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2012年4月18日水曜日

山本周五郎『彦左衛門外記』


 久しぶりに白い雲と晴れた蒼空を見る思いがする。今年の春はいつまでも寒いが、今日のような日があるとどことなく嬉しくなる。昨日、熊本からツツジが咲き始めたと便りをくださり、もうそんな季節なのだと改めて思ったりした。

 このところ相変わらず仕事が立て込んで気ぜわしい日々なのだが、山本周五郎『彦左衛門外記』(1981年 新潮文庫)を読んでみた。これは、1959年6月から1960年8月まで『労働文化』という雑誌に『御意見番に候』という題で連載され、1960年に『彦左衛門外記』と改題されて講談社から出されたもので、山本周五郎としては異色のユーモア時代小説で、文体もおどけ、作中に作者が登場するなどして、おそらく「反骨」のおかしさを実験的に書いた作品だろうと思う。ユーモアというより滑稽本の類と言った方がよいかもしれない。

 題材は、大久保彦左衛門忠教(ただたか 15601639年)が天下の御意見番として祭り上げられるということを主題にしたものだが、大久保彦左衛門が記して徳川幕府初期の歴史資料ともなっている「三河物語」や、後に鶴屋南北の弟子の河竹黙阿弥(18161983年)が歌舞伎芝居として書いた「大久保彦左衛門と一心太助の物語」などを取り入れながら、虚実をない交ぜて、武勇を誇ったり英雄豪傑を誇ったりしていくことのおかしさを滑稽本として描いたものである。

 大久保彦左衛門は、実際、武骨な人だったと言われ、三河以来からの徳川家康の家臣であり、兄の大久保忠世と甥の忠隣(ただちか)が小田原城主に任じられると3000石を与えられたという。次兄の大久保忠佐は沼津城主になっている。大久保忠隣は小田原城主で、初期の江戸幕府の重臣である。しかし、彼は、徳川家康が最も信頼していたと言われる本多正信、正純親子と対立し、家康の後継者として徳川秀忠を推挙し、やがて二代目将軍徳川秀忠の側近となっていたが、対立の激化と共に大久保長安事件(大久保長安は忠隣の推挙を受けていた)で連座し、加えて豊臣秀頼に内通しているとの誣告を受けて、大御所として権力をふるっていた徳川家康の不興を買って改易させられた。

 この出来事で、大久保彦左衛門も一時改易されたが、家康直臣の旗本として召し出され、家康の死後も秀忠に仕え、三代将軍徳川家光が、家康の苦労話や戦国時代の話を聞くために御伽衆に加え、晩年、その話をまとめて『三河物語』を記したといわれている。功績に対する加増の話はすべて断り、沼津藩主であった次兄の大久保忠佐の嫡男である忠兼が早世した時も、彦左衛門忠教を養子として藩主を継がせようとしたが、「自分の勲功ではない」と固持している。ただ、それによって大久保忠佐の沼津藩は改易された。

 こうしたことから「反骨の武人」として祭り上げられ、たとえば、登城に際して旗本以下の輿が禁止されたのに立腹し、大盥に乗って登城したというエピソードや徳川家光にことあるごとに諫言を行ったなどの逸話が講談の中などで作り上げられていったのである。

 山本周五郎『彦左衛門外記』は、この大久保彦左衛門の血筋で貧乏旗本に養子にいった五橋数馬を主人公にして、彼が大叔父に当たる大久保彦左衛門の戦記をでっちあげ、「天下の御意見番である」との家康の御墨付まで偽造し、それによって貧乏旗本から脱却して何とか世に出ようと企む顛末を描いたのである。基本は英雄のでっちあげ作戦で、それだけでアイロニー(皮肉)に富んだ作品に仕上げているのである。

 もちろん、この五橋数馬は作者の創作上の人物で、腕を磨いて賭け試合をしていたが、その途中で美貌の娘に目を奪われ、その娘が小大名の姫であったことから、大名屋敷の姫のところに忍び込み、相愛の仲になってしまうのである。

 他方、自分が世に出るためにでっち上げた大久保彦左衛門は、そのでっち上げられたものを自らも信じ込んで行動を始め、旗本奴で知られる水野十郎左衛門などの青年旗本たちを扇動し、どたばた劇が進行していく。そして、彼と相愛になった大名家でのお家騒動に絡み、これを解決して、五橋数馬は見事婿養子となっていくというもので、この大名家のお家騒動も深刻なものではなく、馬鹿げたぬるいいもので、お家騒動を企むものも愚かさ極まりない発想をする者として描かれている。

 これは、言うまでもなく、滑稽本である。その滑稽さはとりわけて面白いというわけではないが、武勇を誇ったり武勲となっていたりすることや英雄譚などに対する強烈な風刺である。作品の出来はともかくとして、「人間ちょぼちょぼ」という姿勢が貫かれていて、そういう視点で歴史と人間を見ることは大事だとわたしも思うので、後半になるに従って面白く読めた一冊だった。

 世の中で華々しく活躍することやそういう人に一切関心はなく、世間の評判というものもあまり意味がないと思っているわたしにとっては、「こういう茶化し方も一理あるなあ」と思いながら読んでいて、S.キルケゴールほど深刻ではないが、「人間はアイロニー」と思ったりもした。

2012年2月27日月曜日

山本周五郎『新潮記』

再び寒さが戻ってきて、今週は水曜日頃まで寒いらしい。雲が薄く広がっている。植物に水をやり、いくつか片づけなければならない物をぼんやり眺めたりしていた。

 週末から日曜日の夜にかけて、山本周五郎『新潮記』(1985年 新潮文庫)を読んだので記しておく。本書の巻末に収められている奥野健夫の「解説」によれば、本書は、昭和18年(1943年)に北海タイムス(現:北海道新聞)に連載された小説で、作者40歳の時の作品となる。太平洋戦争の末期で、戦後も作者は生前にこの作品の刊行を許可しなかったそうで、奥野健夫はその理由を文学上の問題としてあげているが、わたしはむしろ、この作品の中に描かれている勤王思想と皇国思想に、戦後の山本周五郎が自戒的なものを感じていたのではないかと思っている。

 本書は、幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた藤田東湖が水戸に在住しているところが描かれているので、嘉永3年(1850年)頃の時代を背景として、その中で自らの生き方を求めていく青年武士の姿を描いたものである。ちょうど、古いものと新しいものが相克している時代で、その意味で、新しい流れとして『新潮記』という表題がつけられているのだろう。

 本書の主人公は、水戸の徳川家と姻戚関係などで親密であった讃岐の高松藩松平家の藩士で、高松藩の中で尊皇攘夷思想の中心的人物である校川宗兵衛の妾腹の子である早水秀之進という青年である。彼は、学業も優秀で、剣の腕も藩内で並ぶ者がないほど優れていたが、自分が庶子(妾腹の子)で、父親からも捨てられたのではないかと思い、何事にも冷ややかで、人を突き放してしまうようなところのある青年だった。

 だが、その彼の優れたところを見抜き、行動を共にするのが、藩内尊王攘夷派を経済的に支えた豪商「太橋家」の次男の太橋大助で、大助自身も優秀であり、また、困った人を助けずにはおれないような人情家であった。この二人がそれぞれに自分の人生を模索していく姿が描き出されているのである。

 水戸徳川家と高松藩松平家は、養子を交換するなどしてきて特別に親密であったが、高松藩松平家の頼胤(よりたね)が幕府の重臣となり、叔父であった水戸の徳川斉昭の引退を計らねばならなくなり(「申辰の事」と呼ばれる)、両家に齟齬が生じてしまったのである。水戸の徳川斉昭に信服し、国許で隠棲している頼胤の兄の頼該(よりかね)は、高松藩松平家と弟の頼胤のことを思いやってなんとか水戸藩と高松藩の間を取りもとうと斉昭のもとに書を送りたいと願い、その密使として早水秀之進を選んで送り出すのである。

 早水秀之進と太橋大助は水戸に向かう途中で、突然、山開き前の嵐の富士山に登ることにし、そこで尊皇攘夷思想を持って脱藩し、瀕死の状態になった兄と彼を看病している藤尾という娘と出会うところから物語が始まっていくのである。厳寒の富士への登山というのが、いわば、主人公たちのこれからの歩みの象徴でもあるだろう。冷徹な早水秀之進は登山の後もさっさと下山していくが、人情家の太橋大助は、その兄妹が気になり、結局、瀕死だった兄の死を看取り、妹を連れて江戸まで向かう。そして、知り合いの人情本作家である竹亭寒笑や彼が引き取っている元名妓の梅八などに彼女を託して世話をしていくのである。

 だが、早水秀之進は、江戸で実父の校川宗兵衛と会うが、激烈な尊皇攘夷思想の持ち主である校川宗兵衛と親子の情を交わすこともできずに、迷いの中に置かれ、校川宗兵衛の手紙をもらって水戸の藤田東湖を尋ねるのである。ただ、江戸屋敷に泊まった夜、深夜に「ゆるせ」という校川宗兵衛の言葉を部屋越しに聞くのである。

 途中で、頼該の意を阻止しようとする刺客との死闘などもあったが、水戸で藤田東湖に出会った早水秀之進は、東湖の人柄に深く感銘を受ける。思想よりもむしろその人柄に感銘を受け、水戸の時代は終わり、新しい時代の潮流の中に身を置いていくことを決心していくのである。そして、身寄りのない藤尾と結婚し、ひとりの無名の人間として新しい時代の幕開けを志そうとする。

 本書の大筋は、こんなところである。ただ、皇国思想を真正面から取り上げているだけに、主人公や東湖などの登場人物たちの思想(考え)が長饒舌で述べられたり、純粋さということではうなずけるのだが、その思想もいささか「青臭い」ところがあったりして、必ずしも物語の展開が十分な形で昇華されていないところも感じた。

 しかし、描写は抜群で、いくつか抜き書きしておこう。

 まず、主人公が北浦の海岸で海を望んだとき、「この大洋のかなたに亜米利加あり」を実感した時の海の描写が次のように記されている。

 「吹きわたって来る風は海の青に染まっているかと思われ、むせるほども潮の香に満ちていた。眼もとどかぬ沖のかなたで盛りあがる波は、運命のようにじりじりと、高く低くたゆたいつつ寄せて来る。そして磯の近くまで来るとにわかに逞しく肩を揺りあげ、まるで蹲(しゃが)んでいたものが起ちあがりでもするようにぐっと頭を擡(もた)げるとみるや、颯(さっ)と白い飛沫(しぶき)をあげて崩れたち、右へ左へとその飛沫の線を延ばしながら歓声をあげて水面を叩き、揺れあい押しあいつつ眩しいほど雪白の泡となって汀を掩(おお)う・・・これらはすべて或る諧調をもっていた。旋律のない壮大な音楽ともいえよう、いや旋律さえ無いとはいえない。耳でこそ聞きわけられないが感覚には訴えてくる。ただその音色が現実的に説明しがたいだけだ。・・・」(本書 85ページ)

 この海の表現は、激動していく時代の波をかぶる青年の心情でもあるだろう。擬人法の表現は、それを示唆する。かすかに感じ取られる波の旋律。それを主人公が聞いていくということがこの描写には込められていて、こういう情景描写は驚嘆に値する。

 次に、藤田東湖が詠んだ「瓢兮歌(ひさごのうた)」という詩が次のように記されて、藤田東湖という人間の人物像を浮かび上がらせるものになっている。

 「瓢兮瓢兮吾れ汝を愛す/汝能く酒を愛して天に愧(は)ぢず/消息盈虚(えいきょ)時と与(とも)に移る/酒ある時跪座(きざ)し酒なき時顚(ころ)ぶ/汝の跪座(きざ)する時吾れ未だ酔はず/汝まさに顚(ころ)ばんとする時吾れ眠らんと欲す/一酔一眠吾が事足る/地上の窮通何処の辺」(114ページ)

 そして、「一酔一眠吾が事足る/地上の窮通何処の辺」におおらかに生きる東湖の姿を見るのである。

 また、江戸の「粋」といわれる文化に触れて、かつて名妓といわれた梅八の姿を借りて、次のように語られている。

 「梅八は江戸文化の爛熟末期から衰退期にかけて、その文化がもっとも端的に集約される世界で生きてきた。現実を無視することを誇り、ものごとの正常さを蔑み、虚栄と衒気(げんき)と詠嘆とを命としてきた。はかなさ、脆さ、弱さ、そういうものにもっとも美を感じ、風流洒落のほかに生活はないと思ってきた」(本書122ページ)

 そして、この梅八が自らの命さえかけて生き抜こうとする藤尾の姿に打たれて、実のある生活へと向かおうとするのである。名妓と言われて浮世を生きてきた梅八もまた、時代の潮の中で自ら考える女性となっていくのである。こういう明確な文化理解には、もちろん、異論もあるが、作品の中ではこれが生きている。そういう表現の巧みさを、わたしはここに感じた。

 あと一箇所、山本周五郎が作家として自らの足場を固めたと思われる箇所が、主人公の新しい潮流を生きようとする姿勢で語られている場面がある。早水秀之進が親友の太橋大助に自らの考えを語る場面である。

 「歴史の変転は少なくなかったが、概して最大多数の国民とは無関係なところで行われた。平氏が天下を取ろうと、源氏が政権を握ろうと、農夫町民に及ぼす影響はいつも極めて些少だった。云ってみれば、平氏になっても衣食住が豊かになる訳ではないし、源氏になったから飢えるということもない。合戦は常に武士と武士との問題だし、城郭の攻防になれば土着の民は立退いてしまう。戦火が収まれば帰って来てああこんどは源氏の大将かといった具合なんだ。・・・いいか、この二つの上に豊富な自然の美がある。春の花、秋の紅葉、、雪見や、枯野や、蛍狩り、時雨、霧や霞、四季それぞれの美しい変化、山なみの幽遠なすがた。水の清さ、これらは貧富の差別なく誰にでも観賞することができる。夏の暑さも冬の寒気も、木と泥と竹や紙で造った簡易な住居で充分に凌げる・・・こういう経済地理と政治条件の下では、どうしても宗教に救いを求めなければならないという状態は有り得ないんだ」(221-222ページ)

 という一文である。ここで使われている「最大多数の国民」とか「経済地理」、「政治条件」という概念などは、もちろん、江戸期の概念ではないし、論理も「青臭さ」が残るものであるが、言い回しの妙がある。そして、貧富の差なく豊かさを感じることができるものというところに作者の視点は向かっていく。そして、おそらくこれが当時の作者のむき出しの考えだったのだろうと思われるのである。わたしは、ここで語られている思想の内容とは別に、自分の心情を素朴に露吐する作者の姿勢を感じるわけで、こうした素朴さが、後に市井の人々を描き出す重要な視点になっているだろうと思えたのである。

 また、小説の作法として、主人公を実際の歴史の中で動かしていくという方法が採られて、これもまた、昭和18年(1843年)の時点での画期的な方法だったのではないだろうか。個人的な考えを述べれば、わたしは日本には国家論は似合わない気がしているので、国家論が語られるときは政治や社会に歪みが生じたときのように思う。その意味では、これは歪んだ時代の中で書かれた小説ではあると思う。

2012年1月14日土曜日

山本周五郎『町奉行日記』

この2~3日、都内での会議のために早朝から出かけなければならず、PCを開くことができずにいたので、読書ノートを記すこともできなかったが、ようやく解放されて、ほっとしている。寒さが一段と厳しくなり、「この冬一番」が続いている。

 この間、少し時間をかけて山本周五郎『町奉行日記』(1979年 新潮文庫)を読んだ。本書は、第二次世界大戦に突入する前夜ともいうべき1940年(昭和15年)に書かれた「土佐の国柱」から、1945年(昭和20年)の「晩秋」、1947年(昭和22年)の「金五十両」、1949年(昭和24年)の「落ち梅記」、1950年(昭和25年)の「寒橋」、1952年(昭和27年)の「わたくしです物語」、1953年(昭和28年)の「修業綺譚」、1957年(昭和32年)の「法師川八景」、1959年(昭和34年)の「町奉行日記」、1960年(昭和35年)の「霜柱」までの十編の短編が収められた短編集である。

 このうち、「晩秋」と「金五十両」は、『山本周五郎中短編秀作選集2 惑う』(2005年 小学館)に収められており、「寒橋」は、『山本周五郎中短編秀作選集4 結ぶ』に収められていて、すでに読んでいた。ほかにもいくつかは以前読んだような記憶があるのだが、はっきりしないので、改めてここに記しておくことにする。

 第一話「土佐の国柱」は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して土佐藩主となった山内一豊(1545-1605年)の死に臨んで、辛苦を共にしてきた老職の高閑斧兵衛(こうがおのべい)という人物の自らを空しくして土佐藩の安定のために忠義を尽くした姿を描いたものである。

 土佐藩主となった山内一豊は、その死に際して殉死を禁じたが、ただひとり忠義の士であった高閑斧兵衛だけは、三年後という期限つきでそれを許された。土佐では、旧主であった長曽我部氏の遺徳を慕う風潮が強く残っており、外来の山内家との確執が根強く残っていた。土佐が真実に統一されないことを憂えて山内一豊が亡くなったことで、高閑釜兵衛は、一豊死後に領民たちの抵抗を抑えるために寛容にしてきたが、効果があがらず、藩内でも彼の寛容さに対しての非難の声が上がったりし始めるのである。特に藩内の若手の武士たちは、高閑斧兵衛に対する反発を強めていた。

 斧兵衛の隣家の池藤小弥太も、斧兵衛の娘を嫁にしたいと思っていたし、斧兵衛を尊敬していたが、その若手の武士たちの反発に巻き込まれていく。そんな中で、斧兵衛は、ついに考えを巡らせて反山内派の豪族たちなどを集め、山内家に対する反旗を翻そうと山砦に立て籠もる。だが、その計画が発覚し、立て籠もり之一味は滅ぼされ、斧兵衛も池藤小弥太に討たれてしまう。

 斧兵衛が山内家に反抗する豪族たちを集めて、叛旗を翻らせたのは、亡き山内一豊と約束した三年後の期日が迫り、反山内派を一掃するための最後の苦肉の手段として計画したもので、そこで自らを空しくして土佐藩の統一を図り、約束通り三年後に死を迎えるためだったのである。

 あえて自らを汚辱にまみれさせて、空しくし、それによって藩の統一という主君との約束を果たそうとする姿が、こういう形で描かれるのである。

 この作品は戦前に書かれてもので、そうした時代背景はあるが、たとえば、内心の充実と世間の評判や評価というもののかけ離れた姿を読み取ることができる。自らの矜持を守り、それが世間的には汚辱にまみれたものであったとしても、粛々と内心の充実を図っていく。そういう人間の姿として改めて読んだりすることができる。そして、こういう姿は、今も大きな意味があると思っている。

 第二話「晩秋」と第三話「金五十両」については、すでに記しているので、第四話「落ち梅記」について記しておこう。

 これも自分を空しくして他者の幸いを願う人間の物語で、ここでは「愛」が大きなテーマになっている。幼馴染みで周囲からも認められていた愛する女性が、自分の友人と結婚するという事態に立ち入り、その女性の幸せを願って自分を犠牲にして愛する者のために友人の出世を図っていく男の物語である。

 藩の家老の息子であった沢渡金之助は、一人息子として愛情豊かに平和なうちに育てられ、温厚で学問もでき、学友の公郷半三郎とは藩主の継子の学友としても親しくしていた。友人の公郷半三郎は藩校の助教を務めていたが、朱子学以外の学問が強く禁じられた時代の中で陽明学などの古学や老子を教えたために罷免され、それ以来身を持ち崩して酒と賭博に明け暮れ、方々から借金をする生活をしていた。

 そういう半三郎を案じていた中で、明るく闊達な由利江が突然、半三郎のところに嫁ぐと言い出す。金之助は由利江を愛していたし、周囲もそれを認め、由利江も金之助の嫁になるものばかりと思っていたが、半三郎の妹に兄を立ち直らせてほしいとせがまれ、断り切れなくなって半三郎を支えるために嫁に行くというのである。

 金之助は愕然とするが、自分の想いを押し殺して、それを黙って受け入れる。ここで記されている女性の言葉は残酷で、由利江は「これまでどおり、あなただけは公郷さまの支えになってあげて頂きたいんですの。・・・わたくしできるだけのことは尽くすつもりでございますから、どうぞあなたもお変わりなく力をかしてあげて下さいまし」(127ページ)と、金之助の想いを知りつつも言うのである。女性には、ときおり、こういう残酷さがあるのは事実で、言われた男性は何ともやりきれない思いをもつものである。

 こういう中で家老をしていた金之助の父が倒れ、死を迎える。父は、藩政の中で何か重要な秘事を守っていたらしく、藩主の交代の際に、これまでの老臣たちが藩の産物を使って私腹を肥やしていたことが明らかになっていく。しかも、それを画策していたのが金之助の父親だというのである。

 だが、実際は、老臣たちが私腹を肥やすのに金之助の父親の名前が利用されただけで、父親はそのことの証拠を金之助に託していた。老臣たちは捕らえられ裁きを受けることとなり、金之助も同じように裁きを受ける立場となり、金之助は父親が残した証拠を差し出し、自分を裁く者として公郷半三郎を推挙するのである。金之助は粛々とその裁きを受け、改易されて禁固の刑を受ける。

 そして、金之助の推挙によって良い働きをした公郷半三郎は金之助に代わり次席家老となって金之助の裁きに当たっていくのである。金之助はただただ由利江の幸せを願って静かに半三郎の裁きを待つ。

 この物語は、ある意味で美しい物語である。由利江のような女性はいるかも知れないが、金之助のような男はめったにいないだろう。だが、決して非現実的な話ではなく、人の愛情の深さが滲むような話で、身を引いて孤独のうちに粛々と裁きを受けようとする姿は、深い愛情をもつ現実の人間の姿ではないだろうか。

 第五話「寒橋」は割愛して、第六話「わたくしです物語」も、人の過ちのすべてを「それはわたくしです」といって引き受け、しかも気負うことなく爽快に引き受けていく人間の物語で、登場人物の名前が、たとえば、「与瀬弥市-よせやい」とか「沢駒太郎-さあ、こまったろう」とかで付けられて遊び心のある作品であるが、人の過ちを引き受け、そうしている人間であることを周囲の人もわかっていくという展開がされている。

 人の過ちを黙って引き受けても、周囲も引き受けられた人間もわからないで、それを黙々と背負いながら生きていくのが現実であるから、こういう物語は、どこかほっとする気がする。

 第七話「修業綺譚」は、家中でも屈指の武芸の達人でありながら、いたずら心があり、どこか傲慢になっていた河津小弥太が、許嫁の伊勢の計らいで傲慢さを打ち砕かれて、忍耐と人の優しさを取り戻していく物語で、許嫁の伊勢は出入りの炭焼き爺さんを武芸の名人一無斎に仕立て上げ、一無斎が小弥太をさんざんこき使い、様々な苦しみを味あわせていくのである。そして、その中で、小弥太は次第に傲慢さが取れて忍耐を身につけていくというものである。ユーモラスに「我慢」の大切さが語られている。

 第八話「法師川八景」は、おそらく山形県に流れる法師川流域を背景としたものであろう。「つぢ」という娘が放蕩者と噂されていた久野豊四郎と愛し合い、子どもができるが、豊四郎は、「親に打ち明ける」と話した三日後に馬乗りをしていて馬に蹴られて呆気なく死んでしまう。

 「つぢ」は、久野家に行くが、豊四郎が放蕩者であったために認められずに、ひとりで子を産むことになる。「つぢ」には許嫁がいたのだが、豊四郎と愛し合ったために破談となり、彼女は「自分たちの愛情は真実のものだ」と毅然とした生き方をするのである。元許嫁は、そんな「つぢ」のためにあれこれと思いやりを見せるし、実は、豊四郎の両親から依頼されて子どもの成長を見守っていたのである。やがて、「つぢ」の毅然とした生き方を知った久野家から正式に「つぢ」と子を引き取りたいとの申し出があり、久野家の両親の心情が打ち明けられる。明白には記されないが、久野家で引き取った後に、自分を案じてくれていた元許嫁に嫁ぐであろうことが暗示され、自分の愛情の真実さを毅然と守りながら生きる「つぢ」と、それを認めて行く周囲の温かさがにじみ出ている作品である。

 第九話「町奉行日記」は、なかなか凝った試みが為されている作品で、「新任町奉行はまだ着任しない」とか「町奉行望月小平太どのはいまだに出仕されない」とかいった町奉行所の記録を挟みながら、藩の悪所の一掃と、その悪所によって長年私腹を肥やしていた重臣たちの一掃を、形に拘らずに自由に行っていく新任の町奉行の姿を描いたものである。

 彼が一度も町奉行所に出仕せずに(奉行としての仕事をせずに)、藩の悪癖を一掃していく放蕩ぶりが面白おかしく描かれている。

 第十話「霜柱」は、国許に赴任して来た若い次永喜兵衛にひどく厳しく接する老職の繁野兵庫の父親としての苦悩を描いたものである。繁野兵庫には身を持ち崩した不詳の息子がいて、この息子が父親の名を借りて好き放題をし、ついには次永兵衛を強請って金を奪い取ろうとするのである。

 兵衛は、このままではいけないと思い、どうにもならない兵庫の不詳の息子との対決を決心するが、その時に、父親である兵庫が息子を斬り捨てて来る姿に出会うのである。妥協しないで筋を通しながらも、息子を憐れむ父親の姿が、霜柱を践む音に合わせて描かれている。

 山本周五郎の短編には、内面の筋の通った人間を描く作品が多くあるが、この短編集には、そうした人物の喜怒哀楽が収められていて、じっくりと読めばさらに味わいが深い作品だと、改めて思う。いくつかの新しい小説の試みが必ずしも成功しているわけではないが、彼の作品は今の時代小説の胚芽のようなもので、ここから多くの芽が出て花が咲いたのが今の歴史・時代小説であるだろう。この作家の優れた視点を改めて感じた短編集だった。

2011年9月30日金曜日

山本周五郎「ちいさこべ」

 今日は少し雲もかかっているが、このところずっと秋らしい穏やかな天気が続き、嬉しい限りである。過ごしやすい天気だと心も穏やかになる。明日から仕事も少し立て込むのだが、穏やかなままで乗り切れればいいと思ったりする。

 先日から読んでいた山本周五郎『ちいさこべ』(1974年 新潮文庫)を昨夜遅く読み終えたので記しておこう。文庫本初版は37年も前に発行されているが、今の時代小説とは異なって文学的にも思想的にも作者の挑戦のようなところがある中編集で、文学がまだ思想を語り得た頃の息吹を感じたりした。

 この『ちいさこべ』には、表題作の他に、「花筵」(1948年)、「ちくしょう谷」(1959年)、「へちまの木」(1966年)の四編が収録され、表題作の「ちいさこべ」は、先に読んだ『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』(2006年 小学館)に収録されていたので、ここでは割愛する。

 「花筵」は、恵まれた藩の重職の家庭に育った「お市」という女性の数奇な運命を描いたものである。「お市」は、藩政改革を志す心優しい夫に嫁ぎ、身重となって婚家や夫の愛情を感じながら日々の生活を送っていたが、夫が志した藩政改革が頓挫し、夫の行くへがわからなくなという事態に陥る。彼女は、婚家の義母や義弟とともに藩の捕縛を逃れ、その近郊の農家で筵に花模様などを入れる花筵を工夫して制作したりしていく。だが、洪水に見舞われて、義母を助けるために愛児を失うというつらい経験をしなければならなかった。しかし、どこまでもひたむきに夫を信じ、義母との暮らしを立て直し、夫が残していた藩の重職の不正を記した書物を、彼女が作製した花筵のおかげで藩主とのお目通りがかなうようになり、身を挺して藩主に届け、それによって藩政の風向きが変わり、夫が生きて復帰できることがわかり、信じ続けた夫との再会が果たされていくのである。

 日本の女性の健気でひたむきな姿を描き続けた山本周五郎の『婦道記』の流れの中にある中編であるが、「お市」が洪水で愛児を失う姿が、「山が焼ければ親鳥や逃げる.身ほど可愛いものはない」という人間の自己保身の業のようなものを背負う姿として描かれたり、彼女に想いを寄せる男が登場したりして、「お市」が決して単純に夫を信じ、ひたむきに生きるだけではないことが描き出されている。だが、そういう中でこそ「お市」の夫や義母などの愛情に自己を確立して健気に生きる姿が光っていくのである。

 これは、長編の要素をいくつかもち、ある意味であっさりと流されているところを膨らませればもっと深みのある作品になったのではないかと思ったりした。

 「ちくしょう谷」も、どこまで人は自分に悪を働いた人間をゆるせるのか、人間の救いとは何かという思想の深みに意識的に挑戦した作品で、あまりに主人公が理想的な人間として描かれすぎて、文学作品として成功しているとは言いがたいものがあるが、山本周五郎がこういう作品を書こうとした意図はよくわかるような作品だった。

 若い頃は短気な暴れん坊だった朝田隼人は、江戸での剣術の修行中に、勘定奉行を務めていた兄が果たし合いで殺されるという事件に遭遇し、兄が公金を使い込んでいたという理由で朝田家の家禄が半減され、国元に返されることになる。だが、兄の死には謎が残り、生前の兄から送られてきた書簡で、隼人はその真相を知っている。

 しかし、彼は若い頃の面影が一切消え去り、人と決して争わない温厚な人物となって戻ってきていた。兄は無実のまま殺されていたが、彼は真相を暴露して仇を討つこともせず、優しい深い眼差しで周囲を見るだけである。彼は、力や正義で生きることが人の幸せをもたらさないことを知っている。どこまでのひたすら優しく生きようとする。

 そんな彼が、藩の犯罪者を隔離した「ちくしょう谷」と呼ばれる所があることを知り、その「ちくしょう谷」と呼ばれて隔離され、人々から軽蔑されている人々を何とかしたいと願って「ちくしょう谷」のある山中の木戸番頭として赴くことを願いである。その木戸番には、自らの公金の使い込みを隠蔽しようとして兄を忙殺した男もおり、その男から度々命を狙われるが、隼人は一切争うことも男の罪を暴くこともせずに、ただ「ちくしょう谷」に暮らす人々を何とか教育して、人間らしい暮らしを取り戻させようとしていくのである。「ちくしょう谷」に暮らす人々は、ただ自らの食欲と性欲の欲望のままに生きている人たちであった。

 朝田隼人の努力は、なかなか実らない。特に「ちくしょう谷」の人々の性欲はすさまじく、これを理性で押さえることは不可能に思える。そういう中で、木戸番と城下を結ぶ谷の道が壊れ、その修復作業をすることになる。兄を忙殺した人間は、これを機として隼人の命を狙い、失敗して谷底に落ちようとする。朝田隼人はすべてを知っていながら、自分の命を狙った男を憐れに思い、これを助け、その罪のすべてをゆるしていくのである。

 朝田隼人の努力は実らず、かれは「ゆるす人間」として穏やかさを保ちながら生きていくが、「人が何を為したかではなく、何を為そうとしたか」で人を量ろうとする山本周五郎の人間観が集約されていると言ってもいいかもしれない。しかし、それは美しすぎる。

 「ゆるす」ということについて語ることができるとすれば、人は自分に加えられた悪が本当にひどいときには、その悪をゆるすことはできない。ただ、ゆるそうとする精神の努力があるだけであり、その努力が人の精神を高みに引き上げるだけである。

 「ちくしょう谷」という閉鎖され、疎外された世界を背景にして人間の業や罪を描き出す試みは、優れて社会と時代感覚のある試みとなっているが、文学作品として少しもったいない作品になっている気がしないでもない。

 「へちまの木」は、山本周五郎が62歳の時の作品で、急逝する一年前の作品だが、旗本の三男として生まれ、武家の生活から抜け出そうとして、いかがわしい瓦版屋で働きながら、世の中の人々の生態を知っていく青年の話で、「人はすべて迷子ではないか」という青年の実感が込められている作品である。青年は武家の生活が嫌になり、かといって市中で暮らすこともうまくいかず、結局、彷徨していくことになるが、迷子は同時に求める者であり、落ち着き場のないままに放浪するのが人生かも知れないという作者の若干の疲労感が伝わってくるような作品だった。

 山本周五郎の作品には、どの作品でも感じるのだが、作者の実存の反映のようなものがあり、思想的に苦慮しながら作品を生み出していった苦労がにじみ出ている。その意味で、彼の作品は文芸ではなく文学作品と呼べるだろう。彼はとことん優しく、その優しさ故にする苦労をよく知っている作家であるに違いない。

2011年9月15日木曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集5 発つ』(2)

 蒼空が広がって、日中は真夏並みの暑さだが、朝夕はそこはかとない風に秋の気配を感じ、夜ともなれば虫の声がしきりにする。窓を開け放って、虫たちの恋の羽音を聞いたりすると、「あわれ秋風よ 情(こころ)あらば伝えてよ-男ありて 今日の夕餉にひとりさんまを食ひて 思ひにふけると」いう佐藤春夫の『秋刀魚(さんま)の歌』を思い起こしたり、「秋の日の ヴィオロンの ためいきの ひたぶるに 身にしみて うら悲し」というヴェルレーヌの『落葉』を思い起こしたりする。

 特に、佐藤春夫の『秋刀魚の歌』の終わり、「さんま、さんま、さんま苦いか、塩つぱいか。そが上に熱き涙をしたたらせ さんまを食ふは いづこの里のならひぞや」の言葉を口にすると、泣けて泣けて仕方がなくなる。

 閑話休題。山本周五郎中短編秀作選集5 発つ』(2006年 小学館)の続きであるが、「鵜(う)」は、謹慎を命じられて江戸から国元へ送られて釣りばかりして日を過ごしている布施半三郎が、ひとけのない岩場で釣りをしていた時に、川で泳いでいる不思議な女性と出会い、彼女への想いを募らせていくが、女性は事情を抱えており、彼との約束をしたまま暴れ馬に蹴られて死んでしまい、半三郎はいつまでの彼女との約束を思って切ない日々を過ごしていくという話である。愛する者を待つことの切なさと、意を決して新しい歩みへ飛び出そうとした時に死んでしまう女性の不運が「愛のすれ違い」という現実に起こりうることの中で描かれている。

 「水たたき」は、お互いに深い愛情を持っている夫婦が、ふとしたことで危機を迎えていくが、それぞれの想いを知り、再び深く結ばれていく話である。料理人の辰造は、同業の料理屋で女中をしていた「おうら」に惚れ、所帯を持った。「おうら」は実に素直で可愛い女性で、「水すまし」のことを水の上でくるくる廻っているから「水まわし」とか、水をならしているようだから「水ならし」とか、「水たたき」とか言って、周囲に笑われても、顔を赤らめてみんなと笑うような、天性の明るさをもった女性だった。辰造は、そんな「おうら」にべた惚れだし、「おうら」も、「うちの人のためなら何でもしてあげたいし、うちの人のためならどんなことだってするわ、ほんとよ」(301ページ)というくらい惚れている。

 辰造は、若い頃に放蕩の限りを尽くし、「死んでしまえば一切がおしまいだ。生きているうちにできるだけの事を経験し、味わい、楽しむのが本当だ」(289ページ)と思い、「おうら」にも浮気ぐらいしてみたらどうだと言ってしまう。

 辰造が言うことは何でもしてあげたいと思っている「おうら」は、辰造が何度もそのことを言うので、辰造の弟子の徳次郎のところにいくが、どうしてもできない。「おうら」はその日から帰ってこず、辰造は、「おうら」が徳次郎とできて出奔したと思い込み、自分が馬鹿なことをしでかしたと気も狂わんばかりになって、人とのつきあいも絶って気難しい料理人としての日々を2年あまり続けていくのである。

 だが、彼が唯一気安くつきあうようになった浪人の勧めで、徳次郎のもとを尋ね、「おうら」が浮気などせずに行くへ不明になっていることを知り、行くへを探す。「おうら」は、徳次郎の処へ行った後で、自分を恥じて川に身を投げ、助けられたが病んで2年余の月日を叔母のところで伏せっていたのである。辰造は病床の「おうら」を迎えにいく。その描写が絶妙で、「おうら」という女性を真に素晴らしく描き出すものになっているので、以下に記しておこう。

 「『叔母さん』という声が唐紙の向こうで聞こえた。「―誰か来ているの」
 いせ(叔母さん)は『ああ』とあいまいに答えた。
 辰造はいせを押しのけるようにしてあがり、そっちへいって唐紙をあけた。家具らしい物もなく、四隅になにかつくねたままの、うす暗い、病人臭い六帖の壁よりに、薄い継ぎはぎだらけの蒲団を掛けて、おうらが仰向けに寝ていた。・・・・・・
 『あら、あんただったの』とおうらは微笑しながら云った、『あたしいま、誰かしらなあって思っていたのよ』
 『おうら』と辰造の喉で声がつかえた。
 『とんまなことしちゃったの』とおうらは云った、
 『自分でもあいそがつきたわ、どうしてこんななんでしょ、―でも叱らないでね、あたし大川で、水たたき飲んじゃったのよ』
 辰造は『おうら』と云いながら、乱暴に枕元へ坐った。
 するとおうらが手を伸ばし、彼はそれを両手でつかんだ。
 『水たたきって云うと、叔母さんは笑うのよ、違うんですって』と云いながら、おうらは急に寝返って、辰造の手へ顔を押しつけて泣きだした、『でも、水たたきでいいんだわねぇ、あんた』
 『そうだ』と辰造が喉で云った、『そうだよ』
 おうらは身をふるわせて泣き、爪のくいこむほど強く、辰造の手を握りしめた。
 ―堪忍しろおうら、と辰造は心の中で云った。そしてうちへ帰ろう。」(305-306ページ)

 この一場面に、山本周五郎が描く人間の美しさがすべてあるような気がする。描写と心情の描き方が絶妙で、生きているのが嬉しくなってくるような物語である。

 こういう「おうら」のような最も愛すべき女性の姿は、この選集の2巻目『惑う』に収められている「おたふく」、「妹の縁談」、「湯治」の三連作に登場する天真爛漫な「おしず」という女性でも描かれ、数多くの女性像の中で、わたしが最も気に入っている女性像である。わたしにとってもであるが、山本周五郎にとっても、こういう「おうら」や「おしず」のような女性は宝物のような存在だったに違いないとさえ思う。

 「将監さまの細道」は、岡場所の娼婦に身を落としながらも、どうしようもない男と離れることができない女性の姿を描いたもので、人の愛情の悲しい性(さが)が描き出されている。

 「枡落とし」も、人の愛情の悲しい性(さが)に縛られる女性が描き出されるが、こちらは娘と相愛になった職人によって助けられていく話が展開されている。「枡おとし」は、1967年の作品で山本周五郎の最後の短編である。この年の2月に、山本周五郎は仕事場で死去している。

 小学館から出されているこの選集は、この5巻で終わり、巻末に略年譜が収められて、山本周五郎の全作品が年代ごとに一覧として載せられており、多くの作品を残したことが一瞥できるようになっている。

 この選集は、作者の息吹のようなものが感じられる編集となっており、個人的に、この時期にこういう選集で改めて山本周五郎の作品を読んだことに特別の感慨がある。昔、もうずいぶん前に、論理ではなく情で生きようと決め、薄い情ばかりで今日に至っているが、人の温かさを直接的に描く山本周五郎の作品は、見る人には見え、わかる人にはわかるということを深く味わわせてくれるものだった。

2011年9月13日火曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集5 発つ』(1)

 昨日は仲秋の名月で、冴え冴えとした妖しく美しい月が東の空で輝くのを眺めながら、いろいろなことを考えたりした。まことに「月見る月」だった。満月の下でゆっくりと時を過ごす。それはわたしにとっては至福の時間である。

 さて、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集 4 結ぶ』は、夏の間に読んだのだが、ここに記すことができずに図書館に返却したので、ここに収められていた書名だけを記しておくことにして、『山本周五郎中短編秀作選集5 発つ』(2006年 小学館)を読んでいるので、そのことについて記しておきたい。

 『山本周五郎中短編秀作選集4 結ぶ』に収められていたのは、「初霜」、「むかしも今も」、「おれの女房」、「寒橋」、「夕霞の中」、「秋の駕籠」、「凌霄花(のうぜんかずら)」、「四日のあやめ」、「かあちゃん」、「並木河岸」、「おさん」、「ひとごろし」で、いずれも懸命に生きていこうとする人々を描いた作品だった。

 『山本周五郎中短編秀作選集5 発つ』に収められているのは、「野分」、「契りきぬ」、「はたし状」、「雨あがる」、「よじょう」、「四人囃し」、「扇野」、「三十ふり袖」、「鵜(う)」、「水たたき」、「将監さまの細みち」、「枡落し」の十二編である。

 「野分」は、出羽国新庄藩の大名の妾腹の子として生まれた又三郎が料理茶屋で働く「お紋」とその老いた祖父と知り合い、跡目相続の争いに巻き込まれながらも、侍を捨てて「お紋」と暮らそうとする話で、やむを得ずに後目を継がざるを得なくなる状況の変化で、「お紋」との別れや「お紋」の祖父の思い、「お紋」の一筋に又三郎を慕う想いなどが描かれた作品である。

 「契りきぬ」は、家族を失って娼婦とならざるを得なくなった女性が、堅物の北原精之助を落とせば自由の身になれるという賭けに乗って、策略を巡らせて精之助に近づき、精之助の家にうまく潜り込んでいくが、次第に本気で惹かれていき、精之助の大きく包みこんでいくような愛に触れ、苦悶の中で過ごしていく姿を描いたものである。精之助はすべてを知って女性を包みこんで愛していこうとするが、自分の心の醜さを知った女性は精之助のもとを去る。結末は決してハッピーエンドではないが、精之助の一筋の大きな愛とそれに応えるために彼のもとを去ることを決心した女性の思いが綴られていく。

 「はたし状」は、自分の婚約者が突然婚約を破棄して親友のもとに嫁いでしまった男の苦悩と親友との友情を描いたもので、そこには、親切ごかしに近づいてくる別の友人の画策があったのであり、その画策をようやく知りことができて新しい出発をするまでの姿を描いたものである。

 この三編は、人間のあまりに「純」な思いが描かれているために、いくぶん人間についての青さが残る作品であるが、たとえば、「野分」の中で、「お紋」の老いた父親の話を聞いた又三郎が「老人の一生はごく平凡な、どこにでもある汗と貧苦と、涙と失意とで綴られたものだった、息子夫婦に先立たれ、孫娘と二人で稼いでいる事実だけでも察しはつく、それにも拘わらず、又三郎はそこにしみじみとした味わいを感じた、善良で勤勉で謙遜で、いつも足ることを知って、与えられるものだけを取り、腰を低くして世を渡る人たち、貧しければ貧しいほど実直で、義理、人情を唯一の宝にもたのみにもしている人たち、・・・又三郎はそれが羨ましいほど充実したものにみえ、本当に活きたじんせいのように思えた」(12-13ページ)と思うところは、そのまま、作家としての山本周五郎の、自分が書くべきものとしての決意そのものだろう。山本周五郎は、どこまでもそういう人たちの姿を描こうとした作家である。この作品が敗戦後すぐの1946年の作品であることを考えれば、戦後の新しい出発を山本周五郎はそういう決意ではじめたような気がするのである。

 「雨あがる」は、言うまでもなく傑作で、人生の夢が破れても人々を喜ばせようとした夫とそれを支える妻の深い愛情と理解をまるで絵画のようにしみじみと描き出した作品である。これについては、別のところで記したし、記憶に深く残る作品でもあるので、ここでは詳細を割愛する。

 「よじょう」は、熊本で生涯の最後を送った宮本武蔵に、無謀にも彼の腕を試そうとして殺されてしまった父親をもつ料理人のどうしようもない息子が、兄に叱責されて物乞いとなり、それが周囲に親の仇討ち行為として誤解され、武蔵を遠くに見ながら生活していく話である。偶然の誤解の中で生きることを余儀なくされた男のおかしみと悲哀が描かれている。

 「四人囃子し」は、子どもの頃から出来が良くて評判も良かった平吉とは反対に、どうしようもないと思われていた男が、その平吉を苦しめるために彼が愛した「おたみ」を奪い取り、さらに平吉が「おたみ」を励ますために書いた手紙をネタに平吉を強請ろうとするが、どうしようもないと思われて育った男の悲しみを知る女性によって、新しい人生の歩みをはじめていく物語で、頽廃した雰囲気の中で、やけになっている男と彼を立ち直らせていこうとする女の情が描かれた作品である。

 「扇野」は、江戸からふすま絵を描くためにやってきた絵師と彼に思いを寄せる女性との愛情を描いたもので、恋の切なさに身を焦がしていく二人の姿が、極めて印象的に描かれた作品である。愛の姿は様々だが、恋に身を焦がす女性とそっと見守ろうとする二人の女性の愛の姿が、何とも言えない情景を醸し出している作品だった。

 「三十ふり袖」は、病気の母親を抱えて貧しさのためにやむを得ずに妾となった女性が、自分を妾とした男が、実はまだ結婚もしたことがなく、女性を正式な妻としたいと願っているという男の誠実な愛に触れていくという話である。自分を卑下する女性の複雑な思いと、それを包む男の愛は、ちょうど「北風と太陽」の話のような展開になっている。

 「鵜」以下の作品については、また次に記しておくことにする。何気なく読んでいても、後から考えてみれば、深い味わいをもつ作品、それが山本周五郎の作品のような気がしている。今日もよく晴れていて、日中は暑いくらいで、洗濯日和となった。

2011年8月27日土曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集 3 想う』(3)

 昨日の午後は激しい雨に見舞われ、今日も、今、雨が降り出している。このところずっとこんな天気が続いている。

 こちらに帰宅してみるとパソコンとインターネットを繋ぐモデムが壊れていて、メールもできずに、パソコンに依存した仕事も半分以下となっていた。今朝、代わりのモデムが宅急便で届けられ、さっそく設定して、ようやくこれもアップロードできるようになった。 意識していなかったが10年以上使っていたモデムだったので寿命だったのだろう。

 さて、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』の続きだが、結局、この書物については3回にわたって記すことになってしまった。書ききれないことがまだたくさん残っているので、山本周五郎の作品はそれだけ内容があるということだろう。

 十三編目の「あだこ」は、生きる意欲をなくして死ぬばかりになっていた旗本のところに転がり込んだ女性の力によって、彼がもう一度生きる力を回復していくという話で、前に記した「泥棒と若殿」という作品が同じような設定になっていた。ただ、「泥棒と若殿」は、忍んできた泥棒によってひとりの武士が生きる喜びを見出していくというものであるが、「あだこ」は行くところがなくなって転がり込んだ女性が律義さやけなげさで武士を助け、武士とともに生きていく姿を描いたものになっている。彼女は苦労してきたが、天性の明るさと素直さ、そして素直な決断力をもっている魅力的な女性である。設定は同じでも、内容も結末も異なり、どちらも優れた短編であることにかわりはない。ちなみに、表題の「あだこ」というのは、作者によれば、津軽の言葉で子守りとか下女という意味らしい。

 二百五十石のお使番(主家や幕府の意向を伝える役職で、かなりの権能があった)の父の後を受けた小林半三郎には、親同士で決めた許嫁があり、彼もその女性が好きだった。だが、結婚を控えた直前に、相手の女性は、別の男性と駆け落ちしてしまった。彼はそれ以来無為の人間となり、無役の小普請となり、家も荒れ放題となって、あちらこちらに借金を重ね、とうとう味噌も米も買うことができなくなって、ただじっと餓死していくのを待つような日々を過ごしていた。

 あるとき、その荒れ放題になった家の庭で真っ黒な顔をした女性が草取りをしているのに気がついた。女性は、自分は「あだこ」で、給金はいらないし食べる者も自分で何とかするからここに置いてくれと半三郎に頼む。半三郎は、「いたいというならいてもいい」と答え、その日から「あだこ」との生活が始まっていく。「あだこ」は、あまりの借金のために差し止められていた米屋や味噌屋、八百屋から食べ物を手に入れてきた。だから最初、半三郎は、お役で津軽に行った友人が、自分のことを見かねて下働きをする女性とお金を出してくれたのだと思っていた。

 だが、実際は、津軽の家で母親が年下の夫をもち、居づらくなって江戸に出てきて、あちこちで奉公したあげくに、行くところがなくなった「あだこ」が、荒れ果てた武家なら自分のような者でも老いてくれるのではないかと思って転がり込んできただけで、米屋では庭掃除やこぼれ落ちた米粒を拾い集めたり、味噌屋でも魚屋でも同じようにして誠実に働いたりして、その働きぶりに感心したそれぞれの店が食べ物の売掛を許してくれていたのだった。「あだこ」はまた、遅くまで針仕事をして、小林半三郎の生活を支えていくのである。

 半三郎は、そういう「あだこ」のひたむきな姿に打たれ、死ぬことではなく生きることに向かって歩みだすようになり、友人たちの助けで出仕してきちんと生活を立て直していくようになるのである。「あだこ」の顔の黒さは、男よけに煤をぬったものであり、本当は「いそ」という名前で、顔も美しい女性だった。半三郎は、そういう「あだこ」と生涯を共にすることを決心していくのである。

 この作品には、優しさとけなげさ、ひとむきさと素直で正直な明るさが満ちている。そしてまた、人間を信じることができる人々がいる。貧と苦労は信と不信の分水嶺のようなものだが、そこで優しさや温かさに向かう人間の姿、それもひたむきな愛情をもって生きる人間の姿には生きることの大きな喜びが訪れるものだ。静かな、しかし確かな愛情というものはいいものだと、山本周五郎の作品を読むたびに思ったりするが、この作品にはそれが溢れている気がする。

 「ちゃん」は、流行に乗ることができずに愚直なまでに生きている火鉢職人の姿を描いたもので、貧しい暮らしの中で、互いに認め合う家族が救いとなっていく話である。

 愚直なまでに伝統的な「五桐火鉢」を丹念に作り続ける「重吉」は、賃金が入ると決まって酔いつぶれて家の前でくだを巻き続ける。そんな「重吉」を女房の「お直」も、十四歳の「良吉」も、十三歳になる長女の「おつぎ」、七歳の「亀吉」、そして三歳の「お芳」までもが温かく支えている。

 重吉が作る「五桐火鉢」が流行遅れのものとなり、彼の職人仲間たちは次々と「五桐火鉢」を捨てて新しいものへと移り、羽振りが良いが、重吉が作る「五桐火鉢」が売れないために、重吉は肩身の狭い思いをして日々を過ごしている。店も「五桐火鉢」に見切りをつけて、重吉が手にする手間賃はますます少なくなっていく。だから、重吉の酒量も多くなる。

 友人たちは言う。「今は流行が第一、めさきが変わっていて安ければ客は買う、一年使ってこわれるか飽きるかすれば、また新しいのを買うだろう、火鉢は火鉢、それでいいんだ、そういう世の中になったんだよ」(292ページ)。

 しかし、重吉は自分が変われないことを知っているし、そのために家族に苦労をかけていることを悩んでいく。家計のために女房と長女は内職をし、長男の良吉は、十四歳で魚のぼて振り(行商)をしている。重吉は思う。「おれのようなぶまな人間は一生うだつがあがらねえ。まじめであればあるほど、人に軽く扱われ、ばかにされ、貧乏に追いまくられ、そして女房子にまで苦労をさせる。・・・こんな世の中はもうまっぴらだ」(297ページ)。

 あるとき、飲み屋で知り合った男を連れて帰ったら、その男が泥棒で家のものを全部盗んで行ったりした。弱り目に祟り目で、重吉はますます自分が家族にとっての疫病神だと思い込み、家を出ようとする。

 だが、そのとき、女房の「お直」は、自分たちが苦労するのは当たり前で、家族がそろっていれば黒のし甲斐があるものだ」と言うし、長男の良吉も長女のおつぎも、七歳の亀吉も三歳のお芳までもが、ちゃん(父親)が出て行くんなら、自分たちもみんなちゃんと一緒に出ていくと言い出すのである。

 こうして、また、重吉一家の生活が始まっていく。飲んで帰り、家の前でつぶれた重吉に、女房は「はいっておくれよ、おまえさん」と言い、良吉が声をかけ、最後に三歳のお芳が「たん、へんな(ちゃん、入んな)。へんなって云ってゆでしょ、へんな、たん」と言うのである。

 この作品は、1958年の『週刊朝日別冊』が初出であり、ちょうど朝鮮戦争による特需で日本の景気が回復し始め、人々が目の入りを変えるようにして豊かさを求め始めていた時代であった。都市部の人口流入が集中し、核家族化が進んで、家族の絆が薄れ始めた時代でもある。そういう時代に、互いに思いやりをもって認め合う家族の姿を描いた作者の意気込みを感じる。人は、たった一人でいいから、自分を黙って認めて受け入れてくれる人間があれば生きていける。そういう人間を身近に見出すことができることこそが人の幸せに他ならない。そうした人の幸せをしみじみ描いた作品だった。

 最後の「その木戸を通って」は、自分の家の前に立っていた記憶を失った女性を助けて、自分の家に住まわせているうちに、その女性の存在によってあらぬ噂をたてられて進んでいた縁談もだめになってしまうが、次第に、その女性に心が引かれていき、やがてはその女性と結婚したという話である。

 だが、結婚し、子どもまでできた後に、その女性が次第に記憶を取り戻したのか、あるいは新しい記憶喪失になったのかは分からないが、その女性が突然いなくなるのである。そして、男は、いつまでも彼女が帰ってくることを待ち続けるのである。

 それにしても、小学館からだされているこの中短編秀作選集は編集方針がきちんとしていると改めて思う。優れた編集者の手によるものだということを感じさせる作品の組み方がされているように思われる。奥付を見ると最上龍平という人と弘瀬暁子という人が編集され、竹添敦子という人が監修されているようだ。これらの人たちについての知識はないが、丁寧な編集になっている。  

2011年8月23日火曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』(2)

 まだ九州に滞在しているのだが、激しく雨が降り続く日になっている。昨日は阿蘇まで足をのばし、雨に煙る阿蘇の山並みと柔らかい曲線を描いている草原を眺めたりした。

 さて、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』の続きだが、終戦の年(1945年)の10月に大日本雄弁会講談社から『菊屋敷』の書名で出された中に収録されていた「菅笠」は、ほんの仲間内の見えから出陣中の武家の嫁になるといってしまった女性が、男の家と母を守り働くようになり、やがて出陣していた男の戦死の報が伝えられ、そこで初めて、男が丹精込めて作っていた菅笠をかぶって働くようになっていく女性の話である。

 これも、夫を戦争で亡くして苦労した多数の婦人たちの姿が背景にあり、夫亡き後の家を守り、愛情を育んでいく女性への建徳的意味合いの強い作品である。執筆がまだ戦中であった1944年12月だから、それまでのほかの作品と同様に建徳的であるのはやむを得ないことかもしれない。だが、そうした時代的背景は別にしても、愛する者のために懸命に生きていこうとするけなげな女性の姿は、深く胸を打つものがある。

 第七編目の「墨丸」は、同じ1945年の『婦人倶楽部』8・9月合併号に初出されたもので、執筆が1945年2月だそうだが、この物語にはそうした時代の影は直接的には感じず、むしろ、人を愛することの美しさと切なさが前面に出た作品のように思われた。

 「お石」は、五歳のときに父親の異変で岡崎藩の鈴木平之丞の家に預けられて育てられることになった。彼女の素姓は「お石」を引き取った平之丞の父親以外には誰も知らなかった。色の黒い子で、平之丞たちから「墨丸」と渾名されたりしていたが、立ち居振る舞いもきちんとして、臆せず、「爽やかなほど明るいまっすぐな性質に恵まれていた」(108ページ)。長ずるに及んで琴の名手としての才能も発揮していくようになり、平之丞への想いも募らせていくようになる。

 だが、「お石」の父親は、藩主の相続に絡んだ問題で、藩主に直接意見をしたことが藩主の逆鱗に触れ、生涯蟄居の罪を受け、不敬をわびるために切腹していたのである。そのことを知っていた「お石」は、平之丞を慕っているが、自分の素姓が発覚すれば鈴木家に迷惑が及ぶことを恐れ、平之丞との結婚話がもちあがったときに、琴を習うという名目で鈴木家を出てしまうのである。

 やがて月日が流れ、平之丞は27歳でほかの女性と結婚し、岡崎藩主水野忠春の侍臣となり、国家老となって50の歳を数えるようになった。そして、ある時、公務での京都からの帰りに、ふと「八橋の古蹟」という名所を訪れ、疲れを覚えて休みを求めた小さな家にいた「お石」と出会うのである。

 そこで、「お石」は、自分の想いと真相を静かに語り、ただ一筋に、むかし平之丞からもらった文鎮を生涯の守りとしてもていることを告げるのである。「お石はずいぶん辛かったのだな」という平之丞に「はい、ずいぶん苦しゅうございました」と素直に語る(124ページ)。その言葉は、自分が生涯抱き続けた想いをきちんと整理できた人間の静かな着地の言葉だろう。

 こういう素直で正直で、一筋に自分の思いを抱き続ける女性に作者は限りなく優しい。その優しさが、最後の「縁側の障子も窓のほうも、すでに蒼茫と黄昏の色が濃くなって、庭の老松にはしきりに風がわたっていた」(124ページ)の情景描写によくあらわれているように思われる。

 1945年の冬に初出された「風鈴」は、周囲の華美さや表面の豊かさに惑わされないで、自分の生きる道を見出していく女性の話である。「弥生」は、15歳のときに父を亡くし、その数年前には母親もなくしていたために、わずか十石ほどの貧しい家計をやりくりしながら、二人の妹を育ててきた。幸い、妹たちはそれぞれに裕福な藩の上席の家に嫁ぐことができた。だが、妹たちは実家の貧しさを恥じ、それぞれの夫に頼んで姉の弥生の主人に出世話を持ち込んできたり、贅沢な湯治旅に誘ったりする。

 弥生も、妹たちの生活ぶりなどから、自分はいったい何のために苦労しているのかと思ったりする。だが、彼女の夫は、たとえ出世して碌(給料)が増えたところで、その仕事に生きがいを見出すことはできないし、自分には合わないからという理由で、出世話を断り、「大切なのは身分の高下や貧富の差ではない。人間として生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった、世の中のためにも少しは役立ち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います」(139ページ)と上役に語る夫の言葉を聞いて、自分は煩瑣な家事しかすることができないが、女として、妻として、母として、一家の中でかけがえのない人間として惜しまれることが大切だと自覚していくのである。

 この作品が未曽有の混乱した戦後の社会状況の中で生き方を失った多くの人々が生きるための戦いを右往左往しながら繰り広げていた中でことや、戦後の日本の社会世相が他者との比較の中で織りなされていったことを考えれば、格別に味わい深い作品のように思われる。こういうところが文学者としての山本周五郎の鋭いところかもしれない。すぐれた文学者はどこか預言者的なところがあるものである。

 第九編目の「彩虹(にじ)」は、男の隠された友情を描いた作品である。鳥羽藩の国家老交代に伴い、国家老の息子で幼いころがら卓越した才能をもっていた脇田宗之助が江戸での勉学を終えて、国家老に就任するために帰国してきた。帰国早々、宗之助は次々と藩の改革を打ち出していく。宗之助の友人で藩の老職(重役)で筆頭年寄であった樫村伊兵衛は、最も親しい友人であった宗之助のやり方に危惧を感じていた。そして、宗之助は、伊兵衛がひそかに思いを抱いていた料亭の娘の「さえ」を嫁にほしいと言い出す。伊兵衛と「さえ」は、幼いころから親しく、お互いに想いを抱くようになっていたが、伊兵衛はなかなか煮え切れないでいたのである。

 そして、旧友の宗之助の結婚話から、自分の想いを「さえ」に伝えるようになり、「さえ」も自分の想いを伊兵衛に伝えるようになる。旧友の宗之助は、煮え切れない伊兵衛のことを思い、荒治療をし手二人を結びつけるのである。

 こういう友情の姿というのは、たぶん、もう廃れてしまっているだろうが、前の「藪の蔭」と同様、隠され続ける深い愛情というのがあって、人の行為の表面しか見えない人間には決して見えないもので、実際には、人は素直に素朴に自分の思いは伝えたほうがよいとも思ったりする。「善意の敵役」という存在の一つの典型を美しく描いたものではあるだろう。

 「七日七夜」は、旗本の四男という冷や飯食いの境遇に置かれた男が、家人のあまりの仕打ちに逆上し、兄嫁から金を奪って出奔し、放蕩の限りをして金を使い果たし、市井の小さな居酒屋に転がり込み、そこで居酒屋の娘や主、客たちの人情に触れ、彼を助けてくれた居酒屋の娘と結婚して、居酒屋を繁盛させていくという話である。人を変えることができるのは、情と愛以外にはないのだから、それをストレートに描いた作品がハッピーエンドで終わるのは、読んでいて嬉しいものである。

 それとは反対に、どうしようもない境遇の中で「情」をもって助けてくれる人があって、救いが見いだせても、結局はひとりぽっちになってしまう女性の姿を描いたのが、次の「ほたる放生」である。

 場末の岡場所(娼婦宿)に身を落とした「お秋」は、役者に似た顔をもつ「村次」という男に惚れている。だが、「村次」は女を食い物にする男で、「お秋」をさらに売り飛ばして金を得ようとしていた。「村次」は、新しく岡場所に売られてきた若い娘に目をつけ、「お秋」から若い娘に鞍替えしようとしていたのである。ささやかな幸せを望んでいたのに、そのささやかな幸せは「お秋」には訪れない。「お秋」は村次が若い娘に手をつけたことを知って、ついに村次を殺そうと思うようになっていく。           

 他方、「お秋」に心底ほれ込んで結婚を申し込んでいた藤吉という男がいて、「お秋」は村次に惚れていたために藤吉の話を断っていた。藤吉は「お秋」の身を案じ、村次のひどい仕打ちを知って、ダニのように「お秋」に食いついていた村次をついに殺して、「お秋」を自由の身にしてやるのである。そして、藤吉は自首をしていき、「お秋」は、結局またひとりぽっちになっていく。

 第十二編目の「ちいさこべ」は、これまでの作風とはことなり、大工の若棟梁としての矜持をもって火事による両親の死から店を立ち直し、火事で孤児となった子どもたちを引き取っていく一本気な男の話である。ここには、仕事にしろ恋愛にしろ、筋を通して生きていこうとする人間の強さが描き出されている。こういう作品にも、人を温かく見るという作者の姿勢が溢れていて、主人公が自分の結婚相手として、誰もがふさわしいと考えるような相手ではなく、下働きとして懸命に生きながらも孤児たちの面倒を見ようとする娘を選んでいくなど、作者ならではの展開がなされている。

 十三篇目以降については、また、次のときに書くことにする。月末は福島の原発近くに行くことにしているので、出来る限り読んだ書物について書き留めたいと思っているが、なかなか根気が続かなくなっている。

 それにしても雨が降り続いている。大雨洪水警報さえ出された。気になる人や気になることがいくつかあるが、今日も徒手空虚で終わりそうな気がしている。

2011年8月22日月曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』(1)

 九州に来て、このところずっと天気がすぐれず、湿度の高い日々が続いている。18日に大宰府の天満宮と九州国立博物館を訪ね、「よみがえる国宝展」を見て、天満宮の参道で名物の「梅が枝餅」を美味しくいただいたりした。大宰府は本当に久しぶりで、雨だったがゆっくりした気分に浸ることができた。

 往路の飛行機の中と実家で、持ってきていた山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』(2006年 小学館)を味わい深く読むことができた。ここには、1940年から1959年までに書かれた中短編の中から、「人が人を想う心情」を描いたものが選出されて収録されており、読んでいてぽろぽろ涙がこぼれるというよりも、じんわりと瞳がにじんでくるような、そんなしみじみとした作品が収められている。

 収録されているのは、「壺」(1940年)、「松の花」(1942年)、「春三たび」(1943年)、「藪の蔭」(1943年)、「おもかげ」(1944年)、「菅笠」(1945年)、「墨丸」(1945年)、「風鈴」(1945年)、「彩虹」(1946年)、「七日七夜」(1951年)、「ほたる放生」(1955年)、「ちいさこべ」(1957年)、「あだこ」(1958年)、「ちゃん」(1958年)、「その木戸を通って」(1959年)の15編である。なお、カッコ内は初出誌の年である。

 このうち、「壺」から「おもかげ」までが戦中の作品であり、時代の影響もあってだろうが、いくぶん建徳的な性格を帯びた作品になっているように思われた。

 たとえば、一編目の「壺」は、言葉の厳密な意味での「滅私奉公」の道を求める者の姿を描いた作品である。物語は、紀伊国(和歌山県)新宮の宿に剣豪として名高い荒木又右衛門が逗留するところから始まる。その宿に侍になることを夢見て剣を使う下男がいた。彼は侍になろうと自分で工夫をし、剣の修業をして、多くの武士と立ち合い、勝利をおさめていた。ところが、その下男が打ち負かせた武士の朋友たちが復讐にやってくる。荒木又衛門は下男の許嫁の頼みで、その勝負に待ったをかけ、下男は勝負に待ったをかけた荒木又衛門のすごさに打たれ、弟子になることを希望する。

 彼の希望を入れて弟子にした荒木又衛門は、剣の極意を書いた書物が壺に入れて埋めてあるので、それを掘り出すようにと彼を草原に連れていく。下男は、剣の極意書の壺を見つけるために、来る日も来る日も草原を掘り返し続ける。だが壺は見つからない。そして、最後に、荒木又衛門が「お前が掘り返した土地を見よ。そこは畑になっているではないか」と言って、彼に、さむらいとは己を捨てた者のことであり、「剣を取ろうと鍬をとろうと、求める道の極意は一つ」とさとし、「人間のねうちは身分によって定まるのではない、各自その生きる道に奉ずる心、おのれのためではなく生きる道のために、心身をあげて奉る心、その心が人間のねうちを決定するのだ」(25ページ)と語り聞かせるのである。そして、下男は荒木又衛門の教えを受けて、許嫁とともに百姓をするために自国に帰って行くのである。

 主題が、いかにも世界の列強国の中で国民を鼓舞しなければならなかった戦中の状況を表すものとなっている。表面的にはそうだが、山本周五郎らしいところがあって、その実、物語の中で荒木又衛門を動かしたのは、許嫁の娘の男を案じる純粋な心であり、二人が自分たちの幸せの道を見出していくというのが物語の骨格で、ここには、何よりも一人の人間の幸せを大切にしたいと願う作者の姿勢が込められているように思えるのである。時代の中で作者の苦労が感じられるような気もするのである。

 次の「松の花」は、紀州徳川家の藩譜編纂の責を負う主人公が、藩の中で活躍した婦人たちのことを記した「松の花」と題する一巻を編纂中に老いた妻の死を看取ることとなり、改めて妻の生き方を顧みるというものである。

 彼の妻「やす」は、大番組頭九百石の家に生まれ、おっとりとのびやかに育ち、千石の年寄役(重鎮)の佐野藤右衛門のところに嫁いできた。家計も豊かで使用人も多かったので、主婦という位置に座るだけでよく、事実、明るくおっとりとして落ち着いた生涯を送ってきたように見えた。だが、彼女が息を引き取った後、その手を触ってみれば、下女と同じように荒れた手をしていた。そして、家中の使用人ばかりかその家族までもが、彼女の死を嘆き悲しみ、その悲しみには異例とも思えるほどの深いものがあった。そして、形見分けのときに彼女の持ち物を開けてみると、そこには木綿の質素な着物と丁寧に洗い張りされて着古され、継あてのあるものばかりだった。

 自分は質素なものを身にまとい、使用人たちに交じって働き、新しいものや高価なものは全部使用人たちの祝儀、不祝儀に与え、粗末な遺品しか残っていなかった。

 そのことを知った主人公が、自分はいま「松の花」という藩の名を残した婦人たちの伝記を編纂しているが、このようにして選ばれた婦人たちだけではなく、「誰にも知られず、それと形に遺ることもしないが、柱を支える土台のように、いつも蔭にかくれて終わることのない努力に生涯をささげている。・・・これら婦人たちは世にあらわれず、伝記として遺ることもしないが、いつの時代にもそれを支える土台石となっているのだ。・・・この婦人たちを忘れては百千の烈女伝も意味がない。まことの節婦とは、このひとびとをこそさすのでなくてはならぬ」(39ページ)と思うのである。

 これもまた、戦前の極めて建徳的な作品の一つであるといえるだろう。初出誌が『婦人倶楽部』という雑誌であることを考えれば、質素に、思いやりと明るさをもって人のために生涯を生きた婦人の姿を鼓舞するものであるといえるであろう。だが、ここにも、死後に改めて妻の真実の姿を知って深く心にとめていく老武士や、そのような母親の姿を知る息子の母への思い、使用人をいたわりながらみんなで生きていこうとした女性や、そんな彼女を敬い尊ぶ使用人たちの姿など、人本当は何によって生きるのかということがさりげなく込められているのである。

 次の「春三たび」も戦中の作品で、初出誌も『婦人倶楽部』であり、出陣して死亡が伝えられる夫の武運を信じて、忍耐していく女性の姿を描いたものである。

 恩田(微禄の者に与えた耕作地)を耕して細々と暮らす貧しい徒歩(下級武士)に嫁いだ「伊緒」は、結婚したばかりの夫を「天草の乱」の鎮圧のための兵として出陣させなければならなかった。病弱な義弟と老いた義母を抱え、「伊緒」は生まれて初めての農事にも精を出して留守宅を守っていく。やがて「天草の乱」も治まり、出陣した者たちが帰ってくるが、夫の姿はなく、戦死者にも記名されていない。彼女の夫は戦場で行くへ不明となり、戦場から逃げ出したとのうわさが立つ。そこで、彼女の実家の兄も仲人も、彼女を実家に戻そうとする。だが、彼女は、自分の夫が立派に戦ったことを信じ、病弱な義弟と老いた父母を抱え、懸命に働き、野良仕事をし、洪水に襲われた時は、夜は紙すきをし、昼も夜もなく働き通していく。

 やがて、洪水の被害の取り調べの際、彼女の働きぶりが藩主の耳に届き、「天草の乱」のときの討死についての再調査が行われ、彼女の夫が立派に討死したことが証しされて、家の名誉が回復され、食録加増を受けるようになっていくのである。

 これもまた、戦中の留守宅を預かる女性の姿を建徳的に励ますという主題で書かれたものだろう。だが、この中にも、たとえば、「伊緒」の父親が彼女に願ったこととして、「父は彼女に栄達をさせようとは考えなかった、安楽な生涯をとも望まなかった、まことの道にそって、おのれのちからで積みあげていく人生を与えてくれようとしたのだ」(45ページ)という、ただ忍耐して頑張るということではなく、ひとりの自立した人間としての女性の姿が描かれようとしているのである。

 人は、時代や社会を自らで変える力を持てないかもしれない。与えられた状況と環境の中で生きることしかできないかもしれない。特に戦争といううねっていくような時代の流れの中ではそうだろう。だが、その中で、人としての矜持をもって誠実に生きることはできる。山本周五郎が戦中に描いた作品には、そうした人間の姿が描かれているのである。

 それは、友人が犯した罪を黙って負いながら生きる武士の姿を描いた「藪の蔭」も、亡くなった姉との約束を守って自分の幸せを捨てながらも甥を武士として育てようとした女性の姿を、育てられる甥の立場から描いた「おもかげ」も同じである。

 表現者が苦労しなければならない時代というものは、決して「いい時代」とは言えないが、これらの山本周五郎の戦中の作品を読んでみると、表面的な主題として出された(あるいは出さなければならなかった)建徳的要素の中で、彼が、「人が人を想う心の強さ」を描こうとしたかがわかる気がする。

 ここまで記して、若干の疲れを覚えてしまったので、この本に収録されているほかの作品については次回に書くことにして、今日は休むことにする。、
           

2011年7月9日土曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集1 待つ』(2)

 昨日に続いて、記憶のあるうちに山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集1 待つ』(2005年 小学館)について記しておくことにした。今日も空はすっかり夏の空である。

 「柳橋物語」の次に収録されているのは、愛する妻が他の男のために生きていることを知った夫が懊悩していく姿を描いた「つばくろ(燕)」である。紀平高雄の愛する妻は、子どもを産んでからますます美しくなっていったが、度々他の男と会っているところを目撃され、夫の知るところとなった。心優しい高雄はそれを問いただそうと懊悩するが、切り出すことができないでいた。しかし、ある夜、祝い事からの帰りに闇討ちをかけられ、それが妻が会っていた男であることを知って、ついに妻に問いただす。

 相手は、妻がまだ少女の頃から知っていた家の三男で、妾腹の子であったために下男と同じ長屋に孤独に住まわせられて、その淋しさと悲しさをおもんばかって、彼を慰めようとこぜにをためて饅頭を買ってもっていってやったりした男であるという。そして、妻が結婚した後で、厄介払いとして江戸行きを命じられたが、江戸に行かずに、妻への思慕を膨らませて妻に会いに来たのであった。

 逢瀬を重ねる度に彼の思いは募り、妻は彼の思いを突き放せなくなったと言う。夫はそれを聞いて苦悩し、誰も傷つけないために、妻を湯治場にやり、相手の男もその湯治場に行くようにして、もしそのまま二人が出奔するようなら、病死の届け出を出して自由にさせようとする。彼は妻を心底愛していたが、愛しているがゆえにひとりで忍耐しようとするのである。

 こうして月日が流れるが、彼はひとり、もっと愛情があればこんなことにはならなかったに違いないと自責を繰り返す。他の縁談話も持ち込まれるようになる。そして、息子が病気になった時、妻と一緒に湯治場につけてやった下男が湯治場からやって来て、二人の間は決して男女の関係ではなく、男の思いは母や姉を慕うようなもので、自分は病をえてもうすぐ死ぬから、夫の元に戻るようにしてくれと男から言われたことを伝える。

 それを聞いて、夫は妻が戻ることをゆるしていこうとするのである。表題の「つばくろ」は、燕が毎年同じ巣に戻ってくるように、出ていった妻が戻ってくることをかけたものだろう。

 だがどうなのだろう、と少々ひねくれたわたしは思ってしまう。男女の関係がなかったとしても精神的不貞であるに変わりなく、彼女が夫と子どもを捨てたという事実に変わりはない。選択の責は負わなければならないだろう。妻の思いは何も語られず、こういう形で一度切れた男女の関係の修復は可能なのだろうか。真の意味での「反復」は、人には不可能なのだから、修復が可能であるとすれば、違う形で男女の絆を深めていくしかない。だが、修復や反復が可能であればと願う気持ちはわからないでもない。そして、男はいつでも未練たらしいものである。

 「追いついた夢」は、苦労して辛抱し、長年かけて周到な準備を重ねて、ようやく気に入った若い娘との優雅な暮らしが適うことを目前に、卒中で倒れて海辺の小屋で誰しれず死んでいった男の話である。男はいつも哀れで愚かである。だが、極貧の生活をして男に身売りした娘にとって、これ以上の果報はないだろう。男の掴むことのできなかった夢は、貧しい娘の果報となったのだから、それでいい。夢があっただけ、まだましかもしれないと思ったりもする。

 「ぼろと釵(かんざし)」は、自分が思い描いたことと現実がはるかに違っていることを知る男の話である。貧しい長屋暮らしで出会った少女と恋をし、やがて嫁に迎えるつもりでいたが、女に縁談話が起こって駆け落ちするところまでいった。だが、女の幸せを願って、女を捨て、江戸を出て、名古屋や大阪に行き、独り立ちして、思いでのかんざしをもって、再び女を探しに来た、とある居酒屋に座って男は言う。

 だが、事実は異なって、女はそうとうのあばずれで、手当たり次第に男を食い物にして、落ちぶれ果て、その居酒屋で男に媚びを売りながら生活していたのである。その事実を知りながら、男は酔いつぶれた女を駕籠に乗せていくのである。

 これは、短編として非常に優れた短編だと思う。場面は、ただ居酒屋だけで、そこにいる様々な人間の姿も合わせて描かれながら、それぞれの人生が言葉の端々で描かれ、しかも、現実がどうであれ自分の思いを大切にする男の姿が描かれている。こういう短編が一番作者らしいような気もする。

 「女は同じ物語」は、強い母親と幼い頃に女性にいじめられた記憶から、許嫁がいながらも女嫌いでなかなか結婚に踏み切れない男が、自分につけられた小間使いの女性に次第に惹かれるようになって、彼女との結婚を願うようになる恋愛物語である。幼い頃に自分をいじめたのが今の許嫁で、彼の小間使いへの思慕は募っていく。だが、母親が反対し、小間使いは姿を消し、許嫁との結婚が近づいてくる。そして祝言の日を迎え、そこに現れた許嫁が、実は母親の計らいで小間使いとなっていた女性であるという、ハッピーエンドのお話しである。

 「こんち午(うま)の日」も優れた短編で、豆腐屋の入り婿となったが、結婚して三日後に妻に逃げられ、その妻の寝たっきりの親にすがられて、そのまま残って豆腐屋の商売に励む。彼は世話になった豆腐屋に恩義を感じ、豆腐に工夫を凝らしたりしながら商売を盛り立てていく。だが、月日が経った後で、その妻と人殺しも厭わないやくざな男が舞い戻ってきて、豆腐屋を乗っ取ろうとする。彼は、豆腐屋のために顕然と立ち向かうのである。

 「ひとでなし」は、小料理屋を営む女性は、長いあいだ彼女に思いを寄せてきた大店の主と結婚することになり、店をたたむことにする。だが、女性は、最後の夜にこれまでのことを語り、自分は大店の妻にふさわしくないと告げる。そこに、死んだと思っていた性悪の元亭主が島抜け(牢破り)して帰って来て、彼女を狙い、押し入ってこようとする。しかし、二人の会話を盗み聞いた元亭主の相棒が、元亭主のあまりのひどさに、元亭主のことは自分が処理するから、彼女を嫁に迎えて欲しいと大店の主に語っていくのである。

 これらの中短編を改めて読んで見ると、「待つ」というテーマの下で執筆年代順に収められているから、作者の執筆の背景が浮かび上がってくるような気がするし、人間に対する視点や作品の深みが増してくるのがわかるような気がする。その意味では、この選集はなかなか優れた編集者の手によるものだと実感する。全5巻になっているので、残りの巻も読み進めたい。

2011年7月8日金曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集1 待つ』(1)

 曇り空の蒸し暑い日になって、なんとなくすっきりしない感覚がつきまとっている。雨になるかもしれない。

 この2~3日、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集1 待つ』(2005年 小学館)を読んでいた。少し前にこの選集の2『惑う』を読んでいたし、まっすぐで素直で、正直な思いを貫こうとする人間の姿を描いた作品に触れ直したいという思いがあって、この中に収められているいくつかの作品は再読なのだが、新しい気持ちで読み直したのである。

 ここには、「待つ」という主題のもとで、1940年に書かれた「内蔵允留守」から「柘榴」、「山茶花帖」、「柳橋物語」、「つばくろ(燕)」、「追いついた夢」、「ぼろと釵」、「女は同じ物語」、「裏の木戸はあいている」、「こんち午の日」、「ひとでなし」の十一作品が収められており、このうち「柳橋物語」は中編というよりも長編の趣のある作品である。

 「内蔵允留守(くらのすけるす)」は、剣豪として名をはせていた別所内蔵允のもとで剣の修行を積みたいと思って訪ねて来た岡田虎之介は、内蔵允が不在のために近くの農夫の家に身を寄せて待つ間に、毅然として生きている農夫の生き方に触れ、その人柄に惹かれていき、人として生きる姿勢というものを学んでいくという話である。

 最後に、その農夫こそが剣の達人である別所内蔵允であることに気づいていくという結末があって、後に山本周五郎が到達した地平からすれば、「青さ」が漂う作品ではあるが、世の中に惑わされずに毅然と生きるという姿が描き出されて、これが戦争の気配がする中で書かれたことを考え合わせれば、作者の姿勢のようなものを感じる作品だった。

 「柘榴」は、ひとりの女性がその生涯で真実の愛情の姿を見出していく物語で、厳格な躾のもとで育った真沙は、藩の平徒士である松村昌蔵に嫁ぐが、夫との仲がしっくりいかず、夫が示してくれる愛情表現も嫌悪するほどだった。だが、夫の愛情は一途で、ついに妻を喜ばせるために藩の公金に手を出し、発覚して出奔し、家は断絶となり、彼女は、親類縁者の配慮で国元から江戸屋敷に移される。

 そこで奥勤めに出て、藩主の生母などに仕えるうちに、中老となり、年寄り(奥勤めの最高位)となって平穏な生活を続ける。その間にいろいろな夫婦の姿に目がいくようになり、夫婦の愛情の表現にはそれぞれのものがあることを感じていくようになる。

 やがて、老いて帰郷し、田舎での隠居生活を始め、そこにひとりの男が下男として雇われることになる。下男は黙々と働き、真沙とも口をきくようになるが、切り倒した樫の木の下敷きになって死を迎える。下男は最後に「いい余生を送らせてもらいました」と言う。その下男は出奔した夫の昌蔵かもしれなかった。人の心の奥深くに秘められたものを理解するようになった真沙は、その下男が夫であったかどうかはわからないが、最後の言葉に胸を打たれていくのである。

 「山茶花帖」は、極貧の中で育ち、芸妓として生きる苦労を重ねていた女性が、山茶花の咲く寺で知り合った結城新一郎という侍と恋に落ち、彼の藩内での権力争いも絡んで、身分違いもあり、周囲から身を引くように言われ、彼のために身を引く決心をする。だが、新一郎は信じて待っていてくれ、と語る。そして、そのまま月日は流れるが、その言葉の通りに、新一郎がやがて彼女を妻にするために迎えに来るという話である。

 もちろん、こういう物語の展開は甘いし、極貧で育ち、芸妓という境遇にある女性には「白馬の騎士」が登場する夢物語ではあるが、人を愛する思いの一途さと誠実さを率直に展開した作品であるともいえるだろう。男女の絆というものは、互いの信頼と愛によってどのようにでも深くなるし、どのようにも強く確かなものともなりうるのだから、そうした姿を率直に、単純に描くのは、作品を読むものとしては嬉しいことでもある。

 「柳橋物語」は、先にも記したように中編というよりは長編の部類に入るだろう作品で、不運に見舞われた女性が、自分を真実に愛してくれるのが誰かを見出していく物語である。

 「おせん」は幼馴染みとして育った二人の男のうち、江戸を離れるという庄吉から、一人前になって稼いでくるから待っていてくれ、と思いを告げられる。庄吉は、同じように大工の見習いから入った幸太が棟梁に気に入られて養子になるので、もうその棟梁の下で働けないから上方に行くというのである。「おせん」はその言葉を聞き、自分を思ってくれる庄吉の思いに答えて、待つ、と言ってしまう。そして、その言葉の通りに庄吉を待ち続ける。幸太も「おせん」に一途に思いを寄せてくるが、「おせん」は受けつけようとはしない。

 そして、大火に見舞われる。幸太は自分が「おせん」から嫌われていることを知っているが、大火の中を「おせん」を助けに駆けつけ、自らの命を落としてしまう。「おせん」は幸太のおかげで生きのびることができたが、記憶をなくし、精神を病んでしまう。だが、大火の中で拾った赤ん坊と共々、気のいい夫婦に助けられて、徐々に記憶を取り戻していく。

 だが、再び、彼女と赤ん坊を助けてくれた夫婦を大水で失ってしまう。夫婦の叔父の世話で、夫婦の家にそのまま残ることができるようになり、赤ん坊を育てていく。そして、庄吉が帰ってくるが、庄吉は「おせん」が幸太といい仲になり、赤ん坊はその幸太との間にできた子どもだという噂を信じて、「おせん」を捨てる。「おせん」は自分のことを信じて欲しいと願うが、庄吉は、だったら子どもを捨てろと言う。だが、「おせん」は子どもを捨てることができない。庄吉は「おせん」のことが信じられないのである。そして、彼が大工として入った棟梁の娘と結婚する。庄吉を信じて待ち続けた「おせん」は愕然とするが、自分を本当に愛してくれたのは誰かに気づいていくのである。

 この物語を読みながら、人は、自分を真実に愛してくれる者が誰かがわからずに、一時の言葉や行動に騙されて、同じような間違いをしていくことが多いなぁ、と実感したりもする。この物語には、いくつかの人生があって、そのちょっとした間違いで人生が狂っていく姿が描かれると同時に、そこから立ち直っていく姿も描かれ、主人公がやがて子どもをしっかり育てながら八百屋を営んでいくようになるという作者の優しい希望が最後にあったりして、時代小説のひとつの見本のような作品になっている気がした。1949年の作品だから、戦後の焼け野原を生きぬかなければならなかった状況も反映されているだろうと思う。

2011年5月23日月曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集2 惑う』(2)

 昨日の午後から雨が降り出し、気温が急激に下がって、一昨日の半分ほどの低温になった。今日も雨模様で若干の寒ささえ感じる。少し疲労が蓄積しているような感じがして、脳細胞もなかなかうまく働いてくれないのだが、起き出して溜まっている書類を片づけたりしていた。

 さて、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集2 惑う』(2005年 小学館)に収められている「おたふく」、「妹の縁談」、「湯治」についてだが、主人公の「おしず」が素晴らしく素敵な女性なので、ここで改めて記しておきたいと思ったのだが、作品が発表された順番が、主人公の「おしず」の歩みを遡る形で書かれているので、ここではこの三作を合わせた形で、まず「妹の縁談」と「湯治」について触れ、それから「おたふく」へと進んで行くことにする。

  「おしず」は、指物職人をしていた凝り性の父と、その父に黙ってついていくような母との間に生まれた長女で、上に兄が二人と妹の「おたか」がいる。長兄は縫箔職人となり、既に所帯を持って家を出ている。だが、次兄の「栄二」は、版下彫りの弟子に入ったが、書物好きが災いしたのか、幕政を批判して改革を目論む浪人たちの仲間となり、禁制になっている山県大弐の『柳子新論』という書物をもっていたところを幕史に捕らえられ、三年間入牢させられ、五年間の江戸所払いとなっていた。

 この次兄の「栄二」は、「この悪い世の中をひっくり返して、みんなが仕合わせになれるようにしようとしているんだ」と言って、母や妹たちから金をせびり、それでは足りないと怒り、着物などを質入れさせて、その大儀のために家族からむりやり金をせびっていく暮らしをしていた(「妹の縁談」、本書115ページ)。ときおり帰ってきては、「世の中のためだ、みんなのためだ」と言って、母親や妹たちを見下したようにして金をせびっては、またどこかへ行ってしまうという具合だった。

 そんなことで、近所へも肩身が狭くなり、だんだん居辛くなって、「おしず」が二十一の年に、日本橋の長谷川町へ転居せざるを得なくなり、「おしず」が端唄や長唄を教え、「おたか」が仕立屋に勤めながら両親を養って、近所とは義理を欠かない程度に暮らしている。「おしず」も「おたか」も、近所での評判の器量よしだが、次兄の「栄二」のことや両親を養わなければないこともあって、婚期をはるかに逃した年齢になっているし、端唄や長唄を教えていることから、「おしず」には誰か金持ちの旦那がいるのではないかと噂されたりもしている。

 しかし、そんな中で「おしず」は、天性の底抜けの素直さと明るさがあり、あっけんからんとしていて、姉妹二人の口から人の悪口や非難、恨みや嘆きなどが語られることは決してなく、「おしず」を知る者は、「みんながおしずさんのような人だったら、世の中はもっと住みよくなるわねえ」(118ページ)と言われたりする。

 たとえば、端唄や長唄を教えながらも師匠の所に手直しに行った時など、手直しに行くたびに変な癖がついていて、師匠から注意されると「あらそうかしら」と言って、もう一度師匠にやってもらうと、子どものようにあけっ放しに感心しながら、「あらほんと、ふしぎねえ、どうしたんでしょう」と言ったりする。

 そのあたりの師匠との会話で「おしず」らしさがよく表されているので、少し抜き書きしてみる。

 「あらほんと、ふしぎねえ、どうしたんでしょう」
 「ふしぎなのはこっちだよ、また出稽古先の近所に常磐津の師匠でもいるんじゃないのか」
 そう云われると思い出すらしい。
 「あらいやだ、お師匠さん知ってらっしゃるんですか」
 「知りゃあしないさ、いつもの伝だからそんなこったろうと思ったんだ、とにかくまあ近くにほかの稽古所のある処は除けるんだね」
 「そうねえ、孟母三遷ってこれだわねえ」
 「なんだって・・・・孟母・・・」
 「あら違ったかしら、君子のほうかしら」
 にこにこ笑って舌を出すのである。当人としてはちょっと気の利いた合槌のつもりであるが、このへんで勘斎翁(師匠)はたいてい絶句するのであった」(「妹の縁談」102ページ)。

 「おしず」という女性は、万事、こんなふうなのである。お弟子さんをとるときでも、自分であまりうまいほうではないと言うことをよく承知していて、はにかみながら、「ほんとに覚えたいのならよそのお師匠さんのところへいらっしゃい、あたしのはほんのまにあわせなんですから」と言うのが常であったが、「おしず」の底抜けのすなおさや明るさ、小さな子どもでもつい笑い出すようなことを平気で言ったりする話がひどく面白くて、桁外れな「頓狂」なことを言うが、本人はいたって真面目で、そこがまた面白くて、弟子たちよりもその家族に好かれるといった具合なのである(108ページ)。

 この「おしず」が、妹の「おたか」の幸せを願って、その縁談に奔走するのが「妹の縁談」で、姉をおいて自分だけ嫁に行けないという「おたか」のために、縁談先に行き、正直にすべてを話して、「でも、あのこは本当にお宅へ来たがっているんです、そしてあたしもぜひ貰って頂きたいんです」と、その思いを素朴に伝えるのである。

 「おしず」は、子どもの頃から、人から騙されても、自分が騙されたとは思わない娘だった。お使いを頼まれて出かけた途中で、猿回しに見とれていたときに、ひとりの男の子が「おいらが使いに行ってやるから、おめえは此処で見て待ってな」と言って「おしず」から小銭を受け取ってどこかにいってしまっても、「おしず」は日暮れまでずっと待ち続け、何日も何日もそこに行って男の子を待ち続け、ついに男の子が根負けして金を返すということがあったりした(「湯治」139-140ページ)。

 その「おしず」が、妹の婚礼を控えて、「世の中のため」といって大儀を振りかざしては金をせびる次兄の「栄二」と真正面から対峙して、「貧しくって困っている自分たちから金を巻き上げて、何が世の中のためだ」と言い切りながらも、栄二が出ていくと、大切にしていた衣類を掴みだして、「栄二兄さーん」と追いかけていくのである。

 そして、この「おしず」が、長い間思いを胸に秘めていた男との結婚とその夫婦の姿を描いたのが「おたふく」である。

 「おしず」が長唄の出稽古に行って親しく行き来するようになっていた著名な彫金家の弟子に「貞次郎」という職人がいて、彼は、師を凌ほどの腕をもっていたが、性格が狷介なのと酒好きとで、三十四五歳になっても独身だった。その彫金家に出入りするうちに、「おしず」は密かにその「貞二郎」を想うようになっていたのである。しかし、相手は江戸中に名を知られた職人だし、「おしず」の家の事情もあり、彼女の歳のこともあり、その恋がかなうとはとうてい思えなかったのである。

 だが、「おしず」の想いは強く、せめてその人が彫ったものだけでも身につけたいと思って、金を貯めては「貞二郎」が作る細工物をひとつひとつ人に頼んで密かに買い集めたりしていた。彼女は、もう三十六歳になるが、彼女の想いはずっと一途だった。

 他方、「貞二郎」は武家育ちだが非凡で、仕事にかかると飯も忘れるほど没頭する性格だったが、酒好きとなり、仕事はできても酒に溺れるほどで、師匠夫婦も先行きを案じて、縁談話を持ち出すが、決してそれを受けつけなかった。そして、先行きを案じていた矢先に、ふとしたことで「貞二郎」の嫁として「おしず」の名前があがるのである。いままで縁談には見向きもしなかった「貞二郎」は、その話を聞くと、即座に「宜しくお願いします」といって、自分から進んで住む家を探し始めたりする。「貞二郎」も「おしず」に対する密かな想いがあったのである。

 こうして、「貞二郎」と「おしず」は、晴れて夫婦となり、相愛の二人は、人もうらやむほど仲がいい。「おしず」は「貞二郎」のために細々と世話をし、職人気質の「貞二郎」もそれを喜ぶようになっていく。それは、こういう女性と暮らすと、本当に楽しいだろうな、と思われるような暮らしぶりである。

 だが、あるとき、ふとしたことで「貞二郎」は、「おしず」の持ち物の中に、かつて自分が彫って大店の贔屓筋に収めたことがある細工物があることを知る。それも、ひとつやふたつではない。そして、かなりな男物の衣類が箪笥に入れられていることを知る。そのことで「貞二郎」は、「おしず」が大店の贔屓筋の囲い者だったのではないかと疑い、悋気に身を焼くようになっていく。酒浸りが始まる。「おしず」に対する態度も変わり、「おしず」もとまどうようになる。

 ある夜、妹の「おたか」と行き違いになって、「おしず」が留守のときに「おたか」が訪ねてくる。「貞二郎」は、ついに「おしず」が持っていた自分の細工物や男物の着物を出してきて、「おしず」のことを聞く。そして、「おたか」から「おしず」がいかに「貞二郎」のことを想っていたか、「貞二郎」が作ったものをせめて身につけたいと大店の主に頼んで買い集めたか、「貞二郎」のことを想って着る当てもない着物を縫い続けたかを聞かされるのである。

 「貞二郎」は、「あいつがいなければ、おれはもうあがきもつきゃあしない」と言い、自分が馬鹿げた勘ぐりをして悋気を起こしていた、どうかゆるしてくれ、と「おたか」に語り、「おたか」は「姉さん、聞いて、貞さんのいま云ったこと、聞いたわね、・・・苦労のしがいがあったわね、姉さん、本望だわね」といって涙を流す(98ページ)。

 そして、そこに「おしず」が帰ってきて、相変わらずの頓狂さに笑い転げ、「おしず」は「貞二郎」が元に戻ってくれたことを喜ぶのである。「おしず」の温かさがすべてを氷解させていく光景で「おたふく」は終わる。

 こういう底抜けに素直で素朴で、いまの言葉で言えば「だいぶ天然」で、正直で、物事を決して悪くとらないような女性、しかも、地に足がついているようにして生きていく女性、それは作者の理想像のひとつだったかもしれないが、それが物語の中で生き生きと描き出されて、作品としても優れたものになっている。人が生き生きと生きている姿をこの作品群は見事に描き出すと同時に、借り物の「大儀」を振りかざしたり、世評に振り回されたりして生きることがいかに意味のないことかも静かに語っている。「おしず」という愛すべき女性の姿を通して、苦労の多い中でも喜んで生きることができる人間の姿が描き出されているのである。

 いずれにしろ、小学館から出されているこの『山本周五郎中短編秀作選集』は、全五巻を買いそろえて蔵書のひとつにしたいと思っている。時代小説の神髄のようなものがここにあるような気がするからである。

2011年5月20日金曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集2 惑う』(1)

 よく晴れ渡って、少し暑いくらいの日差しが注いでいる。帽子や日傘をさした人の姿が目立ってきて、「初夏」を感じる。

 このところ江戸末期から明治にかけて苦労しながら文学を営んできた女性たちの姿を描いた小説を手に取ってみたのだが、どこかの同人雑誌に掲載されている作品を読んでいるような気がして、一言で言えば、「膨らみのない青臭さ」を感じて、珍しく途中で止めて、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集2 惑う』(2005年 小学館)を耽読していた。

 これまでにも山本周五郎の作品はいくつか読んでいたが、先日、あざみ野の山内図書館に行った折りに、書架にこの中短編集があることに気がつき、さっそく借りてきて読み始めたが、ここに収められている中短編は、やはり表題の通り秀作ぞろいだった。巻末の「解題」によれば、ここに収められているのは終戦直後の1945年から1959年までに発表されたもので、「晩秋」、「金五十両」、「泥棒と若殿」、「おたふく」、「妹の縁談」、「湯治」、「しじみ河岸」、「釣忍」、「なんの花か薫る」、「あんちゃん」、「深川安楽亭」、「落葉の隣り」の12編である。

 この内、「おたふく」、「妹の縁談」、「湯治」は、天真爛漫で底抜けに明るく、愛すべき魅力的な「おしず」という女性が主人公の連作で、ようやく三十半ばを過ぎて結婚し、「おしず」の一途な姿とその夫婦の姿を描いた「おたふく」が先に書かれ(1949年)、その物語の前史とでもいうような「おしず」の兄妹思いの姿を描いた「妹の結婚」(1950年)と「湯治」(1951年)が書かれており、初出誌での名前の相違などが、この選集で統一されて、三部の連作として読むことができるようになっている。

 収められている12の短編は、いずれも山本周五郎らしい人の心のひだに染み込むような作品で、特に上述の3つの作品は、そこに描かれる「おしず」の姿が、わたしが思い描く素敵な女性の姿と重なって、感慨深く読んだ作品だった。

 「晩秋」は、岡崎藩主の用人として長い間藩政の実権を握り、冷酷で、専横独断といわれてきた男が、政変によって私曲があった(権力を用いて自分の利益を図ること)という罪で、江戸から国元に送られてくることになり、朽ち果てたような藩の別邸で監禁されることになった。その世話を命じられた「都留」の父親は、かつて、その男の重税政策を見かねて、これを正そうとして失敗し、切腹を命じられて死んだ。「都留」は、父親の無念を晴らそうと懐剣を忍ばせて、その男の世話を始める。

 ところが、実際にその男の世話を始めて見ると、長い間独居生活を質素にしながら、ひたすら藩の立て直しを図り、自らすべての藩の窮状を担い、新しい事態のために罪責を一人で静かに背負おうとする老人の姿がそこにあり、やむを得ず「都留」の父親のような有為の人を窮地に追いやったということを知る。そして、彼が、父親が死んだ後に残された母親と自分のために生きる道を整えてくれたことも知るのである。

 世に奸計と言われ、冷酷といわれてきた男の真実の姿を知って、「都留」の心は溶けていく。すべての罪責を負って死を覚悟した男と晩秋の景色を眺めながら、彼は「花を咲かせた草も、実を結んだ樹々も枯れて、一年の営みを終えた幹や枝は裸になり、ひっそりとながい冬の眠りにはいろうとしている。自然の移り変わりのなかでも、晩秋という季節のしずかな美しさはかくべつだな」と言う(21ぺーじ)。

 ひたすら藩のために人生を費やして終わろうとする男の心情を見事に表した一文だろう。そして、「都留はそれを聞きながら-この方の生涯には花も咲かず実も結ばなかった、そして静閑を楽しむべき余生さえ無い。ということを思った、-いま晩秋を讃えるその言葉の裏に、どのような想いが去来しているのであろうか、と」で終わる。

 選りすぐられた言葉で人のすべてが語られて、深く余韻が残るという短編の妙味が見事だと感じられ、これが終戦直後の1945年の作品であることを改めて深く考えさせられるような作品だった。

 「金五十両」は、両親を早くになくした後、叔父夫婦の世話になって奉公に出て、懸命に働いて貯めた四十五両という大金を叔母に持ち逃げされ、夫婦約束をしていた娘からも裏切られ、信頼していた仕事仲間からも騙され、すべてが嫌になってふらふらと旅に出てしまった男が、どうにでもなれと思って無銭飲食で立ち寄った宿の女中に助けられ、また、旅の途中で見ず知らずの死に瀕した若い侍から金五十両をある家に届けて欲しいと頼まれ、その五十両をもって逃げようかと逡巡しながらも、自分を助けてくれた女中の言葉に従って、実際に届けてみると、若い侍の話は本当で、見ず知らずの自分を信じて五十両もの金を自分に託してくれたことを知り、その若い侍が藩のために決闘して相打ちとなり死んでしまったことを父親から知らされるのである。

 彼が預かった金の影には、主家のために死んだ息子と、爽やかにその責任を負って追放される親の姿があったことを知って、そういう人の生き方の深さに触れ、「人間はこう生きなくっちゃあいけないんだ」と思い返して、人生をやり直そうとしていくのである。

 「泥棒と若殿」は、家督争いに巻き込まれることになった旗本の次男が荒れ屋敷に幽閉され、ついには見放されて飲まず食わずになって過ごしていた所に、ある夜、人の良い間抜けな泥棒が入り、その泥棒が見るに見かねて彼に食事をとらせたり、彼の世話を始めたりして奇妙な共同生活を始めるというもので、幽閉されていた次男も泥棒も、初めて人間らしい温かな交流を覚えていくのである。

 だが、旗本家の内情が変わり、彼は当主としてその荒れ屋敷を出て行かなければならなくなる。その別離を歌い上げながら、人の幸いがどこにあるかを描いた作品である。

 「おたふく」、「妹の縁談」、「湯治」の三つの連作作品については、深く心にしみるものがあったので、後述することにして、次の「しじみ河岸」は、病のために寝たっきりになっている父親と怪我で知恵遅れとなっている弟のために、自ら殺人の罪を犯したと名乗り出た娘を救うために、娘の供述に不審を感じた若い奉行所の吟味与力が真相を探り出していく話で、娘は、大地主で質両替商をしている金持ちの息子が犯した殺人を、父親と弟の面倒を見るということで身代わりになっていたのである。

 わずかな金で動かされてしまう貧乏長屋の人々や、散々苦労し、寝たっきりの親を抱え、知恵遅れの弟を抱え、牢屋に入れられて初めてほっと一息つけたという娘の姿を語る中で、「貧乏ということは悲しいもんだ」(183ページ)という言葉が語られ、それが、しみじみと伝わる作品である。

 次の「釣忍」もなかなか味わい深い作品で、何よりも愛する者と生きることを選択した男の話である。

 「釣忍」というのは、シダ科の「シノブ」に水苔などを巻きつけ、釣り下げることができるようにして、そこに風鈴などをつけて涼を楽しむことができるようにしたものだが、物語の中で、「おはん」という女房が「定次郎」という魚のぼて振り(天秤棒を担いで売り歩くこと)をしている男と所帯を持ったときに買った釣忍を大切にし、枯れたように見える釣忍にも新しい芽が生えてくると言うのである。

 やがて定次郎の兄というのが訪ねて来て、定次郎が実は大店の跡取り息子であり、自分が他に店を出すことと母親が帰ってくることを願っていることを知らされ、「おはん」は自分が元芸者で大店の嫁になどなれるわけがなく、母親も嫌っているだろうと身を引く決意をする。

 定次郎は「おはん」の決意を知り、店に帰るが、彼が帰ってきた祝いの席で醜態を演じて見せて、自分が勘当されるように仕向け、店の表で心配のあまり様子をうかがっていた「おはん」のもとに帰っていくのである。

 「『おはん』と定次郎は呼びとめた、-釣忍に芽が出ていたな、と云おうとしたのだが、首を垂れて手を振った」(208ページ)と記され、「おはん」と定次郎の会話が切ない。

 「なんの花か薫る」は、酔って喧嘩をし、追われていた若い侍が岡場所の見世に飛び込んできて、「お新」という女性が機転を利かせてこれを助け、二人は将来を約束する中になる。若い侍は犯した喧嘩のために勘当の身となるが、「お新」は、その恋の成就にすべてをかけるようになっていく。だが、やがて勘当が解ける日になり、若い侍は、勘当が解けて嫁をもらうことになったと告げに来る。裏切りが残酷な形で残っていく。

 だが、こうした恋の裏切りの残酷さは、男よりも女の方がもっているような気がするが、偏見だろうか。作品としては、これも別の意味で切ない。

 「深川安楽亭」は、ここに収められている作品の中では少し異質で、「安楽亭」と呼ばれる抜け荷で暮らす男たちのたまり場に、生活のために妻子を残して金を稼いでいる間に、その妻子が苦労の末に死んでしまったことを知り、すべてに空しさを感じている男や、愛する女性が岡場所に売られることになり、それを助けようと店の金に手をつけたところを見つかってしまった男がやってくる。

 「安楽亭」にいるのは、人を人とも思わず、同心でさえ平気で殺してしまうような悪を悪とも思わない「けもの」のような男たちだったが、彼らなりの筋を通して、娘が岡場所に売られることになった男を助け、娘を助け出して、そこから二人を旅立たせるというものである。

 「落葉の隣り」は、同じ長屋で生まれ育った繁次、参吉、おひさという三人の間の出来事を綴ったもので、繁次は参吉の人間の出来が違うということを感じ、おひさを恋い慕っていたが、参吉とおひさが相愛であると身を引いていた。繁次は自分に自信をなくしていく。しかし、参吉はやがて蒔絵職人となり、店の娘と結婚するために贋作を作って売ろうとすることを知り、おひさに自分の気持ちを告白する。だが、おひさは、自分も繁次が好きだったが、繁次が身を引いていたために、参吉と恋仲となって、いまではもう、引くに引けなくなってしまったのだと言う。繁次は、「・・・これからどっちへいったらいいんだ」と思うところで終わる。恋の残酷さと微妙なところですれ違ってしまう男女の綾、それが悲しく響く作品である。

 山本周五郎の作品は、改めて、完成度の高い優れた作品だとつくづく思う。登場する人物たちの会話が生きて、情景が織りなされ、人のしみじみした心情や切なさ、生きることの哀しさや喜びが切々と伝わる。「おたふく」、「妹の縁談」、「湯治」にそれがよく現れていると思えるので、これについて、明日のでも記しておこうと思っている。