2010年4月19日月曜日

宮部みゆき『幻色江戸ごよみ』

 ようやく春らしい気温と天気が戻ってきた。チベットでの地震とアイスランドの火山噴火という天変地異が続いたが、今日の空気は春の穏やかさに満ちている。できるなら静かにその空気を味わいたい。

 土曜日の夜と日曜日の夜に宮部みゆき『幻色江戸ごよみ』(1994年 新人物往来社)を読んだ。これは十二話からなる短編小説集で、いずれも江戸の庶民がそれぞれの生活の中で遭遇して、その不可思議さを迷信のような出来事として納得していこうとしたことを「人間の情」という視点で切り取ろうとした珠玉の作品である。

 たとえば第一話「鬼子母火」は、酒問屋の「伊丹屋」という店の仏壇から火が出て小火が起こった。仏壇にあげる灯明の火は確かに消したとお内儀は言う。店の屋台骨を背負っている苦労人の番頭が調べてみると、仏壇に飾った注連縄(しめなわ)から火が出たようで、その注連縄に人の髪の毛が織り込まれていた。何かの祟りでそこから鬼火が出て燃えたのではないかという。番頭と同じように苦労してきた頭脳明晰な女中頭は、その髪の毛の出所を探ることにする。

 調べていくうちに、注連縄に髪の毛を織り込んだのが女中として奉公にあがったばかりのいたいけな少女であることが分かる。少女は近郊の水飲み百姓の六人兄弟の末娘で、村に起こった流行病(伝染病)で母親をなくし、供養もされないままに母親を荼毘送りにしなければならなかったことを悲しんで、母親の髪の毛を切って、江戸へ奉公のために出て来て、注連縄に織り込めばみんなから拝んでもらえるのではないかと思ったと言う。

 流行病で亡くなった母親が、その病原菌のついた髪の毛をそっと切り取ってもっている娘を案じて、その病気を感染させないために、娘の手を離れて注連縄に織り込まれた時に燃やしたのだ、と女中頭は少女に語り聞かせ、燃え残りの髪の毛を燃やして、春になるとそこに花が咲くように庭の片隅に埋めてあげる。

 女中頭は、店の小火はお内儀の火の火始末だと思っているが、母親が娘を思う気持ちを察して、また娘が母親を思う気持ちを察して、母親に変わって娘の面倒を見ていくことを決心していくのである。

 こうした物語がそれぞれ十二話語られている。迷信や「祟り」というものは、個人の力ではどうしようもないところで渦巻いていく人間の怨みや復讐心、嫉妬、情念、欲などの化身ともいうべき表出である。どうしようもないから、あらゆるものに神仏が宿るという汎神論的土壌をもった日本の社会の中では、そこに神仏が生まれてくる。江戸時代には、存外にそうした考えが定着していった。社会と人間関係の膠着状態が「たたり」を生むのである。

 現代社会は科学と合理的思考でそうした迷信や祟りといったものを排除してきた。それは、人間精神のひとつの大きな進歩である。しかし、それを科学的・合理的思考でなくしてきても、そこになお残る「情」の感情がある。「情」が脳内分泌物の作用であると説明することはできても、その説明ですべてがすむわけではない。作者はそれを「愛」や「慈しみ」や「優しさ」、「思いやり」といった人間の情の発露として描き出そうとするのである。

 ここに収められている十二話の短編は、そうしたことにまつわって人間の「思いやり」や「人を思う優しさ」、「愛情」の物語である。

 ただ、この十二話のうち第二話「紅の玉」は少し異色で、これは社会の上層部として位置づけられていた武士と日々の生活に明け暮れなければならない職人(庶民)のそれぞれの立場が決定的に異なったものであることを明瞭に示す物語となっている。

 腕のいい飾り職人である佐吉は、水野忠邦が打ち出した「天保の改革」(1842年)による「奢侈禁止令」によって仕事を失う。病気の女房を抱え、貧苦にあえいでいる。そこに見事な珊瑚の紅玉をもって銀の簪を内密に作ってくれないかという老武士が現れる。娘の嫁入りにしたいと言う。佐吉は、「奢侈禁止令」で罰されるかもしれないと思いながらも、差し出された高額の報酬で女房に滋養のあるものを食べさせることができるし、見事な紅玉を使って自分の腕を存分に振るうことができることを考えて、丹精をこめて簪を作り、そこに自分の銘を入れる。

 ところが、嫁入り道具というのは真っ赤な嘘で、老武士とその孫娘は、水野忠邦の意を受けて腹心として働いていた鳥居耀蔵の家臣への武門と大義をかけた仇打ちをするのである。その時に佐吉が作った家紋を入れた簪をつけて行ったのである。仇打ちは許可されたものではなかったし、彼の簪は「奢侈禁止令」に引っかかる。佐吉は取り手の足音を聞きながら、「俺はどうなる。ひとり残される病気の女房はどうなる」と思う。

 人は、誰でも、自分の立場でしか物事を考えることができない。江戸時代に定着していった武家倫理は優れたところもあるが、「面目」や「大義」を過重にして、それが生きている人間を苦しめた。誰かほかの人の、ほかの立場に立たなければならない人の苦しみや悲しみ、どうしようもなさをきちんと認識できるかどうかにその人間の器の大きさがあるとするならば、いびつな武士階級の権力争いの犠牲が生まれてきた江戸時代に起こったいくつかの社会改革をわたしはどうしても評価する気にはなれない。

 それは現代社会の中でも同じである。「力をもつことは、力のない者を犠牲にすることである」ことをよく知っておく必要がある。老武士の言葉を単純に信じ、高額の手間賃に夢を追い、自分の作品に銘を入れる職人気質をもつ佐吉にも、もちろん、それゆえの愚かさはあるかもしれないが、「違う」と叫ばなければならない佐吉の姿を描いた作者に、わたしは軍配を上げたい。

 この短編集を読んでみて、改めて作者の筆力というものを感じた。描写も丁寧だし、描かれる人間も生きている。彼女が数々の文学賞を受賞しているのもうなずける思いがする。

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