぞれの商売にまつわる事件に関わり、特に、猫に関連した事件に関わることになるのである。猫の似顔絵描きの最初の商売は、好色な鰹節問屋の若旦那に囲われていた猫好きの娘「きの」が、若旦那の足が遠のき、好色家であることを知って、何とかこれに仕返しをしようと「探し猫」の広目(広告)を依頼するものである。鰹節問屋だから猫が来ると困るが、市中から「探し猫」を見つけたといって猫を連れてくるものが後を絶たないという事態に陥る。そういう話が第一話で展開される。この「きの」が、どうしたことかその後、源蔵のところに転がり込んで、四人の暮らしとなっていくのである。

 その他、猫寺と呼ばれている寺の奇妙な猫の絵馬から、その寺の若い住職が阿片の密売をしていることがわかったり(第二話「猫にマタタビ初春に竹」)、猫の絵を餌にして男から儲けようと一攫千金を企んだ吉原の遊女が、結局、だまされる話(第三話「招き猫だが福にあらず」)や、江戸城米倉の鼠退治に使う猫を飼っている家の男と書院の鼠退治の青大将(蛇)の餌となる鼠を飼っている家の娘の恋のとりもちをしたりする話(第四話 窮鼠猫を好む))、盲目の娘が飼っている黒猫が行くへ不明となり、見つかったが、それは違う黒猫で、金貸しの座頭が飼っている猫であり、その金貸しを恨みに思っている薬種屋がその猫の爪にトリカブト(猛毒)を塗っていたことが分かっていく話(第五話「闇夜に鴉猫」)、猫を押しつけて餌を押し売りする地回り(やくざ)の話(第六話「虎の威を借る猫」)などが、人情味豊かに面白おかしく語られている。

 作者の「あとがき」によれば、猫の似づら絵師や貧乏神売りという商売は実際にあった商売らしく、物語はやがて銀太郎が猫の似づら絵で、丹三郎が貧乏神の絵で、そして源蔵がうどんで大きな権力と闘うことになり、幕府転覆に繋がっていくそうだが、これも洒落だろうと思うほど、洒落っ気に飛んだ物語である。しかし、軽妙さにリアリティーがあって、ただの軽妙ではなく、貧乏ではあるが洒落で粋な江戸市民の姿を通して時代を見据えようとする姿勢がある。

 主人公たちはすこぶるつきの善人で、大望などはとても描かないが、善人が善意で生きることができる世界がここにあって、何とも言えない味があるのである。「洒落で生きているのだ」というのも悪くないどころか素敵であるに違いないということを思わせる作品である。こういう作品を読むと、「人生ケセラセラ」という気がしないでもない。

2010年11月13日土曜日

出久根達郎『猫にマタタビの旅』

 薄く曇った肌寒い日になった。黄色くなった銀杏が、時おり差す陽の光に輝いたりするが、全体的に灰色の世界が広がっている。

 木曜日の夜から読み始めていた出久根達郎『猫にマタタビの旅』(2001年 文藝春秋社)を読み終えた。書名からして「マタタビ」と「旅」がかけてあったり、扉に「東西、トーザイ」という口上書きが記してあったりして、気楽に読めるようになっているが、仕事が少し立て込んでいたので読み終えるのに少し時間がたってしまった。この作品には『猫の似づら絵師』という前作があるが、そちらはまだ読んでいない。

 ちなみに「東西、トーザイ」というのは芝居の前口上の呼びかけの言葉で、「ご来場のみなさん」というのを洒落て言ったもので、この前口上が記してあることからわかるように、本書は、全体が洒落とユーモアに満ちたものになっている。

 主な登場人物は、猫の飼い主などに猫の似顔絵を描いて売っている銀太郎と、縁起物として貧乏神の絵を売っている丹三郎というふたりの青年、そして、年齢も正体も不明だが、うどん好きで、始終うどんを打っていて、人生の機知をよく知り、時には窮地を脱する手段を発揮する源蔵の三人である。この源蔵は春画を描いて糊口をしのいでいるが、実は、実際にわずか10ヶ月ほどしか活躍しなかったにもかかわらず独特の役者絵を描いた東洲斎写楽ではないかとの暗示もあったりする。三人はいずれも貧しく、そしてお気楽者である。そして、「なんとかなるさ」という脳天気ぶりが発揮される。

 本書は七編からなる連作集だが、最初の三編、「猫にマタタビの旅」、「禍福は猫の目」、「ぐるっと回って猫屋敷」以外の四編は、三人がうどんの名産地でもあった上州の高崎(現:群馬県高崎市)にうどんを食べに行くという旅物語で、源蔵が描く春画を欲する者がいるというのが旅の目的でもあった。

 最初の三編は、貴重な金目銀目の猫(猫の目が金と銀で、両方が金の目の猫も招福猫として考えられていた)を買いたいという柳橋の芸者置屋の女将の依頼を受けて、銀太郎が甲州街道の多摩に出かけていく話で、宿で盗っ人にあったり、猫の売り主が猫の帰家癖を利用して企んでいた詐欺がばれたりしていく「猫にマタタビの旅」、行徳河岸(現:千葉県市川市南)まで春画を描きにいく源蔵に銀太郎と丹三郎が同行し、そこからさらに木更津まで行って、そこで高価な三毛猫の雄(航海安全、招福として尊重された)が逃げて弁償しなければいけないという少年に会い、同情して三毛猫の雄を探したりしているうちに、実は、その猫の失踪そのものが同情をかって金を儲けるために仕組まれたものであることがわかっていくという「禍福は猫の目」、老い猫を捨てることを依頼された銀太郎が佃島まで猫を捨てに行くことに絡んでの佃島の猫屋敷と老い猫の買い主である女性の離縁話が語られた「ぐるっと回って猫屋敷」である。

 ちなみの、この話の第一話で、銀太郎は、猫を呼び寄せるために持って行ったマタタビを飲んで、発情してしまい、同行した男のような芸者置屋の奉公人「みん」と寝てしまうが、この「みん」が最後の第七話「人も猫も猫かぶり」で銀太郎に夫婦約束を迫る話も出てくる。マタタビは催淫剤でもある。

 第四話からは高崎への旅物語だが、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』よろしく、あちらこちらでてんやわんやの騒動が巻き起こり、三人はそれに巻き込まれていくのである。

 第四話の「鼠の猫じゃらし」は、高崎へ向かう途中の岩鼻(現:群馬県群馬郡岩鼻)で、蚕のネズミよけに貼る猫の絵を描く地主に出会ったり、密かに訳ありの子供を産ませることをしていた神官が生まれた子どもを使って遊女屋を営み、こっそり生んだ母親を脅したりしていた事件に遭遇していく話である。この事件で使い走りをさせられていた庄太郎という若者も三人に同行することになる。

 第五話の「猫なで声でうどん」は、四人が高崎に着いて見ると、源蔵に春画を依頼した者が伊香保温泉に保養に出かけたというので、金儲けの当てがはずれた四人が伊香保までいく話である。ここで千社札を貼ることを生業としている甚六という男と同行することになり、一行は、伊香保の手前の水沢観世音に美味しいうどんを食べさせる店があるというので、そこに出かける。ところが、彼らが入ったうどん屋は、いわばぶったくりのうどん屋で、酒も女も出すという怪しげな鼻つまみのうどん屋だった。

 彼らはすぐにその店を出ることにしたが、料金のことでもめているときに、水沢観世音の住職が通りかかり、彼らは窮地に一生を得る。そして、その店で嫌々働かされていた小冬という女性(小冬は弥山の源氏名で、実名はお春)も彼らと同行することになるのである。

 第六話「猫のひたいで盆踊り」は、源蔵の金主となる春画を欲しがる旦那が伊香保から草津に行ってしまい、全く金がなくなった一行六人が安宿の布団部屋で金策に走る中、宿に併設されている湯治客用の風呂で、貸本屋の金蔵と会い、彼の貸本を写本して金稼ぎを考えた銀太郎と丹三郎であったが、その貸本(春本)の絵に、風呂で見た背中に弁財天の刺青のある女性の姿を描いたところ、その女性の男の子分たちから脅しをかけられていく話である。彼らは女性の気っぷの良さと粋な計らいで窮地を脱していく。

 第七話「人も猫も猫かぶり」は、草津まで行って春画で金を稼いできた源蔵が戻り、伊香保で最上級の旅館に泊まることになった六人が、その旅館で起こる騒動に巻き込まれる話で、第五話で同行することになったお春の素性が明かされ、自分には子種がないから友人と寝て子どもを作ってくれというようなふがいない分かれた亭主が、たまたま一念発起して彼女を探しに来ていたのに出会ったり、逃げていた殺人者(実は怪我させただけで、殺人というのは噂に過ぎなかった)と出会ったり、てんやわんやの騒動の末に一件落着といき、銀太郎は江戸に帰って、第一話の「みん」と祝言をあげることになり、写楽のような役者絵を描いたらいいと勧められるところで落ちがつく。

 読んでいくと、味のある江戸浮世噺のような作品だと、つくづく思う。主人公の三人はすこぶるつきの善人であり、人が良すぎる人間であるが、つまらない妙な正義感が振り回されたりもしないし、てらいも構えもない人々が、そのまま面白く描き出され、人が良すぎていろいろな事件に巻き込まれていくが、それを何とも思わないのもいい。健康的なエロ話がユーモアたっぷりに描かれるのもいい。ただ、真面目な女性が読んで面白いとは思わないかも知れないが。

2010年11月4日木曜日

出久根達郎『御留山騒乱』

 天気図を見ると高気圧に覆われて晴れそうだったので、朝から洗濯をし、寝具を干しておこうと思っていたのに、朝のうちは雲が重く垂れ込めていた。でも、西の空に蒼空が見え始めているで大丈夫だろう。

 このブログに、仕事や睡眠時間を案じてくださるコメントが読者の方から寄せられていて嬉しい限りで、もともと乱読の忘備禄のようなものとして書いているものが書物選びの参考になっているというのも望外のことだと感謝している。睡眠時間は確かに短いかも知れないが、無理をしているという思いはなく、ブログは可能な限り続けたい。

 働かないで生活ができるほどの余裕もなく、貧乏暇なしのような暮らしぶりで糊口をしのいでいるわけなのだし、仕事はできることをできるだけするようにしているが、お金には元々縁が薄く、子どものころに母親から「武士は食わねど高楊枝」で、痩我慢をして生きて行くことを教えられたことが染みついているのか、働けば何とかなるという楽天主義なのか、あれば嬉しく、なければ耐えるだけのことと思って暮らしている。

 仕事には評価や成果というものがつきもので、目に見えるほどの成果は上げていないだろうとは思う。成果や評価が高いことにこしたことはないが、ただ、成果にはいろいろな要因があり、良くても悪くても自分ができることをする以外にはなく、批判も甘んじて受ける覚悟があって、他者の評価というものも、それが良くても悪くても、それでどうということはない。自分の人生を成果や評価で計るつもりもさらさらないし、人の生は、いつも未完で終わるし、終わってもいいと思っている。

 それはともかく、昨日は爽やかに晴れた祭日で、忙しいのは結構忙しかったのだが、夕方から夜にかけて時間が空いて、出久根達郎『御留山騒乱』(2009年 実業之日本社)を面白く読んだ。物語は、この作者らしくユーモアに満ちている。

 これは、天保元年(1830年)に伊勢神宮に参詣する「お蔭参り」が流行した年、信濃(長野県)の上田から小諸を経て追分に至る山中の「御留山」で起こった藩の内紛に絡む騒動に巻き込まれた青年僧を引き回し役にして騒動の顛末を物語ったもので、「御留山」というのは、狩猟や立ち入りが禁じられた山のことをいう。

 このあたりは、鎌倉時代から戦国時代にかけて浦野氏という地方豪族が支配していたらしいし、越後(新潟)の上杉家と甲斐(甲府)の武田家の戦場であり、上田は真田幸村でおなじみのところだが、江戸時代には幕府の直轄地や旗本の支配地などが複雑に入り組んで、天保のころに誰の支配地になっていたのかは失念した。しかし、将軍献上のための山茗荷(ヤマミョウガ・・食用のミョウガとは少し異なって、夏の終わりに黒い実をつけ、精力剤としても用いられたらしいが、よく知らない)や松茸、夏の氷などの産地で、特に、冬に作った氷を氷室(ひむろ)に保存し、それを夏に出すことでよく知られていた。

 物語でも、将軍献上用の氷を作り、それを氷室に保存するための山が「御留山」とされ、献上によって上がる権勢と莫大な利益で私腹を肥やすことに絡んでの騒動が記されている。

 物語は、寺の息子で仏門修行に出された秀全という青年僧が、修業先の寺の住職の衆道(男色)癖と寺での生活に嫌気が差し、「お蔭参り」を利用して京に行こうと、修行寺から逃げ出し、浦野(現在は上田市浦野)の宿に着くところから始まる。秀全は読心術を身につけていたが、浦野の宿で、賭場でいかさまを見破った平助という男の仲間として土地の地回りに捕らわれ、監禁されてしまう。平助は、不思議な男で、薬草などにも詳しく度胸も知恵もあるが、実は、藩の将軍献上品を巡る不正を隠密裡に調べる役人であり、土地の地回りが不正に一役買っているのを調べていたのであった。

 監禁された秀全と平助は、地回りの養女となっていた「おまつ」という娘に助けられる。「おまつ」は地回りの養女であったが、山中で暮らしており、嵐と名乗る男といい仲になり、その嵐が行方不明になっていたために、山中を逃げる平助らと同行することにしたのである。嵐という男は、実は平助の同僚で、不正の探索を命じられたが、行くへ不明となり、平助はその嵐を探すために来ていたのであった。

 探し出した嵐は山中で「宝」を発見したと言う。その宝とは、強壮薬である五石散の材料となる黒水石であった。ちなみに、「水石」とは、もともと自然に出来た文様や形で鑑賞に堪える石のことで、黒色がもっともよいとされているが、五石散の材料となるものは、鍾乳石や硫黄、白石英、紫石英、赤石脂(黄土)であり、五石散は、麻薬のような幻覚や興奮を起こすもので、ここで語られている「黒水石」が何なのかはわからない。物語の展開とはあまり関係のないことではあるが。

 その黒水石は立ち入りが禁じられている「御留山」の近くにあるという。その近くの山中で、彼らは山中で人知れず暮らしている「山あがりの衆」という人々と出会う。仲間が御留山の氷室を守る役人に捕まったという。嵐は宝である黒水石を掘り出すためにも彼らの助けを必要としたので、彼らの仲間救出に手助けすることにして、御留山に向かう。

 御留山では、将軍献上のための氷が作られ、氷室が据えられていた。氷の中に入れて氷柱花とする花も栽培され、折り紙も作られていた。ところが、彼らがこの御留山に来たとき、大地震が起こり、氷を作るための湧き水が涸れ、紙細工の娘も氷室を守る役人に捕らえられて行くへがわからなくなるのである。監禁されているという「山あがりの衆」の仲間や行くへ不明の娘の居場所を突きとめるために右往左往する。彼らは氷室の中に捕まったりするが、何とかそこを脱出したりするのである。そして、氷を作る池のそこに大金が隠されていることを知ったりして、献上氷を利用して不正を働いていた氷室の役人の不正が暴かれていく。

 監禁されているという「山あがり衆」の仲間は、実は、嫉妬に駆られて裏切りを働いたのであり、平助や嵐に不正探索を命じた家老自身が、不正の張本人であったりするどんでん返しがある。権勢を巡っての陰謀が隠されていたのである。

 こうした騒動の末に、秀全は、この不正を暴くのに功績があって正式に認められた「山あがり衆」が建立するという寺の住職になっていく。

 物語は、大変面白いし、強壮剤という人間の欲を最もよく表している材料が使われてユーモラスに描かれている。ただ、後半の展開が急ピッチで進められ、その分、登場人物たちが雑多になっているので、ちょっと残念な気がしないでもない。藩の内紛ということや氷室の役人の姿、山あがり衆といったものは、もう少しじっくり人間というものを描く上で掘り下げられ、広げられても良かったのではないかと思ったりもする。

 明日は会議で都内まで出かけなければならない。往復の電車の中で読みさしの本が読み終えられたらいいが、と思っている。

2010年10月26日火曜日

出久根達郎『抜け参り薬草旅』

 昨夜、雨が音もなく降ったようだ。昨日洗濯物を取り込むのを忘れていたら、ぐっしょり濡れて洗濯のやり直しという、いつもの「ぼけ」をやってしまった。仕事の関係で午後から仙台まで行かなければならないし、片づけなければならない仕事もあるので、まだ暗い早朝から起き出していた。

 昨夕から夜にかけて出久根達郎『抜け参り薬草旅』(2008年 河出書房新社)を面白いと思いながら一気に読んだ。

 「抜け参り」とは、元々は「生かされている」ことを伊勢神宮に感謝する「おかげ参り」とか「お伊勢参り」と呼ばれ、だいたいにおいて江戸時代に60年周期で起こった伊勢神宮への集団参拝のことで、江戸時代には庶民の移動には厳しい規制があったが、伊勢神宮参詣や大山詣のようなことに関してはほとんどが許される風潮があり、特に伊勢神宮の天照大神が商売繁盛の神とされたことから商家では、子どもや奉公人が「お伊勢参り」をしたいと言い出すと、親や主人はこれを止めてはならないと言われていた。また、無断で出かけていっても、伊勢神宮を参詣したという証拠のお札やお守りを持ち帰れば、お咎めなしの無罪放免とされていた。「抜け参り」は、その無断で伊勢神宮へ参詣することを言う。

 だいたいにおいて、初期には、「講(お金を出し合い、くじで当選者を決めて、当選した者が集まったお金を使うことができる)」を作ったりして本格的に行われ、参詣者は「白衣」を着ていたそうだが、中期になると仕事場から着の身着のままで行ったりして「おかげでさ、するりとさ、抜けたとさ」と囃子ながら歩いたと言われる。無一文で出かけても沿道の人々が助けるべきという風潮があった。無一文で出かけた子どもが大金をもらって帰ってきたという話もある。

 後期の文政から天保にかけての「おかげ参り」では、なぜかひしゃくを持って行き、それを伊勢神宮の外宮北門に置いていくということが流行り、こうしたことが幕末の「ええじゃないか」につながっていく。文政から天保にかけての「おかげ参り」で参詣した者は400万人を越えるというから、これがいかに江戸庶民の間で流行っていたかがわかる。

 伊勢神宮の性質が変わったのは明治になってからで、明治天皇が伊勢神宮に行幸したことから庶民の「お伊勢参り」熱がさめ、伊勢神宮は格式の高い神社になってしまった。

 ちなみに、わたしが住んでいる所は、「お伊勢参り」と同様に江戸時代に江戸の庶民で流行した「大山詣」に使われた「大山街道」の側で、現在の国道246号線が側を走っている。近くの「荏田(えだ)」という所は大山詣のための宿があった所である。

 『抜け参り薬草旅』は、江戸の瀬戸物問屋につとめていた十六歳の少年「洋吉」がその「抜け参り」の旅に出て、箱根近郊で薬草採りをする庄兵衛という人物と出会い、その庄兵衛と一緒に旅をしていくというもので、薬草に詳しく、人知にも経験にも富んだ庄兵衛と共に、特に精力剤や催淫剤(惚れ薬)などを求める人々や事件などに出くわしながら、最後には「おかげ参り」の群衆を利用して幕府転覆を企む由井正雪の子孫である由比家の騒動に巻き込まれながら成長していく話である。

 薬草が生えている所は秘中の秘であるから、特に精力剤ともなる薬草などを巡って、薬草採りの上前をはねようとする人物も出てくるし、ないはずの黄色い朝顔の種を欲する強欲者も出てくる。刺青を覚えた絵師が若い女性の肌を狙って「抜け参り」の女性たちを誘拐する事件も起こる。薬と毒は表裏一体だから、その毒を欲する者もある。「抜け参り」を利用して駆け落ちする者や羽目を外す少女もいる。そういう様々な人間の欲の模様が「薬草旅」の色をなしていき、洋吉は庄兵衛の下で人生経験を重ねていくのである。

 途中で「抜け参り」の旅を同行することになった「とし」という少女との洋吉の淡い恋もある。そして、最後に、静岡清水の府中で、由比の由比家の子孫が企む「おかげ参り」の群衆を利用した暴動に巻き込まれ、旅絵師に身をやつした幕府お庭番(隠密)や庄兵衛の活躍で助け出されていき、洋吉と「とし」は抜け参りの熱を冷まして、落ち着いていくのである。

 物語の展開が細部にわたって無理がないし、庄兵衛の人間観察眼もなかなかのもので、大げさに構えないところがいい。なんといってもこの作品にはユーモアが満ちている。人間の業(ごう)や性(さが)をそのまま受け止めていくユーモアがある。時代小説としては完成度の高い作品だと思う。

 作品とは関係ないが、薬草については、いつかもっときちんと学べたらと思ったりする。何といってもそれは人間の知恵の産物であり、歴史である。以前、中国に行ったときに関係文書がないかと思って探したが、こういうのは実際の植物を見て、手にし、乾燥させたりすり潰したりして自分の手で作らないと身につかないと思っている。子どものころヨモギの葉を血止めに使ったことがあるのを思い出した。しかし「生兵法は怪我の元」であるに違いない。

2010年9月18日土曜日

出久根達郎『安政大変』

 薄く白い雲が空を覆っている。最高気温が30℃を下回る日々が続いているので、秋の気配を感じ始めているが、「眼にはさやかに」である。夏の疲れが出てきたのか、疲れがとれない気がしている。日用品の買い出しも必要なので、夕方に散策もかねて薬局を覗いたりしながら出かけようかと思っている。

 昨夕、出久根達郎『安政大変』(2003年 文藝春秋社)を読んだ。これは、1855年11月11日(元歴では安政2年10月2日)に起きた大地震に遭遇した人々を描いた短編集で、「赤鯰」、「銀百足」、「東湖」、「円空」、「おみや」、「子宝」、「玉手箱」の7編を収めたものである。

 文学作品として短編を読む場合、文章作法でいうならば体言止めのような切れと余韻を期待する。この中では特に、この地震で死んだ水戸藩の重鎮でり、後の世にも大きな影響を与えた藤田東湖の姿を描いた「東湖」や、円空作の仏像をもつ死病を患っている吉原の女郎の姿を描いた「円空」などに、その短編の切れと余韻が感じられるし、どの作品も登場人物たちがユーモラスに描かれているので、その点では優れた短編になっている。

 安政の大地震という避けがたい天変地異に遭遇した人々の姿を描くことによって、江戸末期の人々の姿が浮き彫りにされ、歴史的にはこうしたことで江戸幕府の崩壊に拍車がかかっていくのだが、人々の暮らし難さが「おみや」や「子宝」、「玉手箱」によく描き出されている。「おみや」は井戸掘り人足と夜鷹の話であり、「子宝」は成長の遅い娘をもつ老夫婦、「玉手箱」は災難にあい続ける商家の奉公人の話である。

 今日では災害は地域に限定されたものとなってきているが、天変地異の災害は社会を一変させる。もちろんそれに遭遇した人間の人生観も変える。価値観の大逆転が起こる。だが、人々の暮らし向きは変わらない。人間はしたたかにその中を生き延びていく。そうした人間のしたたかさに目を向けることは結構大事なことだろう、と思いつつ本書を読んだ。わたし自身にはそのしたたかさがないので、余計にそう思う。

2010年8月2日月曜日

出久根達郎『世直し大明神 おんな飛脚人』

 曇り空が広がり、高温多湿で、蒸し暑い空気が肌にべっとりとまとわりつくようで、不快指数がピークに達している。昨日も同じような感じで一日湿度の高い日だった。エアコンを稼働させている室内とべっとりする室外の差が大きくて、外に出ると汗が滴り落ちる。

 今朝の朝日新聞の「Globe」という特集記事の中に、ニューヨーク在住の宮家あゆみという人の最近のニューヨークでのベストセラーの紹介があり、その第一位になっているJustin Halpern という人の「Sh*t My Dad Says」という書物が紹介されているの興味を引かれた。「Sh*t」というのはわざと「*」が使われているが、「クソ」という口語で「親父のクソのような言葉」というほどの意味の書名で、頑固だが人生の機知に富んだ父親の発言をまとめたものらしい。父親は医学研究者であるとのこと。

 たとえば、初めて幼稚園に行った日に父親が言った言葉が、「つらかっただと?もし幼稚園ごときで大変なら、お前の残りの人生に悪い知らせがあるぜ」といた具合である。小学校の個人面談では「あの女教師はお前を好きじゃなそうだから、俺もあいつが嫌いだよ。お前はいろいろ悪さをしたんだろうが、クソくらえだ。お前はいい子だ。バカ女のことは放っておけ」と言ったという。

 辛辣で、爽快で、面白い。これがニューヨーカーの中でベストセラーであるということは、人々のフラストレーションが相当たまっていて、どこか爽快で軽妙にすぱっと人生と社会を斬っていくような気分を求めているということだろうと思ったりした。日本でも丸善か紀伊国屋あたりで売りに出されるだろうから読んでみようと思っている。

 閑話休題。土曜日と日曜日に、出久根達郎『世直し大明神 おんな飛脚人』(2004年 講談社)を読んだ。この作者の作品は、前に一冊だけ『御書物同心日記』というのを読み、読みやすいし面白いが、どこか少し物足りなさを感じたりしていたが、これは掛け値なしに面白い。本のカバーの裏に、『おんな飛脚人』はNHKの金曜時代劇で『人情とどけます 江戸・娘飛脚』と題されて放映されたとあるが、納得である。

 江戸の町飛脚屋の「十六屋」(十六夜-いざよい-をひっかけたもの)で唯一の女飛脚人として働く「まどか」という娘を主人公にして、江戸で起こっている様々な出来事に関わることを市井の人々の視点から物語として語られたもので、同じ飛脚人をしている御家人の次男の清太郎との淡い恋心もあって、飛脚屋で働く者たちの友情や、主人夫婦との温かい交情、そして、飛脚屋だけに多くの情報が真っ先に集まるという設定で、江戸市中の大事件の顛末などが語られていく。

 『世直し大明神』は、現歴でいえば1855年11月11日に起こった「安政の大地震」が取り上げられ、大被害にあった江戸の様子や不穏な社会状況が背景として詳細に描かれ、本書では特に、その前の1837年の「大塩平八郎の乱」に関連しての江戸での「大塩党」と名乗る残党や、それを利用して芥収集と埋め立てで資財を肥やそうとする人間たちに、素朴でまっすぐで思いやりに飛んだ「十六屋」の飛脚人たちが立ち向かっていく姿が描かれている。

 主人公「まどか」の父は、元水戸藩士で、『大日本史』の編纂に力を尽くしていた書物探索方同心で、大塩平八郎が出した書簡に彼がもっていた書物のことで名前が記されていたために改易され、竹細工を作って生活をしていたが、その書物が幕府に対する反社会的な傾向の強いものであったことから、地震で明るみに出されることを恐れ、また、その書物が金になると思っていた者たちから狙われたりするのである。そのくだりも、なかなか妙にいっている。大事件の影で翻弄されるが、不満も嘆きもせずに、事件の解決に向けて、江戸に出てきて娘の「まどか」と共に事件の解決に尽力する。

 作者自身が古書店を営んでいるので、古書に関する知識が駆使され、1703-1762年に生きて共産制的農本主義や無政府主義的思想を展開した医者の安藤昌益の思想を弟子が記した『確龍堂先生言行録』という書物が、事件の引き金となっていると設定されており、もちろん安藤昌益は実在の人物であるが『確龍堂先生言行録』という書物は作者の創作であろう。その内容が少し紹介されているが、それも作者の創作で、むしろ福沢諭吉の思想に近いものとなっている。書名は創作であるが、決して根拠のない創作ではなく、安藤昌益の弟子で八戸藩主の側医であった人に「神山仙確」という人がいたから、その名前からとられたものだろう。本書の中での書物の発見も「まどか」の父が東北に貴重本を探しに行った時であるとされている。こういうきちんとした歴史的知識はさすがである。

 とはいえ、本書ではそういうことが語られるのではなく、背景としてきちんと収められていて、主人公を初めとする飛脚人たちの気持ちのいい仕事ぶりや爽やかで他の人のことを思う心情が物語の全編を貫いていて、安政の地震で焼けてしまった寺の花梨の木と銀杏の木が、半分焼け落ちても新しい芽を出す姿に、地震で頽廃した町や人々の復興していく姿が示されるのである。

 自然の生命力はいつでも人間を癒し、立ち直らせる力を持っている。特に、日本人はそうした自然の生命力から多くのことを学んできた。主人を亡くした「十六屋」の女将さんと「まどか」は、その若木を見て「ほろほろと涙をこぼす」。

 このシリーズの一作目である『おんな飛脚人』をぜひ読みたいと思っている。そこには「まどか」や清太郎が飛脚人となっていくいきさつが記されているだろう。

 それにしても、今日も暑い。

2010年5月12日水曜日

出久根達郎『御書物同心日記』

 昨日、静かに雨が降った。古の人々は今日のような雨を小糠雨と呼んだ。早朝から起き出して、雨の雫が流れ落ちるのをぼんやりと眺めたりしていた。「対立」で始まった20世紀が、その構造を引きずったまま「批判」という姿を変えて人間の精神を蝕んでいるが、「受容」と「共生」へどうしたら向かうことができるだろうか、などと大それたことを考えたりしていた。「正-反-合」の弁証法を駆使したヘーゲルは、やはり間違っていたのかもしれないとも思う。

 深い理由もなしに、何気なく図書館の書架で目についたというだけの理由で借りてきた出久根達郎『御書物同心日記』(1999年 講談社)を読んだ。この作者のことは全然知らなかったが、本の奥付によれば、1944年生まれで、1992年に『本のお口よごしですが』で講談社エッセイ賞を受賞し、1993年に『佃島ふたり書房』で直木賞を受賞している。中学を卒業して集団就職で上京し、古書店に努め、1973年に独立して杉並で「芳雅堂」という古書店を営む傍ら作家活動を続けておられるらしい。

 そのためだろうが、書物そのものについての関心と含蓄が深く、本書も、「紅葉山文庫」と称される徳川家の蔵書を管理した「御書物奉行」、特にその配下であった「御書物方同心」の姿を描いたものであり、主人公も古書に強い関心をもって、養子となって「御書物方同心」として勤めることになった青年御家人である。

 実は、昨日、上記のところまで書いていた。そして、先週の金曜日に召天されたT夫人の葬儀に向かったので、以下は今日改めてその続きから書くことにする。曇って、すこし肌寒い。

 『御書物同心日記』は、その青年御家人が「御書物方同心」として出仕するところから始まるが、当時の「御書物方同心」がいかに細心の注意を払って「紅葉山文庫」を管理していたのかが詳しく述べられ、秘蔵であるはずの蔵書の写本が流出する事件や嫁探し、そこに務める者の人間関係などが小さな山場として描かれ、特に書物の虫干し作業で苦心していく姿が軽妙な文体で語られている。

 作者自身の「あとがき」で、「書物方同心にとって、最大の行事は、土用の虫干しであった。もしものことがあるとお咎めを受けるので、緊張の連続だったろうが、一方、本好きの同心たちにとって、秘蔵の珍本を拝める機会であり、大いに楽しみであったろう。・・・わくわくと胸をはずませながら、書物を陰干ししただろう。むろん、中には、こんな仕事を苦にする者もいただろう。世襲ゆえ、仕方なくつとめていた者もいたはずだ」(265ページ)と述べられているが、本好きの同心、仕方なくつとめている同心などが、本書の登場人物たちである。

 物語の展開の中で、いくつかの小さな山場はあるが、何か大きな事件が起こるわけでもなく、日常の姿が語られていく。人の生涯の中で、それこそ「映画や小説のような劇的な出来事」が起こることは稀で、むしろ、多くは淡々と日常が織りなされているわけだから、その意味で、作者が「物語の面白さ」への欲求を抑えて、ごく普通の日常を描き出そうとしていることはよくわかる。

 しかし、そうだとしても、読者として少し物足りなさも感じる。途中で、「なんだかこのまま終わりそうだな」と思っていたら、そのとおりで、私見ではあるが、もう少し人間が深く描かれていて欲しいとも思う。小説に代表される文学は、思想性を深めていくというのでは決してないが、何よりも生きた人間を描くもので、作中に描かれる主人公たちの姿が、もう一つ鮮明に浮かんでこないような気がしたのである。この作品が決して優れていないわけではないが、優れた時代小説は、情景を表わす言葉ひとつにも、ただ単に情景描写に留まらずに、万感の思いが込められている。

 もたれている古書に関する知識や「御書物同心」という職務に関する知識が駆使されて、それが物語の構成要素となっているが、わたしが好む「情の展開」はあまり見られない。もちろん、こうした作風を好む方もおられるだろうし、それはそれで意味のあることだとは思う。この作者の他の作品も読まずに言うことは、もちろん、できないことではあるが。

 今日は、少し疲れを覚えて、頭脳が半分しか機能していないような気もする。こんな日はきっとぼんやり一日を過ごしてしまうだろう。「あれも、これも」とただ思うだけかもしれない。フルートの高音域の音がどうしても鮮明に出せなくなっているので少し練習しよう。いくつかのところに連絡を入れることも忘れないようにしよう。