2011年9月5日月曜日

宇江佐真理『通りゃんせ』

 紀伊半島を集中豪雨で襲った台風の影響で、午前中は雨模様の天気だったのだが、長い間留守がちだったこともあって、半日ほど家の掃除をしていた。

 昨日の夕方から夜にかけて、図書館で借りてきていた宇江佐真理『通りゃんせ』(2010年 角川書店)を、作者が持つ優れた柔らかな世界を味わいつつ読んだ。これは、江戸時代にタイムスリップした青年を通して時代と人々を描くという、作者にしては珍しい趣向が凝らされているが、作風が成熟してきた感さえある作品だった。

 考えてみれば、歴史時代小説というものは、タイムスリップして歴史上の時代に降り立つようなもので、もし作者がそのような視点で物語を織りなし、歴史と人間を描くことができれば、文学作品として大成功なわけだから、こういう試みは極めて有効だろうと思う。ただ、そのためには、歴史とその時代の人々の暮らしについてのかなりしっかりした知識が必要だし、現代という時代の把握も不可欠となる。その点では、この作品は作者の人間に対する温かな視点が巧みに織り交ぜられて申し分のない出来になっている気がする。

 物語は、北海道から東京に転勤になった大森連という青年が、趣味のマウンテンバイクで甲州街道を北上し、小仏峠の付近で道に迷い、タイムスリップして天明6年(1786年)、まさに天明の大飢饉の最中にある農村に行くというものである。

 タイムスリップした大森連は、武蔵国中郡青畑村の百姓をしている時次郎とさなの兄妹に助けられる。ちなみに、武蔵国(現:府中、多摩、埼玉)には那珂郡(なかごうり)があったが中郡はないので青畑村は、飢饉にあえぐ典型的な農村として作者が創作したものだろう。

 助けられた大森連は、次第に江戸時代の農民の暮らしに馴染んでいくが、洪水の危機に見舞われたり、本格的な飢饉の到来に見舞われたりして、この時代の農民の暮らしのひどさや辛さをつぶさに味わっていくことになる。食べることができなくなって、娘を売る親、売られていく娘、したたかに生きようとする農民など、彼の周囲には様々な生活の姿がある。彼を助けた時次郎は青畑村を領地としていた旗本の中間だったのだが、一揆が起こるのを防ぐために青畑村に遣わされ、農村の五人組の組頭となって農民の暮らしを守ろうとしている人物だった。大森連も、時次郎を助け、励ましながら洪水を防ごうとしたり、飢饉から生きのびる努力をしたりしていく。

 そして、年貢の軽減のために江戸に出てきて、領主である旗本の下で働いたりするが、飢饉は確実に村を襲い、その間、彼に思いを寄せ始めていたさなが夜這いにあって手籠めにされ、大森連が青畑村に帰ってきた時に自死してしまう。江戸時代の厳しい農村で健気で懸命に生きたさなと、現代という時代の中で、まさに現代女性として生きている大森連の元恋人の姿の両方の女性の生き方が描き出されたりする。大森連は、さなの思いを知りつつも、自分が現代に戻ることばかりに性急になり、さなの自死を止めることができなかったのである。

 だが、タイムスリップで歪んだ時は、自然に修復されていく。嵐の中で、大森連は再び現代に戻り、ふとした偶然で、自死させてしまったさなと瓜二つの女性と出会うことになるのである。そして、自分が江戸時代の飢饉で苦しむ人々の中に行ったのは、ただ、この女性と出会うためであったことを知っていくところで物語が終わる。

 天明6年は、老中田沼意次が失脚し、やがて松平定信が寛政の改革をはじめようとする時であり、徳川将軍も家治から家斉に変わっていく政変の時代である。また、天明3年(1783年)に浅間山が噴火し大被害をもたらしたりして人々の窮乏が続いた時代であるが、他方では江戸で狂歌が流行し、田沼時代の爛熟した文化が盛んだった頃でもある。こうした時代の背景も巧みに盛り込まれている。一言で「農民の暮らしは過酷を極めた」と言われるところが丹念に物語として描き出されているので、とても妙味のある作品だと思っている。また、すべての出来事がひとりの女性に出会うためであるという結末も、わたしの好みだ。人の幸せは,愛する者に出会う以外にないと思うし、すべての過去が現在の愛に昇華される時、過去はそれが良かれ悪しかれはじめて意味をもつと思っているからである。

 宇江佐真理の作品は,どの作品を読んでも、その独特の柔らかで温かな世界で満ちていると思う。作者の人間性と視点がこれほど文体に現れる作家も少ないだろう。『富子すきすき』という作品も借りてきているので,次はこの作品を読むことにする。

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