2010年4月21日水曜日

多岐川恭『用心棒』

 昨日は午後から雨が降り出し、今朝には上がっていたが、夕方からまた雲が広がり始めた。昼中の気温はそれほど低くなく、どちらかと言えば過ごしやすいが夜は冷える。このところ身体の芯からにじり出るような疲れを覚えたまま日々が過ぎており、なかなか力が出ない。昨日、雨の中を、コーヒーを買いに「あざみ野」の「神戸珈琲物語」というお店まで出かけたが、どことなく気分がさえずに、妙な孤独感を覚えたりしていた。帰宅して、新約聖書の『使徒言行録』のギリシャ語原典を読みながら考えをまとめようとしたが、思考が散漫になってしまいがちだったので、読みかけの多岐川恭『用心棒』(1988年 新潮社 2005年 徳間文庫)を読み続けた。

 これは、書名は『用心棒』となっているが、いわゆる強くてかっこう良くて颯爽とした浪人の話ではなく、自ら泥にまみれて生きている「泥助」と名乗る男が、武士の意地や面目、教条などの一切を捨て、いわば「男めかけ」として女を手玉に取りながら生き抜きつつも、それぞれの惚れた女たちの胸に抱えている無念さを晴らす手助けをしていくという話である。

 物語の半ば過ぎまで、泥助は、浪人の格好をしているが偽浪人で弱く、女あしらいだけがうまくて、うまく女に取り入っていく腐り果てた男として描かれ、女たちも、それぞれの欲と思惑で男を手玉にとり、男を利用し、男たちはまたその女を利用していくという「色と欲」の複雑に絡み合った世界に生きる人間として描かれていく。

 しかし、物語が展開していくにしたがい、うまく口車に乗せて自分のものにした武家娘が親の無念さを晴らすことを大望していることを知り、泥助は武家娘の父親を騙して自害に追いやった犯人一味を突きとめていく。そしてまた、表向きは小料理屋であるが売春宿でもある店の女将で、美貌で冷徹でもあり、体を使って男を手玉にとって男同志を争わせて破滅させていく女が、実は武家の出であり、親の出世と生活の安定のために結婚させられ、その結婚相手も自分の出世のために彼女を上役に売り、ついに離縁されて失意と絶望の中に生きている女であり、その無念さを晴らすことを目指していることが明らかにされていく。

 彼女は泥助を利用するが、実は泥助が本当に武士の出であり、しかもかなり強い腕をもつ男であるという泥助の正体には気づいていくし、泥助もまた、彼女の正体に気づいていく。泥助も彼女も、それぞれの多くの男や女と交わっていき、そこには「貞淑」とか「善悪」とかの考えは微塵もなく、そこにあるのは「性」そのものであるが、泥助と彼女は魅かれあっていても交わらない。それが二人の関係を微妙に保っているのが物語の綾となっている。

 その二人が、泥助が性を相手する「男めかけ」として雇われたある大名の後家であり出家していながら「色に溺れていた」女性の助けを借りて武家娘の無念を晴らし、女将自身の無念を晴らしていくのである。

 この作品は、ただただ「色と欲」に絡んだ男と女の姿が描き出される。その「色と欲」の犠牲となった人間も描かれるが、基本的には「したたかに生きている人間」の姿が描き出されている。もちろん、娯楽時代小説と呼ぶにふさわしく、色と欲にまみれた悪は一掃され、最後は女たちの無念も見事に晴らされていくが、つまらない道徳観も倫理観もなく、報われない人間は報われないままに死んでいき、男と女は「性の交わりをする者」として描き続けられ 物語の女性たちは泥助と簡単に寝てしまうが、それを通して、「人間」という者を過大にも過小にも評価しないという視点があるようにも思われる。

 わたし自身の好みからいえば、こうした娯楽小説に何か思索や感情的な動きがあるというのではなく、「面白く読む」というだけで、最近はこの類の小説を読むことはなかったのだが、なんだか久しぶりでこうした「娯楽小説」を読んだような気がした。多岐川恭の作品は、少し前に『暗闇草紙』(1982年 講談社)を面白く読んだので、今回も肩の凝らない面白い作品を読みたいと思って手にした次第である。

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