寒気が降りてきて、よく晴れてはいるが気温が低い。銀杏の落ち葉がかさこそと乾いた音を立てて風に舞っていく。来月、ニーチェについて話をすることになっていて、彼の著作や日記などを改めて読み直したりしていたが、ニーチェは、その思想はどうであれ、ともかく「自分の頭で考えた人」である。彼の言葉だけがひとり歩きすることに危惧を感じているが、考えて、考えて、とうとう脳みそが爆発した人である。哲学者たちのあまり意味のないニーチェ理解よりも、森鴎外や夏目漱石の理解の方が正しいような気もする。
それはともかく、風野真知雄『菩薩の船 大江戸定年組2』(2006年 二見時代小説文庫)を気楽に読んだ。作者は、今、実に多くのシリーズ物を手がけておられ、いずれも気楽に読める物だが、作者の作品に触れる度に、よくストーリーが混同されないものだと感心したりもする。これも、表題に数字があるようにシリーズ物で、その二作目ということあり、一作目はまだ読んでいないが、『初秋の剣』という作品名になっている。
これは、奉行所同心、旗本、商人というそれぞれ仕事は異なっていても親しい友人三人がそれぞれに隠居した後、金を出し合って風光明媚な隅田川河口近くの深川熊井町に「初秋亭」と名づけた一軒の家を借り、「隠れ家」としてそこでたまに息抜きをしながら、市中のよろず相談のようなことをしていくという設定で、風流といえば風流、優雅といえば優雅であるが、それぞれの家の事情もあったりして「事もなし」というわけにはいかない展開がされていくし、隠居といっても五十代半ばで、まだまだ枯れているわけでもなく、持ち込まれる相談事もなかなか厄介であったりする。
主人公三人のうちの一人は、北町奉行所で定町廻り同心をしていた藤村慎三郎で、息子の康四郎に家督を譲って隠居した。もう一人は、旗本の夏木権之助で、彼も家督を譲って隠居しているが、枯れるどころか、若い芸者の小助を囲って、足繁く通っている。そして、これも若い女房がいる商人の七福屋仁左衛門がいて、彼も隠居しているが、女房との間に子どもが生まれることになる。この三人は、それぞれ三様ではあるが、それぞれにお互いを認め合って協力し、気のいい仲で、もちろん、互いの領域に足を踏み入れるような野暮なことはしない。
さて、物語は、札差(武家の俸禄米を取り扱い、多くは金融業も営んでいた)の女房と薬種問屋の女房が、そろって「初秋亭」を訪ねてきて、主人たちの素行がおかしいのでw真相を探って欲しいという相談を持ち込むところから始まる。
元同心の藤村慎三郎はその依頼を引き受けて、夏木権之助、七福屋仁左衛門の手を借りて真相を探ることにするが、札差と薬種問屋は、戯作者の滝沢馬琴や薩摩藩藩主と思われる人物とつるんで秘密の会合をもっていることがわかり、藩主の秘密を守ろうとする藩士たちに襲われたりもする。
何のことはない。彼らは、赤ん坊のように取り扱われて、おしめを替えてもらったり、おっぱいをしゃぶったり、ハイハイをしたりすることでストレスを発散させていくような趣味の集まりをしていたのである。幼児退行趣向というわけで、船宿の女将が母親役をしていたことが分かっていくのである。
事件そのものは、そうしたアホのような結末なのだが、その間に、七福屋仁左衛門に子どもが出来て、跡目相続争いにならないように苦心したり、夏木権之助が惚れて囲っていた若い芸者の小助が、彼女が可愛がっていた子猫を権之助が誤って押しつぶしたのをきっかけに、年寄りの匂いがするとか言って、さっさと関係を切り、権之助がひどく落ち込んだり、藤村慎三郎が俳句の師匠に秘かに恋心を抱いていたりとか、そうした事柄の顛末がある。
彼らが「初秋亭」を持つきっかけになった彼らの友人で、自害したと言われる事柄の真相を彼らが突きとめるという話も展開されている(第四話 幼なじみ)。
要するに、隠居して風流人を気取ろうとしているが、まだまだ枯れないでいる三人が、よろず相談を受けながらも、好奇心旺盛に様々な事件に関わっていくのである。作者は、この手の人物を描くのがうまいし、密かな恋心を抱いている人物も、いろいろな作品でよく登場する。それがスケベ心ではなく純愛という形をとっているのがいい。人間理解も人物描写もなかなか味わいがあって気楽に読めるところが娯楽作品としていいと思う。