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2013年10月4日金曜日

宮部みゆき『桜ほうさら』(2)

 神無月を迎えた。天候の変化の激しい日々が続いたので、これから少し穏やかな秋の日和の日々になって欲しいと願っているが、今日は曇って肌寒く、今にも雨が降りだしそうである。今日はこれから三鷹まで出かけ、夜は吉祥寺での打ち合わせ会があり、少し慌ただしい。身辺も慌ただしくなっているが、こちらの方は「ケセラセラ」である。

 さて、宮部みゆき『桜ほうさら』(2013年 PHP研究所)の続きである。本書には、もちろん、主人公古橋笙之介の人間性を表す箇所がたくさん記されていて、随所でその人柄がじんわりと感じられるような物語になっていが、たとえば、貸本屋の村田屋治兵衛が出入りしている貸席屋(場所を貸す商売)の三河屋の一人娘が行くへ不明になる事件に笙之介が関わっていく出来事が記されている箇所がある。治兵衛自身が、若い頃に、愛する妻が突然行くへ不明となり、半月後に殺されて遺体で発見されるという痛みを抱えていた。治兵衛は、その自分の痛みと娘が突然いなくなった両親の痛みを重ね合わせて、三河屋の娘の行くへを探し、笙之介にも手伝いを依頼するのである。その時に、治兵衛は自分の妻が殺された事件を笙之介に話すが、その時の場面が次のような描写になっている。

 「今、治兵衛がこうして語っているのも、実は笙之介に洗いざらい聞かせるためではなく、新しく起こった拐かしに、抑えても抑えても蘇ってくる二十五年前の苦しい想いを、いっぺん口から吐き出してしまわないと、まともに呼吸をすることもできないからではないか。
 仏壇と、そこに納められている亡妻の位牌を見つめる治兵衛の目は乾いている。眼差しは揺れている。そこにいるおとよ(亡妻)の魂と、別れの辛かったことを、今も互の想いは続いていることを、うなずき合って確かめているかのようだと、笙之介は思った」(327ページ)。

 ここで描かれているのは、大切なものを失った者の微妙な心のひだである。その心の機敏を笙之介が感じることができる人間として描かれているのである。宮部みゆきの表現の豊かさがこういうさりげない描写に溢れている気がするのである。

 この拐かし事件そのものは、やがて狂言によるものであることが笙之介によって明らかにされていくが、笙之介は、「嘘をつくなら、一生その鈎(かぎ)を心に食い込ませたまま生きようと思うときだけにしろ、それほど重大な嘘だけにしろ」という父親の言葉を思い出す(383ページ)。それほど、笙之介は物事をまっすぐに見て、そこで生きようとする人間なのである。

 彼は和香と、「人は目で物を見る。だが、見たものを留めるのは心だ。人が生きるということは、目で見たものを心に留めてゆくことの積み重ねであり、心もそれによって育っていく。心が、ものを見ることに長けてゆく。目は、ものを見るだけだが、心は見たものを解釈する。その解釈が、時には目で見るものと食い違うことだって出てくるのだ」(430ページ)ということを話し合っていく。こういうことを話せる笙之介と和香が、物事の機敏を感じる人間であることが記されているのである。

 笙之介は、たとえ誰が信じなくても、自分だけであっても、父親のこうむったのが冤罪であり、その事件には裏があったことを信じて、真相に迫っていく。こうして、人の筆跡をそっくり真似て人を陥れることを面白がるねじ切れた代書屋を探し出し、物語は山場を迎えていく。すべては、藩の勢力争いに加担して功を焦った兄によって行われたことが分かり、笙之介自身、その兄に斬られてしまうのである。

 だが、和香や周囲の人々の必死の介護で一命を取り留め、笙之介は、飢饉の時の救済法を記した書物を出したいと考えるようになり、和香もまた、彼とともに生きていくことが示唆されて物語が終わる。

 この作品には、さりげなさの豊かさと温かさが溢れていて、宮部みゆきらしい作品になっていると思う。こういう物語の表現は彼女の『日暮し』にもよく表れていて、人物描写の豊かさが感じられる温かい作品だと思う。

2013年9月30日月曜日

宮部みゆき『桜ほうさら』(1)

 ようやくまた、秋らしい日々が戻ってきた。晴れた秋の空は穏やかさが漂って美しい。「空の鳥を見よ」である。

 先日来、宮部みゆき『桜ほうさら』(2013年 PHP研究所)を、やはりこの人は、言葉の使い方と文章、そして展開の巧さにおいて随一の作家だと思いつつ読んでいた。ストーリーテラーとして現代の第一人者であるだろう。

 『桜ほうさら』という聞きなれない言葉が表題として使われているが、作者によれば、甲州の韮山地方で、「あれこれといろんなことがあって大変だ、大騒ぎだっていうようなときに」使われる言葉で「ささらほうさら」というのがあり(4142ページ)、その言葉をもじって作者が創作した言葉である。

 「ささらほうさら」という言葉の音の響きがどこか柔らかくて、大騒ぎしているようなイメージではなく、いろいろなことが起こる中を流されながらも自分の身を天に委ねていくような大らかさがあるような感じがするこの言葉を、さらに桜にかけて、桜の花びらが風に吹かれてしきりに散っていくような印象が「桜ほうさら」という言葉から浮かぶ。

 本書は、江戸から二日ほどの近郊にある搗根藩(とうがねはん-作者の創作による藩)という小藩の八十石の小納戸役(服や日用品を管理する役)であった古橋宗左右衛門(そうざえもん)が賄賂を取ったという疑いをかけられて切腹した後、取り潰しにあった古橋家の次男である古橋笙之介(しょうのすけ)が江戸に出てきて、貧乏裏店に住みながら貸本屋の写本作りをして糊口をしのいでいるところから始まる。

 笙之介の父の宗左右衛門は、真面目で実直な人柄であり、穏和で、思いやりの深い心優しい人であったが、あるとき突然に藩の御用達の道具屋である「波野千(はのせん)」から賄賂を受け取ったという訴えを起こされ、彼が書いたと言われる証文が提出された。宗左右衛門には身に覚えがなかったが、証文に書かれていた筆跡は紛れもなく彼のものだった。そして、宗左右衛門の妻の里江が長男である勝之介の猟官運動に多大な金を使っていたことが明るみに出て、閉門蟄居を命じられたのである。この事件には何か裏があると目されていたが、宗左右衛門は、閉門蟄居を命じられて三日後に、自宅の庭先で腹を切り、その介錯を長男の勝之介がしたのである。

 宗左右衛門と気の強い妻の里江の間はなかなか反りが合わず、里江は剣の腕も立つ優秀な長男の勝之介を溺愛し、勝之介もまた、気の弱い父親を軽蔑していた。勝之介は父親を介錯したあと、「無様だ」と吐き捨てるほど父親を蔑視していたのである。武辺者ぶりを尊ぶ家中の雰囲気があった。だが、笙之介はその父親が好きで、彼の深い愛情や心優しさを汲み取るところがあった。笙之介自身も、剣もからっきしだめで、兄や母からは軟弱者と見られていた。彼もまた穏和で心優しい性格を父親から譲り受けていたのである。そして、二十歳になる笙之介は藩校に通い、剣ではだめでも文ならと励んでいた。そして、そこの老師に見込まれて、学問を続けながら祐筆(書記役)になる話もあったが、父親の一件で、その話も消え、老師の内弟子としての生活を送るようになった。

 そして、兄の勝之介の再興を諦めない母から、江戸留守居役の坂崎重秀のところに行って、古橋家の再興を頼むように言われる。母の里江が宗左右衛門のところに嫁いだのは三度目の婚儀で、江戸留守居役の坂崎重秀は、死別した最初の夫の縁故に当たる。坂崎重秀も笙之介を江戸にやるように手配しているという。それで、彼は江戸に出てきて、坂崎重秀の手配で、彼の密命を受けて、貧乏長屋に住んで、貸本の写本作りをしながら生活しているのである。坂崎の密命とは、父の収賄罪糾弾の際に用いられた本人のものと区別がつかないような筆跡で証文を書くことができる人物を探し出すというものだった。

 笙之介の人柄は長屋の者たちからも慕われ、彼の日常は何事もなく過ぎていく。貧しい者たちが肩を寄せ合い助け合っていく姿を経験していく。そして、彼に写本作りの仕事をもってくる貸本屋の村田屋治兵衛も彼の人柄を信頼し、何かと配慮をしてくれる。そんな中で、あるとき、長屋の裏手の掘割の土手に植えられている桜の木の下に、切り髪で少しおでこが出ているような愛らしい女性がいるのを見る。彼にはその女性はまるで桜の精のように見えた。それが、彼と和香との最初の出会いだった。彼はその女性のことがひどく気になったのである。

 和香は、仕立屋の一人娘であったが、体の左半分に赤い痣があり、それを隠して家から一歩も出ないような暮らしをしていた。彼女の痣は遺伝的な体質だという。だが、笙之介は、和香に痣があることを知っても、少しも気持ちは変わらなかった。そういう笙之介との出会いを通じて、和香もだんだんと変わっていき、徐々に人前にも出るようになっていく。この二人のそれぞれの思いは美しい。和香は、利発で、賢く、勝気さを持ち合わせている愛らしい女性だった。

 そのうち、貧しい小藩の老侍が、隠居した大殿が気鬱のようになって訳のわからない文字を書くようになり、その文字の判読ができる鍵をもっている人物の名が古橋笙之介という名であり、同名の笙之介を訪ねてきて、笙之介が和香と協力して、何とかその鍵となる人物やそれにゆかりのある者を探し出して、大殿が書いた文字の判読を行うという出来事も起こったりする。文字は人。だとしたら、他人の筆跡と同じような筆跡を使うことができる人物はいるのか。笙之介が受けていた密命の要の部分が、やがて明らかになっていく。

 笙之介を江戸に呼んだ江戸留守居役の坂崎重秀によって、次第に搗根藩(とうがねはん)の内情やそこで起こっている権力争いなどの姿がわかってくる。坂崎重秀は、心底、笙之介の身を案じ、母の里江と兄の勝之介の行く末を案じていたのである。彼は磊落で、成り行きを温かく見守るようなところのある太っ腹の人物であると同時に、やり手でもある。

 笙之介は坂崎重秀から命じられた同じ筆跡を書くことができる者を探し出していく。そうして、そういう人物が、世を拗ね、人を拗ね、ねじ切れて生きていることを知るのである。そして、父親の冤罪から始まる事件で、父親を訴えた御用達の道具屋の乗っ取りから藩の勢力争い、そして、それに加担していた兄の勝之介の野望などが明らかにされていく。今回はここまでとして、もう少し書いておきたいことがあるので、続きは次回にでも記そう。

2013年5月27日月曜日

宮部みゆき『長い長い殺人』

 九州南部が梅雨入りするかもしれないとの予報が出ていたが、こちらはまだ雲が広がって少々の蒸し暑さを感じるだけである。

 なぜか久しぶりに宮部みゆきの作品が読みたいと思って、先日、あざみ野の山内図書館に行った際に『長い長い殺人』(1992年 光文社 1999年 光文社文庫)を借りてきて読んだ。これは、もちろん時代小説ではなくミステリーであるが、テレビドラマ化もされた作品で、それぞれの「財布」を語り部にしてその持ち主を語りながら殺人事件の真相を綴っていくという異色の作品である。

 こうした文学手法がほかにないわけではないが、持ち主の人格に合わせて財布の語り口も異なり、しかも「見守るもの」としての財布を際立たせて客観性を持たせると同時に人物像を浮き上がらせていくという傑出した、そして、作家の技量が問われるような書き方がされており、それが見事に成功している傑作である。

 物語そのものは、ある男が車に轢き殺されて、それが、最初は保険金目当ての交換殺人の様相を呈しながらも、第三者を使った計画殺人であったということが分かっていくというものだが、そこに複雑な人間心理と人間模様が展開されている。

 事件は、ある晩に一人の男が轢き殺されるところから始まる。彼には多額の保険金がかけられており、彼の妻には愛人がいた。妻の森元法子にはアリバイがあるが、愛人の塚田和彦のアリバイは不明で、容疑は塚田和彦へと向かう。しかし、証拠がない。次に、結婚したばかりの塚田和彦の妻が殺され、彼の妻にも多額の保険金がかけられていた。その時には塚田のアリバイはあるが、愛人の法子のアリバイは不明である。調べてみると、塚田には前妻があり、その前妻もひき逃げ事件で死亡していた。

 森元法子の夫のひき逃げ事件で法子を強請ろうとした女も殺され、その女が残した財布を拾ったバスガイドが危険な目にあったりもする。こうして、塚田和彦と森元法子の共犯による一連の犯行は明らかなようだが、一切の証拠がない。

 マスコミは、この事件を大々的に取り上げ、塚田和彦と法子は「時の人」となっていく。塚田和彦はハンサムであり頭も切れるし、レストランの共同経営者であり、生き方がスマートに見えるし、法子は美女で、いわゆるマスコミ受けがするのである。そのうち、塚田和彦のアリバイを証明するようなことも出てきて、彼らは容疑者から一転して被害者になったりする。塚田和彦も法子も、そうしたマスコミの取り上げ方を楽しんでいるようでもある。彼らは自分たちが絶対に手を下していないという確信があった。

 やがて、自分が真犯人だと名乗り出てくる者も現れたりしていく。そして、ついに自己顕示欲に負けた真犯人が見つかるのである。真犯人は塚田和彦によって心理的に操られていたことがわかるのである。

 この物語には、この事件とは直接関係のない他の事故を装った殺人と万引きの少女が登場するが、それらは、人間の心理の闇を表すもので、塚田和彦の人物像をそうしたことで浮かび上がらせるものとして挿入されているのである。

 こうした人間を描くところには、強烈な自己意識を必要とする現代社会の中で、自己のリアリティの充足をマスコミが大々的に取り上げる犯罪によって求めようとする衝動があることを鋭く掘り下げる作者の視点がある。

 優れた小説は社会の預言的な機能をもつと思うが、実際、この作品が書かれた後の2000年代には、こうした自己のリアリティを求める行動が多出した。病める現代の病める状況が次々と起こったのである。現代人のこの深い問題がミステリーの形を借りた物語として展開されているのである。

 直木賞作品となった『理由』も同じであるが、物語の展開の中で宮部みゆきは現代社会が抱えている人間の問題に深く、そして鋭く迫るのである。彼女の作品が通り一遍のスト-りーではなく、人間の問題を、社会的にも心理的にも鋭くえぐったものであるところに、この作家のすごさを感じる。そして、それと同時に全体がさわやかなのである。深刻な話を深刻にすることは比較的平易だが、深刻な話を深くさわやかにできるのは彼女の天分だろうと思う。日常を楽しみ、日常を大事にするという作家の姿勢が一貫していると改めて思う。宮部みゆきは、面白くて意味のある作品を書き続けている。彼女の作品の中の時代小説の中では『孤宿の人』が最高だと、今でも思っている。

2012年2月24日金曜日

宮部みゆき『おそろし 三島屋変調百物語事始』

ようやく寒さがゆるみ始め、近所の花屋さんの店先では花を咲かせたチューリップが売られていた。また寒さがぶり返したりして、今の季節はどことなく中途半端なところがあるが、それでも早春を感じられるのは嬉しいことである。梅がほころび始めるだろう。

 宮部みゆき『おそろし 三島屋変調百物語事始』(2008年 角川書店)を読んでいたので記しておくことにする。

 「百物語」というのは、もともと、江戸時代に一種のブームともなった怪談話をする集まりでなされた話で、集まった人たちがそれぞれに不思議な体験や因縁話をし、百話が話し終えられると本物の「ものの怪」が現れるとされ、肝試しのようなものとしても行われていたもので、それを集めたものを「百物語」と称したりしていた。

 本書は、こうした怪談会の趣向とは異なって、身辺に起こったある事件のために傷心を受け、叔父である江戸神田の袋物屋「三島屋」に引き取られた「おちか」という娘が、叔父の計らいで他の人の因縁話を聞くことで、自分が関わった事件の姿や自分自身を、それぞれの因縁話の解決と共に解き放ち、自分の姿を取り戻していくというものである。

 個人的な所感を最初に言えば、こうした設定の仕方に、いささか無理があるし、「ものの怪」によって事柄が解決していくという出来事は、わたしのような人間にとってはいささか読むのに忍耐がいる。しかし、「現代の語り部」としての宮部みゆきの本領はよく発揮され、人間の回復というものが結局は自分自身で納得することによって行われていくものであることを改めて感じたりした。

 「おちか」のもとを訪れた最初の人間は、兄を見捨てたことに悩む弟である。兄弟思いで親代わりとなって育ててくれた兄が、喧嘩でかっとなって人を殺めてしまい、遠島となる。そして、赦免されて帰ってくる。しかし、幼い頃から兄に育てられ、兄を慕っていたはずの弟は、世間体を考えて帰ってきた兄とも会おうともしない。むしろ身内の犯罪者として疎ましく思い始めるのである。そして、そのことを知った兄が自ら首をくくって自死してしまうのである。その自責の念にかられた人物が自分の心情を「おちか」に露吐する(第一話「曼珠沙華」)。

 次に「おちか」を訪れた人間は、家族が不思議な家に魅了され、それに取り込まれてしまい、自分の魂もそこに閉じ込められてしまった女性である。貧しいながらも助け合って暮らしていた錠前直しの一家が、あるとき不思議な家の蔵の錠前直しを依頼されたところ、その家に住めば百両の金を出すといわれ、なにかの因縁があると思いつつもその家に住むようになり、ついにはその家に取り込まれてしまうのである。「おちか」のもとを訪れた女性は、錠前直しの父親の師匠からかろうじて助け出されるが、魂はその家に置きっぱなしであった。この不思議な家は、人間の魂を喰う家で、やがて物語の関係者がすべてこの家に集められることとなる。(こういう展開に、わたしはちょっと無理を感じるが。)

 第三話「邪恋」は、主人公である「おちか」自身に起こった出来事で、「おちか」は他の人の不幸話を聞く中で、自分の身に起こった事件を徐々に整理していくのだが、「おちか」をめぐって男同士の殺人事件が起こったことが記されている。

 「おちか」は川崎の老舗の宿の娘であった。彼女がまだ幼い頃、雪混じりの雨が降る寒いよるにひとりの男の子が街道沿いの斜面に捨てられて死にかけているのを父親が助け、父親は彼を引き取り、一緒に育てあげていた。家族同様と言いながらも奉公人として使っており、都合のよいときには家族として、都合の悪いときには捨て子の奉公人として扱っていたのである。彼は次第に「おちか」に思慕を抱くようになっていたし、「おちか」の心にも彼があった。だが、自分が捨て子であることで、彼はひたすら「おちか」の幸せを願っていた。やがて「おちか」に縁談が持ち込まれ、その縁談相手に「おちか」を頼むと言い、「おちか」の縁談相手は「おまえのような人間に言われたくない」と争い、ついに彼は「おちか」の縁談相手を鉈で殺してしまい、自らも死んでしまうのである。

 「おちか」もまた、その争いの瞬間に、彼を余所者として見捨ててしまい、以後、自責の念に駆られて閉じこもりの生活をしていたのである。「おちか」は自分のために二人の人間が死んでしまったという自責に縛りつけられて、叔父の家に引き取られていたのである。そういう「おちか」自身の事情がここで語られるのである。

 こうした「おちか」自身の話の後で、次に「おちか」のもとを訪れたのは、病身のために離れて育っていた姉が健康を取り戻して帰り、美男の兄と美女の姉が、相思相愛の仲となってしまって、互いに自死した妹である(第四話「魔鏡」)。

 そして、百の物語ではないが、「おちか」自身のことを含めて四つの出来事が、一つになって大演壇を結んでいくのが「最終話 家鳴り」で、第二話で語られた不思議な家が、これまでの登場人物たちの魂をすべて集め、なお「おちか」自身を欲するようになり、「おちか」は、多くの人たちの力を借りながらその家と対決し、すべての集められた魂を解放し、それによって自分自身も解放していくというものである。

 これまでも宮部みゆきは「ものの怪」を扱った作品を書いているが、本書は少し違った毛色の作品で、なにかの事件が解決されることよりも、過去に縛りつけられ身動きの取れなくなった女性が、他者の不幸と因縁の話を聞き、自分自身の問題を直面し、それと真正面から対峙していくことで自らを回復させていくことに重点が置かれている気がする。

 しかし、私見ではあるが、彼女の時代小説の最高峰は『孤宿の人』で、本書は、これといった特色には少し欠けているような気がしないでもない。だが、物語作家としての本領はあって、面白く読めた一冊ではあった。

2011年12月21日水曜日

宮部みゆき『おまえさん 上下』(2)

朝方は雲が覆った冬空が広がっていたが、今の時間になって雲が晴れ、陽がさしている。冬はこんなに寒かったかなと思うほどだが、たぶん、こちらの体調の具合にもよるのだろう寒さが堪える。

 今年は、喪中欠礼の葉書がたくさん届き、「しがらみを捨てて、自分の意志を大切にして生きること」の大切さを改めて感じたりしている。少々自己中心的であっても、他者にも優しく「矩を越えなければ」それがいいのではないかと思ったりもする。「変えるべきものは変え、変えることができないものは受け入れ、変えるべきものと変えることができないものを見分けていく」そうして、自分が納得できればそれでいい。自己の範囲をどこまでとるかが問題だが、時間とお金は自己満足のために使おう。偽善はもういい。一休和尚や良寛さん、小林一茶などを思い起こしたりする。

 そんなことを考えながら、昨夜、磁器のサラダボールを洗っていたら、不思議に真っ二つに割れてしまった。力を加えたわけでも何かに当てたわけでもなく、自然にパカリと割れた感じで、昔から器がこういう割れ方をするのは不吉のしるしといわれてきたことが頭をよぎり、大切なものが失われたのかも知れないと思ったりした。もちろん、現実には掌を切ったぐらいで何の変化もなかったのだが。

 そんな一日が明けて、さて、宮部みゆき『おまえさん』の続きを記すことにした。事件は20年の歳月を経て起こったのである。20年前に犯した罪を背負いながら生きてきた大黒屋の主人と「瓶屋」の新兵衛、久助は、それぞれの人生を歩んでいく。しかし、新兵衛と久助が殺されて不安になった大黒屋の主人が、自らが犯した事件を井筒平四郎らに告白する。だが、事柄はそれだけではなく、「瓶屋」の隣で医家を開いていた医師が死に、まだ喪が明けないうちに医師の妻であった美貌の「佐多枝」が新兵衛の後妻になっていた。そのことで医師の死に疑念がもたれたのである。

 新兵衛には、人形のように美しい「史乃」という娘がおり、新兵衛が美貌の「佐多枝」を後妻として迎えたころから、父親に対する疑念もあって親子関係がぎくしゃくしていた。「佐多枝」の夫である医師の死は、酒に酔って溝にはまった全くの事故死だったのだが、娘の「史乃」は、父親が「佐多枝」を自分のものにするために殺したと疑い続けていたのである。「史乃」は、20年前に父親が起こした殺人も知っていた。しかし、医師の死とと久助の死が結びつかないでいた。

 こういう事態を打開するのは、やはり、天才弓之助である。弓之助の視点は、天才らしく素直である。弓之助は瓶屋新兵衛が室内で殺され、しかも家で争われた形跡もないことから、手引きをする者がいたに違いないと考え犯人を探り出していくのである。

 そして、事故死した隣家の医師にいた男前の弟子が、医師の死と20年前の事件を関連づけ、いわば天誅を下すようなつもりで、久助と新兵衛を「史乃」と共同して殺し、夜鷹は捜査の目を欺くために殺したことを明白にしていくのである。「史乃」と若い男前の弟子は、美男美女で、互いに愛し合っていたのである。だが、井筒平四郎は若い医師の弟子は「佐多枝」に想いがあるのではないかと考えたりする。

 同心の間島信之輔は、事件で知り合った「史乃」に惹かれ、恋心を抱き、探索の進展をついもらしてしまう。そして、手が回ったことを知った若い弟子と「史乃」は逃亡するのである。行くへはようとしてつかめなかった。間島信之輔の失敗を間島家にやっかいになっていた大叔父と呼ぶ本宮源右衛門がかぶり、信之輔は鬱々とした日々を過ごしていく。若い間島信之輔は、また、瓶屋に出いるするうちに「佐多枝」にも惹かれていく。

 だが、しばらく経って、ふとしたことで犯人の若い弟子と「史乃」の隠れ家がわかり、「史乃」は捕縛されて、若い弟子は追い詰められて水死することで事件が決着するのである。

 その間に、間島家を出た本宮源右衛門は、「お徳」の家の2階で学問所を開くことになったり、様々な人間模様が展開され、富くじが当たったばかりに身を滅ぼすことになってしまった男や、その周囲の人々の物語があったり、殺された夜鷹やその友人の話があったりして、実に多彩な展開がされている。ひとりひとりの人物には、ひとりひとりの人生と生活があり、それが描き出されているのだから、これだけの長編になるのもうなずける。「おでこ」の母親がなぜ「おでこ」を捨てたのか、その「おでこ」を気遣う政五郎とお紺の夫婦の姿など感動的であるし、井筒平四郎の物事に拘らないさっぱりとした大きな性格や細君のよさ、天才美少年弓之助の面白さなど、ふんだんに描き出される。登場人物たちに生きた人間の匂いがするのである。

 本書で取り扱われる事件そのものは極めて単純である。それは、いってみれば、見栄えの良い美貌の青年にたぶらかされて、正義の仮面をかぶり、生家である生薬屋の乗っ取りが陰にあることも知らずに父親殺しをした娘の事件である。だが、それにまつわるひとりひとりの人間の人生と生活、心情が丁寧に、しかも軽妙な筆使いで展開されていくのである。宮部みゆきは、やはり、うまい作家だと思う。おそらく、今、一番うまい物語作家だろうと思う。これは、細部にわたってそのうまさが光る作品だった。

2011年12月19日月曜日

宮部みゆき『おまえさん 上下』(1)

クリスマス前の一週間となり、年も押し詰まって慌ただしくなっているのだが、だいたい毎年、今頃は気分も呆けたようになっている。年明け早々に締めきりのある原稿にも手をつけずに、いっさいを横に置いてぼんやりと日々を過ごしている。これではいけないと朝から掃除をはじめ、カーテンを洗濯し、寝具を変えたりしていた。

 ようやく一段落つき、宮部みゆき『おまえさん 上・下』(2011年 講談社文庫)を楽しみながら読んでいたので記しておくことにする。これは『ぼんくら』(2000年 講談社)、『日暮らし』(2005年 講談社)に続く作品で、どちらかといえばミステリーやSF物よりも時代小説の方がいい作品だと思っている宮部みゆきの久々のまとまった時代小説だから、発売されるとすぐに購入していた。作者の時代小説の最高作品は『孤宿の人』だと思うが、『ぼんくら』、『日暮らし』、『おまえさん』のシリーズの発行年がほぼ5年ごとで、まず、作者の思考力の持続性に脱帽する。しかも、本質的に物語作家であり長編作家である作者の書き下ろす分量は、本書でもかなり厚い上下二巻本で、執筆するエネルギー量にも驚嘆する。長編になる理由は作者の人間観をよく表していると思う。

 宮部みゆきの文章や感性も非常に優れているが、この連続した三作品は、何と言っても登場人物がユニークである。

 中心となっているのは奉行所臨時廻りの同心である井筒平四郎で、物覚えも悪く、細かなことは考えたくもなく、できるだけ働きたくないと思っているほどの茫洋とした人物だが、内実は、人を罪に定めることが嫌いで、鷹揚で懐が深く、情け深い人物なのである。実際は、繊細な感性と明察力をもっているが、それを決して表に出さないだけである。だから、かなりいいかげんな人間に映る。容貌も風采が上がらず、細い目に頬がこけて顎が長く、無精ひげがぼそぼそと生え、ひょろりとした体格をしている。剣の腕もからっきし駄目で、すぐに腰が引け、ぎっくり腰の持病もあって体力もない。こういう人物が作中の中心人物なのだから、展開が面白くないわけがない。

 彼は仕事をしたくないので、ふとした事件で知り合った煮売り屋の「お徳」が営む「おとく屋」に入り浸っている。「お徳」との出会は『ぼんくら』で詳しく述べられている。その「お徳」もまた人情家で、気っぷのいい女性だが、しっかり者であり、井筒平四郎の本当の良さをよく知っている人物である。彼女は平四郎が自分の店でごろごろするのを喜んでいるのである。

 彼の細君は、彼とは反対に絶世の美貌の持ち主で、明るく機知に富んでおり、手習い所の師匠をするほどの女性である。二人には子どもがない。その細君の姉が藍玉屋に嫁いでもうけた12歳になる四男の弓之助を養子にしたいと思っている。本書では、その細君の機知ぶりが光り、平四郎が恐れ入る場面も描かれている。

 平四郎が可愛がり、養子にしたいと思っている藍玉屋の四男である少年弓之助は、誰もが虜になるほどの完璧な美貌の持ち主で、その美貌故に女難に遭うのではないかと思われるほどの少年であるが、それ以上に天才的な頭脳の持ち主である。天が二物も三物もを与えた少年である。自らも学問に精進し、家でもよく働くしっかり者であるが、好奇心旺盛で、物の道理を見極めたいと思っている。そのため少し風変わりな言動もとったりするが、人々の信任も厚い。ただ、おねしょ癖が治らない少年でもある。そして、叔父である平四郎を助け、難解な事件も筋道を立てて解決することができる才能の持ち主である。平四郎と並んで物語の主人公でもあり、その成長ぶりが巧みな筆致で描き出されていく。

 平四郎の人物を見抜き、彼の人柄に惚れて、彼のために働く岡っ引きの政五郎は町の人からも信頼の厚い人情家で、機転が利き、「お紺」という妻があり、その「お紺」も人情家で蕎麦屋を営んでいる。そして、その政五郎とお紺の夫婦が引き取って育て、可愛がっているのが「おでこ」と呼ばれる三太郎で、「おでこ」は、すべての事柄を正しく記憶することができる特異な才能の持ち主なのである。「おでこ」と弓之助は深い友人となって、名コンビを作っている。

 「おでこ」の父親は人を殺して牢屋で死に、「おでこ」は「鈍くて他の兄弟の足を引っ張る」という理由で母親からも捨てられたのである。その「おでこ」を周囲の人々は温かく信頼をもって育てている。母親が「おでこ」を捨てたのは事情があったことが本書で明らかにされていくが、どう考えても、「おでこ」の母親の「おきえ」は身勝手な哀れな女性でもある。

 その他の周辺人物たちも、平四郎の家に仕える小物である小平次やおかまの髪結いである浅次郎、「お徳」の店で働く二人の少女、政五郎の手下たち、あるいはいくつかの事件に関わり合いのあった人物たちも、それぞれ個性豊かに描き出されて、物語の人間模様が描かれている。

 本書では、それらの人物に加えて、新しく同心になった間島信之輔や、彼が大叔父と呼ぶ風変わりな本宮源右衛門という老人が登場し、物語はこの間島信之輔を巡っても展開される。

 間島信之輔は若い同心で、十手術をはじめとする腕も立ち、人柄もよく、見所のある立派な青年であり、平四郎に学ぶことが多いと尊敬しているが、醜男で、平四郎はそれをしきりに残念がったりする。そして、この間島信之輔が抱く恋心が思わぬ方向に発展していったりするのである。

 本宮源右衛門という老人は、冷飯食いの境遇で親戚中を盥回しにされ、間島家でやっかいになっているのだが、見聞が広く、学問もある老人で、事件の核心を見抜く力もあり、やがては天才少年である弓之助や「おでこ」が師と仰いでいくようになってくのである。

 また、本書ではじめて弓之助の兄弟が登場し、長兄の結婚話や三男である淳三郎という気のいいお気楽な青年も登場し、この淳三郎の活躍が記されたりしている。

 こういう多彩な人物たちの中で、本書で中心となっている事件は、「お徳」の家の近くの橋の上で一人の風采の上がらない男が斬り殺され、ついで同じ手口で「瓶屋」という薬屋の主人が殺され、また、夜鷹が殺されるという事件である。これらの手口が同じだと見抜いたのは間島信之輔の大叔父の本宮源右衛門で、井筒平四郎、間島信之輔、そして岡っ引きの政五郎が、それらの事件の探索を開始するのである。

 最初の二つの事件の関連がなく、橋の上で殺された男の身元がなかなかわからなかったし、次に殺された「瓶屋」の主人との関連もない。「瓶屋」の主人が殺された理由もわからない。だが、殺された人の姿がいつまでも橋の上に残っていたことから、なにかの薬を飲んでいて血が固まってしまったことを本宮源右衛門と弓之助が気づき、それが、かつて「ざく」と呼ばれる調剤師だったことがわかっていくのである。そして、次に殺された「瓶屋」という薬屋の主人との関係が次第に明らかになるのである。それは、20年前に、大黒屋という生薬屋で、橋の上で殺された男と「瓶屋」の主人が、同じように「ざく(調剤師)」として働いていたことであった。

 この二人が殺された理由が20年前に遡って調べられていく。20年前、今の大黒屋の主人である藤右衛門と瓶屋の新兵衛、そして橋の上で殺された久助は、共に大黒屋の奉公人で、その店にいた傲慢な「ざく(調剤師)」に怒り、また彼が新しい薬を作り出したことを知り、彼を湯屋で殺してしまっていたのである。「瓶屋」新兵衛は、その薬を使って独立したいと思っていた。そして、殺された「ざく」が新しく作ったかゆみ止めの薬が「瓶屋」で売り出されて評判を取っていた。今度の事件はその意趣返しではないかと思われたのである。

 そこで、湯屋で殺された「ざく」の係累が探し出されていくが、そこに同じ手口で夜鷹が殺され、また、殺された「ざく」が女房にしたいと思っていた女とその腹に宿っていた子どもも死んでいることがわかり、事件は再び謎に包まれていくのである。

 だが、この袋小路に陥ってしまった事件の謎を弓之助が見事に解き明かす。そして、物語は新たな展開へと進んで行く。この辺りのことからは、今日は、少し、しなければならないことが残っているから、また次に書くことにしたい。

2011年5月18日水曜日

宮部みゆき『R.P.G.』

 朝方は雲に覆われていたが、お昼近くから晴れて、爽やかな陽射しが差してくるようになった。ただ、なんとなくいろんなことが面倒に思えるようになって、しなければならないことを横目で見ながらぼんやりしていた。日々の暮らしを一人でこなすことは、これでなかなか「しんどいこと」である。しかし、陽気もいい。寺山修司ではないが、「書を捨てて、街にでよう」か。

 昨夕、少し激しい雨が降ったが、夜は靜かで、宮部みゆき『R.P.G.』(2001年 集英社文庫)を手にした。ひとつのドラマの光景のような宮部みゆきの文庫書き下ろし作品である本書を読んでみたのである。どこか感性が豊かでのびのびした表現を求めているのに気がついたからからで、「読んで見た」という言葉で表現できるような思いで手に取ったわけだが、読み終わった時に、最後のどんでん返しがあり、まさに表題そのものにふさわしい味のある作品だった。

 「R.P.G.」とは「ロール・プレーイング・ゲーム」のことで、ある役になりきって物事を習得していく学習法で、英会話の習得などでよく使われたりするが、場面を設定して、その場面の中で役割を演じていくものである。本書では、ある殺人事件の解決のために、殺された人間に関係する人々になりきって一幕の劇を構成することと、殺された人間がインターネット上で作っていた「疑似家族」で、それぞれの人が家族のそれぞれの役割をネット上で演じていたという二重の意味で使われており、なかなか凝った構成になっている。

 それと同時に、インターネット上の「疑似家族」ということで、現代人が抱える「孤独」と、「家族」という問題にも真正面から取り組んだ主題となっている。「さびしさ」は人間の本質的感情のひとつでもあるだろうが、いつの間にか忍び寄って、人を狂わすことがある。だが、人とはさびしい生き物なのだ。

 物語は、ある中年の男が建築中の住宅で殺されたことから始まる。彼は食品会社に勤め、夫に従順な家庭人である妻の春恵と、成績優秀で容姿も端麗である高校生の一美(かずみ)という娘があるが、浮気性で、特に若い女性には親切心や同情心を発揮させていた男であった。優しいが優柔不断で、状況に流される男の典型でもある。そして、彼が招いた状況によって死を迎える。

 警察はその事件の捜査を始めるが、当初は、彼の浮気相手であった女性が犯人ではないかとの疑いを強くしていた。しかし、捜査畑ではなく事務処理を長年してきた刑事の直感で、殺された男がインターネット上で「疑似家族」を作っていたことが取り上げられ、その「疑似家族」を構成していた「お母さん」と呼ばれる女性と「カズミ」と呼ばれる若い娘、そして「ミノル」と呼ばれる青年が突きとめられ、かくして、それぞれの供述が述べられていくのである。

 こうして、なぜインターネット上で「疑似家族」を作っていたのか、それぞれが抱える孤独と「絆」を求める気持ちが描き出されていく。そして、やがて自分の父親が「疑似家族」を作っていたことを知った実際の娘の心情へと物語が展開され、犯人が突きとめられていくのである。

 だが、物語の展開はそこで終わらずに、最後に大きなどんでん返しが施されている。そこに至った時、思わず、「え?そうなのか」と思うほど、巧みな構成がされているのである。それがまさに「R.P.G.」でもあるのである。

 物語の最後に、取り調べに当たった刑事の一人の口を通して、西條八十の『蝶』という詩の一節が語られるが、これは西條八十の『美しき喪失』という詩集に収められている詩で、元来は「やがて地獄へ下るとき、そこに待つ父母や 友人に私は何を持って行かう。たぶん私は懐から 蒼白(あおざ)め、破れた 蝶の死骸をとり出すだろう。さうして渡しながら言ふだろう。一生を 子供のように、さみしく、これを追ってゐました、と」というものである。

  「青ざめ破れた蝶の死骸を差し出して、さみしくこれを追っていました」と言うのが「地獄」であることが、この詩のすごさで、宮部みゆきは、その「すごさ」を見事に人間の物語として本書で展開しているのである。

 孤独とさびしさの行き着く果てにあるもの、それがインターネットという仮想世界を作りやすい現実に対応して見事に描かれ、ことに人の「絆」の根本である「家族」の姿に投影され、仮想が現実になったときに起こる祖語が人の心情として描かれる。

 ただ、これが書き下ろしであるためか、物語の構成や展開に集中されているためか、宮部みゆきがもつ独特の柔らかくて豊かな感性があまり出ていないのが、ほんの少しだが残念に思う気がしないでもない。しかし、物語作家としての天性が発揮された作品の一つと言えるような気がする。

 宮部みゆきといえば、昨夜、俳優の児玉清さんが死去されたとの訃報があり、彼が、わたしが最高傑作だと思っている『孤宿の人』の文庫版の解説を書いておられたのを思い出し、『孤宿の人』の一場面一場面を思い起こしたりした。「もう、どこにも行かなくていいですか。ずっと一緒に暮らせますか」という主人公「ほう」の心情は、涙なしにはおられない。

2011年4月7日木曜日

宮部みゆき『淋しい狩人』

 今日も春めいた陽射しが降り注ぎ、現状の右往左往をよそに、自然はゆっくりと動いている。人が自然と同じようなスローなペースで生きていればいいのだが、人工的に造られた物は人工的に壊れ、その壊れ方がひどいので、しなくてもいい苦労が山のように襲ってくる。そういう現状の中で、統一地方選挙の選挙カーが候補者の声を連呼して五月蠅い。知事選の演説を聞くと、この国の政治思想はつくづく貧しいと思ったりもする。


 昨夜は遅くまで起きていて、宮部みゆき『淋しい狩人』(1993年 新潮社)を読んだ。宮部みゆきの時代小説の中では『孤宿の人』が最も感動的で最も味わい深い作品だと思っているが、これまで読んだ時代小説以外の作品になかなか行き当たらずに、こうした「現代物」を時折読んでいる。


 これは、六話からなる一話完結型の短編連作推理小説で、連作となっている探偵役の主人公は、現役を引退したが友人の死去によって引き受けた古本屋を営む六十歳代の「イワさん」と呼ばれる岩永幸吉という異色の人物である。人生の経験を重ね、明晰な頭脳を働かせて難事件を解決する老女を主人公にしたアガサ・クリスティーの『ミス・マープル』を思わせるような設定だが、こちらは、古本屋だけに本にまつわる事件が取り扱われ、「イワさん」の店を週末だけ手伝いに来る高校生の孫息子との掛け合いや、その孫息子が陥った恋愛なども絡んで、物語の余韻も残るようなすっきりした短編推理小説になている。


 話の内容も、小金を貯め込んでいる姉の財産を狙った妹夫婦の悪巧みや(「第一話 六月は名ばかりの月」)、平凡に生きざるを得ない息子が、平凡に生きていた父親の死によって知ることになったある事故の真相を「イワさん」の名推理で教えられていくことになったり(第二話「黙って逝った」)、改築されることになった古い家の跡地の地下にあった戦争中の防空壕から発見された遺骨を巡る悔恨を察していったり(第三話 「詫びない年月」)といった日常的に起こりうる出来事が取り上げられている。


 また、教師による子どもの虐待という極めて現代的な問題が取り上げられたり(第四話「うそつき喇叭」)、取り柄がなくて生き甲斐を見いだず、少しひねくれた若い女性がふとしたきっかけで知ることになった会社の金を横領して自死した男女の姿が描かれたり(第五話「歪んだ鏡」)、作家が描いた未完の推理小説を模倣する事件で、行くへ不明で死亡したと思われていたその作家が生きて証言し、その事件が単なる模倣犯に過ぎないことを明白にしたり(第六話「淋しい狩人」)、ある意味で現代社会が抱えている暗部を照らすような内容が展開されている。


 これらの作品のテーマのいくつかは、まだ読んではいないが、『模倣犯』とか『楽園』といった作品名がすぐ思い浮かぶので、さらに徹底した形で後に長編として展開されていると推測されるから、そういう意味で、ここで取り扱われたテーマは、作者の中でデッサンのようなものとなっているのではないだろうか。


 静かに人生の経験を重ねてきた主人公であるだけに、物語の展開に余韻があり、短編の良さも充分にある。しかし、宮部みゆきは優れたストーリーテラーとして長編がいいと思う。長編になると、文章も膨らんで独特の感性の豊かさが感じられたりするし、なによりも悲喜こもごもの人間の姿が丁寧に描かれているからである。宮部みゆきは優れた作家として数々の賞を受賞しているが、なるほどその作品は豊かだとつくづく思う。

2011年3月16日水曜日

宮部みゆき『火車』

 人は生きているといろいろなことを経験するものだが、前回これを記した3月11日(金)の午後、再び熱が高くなって、今日は無理だなと思ってすべての予定をキャンセルして寝込んでいたところ、大地がぐらぐらと揺れ続け、三陸沖の広範囲を震源地とする前代未聞の巨大な地震が発生した。「東北関東大地震」と名づけられたマグニチュード9という途方もない地震で、甚大な津波被害を伴って、青森から千葉に至る太平洋沿岸地域は壊滅状態になった。津波警報が出されてすぐに、巨大な津波が押し寄せてきたそうだ。加えて、福島にある原子力発電所が地震と津波被害によって機能を失い、放射能漏れが懸念され初め、今なおその危機が増大している。また、電力を失ったために輪番による計画停電が実施され、ここでも混乱した状態が続いている。

 この間ずっと発熱に苦しめられながら、テレビで放映される地震と津波の惨状、原子力発電所の様子を見ていた。もちろんここでも度々大きな余震を感じたりするが、寝込んだ状態でどうしようもなく、ただ関係している仙台の保育園の人たちの無事を確かめたり、関東地方も混乱状態にあることからわたしのことを案じてくださる方々からの連絡を受けたりしていた。わたしの方は、書棚から本が落ちたくらいで物理的な被害はないし、陥る状況はそのまま受け止めるようにしているので個人的なことは何も案じることはないが、東北への交通が遮断され、民間人の立ち入りができない状態なので、惨状を見ても、ただ涙を流すだけで為す術がなく、今のところ見守るしかない。もっとも、体調がひどい現状で動くこともできず、パソコンの前に長時間座ることすらできないので、如何ともしがたいのだが。

 日曜日(13日)に少し無理をしたこともあって午後から再び熱が高くなり、廃人に向かっての道を一直線に進んでいったが、ようやく峠を越えたのか、長い時間でも起きられるようになった。昨夕、風邪薬も食糧も切れてしまっていたので近くの薬局やスーパーに買い物に出かけた。しかし、驚いたことにスーパーマーケットはひどく混雑していて、ほとんどの保存食料は売り切れ、乾電池や卓上ガスコンロの燃料などは何一つなかった。実行されている計画停電に備えて、人々が不安を感じて買いだめしていると言う。ガソリンスタンドは閉鎖状態が続いているという。しかも、パニックのようにでは決してなく、整然とそれが行われている。わたしに必要なものは風邪薬と少しの野菜だけだったので、「なるほどなぁ」と思いながら帰ってきた。停電で暗闇が続いても、まあ、何も困らない。生活形態が昔に戻るだけだから。

 こういう状態だったので、眠るかテレビのニュースを見るか、あるいは少し気分がいいときに本を読むかしかなく、おかげで何冊も本を読めた。むろん、体調はまだ回復していないのだが、連絡事項もあるし、電気が通じている間に少ししなければならない仕事もあるしで、朝から根を詰めていたところだった。

 そして、この間に宮部みゆき『火車』(1992年 双葉社 1998年 新潮文庫)を読んだことだけでも記しておこうと思った次第である。時代小説ではないが、山本周五郎賞を受賞した本作品は、当時問題になり始めていたクレジットローンによる債務問題を正面に据えながら、悲惨な過去を消滅させて別人として生きていこうとする人間のあがきや悲しみをミステリーとして仕上げた作品である。

 全体に宮部みゆきらしい表現の豊かなふくらみはないのだが、複雑に入り組んだ構成や過去を消し去るために失踪した人間を追う主人公が、幼い子どもを抱えながら強盗事件で負傷して休職中の刑事であるなど、一つ一つの場面や展開に妙味があり、これも読ませる作品だった。

 今、その詳細を記す気力はないので、とにかく面白い作品だったとだけ記しておこう。

2011年2月17日木曜日

宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー』

 14日の月曜日の夜、ちょうどある研究会のために小石川まで出かけていき、帰りに大きな牡丹雪がふわふわとひっきりなしに降ってきて、見る間に積もり、世界を白く変えていく光景の中にいた。しばらく舞い落ちる雪の空を眺めていると、頭から肩、腕と全身が雪に覆われ、その一種の荘厳な光景と寒さで身震いしながら帰ってきた。こちらの駅に着くと、あたりはもう真っ白で、冬景色特有の静けさが世界を覆っていた。

 火曜日・水曜日と日中は気温も上がったのだが、まだ物陰には風に吹き寄せられた雪が凍って残っており、夜の冷え込みの厳しさを物語っていた。だが、今日はそれも溶けてしまい、薄曇りの空が広がっている。

 日曜日から今日まで、比較的長い時間をかけて、上巻630ページ、下巻658ページの上下巻合わせて1288ページにわたる長編である宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー(上・下)』(2003年 角川書店)読んでいた。

 これは歴史時代小説ではないが、表現力が豊かで物語構成がしっかりしている作品を読みたいと思って、今のところ思い当たる作家としては宮部みゆきしか思い浮かばなかったので、かなりの長編だと思いつつも読み始めた次第である。そして、少年少女向けのような、極めて現代的なファンタジーではあるが、期待を裏切らない作品だった。

 これは、尊敬していた父親が他に好きな女性ができ、母親と自分を捨てて出ていくという泥沼のような不幸に見舞われた小学校五年生の少年が、自分の心を反映するテレビゲームさながらの「幻界(ヴィジョン)の世界」を旅し、その旅の途中で経験した葛藤の中で自分の生きる姿を見出していく物語で、宮部みゆきは、それを壮大なファンタジーとして展開しているのである。

 父親と女性との間には子どもまでできており、母親との間は泥沼化し、母親は絶望のあまりガス自殺まで試みてしまう。それまで平穏に暮らしていた小学校五年生の亘(ワタル)は、両親の不和によって自分の存在すら否定された思いになり、為す術もなく震えているだけだが、自分のそうした運命を変えたいと願って、偶然開いた「幻界(ヴィジョン)の世界」に飛び込み、そこを旅する「旅人」として自分の運命を変える道を示す宝玉を求めて旅をしていくのである。

 ここには、単に人間の心にある憎しみや復讐心、悲しみや辛さを嘆く心や、弱さがあるだけではなく、人種差別の問題や社会形成の問題、目的のために手段を選ばずに自分の力を発揮してしまう問題も盛り込まれ、その中で、友情や愛や思いやりを自分の生き方として選択していく姿が映し出され、ちょうどテレビゲームのように、ひとつひとつの場面をクリアーしていく度に主人公の亘(ワタル)が、すべてを受け入れて強くなっていくように、「幻界(ヴィジョン)の世界」の各地を旅していくのである。そして、運命を変えることが大切なのではなく、弱さに嘆くだけだった自分自身を変えることこそが大事なことだと気づいていくのである。

 描き出されるヴィジョンの世界は、作者が好きで没入するというテレビゲームそのものではあるが、そこに現代社会の深厚な多くの問題とその中を生き抜く人々の姿を盛り込んで壮大なファンタジーに仕上げるところは目を見張るものがある。細かな場面の設定やエピソード、表現は、本当に豊かで、もしこれをアニメなどの映像として描き出すなら、相当に面白い、また内容のあるものになるだろうと思わせるものがある。と思っていたら、既にアニメや漫画、ゲームなどが制作されているらしいが、その類のものにあまり縁がなくて知らなかった。

 こういう壮大なファンタジーは、日本ではなかなか生まれないと思っていたが、ミヒャエル・エンデの『モモ』や『はてしない物語(ネバー・エンディング・ストーリー)』に匹敵する内容と深みがある。もっともエンデの作品は、時間論やニヒリズムといった極めて哲学的な色彩が濃いものではあるが、この『ブレイブ・ストーリー』も哲学的に研究する価値が充分にあるような気がする。わたしが知らないだけで、もうすでにされているのかも知れないが。

 ともあれ、面白かったので、アニメになっているという作品を、今度、レンタルビデオ屋にでも行ったら借りてこようとは思う。

2010年12月13日月曜日

宮部みゆき『本所深川ふしぎ草紙』

 冷たい凍るような絹雨が降る月曜日になった。山沿いは雪かも知れない。
 土曜日の夜と日曜日の午後にかけて宮部みゆき『本所深川ふしぎ草紙』(1991年 新人物往来社 1995年 新潮文庫)をしみじみと読んだ。

 これは、1992年の吉川英治文学新人賞の受賞作品で、連作の形を取った短編集でもあるが、彼女の感性の豊かさとそれを表現する表現力の絶妙さ、物語を構成する構成力と展開の巧みさがよく現れている作品だと思った。

 かつて、1999年に彼女が『理由』で直木賞を受賞した際に、井上ひさしが「驚くべき力業に何度でも最敬礼する」と讃辞を寄せたことがあるが、『本所深川ふしぎ草紙』は、「力業」というよりも作家としての情感溢れる資質の豊かさが開花している作品だと思う。

 江戸の深川に「本所七不思議」と呼ばれるような現象があった。両国橋の北の小さな堀留に生える芦(葦)の葉が、どうしたことか片側だけにしかないこと(片葉の芦)、夜道を独り歩きしていると、提灯が浮くようにして後をついてくること(送り提灯)、夕暮れ過ぎに本所の錦糸堀あたりを魚を抱えた釣り人が通りかかると、どこからともなく「置いてけ」と声が呼びかけられ、家に戻ると魚を入れていた魚籠が空っぽになっていること(置いてけ堀)、松浦豊後守の上屋敷の椎の木が、秋の落ち葉の季節になっても一枚の葉も落とさないこと(落ち葉なしの椎)、夜中にふと目を覚ますと、どこからともなくお囃子が聞こえてきて、翌朝調べてみてもどこにもそんなお囃子をしている所などないこと(馬鹿囃子)、ある屋敷で人が眠っていると、突然天上から大きな足が降りてきて、「洗え、洗え」と命令し、それをきれいに洗ってあげれば福が来るし、いい加減に洗うと災いが起こること(足洗い屋敷)、そして最後が、ある蕎麦屋の掛け行灯の火が、油も足さないのにいつも同じように燃えていて、消えたところを誰も見たことがないこと(消えずの行灯)の七つである。

 作者はこの「本所七不思議」の絵を錦糸町駅前の人形焼き屋の包み紙で見て着想したそうであるが、それを、「本当に深い意味で人を助けること」を行っていた父親とそれが理解できないでいた娘、その娘の気まぐれで食事を恵まれ、その娘に思いを寄せることで忍耐してきた男、自立できるように助けられた兄妹の思い、それらを「片葉」として描き出したり(「第一話 片葉の芦」)、自分のことを心底心配してくれた男の思いを誤解していた娘の心情として描き出したり(「第二話 送り提灯」)、一つのことを罪の意識で受け取る者と、それを自分への励ましとして受け取る者の姿として描き出したりする(「第三話 置いてけ堀」)。

 あるいはまた、第四話「落ち葉なしの椎」では、「七不思議」は、罪を犯して島送りになり帰ってきた父親と、幸せをつかもうとする娘の関係として心情豊かに描き出され、第五話「馬鹿囃子」では、「あんたのまずい顔が嫌いだ」と言われ女に捨てられて「顔切り魔」になった男と、婚約が整っていたのに相手の男が他の女を好きになり、「きれいとは思えない」と言われて捨てられ気を狂わせてしまった女の姿として描き出されている。

 貧しい家に生まれ、宿場で人の足を洗って成長してきた女が、汚い足を洗い続ける夢を見るたびに、貧乏が恐ろしくなり、金が欲しくなって、その美貌と色艶で商家の主を殺して財を奪う女になっていったという第六話「足洗い屋敷」、結婚するなら真面目で優しい働き者の男だと決めていた娘が、子を失って狂った妻のために「偽の子」になることを依頼されていく中で、夫婦の微妙な関係を知っていく第七話「消えずの行灯」も、どこかやるせなくて切ない人の心のひだとして描かれているのである。

 人間に対する視点や物語の展開も絶妙なものがあるが、本書でも、その表現の豊かさには脱帽するところが多々ある。

 まず、第一話「片葉の芦」の書き出しは、「近江屋藤兵衛が死んだ」というものであるが、何の情景描写もないこの独自の書き出しは、それによってここで描き出される物語に急激に引きづり込まれる力を持っている。A.カミユの『異邦人』の書き出しも「昨日、ママンが死んだ」という衝撃的な書き出しだが、それを彷彿させる。そして、最後は、
「『片葉の芦』
 お園がぽつりとつぶやいた。
 『不思議ねぇ。どうしてかしら』
 二人のうちの一人の心にしか残されていなかった思い出を表すように、片側だけに葉をつける-
 『わからねぇからいいのかもしれねぇよ』
 彦次はそう言いながら、ひょいと手を伸ばし、芦の葉を一本、ぽつりと折った」(文庫版 46ページ)
で終わる。折られた芦の葉のように余韻が残る終わり方であり、「片葉の思い」を持ち続けた男女二人の行く末を想像させて終わるのである。

  第二話「送り提灯」では、その初めの部分で、八歳で煙草問屋に奉公に出なければならなかった「おりん」が、飯炊きをする場面が描かれ、「おりんは毎朝、小さな胸が破れそうなほどに火吹き竹をふかなくてはならない」(文庫版 49ページ)と記されて、この少女が懸命に働き続けたことがこの一文だけで伝わってくる。この「おりん」が、煙草問屋のお嬢さんの言いつけで夜中に回向院まで行かなければならなくなり、暗闇の中を歩き出す姿が、「勝手口を出ると、木枯らしが吹きつけてきた。夜の木枯らしには歯があった。おりんは身体を縮めた。左手に下げた提灯の火の色も縮まった。・・・町並みを包んでいる闇は、手を触れれば重く感じられそうなほどに濃い。味わえば、きっと苦いに違いない」と描き出される。こういう感性と言葉の使い方には舌を巻く。

 こうした豊かな表現が至るところにあって、それが主人公の心情や状況を見事に反映しているから、物語が豊かになっている。

 宮部みゆきは卓越したストーリーテラーとして高い評価を得ているが、表現力も卓越していると思う。なお、この短編集には物語の引き回し役として「回向院の親分」と呼ばれる岡っ引きの「茂七」がどの話にも共通して登場しているが、茂七の事件の裁き方も思いやりの深いものとなっている。この人情溢れる「茂七」を中心にした『初ものがたり』も先に読んでいたとおりである。

2010年10月18日月曜日

宮部みゆき『初ものがたり』

 薄雲が秋の陽光を遮っているような、陽がさしかけては曇る日だったが、気温が高からず低からずで、気持ちの良い月曜日となった。風邪は治りかけているのだが、まだ少し咳が残り、テッシュもたくさん使うし、身体的には爽快とは行かない。それでも、まあ、日常は変わりなく流れていく。

 土曜の夜から日曜日の夜にかけて、宮部みゆき『初ものがたり』(1995年 PHP研究所)を絶妙な文章表現に感心しながら読んだ。まず、松下幸之助氏が設立したPHP研究所がこうした文芸書を出版していたことをあまり知らなかったので、出版元を見て、へぇ、と思ったりしたが、ハードカバー二段組み228ページの本の体裁は、持ち運びには便利でよかった。

 本書は、本所深川一帯を縄張りとする五十五歳になる中年の岡っ引き「茂七」のミステリー仕立ての捕物帳もので、取り扱われる事件も、巧妙に仕組まれたアリバイ崩し(「お勢殺し」)や浮浪の子どもたちが毒殺される事件(「白魚の目」)の狂気、武家や商人に「畜生腹」と嫌われた双子にまつわる事件(「鰹千両」)、兄弟殺しにまつわる人間の哀れな嫉妬心(太郎柿次郎柿))、お店の婿となった小心な手代の元の恋人の失踪事件(「凍った月」)、大地主が訪ねてきた妾腹の子を「恥」として監禁する事件など、人間の心情の綾が生み出す悲しさを伝えるもので、ミステリーとしてもなかなか凝ったものがある。

 また、全編に流れる「茂七」の思いやりの心情と彼の手下たちの個性、そして屋台の稲荷寿司屋を出す謎の人物や、後半に登場する「霊感少年」への対応など、連作の繋がりがしっかり構成されている。

 物語の内容も面白いが、それ以上に、個人的に、宮部みゆきらしい優れて豊かな表現が随所にあって、それが本当に気に入っている。

 たとえば、狂気のような残虐性をもつ美貌の大店の娘によって引き起こされた浮浪の子どもたちの毒殺事件を取り扱った「白魚の目」では、「二月の末、江戸の町に春の大雪が降った。冬のあいだ、ことのほか雪の多い年のことだったので、誰もそれほど驚かず、また珍しがりもしなかったが、そこここで咲く梅の花にとっては迷惑なことだった」(47ページ)という書き出しがあり、「春の大雪が梅の花にとっては迷惑なことだ」という表現は普通ではできない表現だと感じ入った。

 そして、「手の甲を空に向けて雪片を受け止め、茂七はひょいと思った。降り始めの雪は、雪の子供なのかもしれねぇ。子供ってのは、どこへ行くにも黙って行くってことがねぇから。やーいとか、わーいとか騒ぎながら降り落ちてくる。そうして、あとからゆっくりと大人の雪が追いついてくるーー」と続いて、その豊かな感性のままに、本所深川に増えてきた浮浪の子どもたちの問題へと続いていく。

 やがて、五人の浮浪の子どもが、小さなお稲荷さんの中で、石見銀山(毒)が仕込まれた稲荷寿司を食べて死ぬ。茂七が駆けつけてきたときに、ひとりの子どもにまだ息があった場面が描かれる。

 「『坊ずがんばれ、今お医者の先生がくるからな』
 抱き支えてそう話しかけてやる。子供はそれが聞こえたのか聞こえないのか、口を開いて何か言おうとする。耳をくっつけると、息を吸ったり吐いたりする音にまぎれて、ほんのかすかな声を聞き取ることができた。
 『・・・ごめんしてね、ごめんしてね』
 そう言っていた。
 おそらく、食い物を盗んでつかまりそうになったり、ここにたむろしているところを大人に叱り飛ばされたりするたびに、この子はそう言ってきたのだろう。向かってくる大人を見るたびに、そう言ってきたのだろう。
 目の奥が熱くなりそうなのをこらえて、茂七は静かにその子をゆすってやった。
 『心配するな、誰も怒りゃしねえ。今先生が診てくださるからな』
 子供の目が閉じた。もうゆすぶっても返事をしてくれなかった。口元に耳をつけてみる。息が絶えていた」(56-57ページ)

 「この子らは、きっと仲よく助けあって暮らしていたのだろう。もしも、先に帰ってきた者が、あるいは力の強い者が、よりたくさんの稲荷寿司を食べるというようなことだったら、食べ損ねた子供は命を拾ったはずだ。だが、彼らはそうではなかった。いくつだったか定かではないが、皿の大きさからしてそうたくさんはなかったであろう稲荷寿司を、仲よくわけあって、みんなで揃って食べたのだ。だから、ひとりも残らなかった」(58-59ページ)

 こういう情景が描き出せる作者に、わたしは深く敬服する。作者の情景描写の豊かさは、まだ他にも多くある。

 「凍る月」の書き出しの部分では、「回向院の茂七は、長火鉢の前に腰を据え、ぼんやりと煙草をふかしながら、屋根の上や窓の外で風が鳴る音を聞いていた。こうしていても、凍るように冷たい外気のなかを、風神が大きな竹箒に乗って飛び来り、葉が落ちきって丸裸になった木立の枝をざあざあと鳴らしたり、道行く人たちの頭の上をかすめて首を縮めさせたりしては、また勢いよく空へと駆け昇っていくのが目に見えるような気がしてくる」(147ページ)というのも、木枯らしが吹き荒れている様を見事に表現したものだと思う。「凍る月」は、その木枯らしのような冷たい損得勘定で生きる人間の姿を描いたものである。

 この物語の事件の推理そのものにも凝ったものがあるのだが、こうした情景の描写や表現に作品の豊かさを感じさせてくれるのが、宮部みゆきの作品ではないかと思う。そして、こういう豊かさがやがて『孤宿の人』という名作につながっていったのだと思う。

2010年9月14日火曜日

宮部みゆき『理由』

 今年は9月になっても暑さが和らぐことはなかったが、それでも最近は少しずつ気温が下がりはじめ、昨夜は虫の声が聞こえたりして、秋の始まりを感じるようになった。

 このところいくつかの仕事や何やかにやで小説の読書もあまり進まず、これを記す時間もとれなかったし、読み始めた宮部みゆき『理由』(2002年 朝日新聞社 文庫版)も、文庫版で619ページの長編だし、ひとつひとつの展開に凝ったものがあって、読了するのに思ったよりも時間がかかってしまった。

 宮部みゆき『理由』は歴史時代小説ではないが、彼女が1999年に直木賞を受賞したこの作品を読んでみようと思って読み始めた次第である。

 『理由』は、荒川の高級高層マンションで起こった一家四人の殺人事件の顛末を核にして、その事件に関わる人々の姿を丹念に描いたものである。その高級高層マンションの一室は、実は、持ち主がローンを払えずに競売に出されたもので、殺された四人は、当初は家族と見なされていたが、実は、競売に出された物件に巧妙に住み着くことによって、高額の立ち退き料や買い主からそれを安く買いたたくために不動産屋がしくんだ「占有屋」と呼ばれる疑似家族に過ぎなかった。

 ローンを払えずに購入したマンションを手放さなければならなかった家族、競売によってそれを買い取り、「占有屋」に悩まされて、事件に関係してしまい、犯人と目されて逃亡した買い主とその家族、殺された四人のそれぞれの人生や背景、その家族やそれぞれに関わった人々、事件の目撃者や事件の鍵を握る逃亡している買い主に警察への出頭を促した労働者宿の家族など、そして事件の真相、一つの事件に実に多くの背景があり、それがひとつひとつ丹念に取り上げられていく。

 作中で、殺された四人のうちの一人をマンションから突き落としてしまった姉を持つ聡明な少年が次のように語っていることが、本書の全体の姿勢をよく表しているように思われる。

 「人を人として存在させているのは『過去』なのだと、康隆は気づいた。この『過去』は経験や生活歴なんて表層的なものじゃない。『血』の流れだ。あなたはどこで生まれ誰に育てられたのか。誰と一緒に育ったのか。それが過去であり、それが人間を二次元から三次元にする。そこで初めて『存在』するのだ」(文庫版 520-521ページ)

 だから、宮部みゆきは作品の中でそれぞれの人物の「三次元」を描き、それによって、描き出されるすべての人間が、その過去や背景を背負った人間として生きて動いていく。それゆえにまた、この作品が、疑似家族や家族の危機や崩壊、そして再構成を描き出す物語ともなっている。『理由』は、その家族の崩壊を経験しなければならなかった犯人が引き起こした事件を描いた、いわば「家族」の物語なのである。夫婦、親子、兄弟、そして世間の姿が浮き彫りにされていく。

 家族は、人間にとっては必然的な共同体であるが、面倒でやりきれない部分ももつ。それを自由になるために捨ててしまう人間と、家族を形成しようとする人間、それがここで「マンションの一室-家」という共同の場を巡って、それぞれの関係性の中で描かれているのである。

 物語は、事件に関係した人々を第三者がインタビューするという形式で進められているが、それだけに事件の核心から同心円的に広がった関係者のそれぞれの姿が、より鮮明に浮かび上がるように構成されている。

 この作品を読了してはじめに感じたことは、これが、人間のアイデンティティーの喪失とも繋がる現代の家族の問題を正面から丹念に取り上げた作品であることと、宮部みゆきという優れた作家が人間を「三次元的」に理解するが故に、また、そこに立脚するが故に、彼女の作品で描かれる人間が生きているのだということ、そして、物語を展開する構想力の豊かさである。

 彼女は本質的に長編作家であるだろう。しかも、切れの良い長編作家である。それゆえにまた、現代社会が抱える問題を大上段に振りかぶることなく人間の物語として描くことができるのだろう。これまで読んだ彼女の作品の中で、個人的には『孤宿の人』が一番良いと思っているが、『理由』も直木賞を受賞しただけの作品であることは間違いない。

 今日はこれから一泊の予定で御殿場まで出かけ、友人が出した『神の仮面-ルターと現代』(2009年 有限会社リトン)について著者を交えて話し合うことになっている。手前味噌かも知れないが、これはM.ルターの神学の優れた分析である。

2010年9月4日土曜日

宮部みゆき『孤宿の人(上・下)』(2)

 今日もうだるような暑さが続いている。汗を流すのは嫌いではないが、早朝から熱い日差しが注ぐので、こうも長く続くとうんざりしてしまう。あまり意欲もわかないのだが、今朝は立て続けにコーヒーを2杯飲んで、目を覚まし、たまっている仕事を片付け始めた。

 さて、宮部みゆき『孤宿の人』の続きであるが、あまり余計なことは書かずに、「ほう」の運命を辿ることにしよう。

 「ほう」は、鬼だ、悪霊だと恐れられている「加賀様」のところに下働きの下女として行くことになったが、その時の様子の一つが次のように書かれている。

 「金居さま(井上家の用人)は、ただほうをこざっぱりと着替えさせるためだけに待っておられたのだった。ついでに、ほうの手荷物を検めて、着古したものをすべて捨て、新しいのを包んでくださった。・・・
 新しい着物は嬉しいものだけれど、捨てられてしまった古着は、琴江さまがくださったものだから、惜しかった。拾って持って行きたかったけれど、どこに捨てられたのかも知らないし、そんなことが言い出せる様子でもなかった」(文庫版上巻 338ページ)

 着古して捨てられてしまうようなものだが、自分を優しく包んでくれた琴江さまがくださったものだから、それを惜しむ。そういう細かな表現で「ほう」というこのいたいけで運命に翻弄されながらも律儀で健気に一所懸命生きている少女の姿が浮かび上がって来る。

 「涸滝へ行くのは嫌だった。
  それでも、おあんさん(宇佐)は追い払われてしまったし、泣いていたし、しずさん(井上家の女中)は怒っていたし、舷州先生はほうが奉公をすることを望んでおられるのだし、これは断りようがないことだとおあんさんが言っていたし、だからほうは行くのだ。」(文庫版上巻 349ページ)

 「ほう」の行く末を案じる宇佐や周囲の人々の思いを感じつつ、「ほう」はひたすら自分の運命の中を歩んでいく。恐れられていた涸滝の牢屋敷で、小さな小屋をあてがわれて、「ほう」は懸命に下女として働く。牢屋敷は厳しい監視の下に置かれている。だが、その中でも「ほう」に親切にしてくれる唯一の若い牢役人の「石野さま」に接し、その石野さまが人目を盗んで「ほう」に饅頭を食べさせる場面がある。

 「ほうは石野さまから離れすぎず、近づきすぎないところを選んで、膝をそろえて地べたに座った。紙包みを膝に乗せ、両手で饅頭を持って口に運んだ。久しぶりに食べる甘いものは、とろけるほどに美味しい。」(文庫版上巻364ページ)

 地べたに膝をそろえて座り、両手で饅頭をもって口にして、久しぶりに食べる甘いものを美味しいと思う。有難いと思う。こういうところに、この少女が身につけてきたもののすべてがよく表されている。こういう場面でも、その姿を思い浮かべるだけで「ほう」という一人の少女が歩んできた姿があって、感涙を禁じ得ない。

 そして、涸滝の牢屋敷の小さな小屋で「ほう」は下女として日々を過ごしていく。

 「その夜は夢を見た。夢の中のほうは井上家にいて、琴江さまもいらした。啓一郎先生も舷州先生も出てきた。どうしてかわからないけれどおあんさんも井上のお家にいて、ほうと一緒に働いている。
 二人はお揃いの着物を着ていた。
 ―――おあんさん、もうどこにも行かないでいいですか。ずっと一緒におあんさんと暮らせますか。
 ―――うん、ずっと一緒だよ。
 ああよかった、嬉しい。そこで目が覚めた。
 月のない夜だった。星明かりがうっすらと、小屋の羽目板の隙間から忍び込む」(文庫版下巻 58-59ページ)。

 生まれて初めて自分を優しく愛おしんでくれた琴江さまが亡くなり、しばらくの間だったが、おあんさん(宇佐)と暮らした日々が、「ほう」にとって唯一の拠り所であり救いだった。「おあんさん、もうどこにも行かなくていいですか。ずっと一緒におあんさんと暮らせますか」その「ほう」のささやかな心底の願いは、しかし、決してかなうことがなかった。「ほう」はひとりぼっちで、小屋の板目から差し込む星明かりを見る。

 そして、その夜、屋根の上にうごめく「加賀様」に送られてきた刺客を見、怖くなって床下に逃げ込んで、行ってはならないといわれていた奥座敷の「加賀さま」の部屋に出てしまう。そのため、こうしたごたごたを隠蔽しようとする藩の要職によって亡き者として殺されようとする。藩の中枢に関係していた井上家の舷州先生が必死に、「この先、ほうが何の障りになるとおっしゃる?あれは夢だ、もう忘れろ、二度と口にするなと言い聞かせれば、この子はそれに従いましょう」と言って、「ほう」をかばおうとするが、「あてにはできぬ。この女中の頭のなかには、藁屑が詰まっておるようなものではないか。いつ誰に、どんな不用意なことを漏らすかわかったものではない」と涸滝の屋敷の責任を負う牢番頭は言う。「ほう」の命は風前の灯火としてさらされてしまうのである。

 だが、刺客騒動の中で直接「ほう」に出会った「加賀様」がもう一度「ほうに会いたい」と言い出されたことで救われていく。無知ではあるが、かけがえのない「ほう」の無心さが、そのひたむきな健気さが「ほう」を救いへと導き、「ほう」は再び下女として奉公するかたわら、今度は「加賀様」から手習いや算盤を習うようになっていくのである。

 やがて、丸海の人々から鬼だ、悪霊だと恐れられた「加賀様」は「ほう」との触れ合いをしていく中で、「ほう」に、お前の名は「方」だ、と教えられる。それは屋敷で「ほう」に親切にしてくれた石野さまが屋敷で起こった不祥事の責任を取って詰め腹を切らされたことを知り、「ほう」が涙をぽろぽろ流して悲しみに沈んだ時のことだった。「加賀様」は「ほう」に「泣くな。泣くくらいなら。朝晩、石野に親切にしてもらったことを思い出し、感謝することだ」と言って、「今日は、お前の名を教える」と切り出されてのことだった。

 この「加賀様」の言葉も、後に、自分に優しく接してくれた大切な人のすべてを失った「ほう」の生き方にとって重要なものとなってくる。「ほう」は恩を深く感謝する律儀な女の子なのである。その「ほう」に「加賀様」は一つの文字を教える。

 「この字は“ほう”と読む。方向、方角を意味する文字だ。おまえは阿呆のほうではなく、今日からは方角のほうだ」
 「どうしてで、ございますか」
「これまでのおまえは、己が何処にいるのか、何処へ行こうとしているのか、何処へ行くべきなのか、まったく知らぬ者であった。なるほどそれは阿呆のほうだ。が、今のおまえは、己が何処にいるか、何処へ行くのか知っている。だから、この“方”の字を当てる」(文庫版下巻 303ページ)

 この名前の意味はやがてわかる。こうして、「ほう」は、人々から悪鬼のようにして恐れられる「加賀様」から、人としての教育を受けていく。「ほう」は、どこまでも素直でまっすぐで、他の人がどんなに言おうとも、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分で触れたことを心にとめ、「加賀様」からまっすぐに教えを受けていく。

 だが、藩内の町の方はそうはいかない。山手の涸滝に悪鬼とも悪霊とも着かぬ存在があり、不吉な噂が横行しているかのように祟りとも思える夏の流行病が蔓延し、雷による大被害が起こり、不穏な空気に満ちて、例年にない雷のために漁に出られずすさんだ漁師たちと町方のあいだに収拾の着かないような暴動が起こり、火事が起こり、それらが全部「加賀様」のせいだという風評に満ちていくのである。藩は、やっかい払いも含めて、その悪の根源である「加賀様」と、もう一つの悪である雷害をもたらした雷獣とが闘い、「加賀様」が自らの身を挺して雷獣をやっつけ、それによって「加賀様」が神になったのだということで幕府への言い訳も立つことになるように画策する。

 「加賀様」は、それらを全部承知の上で、自ら死地に立つが、事が起こったときには「ほう」に逃げるように命じるのである。そして、人々に禍をもたらした雷の最後ともいうべき夏の終わりを告げる大雷が屋敷に落ち、屋敷は火に包まれる。藩の画策で雷が落ちるように仕掛けられていたのである。

 「ほう」は、「加賀様」が言われたように屋敷を逃げる。大好きなおあんさんの元へ。だが、「ほう」が逃げのびたとき、事柄の真相を知っていった宇佐は、暴動と火事の後で、人助けに森に出かけた時に起こった雷で倒れた木の下敷きになって死んでしまう。

 「ほう」は死を迎えている宇佐の枕辺に座って、宇佐の手を握り、しきりに「帰ってきました、おあんさん」と繰り返す。「おあんさん、ほうは加賀様に字を教わりました。・・・ほうがわからないことを、加賀様は何でも教えてくださいました。あなんさん、加賀様はお優しい方でした。おあんさんと同じくらい、ほうに優しくしてくださいました。涸滝は怖いところではありませんでした。加賀様は怖い鬼ではありませんでした。ほうは、加賀様とお別れするのが淋しかった。でもこうしておあんさんのところに帰ってこられたから、もう淋しいなんて申しません。おあんさん、またいっしょに暮らせます」(文庫版下巻 499-500ページ)と語りかけるのである。

 宇佐はその「ほう」の語りかけの中で息を引き取る。そして、自分には優しかった加賀様も死んだと聞いて、「ほう」は廊下の片隅で、手を顔に当て、一人で泣くのである。「ほう」の廻りで、本当に心優しく親切にしてくれた人のすべてを「ほう」は失う。

 行き場のない「ほう」は、舷州先生や啓一郎先生の配慮で、井上家で元のように奉公を始める。そしてしばらくして、加賀様が亡くなる前に、「ほう」の名前としてしたためられたお手本の一枚の紙をもらう。そこには「宝」という字が書かれていた。

 「何という字かわからぬか。これはなーーー」
たからという字だよ。
 「たからーーー」
 「そうだ。この世の大切なもの、尊いものを表す言葉だ。この字ひとつのなかに、そのすべてが込められている」
 ほうはお手本をそっと手に取り、顔を近づけてしっかりと見つめた。
 「そしてこの字は、ほうとも読む」
 「ほう」
 「そうだ。だからおまえの名だ。加賀殿に賜った、おまえの名前だ」
この世の大切なもの。尊いもの。
 「それは、おまえの命が宝だということだ。おまえはよくお仕えした。よく奉公をした。加賀殿はおまえにその名をくださり、おまえを褒めてくださったのだ」
 今日からおまえは、宝のほうだ。(文庫版下巻 506ページ)

 運命に翻弄されながらも、健気に生きてきた「ほう」は、「阿呆」の「呆」から「方角」の「方」となり、そして「宝」となったのである。「ほう」は大好きだったおあんさんが眠る墓を訪れ、加賀様が祀られている杜に、「おはようございます」と挨拶をし、四国の丸海で尊い「宝」のように生きていく。丸海の海は穏やかに憩っている。

 もちろん、これだけの長編には当然のことながら、「ほう」に「おあんさん」と慕われるもうひとりの主人公である宇佐の姿は言うまでもなく、藩の中枢を知る井上舷州と啓一郎の姿、宇佐と共に事件の探索をして死を迎える同心や、屋敷不備の責任を取って切腹させられる「ほう」に親切な牢番士の「石野さま」、宇佐の親代わりのようにして面倒を見てきた引手の親分など実に多くの登場人物たちの姿が丹念に描かれ、まるで、丸海藩という藩にいて、それらの人々が生き生きと動いているように描き出されている。

 宮部みゆきというひとりの作家の優れた構想力と文章を含めた才能がいかんなく発揮された傑作で、本当に深い感動を呼び起こしてくれる作品であった。読むことができたことをとても嬉しく思わせられた書物で、この暑さの続く夏の一番の収穫だった。いまでも「ほう」の姿を思い浮かべると涙がこぼれてくる。そして、あれこれと五月蠅い注文をつけたがる人々の中で、独り、この作品の主人公「ほう」の姿を思い浮かべている。

2010年9月3日金曜日

宮部みゆき『孤宿の人(上・下)』(1)

 出先で本屋を覗き、前から読みたいと思っていた宮部みゆき『孤宿の人(上・下)』(2005年 新人物往来社)の文庫版(2009年 新潮社)があったので、購入し、その紡がれている天才的とも言えるような物語の展開と、類い稀な描写で描き出される情景、生き生きと動いていく登場人物たちの姿に深く感動し、心を揺さぶられながら読み終えた。この作品は、この夏に出会った書物の中でも最高傑作の一つに数えても良いとさえ思っている。

 物語は、「阿呆(あほう)」の「ほう」と名づけられた小さないたいけな少女が、下女として働いている四国の丸海藩の「匙(さじ)と呼ばれる医家(匙加減をするところからだろう)の井上家の井戸で顔を洗うところから始まる。文庫版で上下巻合わせて1002ページにも及ぶ長編の書き出しが、こういう何でもないような日常の描写から始まるのも絶妙で、その後で、この「ほう」がなぜ下女働きをしているのかが語り出されていく。

 「ほう」は、江戸の建具商の若旦那が女中に手をつけて、じめじめした女中部屋で生まれた子である。その建具商が「ほう」を若旦那の子として認めるはずもなく、初めから育たずに死んでしまうことを望まれた子だった。「ほう」の母親が、「ほう」が生まれて間もなく死んでしまったので、なおさら余計者であり、「阿呆」の「ほう」と名づけられた後に、八つになるまで縁戚の家に預けられてそこで育った。

 「ほう」を預かった金貸しの老夫婦は、ほとんど「ほう」の世話をすることもなく、食事も気まぐれにしか与えないし、躾らしい躾もせず、放っておいても育つと考えたのか、犬の子のように扱い、大きくなれば「びしびし鍛えて顎で使えばいい」と思っていたようである。そのため、「ほう」は「ひっきりなしに病にかかったし、ひょろひょろに痩せて、三つぐらいになるまで一人で立つこともできず、言葉もろくにしゃべれなかった」(文庫版上巻 10ページ)それでも「ほう」は生き延びたのである。

 「ほう」が九歳になった時、建具商が次々と禍に襲われ、その厄払いということで江戸から遙かに遠い四国の金比羅参りに出されることになり、連れの女中から悪意のある意地悪をされながらも、ようやく四国の丸海の宿に着いた。しかし、連れの女中は旅銀をもって逃げ、幼い「ほう」は置き去りにされ、しばらくは「お救い小屋」のようなお寺ですごしたのである。

 死んだ方がよいと望まれ、余計者として扱われ、虐げられて野良犬のように育った「ほう」は、読み書きもできず、数も数えられず、言葉もうまくしゃべれない孤児として、生まれながらに世間の荒波にもまれ続けたのである。ただ、大人の思惑と運命に翻弄されながらも、幼い「ほう」の心はまっすぐで、健気で、泣き言も言わずに忍耐強い。まことにその姿は胸を打つ。

 そして、この丸海の地で、藩医である「匙」の家の一つである井上家に奉公人として養ってもらうことになったのである。ちなみに、この「丸海藩」というのは、作者自身が「あとがき」で触れているように四国の讃岐丸亀藩からとられたものではあるが、その藩の様子や光景なども含めて、作者の卓越した想像力が生み出したものにほかならない。

 「ほう」は、この井上家で生まれて初めて人間らしい扱いを受ける。特に井上家の娘琴江は、心優しく暖かく、「ほう」にとっては、いろいろなことを教えてくれる先生であるばかりか、僅か九歳に過ぎないのに、たった一人で見知らぬ土地に取り残され、これまでさんざん苦労をしなければならなかった「ほう」を優しく包み込むような人であった。

 「ほう、見てごらんなさい。風はこんなに静かなのに、海には白い小さな波が、たくさん立ち騒いでいるでしょう。ああいうとき、この土地の者は“うさぎが飛んでいる”というのよ。うさぎが飛ぶと、今はお天気がどんなに晴れていても、半日と経たないうちに大風が吹いて雨がくるものなの。・・・遠目で見ると、小さくて白くてきれいなうさぎだけれど、それは、海と空が荒れる前触れなのですよ」(文庫版上巻8ページ)と語りかける言葉には、慈愛が満ちている。

 こういう柔らかな言葉を紡ぎ出せる作者の技量の豊かさには脱帽せざるを得ない。そして、実は、本書の書き出しの言葉が「夜明けの海に、うさぎが飛んでいる」というものであり、この琴江の言葉そのものが、これから起こる様々な事柄の全体を暗示させるものとなっており、本書の最後が「青く凪いだ丸海の海原は、鏡のように平らかに穏やかに、秋の日差しの下で憩っている。ほうの挨拶に応えて、おはよう、ほうと返すように、ちらり、ちらりと白いうさぎが飛んだ」(文庫版下巻 508ページ)となっている。つまり、物語は、海に白いうさぎが飛んだ時から始まり、その海が落ち着くまでの襲ってくる嵐のような波瀾に満ちた展開になるのである。

 こういう言葉で、物語の始まりと終わりを締めくくることができる構成力と豊かな情景の描写や言葉つがいをする表現力と技量は並外れているものだと思えてならない。

 白いうさぎが暗示した波瀾の幕開けは、「ほう」に初めて人間らしさを示した琴江が、同じ藩医の「匙」家の親しくしていた娘の梶原美祢という女性から、嫉妬のために毒殺されるという悲劇から始まる。琴江の死は「ほう」の運命を衝撃的に一変させていくのである。

 おりしも、江戸幕府の元勘定奉行で、理由も不明のままに妻子三人と部下を惨殺したという「加賀様」と呼ばれる船井加賀守守利の身柄を丸海藩が幕命で預かることになった。異常なほどに悪霊や祟りを畏れた時の将軍家斉が、切腹させて恨みを買うことを畏れて、江戸から遠い四国の丸海藩に生涯の幽閉を命じたのである。丸海藩は、漁業と金比羅参りの客と、紅貝を使った染め物で成り立っていたが、内情は決して豊かではなかった。罪人とはいえ、幕府の要職だった人間を預かることになったのだから、莫大な費用もかかるし気も使う。扱い方によっては藩が取りつぶされることにもなる。

 藩医を勤める「匙」家の娘美祢の嫉妬心によってもたらされた琴江の死は、藩内のごたごたが外に漏れることを恐れて、それがどんなに個人的なものであれ、決して表に出してはならない事件として処理され、隠蔽されていく。何事にも鷹揚で人々から慕われている琴江の父井上舷州も、琴江と同じように心優しく優秀な若い医者である兄の啓一郎も、涙をのんで、藩と家のために琴江の死を病死としなければならなかった。

 しかし、幼い「ほう」は、美祢が琴江を毒殺する現場を見ており、大好きな琴江様を殺した美祢につかみかかり捕らえられてしまうのである。藩を上げての隠蔽工作の中で、お前は阿呆の「ほう」だから幻を見たのだと無理矢理に言われ、従うよう命じられる。それに心の底では納得できない「ほう」をこのまま井上家においておくことができず、「ほう」は町方の引手(奉行所からの許可をもらって町方の諸事件などを探索する岡っ引きのようなもの)に渡される。

 「ほう」を引き取ったのは、娘ながらに引手見習いとして働いている宇佐という若い娘である。宇佐は琴江の兄の啓一郎に思いを寄せており、琴江の死の真相も探ろうとして苦労するが、琴江と同じように「ほう」には優しく、自ら申し出て「ほう」を引き取って一緒に暮らそうとするのである。宇佐は漁師町の出であるが、父も母もなくし、一人暮らしの身の上であった。

 琴江の死の謎や「加賀様」の幽閉問題で右往左往する藩内の事態に明瞭な判断で関わっていこうとすることによって物語が展開されていくので、この宇佐は本書のもうひとりの主人公でもある。

 この宇佐が引手の親分に預けられてやせ細っている「ほう」の姿を見て、「ほう」に語りかける場面が次のように描かれている。

 「宇佐は手をのばし、ほうの手を握ってやった。小さな手は冷たかった。もともと痩せて骨張っていたが、たかだか一日か二日のあいだに、さらに細ったように感じた。
 『あんた、ご飯食べてる?』
 嘉介親分とおかみさんが、この子を飢えさせるわかがないのだが。
 『食べたくないの?食べられないの?』
 ちょっとのあいだ、本当に困ったように顔を歪めてから、ほうは謝るように言った。
 『おまんま、いただけないんです』
 『何でさ』
 『あたしーー何も働いていないし。あたしのような余計者は、働かなかったら、おまんまいただいちゃいけないんです』
 井上家でそんなことを教え込むわけがない。これはおおかた、江戸でほうが暮らしていた金貸しの家や、萬屋で仕込まれたことだろう。」(文庫版上巻 162-163ぺーじ)

 そして、宇佐は「ほう」を自分の家に連れて帰る。その場面では、
 「ほうは一人になった。部屋を見回す。
 けっこうな埃だ。お布団も長いこと干してない。いろいろやることがありそうだ。
 心の奥で、何かがほっこりと緩んだ。さあ、働かなくては、ここなら働ける。
 だから、その前に、おまんまにしよう。ほうは懐から、出がけに嘉介親分のおかみさんが包んで持たせてくれたおむすびを取り出した。(文庫版上巻 166ページ)

 小さな九歳の女の子が、「わたしのような余計者は、働かなかったら、おまんまいただいちゃいけないんです」と思って、もらったおむすびを懐に忍ばせている。そして、働くところを見つけてほっこりとする。「ほう」は、そのように律儀で健気で、一所懸命生きている。その姿を思うと涙が棒打となって溢れてしまう。そして、「ほう」が宇佐の家で「ほっこり」と感じたように、宇佐を「おあんさん(お姉さん)と呼んで、しばらくのあいだ、針仕事や炊事などをして過ごすことができたのである。

 宇佐が「ほう」を丸海の守り神として敬われている日高山神社に連れて行った場面では、宇佐の「ほう」への思いが次のように記されている。

 「高見から見おろせば、宇佐の生まれ育った港の漁師町から西番小屋(引手の番小屋)へのあいだなど、ほんのひとまたぎのように見える。指で差しても、一寸ほどなの長さでしかない。それでも、漁師町を出て引手の仲間に加わることで、宇佐の暮らしはずいぶん変わった。
 ましてや、ほうははるばる江戸から流れてきたのだ。あの海の彼方、まず大阪の港があって、そこからずうっと東海道を下り、何十日も旅をして、やっとたどりつくような遙か遠くから、ほうはこの小さな足でやって来たのだ。
 急に切なくなって、宇佐はまばたきをし、すぐ隣で小さな手を額にかざし、楽しそうに景色をながめているほうに目をやった。
 本当に、遠いところからよく来たもんだね、ほう。縁あってこの地に来たあんたを、丸海の山と海とお日様が、こうして温かく迎え取ってくれている。
 ほうはこれから丸海に根をおろし、一人前の女になってゆくのだ。そうだよ宇佐、だからもうこまごまと気に病むことはないと、この美しく穏和な景色が、心に語りかけてくるのを感じた。」(文庫版上巻252ページ)

 だが、この平穏も長くは続かない。奇病や祟りがあると恐れられていたいわく付きの丸海藩の家老の浅木家の涸滝の療養屋敷に幽閉された「加賀様」の女中が頓死したことから、「ほう」の運命はまた一変するのである。「加賀様」自体が、江戸での所行で、怨念を抱えた恐ろしい鬼のような者と言われ、そこに近づくことさえ厭われており、様々な風評が流れ、新しい下働きの女中として、身寄りのないよそ者の孤児である「ほう」に白羽の矢が立てられたからである。「ほう」は阿呆だから、その屋敷の様子が外に漏れることもないと思われたからである。そして、それはまた人々の思惑や藩政のうねりの中で幼い「ほう」が生き延びる道でもあった。

 「ほう」は、もちろん、人々の思惑や藩政のうねりなど知らない。右に行けと言われれば右に行かなければならないし、左に行けと言われれば行かなければならない身の上であり、その中を「ほう」はひたすら健気に生きていくだけである。

 ここまで書いて、少々長くなりすぎたようなので、続きはまた明日にでも書くことにしよう。優れた作品というものは、そこからいろいろなことが考えられるし、また言えるものだが、この作品から、実に多くのことが湧き出してくるような気がする。これは、自分の中で整理が着かないままに書いているが、とにかく読後感には最高のものがあった。

2010年7月21日水曜日

宮部みゆき『ぼんくら』

 「炎天」という言葉では足りないくらいの猛暑日が続いている。風もほとんどなく、少し身体を動かせば汗がしたたり落ちる。夜になっても気温が下がらずにむっとした空気が漂うだけで、何とも過ごしがたいが、読書の方は、宮部みゆき『ぼんくら』(2000年 講談社)を面白く読んだ。

 これは先に読んだ『日暮らし』(2005年 講談社)の前作に当たるもので、登場人物は、主人公的な引き回し役の井筒平四郎が、この作品では奉行所の定町廻り同心だが、『日暮らし』では臨時廻り同心となっている。井筒平四郎は、四男だったが家督を継がなければならなくなり、仕方なしに同心をしているのであり、家でごろごろして、できるだけ働きたくないと思っているのだから、「背中にひびができる」と言われるほど江戸市中を巡回しなければならない定町廻りよりも臨時廻りの方が性に合っている。

 井筒平四郎は物覚えも悪く、あまり細かいことも考えたくなく、どこか呆然としたところのある人間であるが、実は、人を罪に定めることが嫌いで、鷹揚で懐が深く、情け深い。繊細な感性と明察力をもっているが、それを決して表に出さないだけである。だから、かなりいいかげんな人間に映る。容貌も風采が上がらず、細い目に頬がこけて無精ひげがぼそぼそと生え、ひょろりとした体格をしている。

 彼の細君は絶世の美貌の持ち主で、明るく機知に富んでおり、手習い所の師匠をするほどの女性であるが、二人には子どもがない。その細君の姉が藍玉屋に嫁いでもうけた12歳になる五男の弓之助を養子にしたいと思っている。

 この弓之助が真に優れた子どもで、誰もが振り返るほどの美少年であるが、測量にこっており、「わたくしは、必ず一尺二寸の幅で歩くのです」と言って、ものとものとの距離がわかれば、「ものの有りようがわかります」と言ったりする天才的な頭脳の持ち主なのである。そして、おねしょの癖があってからかわれたりするが、叔父の平四郎が関わる事件を見事に見抜いて、平四郎を助けていくのである。平四郎はこよなくこの弓之助を愛し、包み込んでいる。その関係が絶妙で、弓之助との会話の中にそれがよく表されている。元来、天才的な頭脳の持ち主はおねしょ癖があるものである。作者は多分そのことをよく知っていて、物語の綾として取り入れているのだろう。

 先の『日暮らし』でも触れたが、この作品には、もうひとり天才的な少年が登場する。それは、母親からも「鈍くて人の足を引っ張る」と言われて捨てられ、井筒平四郎が懇意にする岡っ引きに引き取られている「おでこ」と呼ばれる少年で、彼はあらゆる出来事を記憶する能力の持ち主で、弓之助と友だちになって事件の解決に一役買っていく。

 こうしたユニークな登場人物を中心にして『ぼんくら』は、深川の通称「鉄瓶長屋」と呼ばれる貧乏長屋の住人たちが巻き込まれた事件の真相を暴いていくというミステリー仕立てになっている。「鉄瓶長屋」の家作(持ち主)は、築地の大店の湊屋総右衛門で、彼の意を受けた差配人(管理人)久兵衛の下で、八百屋、煮売屋、魚屋などが表にあり、裏には桶職人や水茶屋で働く女などが住んでいる。

 「鉄瓶長屋」というこの奇妙な名称は、昔、共同井戸の汲み換えの時に井戸の底から錆びた鉄瓶が二つも出てきたところからつけられたもので、そこには物語全体の重要な鍵となる複線が張られていて、古来、鉄は魔を封じるものとされてきたところから、井戸の底にある「魔」や「怨念」を封じるために誰かが投げ入れたものである。その「怨念」を封じなければならなくなった人間の事情、それがこの物語の格子なのである。

 「鉄瓶長屋」の中心となっているのは差配人の久兵衛と煮売屋のお徳で、お徳は、腕っぷしも強く、きっぷもあって、住人を束ねているが弱い物を助ける人情家でもある。井筒平四郎は、このお徳の煮売屋に始終立ち寄って、お徳の料理をつまみながら時間を潰しているのである。

 最初に、この「鉄瓶長屋」の住人たちに次々と禍が起こってくる。八百屋の息子が何者かに殺され、桶職人が博打に狂って娘を売りそうになり、水茶屋で春を売って働く女性が越してきて一騒動起こり、ついには差配人の久兵衛までもが失踪するのである。店子たちは次々といなくなっていく。こうした出来事の悲喜こもごもが丹念に描かれて、それらのすべてが複線となり、これらの出来事の背後に、「鉄瓶長屋」の持ち主である湊屋総右衛門の意向と、その事情が隠されていることがわかっていくのである。

 この作品は実に多くの複線が張り巡らされて、しかもそれが丁寧に、巧みに描かれて、後になるに従って、なるほどあれはこういうことだったのか、というようなミステリーの巧みさが見事に生かされている。大きな筋立てだけでなく、たとえば、最後に井筒平四郎と湊屋総右衛門が屋形船で会い、事の真相をはっきりさせる場面で、屋根船に揺られたために平四郎の「腰が重く」なるのだが、それが、結末で彼の「ぎっくり腰」として現れるという具合である。事件の顛末も単純ではなく、平四郎や弓之助が、殺されて鉄瓶長屋に埋められているのではないかと思っていた湊屋総右衛門の愛人の女性が、実は生きていたりする。いわば最後のどんでん返しも仕込まれているのである。若い男女の恋愛もあり、春をひさいでいた女性が性病で死んでいく場面もあり、また奉公人と主人の関係も見事に描かれている。

 そして、何よりも少年の弓之助と「おでこ」、そしてそれを暖かく包む平四郎や岡っ引きの政五郎の姿も物語の要となっているところがいい。事件は陰惨だが、物語はユーモアに満ちている。小説のおもしろさを全部持ち合わせている。この作品と『日暮らし』は、宮部みゆきの作品の中でも傑作と言えるかもしれない。

2010年7月16日金曜日

宮部みゆき『堪忍箱』

 雨の多かった梅雨が上がってきた気配で夏空が広がっているが、蒸している。このところ頸椎のこともあったり、歯医者にかよったりして身体のメンテナンスの必要性をつくづく感じているが、スポーツジムも止めてしまったので、今のところ少し長く歩く以外のことはしていない。ただ、黄昏時に散策をするのはとても気持ちがよい。夏の夕暮れは、どことない寂寞感が漂うのだが、それもよい。清少納言は、「秋は夕暮れ」と言ったが、現代の季節感に照らし合わせれば「夏は夕暮れ」となるだろう。

 2~3日前から宮部みゆき『堪忍箱』(1996年 新人物往来社)を読んでいたが、昨夜ようやく読み終わった。彼女の作品は展開の妙もあってどれも読みやすいし、これは短編集なのだが、夜にすることもたくさんあって、なかなか読了しなかった。

 宮部みゆきは比類のない筆力をもった作家で、彼女の筆力は、展開がゆっくりと、しかも大胆な発展をしていく長編にこそよく現れる本格的な長編作家だと思うが、短編もそれぞれの妙がある。長編は決して短編の積み重ねではなく、そこには特有の粘り強い、そして全体を見通す思索が必要であり、短編は独特の切り口を必要とし、いわば詩的な感覚を要するので、その作品の構造自体が異なっているのだが、宮部みゆきの短編には、短編ながらその両者を兼ねているようなところがあるように思われる。

 『堪忍箱』は、表題作の他に「かどわかし」、「敵持ち」、「十六夜髑髏」、「お墓の下まで」、「謀りごと」、「てんびんばかり」、「砂村新田」の8編が収められている短編集で、それぞれ、江戸でその日暮らしを強いられている人々の暮らしの中での人間模様を描いたものである。これらの作品多くは、奉公人として働かなければならない、今で言えばまだ少年少女の視点の中での人情や妬みや恨みの気持ちを抱いて生きる人間の姿である。

 表題作の「堪忍箱」は、火事で祖父を失い、意識不明になった母を抱える菓子問屋の娘を引き回し役にして、家代々に伝わっている決して開けてはいけないと言われている「堪忍箱」につまっている人のくやしさや嫉妬心、怨念の話で、「かどわかし」は、忙しい母親の代わりに育ててくれた乳母を慕う少年の気持ちと、それを知る母親の思いが、少年のかどわかし(誘拐)事件をきっかけにして交差する話である。

 第三話「敵持ち」は、勤めている料理屋の女将に横恋慕していると思われる男に脅され、命を狙われる料理人が身を守るために長屋の傘張り牢人に用心棒を頼み、それによって料理屋の女将と男が企んでいた金貸し殺しの嫌疑を料理人に向けるという悪計が暴かれていくというもので、用心棒となった牢人は、かつてはある藩の要職だったが、藩主が狂気に陥り、奥方との不貞を疑って上意討ち(主君の命で殺されること)となり、逃れていたもので、人の欲と狂気が交差する中で、牢人の身の処し方が光る作品である。

 第四話「十六夜髑髏」は、15歳で米屋に奉公に出た娘が、その米屋に代々伝わっている十六夜の月の光を浴びると主人が死ぬという言い伝えの真実を知っていくというもので、それが初代の主家殺しの怨念であるというもので、第五話「お墓の下まで」は、それぞれの事情を抱えて捨てられた子どもたちが、長屋の差配夫婦に育てられ、それぞれの子どもたちの事情と育てる差配夫婦の事情が絡み合って、それぞれの事情を墓の下までもっていくことによって互いの思いやりと愛情のあり方を情感あふれる温かい筆致で描き出したもので、個人的には、この短編集の中では一番気に入った作品である。

 第六話「謀りごと」は、長屋の差配が死んでいるのを見つけた住人たちが、それぞれに死んだ差配の姿を描き出すもので、人にはいろいろな面があるのだということが、それぞれの住人の姿を通して描かれる。第七話「てんびんばかり」は、姉妹のようにして育ってきた二人の娘が、一人は大店の後添いとなり、一人はそれに嫉妬していくということを筋立てにして、大店に嫁いだ娘も不義の子を身ごもったり、嫉妬していた娘も結婚して住み慣れた長屋を離れていくことになったり、人の運命というのがほんの少しのところで変わっていくということを、女性同士の嫉妬心や友情の姿として描き出したものである。

 最後の第八話「砂村新田」は、父親の病のために奉公務めをしなければならなくなった娘が、苦労している母親の昔の恋心を知っていくというもので、人間の愛情の深さがさらりと描かれている。

 こういう短編が、切り口というより、様々な思いをもって生きている人間の姿の集約された描写として描かれており、単純な文学的点描の短編ではないところが、おそらく、作者が長編作家であるゆえんだろう。

 宮部みゆきの長編作品は、おそらくなかなか人気があるのだろう、図書館で上下巻そろっていることがまれで、最近でも『小暮写真館』という相当の分量の長編が出版されている。作家としての資質はいうまでもないことであるが、思考力の持続性と仕事量に脱帽する。

 今日は本当に暑い。夜眠る時にエアコンを使わないし、騒音を防ぐために窓を閉め切っているので、滴る自分の汗で目覚めてしまい、睡眠不足が起きてしまうが、これからこういう日々が続くのだろう。昔は、田舎で、窓を開け放って朝まで気持ちよく眠っていたような気もするが、そのころの風景がなんとなく懐かしく忍ばれる。

2010年6月17日木曜日

宮部みゆき『あやし~怪~』(2)

 日中の気温が30度を超える蒸し暑い日になった。こういう蒸し暑さは、疲れやすくなっている身体にこたえる。ひどく眠気を覚えて横になり、うとうとしながらではあるが、宮部みゆき『あやし~怪~』の残りの四編、「女の首」、「時雨鬼」、「灰神楽」、「蜆塚(しじみづか)」を読み終えた。いずれも短編としてはよくまとめられた作品である。

 「女の首」は、母親を亡くして袋物屋に奉公に出た子どもが、その奉公先の納戸として使われている部屋の襖に女の首が浮かび上がるのを見て、脅えてしまうが、そのことによって自分の素性が、実はその奉公先から幼い頃に拐かされた息子であったということを知っていく話で、襖に浮かび上がった女の首は、その店の若旦那に勝手に惚れて、悋気して、ひとり息子を拐かし、追われてその息子をカボチャ畑に捨てたが、捕まえられて獄門になった女で、息子を育てたのは、カボチャの葉に守られて助かったのを見つけた女性だった。そして、女の首の亡霊に取り殺されそうになった息子を、亡くなった後も守っていたのである。息子は機転を利かせて女の首の亡者を片付け、守り神としてカボチャを大事にしているという話である。

 「時雨鬼」は、男に言い寄られて、今の仕事を辞めて金になるところで働けという甘言で出会茶屋に売られそうになった娘が、不安を抱えて自分に仕事を世話してくれた口入屋に相談に出かけたところ、その口入屋の女将さんだという女が出てきて、自分の過去のことを話し、言い寄ってくる男が信用できないと諭すのだが、昔、時雨時に鬼を見たという話をする。やがて、不安のまま日々を過ごしている娘の所に岡っ引きが訪ねてきて、実は彼女が口入屋を訪ねた時には、その主人は殺されており、その時出てきた女将さんというのは、強盗の一味ではないかと言う。そして、甘言をもって言い寄ってくる男の背後に時雨鬼の幻影を見せる。娘がその後どうしたかは触れられない。

 「灰神楽」は、古い火鉢を使っていたまじめでおとなしい女中が、突然、何かに憑かれたように店の主一家の弟に斬りつける。女中と弟には何の関係もない。岡っ引きがその事件を調べ、使っていた火鉢に何か因縁があるのではないかと思い、それを古い寺に預ける。そして、寺の住職から、確かに火鉢から灰神楽がたって、そこから人の怨念が出てきたという手紙をよこすという話である。

 「蜆塚」は、亡くなった父親の後を継いで桂庵(口入屋)をするようになった男が、父の友人の病を聞いて蜆をもって見舞いに行き、そこで、何十年も死なずに元の姿で、十数年ごとに仕事の世話を頼みに来る人間がいるという話を聞く。見舞いに行った翌日、その話をした父の友人は死に、彼はその話の証拠を探し始めるが、しばらくして、蜆のいる堀で死んでしまう。そういう人間がいても沿っといておくのが一番だ、という警句を無視したからだろう。彼が死んだ堀に「蜆塚」が建てられた。

 これらの短編は、ただ「あやし~怪~」の話である。だからどうだと言うことはない。人間のすさまじい業が「あやし(怪)」として出現する。「あやし(怪)」という姿を借りて、そういう現実を物語ったものである。

 わたしのように何事もあきらめの早い人間は、怨念という「念」を抱き続けることもできないが、確かに自分の中には「悪」とでも呼ばなければならないようなものがあるのは事実であり、自分の中に「鬼」が住んでいるのではないかと思えるようなことがある。宮部みゆきは、それを「あやし(怪)」として具現化して作品を書いているが、そこに善悪の判断を軽々しく押しつけないところがよい。ただ、どうせ書くなら、怪談話を超えるようなもっとおどろおどろしたものでもよかったかも知れないが、そこに作者の優しさもあるのだろう。

 明日からまた雨らしい。雨の景色をぼんやり眺めるのは本当に好きだが、出かけるにはうっとうしい。そして、雨の日はつくづく寂しさも感じたりする。まあ「ケセラセラ」であり「Let it be」とは思っているが。

2010年6月16日水曜日

宮部みゆき『あやし~怪~』(1)

 本格的な梅雨入りをしたようで、重い雲が広がって、湿度が高い。ときおり晴れ間が見えたかと思うと雨が滴るように降る。先日から、宮部みゆき『あやし~怪~』(2000年 角川書店)を読んでいるが、集中して読む時間がとれずに、なかなか読み進まない。

 これは、強欲や嫉妬心、怨念、恨みといった人の心のない奥に潜む悪が「あやし(怪)」として出現したものとして描き出した短編集で、「居眠り心中」、「影牢」、「布団部屋」、「梅の雨降る」、「安達家の鬼」、「女の首」、「時雨鬼」、「灰神楽」、「蜆塚(しじみづか)」の九編が収録されている。

 宮部みゆきは、短編よりも長編の方が物語の展開が十分丹念に進むし、設定されている主人公の特質がよく現れて読み応えがあるように思うし、本質的に長編作家だろうと思うが、短編も、短編なりの創作技法が試みられたりして、作者の意欲的な取り組みを感じることができる。

 たとえば、「陽牢」は、始めから終わりまで独白(モノローグ)の形が取られており、商家の一家全員毒殺の事件の事情を調べに来た同心に、その商家に仕えていた番頭が答えていくという形で、そのモノローグによって、息子夫婦に座敷牢に閉じ込められて殺された母親の言い尽くせない恨みが亡霊のようになって出現し、母親に手ひどい仕打ちをした息子夫婦をはじめとする商家が滅びていく姿を描いたものである。モノローグで物語を展開する手法は、ことさら新しいものではないが、物語作家としての作者の力がよく発揮されている。

 貧しい家庭で幼い頃から奉公に出なければならなかった姉妹の深い愛情を描き、亡くなった姉によって守られる妹の姿を奉公のつらさと共に描いた「布団部屋」や、その人の悪意の姿によって「鬼」が見えていくという「安達家の鬼」などは、作者が人間の思いやりや情けに対してもつ温かみがあふれた傑作だと言えるだろう。

 まだ最初の五編しか読んでおらず、残りの四編については、今夜読み終えるだろうから、明日にでも記すことにする。

 先夕、カフカ論の発表のために池袋まで出かけた折、少し休むために、帰りに渋谷の東急デパートの中にあるお蕎麦屋に寄って、久しぶりにおいしいお蕎麦を食べることができた。江戸の昔から関東地方はうどんよりもお蕎麦が主流だが、なかなかおいしい蕎麦に行き当たらなかった。一昨年の秋、長野の戸隠まで、戸隠の伝説を訪ねると同時に蕎麦を食べに研究会の仲間たちと出かけたが、そこでも、本場と言われる蕎麦だがあまりおいしいとは思わなかった。改めて、東京は何でもあるとつくづく思う。

2010年6月10日木曜日

宮部みゆき『あかんべぇ(上・下)』

 2~3日続いた梅雨を思わせるような天気が一変して、暑い日差しがよく晴れた空に広がっている。首から肩にかけての違和感はまだ残っているのだが、日々の暮らしと仕事は否応なしにあるわけだし、仕事上の千客や電話は万来するわけだから、もっぱらそれに専念することにしている。

 それでも、来週の月曜日に小さな集まりで発表することにしている「カフカ論」を少し進めた。あらためてF.カフカについて考えているわけだが、カフカは作品の中で、「核心に至ることができない人間」の姿を描いているし、いつも「満たされることのない自分」というものを感じていたのかもしれないと思ったりする。

 それにしても、文学が思想や哲学に意味を持たなくなって久しくなるが、哲学的考察の対象となるような作家が少なくなったとつくづく思ったりもする。人間の思想自体が大きな混迷期に入っているのだからやむを得ないとは思うが、思想と思想を具現化する言葉が軽くなって意味をなさなくなった現象が政治や経済に噴出して、相対化がここまで進んでしまうと今後どうなるのだろうかと思ったりする。人間が大切にすべきものを大切にしなくなったことを感じ続けている。

 歴史・時代小説の方は、これはもちろん根本的にファンタジーの世界に属することであるが、宮部みゆき『あかんべぇ(上下)』(2007年 新潮社文庫)を大変面白く読んだ。宮部みゆきは、文学が人間の抱える問題をリアルに織り込んだファンタジーであるとすれば、その優れた旗手のひとりであることに間違いはないだろう。彼女の作品のほとんど(SFや現代小説はまだ読んでいないが)が大変面白く、また意味を持ったものであることは、また、どの作品にも「温もり」というものを感じるのは、彼女が作家として相当の力量をもっていることと、その感性の豊かさを思わせるものである。

 『あかんべぇ』は、深川で料理屋を始めることになった「ふね屋」の十二歳になる娘「おりん」を中心にして、そこで起こる人間の様々な怨念に基づく出来事を解き明かしていく物語である。

 人間は、恨みや嫉妬や欲に絡まれながら生きている。多くの場合、未練を残したまま生きなければならない。その「悪」の部分を、宮部みゆきは、この世に未練や恨みを残したまま彷徨っている亡者、怨霊として描く。だから、十二歳のまっすぐな心を持つ健気な少女「おりん」は、高熱のために死にかけるが、その死の淵から生き返ることで、それらの亡者や怨霊が見える少女として設定されている。

 深川の海辺大工町で始めることになった料理屋「ふね屋」には、不幸にも様々な亡者や怨霊が巣くっている。井戸に投げ込まれて殺され、「おりん」にあかんべぇを繰り返す少女、美男だが少し崩れたところのある侍、黒髪も艶やかな美女、按摩治療が得意で、病気で死にかけた「おりん」を治す老人、見るも異形で刀を振り回す浪人。「おりん」にはそれらの亡者の姿が見えるし、美男の侍や美女の亡者はまた、まっすぐで健気な「おりん」を助けていく。

 料理屋として始まった「ふね屋」は、両親の苦労の甲斐もなく、異形で刀を振り回す浪人の亡者の乱暴や、弟に殺されたと思って料理人の弟に取り憑いてさんざんな悪を働く兄の亡者によってひどい事態に陥る。彼らの姿が見える「おりん」は、ひとり、それらの原因を探っていこうとする。

 他の人には、これらの亡者の姿が見えたり見えなかったりする。その亡者と同じような思いを抱いている人にだけ、その亡者の姿が見えていくのである。「おりん」はそのことによって、自分の周囲にいる人々が抱いている苦しみや悲しみを知っていく。

 そしてついに、それらの原因が三十年前にこの地で起こった悪鬼のような寺の住職による大量殺人と関係していたことを知り、また料理人の兄を殺したのが、実は、その妻が家族の温かみを取り戻そうと誤って毒をもってしまったことによることが明らかになっていく。そして、「おりん」がそれらを明らかにすることによって、亡者たちは成仏していくのである。

 亡者は亡者である。しかし、宮部みゆきは、一人一人の亡者が抱いている恨みや後悔や未練の姿をやむにやまれぬ悲しい姿として丹念に、そして温かく描き出す。美男の剣士は、遊び人として誰からも理解されなかったが、ひとり、悪鬼のような殺人を繰り返す寺の住職を討つために、寺に乗り込んでそこで死んでしまったのであり、美女は寺の住職の愛人として生きていたのであり、異形の浪人は、身過ぎ世過ぎのためにどうすることもできずに住職の手先となって殺人を繰り返していたのであり、あかんべぇの少女は、実は住職の子で、その住職によって殺されたのである。按摩の老人は、住職が悪行をしていることを承知しながら住職の治療をしていたのである。

 美女の亡霊はおりんに言う。
 「いつもいつも、目先の欲と色恋ばかりを追いかけて、間違いばかりを繰り返していたあたしの人生の、最後に行き着いた先がそこだったのさ。人でなしの情婦(いろ)さ。だからこそあたしは、あの人の魂がこの世にしがみついているうちは、浄土へ行くことができなかったんだ」(文庫版下 321ページ)

 そして、その悪の根源である住職もまた、自分がなぜ人殺しを続けたかということについて、
 「仏などおらぬ。どこにもおらぬ。わしはそれを確かめた。多くの者を殺し、その血をこの身に浴びることで確かめた。・・・わしはいつも問いかけていた。大声で問いかけていた。仏はおわしますかと。おわしますならばすぐにでもわしの目の前に現れて、わしにふさわしい罰をお与えくださいと。しかし仏は現れなんだ。呼んでも呼んでも現れなんだ。現れなんだからわしは殺生を続け、呼び続け、とうとう声が嗄れてしもうたのじゃ!」(文庫版下 306ページ)と言う。

 人間はかくも悲しい存在である。その悲しい存在であることによって悪が生まれる。だから、宮部みゆきは、その悲しみをそっと包もうとするのである。

 それゆえ、この作品の中に、「おりん」をはじめとして、美男の侍の甥である隣家の貧乏旗本の夫婦、「ひね勝」と呼ばれて健気に生きている捨て子の少年、自分が捨て子で苦労したために成功して孤児や貧しい子どもを引き取って育て上げる「おりん」の祖父母、一所懸命に生きようとし、捨てられていた「おりん」を神からの授かり物として愛し、慈しむ「おりん」の両親、などさわやかな人間や健気で懸命に生きている人間を登場させるのが光る。

 物語の始まりが、その「おりん」の祖父の生涯であるのも、よく考え抜かれた心憎い演出であり、物語の最後が捨て子の「ひね勝」を「ふね屋」で引き取って、新しい始まりを伝えるのもすばらしい。

 文章の中で、たとえば、曇り空を描くのに、「今日はあいにくの曇り模様で、空いっぱいに、綿屋が商いを広げている。それもつやつやの真綿でなしに、灰色の古い綿だ。誰かが天の神さまの布団の打ち直しをしているのかもしれない」(文庫版上 158ページ)という表現や、「今夜は夏がもうひと稼ぎしようという腹づもりであるらしく、ひどくむしむしと寝苦しかったから、団扇のつくる淡い風も嬉しかった」(文庫版下 96ページ)という表現があって、作者の豊かな感性と知性をうかがわせる。曇り空を「綿屋が商いを広げている」とか、蒸し暑さを「夏がもうひと稼ぎしようという腹づもり」とかいうことができるような感性は常人にはなかなか思い浮かばないことである。こういう感性は作者の天性のものかもしれないと感銘を受ける。

 人間は悲しく、業深い存在だが、それを温かく包むという作者の姿勢は、本当にすばらしい。