晴れてはいるが気温が低くて寒さが厳しい。軟弱な精神の持ち主であるわたしは、この寒さの中でいまひとつ調子が出ないでいる。だが、変わらず日常を過ごしていこう。時間が細切れで、新しい物語の骨格すらまとめることができないが、それもまた、よし、かもしれない。
さて、葉室麟『蜩ノ記』の続きであるが、戸田秋谷が幽閉されて暮らす向山村は、かつては戸田家の領地であり、郡奉行として村民の生活のために骨身を惜しまなかった秋谷を慕う村人が大勢いた。今は戸田家から取り上げられて家老の中根兵右衛門の領地となっているが、村人たちは秋谷を慕ってなにかと相談を持ちかけたり、つつましい暮らしをする戸田家を助けたりしていた。檀野庄三郎は、そういう村人たちと戸田家の人々の関わりも見ていくのである。
戸田秋谷の日常は、ほとんど何も変わらない。家譜の編纂に当たっても、秋谷が単に藩のお家のためだけではなく、領民のために、かつての藩の悪政もありのままに記そうとしていることが次第にわかっていく。そういう中で、檀野庄三郎は、秋谷が親しく交わりをもっている瓦岳南麓の寺の住職である慶仙和尚を訪ねる(ちなみに瓦岳という山はないが筑豊の田川に香春岳という石灰質の山があり、作者が新聞で記した上野英信氏は田川に住まれていたので、そのイメージが採られているのではないかと思う)。
その慶仙和尚から、七年前に起こった戸田秋谷の事件について教えられる。和尚は「秋谷殿が藩主の側室と一夜を過ごし、小姓を斬り捨てたのはまことのことじゃ」と言い、「だが、秋谷殿は罪を犯したのではない。自ら進んで罪を背負ったのだ」と語る。そして、それは「藩のためかもしれぬが、ひとりの女子のためであるかもしれぬ」と語って、秋谷が不義密通をして一夜を過ごしたと言われた相手が、「お由の方」であったことを教える。
「お由の方」は、秋谷が生まれ育った柳井家に仕えた足軽の娘で、秋谷が戸田家に養子にはいるまでは同じ家で暮らしていたが、六代藩主三浦兼通にみそめられて側室となり、事件後は尼寺で暮らしているという。そして、七年前の事件が起こったのは、別の側室であった「お美代の方」が産んだ義之が嫡男となり、藩主兼通の正室が亡くなったときに、兼通が最も寵愛していた「お由の方」を正室にしたいと考えていた時のことだったという。「お由の方」が正室になれば、嫡男とされていた義之が廃嫡される可能性があった。そういう藩主の継嗣を巡る争いがあったときに、秋谷の事件が起こったのだと語るのである。秋谷が斬った小姓は、赤座弥五郎と言い、「お由の方」の養父となった赤座家の五男だという。戸田秋谷の事件には、そういう複雑な藩内の事情が絡み合っていたのである。
それゆえ、現藩主の義之もその側近たちも、家老の中根兵右衛門も、事件の真相に蓋をしたまま戸田秋谷が黙って切腹してくれることを望んでおり、秋谷がその事件を家譜にどのように記すか気がかりなのである。檀野庄三郎は、秋谷が抱える孤独と藩の揉め事の愚かしさを感じていく(檀野庄三郎と慶仙和尚の対話を描いた54ページ辺りの描写は、まさに絶妙である)。
他方、不義密通という汚名を着せられたことを秋谷の妻織江がどう思っているのかを知りたいと思っていた檀野庄三郎に、織江は、「わたくしは夫と離れようとは思いませんでした」と率直に語り、「(事件の真相については)わたくしは、何も知りません。(しかし)夫がどのようなひととなりであるかをわかっている」と語るのである(57ページ)。そこには、たとえ世間や藩でどのような話がでても、夫を心底信じている女性の姿がある。こういう深い信頼が秋谷と織江の夫婦にあり、それがつつましいが暖かい幽閉生活の基となっているのである。
織江は、事件について、「お由の方」が江戸屋敷で毒を盛られ、その変事を聞きつけて「お由の方」を守るために上屋敷から下屋敷に移して警護を続けたと語りはじめる。ところが「お美代の方」派であった江戸家老の宇津木頼母が、秋谷と「お由の方」の間に不義密通があると言い始め、下屋敷に移った「お由の方」を襲撃する事件が起こったと語る。秋谷は「お由の方」を守って襲撃者と斬り合い、その時の襲撃者のひとりが小姓の赤座弥五郎であった。秋谷は、そのまま「お由の方」を守って逃げのび、市中に一晩を過ごして、上屋敷に連れ帰ったのである。だが、こうしたことを一言も語らなかったために、兼通から一晩の不義を疑われ、家譜編纂の仕事と十年後の切腹を命じられ、「お由の方」は国許に送り返されて剃髪し、尼僧となられた、と語る。
そして、「なにがあったのかは、わたくしにもわかりません。ですが、夫は何があろうとひとに恥じるようなことは決してしないと信じております」(61ページ)ときっぱりと語るのである。秋谷が記していた「蜩ノ記」には、三年前に藩主兼通が亡くなった折に、「お由の方」にゆるしが出ていることが記されているが、秋谷自身のことについては何も記されず、また、そのことも公にはなっていなかった。檀野庄三郎は、秋谷の人としての姿や家族の姿に触れて、なんとかして真相をはっきりさせて、戸田秋谷の切腹を止めたいという思いを固めていく。
そうして日々が過ぎていく中で、檀野庄三郎は、秋谷の息子郁太郎の友人の源吉と出会う。源吉は妹思いの優しい利発な子で、藁葺きの小さな百姓家に住む百姓の子で、郁太郎とは親友だった。この源吉の話がとてもいいのだが、それについてはおいおい記していくことにする。源吉は本書のもう一つの要となっている。
一方、秋の収穫が不作だったために農民たちが年貢で困り、昔の出来事に倣って一揆への気運が高まりはじめていた。一揆を起こせば首謀者たちへの咎は明かで、秋谷は農民たちの暴挙を何とか押さえようとする。農民たちがもちだした昔の出来事とうのは「辛丑義民」の出来事だという。それは、五代藩主三浦義兼が藩の台所も顧みずに酒色にふけっていたために、これを隠居させて、英邁の誉れ高い兼通を藩主にしようとした重臣たちが義兼を別荘に閉じ込めた事件の際に、復権を目論んでいた中根大蔵にたきつけられた百姓三人が江戸の老中に訴えを起こし、それによって義兼が救われて、三人の百姓たちが大庄屋にまでなったという出来事だった。
その出来事に倣って、農民たちが一揆を起こして年貢の軽減を江戸表に訴え出ようとしていたのである。戸田秋谷は、その中根大蔵から見込まれて郡奉行となり、また家老格用心となったのだが、秋谷は大蔵のやり方を良しとはしていなかったし、現家老の中根兵右衛門はその中根大蔵の息子であった。秋谷と家老の中根兵右衛門との間には少なからぬ因縁があったのである。
農民たちは近隣の村々と談合して一揆の相談をはじめていた。農民の暴発を押さえようとする戸田秋谷を気に入らない過激な行動をする者も現れ、近在の猟師たちが使う鎖分銅で脅されたりもする。昔、非道な郡方の役人が鎖分銅で殺されるという事件があり、このあたりの百姓たちは鎖分銅を使うのである。
それは、年貢の取り立て方法が毎年定められた年貢を納める定免法から収穫高にあわせて取り立てる検見法に変えられ、私腹を肥やすために都合の好い検見をしていた役人が何者かに殺された事件であった。この事件も、後の展開に重要な意味をもってくるのである。
ともあれ、こうした綿密な構成と展開には恐れ入る。ひとつひとつがきちんと、しかも無理なく展開され、複雑な構成の中で、だがそれが、主人公とその家族、あるいは源吉や檀野庄三郎のまっすぐな生き方を示すものとして描かれているのだから、少々長くはなるが、出来るだけ展開に沿ってまとめておきたいと思っているので、何回かに分けて記すことになりそうである。続きは、また次回。
2012年1月30日月曜日
2012年1月27日金曜日
葉室麟『蜩ノ記』(1)
厳しい寒さが続き、今年はことのほか寒く感じられる。2012年1月23日朝日新聞に、『蜩ノ記』で直木賞を受賞したことで、葉室麟氏自身が、この物語の最初の場面である若い檀野庄三郎が山村に幽閉されて家譜編纂を続ける戸田秋谷を訪ねていくところに触れて、自身の学生時代に筑豊の炭坑の中で炭鉱労働者として働きながら鉱夫たちの姿を描き続けた上野英信氏を訪ねられたことを記しておられた。
その時、上野英信夫妻が「きょう、あなたが来られるというので、近くの土手で摘んできたんだよ」と言って、土筆鍋をごちそうされたという。「若いだけで、いまだ何者でもないわたしをもてなすために土筆を摘んでくださる姿が脳裏に浮かんだ」と葉室氏は記し、「その言葉を聞いて、涙が出そうになった」と心情を露吐されて、その土筆を摘んでくださった「上野さんの背を追って生きたかった。だから『土筆の物語』を書いたのだと思う」と結ばれている。
『蜩ノ記』(2011年 詳伝社)は、作者自身がその新聞紙上で『土筆の物語』と呼ばれた名作で、豊後の小藩(作者の創作の藩)で十年という年月を区切られて切腹を申しつけれらた中で、静かに、しかし覚悟をもって淡々と己の道を歩み続ける主人公とその家族、そして彼に接することになった若い青年の物語である。
戸田秋谷は、藩の勘定奉行であった柳井与市の四男として生まれ、文武ともに励んで優秀であったことから戸田家の養子となり、領民から慕われ尊敬される郡奉行を務めた後、江戸表の中老格用人となっていたが、江戸屋敷で側室と密通し小姓を斬り捨てたという咎で、本来なら改易されて切腹の処罰を受けるはずであったが、彼が手がけていた藩の家譜(歴史)編纂の仕事を続けるために、それが終わる十年後に切腹をするということで六代藩主が幽閉を命じたのである。以後、山深い山村で藩の家譜編纂をしながら幽閉生活を送っていた。
戸田秋谷に残された十年の内、七年が過ぎ去った時、藩の奥右筆(書記官)を勤めていた檀野庄三郎が、服に墨をつけたという些細なことで友人の水上信吾と争い、思わず刀を抜いて水上信吾の右足を斬ってしまう事件が起こってしまう。
水上信吾は藩の家老の中根兵右衛門の甥で、家老の怒りは当然ながら、城内で刀を抜いたことから、本来なら家禄が没収され、切腹のうえに、親類縁者にまで累がおよぶはずであった。しかし、奥右筆支配である上役の原一之進の調整で、事件はただの口論として処理され、檀野庄三郎は隠居させられて身柄を原一之進預かりということになり、右足を斬られた水上信吾は医師の治療を受けたが、歩行が不自由となり、致仕して江戸で学問の道を歩むことになる。
そして、家老の中根兵右衛門から、檀野庄三郎は、家老の所領の向山村に行き、そこに幽閉されている戸田秋谷を見張り、彼が編纂している家譜の内容を知らせ、三年後に迫った秋谷の死を見届け、もし秋谷が他国へ逃げるようなことがあれば家族もろとも殺すように命じられるのである。
だが、檀野庄三郎は、向山村で接した戸田秋谷とその家族の姿に心を打たれていく。定められた死を覚悟しつつ、茅葺き屋根の家で病身の妻織江をいたわりながら、十五六歳になる娘の薫と十歳になる郁太郎の家族で、つつましやかに質素に暮らし、命じられた家譜の編纂を淡々と行い続けている戸田秋谷の姿は、檀野庄三郎の心に衝撃を与えていくのである。戸田秋谷は、檀野庄三郎に命じられたことを鋭く明察し、彼が自分たちの刺客になることもあり得ることを承知しながらも、自分は逃げも隠れもしないと静かに語り、檀野庄三郎を温かく迎えるのである。
戸田秋谷に残された歳月はあと三年である。その暗雲が家族の上に重くのしかかっているにも関わらず、戸田家の人々は互いを思い遣り、つつましいながらも普段の暮らしを続けている。所作のひとつひとつ、言葉のひとつひとつにお互いを思い遣る気持ちがあふれている。その姿を見て、檀野庄三郎は、戸田秋谷が不義密通の事件を起こしたとはとうてい思えなくなっていく。
戸田秋谷は、これまで編纂してきた家譜と「蜩ノ記」と題する自分の日記を隠すことなく檀野庄三郎に見せ、檀野庄三郎はその清書をすることになる。家譜に記されている藩主三浦家の歴史の中で、藩内でだれひとり逆らおうとする者がいないほどの権勢をもつ家老の中根兵右衛門の先祖が犯した藩主の継嗣を巡る騒動のことも記されていた。檀野庄三郎は、家譜がまとまると家老は快く思わないのではないかというが、戸田秋谷は、「家譜が作られるとうことはそういうことでござる。都合好きことも悪しきことも遺され、子子孫孫に伝えられてこそ、指針となりうる」(40ページ)と語る。
家譜の編纂に当たっても、戸田秋谷は、冷静な歴史家としての姿を崩さない。事実をありのままに書くのである。それはまた、事実をありのままに受け入れて生きようとする彼の生き方の姿勢そのものでもある。こうした姿に檀野庄三郎はさらに感銘を受けていくのである。
その時、上野英信夫妻が「きょう、あなたが来られるというので、近くの土手で摘んできたんだよ」と言って、土筆鍋をごちそうされたという。「若いだけで、いまだ何者でもないわたしをもてなすために土筆を摘んでくださる姿が脳裏に浮かんだ」と葉室氏は記し、「その言葉を聞いて、涙が出そうになった」と心情を露吐されて、その土筆を摘んでくださった「上野さんの背を追って生きたかった。だから『土筆の物語』を書いたのだと思う」と結ばれている。
『蜩ノ記』(2011年 詳伝社)は、作者自身がその新聞紙上で『土筆の物語』と呼ばれた名作で、豊後の小藩(作者の創作の藩)で十年という年月を区切られて切腹を申しつけれらた中で、静かに、しかし覚悟をもって淡々と己の道を歩み続ける主人公とその家族、そして彼に接することになった若い青年の物語である。
戸田秋谷は、藩の勘定奉行であった柳井与市の四男として生まれ、文武ともに励んで優秀であったことから戸田家の養子となり、領民から慕われ尊敬される郡奉行を務めた後、江戸表の中老格用人となっていたが、江戸屋敷で側室と密通し小姓を斬り捨てたという咎で、本来なら改易されて切腹の処罰を受けるはずであったが、彼が手がけていた藩の家譜(歴史)編纂の仕事を続けるために、それが終わる十年後に切腹をするということで六代藩主が幽閉を命じたのである。以後、山深い山村で藩の家譜編纂をしながら幽閉生活を送っていた。
戸田秋谷に残された十年の内、七年が過ぎ去った時、藩の奥右筆(書記官)を勤めていた檀野庄三郎が、服に墨をつけたという些細なことで友人の水上信吾と争い、思わず刀を抜いて水上信吾の右足を斬ってしまう事件が起こってしまう。
水上信吾は藩の家老の中根兵右衛門の甥で、家老の怒りは当然ながら、城内で刀を抜いたことから、本来なら家禄が没収され、切腹のうえに、親類縁者にまで累がおよぶはずであった。しかし、奥右筆支配である上役の原一之進の調整で、事件はただの口論として処理され、檀野庄三郎は隠居させられて身柄を原一之進預かりということになり、右足を斬られた水上信吾は医師の治療を受けたが、歩行が不自由となり、致仕して江戸で学問の道を歩むことになる。
そして、家老の中根兵右衛門から、檀野庄三郎は、家老の所領の向山村に行き、そこに幽閉されている戸田秋谷を見張り、彼が編纂している家譜の内容を知らせ、三年後に迫った秋谷の死を見届け、もし秋谷が他国へ逃げるようなことがあれば家族もろとも殺すように命じられるのである。
だが、檀野庄三郎は、向山村で接した戸田秋谷とその家族の姿に心を打たれていく。定められた死を覚悟しつつ、茅葺き屋根の家で病身の妻織江をいたわりながら、十五六歳になる娘の薫と十歳になる郁太郎の家族で、つつましやかに質素に暮らし、命じられた家譜の編纂を淡々と行い続けている戸田秋谷の姿は、檀野庄三郎の心に衝撃を与えていくのである。戸田秋谷は、檀野庄三郎に命じられたことを鋭く明察し、彼が自分たちの刺客になることもあり得ることを承知しながらも、自分は逃げも隠れもしないと静かに語り、檀野庄三郎を温かく迎えるのである。
戸田秋谷に残された歳月はあと三年である。その暗雲が家族の上に重くのしかかっているにも関わらず、戸田家の人々は互いを思い遣り、つつましいながらも普段の暮らしを続けている。所作のひとつひとつ、言葉のひとつひとつにお互いを思い遣る気持ちがあふれている。その姿を見て、檀野庄三郎は、戸田秋谷が不義密通の事件を起こしたとはとうてい思えなくなっていく。
戸田秋谷は、これまで編纂してきた家譜と「蜩ノ記」と題する自分の日記を隠すことなく檀野庄三郎に見せ、檀野庄三郎はその清書をすることになる。家譜に記されている藩主三浦家の歴史の中で、藩内でだれひとり逆らおうとする者がいないほどの権勢をもつ家老の中根兵右衛門の先祖が犯した藩主の継嗣を巡る騒動のことも記されていた。檀野庄三郎は、家譜がまとまると家老は快く思わないのではないかというが、戸田秋谷は、「家譜が作られるとうことはそういうことでござる。都合好きことも悪しきことも遺され、子子孫孫に伝えられてこそ、指針となりうる」(40ページ)と語る。
家譜の編纂に当たっても、戸田秋谷は、冷静な歴史家としての姿を崩さない。事実をありのままに書くのである。それはまた、事実をありのままに受け入れて生きようとする彼の生き方の姿勢そのものでもある。こうした姿に檀野庄三郎はさらに感銘を受けていくのである。
2012年1月25日水曜日
葉室麟『橘花抄』(3)
葉室麟の作品には、これまでも和歌や漢詩が縦横に用いられるし、琴線を揺さぶる言葉の美しさが散りばめられているが、『橘花抄』にも、いくつかあったので抜き書きしておくことにする。
まず、立花重根が千利休の茶の秘伝書『南方録』を著したことに触れて、峯均が「茶の心とは?」と尋ねたときに、重種が答えた『壬二集』の藤原家隆の歌。
「花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春を見せばや」
「山里で人知れず芽吹く緑のみずみずしさ」が侘び茶の心だと語られている(67-68ページ)。そして、人はなかなか「雪間の草」を見ないが、「雪間の草」のように生きていく主人公の姿が暗示されるのである。
本書で用いられる和歌には、『いのちなりけり』で用いられた和歌ほどの重みはないのだが、それでも、「雪間の草」の生き方が、本書の主人公の姿と重ねられているのである。
もうひとつ、古今和歌集の詠み人知らずの歌
「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」
ここから書名もとられているのだろうが、物語の展開に直接の響きを与えるというよりも、主人公のひとりである「卯乃」の心情を示すものとして使われている。
言葉が生き方を指す美しい用いられ方としては、父親に疎んじられて廃嫡された傷心の泰雲に仕え、その子「卯乃」を産んだが、そのために泰雲のもとを追われて、乳飲み子を抱え、村上庄兵衛の家に預けられた「卯乃」の母である杉江が、村上家の身内とも認められずにひっそりと日々を過ごしていたときの言葉。
「ひとは会うべきひとには、会えるものだと思っております。たとえ、ともに歩むことができずとも、巡り会えただけで仕合わせではないでしょうか」(165ページ)。
あるいは、重根が流罪された後に、復権を試みようとする泰雲に、峯均がこれを諫めたときの言葉。
「兄は、事に当たって悔いぬのが武士と心得ておりましょう」(241ページ)。
また、峯均の母「りく」が「卯乃」に語る言葉。
「何かを守ろうとする者は、そのために捨てねばならぬものも多いのです。ひとからの誹りも甘んじて受ける覚悟がなければ、大切なものを守り通すことはできません」と言い、「花の美しさは生き抜こうとする健気さにあるのです」(292ぺーじ)。
こういう言葉が情景に重ねられ、また、人物の生き方に重ねられて語られていく。だから、抜き書きはしたが、これらの言葉は生きた言葉として物語の中で展開されていくのである。葉室麟の素晴らしさは、こういう言葉が実体をもって生きていることの素晴らしさでもあると、つくづく思う。
昨日は一昨日降った雪が溶けずに凍りつく寒さで、ときおり雪も舞った日だった。若い頃に影響を受けた中原中也の『汚れつちまつた悲しみに』という詩を、ふと思い起こした。「汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れつちまつた悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる」という一節である。不思議とそんな思いを抱いていた日だった。
今日も、ようやく晴れてきたが、寒い。暖房機をふる活動させているのだが、冷え込みの厳しさはいかんともしがたい。寒いと、わたしの脳細胞は休眠状態の上にさらに休眠をしてしまうので、たぶん、まとまった仕事にはならないだろうと思ったりもする。
まず、立花重根が千利休の茶の秘伝書『南方録』を著したことに触れて、峯均が「茶の心とは?」と尋ねたときに、重種が答えた『壬二集』の藤原家隆の歌。
「花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春を見せばや」
「山里で人知れず芽吹く緑のみずみずしさ」が侘び茶の心だと語られている(67-68ページ)。そして、人はなかなか「雪間の草」を見ないが、「雪間の草」のように生きていく主人公の姿が暗示されるのである。
本書で用いられる和歌には、『いのちなりけり』で用いられた和歌ほどの重みはないのだが、それでも、「雪間の草」の生き方が、本書の主人公の姿と重ねられているのである。
もうひとつ、古今和歌集の詠み人知らずの歌
「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」
ここから書名もとられているのだろうが、物語の展開に直接の響きを与えるというよりも、主人公のひとりである「卯乃」の心情を示すものとして使われている。
言葉が生き方を指す美しい用いられ方としては、父親に疎んじられて廃嫡された傷心の泰雲に仕え、その子「卯乃」を産んだが、そのために泰雲のもとを追われて、乳飲み子を抱え、村上庄兵衛の家に預けられた「卯乃」の母である杉江が、村上家の身内とも認められずにひっそりと日々を過ごしていたときの言葉。
「ひとは会うべきひとには、会えるものだと思っております。たとえ、ともに歩むことができずとも、巡り会えただけで仕合わせではないでしょうか」(165ページ)。
あるいは、重根が流罪された後に、復権を試みようとする泰雲に、峯均がこれを諫めたときの言葉。
「兄は、事に当たって悔いぬのが武士と心得ておりましょう」(241ページ)。
また、峯均の母「りく」が「卯乃」に語る言葉。
「何かを守ろうとする者は、そのために捨てねばならぬものも多いのです。ひとからの誹りも甘んじて受ける覚悟がなければ、大切なものを守り通すことはできません」と言い、「花の美しさは生き抜こうとする健気さにあるのです」(292ぺーじ)。
こういう言葉が情景に重ねられ、また、人物の生き方に重ねられて語られていく。だから、抜き書きはしたが、これらの言葉は生きた言葉として物語の中で展開されていくのである。葉室麟の素晴らしさは、こういう言葉が実体をもって生きていることの素晴らしさでもあると、つくづく思う。
昨日は一昨日降った雪が溶けずに凍りつく寒さで、ときおり雪も舞った日だった。若い頃に影響を受けた中原中也の『汚れつちまつた悲しみに』という詩を、ふと思い起こした。「汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れつちまつた悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる」という一節である。不思議とそんな思いを抱いていた日だった。
今日も、ようやく晴れてきたが、寒い。暖房機をふる活動させているのだが、冷え込みの厳しさはいかんともしがたい。寒いと、わたしの脳細胞は休眠状態の上にさらに休眠をしてしまうので、たぶん、まとまった仕事にはならないだろうと思ったりもする。
2012年1月23日月曜日
葉室麟『橘花抄』(2)
今週辺りからようやく通常のスケジュールに戻ったような気がする。天気は悪いのだが、朝から洗濯をし、掃除にせいを出し、散乱していた書類や原稿を片づけたりしていた。今夜も雪になるかも知れないとの予報が出ている。
さて、葉室麟『橘花抄』の続きであるが、立花重根は、引退してもなお大殿として力をもつ黒田光之と藩主の黒田綱政の劣悪な関係を修復しようと苦心する。だが、周囲の人間たちはそういう重根に保身のための奸臣の汚名を着せようとする。策を労するものは、他の者も策を労していると思ってしまうので、重根が保身のためにおもねっていると思ってしまうのである。そして、重根は藩主親子の関係が修復されれば、身を引いて「卯乃」と静かな暮らしをしたいと望むが、適えられなくなっていくのである。
そういう中で、峯均の元妻の「さえ」が峯均のところに訪れ、娘の「奈津」を引き取り、実家の花房家に婿を取って実家を継がせたいと申し出る。加えて、「さえ」は別の藩士と再婚していたが、彼女の夫に借財があり、夫から実家に戻りたければ金を用意しろといわれ、峯均に金を無心に来たのだった。彼女の夫は光之から嫌われていた世子の黒田吉之の側近で、重根に刺客を放ったのが黒田吉之ではないかと思われ、「さえ」の夫はその刺客のひとりであったのである。
だが、そういうことを承知の上で、峯均は、「奈津」を出すことは断固として断るが、元妻の「さえ」を助けることにする。峯均は、「卯乃」に対する想いを内に秘めているが,それを決して表には出さずに、「さえ」を助けていく。しかし、そのことがさらに「さえ」の夫の気に入らずに、夫は峯均をさらにつけ狙っていくようになる。「さえ」は、姫百合の花を思わせるような女性だったが、かつて峯均が御前試合で無惨な負け方をしたときに、峯均を軽んじたことを悔いていた。「さえ」の夫は、重根を守る峯均を打つことで重根も誅することができ、仕えていて黒田吉之に気に入られようとし、峯均を呼び出し、計略を図って峯均を殺そうとする。
しかし、二天流五世の腕をもつ峯均は、これを難なく退け、「さえ」は実家に戻ることが出来た。「さえ」は峯均の元に戻りたいと思っているが、それが適わぬことを知っている。そういう中で峯均の姿に触れてきた「卯乃」もまた、重根への想いとは別に、実直な峯均を密かに想うようになっていくのである。
「さえ」の一件が決着した後、「卯乃」は突然、廃嫡されて逼塞している黒田泰雲(綱之)に呼び出される。そして、「卯乃」の父村上庄兵衛を死に追いやったのが泰雲であり、「卯乃」が実は泰雲の子であることを告げられるのである。その「卯乃」を重根と結婚させて、重根を自分の陣営に取り込もうとしていたのである。泰雲は、今なお、復権を企てていた。だが、「卯乃」は泰雲の元に戻ることをきっぱりと断る。「卯乃」を護って泰雲の屋敷まで来ていた峯均は、その帰路、「兄上には兄上の夢、わたしには、わたしの思いというものがござる」(113ページ)と語る。峯均と「卯乃」の密かな想いが次第に密やかに交差していく。
泰雲が復権を企てる気配が漂う中で、家老の隅田清左衛門は、光之と泰雲を争わせ、泰雲の力を削いで藩主の綱政の藩政を安泰させようとするし、それによって光之と泰雲の親子関係を修復させようとした立花重根の失脚を目論み、また、泰雲の娘「卯乃」と結婚するという重根が泰雲を庇う者と見なして、光之の死後は、綱政が泰雲を殺すと同時に光之の側近であった者の粛正を考えていた。
光之はその禍根を断とうと、かつて峯均を試合で破った巌流の津田天馬を刺客として雇い、自らの手で子である泰雲を始末しようと目論む。だが、立花重根は、その光之の目論見が人としてはずれたことであると光之を諫め、光之から、そうすれば悲運を招くことになるといわれても、「悲運もまた、運のうちでござる」(139ページ)と実直に筋を曲げない道を選んでいく。重根の諫言によってお役御免になった津田天馬は重根に恨を残し、峯均とも決着をつけると言い放っていく。
だが、そのことによって光之と泰雲の関係は険悪になっていく。立花重根は、その関係を何とか修復しようと苦慮する。そして、そのかいがあって、光之は泰雲をゆるし、泰雲もまた重根から親子の情を語られて心をほどいていく。重根は、泰雲がかつて愛した「卯乃」の母親との「互いを思いやる心」を説くのである。
だが、光之と泰雲の関係の修復は、現藩主である綱政や世子の吉之とその側近にとっては、自分たちの身を危うくすることに繋がりかねなかった。綱政は、父の光之亡き後は、泰雲側についたと見なされる立花一族を断つと決め、家老の隅田清左衛門は、そのために津田天馬を刺客として使おうとするのである。津田天馬は一度重根を襲い、護っていた峯均から片腕を斬られていたが、なお、執念深く立花兄弟を狙っていた。
立花重根の配慮で、光之と泰雲の間は修復された。光之は泰雲につらい思いをさせたと詫び、泰雲は自分の至らなさを思い、親子の情は取り戻された。そして、光之は死を迎えた。光之からゆるされた泰雲の台頭を危ぶむ綱政は、光之の遺志を無視して、泰雲と立花一族を退けようとし、光之側近を一掃しようとする。家老の隅田清左衛門は、泰雲と重根の仲を裂くために、泰雲の子であり重根の嫁になるという「卯乃」をなきものにしようと津田天馬を刺客として送る。
津田天馬は「卯乃」を襲う。だが、峯均の弟子となっていた桐山作兵衛が駆けつけてきて、かろうじて難を逃れる。だが、綱政による立花一族の粛正が始まっていく。もはや、立花重根と峯均は孤立無援の状態に追いやられるのである。重根は隠居し、峯均は所領を没収される。重根は剃髪して僧形となり、「宗有」と号するようになる。それはまた、「卯乃」を後添えとすることを断念した姿でもあった。だが、事柄はそれでは済まず、綱政は重根に嘉麻群鯰田に流罪を申しつける。
重根はその命に諾々と服し、罪人として鯰田で座敷牢の中で監禁される。重根の流罪を聞いた泰雲は、この機を捕らえて江戸おもてに訴え出て、藩政への復権を試みようとする。それを聞いた峯均は、鯰田に監禁されている重根のもとを密かに訪ね、重根は、そんなことをすれば泰雲が殺され、藩政が混乱すると考え、泰雲に書状を書く。筆もゆるされなかったので、重根は楊枝の先をかみ砕き、墨がなくなれば指を噛んで血で書面をしたためるのである。そして、危険を承知で訪ねて来た峯均に、自分に気兼ねせずに「卯乃」を幸せにしてくれと語るのである。
泰雲は重根の手紙を見て、自らの短慮を思いとどまる。そして、峯均は「卯乃」に自分の想いを伝える。だが、峯均が配流されている重根のところへ行ったことが発覚し、峯均は玄界灘に浮かぶ孤島である小呂島に島流しにされることになる。「卯乃」は、峯均に「お帰りをお待ち申しております」(254ページ)と伝える。他方、一度は短慮を思いとどまったが、峯均が遠島となることを知った泰雲は、再び江戸へ出立して、老中に綱政を訴えようとする。そこに家老の隅田清左衛門の刺客として津田天馬が泰雲を殺そうとやってくる。そして、泰雲は津田天馬の手にかかってしまうのである。「卯乃」は泰雲を思いとどまらせようと泰雲の屋敷に行こうとするが間に合わなかった。
残された伊崎の家では厳しい生活が営まれることになった。「りく」も「卯乃」も「奈津」も畑仕事をしたりして留守宅を守り続ける。そのうち「りく」が過労で倒れたりするし、峯均の元妻の「さえ」がやってきたり、家老の隅田清左衛門が「卯乃」を側室に望んでいると言い寄って来たりする。だが、三人は心をまっすぐにして生き続けるし、失明した「卯乃」のために江戸から目医者がやってきて「卯乃」が治療を受けることになる。
泰雲を殺した綱政は、これで安泰と想いつつも次第に気鬱になっていき、その気鬱のもとが鯰田に監禁している立花重根にあると思い、食事を減らしただけでなく、ついに、家老の隅田清左衛門に重根の処分を申し渡し、隅田清左衛門は刺客として津田天馬を送る。鯰田で座敷牢に入れられながらも、彼を監視する人々の心をうって逃げることが出来るようになっていたにも関わらず、重根は自分の道をまっすぐに進み、津田天馬に木刀で打たれてしまう。「どのような逆境にあっても、押しつぶされずに誇りを失わずに生きる」(324ページ)。それが立花重根の姿であった。
「卯乃」の眼は、治療の甲斐があって回復する。だが、津田天馬は執拗に立花峯均を狙い、小呂島まで峯均と対決するために出かけていく。無腰の峯均を案じた弟子の桐山作兵衛は、峯均に刀を届けるために小呂島に行き、峯均と津田天馬の死闘に立ち会う。それはまさに死闘であったが、「人には魂がある」と語る峯均は天馬を討ち果たす。
小呂島への流罪がゆるされて立花峯均が志摩郡青木村に住むようになるまで七年の歳月がかかったことが最後に記される。峯均は重根が遺した『南方録』の秘伝を清書する日々を過ごし、その側らには常にたおやかな女人の姿があったという。それは言うまでもなく「卯乃」であり、二人が連れ立って海辺を歩く姿が短く記されている。
そして、その後の福岡藩黒田家を襲った不幸と峯均が著した『丹治峯均筆記』から宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘についての記述が記されて、物語が終わる。
この作品は、どんな状況にあっても、押しつぶされずに誇りをもって生き抜こうとした人間を描いた作品である。藩主の黒田家一族の確執の複雑さなどもあるし、藩の権力を巡る争いが背景となっているが、「情」と「思いやり」、「愛」を、覚悟をもって貫こうとした人間の物語である。そういう人々が中心にどっしりと据えられているのだから、ひとつひとつが感動を生まないわけがない。
茶人として著名であった立花重根を描くのに、茶道ではなく、香道を取り入れたところにも作者の思いがあるだろうが、何といっても、言葉が美しい。この作品でも、特にそう思う箇所が随所にあったので、改めて記したいと思っている。
さて、葉室麟『橘花抄』の続きであるが、立花重根は、引退してもなお大殿として力をもつ黒田光之と藩主の黒田綱政の劣悪な関係を修復しようと苦心する。だが、周囲の人間たちはそういう重根に保身のための奸臣の汚名を着せようとする。策を労するものは、他の者も策を労していると思ってしまうので、重根が保身のためにおもねっていると思ってしまうのである。そして、重根は藩主親子の関係が修復されれば、身を引いて「卯乃」と静かな暮らしをしたいと望むが、適えられなくなっていくのである。
そういう中で、峯均の元妻の「さえ」が峯均のところに訪れ、娘の「奈津」を引き取り、実家の花房家に婿を取って実家を継がせたいと申し出る。加えて、「さえ」は別の藩士と再婚していたが、彼女の夫に借財があり、夫から実家に戻りたければ金を用意しろといわれ、峯均に金を無心に来たのだった。彼女の夫は光之から嫌われていた世子の黒田吉之の側近で、重根に刺客を放ったのが黒田吉之ではないかと思われ、「さえ」の夫はその刺客のひとりであったのである。
だが、そういうことを承知の上で、峯均は、「奈津」を出すことは断固として断るが、元妻の「さえ」を助けることにする。峯均は、「卯乃」に対する想いを内に秘めているが,それを決して表には出さずに、「さえ」を助けていく。しかし、そのことがさらに「さえ」の夫の気に入らずに、夫は峯均をさらにつけ狙っていくようになる。「さえ」は、姫百合の花を思わせるような女性だったが、かつて峯均が御前試合で無惨な負け方をしたときに、峯均を軽んじたことを悔いていた。「さえ」の夫は、重根を守る峯均を打つことで重根も誅することができ、仕えていて黒田吉之に気に入られようとし、峯均を呼び出し、計略を図って峯均を殺そうとする。
しかし、二天流五世の腕をもつ峯均は、これを難なく退け、「さえ」は実家に戻ることが出来た。「さえ」は峯均の元に戻りたいと思っているが、それが適わぬことを知っている。そういう中で峯均の姿に触れてきた「卯乃」もまた、重根への想いとは別に、実直な峯均を密かに想うようになっていくのである。
「さえ」の一件が決着した後、「卯乃」は突然、廃嫡されて逼塞している黒田泰雲(綱之)に呼び出される。そして、「卯乃」の父村上庄兵衛を死に追いやったのが泰雲であり、「卯乃」が実は泰雲の子であることを告げられるのである。その「卯乃」を重根と結婚させて、重根を自分の陣営に取り込もうとしていたのである。泰雲は、今なお、復権を企てていた。だが、「卯乃」は泰雲の元に戻ることをきっぱりと断る。「卯乃」を護って泰雲の屋敷まで来ていた峯均は、その帰路、「兄上には兄上の夢、わたしには、わたしの思いというものがござる」(113ページ)と語る。峯均と「卯乃」の密かな想いが次第に密やかに交差していく。
泰雲が復権を企てる気配が漂う中で、家老の隅田清左衛門は、光之と泰雲を争わせ、泰雲の力を削いで藩主の綱政の藩政を安泰させようとするし、それによって光之と泰雲の親子関係を修復させようとした立花重根の失脚を目論み、また、泰雲の娘「卯乃」と結婚するという重根が泰雲を庇う者と見なして、光之の死後は、綱政が泰雲を殺すと同時に光之の側近であった者の粛正を考えていた。
光之はその禍根を断とうと、かつて峯均を試合で破った巌流の津田天馬を刺客として雇い、自らの手で子である泰雲を始末しようと目論む。だが、立花重根は、その光之の目論見が人としてはずれたことであると光之を諫め、光之から、そうすれば悲運を招くことになるといわれても、「悲運もまた、運のうちでござる」(139ページ)と実直に筋を曲げない道を選んでいく。重根の諫言によってお役御免になった津田天馬は重根に恨を残し、峯均とも決着をつけると言い放っていく。
だが、そのことによって光之と泰雲の関係は険悪になっていく。立花重根は、その関係を何とか修復しようと苦慮する。そして、そのかいがあって、光之は泰雲をゆるし、泰雲もまた重根から親子の情を語られて心をほどいていく。重根は、泰雲がかつて愛した「卯乃」の母親との「互いを思いやる心」を説くのである。
だが、光之と泰雲の関係の修復は、現藩主である綱政や世子の吉之とその側近にとっては、自分たちの身を危うくすることに繋がりかねなかった。綱政は、父の光之亡き後は、泰雲側についたと見なされる立花一族を断つと決め、家老の隅田清左衛門は、そのために津田天馬を刺客として使おうとするのである。津田天馬は一度重根を襲い、護っていた峯均から片腕を斬られていたが、なお、執念深く立花兄弟を狙っていた。
立花重根の配慮で、光之と泰雲の間は修復された。光之は泰雲につらい思いをさせたと詫び、泰雲は自分の至らなさを思い、親子の情は取り戻された。そして、光之は死を迎えた。光之からゆるされた泰雲の台頭を危ぶむ綱政は、光之の遺志を無視して、泰雲と立花一族を退けようとし、光之側近を一掃しようとする。家老の隅田清左衛門は、泰雲と重根の仲を裂くために、泰雲の子であり重根の嫁になるという「卯乃」をなきものにしようと津田天馬を刺客として送る。
津田天馬は「卯乃」を襲う。だが、峯均の弟子となっていた桐山作兵衛が駆けつけてきて、かろうじて難を逃れる。だが、綱政による立花一族の粛正が始まっていく。もはや、立花重根と峯均は孤立無援の状態に追いやられるのである。重根は隠居し、峯均は所領を没収される。重根は剃髪して僧形となり、「宗有」と号するようになる。それはまた、「卯乃」を後添えとすることを断念した姿でもあった。だが、事柄はそれでは済まず、綱政は重根に嘉麻群鯰田に流罪を申しつける。
重根はその命に諾々と服し、罪人として鯰田で座敷牢の中で監禁される。重根の流罪を聞いた泰雲は、この機を捕らえて江戸おもてに訴え出て、藩政への復権を試みようとする。それを聞いた峯均は、鯰田に監禁されている重根のもとを密かに訪ね、重根は、そんなことをすれば泰雲が殺され、藩政が混乱すると考え、泰雲に書状を書く。筆もゆるされなかったので、重根は楊枝の先をかみ砕き、墨がなくなれば指を噛んで血で書面をしたためるのである。そして、危険を承知で訪ねて来た峯均に、自分に気兼ねせずに「卯乃」を幸せにしてくれと語るのである。
泰雲は重根の手紙を見て、自らの短慮を思いとどまる。そして、峯均は「卯乃」に自分の想いを伝える。だが、峯均が配流されている重根のところへ行ったことが発覚し、峯均は玄界灘に浮かぶ孤島である小呂島に島流しにされることになる。「卯乃」は、峯均に「お帰りをお待ち申しております」(254ページ)と伝える。他方、一度は短慮を思いとどまったが、峯均が遠島となることを知った泰雲は、再び江戸へ出立して、老中に綱政を訴えようとする。そこに家老の隅田清左衛門の刺客として津田天馬が泰雲を殺そうとやってくる。そして、泰雲は津田天馬の手にかかってしまうのである。「卯乃」は泰雲を思いとどまらせようと泰雲の屋敷に行こうとするが間に合わなかった。
残された伊崎の家では厳しい生活が営まれることになった。「りく」も「卯乃」も「奈津」も畑仕事をしたりして留守宅を守り続ける。そのうち「りく」が過労で倒れたりするし、峯均の元妻の「さえ」がやってきたり、家老の隅田清左衛門が「卯乃」を側室に望んでいると言い寄って来たりする。だが、三人は心をまっすぐにして生き続けるし、失明した「卯乃」のために江戸から目医者がやってきて「卯乃」が治療を受けることになる。
泰雲を殺した綱政は、これで安泰と想いつつも次第に気鬱になっていき、その気鬱のもとが鯰田に監禁している立花重根にあると思い、食事を減らしただけでなく、ついに、家老の隅田清左衛門に重根の処分を申し渡し、隅田清左衛門は刺客として津田天馬を送る。鯰田で座敷牢に入れられながらも、彼を監視する人々の心をうって逃げることが出来るようになっていたにも関わらず、重根は自分の道をまっすぐに進み、津田天馬に木刀で打たれてしまう。「どのような逆境にあっても、押しつぶされずに誇りを失わずに生きる」(324ページ)。それが立花重根の姿であった。
「卯乃」の眼は、治療の甲斐があって回復する。だが、津田天馬は執拗に立花峯均を狙い、小呂島まで峯均と対決するために出かけていく。無腰の峯均を案じた弟子の桐山作兵衛は、峯均に刀を届けるために小呂島に行き、峯均と津田天馬の死闘に立ち会う。それはまさに死闘であったが、「人には魂がある」と語る峯均は天馬を討ち果たす。
小呂島への流罪がゆるされて立花峯均が志摩郡青木村に住むようになるまで七年の歳月がかかったことが最後に記される。峯均は重根が遺した『南方録』の秘伝を清書する日々を過ごし、その側らには常にたおやかな女人の姿があったという。それは言うまでもなく「卯乃」であり、二人が連れ立って海辺を歩く姿が短く記されている。
そして、その後の福岡藩黒田家を襲った不幸と峯均が著した『丹治峯均筆記』から宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘についての記述が記されて、物語が終わる。
この作品は、どんな状況にあっても、押しつぶされずに誇りをもって生き抜こうとした人間を描いた作品である。藩主の黒田家一族の確執の複雑さなどもあるし、藩の権力を巡る争いが背景となっているが、「情」と「思いやり」、「愛」を、覚悟をもって貫こうとした人間の物語である。そういう人々が中心にどっしりと据えられているのだから、ひとつひとつが感動を生まないわけがない。
茶人として著名であった立花重根を描くのに、茶道ではなく、香道を取り入れたところにも作者の思いがあるだろうが、何といっても、言葉が美しい。この作品でも、特にそう思う箇所が随所にあったので、改めて記したいと思っている。
2012年1月21日土曜日
葉室麟『橘花抄』(1)
昨日は起きたときに静かに雪が降り積もり、一面の白い世界が広がっていた。「お~、寒」と思いながらコーヒーを入れ、降り続く雪を眺めていた。しなければならないことが溜まっていたので、ひとつひとつこなしていったが、降っては溶ける雪片にはかなさを感じたりした。
葉室麟『蜩ノ記』について記そうかと思ったが、先に彼の『橘花抄(きっかしょう)』(2010年 新潮社)を読んでいたので記しておこう。これも名作だった。
本書は、筑前福岡藩の第三代藩主となった黒田光之と、その後継を巡る争いの中で、自らの真実を貫き通そうとした立花重根(しげもと)と弟の立花峯均(みねひら)、そして立花重根に引き取られた卯乃(うの)という娘を中心にして、深い愛に基づいて潔く生きていく人間の姿を描き出したものである。
黒田光之(1628-1707年)は、二代藩主黒田忠之の側室の子であったが、長男であったために忠之死後に家督を継ぎ、福岡藩の三代藩主となった人物である。藩祖の黒田如水(孝高)・長政はともかく、二代藩主忠之は人間的にも劣るところの多かった人物であったが、光之は、英邁で、財政困難に陥っていた福岡藩の大胆な改革を実行し、保守的な重臣を遠ざけ、新参に過ぎなかった立花重種(重根の父)などを家老として登用するなど数々の断行を行った。素養も豊かで、貝原益軒に『黒田家譜』などを編纂させたりもしている。
しかし、彼の長男であった黒田綱之をなぜか嫌い、これを廃嫡し(綱之は僧となり泰雲と名乗る)、三男であった長寛(綱政と改名)に家督を譲り、そのために藩政に混乱を招いてしまった。光之は1688年(元禄元年)に隠居して綱政に家督を譲ったのだが、80歳で死去するまで依然として藩政に影響力を持ち、晩年はその綱政とも対立していた。親にも愛されず、子も信じられずに、家族愛というものには恵まれなかった人物かもしれない。
その光之が新規に家老として重んじた立花重種の次男であった立花重根は、八歳で光之に近侍し、重用されて側近として仕え、光之が隠居した後も隠居付頭取として、五十三歳になるまでの長年を光之に仕えていた。秀才の誉れ高く、儒学、詩歌だけでなく、弓、槍、剣の奥義も究めていたと言われ、特に茶道では「実山」と号して、千利休の精神を伝える茶道極秘伝書『南方録』の編著者とも言われている。京文化とも繋がりが深く、福岡藩を代表する一流の文化人であった。
重根の腹違いの弟峯均も、兄であった重根の教えを受けて一流の茶人であり、それと同時に、宮本武蔵の流れをくむ二天一流の剣を学び、筑前二天流の相伝を受け、筑前二天流第5代相伝者になっている。福岡立花家は柳川立花家とも繋がりがあったが、福岡藩には、こういう重根や峯均のような傑出した人物を出す素地があったとも言えるだろう。
こうした主要人物の背景の中で、本書は、黒田光之によって廃嫡された綱之(泰雲)に仕えていた村上庄兵衛の娘「卯乃」が、廃嫡の騒動の中で自害したために孤児となり、立花重根によって引き取られていくところから始まる。「卯乃」は、十四歳で孤児となり重根に引き取られるが、その時に「泣くでない。泣かなければ明日は良い日が来るのだ」(6ページ)と語りかけられ、立花家で成長していくのである。
「卯乃」の父親村上庄兵衛が自害したのには、黒田綱之(泰雲)の廃嫡が大きく関わっていたのだが、藩内での状勢に逆らう形で、立花重根は、断固として娘を庇護していくのである。そして、「卯乃」が十八歳になったとき、妻を亡くしていた五十歳の重根の後添えになる話が持ち上がるのである。「卯乃」の父親の自害には藩内の複雑な事情が絡んでおり、「卯乃」を嫁に迎えようという家はなかったが、それ以上に、重根の優しさに触れていた「卯乃」の今後のこともあり、重根は「卯乃」を正式な妻として迎えることを決断し、「卯乃」もそれに応じるのである。
ところが、藩の家老で財政を取り仕切っている隅田清左衛門に仕える男が、父親の友人だったといってやってきて、黒田綱之に仕えていた父親の村上庄兵衛の自害に立花重根が深く関わっていたと告げるのである。綱之は才気発露の闊達な人物で、家臣を集めて酒宴を開くことが多く、藩内に倹約を勧めてきた光之の怒りを買って、蟄居させられて廃嫡されたが、その際、綱之の側近であった庄兵衛が責任を取る形で自害したというのである。泰雲(綱之)は、そのことに不満で、今なお復権を望んでいると言う。そして、光之に泰雲(綱之)の風聞を耳に入れたのが立花重根であるというのである。
だが、「卯乃」は、三月に重根との婚儀を控えた年の正月に失明してしまう。失明の原因には、自分を引き取り正式な妻にまでしようとしてくれている重根が、父親の自害に関係していたということを聞いた衝撃もあっただろう。失明した自分では、藩の重責を担う重根に仕えることができないと言い出すが、重根の心は変わらず、盲目となっても妻にするつもりだと語り、重根の継母の「りく」と共に弟の立花峯均が暮らす伊崎の屋敷で療養することを勧めるのである。
立花家に重種の後添いで入った「りく」は、家老であった立花家の家政を見事に切り盛りし、和歌、茶、香にも堪能で、重種が亡くなった後は、実子の峯均のところで暮らしていたのである。そして、目の見えなくなった「卯乃」と香を聞いてみたいと言い出すのである(「香を聞く」とは香道で香をかぐこと)。
重根の弟峯均は、二十一歳の時に豊前小倉藩の小笠原家に仕えていた巌流の遣い手であった津田天馬と名乗る侍との御前試合でひどい負け方をし、それを機に、巌流の佐々木小次郎を負かせた宮本武蔵の二天流を学びはじめたのである。峯均は、ひどい負け方をしたということで婿養子として入っていた花房家から家名を汚したということで追い出され、伊崎に家を造り、「兵法狂い」といわれるほど熱心に修行したのである。そして、前述したように、ついに二天流の相伝を受けるほどになっていたのである。おおらかで、まっすぐな性質で、兄の重根を助けていた人物で、母親の「りく」と婚家を追い出され他時に引き取っていた娘の「奈津」と静かに暮らしていたのである。重根は端正な顔立ちをしているが、峯均は丸顔の地味な顔つきで、体格も中肉中背だった。
伊崎の家で「卯乃」は「りく」や「奈津」から温かく迎えられ、畑仕事をしたりしながら、とりわけ「りく」から香道を教えられ、目が見えなくても凛として生きていくこと、人の心の香りを聞いて生きることを教えられるのである。そうした生活の中で、「卯乃」は峯均のもとに弟子入りを望む桐山作兵衛(実在の人物)から峯均のことを聞いたりして、峯均に「爽やかな香り」を感じたりしていくのである。
だが、藩の情勢は徐々に変化していった。隠居した黒田光之と藩主を継いだ黒田綱政との間がうまくいかず険悪になってきたのである。光之は隠居しても厳然と力をもっていたし、綱政に対して不満を持っていた。光之は二代目藩主であった黒田忠之から疎んじられて育てられ、忠之の放漫さによって藩の財政が逼迫した時に藩主を継いだこともあり、長子の綱之(泰雲)が豪放磊落で、放漫だった祖父の忠之に似て、奢侈に走り,藩財政を再び悪化させることを危惧して廃嫡したが、綱政の手ぬるさと綱政の子の吉之にも放漫さを感じていたのである。光之は鋭利なだけに、親にも子や孫にも信を置くことができなかったのである。
立花重根は、そうした光之の態度が藩に混乱をもたらすことになることを感じており、光之の側近として、そのような光之に対して親子の情愛を取り戻して、泰雲(綱之)をゆるし、綱政とも和解するように苦心する。だが、そうした重根の態度が、新参者である立花家の異例の出世を目論むものとして、譜代や古参の家臣の反発をかっていたのである。重根を暗殺しようとする動きが家老の隅田清左衛門を中心としてあり、命を狙われる重根を峯均が守っていくのである。そして、「卯乃」もまた、なぜか身の危険が迫ってくるのである。
ここまで物語の筋を追ってきて、指導者や権力者の新旧交代の時に起こる混乱は、たとえば徳川将軍家や福岡藩黒田家だけでなく、世の組織の常かも知れないと、ふと思ったりした。旧が強ければ新が潰され、新が強ければ旧が退けられる。そういう中で、ただ権力欲や保身だけで動こうとする人間も出てくる。そういう中で人生と生活が織りなされていくから、状勢に敏感にならざるを得ないし、それがまた混乱を招いていく。昨今の政治でも企業でも同じことが起こる。ただ、他を排斥しようとする人間ほど醜くつまらないものはないし、排斥する者は排斥される者となる。
その醜い争いの中で、たとえ孤立無援であったとしても自らの深い愛情と矜持をもってまっすぐに生きていく姿、それが、葉室麟が描き出す立花重根と峯均の姿である。そして、だからこそこの作品が琴線を揺さぶるのである。「矜持」とは、覚悟をもって生きることであり、しかも「愛する覚悟」をもって生きる人間の姿がここにあるのである。
物語の展開の続きは、また次に書くことにして、今日は少したまっている仕事を片づけよう。それにしても寒い。
葉室麟『蜩ノ記』について記そうかと思ったが、先に彼の『橘花抄(きっかしょう)』(2010年 新潮社)を読んでいたので記しておこう。これも名作だった。
本書は、筑前福岡藩の第三代藩主となった黒田光之と、その後継を巡る争いの中で、自らの真実を貫き通そうとした立花重根(しげもと)と弟の立花峯均(みねひら)、そして立花重根に引き取られた卯乃(うの)という娘を中心にして、深い愛に基づいて潔く生きていく人間の姿を描き出したものである。
黒田光之(1628-1707年)は、二代藩主黒田忠之の側室の子であったが、長男であったために忠之死後に家督を継ぎ、福岡藩の三代藩主となった人物である。藩祖の黒田如水(孝高)・長政はともかく、二代藩主忠之は人間的にも劣るところの多かった人物であったが、光之は、英邁で、財政困難に陥っていた福岡藩の大胆な改革を実行し、保守的な重臣を遠ざけ、新参に過ぎなかった立花重種(重根の父)などを家老として登用するなど数々の断行を行った。素養も豊かで、貝原益軒に『黒田家譜』などを編纂させたりもしている。
しかし、彼の長男であった黒田綱之をなぜか嫌い、これを廃嫡し(綱之は僧となり泰雲と名乗る)、三男であった長寛(綱政と改名)に家督を譲り、そのために藩政に混乱を招いてしまった。光之は1688年(元禄元年)に隠居して綱政に家督を譲ったのだが、80歳で死去するまで依然として藩政に影響力を持ち、晩年はその綱政とも対立していた。親にも愛されず、子も信じられずに、家族愛というものには恵まれなかった人物かもしれない。
その光之が新規に家老として重んじた立花重種の次男であった立花重根は、八歳で光之に近侍し、重用されて側近として仕え、光之が隠居した後も隠居付頭取として、五十三歳になるまでの長年を光之に仕えていた。秀才の誉れ高く、儒学、詩歌だけでなく、弓、槍、剣の奥義も究めていたと言われ、特に茶道では「実山」と号して、千利休の精神を伝える茶道極秘伝書『南方録』の編著者とも言われている。京文化とも繋がりが深く、福岡藩を代表する一流の文化人であった。
重根の腹違いの弟峯均も、兄であった重根の教えを受けて一流の茶人であり、それと同時に、宮本武蔵の流れをくむ二天一流の剣を学び、筑前二天流の相伝を受け、筑前二天流第5代相伝者になっている。福岡立花家は柳川立花家とも繋がりがあったが、福岡藩には、こういう重根や峯均のような傑出した人物を出す素地があったとも言えるだろう。
こうした主要人物の背景の中で、本書は、黒田光之によって廃嫡された綱之(泰雲)に仕えていた村上庄兵衛の娘「卯乃」が、廃嫡の騒動の中で自害したために孤児となり、立花重根によって引き取られていくところから始まる。「卯乃」は、十四歳で孤児となり重根に引き取られるが、その時に「泣くでない。泣かなければ明日は良い日が来るのだ」(6ページ)と語りかけられ、立花家で成長していくのである。
「卯乃」の父親村上庄兵衛が自害したのには、黒田綱之(泰雲)の廃嫡が大きく関わっていたのだが、藩内での状勢に逆らう形で、立花重根は、断固として娘を庇護していくのである。そして、「卯乃」が十八歳になったとき、妻を亡くしていた五十歳の重根の後添えになる話が持ち上がるのである。「卯乃」の父親の自害には藩内の複雑な事情が絡んでおり、「卯乃」を嫁に迎えようという家はなかったが、それ以上に、重根の優しさに触れていた「卯乃」の今後のこともあり、重根は「卯乃」を正式な妻として迎えることを決断し、「卯乃」もそれに応じるのである。
ところが、藩の家老で財政を取り仕切っている隅田清左衛門に仕える男が、父親の友人だったといってやってきて、黒田綱之に仕えていた父親の村上庄兵衛の自害に立花重根が深く関わっていたと告げるのである。綱之は才気発露の闊達な人物で、家臣を集めて酒宴を開くことが多く、藩内に倹約を勧めてきた光之の怒りを買って、蟄居させられて廃嫡されたが、その際、綱之の側近であった庄兵衛が責任を取る形で自害したというのである。泰雲(綱之)は、そのことに不満で、今なお復権を望んでいると言う。そして、光之に泰雲(綱之)の風聞を耳に入れたのが立花重根であるというのである。
だが、「卯乃」は、三月に重根との婚儀を控えた年の正月に失明してしまう。失明の原因には、自分を引き取り正式な妻にまでしようとしてくれている重根が、父親の自害に関係していたということを聞いた衝撃もあっただろう。失明した自分では、藩の重責を担う重根に仕えることができないと言い出すが、重根の心は変わらず、盲目となっても妻にするつもりだと語り、重根の継母の「りく」と共に弟の立花峯均が暮らす伊崎の屋敷で療養することを勧めるのである。
立花家に重種の後添いで入った「りく」は、家老であった立花家の家政を見事に切り盛りし、和歌、茶、香にも堪能で、重種が亡くなった後は、実子の峯均のところで暮らしていたのである。そして、目の見えなくなった「卯乃」と香を聞いてみたいと言い出すのである(「香を聞く」とは香道で香をかぐこと)。
重根の弟峯均は、二十一歳の時に豊前小倉藩の小笠原家に仕えていた巌流の遣い手であった津田天馬と名乗る侍との御前試合でひどい負け方をし、それを機に、巌流の佐々木小次郎を負かせた宮本武蔵の二天流を学びはじめたのである。峯均は、ひどい負け方をしたということで婿養子として入っていた花房家から家名を汚したということで追い出され、伊崎に家を造り、「兵法狂い」といわれるほど熱心に修行したのである。そして、前述したように、ついに二天流の相伝を受けるほどになっていたのである。おおらかで、まっすぐな性質で、兄の重根を助けていた人物で、母親の「りく」と婚家を追い出され他時に引き取っていた娘の「奈津」と静かに暮らしていたのである。重根は端正な顔立ちをしているが、峯均は丸顔の地味な顔つきで、体格も中肉中背だった。
伊崎の家で「卯乃」は「りく」や「奈津」から温かく迎えられ、畑仕事をしたりしながら、とりわけ「りく」から香道を教えられ、目が見えなくても凛として生きていくこと、人の心の香りを聞いて生きることを教えられるのである。そうした生活の中で、「卯乃」は峯均のもとに弟子入りを望む桐山作兵衛(実在の人物)から峯均のことを聞いたりして、峯均に「爽やかな香り」を感じたりしていくのである。
だが、藩の情勢は徐々に変化していった。隠居した黒田光之と藩主を継いだ黒田綱政との間がうまくいかず険悪になってきたのである。光之は隠居しても厳然と力をもっていたし、綱政に対して不満を持っていた。光之は二代目藩主であった黒田忠之から疎んじられて育てられ、忠之の放漫さによって藩の財政が逼迫した時に藩主を継いだこともあり、長子の綱之(泰雲)が豪放磊落で、放漫だった祖父の忠之に似て、奢侈に走り,藩財政を再び悪化させることを危惧して廃嫡したが、綱政の手ぬるさと綱政の子の吉之にも放漫さを感じていたのである。光之は鋭利なだけに、親にも子や孫にも信を置くことができなかったのである。
立花重根は、そうした光之の態度が藩に混乱をもたらすことになることを感じており、光之の側近として、そのような光之に対して親子の情愛を取り戻して、泰雲(綱之)をゆるし、綱政とも和解するように苦心する。だが、そうした重根の態度が、新参者である立花家の異例の出世を目論むものとして、譜代や古参の家臣の反発をかっていたのである。重根を暗殺しようとする動きが家老の隅田清左衛門を中心としてあり、命を狙われる重根を峯均が守っていくのである。そして、「卯乃」もまた、なぜか身の危険が迫ってくるのである。
ここまで物語の筋を追ってきて、指導者や権力者の新旧交代の時に起こる混乱は、たとえば徳川将軍家や福岡藩黒田家だけでなく、世の組織の常かも知れないと、ふと思ったりした。旧が強ければ新が潰され、新が強ければ旧が退けられる。そういう中で、ただ権力欲や保身だけで動こうとする人間も出てくる。そういう中で人生と生活が織りなされていくから、状勢に敏感にならざるを得ないし、それがまた混乱を招いていく。昨今の政治でも企業でも同じことが起こる。ただ、他を排斥しようとする人間ほど醜くつまらないものはないし、排斥する者は排斥される者となる。
その醜い争いの中で、たとえ孤立無援であったとしても自らの深い愛情と矜持をもってまっすぐに生きていく姿、それが、葉室麟が描き出す立花重根と峯均の姿である。そして、だからこそこの作品が琴線を揺さぶるのである。「矜持」とは、覚悟をもって生きることであり、しかも「愛する覚悟」をもって生きる人間の姿がここにあるのである。
物語の展開の続きは、また次に書くことにして、今日は少したまっている仕事を片づけよう。それにしても寒い。
2012年1月19日木曜日
山本一力『まねき通り十二景』
冬型の気圧配置が続き、乾燥した日々が長く続いている。17日の夜のニュースで葉室麟『蜩ノ記』が直木賞を受賞したとの知らせを受け、個人的に嬉しく思った。夜中に友人から電話で知らせを受け、あわててテレビをつけたが、垣間見た作者の人柄が何ともいえないくらい作風を忍ばせるものだった。『蜩ノ記』は、ここにはまだ記していないが、すでに大きな感動と共に読んでいたし、新聞で彼が同郷の久留米市の在住とはじめて知って、久留米にいた頃に知っておれば、と残念に思ったりした。
『蜩ノ記』については、いずれここにも記すつもりだが、山本一力『まねき通り十二景』(2009年 中央公論新社)を読んでいたので、それを記しておくことにした。
山本一力の成功物語やきっぱりした江戸っ子気質を賛美するような人間類型には、どこか乗り切れないような気がしないでもなかったが、表題から、この作品が市井に生きる人々を描いた作品だろうと思い、手にとって読んでみたのである。
表題の通り、この作品は深川冬木町の仙台堀添いにある「まねき通り」と呼ばれる14軒の商店と湯屋の人々を十二話と番外編の合計十三話で描いたものである。「まねき通り」は、「まねき弁天」という弁天様を祀る神社を中心にして一膳飯屋や鰻屋、駕籠や瀬戸物屋、搗き米屋、駄菓子屋、乾物屋、雨具屋、太物屋(呉服)、古着屋、履物屋、豆腐屋、鮮魚青物屋、小料理屋が店を並べている。そこでのそれぞれの人々の日常の喜怒哀楽や親子、夫婦といった人間関係、それぞれの商売の成り立ちなどが描かれているのである。
頑固で厳しいために子どもが寄りつかない駄菓子屋の親爺が、実は不器用なだけで、本当は子どもを思いやる親爺であったりするし、大店のお金持ちは、町の人々のために惜しみなく金を使ったりする。また、客を融通しあったりして、私欲のない「お互い様」の思いで暮らしをしている姿が、通りの歳時記を通して描かれていて、それぞれに人生の悲喜こもごもを抱えながらも助けあい、認め合って暮らしているのである。
商家の「お互い様」の気持ちが「まねき通り」の人々の心の豊かさを支えて、思いやりが充満していく。ここには他を蹴落としてまで自己保身を図ることもなく、いたずらな競争もない。社会の競争原理は昔からあるが、「まねき通り」の人々は、歳時記を一緒にすることで他を認めていく心を培っていくのである。
ただ、読みながら感じたのだが、人間があまりに美化されていて、その美化について行けないところがあるような気がしないでもない。人間はもっと愚かで、もっと頑迷で、自己の欲の正当化を図る者で、愛情や思いやりはもっと通じにくく、誤解は簡単には解けないもので、庶民の美化は人間がもつ罪性に蓋をすることになる危険がある。この世的な成功にいかほどの意味があるのだろうかと思っているわたしにとっては、成功が基準の物語は皮相的すぎる気がするのである。この作品は、もちろん市井の人々の姿を描いたもので、成功を直接描く物語ではないが、根本には上昇志向的な発想が置かれている。
昨年の暮れかお正月だったか、記憶にはっきりしないのだが、NHKのBSで山本一力『あかね空』の映画化されたものが放映されて、ちらりと見ていたのだが、彼の作品は映像を意識しながら書かれているところが多分にありながら、作者の意図とは逆に映像にはしにくいところがある気がしていた。
彼の作品は、世の中で何事かを為そうと頑張る人にはいいだろう。だが、頑張ってもうまくいかないことを抱える人間にとっては、生きる勇気を鼓舞するよりも、単純に「ガンバレ」と声をかけるような小説のように思える。もちろん、わたしの「かんぐりすぎ」ではあるだろうが。
『蜩ノ記』については、いずれここにも記すつもりだが、山本一力『まねき通り十二景』(2009年 中央公論新社)を読んでいたので、それを記しておくことにした。
山本一力の成功物語やきっぱりした江戸っ子気質を賛美するような人間類型には、どこか乗り切れないような気がしないでもなかったが、表題から、この作品が市井に生きる人々を描いた作品だろうと思い、手にとって読んでみたのである。
表題の通り、この作品は深川冬木町の仙台堀添いにある「まねき通り」と呼ばれる14軒の商店と湯屋の人々を十二話と番外編の合計十三話で描いたものである。「まねき通り」は、「まねき弁天」という弁天様を祀る神社を中心にして一膳飯屋や鰻屋、駕籠や瀬戸物屋、搗き米屋、駄菓子屋、乾物屋、雨具屋、太物屋(呉服)、古着屋、履物屋、豆腐屋、鮮魚青物屋、小料理屋が店を並べている。そこでのそれぞれの人々の日常の喜怒哀楽や親子、夫婦といった人間関係、それぞれの商売の成り立ちなどが描かれているのである。
頑固で厳しいために子どもが寄りつかない駄菓子屋の親爺が、実は不器用なだけで、本当は子どもを思いやる親爺であったりするし、大店のお金持ちは、町の人々のために惜しみなく金を使ったりする。また、客を融通しあったりして、私欲のない「お互い様」の思いで暮らしをしている姿が、通りの歳時記を通して描かれていて、それぞれに人生の悲喜こもごもを抱えながらも助けあい、認め合って暮らしているのである。
商家の「お互い様」の気持ちが「まねき通り」の人々の心の豊かさを支えて、思いやりが充満していく。ここには他を蹴落としてまで自己保身を図ることもなく、いたずらな競争もない。社会の競争原理は昔からあるが、「まねき通り」の人々は、歳時記を一緒にすることで他を認めていく心を培っていくのである。
ただ、読みながら感じたのだが、人間があまりに美化されていて、その美化について行けないところがあるような気がしないでもない。人間はもっと愚かで、もっと頑迷で、自己の欲の正当化を図る者で、愛情や思いやりはもっと通じにくく、誤解は簡単には解けないもので、庶民の美化は人間がもつ罪性に蓋をすることになる危険がある。この世的な成功にいかほどの意味があるのだろうかと思っているわたしにとっては、成功が基準の物語は皮相的すぎる気がするのである。この作品は、もちろん市井の人々の姿を描いたもので、成功を直接描く物語ではないが、根本には上昇志向的な発想が置かれている。
昨年の暮れかお正月だったか、記憶にはっきりしないのだが、NHKのBSで山本一力『あかね空』の映画化されたものが放映されて、ちらりと見ていたのだが、彼の作品は映像を意識しながら書かれているところが多分にありながら、作者の意図とは逆に映像にはしにくいところがある気がしていた。
彼の作品は、世の中で何事かを為そうと頑張る人にはいいだろう。だが、頑張ってもうまくいかないことを抱える人間にとっては、生きる勇気を鼓舞するよりも、単純に「ガンバレ」と声をかけるような小説のように思える。もちろん、わたしの「かんぐりすぎ」ではあるだろうが。
2012年1月17日火曜日
永井義男『将軍と木乃伊 江戸国学者・山崎美成の謎解き帳』
土曜の夜から月曜にかけて、E氏、T氏、Y・T氏と今年度の研究テーマを検討するために箱根に行ってきた。冬の箱根は寒いが、仙石原の宿の湯が素晴らしく、ゆったりと宿の湯につかりながら、日本の現代史思想家をしぼりながら10年かけて検証するというE氏の話を聞いたりしていた。わたしは、今年はF.ニーチェについて話をすることにした。ニーチェの思想はいくつかの大きな問題があるが、彼の異常なほどの集中力は考慮に値する。
それはともかく、永井義男『将軍と木乃伊 江戸国学者・山崎美成の謎解き帳』(1999年 祥伝社)をかなり忍耐しながら読んだ。読むのに忍耐したのは、主人公として取り上げられている江戸時代の国学者であった山崎美成(やまざき よししげ)にほとんど魅力を感じていなかったからである。
山崎美成(1796-1856年)という人は、「好問堂北峰」という号も使っているが、江戸の富裕層が住んでいたと言われる下谷長者町の薬種屋であった「長崎屋」の子として生まれ、稼業を継いだのだが、国学者であった小山田与清などに国学を学び、文政から天保にかけて作家の曲亭馬琴や柳亭種彦、古物の収集と考証をしていた屋代弘賢らと交わって江戸風俗などの考証をし、あまりに行きすぎて稼業を傾けて破綻した人である。
自意識が強く、見栄っ張りで、国学の師であった小山田与清ともうまくいかず、流行作家となっていた馬琴ともつまらないことで論争し、ただ相手を論駁することに喜びを感じたり、人から一目置かれることだけを目指したりした人で、人間的には狭量だった人である。学問としてきちんとしたものというよりは雑学の知識だけで、ただ流行の中で浮沈した人生を生きた人のような気がしていた。
こういう狭量な学者をわたしも山ほど見てきたが、こういう人物を、いわば探偵役として、精力剤として珍重された「黒焼(動物などを真っ黒に焼いて薬剤とした)」に関わる、しかも木乃伊(ミイラ)の黒焼きに関わる事件の謎を解こうというのだから、わたしの個人的な好みからいえば、読んでいくのに忍耐がいるのは当然のことだった。
事件は、「オットセイ将軍」とも言われた徳川家斉の精力維持のために中野石翁などの奸臣などへの献上として死亡した男女の性器の黒焼を回春剤として作っていたというもので、なんとも馬鹿馬鹿しい話である。頽廃した風潮の中で頽廃した人物たちが登場し、物語が展開される。
江戸時代の文人たちの勉強量というのは、決して生半可なものではなく、想像を絶するくらいに多大なものがあり、その考証も綿密に行われたものが多いのだが、個人的に、本居宣長を別にして、そうした国学にもあまり関心がないし、まして山崎美成には狭量な人物という印象しかなく、しかも家斉の回春や木乃伊(ミイラ)についての関心などほとんどない中で、まあ、こういう人物もいたし、そんなことを考える人間もいただろうぐらいで、読み進めてしまった。
ただし、巻末に参考文献が多数上がっているように、歴史的な考証や時代風潮に関する考証は、かなり精密に為されている。その点からいえば、この時代の文人たちや知識人たちの姿を知る上ではかなりの内容となっている。永井義男は、綿密な歴史資料を考証していく作家のひとりだが、わたし自身も数学についての関心もあって『算学奇人伝』は面白かった。ただ、この作家が何を大事にしているのかがわかりにくい作家のひとりのような気がしている。
それはともかく、永井義男『将軍と木乃伊 江戸国学者・山崎美成の謎解き帳』(1999年 祥伝社)をかなり忍耐しながら読んだ。読むのに忍耐したのは、主人公として取り上げられている江戸時代の国学者であった山崎美成(やまざき よししげ)にほとんど魅力を感じていなかったからである。
山崎美成(1796-1856年)という人は、「好問堂北峰」という号も使っているが、江戸の富裕層が住んでいたと言われる下谷長者町の薬種屋であった「長崎屋」の子として生まれ、稼業を継いだのだが、国学者であった小山田与清などに国学を学び、文政から天保にかけて作家の曲亭馬琴や柳亭種彦、古物の収集と考証をしていた屋代弘賢らと交わって江戸風俗などの考証をし、あまりに行きすぎて稼業を傾けて破綻した人である。
自意識が強く、見栄っ張りで、国学の師であった小山田与清ともうまくいかず、流行作家となっていた馬琴ともつまらないことで論争し、ただ相手を論駁することに喜びを感じたり、人から一目置かれることだけを目指したりした人で、人間的には狭量だった人である。学問としてきちんとしたものというよりは雑学の知識だけで、ただ流行の中で浮沈した人生を生きた人のような気がしていた。
こういう狭量な学者をわたしも山ほど見てきたが、こういう人物を、いわば探偵役として、精力剤として珍重された「黒焼(動物などを真っ黒に焼いて薬剤とした)」に関わる、しかも木乃伊(ミイラ)の黒焼きに関わる事件の謎を解こうというのだから、わたしの個人的な好みからいえば、読んでいくのに忍耐がいるのは当然のことだった。
事件は、「オットセイ将軍」とも言われた徳川家斉の精力維持のために中野石翁などの奸臣などへの献上として死亡した男女の性器の黒焼を回春剤として作っていたというもので、なんとも馬鹿馬鹿しい話である。頽廃した風潮の中で頽廃した人物たちが登場し、物語が展開される。
江戸時代の文人たちの勉強量というのは、決して生半可なものではなく、想像を絶するくらいに多大なものがあり、その考証も綿密に行われたものが多いのだが、個人的に、本居宣長を別にして、そうした国学にもあまり関心がないし、まして山崎美成には狭量な人物という印象しかなく、しかも家斉の回春や木乃伊(ミイラ)についての関心などほとんどない中で、まあ、こういう人物もいたし、そんなことを考える人間もいただろうぐらいで、読み進めてしまった。
ただし、巻末に参考文献が多数上がっているように、歴史的な考証や時代風潮に関する考証は、かなり精密に為されている。その点からいえば、この時代の文人たちや知識人たちの姿を知る上ではかなりの内容となっている。永井義男は、綿密な歴史資料を考証していく作家のひとりだが、わたし自身も数学についての関心もあって『算学奇人伝』は面白かった。ただ、この作家が何を大事にしているのかがわかりにくい作家のひとりのような気がしている。
2012年1月14日土曜日
山本周五郎『町奉行日記』
この2~3日、都内での会議のために早朝から出かけなければならず、PCを開くことができずにいたので、読書ノートを記すこともできなかったが、ようやく解放されて、ほっとしている。寒さが一段と厳しくなり、「この冬一番」が続いている。
この間、少し時間をかけて山本周五郎『町奉行日記』(1979年 新潮文庫)を読んだ。本書は、第二次世界大戦に突入する前夜ともいうべき1940年(昭和15年)に書かれた「土佐の国柱」から、1945年(昭和20年)の「晩秋」、1947年(昭和22年)の「金五十両」、1949年(昭和24年)の「落ち梅記」、1950年(昭和25年)の「寒橋」、1952年(昭和27年)の「わたくしです物語」、1953年(昭和28年)の「修業綺譚」、1957年(昭和32年)の「法師川八景」、1959年(昭和34年)の「町奉行日記」、1960年(昭和35年)の「霜柱」までの十編の短編が収められた短編集である。
このうち、「晩秋」と「金五十両」は、『山本周五郎中短編秀作選集2 惑う』(2005年 小学館)に収められており、「寒橋」は、『山本周五郎中短編秀作選集4 結ぶ』に収められていて、すでに読んでいた。ほかにもいくつかは以前読んだような記憶があるのだが、はっきりしないので、改めてここに記しておくことにする。
第一話「土佐の国柱」は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して土佐藩主となった山内一豊(1545-1605年)の死に臨んで、辛苦を共にしてきた老職の高閑斧兵衛(こうがおのべい)という人物の自らを空しくして土佐藩の安定のために忠義を尽くした姿を描いたものである。
土佐藩主となった山内一豊は、その死に際して殉死を禁じたが、ただひとり忠義の士であった高閑斧兵衛だけは、三年後という期限つきでそれを許された。土佐では、旧主であった長曽我部氏の遺徳を慕う風潮が強く残っており、外来の山内家との確執が根強く残っていた。土佐が真実に統一されないことを憂えて山内一豊が亡くなったことで、高閑釜兵衛は、一豊死後に領民たちの抵抗を抑えるために寛容にしてきたが、効果があがらず、藩内でも彼の寛容さに対しての非難の声が上がったりし始めるのである。特に藩内の若手の武士たちは、高閑斧兵衛に対する反発を強めていた。
斧兵衛の隣家の池藤小弥太も、斧兵衛の娘を嫁にしたいと思っていたし、斧兵衛を尊敬していたが、その若手の武士たちの反発に巻き込まれていく。そんな中で、斧兵衛は、ついに考えを巡らせて反山内派の豪族たちなどを集め、山内家に対する反旗を翻そうと山砦に立て籠もる。だが、その計画が発覚し、立て籠もり之一味は滅ぼされ、斧兵衛も池藤小弥太に討たれてしまう。
斧兵衛が山内家に反抗する豪族たちを集めて、叛旗を翻らせたのは、亡き山内一豊と約束した三年後の期日が迫り、反山内派を一掃するための最後の苦肉の手段として計画したもので、そこで自らを空しくして土佐藩の統一を図り、約束通り三年後に死を迎えるためだったのである。
あえて自らを汚辱にまみれさせて、空しくし、それによって藩の統一という主君との約束を果たそうとする姿が、こういう形で描かれるのである。
この作品は戦前に書かれてもので、そうした時代背景はあるが、たとえば、内心の充実と世間の評判や評価というもののかけ離れた姿を読み取ることができる。自らの矜持を守り、それが世間的には汚辱にまみれたものであったとしても、粛々と内心の充実を図っていく。そういう人間の姿として改めて読んだりすることができる。そして、こういう姿は、今も大きな意味があると思っている。
第二話「晩秋」と第三話「金五十両」については、すでに記しているので、第四話「落ち梅記」について記しておこう。
これも自分を空しくして他者の幸いを願う人間の物語で、ここでは「愛」が大きなテーマになっている。幼馴染みで周囲からも認められていた愛する女性が、自分の友人と結婚するという事態に立ち入り、その女性の幸せを願って自分を犠牲にして愛する者のために友人の出世を図っていく男の物語である。
藩の家老の息子であった沢渡金之助は、一人息子として愛情豊かに平和なうちに育てられ、温厚で学問もでき、学友の公郷半三郎とは藩主の継子の学友としても親しくしていた。友人の公郷半三郎は藩校の助教を務めていたが、朱子学以外の学問が強く禁じられた時代の中で陽明学などの古学や老子を教えたために罷免され、それ以来身を持ち崩して酒と賭博に明け暮れ、方々から借金をする生活をしていた。
そういう半三郎を案じていた中で、明るく闊達な由利江が突然、半三郎のところに嫁ぐと言い出す。金之助は由利江を愛していたし、周囲もそれを認め、由利江も金之助の嫁になるものばかりと思っていたが、半三郎の妹に兄を立ち直らせてほしいとせがまれ、断り切れなくなって半三郎を支えるために嫁に行くというのである。
金之助は愕然とするが、自分の想いを押し殺して、それを黙って受け入れる。ここで記されている女性の言葉は残酷で、由利江は「これまでどおり、あなただけは公郷さまの支えになってあげて頂きたいんですの。・・・わたくしできるだけのことは尽くすつもりでございますから、どうぞあなたもお変わりなく力をかしてあげて下さいまし」(127ページ)と、金之助の想いを知りつつも言うのである。女性には、ときおり、こういう残酷さがあるのは事実で、言われた男性は何ともやりきれない思いをもつものである。
こういう中で家老をしていた金之助の父が倒れ、死を迎える。父は、藩政の中で何か重要な秘事を守っていたらしく、藩主の交代の際に、これまでの老臣たちが藩の産物を使って私腹を肥やしていたことが明らかになっていく。しかも、それを画策していたのが金之助の父親だというのである。
だが、実際は、老臣たちが私腹を肥やすのに金之助の父親の名前が利用されただけで、父親はそのことの証拠を金之助に託していた。老臣たちは捕らえられ裁きを受けることとなり、金之助も同じように裁きを受ける立場となり、金之助は父親が残した証拠を差し出し、自分を裁く者として公郷半三郎を推挙するのである。金之助は粛々とその裁きを受け、改易されて禁固の刑を受ける。
そして、金之助の推挙によって良い働きをした公郷半三郎は金之助に代わり次席家老となって金之助の裁きに当たっていくのである。金之助はただただ由利江の幸せを願って静かに半三郎の裁きを待つ。
この物語は、ある意味で美しい物語である。由利江のような女性はいるかも知れないが、金之助のような男はめったにいないだろう。だが、決して非現実的な話ではなく、人の愛情の深さが滲むような話で、身を引いて孤独のうちに粛々と裁きを受けようとする姿は、深い愛情をもつ現実の人間の姿ではないだろうか。
第五話「寒橋」は割愛して、第六話「わたくしです物語」も、人の過ちのすべてを「それはわたくしです」といって引き受け、しかも気負うことなく爽快に引き受けていく人間の物語で、登場人物の名前が、たとえば、「与瀬弥市-よせやい」とか「沢駒太郎-さあ、こまったろう」とかで付けられて遊び心のある作品であるが、人の過ちを引き受け、そうしている人間であることを周囲の人もわかっていくという展開がされている。
人の過ちを黙って引き受けても、周囲も引き受けられた人間もわからないで、それを黙々と背負いながら生きていくのが現実であるから、こういう物語は、どこかほっとする気がする。
第七話「修業綺譚」は、家中でも屈指の武芸の達人でありながら、いたずら心があり、どこか傲慢になっていた河津小弥太が、許嫁の伊勢の計らいで傲慢さを打ち砕かれて、忍耐と人の優しさを取り戻していく物語で、許嫁の伊勢は出入りの炭焼き爺さんを武芸の名人一無斎に仕立て上げ、一無斎が小弥太をさんざんこき使い、様々な苦しみを味あわせていくのである。そして、その中で、小弥太は次第に傲慢さが取れて忍耐を身につけていくというものである。ユーモラスに「我慢」の大切さが語られている。
第八話「法師川八景」は、おそらく山形県に流れる法師川流域を背景としたものであろう。「つぢ」という娘が放蕩者と噂されていた久野豊四郎と愛し合い、子どもができるが、豊四郎は、「親に打ち明ける」と話した三日後に馬乗りをしていて馬に蹴られて呆気なく死んでしまう。
「つぢ」は、久野家に行くが、豊四郎が放蕩者であったために認められずに、ひとりで子を産むことになる。「つぢ」には許嫁がいたのだが、豊四郎と愛し合ったために破談となり、彼女は「自分たちの愛情は真実のものだ」と毅然とした生き方をするのである。元許嫁は、そんな「つぢ」のためにあれこれと思いやりを見せるし、実は、豊四郎の両親から依頼されて子どもの成長を見守っていたのである。やがて、「つぢ」の毅然とした生き方を知った久野家から正式に「つぢ」と子を引き取りたいとの申し出があり、久野家の両親の心情が打ち明けられる。明白には記されないが、久野家で引き取った後に、自分を案じてくれていた元許嫁に嫁ぐであろうことが暗示され、自分の愛情の真実さを毅然と守りながら生きる「つぢ」と、それを認めて行く周囲の温かさがにじみ出ている作品である。
第九話「町奉行日記」は、なかなか凝った試みが為されている作品で、「新任町奉行はまだ着任しない」とか「町奉行望月小平太どのはいまだに出仕されない」とかいった町奉行所の記録を挟みながら、藩の悪所の一掃と、その悪所によって長年私腹を肥やしていた重臣たちの一掃を、形に拘らずに自由に行っていく新任の町奉行の姿を描いたものである。
彼が一度も町奉行所に出仕せずに(奉行としての仕事をせずに)、藩の悪癖を一掃していく放蕩ぶりが面白おかしく描かれている。
第十話「霜柱」は、国許に赴任して来た若い次永喜兵衛にひどく厳しく接する老職の繁野兵庫の父親としての苦悩を描いたものである。繁野兵庫には身を持ち崩した不詳の息子がいて、この息子が父親の名を借りて好き放題をし、ついには次永兵衛を強請って金を奪い取ろうとするのである。
兵衛は、このままではいけないと思い、どうにもならない兵庫の不詳の息子との対決を決心するが、その時に、父親である兵庫が息子を斬り捨てて来る姿に出会うのである。妥協しないで筋を通しながらも、息子を憐れむ父親の姿が、霜柱を践む音に合わせて描かれている。
山本周五郎の短編には、内面の筋の通った人間を描く作品が多くあるが、この短編集には、そうした人物の喜怒哀楽が収められていて、じっくりと読めばさらに味わいが深い作品だと、改めて思う。いくつかの新しい小説の試みが必ずしも成功しているわけではないが、彼の作品は今の時代小説の胚芽のようなもので、ここから多くの芽が出て花が咲いたのが今の歴史・時代小説であるだろう。この作家の優れた視点を改めて感じた短編集だった。
この間、少し時間をかけて山本周五郎『町奉行日記』(1979年 新潮文庫)を読んだ。本書は、第二次世界大戦に突入する前夜ともいうべき1940年(昭和15年)に書かれた「土佐の国柱」から、1945年(昭和20年)の「晩秋」、1947年(昭和22年)の「金五十両」、1949年(昭和24年)の「落ち梅記」、1950年(昭和25年)の「寒橋」、1952年(昭和27年)の「わたくしです物語」、1953年(昭和28年)の「修業綺譚」、1957年(昭和32年)の「法師川八景」、1959年(昭和34年)の「町奉行日記」、1960年(昭和35年)の「霜柱」までの十編の短編が収められた短編集である。
このうち、「晩秋」と「金五十両」は、『山本周五郎中短編秀作選集2 惑う』(2005年 小学館)に収められており、「寒橋」は、『山本周五郎中短編秀作選集4 結ぶ』に収められていて、すでに読んでいた。ほかにもいくつかは以前読んだような記憶があるのだが、はっきりしないので、改めてここに記しておくことにする。
第一話「土佐の国柱」は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して土佐藩主となった山内一豊(1545-1605年)の死に臨んで、辛苦を共にしてきた老職の高閑斧兵衛(こうがおのべい)という人物の自らを空しくして土佐藩の安定のために忠義を尽くした姿を描いたものである。
土佐藩主となった山内一豊は、その死に際して殉死を禁じたが、ただひとり忠義の士であった高閑斧兵衛だけは、三年後という期限つきでそれを許された。土佐では、旧主であった長曽我部氏の遺徳を慕う風潮が強く残っており、外来の山内家との確執が根強く残っていた。土佐が真実に統一されないことを憂えて山内一豊が亡くなったことで、高閑釜兵衛は、一豊死後に領民たちの抵抗を抑えるために寛容にしてきたが、効果があがらず、藩内でも彼の寛容さに対しての非難の声が上がったりし始めるのである。特に藩内の若手の武士たちは、高閑斧兵衛に対する反発を強めていた。
斧兵衛の隣家の池藤小弥太も、斧兵衛の娘を嫁にしたいと思っていたし、斧兵衛を尊敬していたが、その若手の武士たちの反発に巻き込まれていく。そんな中で、斧兵衛は、ついに考えを巡らせて反山内派の豪族たちなどを集め、山内家に対する反旗を翻そうと山砦に立て籠もる。だが、その計画が発覚し、立て籠もり之一味は滅ぼされ、斧兵衛も池藤小弥太に討たれてしまう。
斧兵衛が山内家に反抗する豪族たちを集めて、叛旗を翻らせたのは、亡き山内一豊と約束した三年後の期日が迫り、反山内派を一掃するための最後の苦肉の手段として計画したもので、そこで自らを空しくして土佐藩の統一を図り、約束通り三年後に死を迎えるためだったのである。
あえて自らを汚辱にまみれさせて、空しくし、それによって藩の統一という主君との約束を果たそうとする姿が、こういう形で描かれるのである。
この作品は戦前に書かれてもので、そうした時代背景はあるが、たとえば、内心の充実と世間の評判や評価というもののかけ離れた姿を読み取ることができる。自らの矜持を守り、それが世間的には汚辱にまみれたものであったとしても、粛々と内心の充実を図っていく。そういう人間の姿として改めて読んだりすることができる。そして、こういう姿は、今も大きな意味があると思っている。
第二話「晩秋」と第三話「金五十両」については、すでに記しているので、第四話「落ち梅記」について記しておこう。
これも自分を空しくして他者の幸いを願う人間の物語で、ここでは「愛」が大きなテーマになっている。幼馴染みで周囲からも認められていた愛する女性が、自分の友人と結婚するという事態に立ち入り、その女性の幸せを願って自分を犠牲にして愛する者のために友人の出世を図っていく男の物語である。
藩の家老の息子であった沢渡金之助は、一人息子として愛情豊かに平和なうちに育てられ、温厚で学問もでき、学友の公郷半三郎とは藩主の継子の学友としても親しくしていた。友人の公郷半三郎は藩校の助教を務めていたが、朱子学以外の学問が強く禁じられた時代の中で陽明学などの古学や老子を教えたために罷免され、それ以来身を持ち崩して酒と賭博に明け暮れ、方々から借金をする生活をしていた。
そういう半三郎を案じていた中で、明るく闊達な由利江が突然、半三郎のところに嫁ぐと言い出す。金之助は由利江を愛していたし、周囲もそれを認め、由利江も金之助の嫁になるものばかりと思っていたが、半三郎の妹に兄を立ち直らせてほしいとせがまれ、断り切れなくなって半三郎を支えるために嫁に行くというのである。
金之助は愕然とするが、自分の想いを押し殺して、それを黙って受け入れる。ここで記されている女性の言葉は残酷で、由利江は「これまでどおり、あなただけは公郷さまの支えになってあげて頂きたいんですの。・・・わたくしできるだけのことは尽くすつもりでございますから、どうぞあなたもお変わりなく力をかしてあげて下さいまし」(127ページ)と、金之助の想いを知りつつも言うのである。女性には、ときおり、こういう残酷さがあるのは事実で、言われた男性は何ともやりきれない思いをもつものである。
こういう中で家老をしていた金之助の父が倒れ、死を迎える。父は、藩政の中で何か重要な秘事を守っていたらしく、藩主の交代の際に、これまでの老臣たちが藩の産物を使って私腹を肥やしていたことが明らかになっていく。しかも、それを画策していたのが金之助の父親だというのである。
だが、実際は、老臣たちが私腹を肥やすのに金之助の父親の名前が利用されただけで、父親はそのことの証拠を金之助に託していた。老臣たちは捕らえられ裁きを受けることとなり、金之助も同じように裁きを受ける立場となり、金之助は父親が残した証拠を差し出し、自分を裁く者として公郷半三郎を推挙するのである。金之助は粛々とその裁きを受け、改易されて禁固の刑を受ける。
そして、金之助の推挙によって良い働きをした公郷半三郎は金之助に代わり次席家老となって金之助の裁きに当たっていくのである。金之助はただただ由利江の幸せを願って静かに半三郎の裁きを待つ。
この物語は、ある意味で美しい物語である。由利江のような女性はいるかも知れないが、金之助のような男はめったにいないだろう。だが、決して非現実的な話ではなく、人の愛情の深さが滲むような話で、身を引いて孤独のうちに粛々と裁きを受けようとする姿は、深い愛情をもつ現実の人間の姿ではないだろうか。
第五話「寒橋」は割愛して、第六話「わたくしです物語」も、人の過ちのすべてを「それはわたくしです」といって引き受け、しかも気負うことなく爽快に引き受けていく人間の物語で、登場人物の名前が、たとえば、「与瀬弥市-よせやい」とか「沢駒太郎-さあ、こまったろう」とかで付けられて遊び心のある作品であるが、人の過ちを引き受け、そうしている人間であることを周囲の人もわかっていくという展開がされている。
人の過ちを黙って引き受けても、周囲も引き受けられた人間もわからないで、それを黙々と背負いながら生きていくのが現実であるから、こういう物語は、どこかほっとする気がする。
第七話「修業綺譚」は、家中でも屈指の武芸の達人でありながら、いたずら心があり、どこか傲慢になっていた河津小弥太が、許嫁の伊勢の計らいで傲慢さを打ち砕かれて、忍耐と人の優しさを取り戻していく物語で、許嫁の伊勢は出入りの炭焼き爺さんを武芸の名人一無斎に仕立て上げ、一無斎が小弥太をさんざんこき使い、様々な苦しみを味あわせていくのである。そして、その中で、小弥太は次第に傲慢さが取れて忍耐を身につけていくというものである。ユーモラスに「我慢」の大切さが語られている。
第八話「法師川八景」は、おそらく山形県に流れる法師川流域を背景としたものであろう。「つぢ」という娘が放蕩者と噂されていた久野豊四郎と愛し合い、子どもができるが、豊四郎は、「親に打ち明ける」と話した三日後に馬乗りをしていて馬に蹴られて呆気なく死んでしまう。
「つぢ」は、久野家に行くが、豊四郎が放蕩者であったために認められずに、ひとりで子を産むことになる。「つぢ」には許嫁がいたのだが、豊四郎と愛し合ったために破談となり、彼女は「自分たちの愛情は真実のものだ」と毅然とした生き方をするのである。元許嫁は、そんな「つぢ」のためにあれこれと思いやりを見せるし、実は、豊四郎の両親から依頼されて子どもの成長を見守っていたのである。やがて、「つぢ」の毅然とした生き方を知った久野家から正式に「つぢ」と子を引き取りたいとの申し出があり、久野家の両親の心情が打ち明けられる。明白には記されないが、久野家で引き取った後に、自分を案じてくれていた元許嫁に嫁ぐであろうことが暗示され、自分の愛情の真実さを毅然と守りながら生きる「つぢ」と、それを認めて行く周囲の温かさがにじみ出ている作品である。
第九話「町奉行日記」は、なかなか凝った試みが為されている作品で、「新任町奉行はまだ着任しない」とか「町奉行望月小平太どのはいまだに出仕されない」とかいった町奉行所の記録を挟みながら、藩の悪所の一掃と、その悪所によって長年私腹を肥やしていた重臣たちの一掃を、形に拘らずに自由に行っていく新任の町奉行の姿を描いたものである。
彼が一度も町奉行所に出仕せずに(奉行としての仕事をせずに)、藩の悪癖を一掃していく放蕩ぶりが面白おかしく描かれている。
第十話「霜柱」は、国許に赴任して来た若い次永喜兵衛にひどく厳しく接する老職の繁野兵庫の父親としての苦悩を描いたものである。繁野兵庫には身を持ち崩した不詳の息子がいて、この息子が父親の名を借りて好き放題をし、ついには次永兵衛を強請って金を奪い取ろうとするのである。
兵衛は、このままではいけないと思い、どうにもならない兵庫の不詳の息子との対決を決心するが、その時に、父親である兵庫が息子を斬り捨てて来る姿に出会うのである。妥協しないで筋を通しながらも、息子を憐れむ父親の姿が、霜柱を践む音に合わせて描かれている。
山本周五郎の短編には、内面の筋の通った人間を描く作品が多くあるが、この短編集には、そうした人物の喜怒哀楽が収められていて、じっくりと読めばさらに味わいが深い作品だと、改めて思う。いくつかの新しい小説の試みが必ずしも成功しているわけではないが、彼の作品は今の時代小説の胚芽のようなもので、ここから多くの芽が出て花が咲いたのが今の歴史・時代小説であるだろう。この作家の優れた視点を改めて感じた短編集だった。
2012年1月11日水曜日
井川香四郎『冬の蝶 梟与力吟味帳』
この2~3日は日だまりのありがたさを感じることもあったが、今日辺りからまた等圧線の間隔が狭まる冬型の気圧配置となり、寒さが一段と厳しく感じられてくるとのこと。山のような仕事を横目にしながら、今日も比較的のんきに過ごしている。心の中では、仕事にそろそろ限界を感じているが、今年は「脳天気」一本槍で行こうと思っている。
そういう気分にぴったりな井川香四郎『冬の蝶 梟与力吟味帳』(2006年 講談社文庫)を読んだ。これはこのシリーズの1作目で、前に4作目の『花詞』を読んでいた。1作目だから、闇に潜む悪を捕らえるところから梟与力と言われる主人公の藤堂逸馬が町人から町奉行所の与力になっていくところやそれぞれの登場人物の背景が描かれているのかと思ったら、そうではなく、すでに正義感の強い爽やかな与力としての活躍を始めており、幼馴染みの友人で剣の腕も立つが無類の女好きである武田信三郎が寺社奉行配下の吟味物調役をしているし、計算がうまいが小心者であることから「パチ助」と渾名されている毛利源之丞は奥右筆(書記官)仕置係(後には勘定吟味役になっている)である。
物語は、この「パチ助」こと毛利源之丞が奥右筆頭から人件費の削減のために友人の藤堂逸馬か武田信三郎のどちらかを首にするように命じられて、悩むところから始まり、友情と保身の間で悩むが、その悩み方がいかにも脳天気らしいところから描かれている。
藤堂逸馬と武田信三郎、毛利源之丞は、「一風堂」という自由闊達な気風をもつ寺子屋の同門で、仙人と呼ばれる宮宅又兵衛は、その思想性が南町奉行の鳥居耀蔵からにらまれている人物である。だが、彼ら三人は、その仙人を尊敬し、経営が危機に瀕している「一風堂」にために何とかしたいと思っているのである。
本書には第一話「仰げば尊し」、第二話「泥に咲く花」、第三話「幻の女」、第四話「冬の蝶」の四話が連作の形で収められており、第一話「仰げば尊し」は、その「一風堂」にまつわる話で、火盗改めに追われた男が逃げ込み、それがかつては乱を起こした大塩平八郎とも繋がりのある男で、農民のために米蔵を開いたことで改易されたが、その農民たちの姿に絶望し、なにもかもが嫌になって盗賊の仲間に入っていた男であったのである。
「一風堂」の主である仙人は彼を庇うが、盗賊の一人が殺されたことから殺人犯として捕らえられる。しかし、藤堂逸馬がその事件に不信を抱き、盗賊を裏で操って私腹を肥やしていた火盗改めの犯罪を暴いていくのである。
ここには他者のために苦労するが報われずに絶望した人間に対して真っ直ぐな気持ちをもって生きる藤堂逸馬の爽やかな姿が描かれているが、腕も立ち、頭脳も明晰で、人柄も大らかであるという主人公だからこそで、痛快さもここまでくれば立派なものだと思ったりする。
第二話「泥に咲く花」は、「一風堂」の手伝いの口を求めてやってきた明るい「茜」という娘と同じような境遇にある寺子屋の女師匠が殺された事件の真相を探っていく話で、殺された女師匠の父親が病で倒れたときに見捨てた医者が、父親の恨みを晴らそうとした女師匠を五月蠅く思って殺してしまった事件の顛末である。金持ちしか相手にせず、しかも病が重いと騙して薬種問屋と結託して大金を巻き上げていた医者の悪事が暴かれていく。悪は、だいたいにおいてこういう典型的な姿は取らずに巧妙なのだが、なぜかこうした痛快時代小説では善悪がはっきりしている。まあ、それも気楽に読めていいのだが。
第三話「幻の女」は、言いがかりをつけられた娘を助けようとした男が、相手が死んでしまったために捕らえられ、その事件の吟味を藤堂逸馬が担当することになり、その事件に裏に隠されていた寺社の勧進札(寺社の修復のための寄進)を使った詐欺を暴き、寺社奉行配下の大検使(寺社を検査する役)がその勧進札の詐欺の黒幕であることを明白にしていく話である。
藤堂逸馬は、この犯罪がもみ消されないように鳥居耀蔵をうまく使って犯罪を暴いていくが、ここで、「一風堂」で働くことになり、みんなからも気に入られている「茜」が、実は鳥居耀蔵の密命を帯びて「一風堂」の主である宮宅又兵衛を内偵している女性であることが明らかにされる。「茜」は、鳥居耀蔵の密命を受けているが、藤堂逸馬や彼の友人たち、仙人と呼ばれる宮宅又兵衛などの人柄に触れることで、鳥居耀蔵に疑問を持ち始めている。
第四話「冬の蝶」は、遊女を殺した罪で死罪判決を受けた男が、処刑される前に藤堂逸馬に会いたいと願い出で、ひとりの女性のその後がどうなったかを知りたいと言い出す。処刑を数日後に控えて、その申し出に疑問を感じた藤堂逸馬が、その事件を調べ直し、その事件の裏に、何人かの侍たちが金蔓となる商人たちを狙って利権をちらつかせては金を奪っていくという悪事が潜んでいたことを明白にし、死罪判決を受けた男の冤罪を晴らしていくというものである。
前に読んだ『花詞』の時にも記したかも知れないが、こういう主人公たちや物語、事件の展開は、実に気楽に読めていい。爽やかでまっすぐさが売り物の主人公たちは、「読み物」として面白い。気楽に読めるからといって気楽に書かれているわけではなく、あちらこちらの歴史考証はきちんと踏まえられており、現代の問題に対する姿勢もそれとなく描かれ、一言で言えば、安心して楽しめるものになっているのである。娯楽時代小説なのである。
そして、少し疲れた時などは、こういう「読み物」がいいような気がしないでもないから、面白く読める一冊ではあった。
そういう気分にぴったりな井川香四郎『冬の蝶 梟与力吟味帳』(2006年 講談社文庫)を読んだ。これはこのシリーズの1作目で、前に4作目の『花詞』を読んでいた。1作目だから、闇に潜む悪を捕らえるところから梟与力と言われる主人公の藤堂逸馬が町人から町奉行所の与力になっていくところやそれぞれの登場人物の背景が描かれているのかと思ったら、そうではなく、すでに正義感の強い爽やかな与力としての活躍を始めており、幼馴染みの友人で剣の腕も立つが無類の女好きである武田信三郎が寺社奉行配下の吟味物調役をしているし、計算がうまいが小心者であることから「パチ助」と渾名されている毛利源之丞は奥右筆(書記官)仕置係(後には勘定吟味役になっている)である。
物語は、この「パチ助」こと毛利源之丞が奥右筆頭から人件費の削減のために友人の藤堂逸馬か武田信三郎のどちらかを首にするように命じられて、悩むところから始まり、友情と保身の間で悩むが、その悩み方がいかにも脳天気らしいところから描かれている。
藤堂逸馬と武田信三郎、毛利源之丞は、「一風堂」という自由闊達な気風をもつ寺子屋の同門で、仙人と呼ばれる宮宅又兵衛は、その思想性が南町奉行の鳥居耀蔵からにらまれている人物である。だが、彼ら三人は、その仙人を尊敬し、経営が危機に瀕している「一風堂」にために何とかしたいと思っているのである。
本書には第一話「仰げば尊し」、第二話「泥に咲く花」、第三話「幻の女」、第四話「冬の蝶」の四話が連作の形で収められており、第一話「仰げば尊し」は、その「一風堂」にまつわる話で、火盗改めに追われた男が逃げ込み、それがかつては乱を起こした大塩平八郎とも繋がりのある男で、農民のために米蔵を開いたことで改易されたが、その農民たちの姿に絶望し、なにもかもが嫌になって盗賊の仲間に入っていた男であったのである。
「一風堂」の主である仙人は彼を庇うが、盗賊の一人が殺されたことから殺人犯として捕らえられる。しかし、藤堂逸馬がその事件に不信を抱き、盗賊を裏で操って私腹を肥やしていた火盗改めの犯罪を暴いていくのである。
ここには他者のために苦労するが報われずに絶望した人間に対して真っ直ぐな気持ちをもって生きる藤堂逸馬の爽やかな姿が描かれているが、腕も立ち、頭脳も明晰で、人柄も大らかであるという主人公だからこそで、痛快さもここまでくれば立派なものだと思ったりする。
第二話「泥に咲く花」は、「一風堂」の手伝いの口を求めてやってきた明るい「茜」という娘と同じような境遇にある寺子屋の女師匠が殺された事件の真相を探っていく話で、殺された女師匠の父親が病で倒れたときに見捨てた医者が、父親の恨みを晴らそうとした女師匠を五月蠅く思って殺してしまった事件の顛末である。金持ちしか相手にせず、しかも病が重いと騙して薬種問屋と結託して大金を巻き上げていた医者の悪事が暴かれていく。悪は、だいたいにおいてこういう典型的な姿は取らずに巧妙なのだが、なぜかこうした痛快時代小説では善悪がはっきりしている。まあ、それも気楽に読めていいのだが。
第三話「幻の女」は、言いがかりをつけられた娘を助けようとした男が、相手が死んでしまったために捕らえられ、その事件の吟味を藤堂逸馬が担当することになり、その事件に裏に隠されていた寺社の勧進札(寺社の修復のための寄進)を使った詐欺を暴き、寺社奉行配下の大検使(寺社を検査する役)がその勧進札の詐欺の黒幕であることを明白にしていく話である。
藤堂逸馬は、この犯罪がもみ消されないように鳥居耀蔵をうまく使って犯罪を暴いていくが、ここで、「一風堂」で働くことになり、みんなからも気に入られている「茜」が、実は鳥居耀蔵の密命を帯びて「一風堂」の主である宮宅又兵衛を内偵している女性であることが明らかにされる。「茜」は、鳥居耀蔵の密命を受けているが、藤堂逸馬や彼の友人たち、仙人と呼ばれる宮宅又兵衛などの人柄に触れることで、鳥居耀蔵に疑問を持ち始めている。
第四話「冬の蝶」は、遊女を殺した罪で死罪判決を受けた男が、処刑される前に藤堂逸馬に会いたいと願い出で、ひとりの女性のその後がどうなったかを知りたいと言い出す。処刑を数日後に控えて、その申し出に疑問を感じた藤堂逸馬が、その事件を調べ直し、その事件の裏に、何人かの侍たちが金蔓となる商人たちを狙って利権をちらつかせては金を奪っていくという悪事が潜んでいたことを明白にし、死罪判決を受けた男の冤罪を晴らしていくというものである。
前に読んだ『花詞』の時にも記したかも知れないが、こういう主人公たちや物語、事件の展開は、実に気楽に読めていい。爽やかでまっすぐさが売り物の主人公たちは、「読み物」として面白い。気楽に読めるからといって気楽に書かれているわけではなく、あちらこちらの歴史考証はきちんと踏まえられており、現代の問題に対する姿勢もそれとなく描かれ、一言で言えば、安心して楽しめるものになっているのである。娯楽時代小説なのである。
そして、少し疲れた時などは、こういう「読み物」がいいような気がしないでもないから、面白く読める一冊ではあった。
2012年1月9日月曜日
火坂雅志『黄金の華』
今日は寒さが少し緩んで、日だまりが有り難い日になった。今年のお正月明けは格別に山のような仕事を抱えているのだが、まあ、今日一日生きていければいいか、と思いながら変わらず暢気に過ごしている。朝から掃除や洗濯、片づけ物をしたりしていた。毎週火曜日が可燃物のゴミの収集日になっているので、月曜日にゴミの整理をすることにしている。
この2~3日、冷え込みが厳しかったので、テーブル式の炬燵に足をつっこんで、徳川家康を陰から支え、江戸幕府の財政基盤を作り、金融政策の要である金座を作った後藤庄三郎光次の姿を描いた火坂雅志『黄金の華』(2002年 日本放送出版協会 2006年 文春文庫)をとても面白く読んでいた。
後藤庄三郎光次(1571-1625年)は、元は京都で貨幣の鋳造をしていた後藤家の職人であったが、後藤家の当主であった徳乗に才能を認められ、代理人として認められ、やがて徳川家康の厚い信任を得て徳川幕府の財・金融政策の要となっていった人物である。京都の後藤家は室町幕府以来の御用金匠で、京都三長者の一つといわれる分限者であり、豊臣秀吉の天下統一後は秀吉が発行した天正大判などを作製していた。庄三郎光次は、その後藤家の代理人として徳川家康が秀吉によって江戸に移封された際に、関東一円で通用する貨幣の政策のために江戸に派遣され、家康の信任を受けて「一両小判」を作製していくのである。
庄三郎光次は、やがて江戸幕府の金山・銀山の総責任も負い、まさに江戸幕府の財・金融政策の要となり、以後、後藤家は金座を預かる特別なものになっていく。彼は江戸幕府の財政・金融政策の要として幕府の成立と安定に尽力を尽くすのである。しかし、彼以後は、後藤家にはとりわけて卓越した人物は出ていないような気もする。
物語は、庄三郎がまだ後藤家の職人であった頃に、京都の大原にある江文神社の祭礼で行われていた男女野合に出かけ、そこで一夜限りの契りを結んだ相手が、京都三長者の一つであった門倉了以の娘であったことから始まり、その門倉了以の娘は、豊臣秀吉の甥で後継者とされていた豊臣秀次の側室になることを嫌って江文神社の男女野合に出て、闇の中で庄三郎と出会って契り、その評判が京都中に流れ出ることで秀次の側室話を断る口実を作るのである。
実際に後藤庄三郎が京都の門倉家と関係があったかどうかはわからないが、こうした男女野合のような出来事を通して、豊臣秀次が殺されたことの顛末や京都における門倉家の業績を記す当たり、作者の力量の豊かさを思わせるものがある。
さて、徳川家から関東で流通する貨幣の鋳造を依頼された後藤家では、だれも関東の片田舎に行くことを望まず、庄三郎が秀次側室予定の門倉了以の娘「おたあ」と契ったことが評判になり、庄三郎が京都におれなくなったこともあって、後藤家の当主である徳乗は、嫌っていた弟の長乗と共に江戸へやるのである。だが、長乗は江戸の水かあわずにすぐに京都へ帰り、庄三郎一人が徳川家康の命を実行することになる。関東は関西からは常に蔑まれた土地であり、それは今も根強く残っている。
江戸を開き、ここに一大都市を作ろうとした家康の炯眼に触れた庄三郎は、飾り物ではなく実際に流通可能な「一両金」の製作を行っていくのであるが、その間に、秀吉に秀頼が生まれたことから豊臣秀次が殺されたり、秀吉の死後の徳川家康の動向が記されていったりする。庄三郎は後藤家の出戻り娘を嫁にもらい、後藤家の養子として後藤姓を名乗ることを許され、徳川家の財政を支え、金策を行っていくようになっていく。
豊臣秀吉死後の徳川家康の姿と関ヶ原の戦い、大阪冬・夏の陣という歴史的な大転換を経済の面から見た展開がなされるあたり、味わい深い展開が続いていく。家康の策略の影に後藤庄三郎有り、なのである。
そして、徳川幕府の初期に金山・銀山奉行として権勢を誇った大久保長安との対決など、見事な展開がされていく。大久保長安は、一時、初期の江戸幕府の中では家康の信頼を得て膨大な権力をふるっていたが、なぜか死後、遺体を掘り起こしてまで処罰されるという結末になった人物である。その辺りの事情を後藤庄三郎という家康の財政相談役となった御用金匠の目を通して描かれるのも面白い。
庄三郎光次は、家康の子を身ごもっていたとされる大橋局を後妻として迎え、その子の広世が後藤家の二代目を継ぐが、その辺りの展開もおもしろいし、結局は、権力を握った人物がいかに転落するかを重々承知して、自ら眼を潰して隠居し、最初に契りを結んだ門倉了以の娘「おたあ」と京都で静かな暮らしをするという結末も、小説ならではのよさがある。
江戸初期に政治の中枢として徳川幕府を形成していった人物たちの末路は、ほとんどが惨めなものであったが、本書は、先を見越した庄三郎が、晩年、自ら眼を潰して保身を図ったとはいえ、それによって京都で穏やかな生涯を過ごしたことで終わり、その点でも味わい深くなっている。
後藤庄三郎光次は、卓越した財政感覚と才覚をもった人物であった。本書は、その庄三郎の生涯を描くことで江戸幕府成立の過程をこうした視点で捉え、しかもその人物像を味わい深く描き出し、優れた力作になっていると思う。
この2~3日、冷え込みが厳しかったので、テーブル式の炬燵に足をつっこんで、徳川家康を陰から支え、江戸幕府の財政基盤を作り、金融政策の要である金座を作った後藤庄三郎光次の姿を描いた火坂雅志『黄金の華』(2002年 日本放送出版協会 2006年 文春文庫)をとても面白く読んでいた。
後藤庄三郎光次(1571-1625年)は、元は京都で貨幣の鋳造をしていた後藤家の職人であったが、後藤家の当主であった徳乗に才能を認められ、代理人として認められ、やがて徳川家康の厚い信任を得て徳川幕府の財・金融政策の要となっていった人物である。京都の後藤家は室町幕府以来の御用金匠で、京都三長者の一つといわれる分限者であり、豊臣秀吉の天下統一後は秀吉が発行した天正大判などを作製していた。庄三郎光次は、その後藤家の代理人として徳川家康が秀吉によって江戸に移封された際に、関東一円で通用する貨幣の政策のために江戸に派遣され、家康の信任を受けて「一両小判」を作製していくのである。
庄三郎光次は、やがて江戸幕府の金山・銀山の総責任も負い、まさに江戸幕府の財・金融政策の要となり、以後、後藤家は金座を預かる特別なものになっていく。彼は江戸幕府の財政・金融政策の要として幕府の成立と安定に尽力を尽くすのである。しかし、彼以後は、後藤家にはとりわけて卓越した人物は出ていないような気もする。
物語は、庄三郎がまだ後藤家の職人であった頃に、京都の大原にある江文神社の祭礼で行われていた男女野合に出かけ、そこで一夜限りの契りを結んだ相手が、京都三長者の一つであった門倉了以の娘であったことから始まり、その門倉了以の娘は、豊臣秀吉の甥で後継者とされていた豊臣秀次の側室になることを嫌って江文神社の男女野合に出て、闇の中で庄三郎と出会って契り、その評判が京都中に流れ出ることで秀次の側室話を断る口実を作るのである。
実際に後藤庄三郎が京都の門倉家と関係があったかどうかはわからないが、こうした男女野合のような出来事を通して、豊臣秀次が殺されたことの顛末や京都における門倉家の業績を記す当たり、作者の力量の豊かさを思わせるものがある。
さて、徳川家から関東で流通する貨幣の鋳造を依頼された後藤家では、だれも関東の片田舎に行くことを望まず、庄三郎が秀次側室予定の門倉了以の娘「おたあ」と契ったことが評判になり、庄三郎が京都におれなくなったこともあって、後藤家の当主である徳乗は、嫌っていた弟の長乗と共に江戸へやるのである。だが、長乗は江戸の水かあわずにすぐに京都へ帰り、庄三郎一人が徳川家康の命を実行することになる。関東は関西からは常に蔑まれた土地であり、それは今も根強く残っている。
江戸を開き、ここに一大都市を作ろうとした家康の炯眼に触れた庄三郎は、飾り物ではなく実際に流通可能な「一両金」の製作を行っていくのであるが、その間に、秀吉に秀頼が生まれたことから豊臣秀次が殺されたり、秀吉の死後の徳川家康の動向が記されていったりする。庄三郎は後藤家の出戻り娘を嫁にもらい、後藤家の養子として後藤姓を名乗ることを許され、徳川家の財政を支え、金策を行っていくようになっていく。
豊臣秀吉死後の徳川家康の姿と関ヶ原の戦い、大阪冬・夏の陣という歴史的な大転換を経済の面から見た展開がなされるあたり、味わい深い展開が続いていく。家康の策略の影に後藤庄三郎有り、なのである。
そして、徳川幕府の初期に金山・銀山奉行として権勢を誇った大久保長安との対決など、見事な展開がされていく。大久保長安は、一時、初期の江戸幕府の中では家康の信頼を得て膨大な権力をふるっていたが、なぜか死後、遺体を掘り起こしてまで処罰されるという結末になった人物である。その辺りの事情を後藤庄三郎という家康の財政相談役となった御用金匠の目を通して描かれるのも面白い。
庄三郎光次は、家康の子を身ごもっていたとされる大橋局を後妻として迎え、その子の広世が後藤家の二代目を継ぐが、その辺りの展開もおもしろいし、結局は、権力を握った人物がいかに転落するかを重々承知して、自ら眼を潰して隠居し、最初に契りを結んだ門倉了以の娘「おたあ」と京都で静かな暮らしをするという結末も、小説ならではのよさがある。
江戸初期に政治の中枢として徳川幕府を形成していった人物たちの末路は、ほとんどが惨めなものであったが、本書は、先を見越した庄三郎が、晩年、自ら眼を潰して保身を図ったとはいえ、それによって京都で穏やかな生涯を過ごしたことで終わり、その点でも味わい深くなっている。
後藤庄三郎光次は、卓越した財政感覚と才覚をもった人物であった。本書は、その庄三郎の生涯を描くことで江戸幕府成立の過程をこうした視点で捉え、しかもその人物像を味わい深く描き出し、優れた力作になっていると思う。
2012年1月6日金曜日
西條奈加『烏金』
冬型の気圧配置で晴れた寒空が広がっている。今年は例年しなければならない仕事を一週間延ばして、Sさんと会うこと以外は、のんべんだらりとお正月を過ごそうと思い、その通りの日暮らし生活をした。Sさんと会えたことは生涯の喜びで、あとはお雑煮と黒豆を食べ過ぎて体重が3キロも増えてしまった。
そういう中で、西條奈加『烏金』(2007年 光文社)をかなり面白く読んだ。作者については何も知らず、巻末の著者紹介では1964年北海道生まれとあり、それ以外の詳細はわからないし、この本の装幀も、表紙絵の安っぽさもあって、どうかな、と思っていたのだが、内容は豊かだった。
物語は、因業な金貸しの婆である「お吟」のところに、なんらかの思惑をもって「浅吉」という若者が近づき、うまく取り入って転がり込み、日銭を貸すということで「烏金」と呼ばれる金貸しをしながら、借金でどうにもならない旗本御家人や町屋の人々、頼るものが何もなく集団で盗みを働きながら暮らしていた子どもたちなどを、才覚を働かせながら助けていくというものである。その才覚は頭抜けていて面白い。金を稼いで、困窮にあえぐ人を助けるということの壺がきちんと押さえられているのも作品の面白さになっている。
「浅吉」は、「お吟」から金を借りて返せなくなっている八百屋には、安くて新鮮な野菜の仕入れ先と売り先を見つけてやり、借金のために身売りしそうになった娘には、糠漬けが上手なところから、その八百屋で糠漬けを売る道を見つけてやったり、札差しからも借財の多かった旗本には、借金の整理と手内職を考案したり、集団で盗みを働いていた子どもたちには、稲荷寿司の販売という商売の道をつけてやったり、とにかく、いまで言えば、善良で優れたコンサルタントのようなことをして、すべての人の暮らしが成り立つようにしていくのである。
彼は「お吟」の下で金貸しをするのだが、奪うことより与えることで金が廻っていく仕組みを考えていくのである。その彼には可愛がっているカラスの勘三郎がついている。カラスの勘三郎は雛の時に獣に襲われ傷ついていたところを助けられ、その恩を忘れずに彼について来て、浅吉が危機の時には助けに来たりしてくれる。受けた恩を命がけできちんと帰す烏の勘三郎と「浅吉」は、人間の善性の二重性でもあるだろう。
浅吉は甲府の小さな村の庄屋の長男であったが、母親が死んだ後、父親に疎まれていたこともあり、幼馴染みで思いを寄せていた娘が借金のために売られてこともあって、ぐれてヤクザな世界に足を踏み入れていたところ、弟の懇願でヤクザから足を洗い、飢饉に陥っていた村の窮乏を救うために江戸に出てきたのである。その際、豪放磊落な算学師と出会い、算学を学びながら、その師の弟子となり、金貸しである「お吟」のところから村の窮乏を救う資金を調達しようとしていたのである。
人当たりが良く、人情家で頭脳も明晰であるが、ときおり、理不尽なことに対しては元ヤクザの暴れぶりも顔を出す。そういう浅吉であるが、吉原に売られていた幼馴染みの娘が足袋屋に身請けされることになったりして自棄になる中で、彼が生活を立て直してやろうとしていた子どもたちが、幼い子どもにいたずらをしようとした酔漢を痛めつけたために役人に捕らえられたりして、彼は命がけでその子どもを守り、彼も捕らえられてしまうのである。
こうした展開の中で、実は「お吟」が彼の祖母であり、若い頃に父親を生んだ後で商人と出奔し、父親がその母親である「お吟」を恨んでいたことが明らかにされたり、彼が「お吟」のところから金を取ろうとしたのが、村の窮乏対策としての葡萄の苗の買いつけのためだったりすることが明らかにされていく。そして、彼によって子どもたちは守られ、彼は江戸四方所払いを受けるが、それによって村に帰ることになるのである。
江戸時代の算学や烏金という日銭借りで暮らしを立てていた人々、商売の成り立ちなどがしっかり踏まえられているし、カラスの習性も盛り込まれ、平易な文体で、才覚を働かせて命がけで人々を守ろうとする人物が描かれており、ふと、北原亞以子や宇江佐真理、あるいは築山桂といった市井の中でたくましく生きている人々を描くわたしが好む作家を連想させる視点と作風を思い起こさせる作品だった。
主人公を初めとする登場人物たちの真っ直ぐな気持ちが、何よりもいい。
装幀でずいぶん損をしているような本だが、物語は面白い。この作者の作品は、これからまた読みたいと思っている。
そういう中で、西條奈加『烏金』(2007年 光文社)をかなり面白く読んだ。作者については何も知らず、巻末の著者紹介では1964年北海道生まれとあり、それ以外の詳細はわからないし、この本の装幀も、表紙絵の安っぽさもあって、どうかな、と思っていたのだが、内容は豊かだった。
物語は、因業な金貸しの婆である「お吟」のところに、なんらかの思惑をもって「浅吉」という若者が近づき、うまく取り入って転がり込み、日銭を貸すということで「烏金」と呼ばれる金貸しをしながら、借金でどうにもならない旗本御家人や町屋の人々、頼るものが何もなく集団で盗みを働きながら暮らしていた子どもたちなどを、才覚を働かせながら助けていくというものである。その才覚は頭抜けていて面白い。金を稼いで、困窮にあえぐ人を助けるということの壺がきちんと押さえられているのも作品の面白さになっている。
「浅吉」は、「お吟」から金を借りて返せなくなっている八百屋には、安くて新鮮な野菜の仕入れ先と売り先を見つけてやり、借金のために身売りしそうになった娘には、糠漬けが上手なところから、その八百屋で糠漬けを売る道を見つけてやったり、札差しからも借財の多かった旗本には、借金の整理と手内職を考案したり、集団で盗みを働いていた子どもたちには、稲荷寿司の販売という商売の道をつけてやったり、とにかく、いまで言えば、善良で優れたコンサルタントのようなことをして、すべての人の暮らしが成り立つようにしていくのである。
彼は「お吟」の下で金貸しをするのだが、奪うことより与えることで金が廻っていく仕組みを考えていくのである。その彼には可愛がっているカラスの勘三郎がついている。カラスの勘三郎は雛の時に獣に襲われ傷ついていたところを助けられ、その恩を忘れずに彼について来て、浅吉が危機の時には助けに来たりしてくれる。受けた恩を命がけできちんと帰す烏の勘三郎と「浅吉」は、人間の善性の二重性でもあるだろう。
浅吉は甲府の小さな村の庄屋の長男であったが、母親が死んだ後、父親に疎まれていたこともあり、幼馴染みで思いを寄せていた娘が借金のために売られてこともあって、ぐれてヤクザな世界に足を踏み入れていたところ、弟の懇願でヤクザから足を洗い、飢饉に陥っていた村の窮乏を救うために江戸に出てきたのである。その際、豪放磊落な算学師と出会い、算学を学びながら、その師の弟子となり、金貸しである「お吟」のところから村の窮乏を救う資金を調達しようとしていたのである。
人当たりが良く、人情家で頭脳も明晰であるが、ときおり、理不尽なことに対しては元ヤクザの暴れぶりも顔を出す。そういう浅吉であるが、吉原に売られていた幼馴染みの娘が足袋屋に身請けされることになったりして自棄になる中で、彼が生活を立て直してやろうとしていた子どもたちが、幼い子どもにいたずらをしようとした酔漢を痛めつけたために役人に捕らえられたりして、彼は命がけでその子どもを守り、彼も捕らえられてしまうのである。
こうした展開の中で、実は「お吟」が彼の祖母であり、若い頃に父親を生んだ後で商人と出奔し、父親がその母親である「お吟」を恨んでいたことが明らかにされたり、彼が「お吟」のところから金を取ろうとしたのが、村の窮乏対策としての葡萄の苗の買いつけのためだったりすることが明らかにされていく。そして、彼によって子どもたちは守られ、彼は江戸四方所払いを受けるが、それによって村に帰ることになるのである。
江戸時代の算学や烏金という日銭借りで暮らしを立てていた人々、商売の成り立ちなどがしっかり踏まえられているし、カラスの習性も盛り込まれ、平易な文体で、才覚を働かせて命がけで人々を守ろうとする人物が描かれており、ふと、北原亞以子や宇江佐真理、あるいは築山桂といった市井の中でたくましく生きている人々を描くわたしが好む作家を連想させる視点と作風を思い起こさせる作品だった。
主人公を初めとする登場人物たちの真っ直ぐな気持ちが、何よりもいい。
装幀でずいぶん損をしているような本だが、物語は面白い。この作者の作品は、これからまた読みたいと思っている。
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