北東の空に雲がたなびいている。晴れてはいるが寒い日々が続いて、昨年の夏がひときわ暑かっただけに寒さが厳しい。だが、身を律するのにちょうどいいのかも知れない。
昨夜遅く、澤田ふじ子『比丘尼茶碗 公事宿事件書留帳』(2006年 幻冬舎)を読み終えた。これは前に読んだ『世間の辻』よりも2作前のシリーズ12作目の作品だが、あまり深刻にならずに気楽に読める一作だった。
主人公の田村菊太郎は、京都東町奉行所同心組頭の長男として生まれたが、妾腹のために弟の銕蔵に家督を譲って、二条城近くの公事宿「鯉屋」に居候をしながら、公事宿に持ち込まれる事件を解決したりしている。本書に、この公事宿の先代の宗琳(元の名を武市)が菊太郎の父親の田村次右衛門の手下であり、その才能を見込んで次右衛門が公事宿を買い与えたという経緯が短く記されており、居候の身ながら、なるほど公事宿でのんびり世渡りができる境遇にあることがわかった(101ページ)。もちろんそれは、菊太郎の人柄や才能に負うところが大きい世渡りではあるが。
公事宿は主に民事訴訟を取り扱うから、本書に収録されている「お婆の斧」、「吉凶の餅」、「比丘尼茶碗」、「馬盗人」、「大黒さまが飛んだ」、「鬼婆」の六編は、いずれも大きな事件というよりは、人の心情や欲に絡んだ市井の出来事を記したもので、この中の「比丘尼茶碗」だけがある藩の跡継ぎを巡る内紛に絡んだ事件で、ここで中心になって描かれるのが菊太郎の父親の次右衛門と「鯉屋」の先代「宗琳」となっている。
だが、人の嫉妬や妬み、欲に絡んだ事件とはいえ、事件の複雑さはないし、その解決もきれいすぎるほどあっさりしている。そうした事件の顛末よりも、むしろ、主人公の田村菊太郎と公事宿「鯉屋」の奉公人たちの京風ののんびりした上方漫才のような掛け合いの面白さがあり、そうした雰囲気が全編の軽妙さになっているところが特質となっているように思われる。
作者は多作で、歴史的考証はいうまでもなく、構成もしっかりした作品であるが、あえて、2点ほど気になることがあった。
一つは、物語に登場する地名や古刹、社会風潮や仕組みについての歴史文書の検証がかなりたくさん出てきて、もちろん、「正しく知る」ということでは意味のあることだが、少し煩わしい気がしたことである。いわば、脚注の多い作品に仕上がっているように思われてならなかった。
もう一つは、主人公の田村菊太郎は、若いにもかかわらず書画などにも目が肥えており、「宗鷗(そうおう)」と号して俳句を詠むが、その俳句が年輪を重ねなければ詠めない俳句のように思われることである。
たとえば「あと幾度 桜見て去ぬ この世をば」(49ページ)や「送り火や 昨年見し夫の 盂蘭盆会」(193ページ)といった句は、人生の老年期にならなければ出てこないように思われ、どことなく主人公にそぐわないような気がするのである。作者が60歳の時の作品であるのでその句の心境が分かるような気もするが、主人公の田村菊太郎は「若旦那」と呼ばれる青年武士で、こうした心境には遠いところにいるのではないだろうか。
ともあれ、あまり肩の凝らない作品であることは間違いない。人の描き方が柔らかい。
2011年1月14日金曜日
2010年12月2日木曜日
澤田ふじ子『はぐれの刺客』
師走の風が吹くようになった。どんよりと曇った空から雨が落ちそうである。考えることがいくつかあって、昨夕は、久留米のSさんが送ってくださった田主丸の富有柿を食べながらぼんやりと時を過ごしていた。柿は、お腹が冷えるのが難点だが、ビタミンが豊富で、ビタミンが欠乏しがちな生活では重宝している。それから読みさしていた澤田ふじ子『はぐれの刺客』(1999年 徳間書店)を読み終えた。
岐阜の大垣藩の藩士の次男として生まれた主人公の甘利新蔵は、剣の腕は藩随一であるが、どこか鬱屈したところがあるということで道場主から疎んじられ、かといって養子の口もない部屋住み(居候・冷や飯食い)の身をもてあまし、根は正直で、気さくで、人の良いところをもちながらも屈折した気もちで日々を過ごしていた。
彼は友人の妹「五十鈴」に思いを寄せ、「五十鈴」も彼を慕っていたが、部屋住みの身のために結婚もできず、そのうち「五十鈴」の両親から彼の境遇故に疎んじられるようになり、やがて「五十鈴」は藩の普請奉行の息子で彼の友人でもあった中井三郎助と結婚するという。彼は二人を祝すが、どことない怒りを覚え続けた夜、城下で起こった強盗事件で強盗を怒りにまかせて斬り殺す。そして、強盗を殺してほめられるどころか、その殺し方があまりにも残忍ということで蟄居(幽閉)を命じられてしまう。忍耐の尾を切らしてしまった彼は、藩を出藩し、浪々の身となり、各地を放浪するようになる。
他方、甘利新蔵に思いを寄せていたが周囲の圧力に負けて中井三郎助と結婚した「五十鈴」は、それなりに自らの幸せをつかもうとし、三郎助との間にひとり娘をもうけていたが、夫の三郎助が藩主に召されて江戸に行くことになる。そして、その間に、彼女に懸想した義父の中井九右衛門によって好色の餌食にされてしまう。中井九右衛門は、外では厳格な普請奉行であったが、「五十鈴」を手籠めにし、もてあそんだのである。「五十鈴」はそのことで自ら縊死してしまう。
浪々の旅を続けていた甘利新蔵は、やがて自分が殺し、出藩の原因ともなった強盗団の一員に見つけられてしまう。強盗団は仕返しの機会をうかがうために彼を用心棒として雇って囲い込もうとする。甘利新蔵は、彼らの意図を見破るが、雇われているうちに、その強盗団が普通の強盗団とは異なり、実は藩の不正を暴こうとした強盗団の首領の父親を罠に嵌めた悪徳商人を懲らしめるための強盗団であったりしたことを知り、お互いに信頼を寄せ合うようになっていく。彼が大垣城下で殺した一味の娘も、はじめは新蔵を仇としていたが、やがて思いを寄せるようになっていく。
そういう中で、甘利新蔵は、幸せに暮らしているとばかり思っていた「五十鈴」の不幸を知る。彼は周囲に迷惑が及ばないように配慮をしながら、時期を待って「五十鈴」を不幸に陥れた中井九右衛門の首をはねる。だれも、なぜ彼が中井九右衛門の首をはねたのかの真相は知らない。彼もまた「五十鈴」の夫であり友人でもあった三郎助のために口を閉ざす。
だが、三郎助は仇討ちをしなければならない。そして、天明の京の大火の時、甘利新蔵は自ら仇を討たれるようにして死んでいくのである。
恵まれた才をもちながら、否、才をもつが故に、出口のないままに不運を生きなければならない人間が、報われないままではあるが自らの思いを徹させていく姿が、ここに描き出されている。もちろん、その結末は不幸である。だが、それで良かったのだろうと読了後に思った。
作者は「あとがき」の中で、「この『はぐれの刺客』は、武芸は達者だが、徹底して不幸にみまわれ、はぐれ者の烙印を押された一人の若い武士が、どう生きどう死んだかを追って描いた。今の社会でも同じだが、かつての社会は、いまよりもっと公平ではなかった。主人公に似た人物を探せば、以外とわたしたちの身の廻りにも、多くいることに気づかされる」(282-283ページ)と記されているが、襲い来る不運と不幸の中でも自分の思いを通すことができる主人公のような人は少ないだけに、小説としての味があるように思えるのである。藩からの召し抱えの話を断るところなど、なかなかどうして矜持に生きる武士の姿そのものである。
物語の展開は細部に至るまでストーリーテラーとしての作者ならではの展開だと思う。細かなことが生きているので、気さくだが鬱屈している主人公の姿がよくわかる。わたしはこの作者の作品をあまり多く読んではいないが、紡ぎ出される展開は驚嘆に値すると思っている。
ぼちぼち雨が降るかも知れない。その前に出かける用意をして出かけることにする。いつものことだが、いざ出かけるとなると、都内まで、なんとなく億劫な気がする。
岐阜の大垣藩の藩士の次男として生まれた主人公の甘利新蔵は、剣の腕は藩随一であるが、どこか鬱屈したところがあるということで道場主から疎んじられ、かといって養子の口もない部屋住み(居候・冷や飯食い)の身をもてあまし、根は正直で、気さくで、人の良いところをもちながらも屈折した気もちで日々を過ごしていた。
彼は友人の妹「五十鈴」に思いを寄せ、「五十鈴」も彼を慕っていたが、部屋住みの身のために結婚もできず、そのうち「五十鈴」の両親から彼の境遇故に疎んじられるようになり、やがて「五十鈴」は藩の普請奉行の息子で彼の友人でもあった中井三郎助と結婚するという。彼は二人を祝すが、どことない怒りを覚え続けた夜、城下で起こった強盗事件で強盗を怒りにまかせて斬り殺す。そして、強盗を殺してほめられるどころか、その殺し方があまりにも残忍ということで蟄居(幽閉)を命じられてしまう。忍耐の尾を切らしてしまった彼は、藩を出藩し、浪々の身となり、各地を放浪するようになる。
他方、甘利新蔵に思いを寄せていたが周囲の圧力に負けて中井三郎助と結婚した「五十鈴」は、それなりに自らの幸せをつかもうとし、三郎助との間にひとり娘をもうけていたが、夫の三郎助が藩主に召されて江戸に行くことになる。そして、その間に、彼女に懸想した義父の中井九右衛門によって好色の餌食にされてしまう。中井九右衛門は、外では厳格な普請奉行であったが、「五十鈴」を手籠めにし、もてあそんだのである。「五十鈴」はそのことで自ら縊死してしまう。
浪々の旅を続けていた甘利新蔵は、やがて自分が殺し、出藩の原因ともなった強盗団の一員に見つけられてしまう。強盗団は仕返しの機会をうかがうために彼を用心棒として雇って囲い込もうとする。甘利新蔵は、彼らの意図を見破るが、雇われているうちに、その強盗団が普通の強盗団とは異なり、実は藩の不正を暴こうとした強盗団の首領の父親を罠に嵌めた悪徳商人を懲らしめるための強盗団であったりしたことを知り、お互いに信頼を寄せ合うようになっていく。彼が大垣城下で殺した一味の娘も、はじめは新蔵を仇としていたが、やがて思いを寄せるようになっていく。
そういう中で、甘利新蔵は、幸せに暮らしているとばかり思っていた「五十鈴」の不幸を知る。彼は周囲に迷惑が及ばないように配慮をしながら、時期を待って「五十鈴」を不幸に陥れた中井九右衛門の首をはねる。だれも、なぜ彼が中井九右衛門の首をはねたのかの真相は知らない。彼もまた「五十鈴」の夫であり友人でもあった三郎助のために口を閉ざす。
だが、三郎助は仇討ちをしなければならない。そして、天明の京の大火の時、甘利新蔵は自ら仇を討たれるようにして死んでいくのである。
恵まれた才をもちながら、否、才をもつが故に、出口のないままに不運を生きなければならない人間が、報われないままではあるが自らの思いを徹させていく姿が、ここに描き出されている。もちろん、その結末は不幸である。だが、それで良かったのだろうと読了後に思った。
作者は「あとがき」の中で、「この『はぐれの刺客』は、武芸は達者だが、徹底して不幸にみまわれ、はぐれ者の烙印を押された一人の若い武士が、どう生きどう死んだかを追って描いた。今の社会でも同じだが、かつての社会は、いまよりもっと公平ではなかった。主人公に似た人物を探せば、以外とわたしたちの身の廻りにも、多くいることに気づかされる」(282-283ページ)と記されているが、襲い来る不運と不幸の中でも自分の思いを通すことができる主人公のような人は少ないだけに、小説としての味があるように思えるのである。藩からの召し抱えの話を断るところなど、なかなかどうして矜持に生きる武士の姿そのものである。
物語の展開は細部に至るまでストーリーテラーとしての作者ならではの展開だと思う。細かなことが生きているので、気さくだが鬱屈している主人公の姿がよくわかる。わたしはこの作者の作品をあまり多く読んではいないが、紡ぎ出される展開は驚嘆に値すると思っている。
ぼちぼち雨が降るかも知れない。その前に出かける用意をして出かけることにする。いつものことだが、いざ出かけるとなると、都内まで、なんとなく億劫な気がする。
2010年11月6日土曜日
澤田ふじ子『世間の辻 公事宿事件書留帳』
気温は決して高くはないが、晴れた秋空が広がっている。紅葉が進み、銀杏の街路樹も色づき始めている。銀杏の葉がひらりはらりと舞い落ちる様は何とも風情がある。銀杏の葉には脂分が多いので、掃除は大変なのだが、それもまた一興だろう。
昨日、都内での会議のための往復路で、読みさしていた澤田ふじ子『世間の辻 公事宿事件書留帳』(2007年 幻冬舎)を面白く読み終えた。作者の作品は京都を舞台にした作品が多く、もちろん歴史的考証や社会的考察もしっかりしているし、どちらかといえばこの類の作品は、テレビ時代劇の『水戸黄門』に代表されるような勧善懲悪が根本にあるのだが、権勢や権力を笠にして悪を両断していくのではなく、市井に生きる人間の側での納得のいく形で描き出されるので、比較的安心感がある。
この書物を手に取ったのは、「世間の辻」という書名がなかなか味のある書名だと思ったからで、シリーズの最初から読んでいるわけではない。しかし、さすがに前後を知らなくてもきちんと読めるように構成されている。ちなみに、このシリーズは、2002年に『はんなり菊太郎~京・公事宿事件帳』、2004年に『はんなり菊太郎2~京・公事宿事件帳』、2007年に『新はんなり菊太郎~京・公事宿事件帳』としてNHKでテレビドラマ化され放映されている。ただ、わたしは残念ながら見たことはない。
ドラマの原作となった『公事宿事件書留帳』のシリーズは、現在まで15冊という長いシリーズになっており、本書はその14番目の作品で、「ほとけの顔」、「世間の辻」、「親子絆騙世噺(おやこのきずなだましのよばなし)」、「因果な井戸」、「町式目九条」、「師走の客」の6話が収められている。
江戸幕府は京都の二条城(二条城は江戸幕府統治の象徴でもあった)近くに東西奉行所を置いて京の治安を管理していたが、その近辺には奉行所での訴訟のための「公事宿(訴訟のために遠方から来た者を留める宿だが、訴訟手続きや補助、仲介、交渉など弁護士事務所のような働きもした)」が多くあり、本書は、二条城近くの姉小路大宮通りにある「鯉屋」という公事宿で、東町奉行所同心組頭の長男でありながら、妾腹のために家督を弟に譲って浪人となり、居候兼相談役、また用心棒のようなことまでする田村菊太郎という、あまり物事にこだわらないで飄々と生きている人物を主人公にして、公事宿に持ち込まれる事件の顛末を記したものである。
公事宿「鯉屋」の主人である鯉屋源十郎は、菊太郎を良い相談相手として居候させ、信頼し、「鯉屋」の奉公人たちも菊太郎を尊敬し、菊太郎から俳句を習ったりして、その関係は温かい。菊太郎には「お信」という恋人があって、「お信」は、夫に蒸発され、料理屋で仲居をしていたが、団子屋を開き、ひとり娘の「お清」を育てている。菊太郎とお信の恋の顛末については、おそらく、シリーズの前の方で記されているのだろうと思う。
江戸でもそうだったが、京都でも奉行所の訴訟事件の大半は金や権利を巡っての民事で、公事宿が取り扱うのも民事事件が大半であるが、時にはそれが刑事事件になっていく場合があり、また、菊太郎が家督を譲っている弟の銕蔵(てつぞう)が東町奉行所同心組頭をしていることもあって、菊太郎は強盗や殺人に絡む刑事事件にも関わっていく。
第一話「ほとけの顔」は、生糸問屋の大店の主が気の強い女房に嫌気がさして失踪し、六波羅の近くで陶工として働いていたが、死んでしまい、大店の女主は、遺体を引き取ることも葬儀を出すことも気にいらず、意にも沿わないが、見栄と世間体から主の遺体を引き取って葬儀をしたいという依頼を公事宿に持ち込んでくる話である。
京都は何度も足を運んで好きな町のひとつだが、見栄や世間体が幅を効かせる所でもあり、特に大店の女主ともなればそれだけで生きている人もあって、なるほど、と実感を持ちながら読んだ。菊太郎と鯉屋源十郎が実際に当たってみると、六波羅で人々に慕われながら生きた大店の主の姿が浮かび上がるだけであり、葬儀はこともなく生糸問屋で行われることになっていくのである。
表題作ともなっている第二話「世間の辻」は、惚け(認知症)が進んだ老いた母親を抱える貧しい石工が、働くことも出来ずに貧にあえぎ、とうとう無住の荒れ寺で母親を殺し、ふらふらと出てきたところに行き会わせた鯉屋の下代(番頭)と奉公人が助け、その母親を殺さなければならなかった顛末が述べられたもので、おそらく、作者の中には現代の介護の問題が意識されていただろうと思われる。
第三話「親子絆騙世噺(おやこのきずなだましのよばなし)」は、大店の焼き物問屋の跡取り娘が死んで、その跡継ぎ問題が起こったとき、実は、死んだ娘には双子の妹があり、当時の風潮から(双子は畜生腹として嫌われた)生まれてすぐに他家に出されていて、大店の夫婦が、その妹を捜し出して跡継ぎにしたいと鯉屋に相談に来たことの顛末を物語ったものである。
妹の行くへを探すために、姉妹を生んだ時の産婆を捜し出すが、産婆の息子がぐれた息子で、大金の謝礼を要求してくる。菊太郎と源十郎は、産婆の息子の要求をはねつけ、産婆を説得して、妹のもらわれ先を探し出す。妹は、魚屋の養父母に大切に育てられ、幸せに暮らしており、生みの親の身勝手な要求を断固として断る。菊太郎は,焼き物問屋の夫婦に、道理をわきまえて、やがては行き来が生じて、その妹が産んだ子を跡取りとする方法もあるだろうとさとしていく。
第四話「因果な井戸」は、博奕と酒好きのために親から譲り受けた昆布屋を廃業させた男が、店の土地を売るためと、隣で豆腐屋を営む繁盛している弟を嫉んで、弟が使っている井戸に死体を投げ込むことを地回りと結託して画策し、偶然、殺されることになっている男と殺そうとする男たちと居酒屋でいあわせた菊太郎が、その計略を暴いていく話である。
第五話「町式目九条」は、学問所などを私財をはたいて作っていた筆屋の主が亡くなり、情のない養子夫婦の中でひとり残った老女が、養子家族たちだけが紅葉見物に出かけて留守居をさせられていた時に入ってきた泥棒と親しくなり、失踪してしまうという事件の顛末を語ったもので、鯉屋の奉公人たちが泥棒に背負われている老女と偶然出会ったことから、老女の失踪先を案じることになるが、やがて老女の行き先がわかり、養子夫婦の実態が明らかになって、養子夫婦によって閉鎖されていた学問所が「町式目九条」に従って町預かりとなり、再開されることになるというものである。
町式目というのは、独自の形態をもっている京の町がそれぞれに定めた法律のことで、主にその町の住民が安心して暮らしていくために定められたものであるが、時には京の町々ごとの閉鎖性ともなったりした。しかし、たいていは相互扶助として機能していた。
第六話「師走の客」は、公事宿である鯉屋の客となった滋賀の彦根で金物屋を営む男の話である。行きずりの奉公人の少女の下駄の緒をすげかえてあげている彼を鯉屋の主源十郎が見て、声をかけ、公事宿を探しているというので連れてきたのである。
男は、今は金物屋として成功しているが、昔、喧嘩で遠島の刑を受け、その際に言い交わした女性の行くへを探しているという。女性は火事で死んだと聞いているので、その墓に参りたいと願っていたのである。菊太郎と源十郎は、弟で同心組頭の銕蔵(てつぞう)の助けを借りて、彼女が埋葬されている墓を探そうとする。そして、女性と金物屋の間に子どもが出来ていたことを知り、その子どもが今は駄菓子屋の女将として立派にやっていることを知る。
菊太郎と源十郎は親子の名乗りを上げて子どもの心をかき乱すのではなく、物陰からそっと見守っていくことを勧め、金物屋と一緒に彦根へのお土産を買うという名目で、その駄菓子屋に行き、密かな親子の対面を果たす。しかし、金物屋は昔の喧嘩仲間から恨まれて刺されてしまう。だが命には別状はないというところで終わる。
これらの六話の物語は、それぞれが色彩の異なった別の事件で、それぞれが当時の京都の商人や市井の人々の姿を浮き彫りにして、味わい深いものになっている。主人公の田村菊太郎の鷹揚で何事にもこだわらない、しかし、明敏なところも魅力がある。菊太郎も鯉屋源十郎も悪人を作らない。鯉屋の奉公人たちも気持ちがいい。ただ、それだけに事件の結末があまりにもきれいすぎる気がしないでもない。作者は多作で、問題意識もあって人間と社会のそれぞれの面を取り上げているが、作品の結末は、たいてい、きれいに終わっている。そう思うのは、わたし自身が少しひねくれているからかも知れないと思ったりもする。
今日はいい天気で、夕方、ぶらぶらと散策にでも出てみようと思っている。
昨日、都内での会議のための往復路で、読みさしていた澤田ふじ子『世間の辻 公事宿事件書留帳』(2007年 幻冬舎)を面白く読み終えた。作者の作品は京都を舞台にした作品が多く、もちろん歴史的考証や社会的考察もしっかりしているし、どちらかといえばこの類の作品は、テレビ時代劇の『水戸黄門』に代表されるような勧善懲悪が根本にあるのだが、権勢や権力を笠にして悪を両断していくのではなく、市井に生きる人間の側での納得のいく形で描き出されるので、比較的安心感がある。
この書物を手に取ったのは、「世間の辻」という書名がなかなか味のある書名だと思ったからで、シリーズの最初から読んでいるわけではない。しかし、さすがに前後を知らなくてもきちんと読めるように構成されている。ちなみに、このシリーズは、2002年に『はんなり菊太郎~京・公事宿事件帳』、2004年に『はんなり菊太郎2~京・公事宿事件帳』、2007年に『新はんなり菊太郎~京・公事宿事件帳』としてNHKでテレビドラマ化され放映されている。ただ、わたしは残念ながら見たことはない。
ドラマの原作となった『公事宿事件書留帳』のシリーズは、現在まで15冊という長いシリーズになっており、本書はその14番目の作品で、「ほとけの顔」、「世間の辻」、「親子絆騙世噺(おやこのきずなだましのよばなし)」、「因果な井戸」、「町式目九条」、「師走の客」の6話が収められている。
江戸幕府は京都の二条城(二条城は江戸幕府統治の象徴でもあった)近くに東西奉行所を置いて京の治安を管理していたが、その近辺には奉行所での訴訟のための「公事宿(訴訟のために遠方から来た者を留める宿だが、訴訟手続きや補助、仲介、交渉など弁護士事務所のような働きもした)」が多くあり、本書は、二条城近くの姉小路大宮通りにある「鯉屋」という公事宿で、東町奉行所同心組頭の長男でありながら、妾腹のために家督を弟に譲って浪人となり、居候兼相談役、また用心棒のようなことまでする田村菊太郎という、あまり物事にこだわらないで飄々と生きている人物を主人公にして、公事宿に持ち込まれる事件の顛末を記したものである。
公事宿「鯉屋」の主人である鯉屋源十郎は、菊太郎を良い相談相手として居候させ、信頼し、「鯉屋」の奉公人たちも菊太郎を尊敬し、菊太郎から俳句を習ったりして、その関係は温かい。菊太郎には「お信」という恋人があって、「お信」は、夫に蒸発され、料理屋で仲居をしていたが、団子屋を開き、ひとり娘の「お清」を育てている。菊太郎とお信の恋の顛末については、おそらく、シリーズの前の方で記されているのだろうと思う。
江戸でもそうだったが、京都でも奉行所の訴訟事件の大半は金や権利を巡っての民事で、公事宿が取り扱うのも民事事件が大半であるが、時にはそれが刑事事件になっていく場合があり、また、菊太郎が家督を譲っている弟の銕蔵(てつぞう)が東町奉行所同心組頭をしていることもあって、菊太郎は強盗や殺人に絡む刑事事件にも関わっていく。
第一話「ほとけの顔」は、生糸問屋の大店の主が気の強い女房に嫌気がさして失踪し、六波羅の近くで陶工として働いていたが、死んでしまい、大店の女主は、遺体を引き取ることも葬儀を出すことも気にいらず、意にも沿わないが、見栄と世間体から主の遺体を引き取って葬儀をしたいという依頼を公事宿に持ち込んでくる話である。
京都は何度も足を運んで好きな町のひとつだが、見栄や世間体が幅を効かせる所でもあり、特に大店の女主ともなればそれだけで生きている人もあって、なるほど、と実感を持ちながら読んだ。菊太郎と鯉屋源十郎が実際に当たってみると、六波羅で人々に慕われながら生きた大店の主の姿が浮かび上がるだけであり、葬儀はこともなく生糸問屋で行われることになっていくのである。
表題作ともなっている第二話「世間の辻」は、惚け(認知症)が進んだ老いた母親を抱える貧しい石工が、働くことも出来ずに貧にあえぎ、とうとう無住の荒れ寺で母親を殺し、ふらふらと出てきたところに行き会わせた鯉屋の下代(番頭)と奉公人が助け、その母親を殺さなければならなかった顛末が述べられたもので、おそらく、作者の中には現代の介護の問題が意識されていただろうと思われる。
第三話「親子絆騙世噺(おやこのきずなだましのよばなし)」は、大店の焼き物問屋の跡取り娘が死んで、その跡継ぎ問題が起こったとき、実は、死んだ娘には双子の妹があり、当時の風潮から(双子は畜生腹として嫌われた)生まれてすぐに他家に出されていて、大店の夫婦が、その妹を捜し出して跡継ぎにしたいと鯉屋に相談に来たことの顛末を物語ったものである。
妹の行くへを探すために、姉妹を生んだ時の産婆を捜し出すが、産婆の息子がぐれた息子で、大金の謝礼を要求してくる。菊太郎と源十郎は、産婆の息子の要求をはねつけ、産婆を説得して、妹のもらわれ先を探し出す。妹は、魚屋の養父母に大切に育てられ、幸せに暮らしており、生みの親の身勝手な要求を断固として断る。菊太郎は,焼き物問屋の夫婦に、道理をわきまえて、やがては行き来が生じて、その妹が産んだ子を跡取りとする方法もあるだろうとさとしていく。
第四話「因果な井戸」は、博奕と酒好きのために親から譲り受けた昆布屋を廃業させた男が、店の土地を売るためと、隣で豆腐屋を営む繁盛している弟を嫉んで、弟が使っている井戸に死体を投げ込むことを地回りと結託して画策し、偶然、殺されることになっている男と殺そうとする男たちと居酒屋でいあわせた菊太郎が、その計略を暴いていく話である。
第五話「町式目九条」は、学問所などを私財をはたいて作っていた筆屋の主が亡くなり、情のない養子夫婦の中でひとり残った老女が、養子家族たちだけが紅葉見物に出かけて留守居をさせられていた時に入ってきた泥棒と親しくなり、失踪してしまうという事件の顛末を語ったもので、鯉屋の奉公人たちが泥棒に背負われている老女と偶然出会ったことから、老女の失踪先を案じることになるが、やがて老女の行き先がわかり、養子夫婦の実態が明らかになって、養子夫婦によって閉鎖されていた学問所が「町式目九条」に従って町預かりとなり、再開されることになるというものである。
町式目というのは、独自の形態をもっている京の町がそれぞれに定めた法律のことで、主にその町の住民が安心して暮らしていくために定められたものであるが、時には京の町々ごとの閉鎖性ともなったりした。しかし、たいていは相互扶助として機能していた。
第六話「師走の客」は、公事宿である鯉屋の客となった滋賀の彦根で金物屋を営む男の話である。行きずりの奉公人の少女の下駄の緒をすげかえてあげている彼を鯉屋の主源十郎が見て、声をかけ、公事宿を探しているというので連れてきたのである。
男は、今は金物屋として成功しているが、昔、喧嘩で遠島の刑を受け、その際に言い交わした女性の行くへを探しているという。女性は火事で死んだと聞いているので、その墓に参りたいと願っていたのである。菊太郎と源十郎は、弟で同心組頭の銕蔵(てつぞう)の助けを借りて、彼女が埋葬されている墓を探そうとする。そして、女性と金物屋の間に子どもが出来ていたことを知り、その子どもが今は駄菓子屋の女将として立派にやっていることを知る。
菊太郎と源十郎は親子の名乗りを上げて子どもの心をかき乱すのではなく、物陰からそっと見守っていくことを勧め、金物屋と一緒に彦根へのお土産を買うという名目で、その駄菓子屋に行き、密かな親子の対面を果たす。しかし、金物屋は昔の喧嘩仲間から恨まれて刺されてしまう。だが命には別状はないというところで終わる。
これらの六話の物語は、それぞれが色彩の異なった別の事件で、それぞれが当時の京都の商人や市井の人々の姿を浮き彫りにして、味わい深いものになっている。主人公の田村菊太郎の鷹揚で何事にもこだわらない、しかし、明敏なところも魅力がある。菊太郎も鯉屋源十郎も悪人を作らない。鯉屋の奉公人たちも気持ちがいい。ただ、それだけに事件の結末があまりにもきれいすぎる気がしないでもない。作者は多作で、問題意識もあって人間と社会のそれぞれの面を取り上げているが、作品の結末は、たいてい、きれいに終わっている。そう思うのは、わたし自身が少しひねくれているからかも知れないと思ったりもする。
今日はいい天気で、夕方、ぶらぶらと散策にでも出てみようと思っている。
2010年8月17日火曜日
澤田ふじ子『聖護院の仇討 足引き寺閻魔帳』
今年の夏は格別暑い日が続いているが、昨日はまた特別暑く、都内では摂氏38度を越えたところも出た。湿気も多く、夜になっても気温が下がることはなかった。今日も同じような猛暑日になって、朝からうんざりする熱気がこもっている。
それでも、昨日のお昼からようやく書斎のエアコンが機能しはじめ、幾分助かっている。だからといって仕事がはかどるわけでは決してないが。
二日ほどかけて澤田ふじ子『聖護院の仇討 足引き寺閻魔帳』(2000年 徳間書店 2003年 徳間文庫)を読んだ。7話からなる短編連作で、分量も多いわけではないが、なんとなく読み進みづらかったのは、登場人物たちの京都弁の饒舌さになじめなかったし、会話の言葉使いに人物の特徴があまり感じられないような気がしたし、勧善懲悪の物語そのものに、いささかうんざりしていたからかも知れない。
「足引き寺」というのは、京都の町の人々が法では裁けない悪人を懲らしめ(悪人の足を引く)、恨みを晴らしてくれる寺があると信じている寺のことで、いわば「仕事人」とか「仕掛け人」という恨みを晴らす人たちの京都版とでもいうものである。
元々、法で裁けないような苦労や悲しみを背負わされた人の恨みを晴らすという発想は池波正太郎の『仕掛け人梅安』があって、映画化もされていたので、澤田ふじ子の『足引き寺閻魔帳』シリーズ(巻末の作品リストによれば3作出されている)の発想が新しいものでは決してない。
もちろん、登場人物たちは、地蔵寺(足引き寺)の住職の宗徳、幼なじみで西町奉行所同心の蓮根左仲、左仲の手下で羅宇屋(煙管屋)の与惣次、女絵師のお琳、そして紀州犬の「豪」の四人と一匹で、それぞれの過去もあるし、特に紀州犬の活躍が光ったりするし、京都らしい風情もあり、たとえば第四話「闇の坂」で、散々苦労してようやく畳職人と夫婦になったのもつかの間、拐かされて枕絵のモデルとしてもてあそばれていた女性を彼らが助け出した後で、夫に顔向けできないような状態にされて去っていこうとする妻に、畳職人の夫が「わしのところにもどってこなんだら、お前はこれから闇の坂を、ずっと転げ落ちていくことになるねんで」(文庫版 170ページ)と呼びかける人情場面も描かれている。
しかし、悪を懲らしめる正義というものを認めないわたしには、足引き寺の仕事人たちが下す「悪」の判断が、悪は悪ではあるが、どこか必然性を欠くように思えてならなかった。「正義」もまた「欲」の一つの形態に過ぎないと思っているからだろう。恨みを晴らすという思いも、個人的にあまり縁がない。「罪のゆるし」の別次元を考えるからかも知れない。一般的に言っても、現象の正悪の判断というのは、どこか底が浅いもののように思えてならない。だからといって正義を行うことに意味がないとは思っていないが。
それにしても、この作品では男性が饒舌なのに比して女性が寡黙で、あまり女性が描かれないのは何故だろう。作品の内容が、恨みを晴らす「仕事人」の物語であり、それが力業で為されるから、老人や子どもや女性を弱者と見立てて、その弱者を助けるという勢いの中で、男性の姿が描かれるのかも知れないが、澤田ふじ子の作品を読むのはこれが初めてだから、彼女の文学傾向を知らないので、何とも言えないところがある。
京都は全くなじみがないというわけではなく、よく京都に出かけていたが、こうして改めて京都弁を読むと、京都弁には人格の特徴が現れないような仕組みになっているのがわかるような気がする。多種多様な人間が住んだ京都では、人格は隠して、うまく人々とつきあっていく方法が言葉で採られたのかも知れないと思ったりもする。
今日は図書館に出かけたいが、この暑さで躊躇している。食料品の買い出しにも出かけなければならないが、さて、どうしたものだろう。とりあえずは、仕事だろう。
それでも、昨日のお昼からようやく書斎のエアコンが機能しはじめ、幾分助かっている。だからといって仕事がはかどるわけでは決してないが。
二日ほどかけて澤田ふじ子『聖護院の仇討 足引き寺閻魔帳』(2000年 徳間書店 2003年 徳間文庫)を読んだ。7話からなる短編連作で、分量も多いわけではないが、なんとなく読み進みづらかったのは、登場人物たちの京都弁の饒舌さになじめなかったし、会話の言葉使いに人物の特徴があまり感じられないような気がしたし、勧善懲悪の物語そのものに、いささかうんざりしていたからかも知れない。
「足引き寺」というのは、京都の町の人々が法では裁けない悪人を懲らしめ(悪人の足を引く)、恨みを晴らしてくれる寺があると信じている寺のことで、いわば「仕事人」とか「仕掛け人」という恨みを晴らす人たちの京都版とでもいうものである。
元々、法で裁けないような苦労や悲しみを背負わされた人の恨みを晴らすという発想は池波正太郎の『仕掛け人梅安』があって、映画化もされていたので、澤田ふじ子の『足引き寺閻魔帳』シリーズ(巻末の作品リストによれば3作出されている)の発想が新しいものでは決してない。
もちろん、登場人物たちは、地蔵寺(足引き寺)の住職の宗徳、幼なじみで西町奉行所同心の蓮根左仲、左仲の手下で羅宇屋(煙管屋)の与惣次、女絵師のお琳、そして紀州犬の「豪」の四人と一匹で、それぞれの過去もあるし、特に紀州犬の活躍が光ったりするし、京都らしい風情もあり、たとえば第四話「闇の坂」で、散々苦労してようやく畳職人と夫婦になったのもつかの間、拐かされて枕絵のモデルとしてもてあそばれていた女性を彼らが助け出した後で、夫に顔向けできないような状態にされて去っていこうとする妻に、畳職人の夫が「わしのところにもどってこなんだら、お前はこれから闇の坂を、ずっと転げ落ちていくことになるねんで」(文庫版 170ページ)と呼びかける人情場面も描かれている。
しかし、悪を懲らしめる正義というものを認めないわたしには、足引き寺の仕事人たちが下す「悪」の判断が、悪は悪ではあるが、どこか必然性を欠くように思えてならなかった。「正義」もまた「欲」の一つの形態に過ぎないと思っているからだろう。恨みを晴らすという思いも、個人的にあまり縁がない。「罪のゆるし」の別次元を考えるからかも知れない。一般的に言っても、現象の正悪の判断というのは、どこか底が浅いもののように思えてならない。だからといって正義を行うことに意味がないとは思っていないが。
それにしても、この作品では男性が饒舌なのに比して女性が寡黙で、あまり女性が描かれないのは何故だろう。作品の内容が、恨みを晴らす「仕事人」の物語であり、それが力業で為されるから、老人や子どもや女性を弱者と見立てて、その弱者を助けるという勢いの中で、男性の姿が描かれるのかも知れないが、澤田ふじ子の作品を読むのはこれが初めてだから、彼女の文学傾向を知らないので、何とも言えないところがある。
京都は全くなじみがないというわけではなく、よく京都に出かけていたが、こうして改めて京都弁を読むと、京都弁には人格の特徴が現れないような仕組みになっているのがわかるような気がする。多種多様な人間が住んだ京都では、人格は隠して、うまく人々とつきあっていく方法が言葉で採られたのかも知れないと思ったりもする。
今日は図書館に出かけたいが、この暑さで躊躇している。食料品の買い出しにも出かけなければならないが、さて、どうしたものだろう。とりあえずは、仕事だろう。
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