今日は少し雲もかかっているが、このところずっと秋らしい穏やかな天気が続き、嬉しい限りである。過ごしやすい天気だと心も穏やかになる。明日から仕事も少し立て込むのだが、穏やかなままで乗り切れればいいと思ったりする。
先日から読んでいた山本周五郎『ちいさこべ』(1974年 新潮文庫)を昨夜遅く読み終えたので記しておこう。文庫本初版は37年も前に発行されているが、今の時代小説とは異なって文学的にも思想的にも作者の挑戦のようなところがある中編集で、文学がまだ思想を語り得た頃の息吹を感じたりした。
この『ちいさこべ』には、表題作の他に、「花筵」(1948年)、「ちくしょう谷」(1959年)、「へちまの木」(1966年)の四編が収録され、表題作の「ちいさこべ」は、先に読んだ『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』(2006年 小学館)に収録されていたので、ここでは割愛する。
「花筵」は、恵まれた藩の重職の家庭に育った「お市」という女性の数奇な運命を描いたものである。「お市」は、藩政改革を志す心優しい夫に嫁ぎ、身重となって婚家や夫の愛情を感じながら日々の生活を送っていたが、夫が志した藩政改革が頓挫し、夫の行くへがわからなくなという事態に陥る。彼女は、婚家の義母や義弟とともに藩の捕縛を逃れ、その近郊の農家で筵に花模様などを入れる花筵を工夫して制作したりしていく。だが、洪水に見舞われて、義母を助けるために愛児を失うというつらい経験をしなければならなかった。しかし、どこまでもひたむきに夫を信じ、義母との暮らしを立て直し、夫が残していた藩の重職の不正を記した書物を、彼女が作製した花筵のおかげで藩主とのお目通りがかなうようになり、身を挺して藩主に届け、それによって藩政の風向きが変わり、夫が生きて復帰できることがわかり、信じ続けた夫との再会が果たされていくのである。
日本の女性の健気でひたむきな姿を描き続けた山本周五郎の『婦道記』の流れの中にある中編であるが、「お市」が洪水で愛児を失う姿が、「山が焼ければ親鳥や逃げる.身ほど可愛いものはない」という人間の自己保身の業のようなものを背負う姿として描かれたり、彼女に想いを寄せる男が登場したりして、「お市」が決して単純に夫を信じ、ひたむきに生きるだけではないことが描き出されている。だが、そういう中でこそ「お市」の夫や義母などの愛情に自己を確立して健気に生きる姿が光っていくのである。
これは、長編の要素をいくつかもち、ある意味であっさりと流されているところを膨らませればもっと深みのある作品になったのではないかと思ったりした。
「ちくしょう谷」も、どこまで人は自分に悪を働いた人間をゆるせるのか、人間の救いとは何かという思想の深みに意識的に挑戦した作品で、あまりに主人公が理想的な人間として描かれすぎて、文学作品として成功しているとは言いがたいものがあるが、山本周五郎がこういう作品を書こうとした意図はよくわかるような作品だった。
若い頃は短気な暴れん坊だった朝田隼人は、江戸での剣術の修行中に、勘定奉行を務めていた兄が果たし合いで殺されるという事件に遭遇し、兄が公金を使い込んでいたという理由で朝田家の家禄が半減され、国元に返されることになる。だが、兄の死には謎が残り、生前の兄から送られてきた書簡で、隼人はその真相を知っている。
しかし、彼は若い頃の面影が一切消え去り、人と決して争わない温厚な人物となって戻ってきていた。兄は無実のまま殺されていたが、彼は真相を暴露して仇を討つこともせず、優しい深い眼差しで周囲を見るだけである。彼は、力や正義で生きることが人の幸せをもたらさないことを知っている。どこまでのひたすら優しく生きようとする。
そんな彼が、藩の犯罪者を隔離した「ちくしょう谷」と呼ばれる所があることを知り、その「ちくしょう谷」と呼ばれて隔離され、人々から軽蔑されている人々を何とかしたいと願って「ちくしょう谷」のある山中の木戸番頭として赴くことを願いである。その木戸番には、自らの公金の使い込みを隠蔽しようとして兄を忙殺した男もおり、その男から度々命を狙われるが、隼人は一切争うことも男の罪を暴くこともせずに、ただ「ちくしょう谷」に暮らす人々を何とか教育して、人間らしい暮らしを取り戻させようとしていくのである。「ちくしょう谷」に暮らす人々は、ただ自らの食欲と性欲の欲望のままに生きている人たちであった。
朝田隼人の努力は、なかなか実らない。特に「ちくしょう谷」の人々の性欲はすさまじく、これを理性で押さえることは不可能に思える。そういう中で、木戸番と城下を結ぶ谷の道が壊れ、その修復作業をすることになる。兄を忙殺した人間は、これを機として隼人の命を狙い、失敗して谷底に落ちようとする。朝田隼人はすべてを知っていながら、自分の命を狙った男を憐れに思い、これを助け、その罪のすべてをゆるしていくのである。
朝田隼人の努力は実らず、かれは「ゆるす人間」として穏やかさを保ちながら生きていくが、「人が何を為したかではなく、何を為そうとしたか」で人を量ろうとする山本周五郎の人間観が集約されていると言ってもいいかもしれない。しかし、それは美しすぎる。
「ゆるす」ということについて語ることができるとすれば、人は自分に加えられた悪が本当にひどいときには、その悪をゆるすことはできない。ただ、ゆるそうとする精神の努力があるだけであり、その努力が人の精神を高みに引き上げるだけである。
「ちくしょう谷」という閉鎖され、疎外された世界を背景にして人間の業や罪を描き出す試みは、優れて社会と時代感覚のある試みとなっているが、文学作品として少しもったいない作品になっている気がしないでもない。
「へちまの木」は、山本周五郎が62歳の時の作品で、急逝する一年前の作品だが、旗本の三男として生まれ、武家の生活から抜け出そうとして、いかがわしい瓦版屋で働きながら、世の中の人々の生態を知っていく青年の話で、「人はすべて迷子ではないか」という青年の実感が込められている作品である。青年は武家の生活が嫌になり、かといって市中で暮らすこともうまくいかず、結局、彷徨していくことになるが、迷子は同時に求める者であり、落ち着き場のないままに放浪するのが人生かも知れないという作者の若干の疲労感が伝わってくるような作品だった。
山本周五郎の作品には、どの作品でも感じるのだが、作者の実存の反映のようなものがあり、思想的に苦慮しながら作品を生み出していった苦労がにじみ出ている。その意味で、彼の作品は文芸ではなく文学作品と呼べるだろう。彼はとことん優しく、その優しさ故にする苦労をよく知っている作家であるに違いない。
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