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2014年3月20日木曜日

葉室麟『潮鳴り』

 今日は、春雨と言うには少し冷たい雨が降っている。あと5日ほどでここを離れて熊本に転居することになっているため、机の中のガラクタ類を整理したりしていた。学生時代を含めて、これまで生涯に渡って何度も転居したために、必要なものしか残っていないが、それでもかなりのガラクタがたまっている。身一つでもいいがなあ、と思いつつの日々を過ごしている。

 そんな中で、好きな作家のひとりである葉室麟の『潮鳴り』(2013年 祥伝社)を読む。これは、再生の物語である。「落ちた花は二度と咲かない」という繰り返される言葉が象徴するように、それぞれの事情で堕落してぼろぼろになった人たちが、自分の矜持を取り戻して、それを貫きながらそのどん底から立ち直っていく物語であるが、再生のあり方は決して単純ではない。そこが作者らしいところでもあるだろう。

 物語は、『蜩ノ記』(2011年 祥伝社)で作者が創作した豊後羽根藩(うねはん)である。今回描き出される羽根藩そのものは、これといって『蜩ノ記』で描かれたような美しい光景はないが、羽根藩を舞台にした作品が書き続けられて、藤沢周平の「海坂藩」のようになればいいと期待はしている。情景描写の情緒は、作者は本当に豊かである。今回も「潮鳴り」が再生のひとつのリズムのように響いていく。

 物語の中心は、若い頃は俊英を謳われていたが、融通の利かない剛直な性格で、藩に金を出している商家の接待の席でその剛直さを発揮してしまい、そのために上役や同僚と上手くいかず、お役御免となり、家督を父の後妻の子である弟に譲って、放蕩のあげく家族の者ともしっくりいかず、家に帰ることもできなくなり、漁村の漁師小屋で寝起きし、金があれば酒に浸って溺れ、やくざが開く賭場にも出入りし、周囲から「襤褸蔵(ぼろぞう)」と揶揄されている伊吹櫂蔵である。「武士としての矜持を失い、ただ地を這いずりまわって虫のように生きている」(15ページ)。

 もう一人は、その櫂蔵が通う飲み屋の「お芳」である。「お芳」は、足軽の娘であったが、父親が病に倒れて料理屋で働かなければならなくなり、その店で働いているときに若い見栄えの良い藩士に惚れて、つい身を任せてしまったが、何人もの女を慰み者にしていたその藩士に捨てられたことから、遂に身を持ち崩してしまった女性であった。彼女は顔立ちがほどよく整い、気が利いてさばけた女性で、金さえ払えば一夜を共にするような女であったが、だれに対しても心の内側に立ち入らせることはなかった。潮風に吹かれて物憂げな様子をしていると、いつか身投げをするのではないかと危ぶまれるようなところもあった。

 そして、三人目は、もとは江戸の呉服問屋の三井越後屋の大番頭を務めていたが、突然、駆け落ちまでして一緒になった妻と子を捨てて、店を辞めて旅の俳諧師として放浪し、「お芳」の店で櫂蔵と出会った「咲庵」こと佳右衛門である。捨てられた女房は実家に帰ることもできず、同じ三井越後屋の手代として働いていた息子は、父親が突然に店を辞めたために店を辞めさせられ、生活に苦労していると聞いていた。彼もまた忸怩たる想いを抱いて生きていたのである。

 その他にも、上役を恐れ、日々をことなかれ主義で過ごしてしまっている羽根藩の藩士たちが登場する。

 これらの人たちの日常はそれぞれに倦んでいる。だが、櫂蔵の後の家督を継いだ弟が、親の財産を処分したという金の残りをもって櫂蔵を訪ねてくる。弟の新五郎は、藩の物産方から新田開発の奉行並に取り立てられていたが、事情があって金が必要となり、家財を処分したと語り、3両の金を持ってきたのである。物乞い同然に暮らしていた櫂蔵は、その仔細も聞かずに、その金を博打で一晩のうちにすってしまい惨めな気持ちを抱えたまま倦んだ日々を過ごしていた。だが、その弟が切腹したという知らせが届く。ここから事態は一変していくのである。

 櫂蔵は、切腹した弟から何故自死をしなければならなかったのかを記した手紙を受け取り、懸命に生きようとした弟に対して、自分が何もわからずにいたことを嘆き、自分の無力さに打ちのめされて絶望し、海に入って死のうとする。だが、「お芳」がそれと気づいて必死になって止める。そして、弟に代わって新田開発奉行並として出仕するように藩命が下る。その藩命をもってきたのは櫂蔵の上司となる勘定奉行の伊形清左衞門であったが、伊形清左衞門は、かつて「お芳」を弄んで捨てた男だった。

 櫂蔵の義母は、櫂蔵が屋敷に立ち入ることも毛嫌いし、まして切腹した弟の代わりに出仕ることにも、藩の裏の思惑があると言って大反対するが、櫂蔵は、一大決心をして、「お芳」を説得し、「咲庵」を説得して、三人で伊吹家に帰り、弟の切腹の真相を探るのである。

 弟は、藩の財政救済と藩政改革、新田開発のために、天領で大名貸しを行う日田の豪商の「日田金」をやっとの思いで借りることができていたが、金は江戸に運ばれて、江戸屋敷の出費のために使われてしまった。新田の開発ができなければ借金を返すことができず、しかも「日田金」は公金だから、返済ができなければ切腹せざるをえず、初めから謝金を踏み倒すための切腹役として自分が使われたと手紙に記していた。櫂蔵は、その弟がしようとしていたことをし、弟の無念を晴らすために、あらゆる侮蔑を耐え忍んでいくことを決心していくのである。

 しかし、一度落ちた花が再び咲く道は厳しい。櫂蔵から妻にと望まれた「お芳」も、自分は汚れた女であると自覚しているし、櫂蔵の義母からも、汚れた女として蔑まれる。「お芳」は、自分は女中として櫂蔵の側でその行く末を見守りたいと申し出て、下働きを懸命にしていくのである。

 やがて、弟の自死の真相が次第に明らかになっていく。弟が藩内で生産されていた明礬(みょうばん)のために日田金を借りていたことを知るし、その弟を慕いながらも遊女になっていく娘の「さと」のことも聞いていく。弟は、心底、貧しい者や困窮にあえぐ者に手を差し伸べようとしていたことがわかっていく。そして、無為に事なかれ主義で暮らし、最初は櫂蔵に辛く当たっていた新田開発奉行所の同心たちも、再び櫂蔵を中心にしてまとまっていく。日田金の着服には、藩の御用商人である博多の豪商と藩主の吉原通いの借金、そして、勘定奉行の伊形清左衞門の画策が絡んでいたのである。

 こうして、それぞれの再生の道が始まっていく。櫂蔵は、生き恥をさらしても弟がなそうとしていたことを成し遂げる決心をし、「生きる」ということを背負って藩を利用して私腹を肥やしていた悪徳商人と戦い、櫂蔵に頼まれて藩の金の出入りを調べていた「咲庵」は、捨ててしまった息子が恨みをもって訪ねて来たときに、自分の過ちを悔い、親子の関係が回復していくし、「お芳」もまた、その陰日向のない働きぶりや自分を偽らない生き方が次第に櫂蔵の義母の染子の心を溶かしていく。染子は、ようやく「お芳」を認め、事柄の裏には藩主の乱費があったことを知って、以前に奥女中をしていた関係から藩主の母親に処遇を依頼したりする。「二度目に咲く花は、苦しみや悲しみを乗り越えた分だけ、きっと美しい。」櫂蔵はそう思うのである。

 だが、櫂蔵の真相への肉薄を辞めさせようとした伊形清左衞門は、櫂蔵の弱点である「お芳」を騙し、「お芳」を手籠めにしようとする。しかし、清左衞門に襲われる前に、「お芳」は、櫂蔵にも染子にも迷惑をかけないために、自ら命を立つ。しかし、清左衞門の悪もそこまでだった。

 櫂蔵は、日田の豪商や郡代官の信用を得て、すべてを明らかにして、弟が詰め腹を切らされて秘匿されていた「日田金」を取り戻し、すべてを明らかにして、藩を利用して私腹を肥やそうとしていた博多の悪徳商人は金繰りがつかなくなって崩れおれ、藩主は隠居して交代させられた。そして、勘定奉行となった櫂蔵は、弟がなそうとした明礬を使った藩財政の改革に取り組んでいく。「お芳」は櫂蔵の心の中で彼女の二度目の花を咲かせたのである。

 この物語の中で、具体的な再生を果たすことができなかった女性が、あと一人登場する。それは櫂蔵の弟に秘かに想いを寄せていた村の娘の「さと」で、彼女は家族の身を救うために博多の遊女に売られていく。櫂蔵や彼女に想いを寄せる櫂蔵の若い部下が、なんとか彼女を遊女の身から救い出そうとするが、自らそれを否む。そして、自分が櫂蔵の弟に想いを寄せていたということを胸に刻んで、苦界を生きていこうとするのである。それもまた、自分で自分の状況を変えることができない人間の再生かもしれないとは思うが。

 この物語は、人間の再生という非常に大きなテーマを取り扱い、その姿が極めてはっきりした形で描かれているが、清冽さとか覚悟という点では、それが直説法で書かれているだけに薄い気がする。藩主と商人の傲慢さや悪徳ぶりとそれを暴いていく展開は面白く読めるが、作者がこれまで示してきた人間の深みということでは主人公やその弟が信用をかち取っていく過程に若干の甘さを感じた。どうしようもない境遇の中を、歯を食いしばりながら矜持をもって生きていき、一筋に愛を貫くような壮烈さが今ひとつ伝わらない気がした。そういうことは間接的に描くことで初めて意味をもつからである。物語の筋があまりに直線的で、一読者として、作者には本当に深みのある作品を書いてもらいたいという思いがあるからかもしれない。それでも、これは優れた佳作であることに変わりはない。

2013年7月17日水曜日

葉室麟『おもかげ橋』

 猛り狂うような猛暑がほんの少しだけ和らぐ感じがした一昨日と昨日であったが、暑さに変わりはなく、滴る汗を拭きながら日々を過ごしている。一昨日は数年前にわたしのところで少し勉強した青年の結婚式に招かれ、式が始まる5分ほど前に突然に祝辞を頼まれたりして冷や汗をかいたりしたが、楽しい心豊かな結婚式だった。

 昨日は吉祥寺まで出かけて、ぶらぶらと帰ってきた。いつも渋谷で井の頭線に乗り換えるのだが、相変わらずの渋谷の人の多さには閉口する。参議院選挙の立候補者の街頭演説を聞いていて、「自分の正義」を振り回す政治家たちの演説を誰も聞いていないというのがなかなかいいのではないかと思ったりもする。

 それはさておき、葉室麟『おもかげ橋』(2013年 幻冬舎)を気軽に読んだ。「おもかげ橋」は実在し、作中でも触れられているが、つまらない男に懸想されてしまって夫を殺された女性にまつわる悲劇の逸話が残されている今の文京区高田の神田川に架かる「面影橋」だろう。

 その逸話のように、本作は一人の美女にまつわる恋を描きつつも、武士として、あるいは人間として凛とした生き方をする二人の男の話である。一人は門弟が来ずに流行らない貧乏剣術道場を細々と営んでいる草波弥市で、もう一人は、武士を捨てて飛脚問屋の商人となった小池喜平次である。

 二人は、九州の小藩での竹馬の友であったが、藩の勢力争いに絡んで藩を放逐され、江戸に出てきて、それぞれの道を歩んでいるのである。剣の腕は一流だが、人づき合いも生き方も不器用で、愚直な弥市は、道場を開いても門弟はおらずに、出稽古で細々と糊口をしのいで生活をし、他方、喜平次は、暴漢に襲われた娘を助けたことが縁で飛脚問屋の入婿として商人になっているのである。喜平次は元勘定方(経理)だったこともあり、和歌にも親しんだことがある文武に優れた人物で、飛脚問屋の主として店を盛り立てていた。

 そんな中で、彼らの元主家の娘を匿って欲しいという依頼が喜平次のところにもたらされ、喜平次は弥市に護衛を依頼して、二人で娘を護る役割を果たすことになるのである。

 元主家の娘は「萩乃」という美女で、藩にいたころ二人は共にその娘に想いを寄せていた。愚直で無骨な弥市は、萩乃に「つけ文(ラブレター)」をしたこともあったが、萩乃からの返事はもらえなかったという経緯がある。加えて、彼ら二人が藩を出なければならなくなったのは、彼らが仕えていた萩乃の父親の権謀術策の裏切りによって彼らが見捨てられたことによるものだった。それでも、二人の萩乃に寄せる想いは変わらず、弥市は、以前、萩乃に「あなたを守る」と言った言葉を律儀に果たすために、萩乃の護衛を引き受けるのである。だが、そこにはさらに深い陰謀が隠されていた。

 彼らが属していた藩では、藩主の座を巡って藩主の異母兄弟の蓮乗寺左京亮(さきょうのすけ)が暗躍していた。左京亮は英気溌剌として役者のような華やかさを持った人物で、藩の要職として藩政の改革にも思い切った手をうっていた人物で、萩乃の父も彼の側につき、勘定方だった喜平次もそれまでの勘定方の不正を暴いたりしていた。ところが、ある時期から、左京亮は私腹を肥やし、商人から賄賂をとり、贅沢三昧で淫靡な暮らしをし始めた。そして、藩主が病死すると、自分の息子を次期藩主に据えるために、幕府老中との繋がりを強くし、江戸に上って自分の息子を藩主として認めさせようとした。

 密かに左京亮の反対派と手を結んでいた萩乃の父は、それを阻止するために藩内随一の剣の腕をもつと言われた弥市と喜平次にそれを阻止することを命じるのである。そして、弥市は槍の名手と言われていた左京亮と戦い、彼に傷を負わせて左京亮の企てを阻止したのである。だが、萩乃の父は、それを隠蔽するために二人を藩から放逐したのである。

 こうしたお家騒動の展開は、よくある話であるが、本来なら、作者は、奸悪と言われる蓮乗寺左京亮の姿をもう少し克明に浮かび上がらせてもよかったのかもしれないが、ここではただ己の欲の塊のような人物としてだけ描かれている。左京亮は、その後、半から追放されたが、彼の息子が藩への帰還を許されて藩に戻ってきたのに合わせて、左京亮も藩に戻り、再び暗躍を始めていたのである。

 萩乃は弥市と喜平次が放逐されたあと、左京亮の反対派の筆頭である家老の一門である椎原亨に嫁いだが、婚家との折り合いも悪く、夫婦仲も良くなかった。そのため萩乃は、一時、自分に言い寄る男に身を任せようとしたこともあり、それが噂となってさらに夫婦仲も冷え込んでいた。彼女は、夫の亨が密かに左京亮の陰謀を阻止するために江戸に出てきて行くへ不明となり、その夫への言伝を父親から託されて江戸に出てきていたのである。

 十六年ぶりに萩乃に会った弥市と喜平次は、何の事情も知らないままに、萩乃の護衛を引受け、少しも衰えない萩乃の美貌に接して、自分たちの恋心を確認していくのだが、萩乃は魔性の女のようなところがあり、どちらにも思わせぶりな言動をするのである。

 そうして彼女を守る日々が続いていくが、彼らはやがて刺客に襲われるようになっていく。事情が次第にはっきりしていくが、実は、かつて自分の野望を阻止された左京亮が自分を斬った弥市と喜平次に復讐するために、様々な画策をしていたことが浮かび上がってくるのである。そして、萩乃の父も、自分の生き残りのために、萩乃を餌にして弥市と喜平次をおびき出し、左京亮に復讐を企てさせ、弥市の剣の腕でそれを粉砕して、左京亮を追いやって自分の地位の保全を図ろうとしていたのである。

 こういう事情が分かっても、弥市は「守る」と言ったものは「守る」と命がけの闘争を刺客や左京亮と展開していくのである。喜平次もまた同様であった。喜平次は飛脚問屋仲間に手を伸ばして彼を窮地に追いやろうとした左京亮の画策に、商人として、凛として戦っていく。左京亮の手先として彼を窮地に追い込もうとした山崎屋は、喜平次の妻を手篭にしようとするが、そこに喜平次が駆けつけて救い出したりする。喜平次は、自分を信じて愛してくれる妻と萩乃との間で心が揺れるが、「もし、丹波屋(喜平次の店)がつぶされるようなことがあれば、わたしは武士にもどる。その際、受けた屈辱は晴らさねばならぬゆえ、山崎屋さんの首は胴から離れることになろう」(160ページ)と言い切ったりする。

 そして、弥市と喜平次は、左京亮の策謀と知りつつも、左京亮と対峙し、弥市はこれを見事にはねのけていくのである。その死闘ぶりは鮮やかである。途中では神田川の蛍が弥市の剣の動きに合わせて舞っていくという美しい光景も描かれている。弥市は、揺れる喜平次とは別に、「守る」ものは「守る」、「信じるものは信じる」という姿を一貫させていく。その姿は『いのちなりけり』と『花や散るらん』の雨宮蔵人やそのほかの葉室麟の作品に登場する心を打つ人間たちを彷彿させるものがある。

 萩乃は、最初、自分はずっと草波弥市に心を寄せていたと打ち明ける。だが、彼は次第に萩乃の心の奥底にあるのが自分ではなく喜平次であったことに気がつく。萩乃自身が、自分がどちらが好きだったのかわからないままに、そう語ったのであり、劣悪な言い方をすれば、いわば、彼女は無意識のうちに二人の男、あるいは彼女の夫も手玉にとっていたのである。それが無意識であっただけにいっそう質が悪かった。だが、それが萩乃という女性なのだろう。そして、その萩乃を弥市も喜平次も好きだったのである。

 だが、弥市は、剣術の出稽古で出入りしている旗本の紹介で見合いした弥生という女性に出会って、そのことに気がついていく。喜平次の妻もこの弥生も、実に素晴らしい女性である。弥生は、「命懸けで人を守ろうとする人」なら惚れるのが当然といって、弥市の押しかけ女房となるのである。彼女の素直さや率直さ、そして弥市への理解、そうしたものが後半で見事に展開され、これが本書の救いとなっている。

 弥生は、少し太っていたためにみんなから「大福餅」とあだ名されていたと言う。その弥生に弥市は「大福餅はそれがしの大好物でござる」と言うのである。この弥生が、弥市が左京亮との戦いに出た留守に押しかけ女房としてやってくるのだが、その時の会話が振るっている。弥市は自分の傷の手当をしてくれる弥生を見て、自分の胸に満ちてくる幸せな気持ちに気づき、「弥生殿、それがしのもとに参られるか」と言った時、「もう参っておりまする」と言うのである。そして、「世を渡るのは戦場を行くが如きもの、と心得ております。おたがいを見つめ合う夫婦もよきものではございましょうが、わたくしは背中合わせに草波様の背後を守りたいと存じます。飛んでくる矢の二本や三本、わたくしが払って進ぜます」、「代わりに、わたくしの背後は草波様に守っていただきます。そうしますと、わたくしどもは天下無敵でございましょう。」そう言って、弥生はおおらかに笑うのである。

 美貌ではあるが陰湿な萩乃とおおらかで真っ直ぐな弥生。弥市は弥生に出会って本当に良かったと思うのである。

 わたしは、やはり、あまり見栄えがせずに愚直であるが、自分が信じたものにまっすぐ向かう弥市と、世の美貌とは違う、もっと尊い美しさを持つ真っ直ぐな弥生が、実は本書の中心であると思っている。そういう人間こそが書くに値する人間だから。

 本書は、あっさりと気楽に読めた作品だったが、そのぶん、若干の物足りなさもないではない。しかし、弥市のような愚直なまでに真っ直ぐな男と、弥生のような自分の正直な人物が登場するだけでも爽快である。

2013年6月19日水曜日

葉室麟『この君なくば』

 梅雨前線の南下や台風の接近もあって、どんよりとした蒸し暑い日になっている。窓を少し開ければ、時折強い風がもがり笛のような音を鳴らす。

 「この君なくば、一日もあらじ」という強い愛の姿を幕末の動乱期を背景にして描いた葉室麟『この君なくば』(2012年 朝日新聞出版)を感慨深く読んだ。葉室麟らしく、純化された人の愛情が描かれているだけでなく、実は、時世の判断を誤れば滅亡の危機に瀕する小藩の中でどうすれば筋を曲げずに生き抜いていけるのかを中心にして、時代の波に翻弄される小藩とその人々の側から見たもうひとつの幕末史が展開されている。

 舞台は、幕末を突き動かした薩摩と長州の間に挟まれた九州の日向にある七万石の伍代藩という架空の藩で(読んでいると日向よりも豊後のほうがいいような気がしたが)、その軽格の武士の次男として生まれた楠瀬譲と彼に想いを寄せた二人の女性の生き様が展開されていく。

 主人公のひとりの楠瀬譲は、束脩(授業料)も払えない貧しい家に生まれたが、少年の頃に「此君堂(しくんどう)」と称する私塾で国学を講じていた檜垣鉄齊の庭で鉄齊の講義を聴き続け、それによって入門を許されて学問を収めていく。その真摯な姿は、彼の生涯を通じて変わらず、やがて17歳の時に大阪で緒方洪庵が開いていた蘭学熟である「適熟」で欄学を学び、帰国後は蘭医として召し出されるが、藩主である忠継に信頼されて藩の産業を宰る殖産方として用いられるようになる。

 檜垣鉄齊の娘の栞(しおり)は、少年の楠瀬譲を初めて見た時から次第に譲に想いを寄せていくようになり、父親の鉄齊も、やがては譲と栞を結婚させて自分のあとを継ぐように望み、譲もまた栞に深い想いを寄せていたが、譲は、帰国後に藩主に召し出された時に、やがては藩の重責を担ってもらいたいという藩主の要望で藩の上格の武家の娘と結婚するように命じられてしまう。栞は譲との結婚を諦めるが、その想いは断ち切り難くあった。

 だが、譲の妻は、娘の志穂を産んでまもなく病死してしまい、譲は藩の行く末を案じながら、娘の志穂と母の弥生と暮らしている。そういう譲に妻の妹である五十鈴との婚儀の話も持ち上がっている。五十鈴は、凛としたところのある美貌の魅力的な女性で、五十鈴もまた譲に一途な想いをもっている。

 そんな中で、鉄齊亡き後、「此君堂」で和歌を教えるようになっていた栞のところに、月に一度和歌を習いに譲が通ってくるようになり、栞はそれを密かに待ちわびるような思いでいた。栞と五十鈴のそれぞれの心情が綾をなして描かれていく。

 時は幕末で、勤王か佐幕か、攘夷か開国かで揺れ動く時代であり、藩主の忠継は新進の気性をもつ洋学への関心の深い開国派であったが、藩内には熱烈な尊皇攘夷主義者もあり、京都では開国反対の尊皇攘夷派による天誅騒ぎも起こっていた。江戸幕府の権威は失墜していき、長州藩と薩摩藩の動向が案じられるし、小藩の行く末はあお混迷を深めていく。

 藩主は譲を京に派遣して情勢を見極めさせようとする。情勢はめまぐるしく変わり、やがて禁門の変(蛤御門の変)が起こり、幕府による第一次長州征伐、第二次長州征伐が起こっていく。そんな中で、譲は、貿易をすることで藩を豊かにし、情勢に翻弄されない独立路線を考えるようになり、同じような考えをもつの久留米藩の今井栄(義敬)と親交をもつようになり、今井栄が上海に船の買いつけに出かけるときには(これは史実)同行して、海外事情を見聞する(このあたりは、今井栄の『秋夜の夢談』、『上海雑事』が材料となって描かれている)。久留米藩には熱烈な尊皇攘夷論者であった真木和泉守がおり、当然、彼にも言及されていく。

 その間に、藩主の忠継は、讓がいっそう藩政の重責を担いやすいように五十鈴との婚儀を進めようとするが、讓に「この君なくば」の「君」がいるかと聞いて、讓が栞の名を挙げたことから、五十鈴を傷つけまいと五十鈴を側室として召し出し、やがて五十鈴を正室とする。もちろん、藩主はひと目で五十鈴の凛とした姿が気に入り、五十鈴もまた、讓への想いがかなえられないことを悟ると同時に、藩主の忠継の人柄が気に入ったから、その話を受けたのである。そして、譲と栞は長年温めてきた想いを果たして結婚する。栞と五十鈴は、お互いの存在を強く認め合い、信頼を寄せる関係になっていく。五十鈴も栞も、共に自分の想いと生き方を貫く女性なのである。

 だが、時代と社会は激動し、大政奉還から鳥羽伏見の戦いへと移り、かつて強烈な尊皇攘夷論者であり、強く我執的に栞に言い寄っていた男が、薩長軍より藩政の参与のような形で帰ってきて、譲は、戊辰戦争で薩長軍と戦って敗れた大鳥圭介と親交があったということで捕縛されてしまう。讓は牢の中で榎本武揚と会ったりして、自分の行く末を見定めていくようになっていく。栞は、その間、志穂や弥生と讓の無実を信じて待ち続けるし、五十鈴もまた、新しい凛とした生き方をとっていく。

 そして、やがて讓は恩赦の形で許されて帰国し、栞や家族と共に北海道の開拓使として新しい天と地を求めて旅立とうとするところで終わる。

 本書には栞と五十鈴という魅力的な二人の女性が登場する。この二人は、形は違っても、いずれも己の一途な思いを貫いていこうとする女性で、「世の動きと自らの生き方は、おのずと違いましょう。世の流れに自らの生き方を合わせては、自身の大本を見失うかと存じます」(115ページ)という言葉や、「今より先、この国を動かすのは、藩を離れ身分を離れても、なお、おのが信義の道を行く者たちであろう」という五十鈴の言葉によく表されているような女性である。

 「此君堂」の由来である『晋書』王徽之伝の「此の君」が竹を表すことが記されているが、竹のようにしなやかで、しかし、しっかりと根を張り、サワサワと爽やかな風の音をさせる人間たちの姿が描かれていく。幕末の違った視点もあって、なるほどあの時期の小藩が置かれた立場はこういうものかもしれないと思うところもあり、様々な観点で味わいのある作品だった。

2013年6月10日月曜日

葉室麟『風渡る』

 昨日は、これまで社会学的な分析を少ししてきた「現代社会と宗教」と題する講座を行って、ほぼ立ちっぱなしの状態だったので、足が棒のようになり、その後はぼんやりすごしてしまった。だいたいいつもぼんやりしているのにさらに拍車がかかった感じで夜を過ごしていた。今日は重い梅雨空で、今週、台風の接近が報じられている。

 週末、これまでの作品とは若干の相違を感じながら、戦国時代に到来したキリスト教の姿とそれを受け入れたキリシタンたちやキリシタン大名たち、特にキリシタンとしての黒田官兵衛(高孝・如水)の姿を描いた葉室麟『風渡る』(2008年 講談社 2012年 講談社文庫)を読んだ。激動した戦国時代、信長、秀吉、家康という稀代の傑出した戦国武将と共に生きて、ことに知略の雄とされ、最も優れた軍師とも言われる黒田官兵衛がキリスト教の洗礼を受けたのは、フロイスの『日本史』によれば、1585年(天正1213年)である。この時、官兵衛は、信長の跡を継いで天下を掌握しようとする秀吉の軍師として活躍していた。

 黒田官兵衛がキリシタンとなったのは、通説では、すでにキリシタン大名であった高山右近や蒲生氏郷、堺の豪商の息子であった小西行長の影響によるとされるが、本書では、彼が若い頃からキリシタンの教えに関心をもっていたという設定で話が進められていく。

 私見ではあるが、戦国時代に日本に到来したキリスト教が、当時「戦う教会」を標榜していたイエズス会によるものであり、主に植民地主義を推進させていたスペインとポルトガルの宣教師たちによるものであったところに、日本のキリスト教の難しい歴史があるような気がしている。高山右近や蒲生氏郷は優れた武将であると同時に一流の教養人でもあり、黒田官兵衛がこうした教養ある人々に接する中で大きな影響を受けたことは間違いないことであろう。

 しかし、本書では黒田官兵衛が若い頃に既にキリスト教に大きく影響を受けたものとして、純粋で高貴な魂をもつジョアン・デ・トルレスという日本人イルマン(修道士)を登場させ(この人物の名はフロイスの『日本史』に記載されているが、詳細は不明で、それを作者が本作のもうひとりの主人公として肉づけして創作)、ジョアンの目から見た当時の日本の社会と宣教師たちや大名たちの姿を描きつつ、キリシタンとしての黒田官兵衛の姿を浮き彫りにしようとするのである。

 ジョアンは、青い目と異国風の風貌をもち、ポルトガル語に堪能で、通訳としての働きとともにヴィオラの名手でもあり、純粋な信仰と魂をもち、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いた敬虔な修道士となるアリョーシャを彷彿させるものがある。彼は、後に明らかにされるが九州の雄であり、キリシタン大名であった大友宗麟と異国人との間に生まれた子とされている。その関連で、大友宗麟の生涯や彼の正室であった奈多方の悲しみや苦悩も描かれていく。

 物語は、激動する時代の中での人間の悲しみや苦悩というものが盛り込まれ、それが作者らしい視点で綴られていくが、この作品は次のような多くの歴史的仮説で描かれ、それが難点といえば難点になっており、取られている仮説があまり成功してはいないようにも思われる。

 1)黒田官兵衛が早くからキリシタンの教えに心を打たれて、キリスト教信仰をもっているように描かれていること。
官兵衛が妻を娶った時に、側室はもたないと語ったことを、キリスト教が伝えた「アモール(愛)」と関連させたり、黒田官兵衛が荒木村重によって地下牢に監禁されたときの苦境を耐え忍んだ力にキリスト教信仰の力があったかのように描かれたりすること。
 2)織田信長か、やがて、海洋王国の建設を目指し、ヨーロッパへの侵攻を考えていたこと。
 3)「本能寺の変」を秀吉の策略とし、その影に竹中半兵衛とその意を受けた黒田官兵衛の思惑があったことや官兵衛がキリシタンを守ろうとしたこと。
 4)秀吉の朝鮮出兵を商人としての利潤から豪商であった小西行長の父が献策したこと。

 その他にも、本書で採用されている歴史的仮説はたくさんあり、こうした仮説に基づいて人物像が描かれていくので、どこかしっくりしないところがあるのである。黒田官兵衛その人についても、キリシタンとしてあまりにも純化されすぎている気がしないでもない。

 黒田官兵衛は極めて優れた人物であり、知、情、胆において傑出した人物であるし、本書もこれまで描かれなかったようなキリシタン大名としての面を描いて斬新で、葉室麟の文体や文章も素晴らしいのだが、少なくとも私には、彼が描く黒田官兵衛像として物足りなく感じた。もちろん、本書は表題の『風渡る』が示すように、その主題は戦国時代に海を渡ってきたキリスト教とそれに影響を受けた人々の姿を描こうとしているのではあるが。

2013年1月31日木曜日

葉室麟『冬姫』


 昨日から、ほんの少し寒さが和らいでいる。もちろん、ここ数日だけの話ではあるだろうが、ありがたく感じる。

 織田信長の次女(といわれ)、戦国武将の一人であった蒲生氏郷の正室であった「冬姫」の姿を描いた葉室麟『冬姫』(2011年 集英社)を、作者にしては珍しくあっさり書いた作品だと思いながら読んだ。戦国期の入り組んだ人間関係の歴史が追われるので、本来なら大作になるところをこれだけにまとめるために、作者の美しい文章が影を潜めたのかな、とも思う。

 「冬姫」は、出生や幼少期のことがほとんどわからず、彼女の生母についてもわからないが、織田信長の次女である。しかし、本書では、織田信長と正室であった濃姫(帰蝶 きちょう)の間に唯一生まれた娘とされている。そうだとすれば長女になる。いずれにしろ、信長の娘であったことに変わりはない。

織田信長の正室であった(信長もたくさんの側室をもった)「濃姫」は、美濃の斎藤道三の娘で、この女性についても歴史資料が少なく諸説がある。ただ、信長と「濃姫」の結婚は、もちろん政略結婚だが、信長が「濃姫」を大切にしたのは事実だろう。功罪を明確にしたために鬼神のように恐れられた織田信長だが、彼は、女性には比較的優しい人物だっただろうと思う。秀吉が信長の家臣として活躍していた頃に浮気をしたことを秀吉の妻「ねね(本書ではおね、そうとも呼ばれていた可能性がある)」が信長に訴え、信長が「ねね」の味方をして秀吉を叱ったという記録がある(このあたりも本書で取り込まれている)。

 「冬姫」について歴史的にはっきりわかっていることは、彼女が信長の子として近江の蒲生氏郷の正室であったということで、氏郷の父親の蒲生賢秀は近江国蒲生郡日野(中野)城主として、当時、近江南部を支配していた六角氏に仕えていたが、信長が足利義昭を将軍として伴って上洛した際に、信長の軍門に下り、その証しの人質として息子の氏郷(幼名鶴千代、後に忠三郎賦秀 ますひで)を差し出し、信長は氏郷の人物と才能を見抜いて娘の「冬姫」を嫁がせたのである。この時、氏郷(鶴千代)14歳、「冬姫」12歳であった。

 本書では、このあたりで、信長の後継者を狙う側室の「お鍋の方」の陰湿な「冬姫殺害計画」を展開し、「冬姫」の凛とした対応や彼女を慕う「もず」(男であるが女として生きる性同一性者の忍)や巨体で剛力の鯰江又蔵という人物(もちろん、これらは作者の創作だろう)の助けで「お鍋の方」の策略をくだいたり、徳川家康の長男であった徳川信康に嫁いだ姉の「五徳」を巡る家康の正室「築山殿(瀬名)」の確執を打ち砕いたりして、いわゆる「女の戦い(女いくさ)」を展開し、「冬姫」の真っ直ぐで毅然とした姿を描き出している。

 ただ、ここで幻や夢、あるいは幻惑や忍びの術といった、いわばエンターテイメント性をもったことが神秘性を描くものとして取り入れられているが、別の角度から、作者の他の作品で描かれたような、むしろ信頼の中で希望を失わずに忍耐していく姿や真直ぐに凛として生きる「冬姫」の姿が、人間を掘り下げたものとして描かれても良かったような気がする。

 ともあれ、蒲生氏郷は武勇にも優れて、数々の戦で功を挙げており、天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で死去した時には、信長の妻子を保護して、明智光秀に対抗した。近江近郊の豪族たちの大半は明智光秀になびき、蒲生氏郷にも光秀からの誘いがくるが、氏郷はこれをきっぱり拒絶した。この時点で、天下の動向は不明で、蒲生氏郷は孤立の恐れもあったのだから、この拒絶は命懸けでもあったのである。

このあたりのことを、作者は、「いかにも、この城に冬殿がおられる限り、明智に降ることはありませぬ」と微笑を浮かべて言い切った(199ページ)と描く。信長の娘である「冬姫」のために、その父である信長を殺した光秀には与しないと言うのである。

こういう、愛する者のために孤立を恐れずに自分の道を進んでいく姿は、葉室麟が諸作品の中で最も描きたい姿でもあるだろう。蒲生氏郷という人は、おそらく実際、そうした武将の一人で、やがて彼の日野城は明智軍の大軍に取り囲まれるが、彼はびくともしなかったのである。幸い、光秀が直接に日野城を責める前に、秀吉が毛利攻めから疾風怒濤の勢いで取って返して、光秀は秀吉と戦わざるを得なくなったために、日野城が戦火に包まれることはなかった。そして、氏郷は、その後、秀吉に仕え、秀吉は氏郷に伊勢松ケ島12万石を与えている。氏郷はこの伊勢松ケ島をよく整えたと言われる。

また、彼は、高山右近らの影響でキリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名であった。家臣や諸大名の人望は厚かったと言われるし、また、茶道にも造詣が深く、「利休七哲」の筆頭でもあった。

 キリシタンとの関連で言えば、本書では、信長の安土城が焼け落ちた謎や細川ガラシャ(玉子)と「冬姫」の邂逅として描き出しており、「冬姫」は、秀吉がキリシタン禁止令を出す中で、父の信長がキリスト教を庇護したように、夫の氏郷がキリシタンとなったことを認めていく決意をしたというふうに描いている。細川忠興の妻であった細川ガラシャは明智光秀の娘であり、「冬姫」にとっては父の敵の娘なのであるが、「恨みで報いられることは何一つない」ということに徹し、「冬姫」はガラシャ夫人が抱いていた悲しみに共感していくのである。このことが、実は本書の主題だろうと思っているが、それについては後述する。

 氏郷と「冬姫」の夫婦仲はよく、二人は深い信頼で結ばれていたと言われ、天正11年(1583年)に「秀行」が生まれている。やがて、氏郷は秀吉の小田原城攻めに参戦し、奥州の要として会津42万石(後に92万石)を与えられて、会津に移った。ちなみに、会津若松の「若松」という名は、蒲生氏郷がつけた名前で、彼はここに若松城を築いて城下を整備したのである。この間に「冬姫」は、後に前田利政の側室となる娘や次男の氏俊を生んでいる。

 会津若松で氏郷が「冬姫」とともに天守閣から城下を眺めながら、「わしはキリシタンゆえ、領主が自ら正しき道を歩めば、国はおのずから栄えるものであることを神の教えによって学んだ。ひとを怨まず、憎まず、互を思い遣って生きていける国をこの地に築きたいのだ」と言うくだりが記されているが(318ページ)、これはもちろん、作者の創作であろうが、尊敬に値する人間としての蒲生氏郷とそれに寄り添い夫を助ける「冬姫」の姿が直截に描き出されているのである。

 秀吉は、信長が認めた蒲生氏郷を恐れていたとも言われているが、秀吉が起こした朝鮮出兵の「文禄の役(壬辰倭乱)」の時、この戦に参戦するために肥前名護屋にいた蒲生氏郷は体調を崩し、文禄4年(1595年)大腸癌(直腸癌か膵臓癌)で死去した。享年40の若さであった。この蒲生氏郷の死には、秀吉か石田三成による毒殺説もある。

 氏郷は、いわば信長の娘婿であり、主筋に当たるので、秀吉にとっては煙たい存在であったことに変わりはなく、権力集中を図る秀吉にとっては織田家の影響を一掃するのが大きな課題であったことは間違いない。

 作者は、秀吉の朝鮮出兵を諌めた氏郷を秀吉も快く思っていなかったし、何よりも「淀(茶々 お市の娘)」が、「冬姫」と蒲生家への激しい嫉妬によって、石田三成を使って氏郷へ度々毒をもった出来事であったとしている。「淀」は伊達政宗を使って蒲生氏郷を罠にはめようとしたという展開までする。「淀」は、織田信長の妹で絶世の美女であった「お市」の娘であったが、父を殺され、母を殺され、意に沿わぬ秀吉の愛妾となり、気位の高さだけが生きがいのような女性で、「怨みの生涯」であったとも言えるからである。

 彼女は血筋の上からではとうていかなわない「冬姫」に対して敵愾心を抱き続けており、氏郷亡き後の蒲生家に対しても、陰湿な仕打ちをしている。そのために氏郷の後を秀行(この時点での名は秀隆)が継ぐときも嫌がらせをし、また、その後も石田三成を使って領地を召し上げ下野国宇都宮12万石に転封させている。そして、さらに「冬姫」の蒲生家を取り潰そうと画策している。

 この大幅な減封には、「冬姫」の美貌と信長の娘であるということで、まだ34歳だった「冬姫」を美女好きの秀吉が側室にしようとしたが、「冬姫」にきっぱりと拒絶され、秀吉がそれに激怒したためであるとの説もある。秀吉は若い頃から信長の妹で美女の「お市」に思慕を寄せており、「お市」の娘の「淀」を側室にしたのもそのためだったと言われるが、「冬姫」に対しても異様な執着心をもっていた。

 その説が事実かどうかは別にして、蒲生家の減封を実際に巧みに工作したのは石田三成であることは事実であろう。蒲生家の勢力を削減することを彼のような人間は考えるものである。

 しかし、秀行は豊臣秀吉の命によって徳川家康の娘「振姫」を妻とし、そのことと、「淀」と石田三成の仕掛けた罠との戦いのために、家康と盟を結び、それが関ヶ原後の蒲生家の命運につながった。蒲生家は関が原後、60万石の大大名として会津に復帰した。だが、秀行は30歳の若さで亡くなり、その後を継いだその子の忠郷や忠知(忠郷の弟)も若くして亡くなり、嗣子がなかったために寛永11年(1634年)に廃絶された。「冬姫」はこの行末を見届け、寛永18年(1641年)、81歳で亡くなった。

 本書は、「織田信長の娘として戦国の世を彩どって生きた、紅い流星のような生涯だった」と結ぶ(357ページ)。

 本書は、「冬姫」の「女いくさ」が、数々の恨みや妬みで生きる者と真っ直ぐに生きる者との戦いであったことを語るものである。恨みや妬み、あるいは私欲が嵐のように吹きすさぶ戦国の世で、ただ前をまっすぐに見て、愛する者を愛し、大切にする者を大切にして生きた女性として「冬姫」を描くのである。慶長3年(1598年)の醍醐寺での花見の席での「淀」と「冬姫」の対峙を描いたくだりは圧巻で、本書の主題をよく表している。

 あまり知られていない織田信長の娘で、蒲生氏郷の妻であった「冬姫」という存在に焦点をあてる作者の眼力もさることながら、それを「女いくさ」としてまとめるあたりも慧眼に値すると言えるだろう。わたしとしては、神秘性などなくてもよくて、もう少しまっすぐ描いてもよいのではないかと思うところもあるが、描かれた姿には感動する。

2012年11月30日金曜日

葉室麟『柚子は九年で』


 曇って雨の気配がする。昨日、散髪の予約を入れていたのをすっかり忘れてしまい、気づいたら夜ということになってしまっていた。「忘却とは忘れ去ることなり」というのは「君の名は」の名セリフだが、意識の外に置かれたものはすぐに忘れるように脳が働く証拠のようなものだろう。認知症は脳機能の低下ではなく、脳の別の働きのような気がしないでもない。

 閑話休題。小説ではないが、葉室麟の随筆集である『柚子は九年で』(2012年 西日本新聞社)を大変興味深く読んだ。この表題は、同氏が2010年に朝日新聞社から出された『柚子の花咲く』という本のテーマとなっている「桃栗三年、柿八年、柚子は九年で花が咲く」という言葉から取られたもので、2012年度の直木賞受賞後に、50歳で執筆を始められたというその軌跡を、それまで西日本新聞などで発表されていた短い文章で記されたものを含めて、まとめたものである。

 「桃栗三年、柿八年、柚子は九年で花が咲く」には、さらに「梨の大馬鹿十八年」というのもあって、わたしなどは梨を上回る大馬鹿者だが、この随筆には、同氏の粘り強さと誠実さが行間に溢れている気がした。本書には、十九篇の短文が「たそがれ官兵衛」として、また、四編の短文が「折々の随筆」、二篇の随筆が「直木賞受賞後に」と題して収められ、巻末には2005年に西日本新聞で発表された短編「夏芝居」が収められている。

 随筆や短編の文章は、同氏の他の作品ほどの「きれ」はないが、文学者として、あるいはひとりの人間としての誠実さを追い求める姿が浮かび上がってくるし、「ゲゲゲの鬼太郎」から白土三平の漫画「影丸」、寺山修司、五味康祐、松本清張、唐詩人の張九齢まで取り上げられるし、三島事件も取り上げられる。そして、これまでの作品の背景となった歴史的人物についても言及され、随題は多岐にわたっている。フランス文学を専攻した後で時代小説を書く、そういう妙味もある。

 これを読みながら、文学がある思想を表すことができる世代に同氏が属しておられることを改めて感じた。思想家は思想を体系化するが、文学者は思想を具体化する。そういう世代に属しておられるから本格的な歴史・時代小説が書けるのだろうと思うし、文学が読み取られて初めてそれが可能になる。葉室麟の作品は、いつかそういう読取られ方をするだろうと思ったりもする。心優しい作家が心優しい人物を時代や状況の厳しさに置いて描く。それが彼の作品だろうと思う。

 作家の随筆を読むのは随分と久しぶりだったが、あっさりと、しかしちょっと立ち止まるような感じのする随筆集だった。