積乱雲が立ち上り、強い日差しがうだるような熱気を孕んで降り注いでいる。炎天というより炎地という方がいいかもしれない。
月曜日(2日)の夜から多岐川恭『江戸三尺の空』(1968年 東京文芸社 1998年新潮文庫)を読んでいた。文庫版で573ページもの長編であるが、登場人物のほとんどすべては、いわゆる「悪人」である。「悪人」というより、自己の欲望だけに忠実に生きている人間たちで、利が一致すれば共同するが対立すれば躊躇なく裏切り、徹底した個人主義者たちである。
主人公の音次は、強盗殺人の罪で獄門に処され、刑場に引き回される途中で縄抜けをして逃亡する。自分を裏切った元の仲間を殺すためである。彼の逃亡に金で手を貸した牢医者も小悪人で、人の弱みを見つけては強請を働くし、その情婦でもあった「おりゅう」は、自分の美貌を徹底的に利用して金や利になる男であれば誰とでも寝て、手玉にとり、平然と世渡りをしている女であり、彼女の情夫のひとりであり牢医者や「おりゅう」や寺を利用しての盗品の売買や妾の斡旋(男に女を、女に男をあてがう)などの悪事の元締め的存在で、城の茶坊主は、地位を利用してずる賢く裏で悪徳を働き人物である。
こうした悪の渦巻く世界の中で、音次と微妙な関係を持ちながら翻弄されていくぐれた大店の若旦那や女たち、悪の元締めの茶坊主と関係する武家が登場するし、利のためには悪事に手を染め、大店の乗っ取りなどを企む悪徳岡っ引きも登場してくる。彼らはリアリストであり、冷徹である。
他方、もうひとりの主人公で、音次の縄抜けの責めで自害したと思われる牢役人の息子の角之助が登場し、父の無念を晴らすために音次を捕らえるために奔走する。彼は貧乏牢役人の後を継がずに、父の意志を受けて商家に養子に出て、そこで許嫁もいたが、父の自害の真相を探るために岡っ引きの手下となって悪事の世界に入り、音次の行くへを探索するのである。
物語は、この角之助と音次の対決を中心に進んで行くが、音次の方が一枚も二枚も上手であり、また、人生と人間の機知に富んでいる。だから、決して一筋縄ではいかない。しかし、音次は自分を追う角之助が自分の弟に似ていることなどもあって、彼を殺さずに逃がしてしまうところもある。音次は悪を悪とも思わぬ割り切ったドライな人間だが、なぜか人を惹きつける魅力を持っている。
結局、悪はすべて滅び、音次は角之助に捕らえられるが、角之助は音次を追う途中で、角之助の父親が、実は音次が縄抜けしたからではなく、腐敗した牢役人の不正に端を発する事件で自害したという裏の裏がわかったりする。
本書は、こうした展開が実に見事な物語構成の中で語られていく。善悪というものが存在するのではなく、多々人の欲望と利の追求、保身といったものが存在するのであり、本書が勧善懲悪とは無縁のところで人間を描いているところがいい。多岐川恭が描く世界は、悪にしても悪の理想のような所があるが、物語作品としては絶妙なおもしろさをもっている。
2010年8月4日水曜日
2010年6月25日金曜日
多岐川恭『紅屋お乱捕物秘帖』
今日も梅雨空が重い。予報では梅雨の晴れ間の日となっていたが、灰色の世界が広がっている。参議院選挙が始まって、各党の政策も発表され、政治は暮らしに直結しているだけに、今の各党の政策には愕然とさせられるものが多い。政治はこれでまた全く、ますます「信用」というものを失うだろう。テレビは今、サッカー、テニス、ゴルフ、野球とスポーツ番組が花盛りで、どのスポーツもなじみがあるので観るのは面白いが、人の暮らしと社会現象が大きく乖離し始めているのを感じたりする。ローマ帝国が滅んでいく過程で、人々がスポーツや演劇に熱狂した現象を思い起こしたりもする。世の中は本当に騒がしい。そして、騒がしい人々はいつも愚かである。
それはそれとして、昨日、多岐川恭『紅屋お乱捕物秘帖 心中くずし』(1999年 徳間文庫)をおもしろおかしく読んだ。娯楽時代小説として、多岐川恭の時代小説の作品はなかなかのものだとつくづく思う。どの時代小説も、登場人物の設定がある意味で独特の、こういう人間がいたら面白く生きていけるだろうという設定になっている。
多岐川恭は直木賞作家で、ことさら歴史考察や江戸の地理や風俗についての考察をひけらかすことはないし、現実性を強調することはないが、物語の背景としてのそれらはしっかりと踏まえられている。
『紅屋お乱捕物秘帖 心中くずし』は、1991年に双葉社から出された『紅屋お乱捕物秘帖』の続編で、おそらくシリーズ化される予定であったのかも知れないが、多岐川恭は1994年に亡くなっているので、この題名の書物はこの二冊だけになっている。
人物の設定がしっかりしていて、ある意味で理想的な人間の設定になっているから、それを記すと、この物語の中心人物は、紅おしろいなどを取り扱う「紅屋」という店をやっている「お乱」である。「お乱」は、誰もがほれぼれするような美貌の持ち主で、ひとり者であるが、さばけた鷹揚な人柄をもち、捕り物好きで、英知に富み、名推察を働かせ、鎖分銅などの遣い手である。捕物名人の「お乱姐さん」として名をはせている。
この「お乱」の店を手伝う妹分の「お勝」は、華奢な体つきであるが柔術の名手で、「お乱」を助けていく。
「お乱」がいつも訪れる破れ寺には、破戒僧の「空源」と虚無僧をしている真岡繁次郎が住み、いずれも元は侍で、めっぽう腕が立つが、荒れ寺に住み着いて、それぞれ僧と虚無僧を自称している。「空源」は情熱的で、繁次郎は冷静である。荒れ寺には「空源」の昔の恋人の娘の「お時」も同居し、二人の世話をしているが、「お時」は悪い男たちにさんざんもてあそばれ、悪事の手伝いをしていたいきさつがあって(おそらく前作で記されているだろう)、「お乱」たちに助けられ、そのまま荒れ寺に居着いているのである。
そして、その荒れ寺に、少し間の抜けた岡っ引きの「鎌吉」というのが出入りして、様々な難事件を持ち込んできては、「お乱」たち一行の助けによって解決していくのであり、「お乱」をライバルとして、また弟子としてみているが、いつも「お乱」にはかなわない。
こうした人物たちが、それぞれの個性を発揮しながら男と女の色と欲に絡んだ事件を暴いていくのだから、物語が面白くないわけはない。事件そのものも、巧妙に心中を装った商家の乗っ取りであったり、昔の裏切られた恨みを晴らす事件であったり、飼い犬を使った強盗殺人事件やSMの猟奇的事件であったりして、人間の色と欲そのものであり、それが真に理を得て描かれ、それに対する「お乱」たちのさわやかさが光るのがとてもいい。
何よりも彼らの暮らしぶりが面白く、「極貧ながら浮世離れした明け暮れがばかに気に入った」(文庫版8ページ)暮らしであり、「毎日毎日、のんべんだらりとしていやがって、お天道様にはずかしくねえか?」(文庫版126ページ)と言われる暮らしであり、「お乱」たちはそのような暮らしぶりを嬉々として営んでいるのである。
個人的に、こういう暮らしぶりとその表現がいたく気に入って、こういう人たちが実際に身近にいたら、生きることは本当に面白いだろうと思ったりするような人物と暮らしである。作者には、同じように世間の風をどこ吹く風と受け止めて生きるような人物を主人公にした『ゆっくり雨太郎捕物控』という傑作のシリーズがあり、こちらも今ぜひ読んでみたいと思っている。
「極貧ながら浮世離れした明け暮れを嬉々として送る」というのは、今のわたしにとっては理想的ですらある。
それはそれとして、昨日、多岐川恭『紅屋お乱捕物秘帖 心中くずし』(1999年 徳間文庫)をおもしろおかしく読んだ。娯楽時代小説として、多岐川恭の時代小説の作品はなかなかのものだとつくづく思う。どの時代小説も、登場人物の設定がある意味で独特の、こういう人間がいたら面白く生きていけるだろうという設定になっている。
多岐川恭は直木賞作家で、ことさら歴史考察や江戸の地理や風俗についての考察をひけらかすことはないし、現実性を強調することはないが、物語の背景としてのそれらはしっかりと踏まえられている。
『紅屋お乱捕物秘帖 心中くずし』は、1991年に双葉社から出された『紅屋お乱捕物秘帖』の続編で、おそらくシリーズ化される予定であったのかも知れないが、多岐川恭は1994年に亡くなっているので、この題名の書物はこの二冊だけになっている。
人物の設定がしっかりしていて、ある意味で理想的な人間の設定になっているから、それを記すと、この物語の中心人物は、紅おしろいなどを取り扱う「紅屋」という店をやっている「お乱」である。「お乱」は、誰もがほれぼれするような美貌の持ち主で、ひとり者であるが、さばけた鷹揚な人柄をもち、捕り物好きで、英知に富み、名推察を働かせ、鎖分銅などの遣い手である。捕物名人の「お乱姐さん」として名をはせている。
この「お乱」の店を手伝う妹分の「お勝」は、華奢な体つきであるが柔術の名手で、「お乱」を助けていく。
「お乱」がいつも訪れる破れ寺には、破戒僧の「空源」と虚無僧をしている真岡繁次郎が住み、いずれも元は侍で、めっぽう腕が立つが、荒れ寺に住み着いて、それぞれ僧と虚無僧を自称している。「空源」は情熱的で、繁次郎は冷静である。荒れ寺には「空源」の昔の恋人の娘の「お時」も同居し、二人の世話をしているが、「お時」は悪い男たちにさんざんもてあそばれ、悪事の手伝いをしていたいきさつがあって(おそらく前作で記されているだろう)、「お乱」たちに助けられ、そのまま荒れ寺に居着いているのである。
そして、その荒れ寺に、少し間の抜けた岡っ引きの「鎌吉」というのが出入りして、様々な難事件を持ち込んできては、「お乱」たち一行の助けによって解決していくのであり、「お乱」をライバルとして、また弟子としてみているが、いつも「お乱」にはかなわない。
こうした人物たちが、それぞれの個性を発揮しながら男と女の色と欲に絡んだ事件を暴いていくのだから、物語が面白くないわけはない。事件そのものも、巧妙に心中を装った商家の乗っ取りであったり、昔の裏切られた恨みを晴らす事件であったり、飼い犬を使った強盗殺人事件やSMの猟奇的事件であったりして、人間の色と欲そのものであり、それが真に理を得て描かれ、それに対する「お乱」たちのさわやかさが光るのがとてもいい。
何よりも彼らの暮らしぶりが面白く、「極貧ながら浮世離れした明け暮れがばかに気に入った」(文庫版8ページ)暮らしであり、「毎日毎日、のんべんだらりとしていやがって、お天道様にはずかしくねえか?」(文庫版126ページ)と言われる暮らしであり、「お乱」たちはそのような暮らしぶりを嬉々として営んでいるのである。
個人的に、こういう暮らしぶりとその表現がいたく気に入って、こういう人たちが実際に身近にいたら、生きることは本当に面白いだろうと思ったりするような人物と暮らしである。作者には、同じように世間の風をどこ吹く風と受け止めて生きるような人物を主人公にした『ゆっくり雨太郎捕物控』という傑作のシリーズがあり、こちらも今ぜひ読んでみたいと思っている。
「極貧ながら浮世離れした明け暮れを嬉々として送る」というのは、今のわたしにとっては理想的ですらある。
2010年4月21日水曜日
多岐川恭『用心棒』
昨日は午後から雨が降り出し、今朝には上がっていたが、夕方からまた雲が広がり始めた。昼中の気温はそれほど低くなく、どちらかと言えば過ごしやすいが夜は冷える。このところ身体の芯からにじり出るような疲れを覚えたまま日々が過ぎており、なかなか力が出ない。昨日、雨の中を、コーヒーを買いに「あざみ野」の「神戸珈琲物語」というお店まで出かけたが、どことなく気分がさえずに、妙な孤独感を覚えたりしていた。帰宅して、新約聖書の『使徒言行録』のギリシャ語原典を読みながら考えをまとめようとしたが、思考が散漫になってしまいがちだったので、読みかけの多岐川恭『用心棒』(1988年 新潮社 2005年 徳間文庫)を読み続けた。
これは、書名は『用心棒』となっているが、いわゆる強くてかっこう良くて颯爽とした浪人の話ではなく、自ら泥にまみれて生きている「泥助」と名乗る男が、武士の意地や面目、教条などの一切を捨て、いわば「男めかけ」として女を手玉に取りながら生き抜きつつも、それぞれの惚れた女たちの胸に抱えている無念さを晴らす手助けをしていくという話である。
物語の半ば過ぎまで、泥助は、浪人の格好をしているが偽浪人で弱く、女あしらいだけがうまくて、うまく女に取り入っていく腐り果てた男として描かれ、女たちも、それぞれの欲と思惑で男を手玉にとり、男を利用し、男たちはまたその女を利用していくという「色と欲」の複雑に絡み合った世界に生きる人間として描かれていく。
しかし、物語が展開していくにしたがい、うまく口車に乗せて自分のものにした武家娘が親の無念さを晴らすことを大望していることを知り、泥助は武家娘の父親を騙して自害に追いやった犯人一味を突きとめていく。そしてまた、表向きは小料理屋であるが売春宿でもある店の女将で、美貌で冷徹でもあり、体を使って男を手玉にとって男同志を争わせて破滅させていく女が、実は武家の出であり、親の出世と生活の安定のために結婚させられ、その結婚相手も自分の出世のために彼女を上役に売り、ついに離縁されて失意と絶望の中に生きている女であり、その無念さを晴らすことを目指していることが明らかにされていく。
彼女は泥助を利用するが、実は泥助が本当に武士の出であり、しかもかなり強い腕をもつ男であるという泥助の正体には気づいていくし、泥助もまた、彼女の正体に気づいていく。泥助も彼女も、それぞれの多くの男や女と交わっていき、そこには「貞淑」とか「善悪」とかの考えは微塵もなく、そこにあるのは「性」そのものであるが、泥助と彼女は魅かれあっていても交わらない。それが二人の関係を微妙に保っているのが物語の綾となっている。
その二人が、泥助が性を相手する「男めかけ」として雇われたある大名の後家であり出家していながら「色に溺れていた」女性の助けを借りて武家娘の無念を晴らし、女将自身の無念を晴らしていくのである。
この作品は、ただただ「色と欲」に絡んだ男と女の姿が描き出される。その「色と欲」の犠牲となった人間も描かれるが、基本的には「したたかに生きている人間」の姿が描き出されている。もちろん、娯楽時代小説と呼ぶにふさわしく、色と欲にまみれた悪は一掃され、最後は女たちの無念も見事に晴らされていくが、つまらない道徳観も倫理観もなく、報われない人間は報われないままに死んでいき、男と女は「性の交わりをする者」として描き続けられ 物語の女性たちは泥助と簡単に寝てしまうが、それを通して、「人間」という者を過大にも過小にも評価しないという視点があるようにも思われる。
わたし自身の好みからいえば、こうした娯楽小説に何か思索や感情的な動きがあるというのではなく、「面白く読む」というだけで、最近はこの類の小説を読むことはなかったのだが、なんだか久しぶりでこうした「娯楽小説」を読んだような気がした。多岐川恭の作品は、少し前に『暗闇草紙』(1982年 講談社)を面白く読んだので、今回も肩の凝らない面白い作品を読みたいと思って手にした次第である。
これは、書名は『用心棒』となっているが、いわゆる強くてかっこう良くて颯爽とした浪人の話ではなく、自ら泥にまみれて生きている「泥助」と名乗る男が、武士の意地や面目、教条などの一切を捨て、いわば「男めかけ」として女を手玉に取りながら生き抜きつつも、それぞれの惚れた女たちの胸に抱えている無念さを晴らす手助けをしていくという話である。
物語の半ば過ぎまで、泥助は、浪人の格好をしているが偽浪人で弱く、女あしらいだけがうまくて、うまく女に取り入っていく腐り果てた男として描かれ、女たちも、それぞれの欲と思惑で男を手玉にとり、男を利用し、男たちはまたその女を利用していくという「色と欲」の複雑に絡み合った世界に生きる人間として描かれていく。
しかし、物語が展開していくにしたがい、うまく口車に乗せて自分のものにした武家娘が親の無念さを晴らすことを大望していることを知り、泥助は武家娘の父親を騙して自害に追いやった犯人一味を突きとめていく。そしてまた、表向きは小料理屋であるが売春宿でもある店の女将で、美貌で冷徹でもあり、体を使って男を手玉にとって男同志を争わせて破滅させていく女が、実は武家の出であり、親の出世と生活の安定のために結婚させられ、その結婚相手も自分の出世のために彼女を上役に売り、ついに離縁されて失意と絶望の中に生きている女であり、その無念さを晴らすことを目指していることが明らかにされていく。
彼女は泥助を利用するが、実は泥助が本当に武士の出であり、しかもかなり強い腕をもつ男であるという泥助の正体には気づいていくし、泥助もまた、彼女の正体に気づいていく。泥助も彼女も、それぞれの多くの男や女と交わっていき、そこには「貞淑」とか「善悪」とかの考えは微塵もなく、そこにあるのは「性」そのものであるが、泥助と彼女は魅かれあっていても交わらない。それが二人の関係を微妙に保っているのが物語の綾となっている。
その二人が、泥助が性を相手する「男めかけ」として雇われたある大名の後家であり出家していながら「色に溺れていた」女性の助けを借りて武家娘の無念を晴らし、女将自身の無念を晴らしていくのである。
この作品は、ただただ「色と欲」に絡んだ男と女の姿が描き出される。その「色と欲」の犠牲となった人間も描かれるが、基本的には「したたかに生きている人間」の姿が描き出されている。もちろん、娯楽時代小説と呼ぶにふさわしく、色と欲にまみれた悪は一掃され、最後は女たちの無念も見事に晴らされていくが、つまらない道徳観も倫理観もなく、報われない人間は報われないままに死んでいき、男と女は「性の交わりをする者」として描き続けられ 物語の女性たちは泥助と簡単に寝てしまうが、それを通して、「人間」という者を過大にも過小にも評価しないという視点があるようにも思われる。
わたし自身の好みからいえば、こうした娯楽小説に何か思索や感情的な動きがあるというのではなく、「面白く読む」というだけで、最近はこの類の小説を読むことはなかったのだが、なんだか久しぶりでこうした「娯楽小説」を読んだような気がした。多岐川恭の作品は、少し前に『暗闇草紙』(1982年 講談社)を面白く読んだので、今回も肩の凝らない面白い作品を読みたいと思って手にした次第である。
2010年4月5日月曜日
多岐川恭『暗闇草紙』
雨が降り始め気温も下がってひどく寒い四月の月曜日になった。気温がジェットコースター並みに変動しているが、今日はまことに寒い。
昨日から多岐川恭『暗闇草紙』(1982年 講談社 1992年 新潮文庫)を読んでいたが、これは「草紙」と表題にあるように、一昔前のとてつもなく面白い冒険・推理・時代小説であり、推理作家でもある作者が意図的に娯楽時代小説として書きあげたもののように思われる。
物語は、妻恋坂の裏通りにある通称「暗闇小路」の裏店に住む手習い所の師匠で剣術道場の代稽古をしながら糊塗をしのいでいる浪人が、その裏店に越してきた若い娘と乳母と思われる女の家に入った押し込み強盗の事件をきっかけに、隠された財宝を探し出していくというもので、同じ裏店に住む岡っ引きとその出戻り娘、浪人が惚れて通っている馴染みの女郎、精神的な安らぎを覚えて慕っている尼僧、彼に思いを寄せて迫る剣術道場の妻などとの恋模様あり、隠された財宝が長崎における抜け荷や海賊からの略奪品であり、裏切りの繰り返しで狙われ続けたものであることなどの人間の欲の深さありで、それらが巧みに織り混ざって、物語の山場を迎えていく。
主人公の浪人が、貧乏手習い所の師匠を続けようとするところもいいし、気性がさっぱりして頭のいい女郎のもとに通いながら、一方で清楚で頭脳明晰な尼僧に魅かれつつも、ついに色香を振りまいて迫って来る剣術道場の妻の誘いに負けて、その夫と話し合って、彼女と夫婦になるようになる、いわゆる凡夫として描かれているのもいい。女郎も尼僧も、境遇は正反対だが、物事の真実を見通す目をもっている女性として描かれているし、岡っ引きの出戻り娘の恋心も綾を添えていく。また、欲に固まった長崎奉行と商人との結託と裏切りの繰返しによって隠されてしまった財宝の顛末も、いかにも娯楽小説としての筋立てがきちんとしている。
物語の大円団は、財宝が隠されていた高尾山の山頂で起こるが、そこに財宝を狙う元長崎奉行の手の者とそれを争っていた商人の手の者、そして、鍵を握る若い娘と乳母、真実を暴こうとする主人公の一団がすべてそろって争いとなり、尼僧の昔のつてである大身の武家と火消し仲間の手によって争いが鎮められ、若い娘や乳母の正体も暴かれ、隠されていた財宝は結局誰の手にもならずに円団を迎えていくというものになっている。
そして、最後のところで、女郎は女郎屋を買い取って彼女を慕う下働きと、岡っ引きの出戻り娘は自分の恋心を胸にしまって父親の手下と、尼僧は変わらず静かに、そして主人公は剣術道場の主となって尻に敷かれていく。尼僧の境遇が最後に明かされるが、それも精彩を放っている。
こうした作品は、肩の凝らない「草紙」-読みもの‐として面白いし、直木賞や紫綬褒章までも受賞している作者の技量は改めていうまでもない。なぜか、松本清張の隠し金山を舞台にした長編の時代小説『西海道談綺』を思い起こしたりした。『西海道談綺』も、本当に面白く、こちらは以前住んでいたところの近くの九州の日田や鯛尾金山などが舞台であったので、よくそこに出かけたりした。今でも、九州に行った折には日田の筑後川に鮎を食べに行ったりする。多岐川恭『暗闇草紙』の最後の舞台となった高尾山にも思い出がある。
こうした地名の出てくる時代小説を読むと、その場所を思い出したりするのも小説の効用だろう。
昨日から多岐川恭『暗闇草紙』(1982年 講談社 1992年 新潮文庫)を読んでいたが、これは「草紙」と表題にあるように、一昔前のとてつもなく面白い冒険・推理・時代小説であり、推理作家でもある作者が意図的に娯楽時代小説として書きあげたもののように思われる。
物語は、妻恋坂の裏通りにある通称「暗闇小路」の裏店に住む手習い所の師匠で剣術道場の代稽古をしながら糊塗をしのいでいる浪人が、その裏店に越してきた若い娘と乳母と思われる女の家に入った押し込み強盗の事件をきっかけに、隠された財宝を探し出していくというもので、同じ裏店に住む岡っ引きとその出戻り娘、浪人が惚れて通っている馴染みの女郎、精神的な安らぎを覚えて慕っている尼僧、彼に思いを寄せて迫る剣術道場の妻などとの恋模様あり、隠された財宝が長崎における抜け荷や海賊からの略奪品であり、裏切りの繰り返しで狙われ続けたものであることなどの人間の欲の深さありで、それらが巧みに織り混ざって、物語の山場を迎えていく。
主人公の浪人が、貧乏手習い所の師匠を続けようとするところもいいし、気性がさっぱりして頭のいい女郎のもとに通いながら、一方で清楚で頭脳明晰な尼僧に魅かれつつも、ついに色香を振りまいて迫って来る剣術道場の妻の誘いに負けて、その夫と話し合って、彼女と夫婦になるようになる、いわゆる凡夫として描かれているのもいい。女郎も尼僧も、境遇は正反対だが、物事の真実を見通す目をもっている女性として描かれているし、岡っ引きの出戻り娘の恋心も綾を添えていく。また、欲に固まった長崎奉行と商人との結託と裏切りの繰返しによって隠されてしまった財宝の顛末も、いかにも娯楽小説としての筋立てがきちんとしている。
物語の大円団は、財宝が隠されていた高尾山の山頂で起こるが、そこに財宝を狙う元長崎奉行の手の者とそれを争っていた商人の手の者、そして、鍵を握る若い娘と乳母、真実を暴こうとする主人公の一団がすべてそろって争いとなり、尼僧の昔のつてである大身の武家と火消し仲間の手によって争いが鎮められ、若い娘や乳母の正体も暴かれ、隠されていた財宝は結局誰の手にもならずに円団を迎えていくというものになっている。
そして、最後のところで、女郎は女郎屋を買い取って彼女を慕う下働きと、岡っ引きの出戻り娘は自分の恋心を胸にしまって父親の手下と、尼僧は変わらず静かに、そして主人公は剣術道場の主となって尻に敷かれていく。尼僧の境遇が最後に明かされるが、それも精彩を放っている。
こうした作品は、肩の凝らない「草紙」-読みもの‐として面白いし、直木賞や紫綬褒章までも受賞している作者の技量は改めていうまでもない。なぜか、松本清張の隠し金山を舞台にした長編の時代小説『西海道談綺』を思い起こしたりした。『西海道談綺』も、本当に面白く、こちらは以前住んでいたところの近くの九州の日田や鯛尾金山などが舞台であったので、よくそこに出かけたりした。今でも、九州に行った折には日田の筑後川に鮎を食べに行ったりする。多岐川恭『暗闇草紙』の最後の舞台となった高尾山にも思い出がある。
こうした地名の出てくる時代小説を読むと、その場所を思い出したりするのも小説の効用だろう。
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